北斎とジャポニズム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃 カサットもHOKUSAIに学んだ。


東急田園都市線

http://hokusai-japonisme.jp/ 
どこまでが牽強付会で、どこからが真のパクリか。
前代未聞のデイズドアンドコンフューズドがあなたを襲う。
(というコピーを考えてみました)
【後報】

東急田園都市線

カサットもHOKUSAIに学んだ。
北斎が西洋で知られる前、幼い女の子は
お行儀よく描かれるのが普通でした。
この退屈そうなポーズはまさに、
北斎漫画』の布袋さんのような力の抜けた自然体。
北斎と出会い、西洋美術のルールが変わっていったのです。

西洋美術×葛飾北斎 夢の共演 カサット編


東急田園都市線

ドガもHOKUSAIに学んだ。
印象派の巨匠・ドガは人体表現を追求し、
幾度となくバレリーナを描きました。
北斎漫画』に登場する人物の、
何気ない一瞬をとらえたポーズが彼の研究心を刺激し、
数々の名作につながったのです。

西洋美術×葛飾北斎 夢の共演 ドガ

Let's ENJOY TOKYO 学園祭グランプリ2017 TOKYO・若者のお祭りに!


東急田園都市線

学園祭、それは学生が自ら、
大学や地域と一体となって、
育ててきた若者たちの文化。

セクトの資金源でもあった時代は、だいぶひっぺがされて終わったのか、どうでしょう。自治会と当局のポルカ

紅に染まりて天下の秋を知る。上田秋の陣 真田幸村公生誕450周年 第11回上田城紅葉まつり 特別企画展 400年の時を経て蘇る上田城 最新VR技術で、上田城が現代に甦る!

藤ヶ丘

http://www.city.ueda.nagano.jp/kanko/event/documents/h29kouyoumatsuri_pdf.pdf

『帝都東京を中国革命で歩く』読了

帝都東京を中国革命で歩く

帝都東京を中国革命で歩く

某図書館のウェブサイト「予約かご」がシステム更新に伴って、
全データ消失しましたので、失われたかごの書籍を思い出しながら、
借りた第一弾。たぶんここまでのデータ移行は市の予算的に、
無理だったのかな。Sierもふっかけたわけではないでしょうが…

装幀=矢野のり子+島津デザイン事務所
組版=スズキさゆみ
カバーは東京都立中央図書館所蔵の早わかり番地入東京市全図訂正第46版(大正11年)

ベルマーレの試合記事を読もうと買った、神奈川新聞の書評欄に、
載ってた本だったと思います。違うかもしれませんが。

著者 新潮社公式
http://www.shinchosha.co.jp/writer/2102/
著者 Wikipedia(本書は現時点で未反映)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9A%E3%83%AD%E7%BE%8E

白水社HPに一年半連載したものを大幅に加筆修正。

もっと、まっぷるというか、るるびーなガイドを予想してましたが、
作者が、父親の思い出などを交えながら、各章、ピックアップした人物や、
事象(関東大震災など)を中心に綴っていく讀み物です。
出てくる街は、ワセダ、本郷、神田(小川町神保町含む)、三田。
正直最初の街は、鶴巻町なので、戦後ある時期からはZの街だけどね、
と思いながら読みました。あと、国際言語文化アカデミア、
県立地球市民かながわプラザ(あーすぷらざ)の学校でやってた講座*1の、
先生が、清国留学生と下宿先の女性等の淫猥というかインモラルな関係について、
大好物でご専門?だったのか、とってもうれしそうに、嬉々として話してて、
それを思い出しました。でも、そういうのはどうでもいいほど、
セレクトチョイスがいいので、やっぱ近代日中関係はこっから始めなくっちゃ、
とうなづきながら読みましたです。梁啓超!宋教仁!少し飛んでチャンカイセック!
李漢俊…は知らない…黄興!魯迅!震災!飛んで周恩来!秋瑾!!!

