カセットテ-プと潮騒

古家を建て替えた。八か月仮住まいに住んで再び引越した。僕と妻と子どもと猫3人との同居生活。やっとの思いで最後の段ボールを開封すると、1本のカセットテープが出て来た。インデックスに「19××年8月×日 新潟・越前浜海水浴場 取材」と書いてある。

 

なんで取っておいたのか記憶にない。たぶん、捨て忘れたのだろう。長年愛用していたソニーのカセットテープレコーダーも段ボールに入っていた。動くだろうか。新しい電池を入れて、ボタンを押す。ラッキー。テープは回り出す。突然、部屋一面に波の音が広がる。

 

広告会社で働いていた頃、大手学習塾のPR誌の編集を担当。企画から編集、交渉、取材、原稿作成から撮影までほぼ一人でこなしていた。全国の学習塾を訪ねて元気な塾生を紹介する特集では、隔月で全国を飛び回っていた。

 

土曜日、営業と二人で朝一番の上越新幹線で新潟に向かった。タクシーで海水浴場へ。降りると松林の手前に畑が広がっていた。西瓜畑だった。大きなおいしそうな西瓜がごろごろしていた。

 

天気も良く、取材するには勿体ない日。澄み切った空と海。海水浴を楽しむシーンを撮影してから、塾側で選定してくれた小学生を浜辺で取材する。テープレコーダーを回す。波の音が予想以上に大きく入る。塾の良さや将来の夢などを手短に訊ねる。最後に手書きのネームプレートを持ってもらって撮影した。

 

取材テープは片面45分。20分ぐらい子どもたちの声が潮騒とともに入っている。いいように思われるかもしれないが、テープ起こしには実に厄介な音だった。残り25分は波の音だけが入っていた。録音ボタンをオフにし忘れたのか。あえてそのままにしておいたのか。浜辺で振る舞われた西瓜割りの西瓜が実に美味だったことを思い出した。

 

目を閉じて波の音を聴く。その夜、僕はなぜか、わが家の3人の猫と西瓜をかぶりついている夢を見た。部屋がいつの間にかあの越前浜海水浴場の浜辺になっていた。

 

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英国ゴシック文学の系譜学―怪奇・幻想の奥底にあるもの

 

 


『ゴシックと身体 想像力と解放の英文学』小川公代著を読む。

 

みんな大好きなゴシック小説というと、怪奇とか幻想とかクラシックとかオカルトとか、そんなものをイメージする。ぼくもメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』、レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』などそういう読み方をしていた。

 

表現は時代を映す鏡といわれるが、ゴシックが生まれたいきさつ、どのようにゴシックが流布したか。そも、ゴシックの魅力とは。「ゴシックの系譜」。そのあたりを深堀してあって、いままで点的に知り得ていたことが線につながっていく。


「“ゴシック”はつねに政治的な機能を果たしてきた。ゴシック小説の夢や無意識の領域と創造力の働きが豊かに語られるようになったのは、吸血鬼物語においてだろう。たとえば、ヴァンパイア―とりわけ女性の吸血鬼―はたんなる虚構の怪物ではない。そこには19世紀の因習に抗おうとした新しい女性たちの政治的な意識が浮かび上がる。社会で制度化されたものの周縁における過去から召喚された装置を「戦術」として用いたものと考えることはできないだろか」

 

書き出しを引用したが、この本の趣旨、書いた狙いをのっけから剛速球で投げ込んでくる。

 

「“ゴシック”はたんなる怪奇物語ではない。それは、恐怖や畏怖の感情を喚起させる物語が作家作家たちの想像力を介してつくり出されてきたからだ。言い換えれば、想像する力をパフォーマティヴに示してきたのが“ゴシック”というジャンルなのだ」

 

さらに、もう一つ重要なことがあると。

 

「ゴシック小説が、人間の理性に対する懐疑を表わすという前提である。―略―たとえばデヴェンドラ・ヴァーマは、18世紀後半に起きたゴシック・ブームの到来を、啓蒙思想が掲げてきた「人間の理性」に対する懐疑、あるいは超自然的な存在への回帰であると説明している」

 

「ゴシック小説がとくに中流階級女性の娯楽として」読まれていたのは、エンタメよりも一種のカタルシスを得るためのものだったのだろうか。坂田靖子の漫画なら令夫人が横暴な夫に対して女性吸血鬼に変身して深夜血を吸うシーンを妄想するとか。

 

