藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

日本はディズニーランドになった。

猪瀬さんのコラムより。

73年前の敗戦のあと、日本は軍備の増強に力を入れず、経済成長に専念したため、空前の平和と繁栄を享受した、と一般には考えられている。
この国家戦略は「吉田ドクトリン」と呼ばれている。

結局戦後73年を経て、未だに大戦を総括できていない日本。
もう戦争を知る人も少なく、「原因と結果」については後世のために幾つかの定説が必要だと思う。
(結局自分も戦争を知らない一人だ)

そこで吉田がたどり着いたのが、「弱いウサギは、長く大きな耳を持たなければならない」という考えだった。
つまり独自の情報機関を持ち、情報の力を充実することで国際環境に対応すべきだということだった。

軍部の巨大化と暴走が戦争の緒を作った。
その原因を作らぬためには「情報力がいる」というのは慧眼というしかない。
残念なのは

吉田ドクトリンは、経済成長ということでは成功したかもしれないが、戦前型の巨大な軍ではなく軽武装でしかも自力で国際社会に立っていくという構想の面では未完に終わった。そして、そのまま冷戦の終了を迎えてしまった。

その結果、何が起きたか。
日本はディズニーランドになってしまっていた。
リアルな世界認識、ものの考え方といったものがそこにはない。
だから冷戦終了後、「普通の国」が叫ばれ、小沢一郎が、国連協力軍、PKO、PKFなどといっても、誰もピンとこなかった。

このことについては、三島由紀夫が1970年、自決する少し前に予言を残している。

「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(『産経新聞』昭和45年7月7日付)。

原因はわかったような気がするけれど。
だったら自分たちの国はどうにかしなければいけいない。
夢の国が破綻したら、ゼロからの作り直しが待っているだろう。
それがいいのかもしれないけれど。

戦後73年、吉田茂の「軽軍備国家論」から考えるもう一つの敗戦

8/15(水) 11:00配信

写真:現代ビジネス

国家社会主義拒否としての吉田ドクトリン

 73年前の敗戦のあと、日本は軍備の増強に力を入れず、経済成長に専念したため、空前の平和と繁栄を享受した、と一般には考えられている。

この国家戦略は「吉田ドクトリン」と呼ばれている。敗戦後、昭和20年代に7年2カ月にわたり首相の座にあった吉田茂は、旧陸軍の復活を徹底して嫌い、GHQの圧力をはねのけて、現在に至る軽武装国家の道筋を作りあげた。

しかし、これは吉田が当初、構想した通りのものなのだろうか。

吉田が明らかに目指したのは、占領が終わり、GHQが去った後、戦前のような強大な軍隊に頼らず、軽武装でも自立して国際社会の中で生きていける国家構想だったはずだが、実は、それは未完のままではないのか。

戦後すぐ、アメリカとソ連による冷戦体制が出来上がり、1950(昭和25)年、まだ日本が占領下の段階で朝鮮戦争が始まったことが一つの契機だった。

マッカーサーの命で、吉田政権は7万5000人規模の警察予備隊を創設した。再軍備の始まりである。その後、GHQは、さらに30万人規模に増強しろと圧力をかけてきた。しかし、吉田はこれには断固、抵抗した。

吉田は、陸軍と共産主義全体主義がなじみやすいと考えていた。

そもそも戦前の大政翼賛会は、簡単に言えば、ソ連ナチス・ドイツと同じように、一党独裁によって、意思決定を早くし、総力戦体制を作りあげていくことを目指したものだった。

だが、大政翼賛会は張子の虎で、日本では政党主導は実現しなかった。

吉田は、基本的には陸軍は国家社会主義的とみていた。その国家社会主義のもつ毒素により、中国で戦線を拡大してしまったり、太平洋戦争をはじめてしまった。英米派であるにとっては受け入れがたい成り行きだった。

マッカーサーに言われたように、朝鮮戦争再軍備の規模を30万人にしたうえ、大陸に派遣したら、絶対に戦前と同じことが起きてしまう。過去の経験からも大陸派遣軍の統制が効かなくなる。そういう恐れがあったから、マッカーサーであろうが、従うわけにはいかなかった。

