日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

信長は謀略で殺されたのか/鈴木眞哉,藤本正行/洋泉社新書y

  • 第1部、本能寺の変は「謀略事件」だったのか?
    • 第1章、良質史料で描く「信長の最期」
    • 第2章、謀反の成否を分けた光秀の「機密保持」
    • 第3章、事件前後の光秀の動向
    • 第4章、本能寺の変はなぜ起きたのか?
  • 第2部、さまざまな「謀略説」を検証する
    • 第5章、裏付けのない「足利義昭黒幕説」
    • 第6章、雄大にして空疎な「イエズス会黒幕説」
    • 第7章、誰でも「黒幕」にできる謀略説の数々
    • 第8章、謀略説に共通する五つの特徴


いいぞ!いいぞ!
世に蔓延る謀略史観に喝じゃ!


本能寺の変に限らず、歴史上の事件に謀略説は付き物といっていいでしょう。ただ、ほとんどの謀略説は根拠が無いか又は薄い。そもそも、そうそうなんでもかんでも筋書き通りに運ぶわけがなく、想定外のことが起こるのが世の習いってものじゃないでしょうか。
それでもネタとして楽しむ分には構わないと思いますけど、如何にも「史実」のように扱うことには問題がある。本書でもエピローグでNHK批判を展開していますが、NHKの教養番組でそれらしく取り上げられれば、そうだと信じ込んでしまう人も多いでしょう。大河ドラマでさえそのような傾向があるのですから、NHKはその強すぎる影響力を自覚してもらいたいもの。個人のブログや2ちゃんねるで妄説を垂れ流しているのとは訳が違うんですから。
そして謀略説は好奇心をくすぐるうえに、謀略説を用いれば簡単に「もっともらしく」説明できるという便利なものなので、学者ですらその罠に陥ってしまう方もいるわけですが、謀略説に対してはもっと慎重な態度で臨んでほしいもの。史料の誤解釈や牽強付会で誤魔化そうだなんて言語道断ですよ。
我々、一般の視聴者・読者もこのようなマスコミ・学者に踊らされることのないように注意しないといけませんね。何事においても、と自戒を込めて。


それから、小和田哲男氏が「信長非道阻止説」なるものを唱えていることを知りました。明智光秀が信長の悪政や横暴を阻止するべく正義のために立ち上がったとするもので、氏が時代考証を担当する『功名が辻』がそのような展開を匂わせているのはそのためだったのか、と納得。そして小和田氏がそのような説を唱えていたことにガッカリ。

功名が辻 第14回「一番出世」

ここのところ展開の早い回が続いていたので、ひさびさのぬるいストーリー展開に途中眠くなってしまいました。(^^;

長浜城築城

いきなり長浜城が出来上がっていた。秀吉の長浜移転を天正二年(1574)春のこと、とナレーションがありましたが、天正三年(1575)8月の越前一向一揆討伐に際して、信長が小谷の羽柴秀吉のもとに泊まったという記事が『信長公記』にあることから、それまでは長浜城は築城工事中で小谷城に居たものと推測されます。
さらに「国友助太夫家文書」なる史料の石田三成判物には「天正三年長浜ニ太閤様御座候」云々とあるそうで、天正三年の末頃には長浜城に移転したものとみられます。
ただし、秀吉が入城したといっても全てが完成したわけではなく、その後も工事が続けられていたようです。

天正二年頃の中村一氏堀尾吉晴の知行高

ともに150石ということになっていましたが、中村は200石、堀尾は150石からのちに300石あるいは450石と云われます。ただし、これらがどのような史料に基づいているのかは分からず。
山内一豊が両者より多少の差をつけていようと、それは刀根坂の戦いにおける戦功、特に大怪我を負ってまでの武功によるものと考えられるので、特に問題はなかったでしょう。お市の方を救い出すという創作話が、加増理由にまで及んで、何だか傷口を広げている感じ。

竹生島に寄進

普請場での中村一氏堀尾吉晴の会話にでてきた小ネタ。
秀吉と一族・家臣が竹生島の堂舎復興のために寄進した記録が残っていて、『竹生島奉加帳』なるこの史料には山内一豊の署名「山内伊右衛門尉」と花押があります。一豊の署名と花押は現存最古という貴重なもので、山内一豊関連の書籍にはその図版がよく載っています。中村一氏堀尾吉晴は寄進していないような口ぶりでしたが、実際に彼らの名が載っているのか無いのか、そこまでは知りません。
珍しく史料の裏付けのある小ネタでしたが、寄進が行われたのは天正四年(1576)頃だとか。

長島一向一揆殲滅戦

これまで全く無視されていた伊勢戦線にも微かに光が。
比叡山焼き討ちや小谷城落城などよりよっぽど悲惨になった戦い。それまで長島一向一揆には二度も手痛い目にあっていた信長は今度こそ徹底的に叩こうと、天正二年(1574)7月から9月にかけての長期戦になりました。餓死者が多く出た挙句に2万人が焼き殺されたと云います。織田勢も一揆勢の捨て身の反撃を受けて、信長の庶兄信広や叔父信次、弟秀成など多くの一門衆が討死。
ちなみにこの戦い、秀吉当人は参加していませんが、『信長公記』には織田勢の中に弟の秀長の名が見えます。兄の代理で出陣したものか。

南殿

秀吉の側室で南殿っていったら、石松丸秀勝の生母とされる南殿のことなんでしょうね。
浅井氏にゆかりの者というコメントがありましたが、出自不詳のはず。そもそも先述の『竹生島奉加帳』に「南殿」「石松丸」と両者の名が見えるのが唯一の史料ではなかったか。
石松丸は秀吉の子供なのかどうか。この問題には関心はあるものの、完全に知識不足なので今後の課題にしておきます。

大政所と旭姫

いかにも〜なキャスティング
旭姫の生涯ってよく分からない。兄秀吉の命令で、当時まだ臣従していなかった徳川家康のもとに嫁いだことは有名ですが、それ以外のこととなるとちょっと。家康に嫁ぐ以前の夫も、佐治日向守とも副田甚兵衛とも云われ、何だかハッキリしない。旭姫の旦那として源助なる人物が出てきましたが、「源助=佐治日向守or副田甚兵衛」なんですかねぇ。
それと「旭(姫)」という名前がどう見ても周囲から浮いてるんですけど。これって徳川家康に輿入れする際に付けられた名前という可能性はないのかな。うーん、旭姫に関しても要学習。
このようによく分からない旭姫ですから、当然ながら一豊夫妻との関わり合いもほとんど見えず、旭姫の輿入れに際して浜松への道中の人夫調達を行ったくらいのもの*1。わざわざ旭姫を登場させる必要性は無いように思われます。しかも秀吉の右腕として活躍した豊臣秀長や、豊臣秀次の生母とも(瑞龍院)といった他の兄弟は出てこないのですから。

当時の百姓

百姓だからって戦争と無縁なわけじゃないよ。百姓だからって安寧に暮らせるとは限らないよ。

後継者について考える人物は居ないのか

このドラマには。
側女が汚らわしいものだとしか捉えられていないような。
子供を産まない寧々と千代。一豊夫妻の結婚は天正年間頃ではないかという見解もありますが、このドラマでは永禄十年(1567)に結婚しているので、もう7年経っている。そろそろ周囲が気を揉んでもおかしくない。寧々はいわずもがな。

*1:正確には、山内一豊堀尾吉晴に人夫調達を命じた秀吉朱印状が現存しているだけですが、輿入れは滞りなく行われたので人夫調達も行われたでしょう。