高原書店で買って積ん読状態の武田泰淳著秋瑾伝記。

研究者の名前も楽しい。頁23、いきなりさねとうけいしゅうが、
漢字表記で登場。私はこの人のひらがな名と漢字名の使い分け基準、
知りませんのでただ字面を読んだですが、読みながらも、
この人もまた「支那」呼称問題にかなり早期に取り組んだ人で、
青木正兒先生と在日華商の新聞投書論争などは、この人がまとめなければ、
散逸し忘れ去られていたと思います、等々思いは巡りました。
きだみのるわたせせいぞう(ひらがな名の系譜)
で、トップバッターの梁啓超ラブドールの予言者でも知られる)、
岩波書店が島田虔次先生の名前を冠して刊行した『梁啓超年譜長編』
からまず漢詩が引用されてるんですよ。三酔人経綸問答もビックリ。
その次の宋教仁はもう、私が唯一久世光彦で読んだ、北一輝を描いた『陛下』
これに北一輝が宋教仁を回想する場面があるですが、もうそれしか思い出さない。
久世光彦が、森繁久彌週刊文春エッセーを、本人書けなくなってから、
聞き取り記述してたのが、聞き取りもままならなくなって、
「森繁さんは今頃どうしているだろう」みたいな一行挟みながら、
完全に自分のエッセーでお茶を濁すしかなくなり、しかし、しかしです、
久世光彦森繁久彌より先に亡くなってしまうのです。

陛下(新潮文庫)

陛下(新潮文庫)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/510XF1BCAEL._SX331_BO1,204,203,200_.jpg
北一輝が登場するのは神田お茶の水ニコライ堂が多かったです。
以下後報
【後報】
上記ごっつい記憶違いがあり、ラブドール預言者は、
梁啓超でなく康有為でした。この本には康有為も出てくるので、
そこで思い出した。スペンサーの社会進化論が猛威を振るっていた時代なので、
モテの弱者向けにそうした工具の需要が増大して発達するか、
という文脈だったはず。だいたい私のこういう知識は、
武田雅哉だと思うので、彼の、清末民國初期新聞トンデモ記事本で、
読んだんじゃないかな〜と。でなければ藤井省三北東の、
平凡社新書かな、と。

頁122、漱石魯迅旧居跡、ここ、近くの銭湯に行ったことあります。
白山に土曜の午後出かけて、その後歩いて富士ナントカ湯まで行った。
後楽園の真裏なのに、その時番台のおっちゃんがハマスタのベイの試合、
応援してて、なんかうれしかったの覚えてます。

頁137、義和団事変の賠償金を欧米各国が、どのように民國に返還したか、
の個所で、米国は北京に清華学堂を作って、それがのちの清華大学になった、
というのは、知りませんでした。あるいは忘れてた。

頁154、関東大震災で命を落とした民國留学生とその家族の招魂碑が、
湯島の通称「からたち寺」にあり、という出だしで、
それらの記述がたんたんと続き、そして、追悼式で、日華学会会長、
細川護立侯爵が讀んだ文章が全文記載されています。
のちの近衛政府の、国民政府を対手とせず、が、日本語の「相手」でなく、
中文の「對手」を使ったことで、意味を込めようとしたが、
そんなもん何も伝わらなかった、のと同じ感傷から、随所に、
日本語の言い回しというより、日本でも漢文書きなら使うので、
純粋な中文ともいえない、そもそも、東アジアの共通文章語、
漢文に純粋も不純もないですわ、的単語が多く使われていて、
それもあって全文掲載したのかなと思いました。
私は、下記の文言に打たれたです。
溘焉異域の鬼となる
この鬼が日本の、ツノをはやした虎パンツの鬼でなく、
ひとだま的なものであることは、いまさらあえて書かなくても、
判ると思います。

さねとうけいしゅうの漢字名とかな名の使い分けですが、
著書の名前が漢字名なら漢字名、かな名ならかな名、のようです。

頁185、作者の父親と廖承志のエピソード、入院中の父を、
廖承志が見舞いに来て、「郭沫若にはならないよ!」
と言った話。郭沫若が郁達夫の見舞いに築地の聖路加病院に来て、
看護婦佐藤富子にひとめぼれして結婚。彼女は「郭安娜」と改名し、
(漢語名に変え乍らも夫の姓を名乗る点は日本という…)
中国に移り住み、郁達夫はこれをモデルに『沈淪』を書いたと。
で、この富子の妹操は、陶晶孫と結婚。なので、看護婦の前で、
廖承志は広東語でそないいわはった、と言う話で、よかった。

