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大杉栄

(読書)
おおすぎさかえ

思想家、作家、社会運動家、アナキスト。(1885年1月17日 - 1923年9月16日)
甘粕事件で殺害された。

経歴

 父の大杉東は軍人、香川県丸亀で生れ幼少年期のほとんどは新発田で過ごす。1899年名古屋地方幼年学校に14歳で入学。学校内で奔放な生活を送り、1901年退学処分。

 1902年、語学を学ぶため東京へ、下宿先で谷中村の鉱毒事件への追及運動に触れ「万朝報」を購読し軍隊外の社会を知り、幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に共鳴。頻繁に平民社に出入りする。
 1906年3月、電車値上反対の市民大会に参加、兇徒聚集罪により逮捕、6月に保釈。同年11月には『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴され、
 1908年1月17日、いわゆる屋上演説事件で治安警察法違反による逮捕、
 同年6月22日、神田錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘でまたもや逮捕、赤旗事件と呼ばれる。2年半近くの刑務所生活を送る。 獄中で語学、アナキズムを学習。
 1910年9月、千葉刑務所から東京監獄に移され、幸徳秋水らの大逆事件に関連した取調べを受けるも、11月に出所。
 1911年1月24日、幸徳たちは処刑され社会主義運動は一時的に後退するなか、大杉は荒畑寒村とともに  1912年10月『近代思想』、1914年10月『平民新聞』を発刊し定例の研究会を開き運動を広げようとする。
 1916年、伊藤野枝と恋愛。以前からの恋愛相手であった神近市子から11月に刺されるという日陰茶屋事件により同志たちから完全に孤立。
 1917年9月、長女魔子が誕生。村木源次郎だけは大杉の家に同居し手伝う。野枝と『文明批評』を創刊。和田久太郎、久板卯之助も大杉と行動を共にし1918年2月、研究会も再び開き、サンジカリズムの立場で労働運動への影響を強める。
 1919年1月、近藤憲二らが主催し、毎回労働者も参集していた北風会と研究会を合同、
 機関紙『労働運動』を10月に創刊。拠点となる労働運動社に仲間たちが集まる。

 1920年、クロポトキンの著作翻訳、コミンテルンから「密使」の訪問があり、10月、密かに日本を脱出、上海で開かれた社会主義者の集まりに参加。12月9日、社会主義者同盟結成に向かい鎌倉の大杉宅に地方らの出席者を中心に40名余り集まる。

 1921年1月、コミンテルンからの資金でアナボル共同の機関紙としての『労働運動』(第二次)を刊行、6月、ボルの井伊たちの裏切りもあり共同路線が破綻し『労働運動』紙は13号で廃刊。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる。

 1922年、信友会有志、労働運動社の同志とともに全国労働組合総連合会発足に努力するが9月30日、サンジカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在し結成は失敗、アナ・ボル論争は激化。12月、翌年にベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出し、上海経由でフランスに向かう。アジアでのアナキストの連合も意図し上海、フランスで中国のアナキストたちと会談を重ねる。

 1923年、大会がたびたび延期され大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られ、強制送還、7月11日神戸に戻る。滞仏中から滞在記が発表され後に『日本脱出記』としてまとめられる。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇。

 9月16日、柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の橘宗一と共に甘粕ら憲兵に連行され虐殺される。

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