イラクの次はイラン、ということで、イラン革命によって翻弄された家族を描いた作品を読んだ。
白水社エクス・リブリス
本作は長編だが、ハサン・ブラーシム『死体展覧会』(藤井光・訳) - logical cypher scape2と同様、奇想というか非現実的な描かれ方をした作品であり、いわゆるマジック・リアリズムとも位置づけられている。
筆者はイラン人だが、政治難民となり、現在はオーストラリア在住。本書もオーストラリアで書かれた。創作自体はペルシア語で行っているが、それが英訳されたものが出版され注目を集めたという次第。本書も英訳からの重訳となる*1。
なお、英訳者は安全を理由に匿名とされている。英語圏では翻訳者の地位が低く、クレジットされないことも珍しくはないらしいが、安全を理由として匿名になるのはやはりあまりないことだという。
と、訳者あとがきではわりと他人事のように解説されているのだが、本書の翻訳者についても、雑にググった程度だと、本書の翻訳者である以上の情報がない。
ところで、イラクとイラン、それぞれ違う国だということは頭では分かっているけれど、文化とか生活とかの面でどのように違うのかとなると、全然知らないわけで
イラクを舞台にした『死体展覧会』と、イランを舞台にした本作を連続して読んで、まず一番最初に注意がいったのが、人名である。
『死体展覧会』で出てきた名前は、例えばマフディ、ハッジャール、ジャアファル、サリームなどである。
本作だと、主人公の「私」はバハール、父はフーシャンク、母はロザー、兄がソフラーブで、姉がビーターである。
本作の途中で、革命に感化されてペルシア語人名からアラビア語人名に改名した人物が出てくるが、なるほど、イラクの人名はアラビア語、イランの人名はペルシア語なのだな、と遅ればせながら気付いた。
アラビア語人名は、分からなくても中東の名前っぽいなあと思うが、ペルシア語人名は、全然聞き覚えのない響きであった。
「私」の家族は、もともとテヘランに住んでいたが、革命から逃れるために、ラーザーンという村へと辿り着く。そしてこのラーザーンという村、もとはゾロアスター教徒たちの村だったのである。
ホメイニによるイスラム共和制によって弾圧を受けるようになった時に、逃げ出す先として、ゾロアスター教が見出されている。
中東というと、何となく雑にアラブと思ってしまいがちだが、イランは非アラブ国である(「アラビアン・ナイト」は本当は「千夜一夜物語」だし元はペルシア語)し、イスラム化する以前にゾロアスター教があったわけで、実際のイランの人たちの文化やアイデンティティがどのように形成されているのか、小説を1編読んだだけで分かるものではないが、少なくとも本作は、イスラーム体制に対する抵抗の拠り所として、ペルシアやゾロアスター教を置いているのだろうなと思わせる。
もうひとつ、イラン革命というのは文革だんだなというのもあって、つまり、主人公の家族はインテリ階級であって、革命はそこで享受していた文化が奪われていった過程であり、彼らのアイデンティティをつなぎ止めているのは、文学なのである。
ペルシアの古典から『日の名残り』まで古今の文学作品のタイトルがよく出てくる。物語中、そうした文学を登場人物たちが読みあさるシーンも2,3回出てくる。文学を読むことが、革命からの逃避でもあるし、心を守る手段でもある、ということが示されている。

「私」の母親ロザーが、スモモの木の上で啓示を受けた日、兄のソフラーブが処刑された、というところから始まる。
全体としては、「私」を含めた5人家族の悲劇の物語ではある。
少し後の方の時期まで話が進んだ後、次の章でまた時間が戻ったり、あるいは、登場人物が回想を語る章があったりと、逆に一気に時間が進んでその間のことが省略されていたりと、時系列がわりと行ったり来たりするところがあって、直線的に話が進まない語りになっている。
幽霊や幽鬼ジンも、当然のように登場してくる。
訳者のあとがきでは伏せられていたが、全19章の5章時点で明らかになることなので書いてしまうと、語り手である「私」=バハール自身、実は既に亡くなっている。幽霊なので、他の人が知りえないところも知っているという語りの上でのメリットがあるのだが、それはそれとして、この物語が生者と死者の関係というか、そういうことを取り扱っている。生と死の間には絶対超えられない線があるのだけれど、それでいて、まるで生きている者かのように死者との関わりがあったりする。
