南北朝時代の公卿・武将。北畠親房の嫡男。
元弘三年(1333)、参議右中将でありながら後醍醐天皇たっての要請により陸奥守に任ぜられ、義良親王を奉じて父とともに下向。
建武二年(1335)、鎮守府将軍に任ぜられ、叛旗を翻した足利尊氏を追って鎌倉そして京へ進軍。足利尊氏を九州へ追い落とし、その功により権中納言に任ぜられた。
しかし奥州に帰還すると情勢は悪化しており、本拠を多賀城から霊山に移して足利方との戦いの日々が続いた。
建武四年(1337)、北陸の新田義貞軍と奥州の北畠軍を糾合して都の奪還を図る後醍醐天皇の要請に応じて再び奥州を発向。
連戦連勝ではあったが、鎌倉占拠には時間がかかり、美濃不破関を突破出来ず伊勢路をとるなど苦しい戦いが続く中、最後は和泉堺浦・石津での高師直軍との戦いで戦死。享年21歳。