壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、その武勇により歴史に名を刻んだが、その後の運命は複雑なものとなった。義経と兄・源頼朝との関係は、義経が後白河法皇から検非違使に任命されたことをきっかけに悪化したとされている。吾妻鏡によれば、この任命は頼朝の承諾を得ずに行われ、義経は鎌倉に入ることを許されず、腰越に留め置かれた。この時、義経は自身の弁明として腰越状を書いたとされるが、それでも許されることはなく、最終的に京に引き返すこととなった。 しかし、この一連の出来事については、異なる見方も存在する。実際には義経が検非違使に任官された際、頼朝の承諾を得ていたという説もある。さらに、京都大学名誉教授の元木泰…