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ローマ帝国

(社会)
ろーまていこく

Imperium Romanum(羅)

概略

狭義には「古代ローマの歴史の内、オクタヴィアヌスが内乱を終わらせて、元老院よりアウグストゥスの称号を贈られて以降のこと」。いわゆる帝政ローマの同義語である。帝政は「元首政」などと呼ばれる前半と「専制君主政」などと呼ばれる後半とに分かれる。
いわゆる広義の(本来の?)帝国、「複数の文化や民族を統治する支配体制」としてであれば、それ以前の共和制の時代から「帝国」であったと見なされる。この場合をどこで区切るかは難しいが、制度的にはシチリア(シキリア)を最初の属州と支配して以後、とするのが分かりやすいか*1

共和制ローマは「帝国」としての「成功」によって社会の変質を来たし、グラックス兄弟の改革の挫折とマリウスの軍制改革を経て「内乱の一世紀」に突入する。内乱の最終勝者となったオクタヴィアヌスは、共和制の形式を最大限に尊重し、非常大権を返還したが、代わりに「アウグストゥス」の尊称を送られ、元老院の第一人者(プリンケプス)となり、さらに護民官職権*2最高神祇官*3、プロコンスル指揮権*4などを一身に得て事実上の最高権力者となった。以後の歴代皇帝も、基本的にはこのような複数の称号や権限の下に統治を行った。

その後

帝国西部の滅亡をもってローマ帝国の滅亡と通常はみなされているが、帝国東部がビザンツと呼ぶべき中世的ギリシア帝国としての独自の性格を持つようになるのは長い連続的な経過であって、この時点をもって明確に区切ることはできない。

帝国西部ではその後、ローマ皇帝はキリスト教徒の守護者としてローマ教皇に任命権があるという教会の解釈が通用し、その権威付けのもとにフランク王カールが戴冠して皇帝を名乗った。その後、分裂したフランク東部の王オットーが戴冠して、以後ドイツは神聖ローマ帝国と称し*5王権をローマ皇帝権の記憶によって権威づけた。

 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケプス(第1の市民)」の称号を(紀元前29年)、ついで「アウグストゥス(尊厳なるもの)」の称号を前27年に送った。アウグストゥス(オクタヴィアヌスは以後アウグストゥスと呼ばれるようになる)は軍隊の命令権、護民官の職権、宣戦・講和の大権、コンスルの指名権などあらゆる権限を握ったが、養父カエサルの失敗に鑑み共和政の伝統を尊重し、属州は元老院と分けて統治するなど元老院との共同統治の形を取った。

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/29-rome4.html

*1:http://www.augustus.to/mamechishiki/roman_empire.htmlなどを参照。もちろん「属州」に注目せず、他の、例えばポエニ戦争における勝利とか、市民権の拡大とか、「いや、都市国家の時代が終わったら帝国だろ」とかで区切ると主張することも可能である

*2:形式上は一年限りだが、異論ない限り自動更新されることになっていた

*3:もともと終身職であったため、レピドゥスの死後に就任

*4:proconsular imperium。本来の意味は文字通りプロコンスルとしてのインペリウムだったが、実質的には軍事上の最高権となった

*5:厳密にはSacrum Romanum Imperiumと名乗るのはもう少し後の話である。また、ドイツ王位とローマ皇帝位は同一のものではなかった

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