『死体展覧会』でも、死者が語り手となっている短編がいくつかあったけれど、しかし、あれらは、語り手が実は死者だったことがオチになっているような感じで、物語世界の中に幽霊として関与していくような話ではなかったと思うのだけど、こちららは、物語世界の中に幽霊という存在がちゃんと位置づけられている。「私」も幽霊だけど、「私」以外にも幽霊が結構沢山出てくる。
語り手は「私」なのだけど、主人公は「私」の両親かな、という気もしている。
タイトルにある「スモモの木の啓示」を受けているのは母親で(象徴的な意味を持っていそうなタイトルが最初の1ページ目で早々に回収されていたので、ちょっとびっくりした)、前半のクライマックスは母親の失踪かなと思うし、終盤で物語の中心にいるのは父親である。
やはり「私」は幽霊なので、どこにでも行って見聞きすることができるけれども、主体的に行動できない、という制約があるので、「私」を主人公にした物語にはならないのかな、と。
本書について、いつも自分が参考にさせてもらっているブログで、以下の書評が書かれている。
この書評での本書への評価は「抜きん出て良い部分と抜きん出て悪い部分とが混在した作品」というもので、後者について、イラン革命への批判を書くためにつまらなくなっている、というものである。
個人的には、それが本書をつまらなくしている、とは思わなかったのだが、「虫歯」についての指摘は的確で鋭いものだと思えたので、引用しておきたい。
そうしてイラン文化への追憶を馳せる主人公一家が、良家・金持ち(ブルジョワ)・インテリであることに注意をしなければならない。(中略)かくも自分たちの特権的地位にあまりに無自覚的に書かれてしまうと、たんに西側的価値観を特権維持のための方便として使用しているようにしか思えなくなってしまう。
(中略)
この民兵の少年は、14歳ということになっている。さて、著者はなぜ彼を虫歯にしてしまったのだろう?
にやりと笑って見えるくらいの虫歯なのだから、それなりに酷い虫歯だろう。ここで敢えてこの虫歯を描写したということは、この少年の低い教育水準と、もしかすると低い生活水準をも示しているのだろう。
彼はこの場面だけに見切れる端役中の端役だ。従って、虫歯であるという以上の人物描写はない。逆にいえば、本来、虫歯であるという描写をする必要さえなかったはずだ。そこに敢えて彼のプアーな出自を示したところに、私は著者の無意識的な嘲りの感覚をを感じざるを得ない。
本書を読む前にこの記事を読んでいたので、このシーンが出てきた時にすぐ分かったものの、自分だったら多分見逃してしまうところだった。
先ほど、主人公の家族がインテリであると述べたが、加えてこの書評にも書かれているとおり、金持ちの良家でもある。テヘランに伝統ある屋敷をもっていて、主人公の祖父母は、テヘラン市長がこの屋敷を接収しようとするのに対して、抵抗を続けている。
語り手に、自分の家が特権階級であるかもしれないことへの自覚みたいなものは、確かに、ない。
ところでこの「虫歯」であるが、実は、本書では指摘のあった箇所含めて3カ所で「虫歯」が出てきている。1つは明らかに、ネガティブな意味で「虫歯」が使われていたが、もう1カ所は、ビーターが「虫歯」になりそうになっているというものだった。
自分にはこの、ビーターの「虫歯」が何を意味しているのか読み取ることができなかったので何ともいえないのだが、ビーターに対しても「虫歯」があるっぽいことを踏まえると、民兵の少年の「虫歯」を一概に無意識的な嘲りと言ってしまっていいのか、疑いを差し挟む余地があるのではないか、とは思った。
ただ、このビーターの「虫歯」も何とも言えなくて、これがあるから少年の「虫歯」はネガティブなものではない、と断言できるわけでは全然なくて、先の指摘はやっぱり妥当である可能性も十分あるとも思う。