「フランスの思想家ミシェル・ド・セルトー」に倣えば、
「“ゴシック”とは18、9世紀の作家たちが言葉の戦術として近代人の無意識から回帰させたものである、捉えられよう。というのも、近代社会が掲げてきた合理主義への挑戦がなされてきたのも典型的にこのジャンルであり、この媒体を通して、身体によって突き動かされる人間の非合理性、あるいは非理性の物語が語られてきたからだ」

 

エンゲルスの『空想から科学へ』をもじれば『空想からゴシックへ』となるのだろう。

なんか科学的、理性的なものがいばっているけども、非科学的、非理性的なるものと出処は同じわけだし。科学のルーツをたどれば錬金術になるわけだし。


んでもって読みたい本がいろいろ紹介されている。どの本も面白そうで、困る。まじ、困る。

 

メアリ・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンの元祖社会派ミステリ『ケイレブ・ウィリアムズ』。母親である元祖フェミニスト、メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』。チャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』。
そしてエミリー・ブロンテの『嵐が丘』。名作中の名作。恥ずかしながら未読。


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ノー・マンズ・ランド 閾(しきい) 敷居

 

 

『権力の空間/空間の権力  -個人と国家の<あいだ>を設計せよ-』山本 理顕著を読む。


『人間の条件』でハンナ・アレント古代ギリシアの都市(ポリス)についてふれている。そこには、「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」があると。「ノー・マンズ・ランド(no man’s land)」の重要な役割やなぜ時代が進むと、それが住居に無くなったのか。建築家として次代の住まいと都市を提言している。

 

難しい部分もあるが、昨今の都市計画に足りないものや標準化された集合住宅の課題など興味深く読むことができた。箇条書きでランダムに述べてみる。

 

〇「古代ギリシアの家は男の利用する領域と女が利用する領域とに厳密に分けられていた」「女の領域は最もプライバシーの高い場所」「プライバシーという概念は、囲い込まれ、隔離されている状態を意味していた」「家事は奴隷の労働であった」
公な場所は家父長など男たちの空間。洋の東西を問わず、妻のことを「奥さん」とか「家内」とか呼ぶのは、ここに由来しているようだ。


〇「古代ギリシアの都市(ポリス)は家(オイコス)の集合体である」「公的領域と私的領域の中間にある空間が「閾(しきい)」である」「閾は敷居である。空間的な広がりをもった敷居という意味である」
ノー・マンズ・ランドを換言するならば、閾だと。


〇「閾はそこに住む人たちを「結びつけると同時に分け隔てる」ための建築的装置である」
作者は世界の集落を調査して名前こそ異なるが閾は設けられていたと。

〇「今私たちが住んでいる家は―略―単に家族の私生活の場所、―略―プライバシーを守るためだけの場所になっている」「プライバシーとは「なにものかを奪われている状態」」

〇「住宅は単にその内側で「人間の消費的生命過程(家事、育児、生殖)」を維持するための「機能」しか与えられていない」

〇「プライバシーとは「なにものかを奪われている状態」」
これに違和感を覚えた。作者はこう述べている。
「私たち自身がそれを意識しなくなっている。住宅の外側が管理空間であることを私たちは知っている。でも、その住宅の内側にいる人たちは自分たちが管理されているとは思わない。なぜ思わないのか」

〇労働者住宅の出現により「均一な管理社会の住人に、一方で親密な私生活の住人になったのである」「一つの住宅に一つの家族が住む」いわゆる核家族化のはじまりである。

〇「均一化、画一化された建築空間が画一化された社会をつくるのである」

〇「規格化・標準化されるということは、その建築はつくられる都市環境と無関係に規格化。標準化されるということである。その建築はどのような環境であったとしても、その環境を選ばずにつくることができるわけである。それは、場所の特性や歴史性あるいはその建築を利用する具体的な利用者の特性と共に設計された19世紀以前の様式建築の方法とは全く異なる方法だったのである」

箱もの行政とか。

〇「今でも「世界」は私たちのすぐ身近にある。標準化された官僚制的管理空間に対する空間である。私たち自身のための空間である。そしてそれは私たち自身の強い意志によって、未来に向けて構想され設計されなくてはならない空間なのである」

「官僚制的に標準化されている建築」か。

〇「都営住宅の設計者は最も安い設計料を入札(申告)した建築設計事務所が、ただ設計料が安いというそれだけの理由で選ばれる」「一円入札」には驚いた。

〇著者がコンペで選ばれた「住民と共に設計」する「町舎新築工事の設計」。ところが町長選挙で推進派の「町長が敗北」すると、「解体されてしまった」。裁判になったが、事態は何ら変わらなかった。

