1Q84読中メモ通し

 1ヶ月以上にわたって、読みながらしてきたメモを自分のためにまとめてみる。最初の頃なんて何書いたか完全に忘れちゃってるし、読了した今となっては、見当違いな部分も多いだろう。
 小説自体は(青豆)と(天吾)を主人公とした章が交互に進められるが、今回のメモの編集としては、それぞれの章を連ねてみようと思う。何か、違った位相がみえてくるかな。
1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 2

1Q84読中メモ BOOK1(青豆)

第1章(青豆)見かけにだまされないように
 ちょっとしたことで世の中の位相は変わるかもしれないが、それに惑わされてはいけないと、カーステの充実した個人タクシーの運転手の青豆へのアドバイス
 プロフィールがぼやけたところから会話の中で徐々にキャラクター像が見えてくる文章のフォーカスは見事。
 1984年のBGMはやはり「ビリー・ジーン」の年だったと記憶がよみがえる。マイケル・ジャクソンムーンウォークしていた。

「〜なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくる〜」

 村上小説の会話の言葉遣いで<ちっとばかし>は今までなかったのでは。重要な語りの部分なので、文章の流れにテンションを加えたのか。

<追記>
このメモが書かれた2009年6月2日時点では、M・ジャクソンは亡くなっていなかった。


第3章(青豆)変更されたいくつかの事実
 リアリティを切り取るとそこには避けようのない性と死のイメージが伴う。青豆は『シンフォニエッタ』の旋律を底奏に忍ばせて行動してゆく。

〜部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。〜

文章の運びに心地よいテンポが出てきた。
 青豆がすれ違った風変わりな警官、制服がいくぶんカジュアルで拳銃が大型オートマチックであることを彼女は奇妙に思う。ハルキさんは知らないだろうけど、その描写を読んで多くの日本人は「こち亀」の中川を思い出すだろう、どうでもいいことだけどさ。


第5章(青豆)専門的な技能と訓練が必要とされる職業
 ホテルのバーで青豆はオトコを値踏みする。

〜それから男はふと思いついたように、カティサークはあるだろうかと尋ねた。ある、とバーテンダーは言った。悪くない、と青豆は思う。選ぶのがシーバス・リーガルや凝ったシングル・モルトでないところに好感が持てる。〜

 村上春樹的世界において意味を持つウィスキーはカティサークといつも決まっているのだ。もっとも84年当時、高級ホテルのバーでもまだ、モルトのラインナップは貧弱だった筈だが。景山民夫が、スコットランド湖水地方を訪れた時のことをエッセイにしていたが、今は日本でもお馴染みになった「グレン・モーレンジ」を<ネス湖の生一本>と称したのもその頃だ。

〜青豆はろくでもないヨットの話なんて聞きたくもなかった。ボールベアリングの歴史とか、ウクライナの鉱物資源の分布状況とか、そんな話をしていた方がまだましだ。〜

ねじまき鳥クロニクル』の中で笠原メイがイメージする「ぐにゃぐにゃしている死のかたまり」の芯には、硬い固いボールベアリングのようなモノがあったことを思い出す。
 青豆がきっと転換機をかたんと倒したパラレルワールド1Q84年では、米ソが協力して月面基地を建設中だ。


第7章(青豆)蝶を起こさないようにとても静かに
 物語はハードボイルドテイストを増し、青豆の仕事のクライアントである謎の老婦人と、巨漢のボディガードが登場する。青豆と老婦人に交わされる会話から、第3章での青豆の仕事の「発注理由」が明らかにされ、僕は一瞬、??となった。
 僕らは今コンテンツの洪水にさらされ、三文映画やTVドラマ・ゲームで、安易なミステリーやアクションに慣らされ過ぎなのかもしれない。でも、その点を差し引いても、青豆の仕事の展開を軸にこのままストーリーを進めるのは少々刺激に欠けてしまうかも。やはり、パラレルワールドのラインを中心にいくのかな。