本作では、わりとマニアという言葉が繰り返されている。その都度、「熱狂する」とか色々訳語があてられている。例えば、木登りにハマッている時期とかがあって、それを木登りに熱狂(マニア)していた、とかそういう風に書いている。カタカナでルビふってるのでちょっと目立つというだけの話なのだけど、最終的に「私」の家族が行き着いたマニアは、読書だった、という結論に至るので、キーワードではあるのだろう。
わりと最初の方で、母ロザーが、ソフラーブを妊娠していた時の夢について語るのだが、この夢がラストシーンにつながっていた。登ると成長していく樹
基本的に、文学が結構重視されているけれど、姉のビーターについては、バレエの話が結構されている。テヘランの子ども時代、バレエを習っていたのだが、テヘランを離れる際に辞めることになったとか。革命が起きた際、バレエをそのまま教え続けた先生がデモ隊に殴られたとか。革命によって奪われたものが、姉にとってはバレエだった、というのが結構繰り返し書かれている。
「私」はシベリアから来た幽霊に出会う。復讐のため幽霊となって彷徨っているが、シベリアへの帰り方が分からなくなっているので、シベリアの位置を教える。
母は、革命のことを"アラブ人来襲"と呼んでいる。
マジックリアリズム的なエピソードとして、ラーザーンで降り続いた黒い雪の話がある。
117日黒い雪が降り続けて、その間、ゾロアスター教徒たちが「私」の家に訪れる、とかいう奴
ソフラーブのほか処刑された5千人が幽霊となる。彼らはホメイニのもとへと向かう。
ホメイニは、鏡の宮殿を地下に作らせる。その建築作業に幽霊たちが現れるようになって、行方不明になった家族に会えるという噂がたって、幽霊にあうために作業員になる女性が相次ぐ話とか。
教育隊から革命防衛隊へ
親を失った子どもを孤児というなら、子どもを失った母は孤母というのでは、という書き出しから始まる章で、ロザーと孤母たちが森の中へと失踪する。
特にロザーがどんどん1人で森の中へと歩いて行って、見知らぬ男性にであって、アゼルバイジャンやクルディスタンの方まで一緒に旅をして、その男と結ばれるという、謎といえば謎のエピソードなんだけど、ぐんぐん読み進んでいく感じがあって、面白くなってきたぞ感があった。
母が失踪し、父親と2人暮らしになったビーターは、俄然家事に取り組むようになり、庭を整えるために、庭仕事をイーサーという村の若者に頼むことになる。
で、このイーサーの家系というのが、祖母が幽鬼(ジン)と取引して、癒やしの力と産婆の力を手に入れているんだけど、他方で幽鬼(ジン)からの呪いも受けている。
で、ビーターとイーサーは恋人になるのだが、イーサーというのは、トンボを見ることで運命を知ることができるという人で、トンボを見て、自分が他の女性と結婚することが分かってビーターと別れる。
イーサーには、エッフェトという姉がいて、彼女はたまたま村に立ち寄った羊飼いに恋をして「黒い愛」にとらわれてしまう。羊の鳴き真似してみたり、黒い愛を他の村人にも感染(?)させようとしたりする。イーサー家の、癒やしの力はエッフェトの代で断絶する。
ロザーとかイーサーとか、なんだろう、ちょっと破滅的な愛みたいなエピソードが続く。
このあたり、わりと面白かった感じがする。
失恋の痛手から家を離れたビーターは、川辺に集まる幽霊たちと出会う。
彼らは、自分が生きていた頃の話とかをお互いにしている。
その中で1人、自分が何故死ぬに至ったのかという自分たち3兄弟の話をするのだが、これを一気に話した、というので、5ページくらい、句読点なしで書かれていたりする。
ビーターは1人テヘランへ戻ることを決める。ビーターがテヘランに行っていた時の話はがっつり省略されている。あとで少し触れられたりもしていたはずだけど、基本的にはビーターがテヘランで何していたのかは分からない。どれだけの期間テヘランで一人暮らししたのかも分からないのだけど、数年以上の月日が流れていたと思われる。
で、ラーザーンへと帰ってくる。
帰ってきたビーターが、本を読みまくるというシーンがある。文学作品のタイトルずらずら
そしてその後、ビーターは魚になりたかったことを思い出し、なんと人魚化してしまう。
父親は、風呂場を改装してプールを作ったりするが、最終的にビーターを海へと連れて行く。
