明治39年末から明治40年はじめごろにかけて、島村抱月と中島孤島の論争が起きて以来、しばらく公的な場での論争はなく、その争いは幕を引いたかのように思われた。 しかし、それから約1年が経過した明治41年2月頃、文壇にある問題が持ち上がったことがきっかけとなり、中島孤島の批判が再び島村抱月に向うことになる。 その「問題」とは新聞「日本(にっぽん)」に掲載された「文壇廓清問題」である。「廓清」とは、「悪いものを取り払って清める」という意味であり、すなわち「文壇における悪いものを一掃すべし」という趣旨の告発記事であった。 記事の中でまず対象として挙げられたのは、まず眞山靑果という作家の「原稿多重売り問…