〜「ああ、よくある話だよ。あるとき泉のほとりでハープを弾いていたら、どこからともなく妖精が現れて、ベレッタのモデル92を俺に渡して、ためしにあそこにいる白いウサギさんを撃ってみたらって言ったんだ」〜 

 ボディガードの台詞。ハードボイルドだよな、村上流の。


第9章(青豆)風景が変わり、ルールが変わった
 青豆は出来事の「ズレ」を検証するため、近くの図書館に行き、新聞の縮刷版でここ2年の事件を調べる。世の中のコンテンツが電子化され検索可能になる前、確かに我々は何年か前のことを調べるのに縮刷版をいちいち繰っていたのだ。村上作品で、自転車で図書館に新聞を調べに行き、結局図書館に入らずに、鳥小屋の脇で煙草を吸って帰ってくるシーンがあったと思うのだが、どの小説の情景なのかどうしても思い出せない。
 この読中メモに書いていた、転換機を倒す青豆、パラレル・ワールドとしての1Q84、低奏曲としての「シンフォニエッタ」等々を、説明するこの章に我ながら驚く。僕の思考の流れも、すっかりハルキさんに無意識下で感化されていることを今更痛感した。

〜かつての世界と区別をつけるためにも、そこには独自の呼称が必要とされている。猫や犬にだって名前は必要だ。この変更を受けた新しい世界がそれを必要としていないわけはない。1Q84−−私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。〜

 山梨の過激派グループ「あけぼの」が、(天吾)の章のふかえりのコミューンと、蝶番としてふたつの物語を結びつけていくのだろうか。


第11章(青豆)肉体こそが人間にとっての神殿である
 青豆の現職への出自とクライアントとのなれそめが語られる。意識的にふたつの物語の小道具が重なり合っていく。マクガフィンはあるのか。

〜「じゃあ逆の言い方をすれば、じきに世界が終わるというのは、睾丸を思い切り蹴られたときのようなものなのかしら」と青豆は尋ねた。
「世界の終わりを体験したことはまだないから、正確なことは言えないけど、あるいはそうかもしれない」と相手の男は言って、漠然とした目つきで宙を睨んだ。「そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない」〜

 少年時代、野球のキャッチャーをしていて、何度かショートバウンドのボールが股間に当たった経験を僕は持つ。あの痛みは確かに「世界の終わり」だ。『中国行きのスロウ・ボート』の中の少年は、センターフライを追いかけボールポストに激突し、脳しんとうを起こす。もうろうとした意識の中で彼のつぶやいた言葉、「大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる」。
(メモ9でどうしても思い出せないと書いた図書館のシーンだが、この短編の中で、最初に中国人と出会った正確な日付を調べに行く場面だったと、ついでに思い出した)
ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』といった作品では、その通底に圧倒的な無慈悲で無意味な<暴力>が示されていた。今回、村上は暴力の理由と源泉を、十全に顕して物語に取り込もうとしているのだろうか。
 青豆は六本木のシングルバーでまた男あさりを続けている。


第13章(青豆)生まれながらの被害者
 ほぼ1日1章のペースで『1Q84』を読み、僕は都度都度このメモをしてきた。発売2週間を迎えて100万部を超えたこの小説のレビューは、さすがにネットや新聞のそこかしこで記されている(ようだ)。「Google急上昇ワード」にも「1Q84 あらすじ」というワードが挙がっていて焦る。僕は注意深くそれを読まないように通り過ぎて、ハルキさんが語りかける物語だけに純粋に耳を澄ましている。このメモもできるだけネタバレを避けているつもりだ。
 閑話休題。(青豆)の章は、やはり主軸を性と死・暴力に、真正面から対峙して展開していくのか。青豆の奔放な性の起因には死があり、青豆がもたらす死の理由には暴力がある。ん、逆も言えるかな? セックス・死・パワーは三すくみの環を描く。