ここでいう海はカスピ海のこと。ラーザーンはテヘランの北にあるので、そこからさらに北へ行くと、確かにそれほどかからずにカスピ海なのだな、と改めて地図を見て気付いた。
なお、ロザーが辿りついたとされるアゼルバイジャンやクルディスタンは、さらに北西方向。
カスピ海には他にも人魚がいて、ビーターはそこで暮らし始めると、次第に記憶力がもたないようになっていく。
ラーザーンの住人たちが夢を見るようになってしまう、というエピソードが、『百年の孤独』での眠り病の話へのオマージュなのかなあ、という感じがした。
父フーシャンクがテヘランの実家へと戻る。「私」の家族は、テヘランから逃げ出しているのだけど、フーシャンクの両親と祖父はテヘランにとどまり続けている。
フーシャンクの実家というのが、長く続く家柄で、ロザーが初めて来たときびびった、みたいなエピソードが最初の方にあった気がする。
テヘラン市長が、この家を奪いたがっているのだけど、祖父等はずっと抵抗している、と。
フーシャンクは、ひたすら文学を読みあさる。
家族も一緒に呼んで文学談義をするような日々を送るのだけど、その中で次第にフーシャンクは、今のイランのあり方とそこからずっと逃避してきたことに怒りを覚えるようになる。
フーシャンクの弟、語り手の「私」からすると叔父であるホスローは、神秘主義者で、インドとかにも行って神秘思想を学んでいるのだが、フーシャンクの怒りはホスロー叔父に向かうようになったりもする。
ずっとテヘランの市街を歩くことをしていなかったのだけど、いざ、歩いてみて、風紀警察に隠れて手を繋いでいるカップルとか、隠れてロックのCDを売ってるCD屋とかを見ることになる。
で、CD買って歩いてたら逮捕されちゃう。尋問の時に、自分の罪を書き出せって言われて書いている内容が、本書のここまでの内容に相当する話になってて、ちょっとメタフィクショナルな仕掛けなんだけど、書き直せって言われて書き直した内容は、ロザーは精神病院に入っているとか、ビーターは死んだとか、普通に現実的な話になっていて、そこはちょっと残念というか寂しいというか。
人魚として暮らしていたビーターは、家族のことを一瞬思い出して海岸に向かったところで、人々に捕まってしまって、暴行を受けて死んでしまう。
版元の紹介文に「死者や幽鬼との交わり、SNSなどの現代世界が融合した」ということが書かれているのだが、ここで、民衆が人魚ビーターをスマホで写真撮ってフェイスブックにアップするというのがでてくるので、「SNSなどの現代世界」ってここを指しているのかなあと思うが、別にそんなにSNSっぽい話(?)が出てくるわけではない。
ロザーがラーザーンに帰ってくる。
テヘランの実家も、結局市長の強制執行により、破壊されてしまい、フーシャンクも帰ってくる。
ソフラーブ、ビーター、「私」、と幽霊になってしまった3人の子どもたちは、子どもたち全員に先立たれてしまった両親のことを思ったり、もし生きていたら何がしたかったかを語ったりする。
最後、5人は、登ると登っただけ成長し続けるスモモの木に登り、宇宙空間まで達すると、木の中に入って消滅する。おしまい。
後半、フーシャンクの逮捕やテヘランの家の破壊、ビーターの死などは、物語の中で膨らんでいったマジック的・幻想的・非現実的な部分が、現実の暴力によって叩き潰されていくようであり、悲しいところであり、バッドエンド的な終わり方をしている。
これは、圧政によって文化が抑圧されていることへの批判であろう(ビーターを殺すのは直接的には政府・政治ではなく民衆だが、男性による暴力であり(女性たちはビーターを哀れむが生活のために口を噤む)、これも現状の抑圧的な社会に対する批判だろう)。なので、ここの部分をどう評価するかは、色々好みが分かれるところかもしれない。
個人的には、確かに分かりやすく政治批判的な展開であるなあと感じたが、物語の面白さを損なうようなものでもないと思った。
子どもの「私」を語り手としつつ、その両親を主人公として、子ども3人全員に死なれてしまった夫婦へと辿り着く悲劇として、物語の説得力はあったなと思う
最後に家族5人で木を登っていくラストシーンは、悲しくもあるけれど、美しくもあるし、全滅エンドではあるのだけど、決して鬱々しくはなくて、どこかマジックリアリズムの愉快さもあった。