〇「建築は単に建築家の主体によってのみつくられるわけではない。地域社会の人々に承認されることによってつくられるのである。だからこそ長い時間に耐えてそこに存在しつづけることができるのである。地域社会の人々によって、地域社会を現存化させるものとしてそこに存在し続けることができるのである」

仮設住宅というが、ひょっとして現代の建築物はほとんどが仮設住宅なのではないだろうか。


子どもの頃、祖母の家で座敷の敷居を踏んだら叱られたことがある人は、すでに中高年者か。理由はネットから引用。

「敷居には世間と家、部屋と廊下などを隔てる結界(境界のこと)の役目があり、畳の縁にはお客様と主人を区別する結界の意味があります。 こうした結界を踏むことは空間様式を崩すことになるため、踏んではいけないのです。 敷居を踏むと磨り減ってしまいますし、家の建てつけが歪むこともあります」

前半部がこの本とリンクする。

allabout.co.jp


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「私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します」

 

 

『思いがけず利他』中島岳志著を読む。

 

「情けは人のためならず」という諺(?)がある。情けを他人にかけることはめぐりめぐって自分に帰ってくる。本来は、こんな意味だったが、最近、情けを他人にかけることは結局、その人のためにならない。という意味がまかり通っているようだ。「自己責任」が流行語になった頃からだろうか。

 

知っているようで深くは知っていない「利他」という言葉。それはどういうことなのか。そう思いつつページをめくった。適宜引用。

 

「私たちは「与えること」が利他だと思い込んでいます。だから「何かいいをことしよう」として、時に相手を傷つけてしまうのです。これが「利他」の持つ「支配」や「統御」という問題ですね。利他が起動するのは「与えるとき」ではなく、「受け取るとき」です。これは重要なポイントです」

 

「わかりやすいのはプレゼントをもらって「うれしい」と感じるときです。―略―これは贈与の受け取りが成功していますよね。ただし、―略―この贈与は負債感につながることがあります。自分も相手に同じぐらい価値のあるものを返さなければならないと思い、それができないでいると「負い目」を感じて、相手との関係がおかしくなってしまうことがあります。場合によっては、「与えた人」と「受け取った人」の間に優劣関係が生じ、時に支配/被支配の関係を構築してしまいます」

 

作者はマルセル・モースの『贈与論』からポトラッチなども踏まえて考察している。興味ある人はポトラッチを検索。「北アメリカ先住民」の過剰なまでの贈与儀式に笑ってしまうかもね。

 

「何かいいをことしよう」として一方的に「与える」。これは、なんちゃって利他。利他ではなく利己だと。たとえばボランティアや介護士、医師、看護師、先生などなど、「与える」のいわば押し売り。相手側との圧倒的な非対称。

 

認知症と診断されると、周りの人や介護従事者は、認知症の人たちに「何もしないこと」を強要しがちです。仕事をすることから遠ざけ、掃除や洗濯、食事など日常生活にかかわることも、何でもやってあげる。それが「ケア」だと思われてきた側面があります」

 

そうではない事例として「認知症と診断された高齢者」4人がホールで働いている「ちばる食堂(愛知県岡崎市)」を取りあげている。「コンセプトが「注文をまちがえる料理店」」。「間違いに寛容な社会を形成することで、認知症の人たちも尊厳を持って働くことができる環境」の整備。「その人の特質やあり方に「沿う」ことで、「介護しない介護」が成立する場所を作ろうとしています」

 

そうか。「ケア」は「利他」なのか。

 

「私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します」

 

「親の小言と冷(ひや)(酒)は後で効く」。そこに利他が付加される。

 

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ダイイング・メッセージは、「木箱を幽霊ホテルへ」

 

 

『幽霊ホテルからの手紙』蔡駿著 舩山むつみ訳を読む。


作家の周旋と警察官の葉䔥は親友同士。かつては恋の宿敵だったが。周旋が葉䔥の元へ。手には木箱が。偶然バスで隣り合わせた田園という美しい女性から預かってくれと。彼女は血にまみれていた。気になって相談をした。彼は上海を離れていたが、戻るや否や田園の住まいへ。警備の人から彼女は心臓発作で亡くなったと。部屋に帰ると
留守番電話に田園からの伝言が入っていた。「木箱を幽霊ホテルに届けてほしい」と。