〜「あなたは自分を損なうようなことは何もしていない」と老婦人は言った。「何ひとつ。それはわかっていますね?」
「わかっています」と青豆は言った。そのとおりだと青豆は思う。自分を損なうようなことは何もしていない。それでも何かは静かにあとに残るのだ。ワインの瓶の底の澱のように。〜

 ストーリーテラーとしての村上春樹は僕たちのやすい想像の上を行ってくれるのが嬉しい。300ページにして、青豆と天吾の物語が重なり合う、思いがけないかたちで。


第15章(青豆)気球に碇をつけるみたいにしっかりと
 青豆の日常と、現状に至るいきさつが綴られる章。
 青豆はシングルバーで出会った婦人警官・あゆみと食事に行き、親交を深める。

〜「それで、何にするの?」
ムール貝のスープに、三種類のネギのサラダ、それから岩手産仔牛ののう脳味噌のボルドーワイン煮込み。青豆さんは?」
「レンズ豆のスープ、春の温野菜の盛り合わせ、それからアンコウの紙包み焼き、ポレンタ添え。赤ワインにはちょっと合わないみたいだけど、まあサービスだから文句は言えない」
「少しずつ交換していい?」
「もちろん」と青豆は言った。「それからもしよかったら、オードブルにさいまき海老のフリットをとって二人で分けましょう」〜

 ハルキさんの食事のシーンは、相変わらず食欲を刺激する。


第17章(青豆)私たちが幸福になろうが不幸になろうが
 この章を読んでふと最初のページを見ると、ジャズ・スタンダードの「ペーパームーン」の歌詞が書いてある。「君が信じてくれたなら、紙の月さえ本物になる」というロマチックな唄だ。『1Q84』は「月」もキーワードのひとつですね。
 ずっとカバーを外して読んでいたので気づかなかったが、本の表紙の右下にもうっすら<月>がデザインされているし。そっか、これが挿画のコピーライツ表記のある、NASA/Roger Ressmeyer/Corbisの写真からおこしたものな訳ね。『ねじまき鳥クロニクル』の装丁にも、バリ島・ウブドの美術館から鳥の画がデザインされてたし、新潮社装幀室はなかなかいつも凝っているなあ(ハルキさんが陰の装丁者と噂されているけど)。
 青豆はクライアントである老婦人の屋敷に呼ばれ、新規の<仕事>を依頼される。彼女たちの言葉を選んだ会話の中に緊張感が醸し出され、物語は次のフェーズへと進んでいく。

〜老婦人の顔が特殊な赤銅色の輝きを帯びていくのを青豆は目にした。それに連れていつもの温厚で上品な印象は薄れ、どこかに消えていった。そこには単なる怒りや嫌悪感を超えた何かがうかがえた。それはおそらく精神のいちばん深いところにある、硬く小さく、そして名前を持たない核のようなものだ。〜

 老婦人も心の底に冷たい小さなもうひとつの「月」を潜ませているのかもしれない。


第19章(青豆)秘密を分かち合う女たち
 青豆の生きる死と性・暴力に満ちた1Q84世界に、めじるしのない悪夢のように、カルト教団の影がしのび寄る。様々な「歪み」を内包する現実を見つめながら、青豆と老婦人はカルト集団と向き合い、「むずかしい仕事」に臨んでいく。

〜彼女は自分が今、本来の1984年でははく、いくつかの変更を加えられた1Q84年という世界を生きているらしいことを自覚していた。まだ仮説に過ぎないが、それは日ごとに着々とリアリティーを増している。そして知らされていない情報が、その新しい世界にはまだたくさんありそうだった。〜

 それぞれの思いを胸に皆が寝静まる真夜中、リトル・ピープルたちがうごめき始める。


第21章(青豆)どれほど遠いところに行こうと試みても
 青豆はまた図書館を訪れ、新聞の縮刷版で山梨のカルト教団につて調べる。そこに語られる宗教団体の姿に、誰もがオウム真理教を想起するだろう。村上春樹が世の中への彼なりの「コミットメント」をあらわしたノンフィクション『アンダーグランド』と『約束された場所で』を再読してみようかなとちょっと思う。それぞれ発売されたとき読んで本棚に収まったままだし。
 青豆は部屋に戻り、ひとりふと自分の手を見ながら「存在」を思う。

