前回、堀江敏幸のフランスの『郊外へ』の水先案内人とでもいうべき一冊が、ドアノーの『パリ郊外』だったことにふれたので、今回はこの写真集に言及してみたい。なお日本版としてリブロポートの『パリ郊外』(堀内花子訳)を挙げておいたが、これは写真構成も異なり、また堀江がいうところのブレーズ・サンドラールの「彼自身の精髄ともいうべきすばらしい散文」も抄訳なので、ここでは主としてとしてCendrars/Doisneau, La Banlieu de Paris (Denoëi,1995)を使用する。これは1949年のセゲルス社の初版に基づき、八三年にドノエル社から新版が出され、それが版を重ねているとみなせよう。
La Banlieu de paris (1949年版)
『パリ郊外』がドアノーとサンドラールの出会いによって刊行に至ったことは、堀江の『郊外へ』にもふれられているし、私も前回既述しておいたので、今回はまず写真家ドアノーのプロフィルを提出しておきたい。ドアノーに関しては今橋英子の『〈パリ写真〉の世紀』(白水社)の中において、他ならぬ『パリ郊外』が論じられ、その第六章が「神話の縁に―ドアノー/サンドラール『パリ郊外』」に当てられてもいる。
ここで今橋はセゲルス社初版本の表紙を掲載し、八三年の新版本と異なっていることを示し、前者の収録写真が百三十枚であるのに、なぜか後者は百六枚に削られ、判型、順番、レイアウトが変更され、グラビア印刷の香りが失われているので、「作品」として参照すべきは初版本であると述べている。しかし今橋が転載している表紙のエッフェル塔と団地や住民とのコラージュ写真以外は、新版本にも収録されている。それゆえに削られた写真が何であったのかは不明だし、ここでは新版本によるしかない。
今橋はドアノーをパリ南郊の町ジャンティイに生まれた「郊外の人」と位置づけ、その郊外について、次のように述べている。
二十世紀初頭のパリの「南」郊外は、大工場のひしめき合う北部とは異なって、工場、野菜畑、低所得者層の住宅が散在する街であった。(中略)
当時ジャンティイを含むセーヌ県の人口は八十万人を超え、第一次大戦後に深刻化した住宅問題の解消のために、城壁取り壊し後、郊外には次々とHBM(=Habitations à bon marché 低所得者用団地)建設されている。小さななめし革工場からの汚水が流れ込むジャンティイのピエーヴル川や町とパリの境界に、虫食い状態のように広がる「ゾーン」こそが幼いドアノーの遊び場だったという。
「城壁」とは十九世紀半ばの七月王政期に建設された、パリを囲むティエールの城壁、「HBM」とは前々回の『憎しみ』の舞台となるHLM(=低家賃住宅)の前身、「ゾーン」も同じく説明しておいたように、城壁外の空堀から二百メートル以内の空地で、十九世紀後半のオスマンのパリ改造計画から締め出された貧民や犯罪者たちがバラックを建てて住み着く無法地帯をさしていた。
ちなみにこれはドアノーではなく、ロジェ=ヴィオレットという写真家のものだが、その「ゾーン」の住民とバラックの写真が「ゾーンの住民たち」(Les habitant de la zone)として、やはりパリ郊外の写真集Archives de la banlieue parisienne (Editions Michèle Trinckvel,1994)に収録されている。またピエーヴル川のことはドアノーのエッセイ集の邦訳版『不完全なレンズで』(堀江敏幸訳、月曜社)にその写真を見出すことができる。
これらの城壁やゾーンなどがドアノーの原風景であり、今橋は彼が十一歳の時に城壁の堀で遊ぶ子どもたちを描いた水彩画を示すと同時に、「そこは遊ぶか、セックスするか、さもなければ自殺する場所だった」というドアノーの言葉を引用している。それでいて、彼はずっとパリ郊外に住み続けた。一九一二年にジャンティイに生まれ、三四年に結婚して、その西隣の町モンルージュに家庭を設け、そこで九四年に亡くなるまで過ごした。まさに人生を郊外で全うしたのであり、『パリ郊外』の写真家にふさわしい一生だったといえる。だがそこにこそドアノーならではの郊外に対する愛憎の思いが潜んでいるのであろう。
そうしたドアノーの思いのこもった一文が日本版『パリ郊外』に収録されている。これはフランスの初版や新版にもなかったもので、「私はパリの近郊で生まれた。そして今でも生まれた場所から数キロのところに住んでいる」と始まる一文である。それを抽出してみる。
子供たちの遊び場でもあり、おとなたちにとっても戦後の一時期な混乱状態の中でその場しのぎの生活をする、空地と呼ばれる空間が、わが郊外に散りばめられていたのも、そう遠い昔の話ではない。
草むらで拾う粗末な材料はすぐとなりの都市の廃棄物だ。軽蔑をこめて「郊外居住者」と呼ばれる、都市の内側に受け入れてもらえなかった人々とよく似ていた。
私はそんな彼らとの連帯感があり、今でも自分がパリの中心に住むことなど不可能だと信じている。私の居場所などないのだ。(中略)
若い頃、どんなに私は郊外のことを醜く思っていたことだろう。そして、不潔だと。ばかげた背景の中で人々は愛すべくも不憫な存在に思えた。その実、私はわが身を自分に似た人々に投影していたにすぎなかったのだ。
