1847-1889 薩摩藩出身
明治新政府の外交官、初代文部大臣。明六社の結成メンバーの一人。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/204.html?c=0
森有礼・・・(1847~1889年)薩摩藩出身の政治家。初代文部大臣。一橋大学を創設した、明治六大教育家の一人。「良妻賢母教育こそ国是とすべき」と、女子教育にも力を入れた。
人神信仰の歴史民俗学的研究岩田書院Amazon ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 大名になった下級武士・足軽。 武士になった庶民(百姓と町人)・外国人。 朝鮮人は、皇族待遇を受け、政治家、高級将校、知事になり、そして日本の神となった。 ・ ・ ・ 日本の身分制度は中華儒教(朱子学)に毒される事なく柔軟で流動性があった。 ・ ・ ・ <天下人> ・豊臣秀吉…貧しい百姓の子であったが由緒ある近衛家の養子に入り天下人となり、藤原氏でなければなれなかっい関白・太閤に出世した。 身分卑しき出であったが、新たに豊臣の姓を与えら…
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); こんにちは! 今日は、四大学英語劇大会について紹介したいと思います! 四大学英語劇大会とは、四大学英語会連盟が主催する、英語劇のコンテストです。 四大学英語劇大会に選ばれたのは、 一橋大学 慶應義塾大学 立教大学 早稲田大学 の4つの大学です。 それぞれ簡単に紹介したいと思います! 一橋大学 一橋大学とは、国立大学法人。 前身は 1875年、森有礼を中心として創設された商法講習所。 1884年、東京商業学校となる。 1887年、高等商業学校と改称。 1920年、大学令によって東京商科大学となり…
面白いです。 歴史に弱い私でも読めました。 肩肘張らずに読めます。 この本は、GHQ「焚書」扱いされましたが、心ある人達が残しておいてくれたのを見つけて出版されたものです。 本の帯に GHQが禁じた明治日本の真の姿 西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文… 激動の時代を駆け抜けた男たちは 何を思い、何を目指して生きていたのか と書かれています。 これが全てです。 ・・・・・・・・・・ [復刻版] 大衆明治史(上)菊池 寛著(ダイレクト出版) ー建設期の明治ー 第1章 廃藩置県 版籍奉還の上表 上表:君主に文書を奉ること。またその文書。上書。 維新史のピリオドを打つのは、明治四年の廃藩置県と云ってよいだ…
津田梅子 という方をご存知でしょうか。 明治4年に6歳で日本初の女子留学生として11年間アメリカに渡り、その後は女子教育の先駆者として日本で活躍をした人です。 津田梅子が設立した「女子英学塾」は現在の津田塾大学の前身です。 2024年から発行される新5000円札の顔として描かれることが決定していることもあり、今回スペシャルドラマとしてその生涯がドラマ化されました。
皆様、こんにちは。TOSHIXXXです。 先週金曜日から北京パラリンピックが始まりましたね。ただ残念なことに、ロシアとベラルーシの選手が排除され、そもそも平和の祭典という大前提を、トチ狂った独裁者に全く無視されながらの開催・・・。正直、胸が痛いです。 そんな中、昨日はウクライナの選手が大活躍でメダルラッシュ。口々に彼等が声にしていた祖国への愛と世界平和。我々は下を向くことなく、ただ現実からは目を背けることなく、しっかりと歩んでいかなければならないですね。 それでは昨夜放送された、広瀬すずさん主演のテレ朝スペシャルドラマ「津田梅子~お札になった留学生」の感想をアップしたいと思います! 1.ラスト…
3月5日放送のドラマ『津田梅子~お札になった留学生~』に、元雪組トップ娘役のみゆ姫(咲妃みゆさん)がご出演されてましたね。
引用:https://www.tv-asahi.co.jp/tsudaumeko/ スペシャルドラマ『津田梅子〜お札になった留学生〜』では、山川捨松の結婚が歴史の常識をくつがえすものだったので、その理由について詳しく紹介しましょう。
タイトル 「津田梅子 お札になった留学生」 放送日 2022年3月5日 公式サイト https://www.tv-asahi.co.jp/tsudaumeko/ 出演者 広瀬すず(津田梅) 原田美枝子(津田梅、晩年) 伊藤英明(津田仙、梅の父) 内田有紀(津田初、梅の母) 池田エライザ(山川捨松、留学生) 佐久間由衣(永井繁、留学生) 宮澤エマ(吉益亮、留学生) 井之脇海(神田乃武、留学経験を持つ帝国大学教授) 田中圭(伊藤博文) ディーン・フジオカ(森有礼) 平岩紙(下田歌子、桃夭女塾(のちの実践女子大学)創設者) あらすじ 明治4年、6歳の津田梅は尊敬する父・仙のすすめで、日本初の女子留学…