周旋は幽霊ホテルに関する情報を得るため図書館にこもり、古い新聞を漁る。やっと当該記事を見つける。田園の身元(伝統演劇の女優)も幽霊ホテルの住所も葉䔥が突き止めてくれた。さすが、警察官。

 

海沿いにある幽霊ホテル。しかし、リゾートホテルはほど遠い。隣接する巨大な墓地。塩害で作物が育たないので古来より「死体が埋められてきた地」だと。幽霊ホテルは閉鎖中に見えたが、実は、ひっそりと営業していた。ただし、老朽化しており、電気も電話も通じない。持参したノートPCも故障してしまい、周旋は葉䔥に近況報告を手紙でする。延々と歩いて投函。ホテルに手紙は届かない。番外地か。12通の長い長い『幽霊ホテルからの手紙』で話は進む。

 

怪しげなオーナー一族やスタッフ、宿泊客。幽霊ホテルの立ち入り禁止の階などを探る。そこに新たな人物が。木箱の中身は。幽霊ホテルの付近を散歩するが、その風景描写がシュールレアリスムの絵画みたいに奇怪。

 

周旋は具合の悪い父親の様子伺いを葉䔥に依頼する。彼が幽霊ホテルに行っていることを話すと父親は驚愕する。まさか。父親も戦時下、兵隊として訪ねたのだ。そこでの悲惨な事件。思い出したくなかったのに、なぜ、息子が。

 

周旋は宿泊していた女子大生3人娘の一人、水月と恋仲になる。この恋も悲しい結末が。


作者は「中国のスティーヴン・キング」と言われているそうな。幽霊ホテルの人びとの狂気は、本文中に書かれたとおり『シャイニング』のようでもあり、二人の女子大生の凄惨な殺され方は『キャリー』、ただし映画版ラストのほうを彷彿とさせる。

 

最後に周旋と父など登場人物と幽霊ホテルとのさまざまな因果関係が明らかになる。
不思議な人の縁(えにし)や運命を感じさせる。隠し味に村上春樹を効かせた(たぶん)純文学濃度高めの、後味の良いホラーミステリー。もちろん、主役はゴシック風味満点の幽霊ホテル。

 

結末は、どうなんだろ。意見がわかれるところ。ま、ホラーミステリーと銘打っている以上は、謎解きや伏線回収は必須なのかもしれないが。個人的には、むりやりオチつけなくても、それまでが、ハラハラドキドキ、虚と実が見事に撹拌されておお怖っ!てさせてくれれば、それでOK!と思ってしまう今日この頃。


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「現代は、死という契機を通過しなければ生に辿り着けない時代なのかもしれない」

 

 


すっかり読んだ気になっていた『病の哲学』小泉義之著。最後のあたりを読み残していたので、読んでしまう。

 

わかったところ、わからないところ、同調できるところ、できないところ、むくむくと小波が沸き立つ。二箇所引用。

 

「現代は、死という契機を通過しなければ生に辿り着けない時代なのかもしれない。本書が示したかったことは、死を通過して辿り着くべき生は、病人の生にほかならないということである。今後、病人の肉体という個体についての科学が生まれるだろう。そして、病人の生に相応しい哲学と思想が書かれるだろう」

 

胃ろうなどの延命措置とかかな。管だらけの身体で確かに生物学的には死んではいない。生きていることは生きている。個人的には延命措置は望まない。国民健康保険証の裏面に表記してある臓器提供は、躊躇しているが。

 

「これは近代社会に限ったことではないが、人間の社会は災いを転じて福となしてきた。品の無い言い方に聞えるだろうが、他人の不幸を食い物にして多くの人間が飯を食えるようにしてきたのである。社会的連帯とは、経済的にはそのようなことである。そして、これは、悪いことではなく、途轍もなく善いことなのである。だから、シンプルにやることだ。誰かが無力で無能になったら、力と能力のある者がそれを飯の種にできるようにするのである」

 

「社会的連帯とは」獲物をシェアすること、か。一見、冷たい物言いに思えるかもしれないが、ヒューマニズムの偽装、エセ人道愛よりは、毅然としていてよいのではなかろうか。たぶん、ホンネは、そういうことだと思うし。

 

いま読み出した『思いがけず利他』中島岳志著とリンクするような。

 

作者が示唆しているあたりは、この国のさらなる老人大国化と止まらない少子化により、早晩、考えねばならない問題となる。つーか、なっている。


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統計学に強いスピってる黒衣の天使

 

 

『超人ナイチンゲール』栗原康著を読む。

 