原文を参照できないのが残念だが、ドアノーの口から直接にゾーンや郊外居住者のことが語られ、彼の郊外に対する愛憎の思いが伝わってくる。それから「すべてが絶望的なまでに月並みで、凡庸な生涯を収用するにはまさにうってつけ」の「灰色のアパート」や「小住宅」の消滅を願っていたことも記されている。そしてそれらがブルドーザーの一隊によって押し倒され、破壊され、大砂塵とともに消えてしまったことも。
その後に「新しい建築物」である「巣穴のたくさん掘られた切り立った崖のような、労働者が買えるための石の砦」が築かれ、四十年後にはその「労働者を整理する巨大なキャビネット」も爆薬によってなぎ倒されるに至った。それにつれて団地では、歩行者の姿を鼠色の色彩が消え、甘美な色彩で化粧された建物を多様な色の車が取り巻くようになってきている。
このようなドアノーの郊外に関する述懐は一九七〇以後のもので、ここで彼は戦前におけるバラック的なアパートや小住宅が解体され、HBMが建設され、次にそれも破壊され、カラフルなHLMへと建て替えられ、団地もまたモータリゼーションに組みこまれていった郊外の変容を物語っているのであろう。
それはまた前々回に既述しておいたように、HBMや HLMは田園都市プランに端を発するコルビュジエの都市計画の郊外での実現でもあった。その事実は今橋も明確に指摘しているが、オスマンのパリ改造計画は市内の主要街路に多くの高級アパルトマンを建築するもので、それはブルジョワたちにかつてに貴族的生活様式を提供することになり、階級の混住は追放され、労働者や貧民層は郊外へと移転せざるをえなかった。それゆえに、「〈パリ〉は〈パリ郊外〉無しには成立しない。言い換えるなら、集団想像力の場(トポス)としてあらわれる〈パリ〉は、現代都市問題や夾雑物を郊外に排除することによって、その歴史や記憶を温存し得た」ことになるのだ。
そのような視座からドアノーの『パリ郊外』を見ていると、写真は「子供たち」「愛」「景観」「日曜日と祝日」「余暇」「仕事」「ターミナル」「住居」という八つのセクションに分かれているのだが、これらの三分の一近い三十枚ほどにHBMの姿をうかがうことができる。初版の表紙写真もそうだったが、『パリ郊外』はHBMによって包囲されているとわかる。
例えば、「景観」の中に「モン=ヴァレリアンの丘」と「夏、ビストロ」があり、前者は『〈パリ写真〉の世紀』では「雨の中の噂話」と呼ばれているが、住宅街の雨の坂道でそれぞれ子供を連れた二人の女性が立ち話をしている姿、後者は街角のカフェの風景を写している。それらの「景観」は異なるけれど、いずれも奥のほうにHBMが建てられていて、ドアノーは意識してそれらを取りこんでいるとわかる。
前述した『パリ郊外』におけるプレーズ・サンドラールの序文は写真とは別仕立てで、「南」「西」「東」「北」に分けられ、そのうちの「南」において、この「夏、ビストロ」に言及し、その少し先にあった瓜二つのビストロの話を書いている。私訳してみる。
そこは城壁のブラシオン門の税関吏だった頃の画家アンリ・ルソーが食事にきていた店で、大雨の翌日にはエスカルゴを食べにきた。女将のはしこい娘たちが城壁の堀の中から拾い集めてきたからだ。ついでに彼女たちはそこらの菜園に勝手に入り、パセリやバジルなどの香辛野菜をくすねたりして、「ナメクジ」の桶と一緒に持ち帰ってきたのである。娘たちのむき出しの足はすり傷だらけで、薔薇色の血が滲んでいたが、たくし上げられた上っ張りの中にはタマネギやニンニクや人参などが詰まっていた。これもくすねてきた野菜だけれど、何とも優しい娘たちではないか。それを見て税関吏は大いに喜び、店主がルソーさんのような常連客にしか出さないという地酒を飲みながら、一山のエスカルゴを食べるのだ。その後で税関吏はメキシコ戦役で負ったふくらはぎとくるぶしの深い傷を客たちに見せて驚かせ、おもむろにいうのだった。「このおかげで、私はもうすぐ退職できるし、残りの人生を絵に捧げるつもりです……」と。
城壁と堀、ビストロとエスカルゴ、「ゾーン」の名残りを示すような娘たちのハビトゥス、そこでエスカルゴを食すアンリ・ルソーの姿が、サンドラールならでは一筆書きのような散文から浮かび上がってくる。そしてドアノーの「夏、ビストロ」という一枚の写真の中にも、それらに類する様々な郊外の物語が秘められていることを暗示させている。
そういえば、ルソーの作品に「田舎の結婚式」(Une Noce à champagne,1905)がある。ドアノーも『田舎の結婚式』 (Un Mariage à la champagne)として、二〇一三年に河出書房新社からオリジナル刊行されることになる一連の写真を撮っていた。それは一九五一年のことで、パリから南西三四〇キロのところにあるポワトゥーのサン・ソヴァン村での結婚式を記録したものだった。これを撮りながら、ドアノーは、サンドラールが『パリ郊外』で言及したルソーにも「田舎の結婚式」という絵があることを思い出していたのではないだろうか。
『田舎の結婚式』
なお今橋映子はその後『都市と郊外』(NTT出版)を編んでいる。