中国の周王朝が、宗周(鎬京)及び成周(洛陽)を首都とする大国だった時代の名称。⇔東周
紀元前1050年頃〜紀元前770年。
文王の子、武王が商王朝(殷)の末王・紂(辛・受とも)を打倒した年については諸説ある。この克殷につき、伝世する文献では以下のように伝承される。
また、近代以降の研究では以下のような数値が提出されている。
これらはさほどのずれを持たない年数であるが、実際に問題となるのは各王の年数であり、それを算出する元となるのは金文の断代である。金文の断代では林巳奈夫氏のものが最も優れている。
1829-1897
明治初期の思想家、哲学者。
石見国津和野(島根県)出身。青年時代には、朱子学、荻生徂徠を学ぶ。
1853年のペリー来航後に、洋学を学ぶために脱藩。徳川幕府の蛮書調所に入る。
1863-65年、オランダ留学。ライデン大学で学ぶ。帰国後に、幕府開成所教授。
明治維新後には、当時のヨーロッパの学術の紹介者として活躍。
著書『百一新論』(1874年)で、ヒロソヒーを「哲学」と訳す。