フローレンス・ナイチンゲールというと、クリミア戦争の白衣の天使とか、看護システムを構築した人ぐらいしか知らなかった。あ、あとは統計学を駆使してエピデミック(小規模パンデミックってことかな)を抑制したとか。

 

著者が著者だけにどんな評伝になるのか。これがマジおもしろい。ナイチンゲールの生涯をおもしろいとは不謹慎だと思われる人は著者が記載した参考文献を読み漁りなされ。

 

まず知らなかったのは、とんでもないお金持ち、ハイソのお嬢さんだったこと。両親が欧州漫遊していてフィレンツェで生まれたから、フローレンスという名前をつけた。
元祖花の都だもんね。

 

生まれついての旺盛な好奇心。これはわかる。それから16歳の時の神秘体験。日記の引用の引用。

「1837年2月7日、神は私に語りかけられ、神に仕えよと命じられた」

 

母に連れられて「農民小屋へ行く」。そこには飢えと病に苦しむ貧民がいた。この人たちをケアすること、救うことが「天命」であると思う。そのために看護師になることを決意する。24歳の時である。

 

ようやく看護師になるために実際にアクションを起こしたのは、なんと30歳。看護学校を出たものの、看護師に就くことは母親が猛反対。結婚すると、看護師の夢は遠のくので、相思相愛の男性とは泣く泣く別れる。当時の医療や慈善関係のハイソな人々の協力を得て外堀を埋めていく。そうこうするうちに月日が経ってしまった。

 

アイルランドカトリック修道院に併設された病院やパリの修道会を見学に行く。
彼女は「ロンドン・ハーレー街にある療養所の管理責任者」となった。そこで発明したのが「配膳用エレベーターとナースコール」。

 

クリミア戦争が勃発。イギリスはフランスと共にオスマン帝国支援のため、ロシアと戦う。近代戦争の始まりは第一次世界大戦といわれるが、すでにクリミア戦争からスタートしたと。最新兵器により死傷者は圧倒的に増える。多数の負傷兵は十分な看護を受けることができない。不衛生な環境、恐ろしい「感染症」も猛威をふるう。

 

ナイチンゲールは自費でクリミア行きを決める。同時に、政府から「看護団の総監督就任」が要請された。彼女がすごいのは強引なまでの突進力。ひどい環境の野戦病院。責任者(軍人とか官僚とか)は彼女のことをうざがる。すると、知り合いのエライさんから根回しする。政治力がすごい。

 

クリミア戦争で日増しに増える負傷兵。足りない施設、用品、食糧品などなど。待っているうちに死んでしまう。どーする。私財を投げうった。破壊されたままの病棟は、人を自ら雇い入れ、改修した。

 

背に腹は変えられない。倉庫に、たんまりある補給品を傷病兵のために強奪した。
「ハンマーをもった天使はこういった。強奪はケアでしょ」

「日銭」稼ぎで新聞記者をしていたマルクスも絶賛した。

 

兵舎病院を徹底的に衛生面と食事面の改善に取り組む。その結果、死亡率は著しく低下した。

 

次に彼女が取り組んだのが「クリミア戦争の報告書」だ。「近代統計学の祖、アドルフ・ケトレー」の本をもとに、「統計学を駆使して1000頁の報告書」を作成した。
クリミア戦争の死亡率を統計でしめす。グラフ化する」ケトレーらに助言を求めた。
理系女子の面目躍如ってとこ。


ナイチンゲールの思想を作者は「脱病院化」とよんでいる。

 

「「病院」を前提とすることであたりまえになっている、治療する側と治療される側の垣根をこえようとしていたのだ」

彼女いわく
「看護はひとつの芸術であり、それは実際的かつ科学的な、系統だった訓練を必要する芸術である」

 

「救うものが救われて、救われたものが救っていく。日常生活のなかで、そんな新しい生の形式をつくりだすことができるかどうか。それにふれた人びとの魂をどれだけゆさぶることができるのか」
作者らしい暑苦しい文章だが、これがケアなんだと。

「国家にケアをうばわれるな」


彼女は白衣ではなく黒衣の天使だった。若い時の無理がたたったのか、後半は体調を崩していたそうだ。享年90。思った以上に長寿だったが。

 

映画化するなら、エマ・ストーンが演じればいいと勝手に思う。

 

フローレンス・ナイチンゲール

劇団四季ミュージカル『ゴーストアンドレディ』

原作漫画『黒博物館 ゴーストアンドレディ』藤田 和日郎




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