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吉田茂軽武装国家論の本質

 それでは、要するに、吉田の軽武装論とは何であったのか。

経済復興のために軍備に投資をしていられないという事情は一つあった。

けれど、同時に、吉田は国家社会主義嫌いだった。旧陸軍の連中に再軍備をやらせたら、絶対、国家社会主義が復活する。この国家社会主義復権を恐れてマッカーサーに抵抗する。

統制の効かない陸軍が国家社会主義を作り上げてしまうことの怖さをブルジョアである吉田は分かっていた。

経済合理主義よりもこちらの方が大きな理由だった。

しかし、隣国で戦争が起きるような、冷戦対立の最前線にある東アジアで、強い軍事力に頼らず、いかにして自国の自立と安全を確保するのか。講和、主権回復は目前に迫っていた。

そこで吉田がたどり着いたのが、「弱いウサギは、長く大きな耳を持たなければならない」という考えだった。つまり独自の情報機関を持ち、情報の力を充実することで国際環境に対応すべきだということだった。

7万5000人の軍隊はしょうがないが、30万人に増強ずるのは抵抗する。それを埋め合わせるかたちで、日本版CIAを作らなければならない、というところに行き着いた。

日本版CIA構想の挫折

 GHQは占領期間中、参謀第2部(G2)のウィロビー部長が中心になって諜報活動を行い、キャノン機関など工作機関ももっていた。しかし、これらの活動も、占領終了とともに一回おしまいになる。

そこで、その代替をつくる動きが始まった。アメリカは戦後まもなく、大戦中の諜報機関を改編して中央情報局(CIA)を設立しており、それを参考にしようとした。この構想を仮に日本版CIAと呼ぼう。

この日本版CIA構想は、駐英武官の頃から吉田茂と親交があり、対米英開戦反対派だった辰巳栄一・元陸軍中将がウィロビーを吉田に引き合わせるかたちで始まった。

吉田は、この構想を緒方竹虎内閣官房長官に任せた。しかし緒方がこの構想を打ち出すと戦前の復活だとして、一気に反対の世論が広がってしまった。そして構想は国会で潰されてしまう。緒方は、戦時中、小磯国昭内閣で情報局総裁の立場にあった。このイメージが強かったこともマイナスとなった。

結局、設置法を通すことができなかったので、政令内閣官房調査室(のちの内閣調査室)を作ることになった。初代室長はウィロビーたちの推薦もあり、警察官僚の村井順が就いた。

村井は熱意を持って活動したが、しかし、様々な事情で日本版CIAにまで育て上げるには至らず、挫折する。

まず、アメリカのCIAから情報をもらおうとするなら、こちらの組織もバーターできる独自情報を持っていなければならない。

当時は、戦前に大陸にばらまいてあった諜報網がまだ生き残っていた。いうまでもなく、アメリカが一番知りたいのはソ連、共産中国の情報だった。占領期間中は辰巳を始め旧軍関係者が、ウィロビーたちに協力し、情報を供与していた。この中国情報と交換でアメリカCIAから情報提供を受けるというところまで話は進んでいた。

ところが、敗戦前からの遺産は、時がたつにつれ、だんだんと失われていくものだ。結局、時間がかかりすぎたことでアメリカ側から見ての魅力が薄れていってしまった。

そしてもう一つ、決定的なことに日本には秘密保護法がなかった。国家公務員法での取り締まりでは弱すぎる。だから日本は情報漏洩の危険性が高く、情報をバーターできないとアメリカのCIAは判断した。

アレン・ダレス(ジョン・フォスター・ダレス国務長官の弟)がCIA長官だったときのことだ。

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初代内調室長・村井順、陰謀により失脚

 かなりギリギリまで接点を持ってはいたようだが、最後に村井が政治的にはめられて失脚することで挫折する。

外務省の中にソ連のスパイがいて、海外出張時に村井が偽ドルの大量保持を理由にトラブルに巻き込まれたという情報を流される。当時、日本の官僚機構にソ連に洗脳されたスパイが入っていた。

また、外務省も内調が対外情報の分野に入り込んでくることに、強い警戒感を持っていた。

国際的な情報サークルでバーターできる独自情報の不足、関連法案の不備、縦割りの省庁間の足の引っ張り合い、これらは未だに日本で情報機関を充実させようという際の宿痾となっている。