前回の最後に、福沢諭吉の「苦渋」と書いた。 ジャーナリストで思想家で教育者で、さまざまな肩書をもつ福沢だが、本業は学校経営者である。 念頭に、緒方洪庵とその適塾があったことは『福翁自伝』からもうかがいしれる。幕末、官軍東征の際ですら、一日も慶應義塾を休むことはなかったという逸話は、門下生の名誉であり、福沢の本懐であったろう。 福沢が私学にこだわったのは、「学問」が国家や権力の圧力によって歪曲されてはならず、「自由」でなければならないという自身の思想による。よって、慶應義塾が三田に私学として在り続けることは思想の実践であった。 そしてその実践のなかで〈経営〉ほど実践的なものはないだろう。 清談や…
明六社 明治6年にできたから明六社という。 横文字の専門家のあつまりだからと言って、妙な片仮名を使わなかったのはよかった。 この明六社が出版した雑誌を『明六雑誌』という。 「社」が「雑誌」を「出版」する草分けである。旧四六判という小冊子の体裁も、新しかった。明六社じたいが西洋の学会に倣ったものだから、会誌もそれに準じた大きさなのである。 後続の雑誌はみなその新しさを真似した。 だから、明治の10年くらいまでの雑誌はこの旧四六判が多い。今の新書サイズより一回りほど大きいものになる。 また、明六社は、主宰した「演説会」で知られる。日本における講演会、演説会の、これも事はじめである。その初めの初めは…
木尾先生は、或る山国の地方の中学教師だった。教師と云っても体操科のー一生をそれで終わったのである。 然し生徒達は、誰も先生の本姓を呼ぶ者はなかった。みんなペッカア(啄木鳥)と云う符号で呼んだ。 その奇妙な綽名(あだな)は、あきらかに容貌に拠っていたらしかった。先生は割合顔が小さく細長く頬がやせこけていた、そのせいか、口の部分が丁度犬や狐のそれのように特口形(とっこうがた)をしていた、その特徴は、先生が口を開いてまさに物を云おうとするとき殊に著しかった。(中略) 先生はどの生徒からも馬鹿にされていた。 一つには、それは先生の頗(すこぶ)るあがらない風采から来ていた。あの突口のほか、先生はいつも質…
◆【経営コンサルタントの独り言】 誰が大福帳から簿記にしたのでしょうか? 210 平素は、ご愛読をありがとうございます。 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うブログで、毎日複数回つぶやいています。 ■ 誰が大福帳から簿記にしたのでしょうか? 210 簿記は、経理会計の基本です。 経営コンサルタントを目指す人でさえ、簿記は苦手といいますので、多くのビジネスパーソンも同様ではないでしょうか。 しかし、借り方とか仕方の関係がわかると、決算書を読めるようになったり、経営数字がなんとなくわかるようになります。 簿記を日本に持ち帰ったのは、咸臨…
#今日は何の日 2/11 1856江戸幕府が洋学の教育・研究機関「蕃書調所」を設立。 1873スペイン国王アマデオ1世が退位し、スペイン第一共和政が成立。 1875大阪会議。大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪で会談し政治改革について協定。 1889「皇室典範」制定 1889伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣・森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。 1889陸羯南らが日刊新聞『日本』を創刊。 1890軍人・軍属の戦功に対して与えられる「金鵄勲章」が制定される。 1892福島安正少佐がシベリア単騎横断を目指してベルリンを出発。翌年6月に日本に到着。 1903…
明治維新以後、日本における外国人を中心とした日本研究の学術団体が日本アジア協会です。1872年設立で、現在も活動しています。 日本アジア協会の設立経緯を見てみたいと思います。 外国人の日本に関する情報収集、本国への送信、研究活動をみてみると、幕末のいわゆる開国前は、17世紀前半以前のイエズス会士から本国に送られた書簡、レポートを中心としたもの、17世紀後半以後のおもにオランダ商館関係者の著作からの英訳、仏訳、独訳(オランダ商館長日記、書簡など)があります。これらはまた別稿でつづります。 1853 年 ペリー来航の後、開港すると1859 年 横浜・長崎・函館で英米国人による日本語学習 がはじまり…
#今日は何の日 2/6 1778 フランス王ルイ16世とアメリカ代表ベンジャミン・フランクリンが友好条約に調印。フランスがアメリカの独立を承認し、独立戦争に参戦。 1819 イギリスのインド副総督ラッフルズがシンガポールの族長と商館開設などの条約を締結。イギリスの東洋進出の拠点とする。 1820 アフリカ系アメリカ人によるリベリアへの入植が始る。 1840 ニュージーランド北島のマオリ族とイギリス政府が「ワイタンギ条約」を締結。ニュージーランドがイギリスの植民地に。 1862 ヘンリー砦の戦い。北軍が南北戦争で初勝利。 1874 明治政府が台湾出兵を閣議決定。 1875 外交官・森有礼が日本で…