戦国時代の武将・真田信繁(源次郎信繁)の通称。1567年〜1615年。
父の真田昌幸は、武田家に仕えるが、武田家が滅びると独立。上田城(長野県上田市)に本拠を構える。
関ヶ原の戦いの際は、兄の真田信之は東軍に付き、真田昌幸・幸村は西軍側に付き、中山道を通った徳川秀忠の軍を足止めした。
高野山に蟄居を命じられるが抜けだし、大阪冬の陣・大阪夏の陣に参加。真田丸の砲撃や家康本陣突入などを行う。
幸村の最期は松平忠直隊の鉄砲頭・西尾宗次の銃弾を浴び死去
次男・大八と四女・阿梅は、伊達政宗の重臣・片倉重綱に保護され
大八は片倉守信と名を変えて片倉家に匿われたほか、阿梅は重綱に嫁いだ。
1712年、仙台藩主より「既に幕府を憚るに及ばず」と内命があり
正式に仙台真田家が復興した*1。
なお兄の真田信之の家系は、上田から松代十万石(現・長野市松代町)と沼田三万石(現・群馬県沼田市)
に分割・移封され、沼田藩は改易されたものの、松代藩の家系は現在まで続いている。
*1:「仙台真田系譜」