結局、「弱いウサギは、長くて大きな耳を持つ」という構想は頓挫してしまう。頓挫したまま、今日に至っている。

現在も内調はあるし、警察も、公安調査庁もあるけれど、対外情報については、収集、調査、研究まで。結局、その程度のものしか日本は維持できなかった。他国並みの国際情勢に対する独自情報機関は持てなかったのだ。

そのため、軽武装の代わりに充実した情報能力を備えるという、吉田茂の戦後安全保障構想は完成しなかったといえる。

今も自衛隊憲法上、日陰の身になったままだ。そしてそれを補完するはずの日本版CIAは挫折したまま。

最近になって共謀法成立などといっているが、あの程度の中途半端なものでは、まだ海外の情報サークルの中に入れてはもらえない。

安全保障体制の自立ということについて、安倍首相はいろいろ発言しているが、しっかりと歴史的な総括をして、詰めてしゃべっているとは思えない。

三島由紀夫の予言

 アメリカを始め、国際環境と日本では、情報面で圧倒的な差ができてしまっている。
しかし、それでも日本が戦後、大きな戦争にも巻き込まれず平和を維持できたのは、吉田ドクトリンの軽武装主義や平和憲法のおかげであるという声が未だに日本では強い。

だが、それで平和だったわけではない。あくまで冷戦期だったからである。局地戦争以外の大国同士の軍事的衝突が起きなかったからだ。

吉田ドクトリンは、経済成長ということでは成功したかもしれないが、戦前型の巨大な軍ではなく軽武装でしかも自力で国際社会に立っていくという構想の面では未完に終わった。そして、そのまま冷戦の終了を迎えてしまった。

その結果、何が起きたか。日本はディズニーランドになってしまっていた。リアルな世界認識、ものの考え方といったものがそこにはない。

だから冷戦終了後、「普通の国」が叫ばれ、小沢一郎が、国連協力軍、PKO、PKFなどといっても、誰もピンとこなかった。

このことについては、三島由紀夫が1970年、自決する少し前に予言を残している。

「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(『産経新聞』昭和45年7月7日付)。

まさにその通りになった。そのまま冷戦崩壊を迎えたときに、世の中が弱肉強食の世界であることについての感覚が日本人はゼロになっていた。

生存本能を喪失しているから、ディズニーランド、つまり仮想世界だといえる。

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そしてディズニーランド国家が残った

 振り返ると、日本は古代、飛鳥時代白村江の戦いで敗れ、海外から撤収した後、律令時代に、制度上、軍隊の規定をつくるが、律令自体が厳密には機能せず、事実上、その後、公の対外的な軍隊、つまり国防軍が存在しない国家となった。

平安時代以降に現れる武士の軍団はどこまで行っても私兵、自分の縄張りを仕切るための武力で今の暴力団のような存在だった。

厳密な意味での国防軍が存在しないというのが日本の歴史だったのである。

幕末、黒船来航で国防意識が高まり内戦も起きるが、幕府を始めほとんどの藩が国防に役立つ軍を作り得なかった。

欧米列強が植民地化を広げていく弱肉強食の世界が、19世紀の世界である。日本は、その中でなんとかかろうじて国家として自主性を、国防軍を育て国民国家となることで確立しようとした。

それまでの歴史を考えると、明治維新から昭和20年までは異例だったことになる。国防という意識が発生して終焉するまで、たかだか80年しかなかった。

戦後は、国防はアメリカに任せることになった。しかし、それでも国際社会の中で生き残れるよう、吉田茂が本当は構想していた、弱いウサギだが長く大きな耳を持つという軽武装国家構想は、じつは挫折している。

冷戦崩壊した段階で諜報機関をつくればよかった。しかし、ディズニーランドのなかでは、そういう意識を持つことはなかった。

安倍首相や、その周辺の右派と呼ばれる人々は、安全保障上の危機感をファナティックにあおっている。だが、それは現実的な歴史理解の上に立ってのことだろうか。

吉田茂が追及した、戦前のあり方と決別した安全保障政策の苦闘を踏まえているならば、別な議論が出てくるはずだ。

しかし、右も左も狭いサークルの中での変な知識だけがグルグル廻っている。あまりのレベルが低くて情けない。これもまたディズニーランドとおなじ、リアルの存在しない世界の中の議論なのである。

現在の日本がどう生きていくかという、リアルな視点はいずれにしてもないのである。

(参考:猪瀬直樹『民警』扶桑社、2016)