会津松平氏の開祖。名君として知られる。 徳川秀忠の四男として生まれるが認知されず、見性院の養育を受け、その後保科正光の養子となる。 実父の認知は受けられなかったものの、異母兄徳川家光は正之を弟として処遇し、信濃高遠3万石から出羽山形20万石、さらに陸奥会津23万石へと引き立てた。 さらに家光の遺命により、四代将軍徳川家綱の後見として幕政に携わった。
孟嘗君(1)【電子書籍】[ 宮城谷昌光 ]価格: 704 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 5月5日に斉の君主の子田嬰に子が生れたが、奇数が重なる日(重陽)は縁起が悪いとして「殺せ」と命じる。庭師の僕延は子を匿うため、射弥に田嬰邸への潜入を命じる。射弥の家に行くと、射弥は君主の息女を既に匿っていたが、僅かな隙に射弥は殺され、赤子2人の姿は消えていた。 同じ頃。太子の妾だった風麗は、太子の子を産んだことにするために、赤子を1人捜して欲しいと兄の風洪に頼む。風洪は遊里に行くと、隣室から射弥という男の家を襲って赤子を殺す計画を聞いてしまい、赤子をもらおうとして現場に潜入する。2人いる赤子の内の男児を…
『逃げ上手の若君』四巻より 今回は『逃げ上手の若君』四巻26話に登場した、保科弥三郎(ほしなやさぶろう)を深掘りしていきます。 ※『逃げ上手の若君』四巻のネタバレを含みます。 保科弥三郎(ほしなやさぶろう)の時代 目次 保科弥三郎(ほしな やさぶろう)とは? 保科弥三郎(ほしな やさぶろう)は実在する? 保科弥三郎(ほしな やさぶろう)の子孫は? 保科弥三郎(ほしな やさぶろう)とは? 『逃げ上手の若君』四巻より 保科弥三郎(ほしなやさぶろう)は北信濃の小領主として登場します。 信濃国中井郡に保科(現在の長野県長野市若穂保科)という地名があり、保科氏はこの地域の領主だったようです。 北信濃は小…
江戸を造った男【電子書籍】[ 伊東潤 ]価格: 1426 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 伊勢の貧農に生まれた七兵衛(後の河村瑞賢)は、江戸で一旗揚げようと独立するが、元手がなくて商売がうまくいかない。身投げしようと品川沖をボンヤリ眺めていると、盆の供養で飾られた瓜や茄子が流れるのを見つける。これを漬物にして職人に売り歩くと、儲けが出た。その元手で材木屋を営むと、明暦の大火の折には飛騨の材木を買い占めて、莫大な利益を得る。儲けた金で七兵衛は、焼き出された人を相手に粥の炊き出しを行なった。 七兵衛自身も子を失った。大量の死者が放置されて腐敗し、腐臭もあり疫病の心配も出てきたが、幕閣は手が回らな…
定信(さだのぶ)に顰(ひそみ)に倣うと言わしめた正之公の生きざま清(すが)し 私は、数多い歴史人物の中で、保科正之(ほしなまさゆき)という人が大好きです。是非ともNHKの大河ドラマに採り上げてほしいと願っています。しかし、知っている人は知っているけれど、その名前すら知らない人も多いでしょう。学校の歴史の授業でも、殆ど教えられることはありませんし、試験にも出題されません。 保科正之は、3代将軍・徳川家光の弟です。2代将軍秀忠が側室に生ませた子で、正室お江与の方の嫉妬が凄まじいものだから、こっそり保科家へ養子に出されたのです。だから、家光も将軍になるまで、その弟の存在を知りませんでした。弟は弟で、…
戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。 「戦国ヒストリー」は、丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジンといううたい文句で、戦国時代を中心に源平時代から近現代史まで、時代もジャンルもバラエティに富んだサイトです。 sengoku-his.com 今回の掲載コラムご紹介は「徳川秀忠の隠し子だった保科正之を救った育ての父と母」です。 大河ドラマ「どうする家康」にも登場した徳川2代将軍の秀忠。正室の江は、姉さん女房でたいへんな悋気持ちだったと言われていま…
桜雲橋と桜 向こう側が本丸 by:photo-ac 121回目です。 今回は、長野県の高遠城と参りましょう。 高遠城は小さな城郭ですが、要塞堅固な名城として名を馳せた平山城でした。 残念なことに遺構はほんどありません。 しかし、旧藩士たちが植えた約1500本のタカトウコヒガンザクラで有名な、桜の花がとてもよく似合う名城です。 別称は兜山(かぶとやま)城、甲山(かぶとやま)城。 「日本100名城」(第30番)に選定、国の史跡にも指定されています。 私が高遠城へ登城したのは、2002年4月20日のことでした。 このときは、有名なタカトウコヒガンザクラを観にいくパック旅行で妻と一緒だったのですが、残…
江戸の町を壊滅させた明暦の大火 徳川幕府の元で急速に発展を遂げた江戸の町。しかしそれが実は極めて危ういものだったことが判明したのが明暦の大火。防災などという考え自体がなかった江戸の町は、江戸城を初めとして丸焼けになって10万人以上の犠牲者を出した。この事態の収拾に当たった保科正之は、ここで幕府の基本政策の大転換につながる画期的な決断を行ったという。保科正之の決断とは。 1657年(明暦3年)1月18日、「むさしあぶみ」という作家の浅井了意が書き残した記録によると、この日は北西の強風が吹いていたという。江戸では雨が降らずに乾燥した日が続いていたという。そこで異変が発生する。午後2時過ぎに本郷の本…
10年モノ間愛聴しているNHKラジオの『DJ日本史』なんだけど、なんと長野県で公開放送があるとのコトを放送内で話してて、なんで高遠なんて遠くでやるんだろ‥って思ってたけど、申し込んでいたらメールで当選返信が来た‥。やったっ!去年に長野市での『鑑定団』イベントに落選してて落胆してたのでかなり嬉しかった‥。ちなみに『鑑定団』は在宅の二人で観てるけど、『DJ日本史』はボクはジョギング中に聴いてるのでウチの助役サマは聴いてない‥。 「当たったよっ!11日日曜日明けといて‥ソースカツ丼食べてから行くかな‥」って宣言。「え~っ!」って言ってたけど、いろいろ調べてた様子で、「保科正之って知ってる?」って‥な…
「什の掟」
はじめに 土津神社 夏詣参拝🌿花手水や茅の輪くぐりも 土津神社の『星』モチーフ 美しいお守り&御朱印をいただく おわりに はじめに 先日猪苗代町の土津神社(はにつじんじゃ)を参拝しました。 土津神社は会津松平家の始祖 保科正之公を御祭神としている神社です。こちらを訪れるのは昨年秋以来。 紅葉の時期には混雑していましたが、今の時期は比較的空いていてゆっくりお参りすることができました。 土津神社 夏詣参拝🌿花手水や茅の輪くぐりも 立派。土津神社に来た!という感じで好きな風景です✨ 木々の緑が濃くなり良い雰囲気の境内。 木に壮大な穴。リスとか住んでないかな? 茅の輪くぐりをやっていました。 花手水✨…