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西周

(地理)
せいしゅう

中国の周王朝が、宗周(鎬京)及び成周(洛陽)を首都とする大国だった時代の名称。⇔東周
紀元前1050年頃〜紀元前770年。


文王の子、武王が商王朝(殷)の末王・紂(辛・受とも)を打倒した年については諸説ある。この克殷につき、伝世する文献では以下のように伝承される。

  • 劉歆『世経』(前漢末):1122B.C.
  • 皇甫謐『帝王世紀』(西晉代):1116B.C.
  • 『古本竹書紀年』(279B.C.に出土):1027B.C.
  • 『南斉書』祥瑞志(梁):1035B.C.

また、近代以降の研究では以下のような数値が提出されている。

  • 新城新蔵『東洋天文学史研究』(1928、弘文堂書房):1066B.C.±12n年
  • 『夏商周断代工程1996-2000年階段成果報告・簡本』(2000、世界図書出版公司北京公司):1046B.C.
  • 吉本道雅「西周紀年考」(2004、『立命館文学』586号):1030B.C.


これらはさほどのずれを持たない年数であるが、実際に問題となるのは各王の年数であり、それを算出する元となるのは金文の断代である。金文の断代では林巳奈夫氏のものが最も優れている。

西周

(一般)
にしあまね

1829-1897

明治初期の思想家、哲学者。

石見国津和野(島根県)出身。青年時代には、朱子学、荻生徂徠を学ぶ。
1853年のペリー来航後に、洋学を学ぶために脱藩。徳川幕府の蛮書調所に入る。
1863-65年、オランダ留学。ライデン大学で学ぶ。帰国後に、幕府開成所教授。

明治維新後には、当時のヨーロッパの学術の紹介者として活躍。

著書『百一新論』(1874年)で、ヒロソヒーを「哲学」と訳す。

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