まあ、検索すると、郭沫若は親の決めた第一夫人は兎も角、
アンナの後も第三夫人作ったはるので、きれいだけではおまへんけど。

郭安娜 百度
https://baike.baidu.com/item/%E9%83%AD%E5%AE%89%E5%A8%9C
郭沫若 家族 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%B2%AB%E8%8B%A5#.E5.AE.B6.E5.BA.AD

革命後の中国上海で101歳まで生きたというのもすごいです。
周恩来のオヒキで中国籍ゲットしたとのこと。
中国籍だと、政治に絡んでたりすると、川島芳子のように、
漢奸になって逃げられなくなったりしますが、
そういうことはなかったんだなーと。夕陽と拳銃の伊達はどっちだったか、
忘れました。アンナさんに戻すと、1983年から全国政治協商委員歴任とか。

作者は、孫文のくだりでも、西木正明が小説にした、
孫文の女』炉利炉利〜♪みたいなことひとことも書かず、
スルーしてるので、そういうのイヤなんだろうと思いました。

孫文の女

孫文の女

2016-10-17 上記読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20161017/1476650377
以上
(2017/10/24)

安倍首相と邂逅


2007年 三陸 陸奥
今週のお題「私の癒やし」分かち合いですね。
扇風機をあらかた仕舞って、ストーブとハロゲンヒーターを出しました。
残りの扇風機、忘れずにビニルをかぶせないといけないです。

失せものが出て来て、涙が出る程うれしいです。
月曜日の夜外出先で失くしたと思っていましたが、
よく考えると、火曜早朝ファックス📠を送った際、
その失せもの(帳面です)にFAX番号のハンコがあるので、
それを参照して送信したはずだとハタと思いつき、
その辺りを捜索したらはたして発見出来ました。
持ってる時は、いい加減物持ちよすぎるので、
何か不可抗力で自然消滅しないかなあ、なんて不埒な想いを抱いてましたが、
なくなると、もうイヤー五年も大事にしてたのにいまはイヤー、みたく、
浅はかにうろたえ、うろうろしたり焦燥からかばんをひっくり返したりしました。
あってよかった。すばらしい。

と、書いた直後に傘を忘れまして、駅のトイレかなあと、
駅に行きましたら、駅にはピンク色の傘しかなくて、
いくらなんでもそれじゃないよ、と礼を言って医者に行くと、
本厚木に内閣総理大臣がお見えになって演説するとかで、
日ごろ見ない品川ナンバーや練馬ナンバーのヴァンがたくさんいて、
交差点進入前に交通整理のおまわりさんが単軀超法規的に進入して、
対岸の機動隊みたいな人たちに大声で通知してからトランシーバーで、
確認連絡する刹那、たくさんのSPカーと公用車が通りすぎてゆき、
ふと横を見ると、なんやものごっついカメラとスマホをもった少年が、
なにかをどこかへ送信しているのでした。その混沌を呆然と傍観しながら(棒、
あっ、傘はたぶんコンビニの傘立てだ、と気づき、最寄りの駅に帰り、
夕暮れのコンビニまで歩くと、はたして傘は鎮座ましましていてよかったです。

失せものが見つかる時にふさわしい歌として脊髄反射的に出て来て、
そして毎回その流れで歌い手さん夫婦のその後を検索し(余計なお世話)、
しかし検索結果のサイトには飛ばず、各サイトのアップデートの日時だけ見て、
そして、下記の人と旦那さんの名前を私はごっちゃにしてることを再確認します。

真島ヒロ原画展 画業20周年記念 20th ANNIVERSARY
http://mashima-hiro.gengaten.com/

いもがら(ずいき)を煮たのを見て、里芋でも出来ると思いこんでましたら、
ヤツガシラしか芋殻(芋茎)にならんそうで、物知らずが一つ増えました。

まあまあよい一日でした。寝ます。