〜爪を見ていると、自分という存在がほんの束の間の、危ういものでしかないという思いが強くなった。爪のかたちひとつとっても、自分で決めたものではない。誰かが勝手に決めて、私はそれを黙って受領したに過ぎない。好むと好まざるとにかかわらず。いったいどれが私の爪のかたちをこんな風にしようと決めたのだろう。〜


第23章(青豆)これは何かの始まりに過ぎない
 奔放な性を享受しているある種の女性は、原体験として、男性に対する恐怖感が植え付けられていることがある。その反動として不特定の男との性に身を埋め、自分の根をぼやかそうとする。
 青豆のシングルバーでのパートナー・あゆみは語る。

〜「やったほうは適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」〜

 いっぽう、老婦人の屋敷には「始まり」を示す不気味なサインがされる、残酷なかたちで。

1Q84読中メモ BOOK1(天吾)

第2章(天吾)ちょっとした別のアイデア
 トラウマの発作として原初の記憶を持つ駆け出しのライター・天吾の章。
 物静かで思慮深い彼は村上の往年の主人公を自然と思い出させる。編集者・小松との会話は「ノルウェイの森」のワタナベ君と永沢さんを思わせる。

〜「問題がふたつあります。もっとたくさん問題があるはずだけど、とりあえずふたつだけにしておきます。〜」

天吾が慎重に選んだ言葉。
 人妻との逢瀬を重ねる彼は、「蜂蜜パイ」「日々移動する腎臓のかたちをした石」の淳平も想起させる。
 共同作業としてのコンテンツ作成が1984年時文学界にあったかは定かではないが、仕組まれた17歳の<ふかえり>の『空気さなぎ』で芥川賞を狙うとは、ハルキさんの文壇のとらまえ方は昔から一環してるなあ。


第4章(天吾)あなたがそれを望むのであれば
 往年の村上小説の主人公よろしく天吾が巻き込まれ型のキャラとして話が進んでゆく。

〜天吾は首を振った。一蓮托生? やれやれ、いったいいつからそんな大層なことになってしまったんだ。〜

という、懐かしのフレーズも口にされる。(ニヤリ)
 そして初期の村上作品の物語のキーワードとして印象深い言葉、

〜十七歳の少女を目の前にしていると、天吾はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。〜

も満を持して登場する。
 ふかえりは説明不足にひらがなで話す。天吾はふかえりの台詞にまるでWeb文中のリンクが補完説明するように、会話を丁寧に重ねてゆく。ふかえりに野島伸司の「ラブシャッフル」のタナトスを見ることができる<カイリ>の像が僕にはダブった。
「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女はつぶやく。TVピープルを自然に想起。
 そして彼女は天吾にある人物にあってほしいと告げる。うむ、「羊をめぐる冒険」的な展開っすね。

 この読中メモは本当に一章一章読みながら書いている。読み急ぐ気持ちを抑制しながら、ひとつのチャプターを読了するともう一度読み返し、内容や文体を僕なりに検証してこの文章を綴っている。こんな小説の読み方は僕自身初体験だ。そして「1Q84」という小説にとってそれが正しい(少なくとも意味のある)方法なのかも勿論解らない。でもファンとしてもう20年以上の『春樹体験』が僕の中におりをなしていることは確かだし、それらと照合しながら読み進めメモをすることを僕は始めてしまった、特に理由はないけど。またいつ我慢できなくなって物語の流れに身をゆだねるかもしれないけど。


第6章(天吾)我々はかなり遠くまで行くのだろうか?
 天吾が『空気さなぎ』を書き直すシステマチックで丁寧な過程は、村上自身の小説の推敲を連想させる。
 この後物語は『空気さなぎ』が作られていくストーリーと共に、ふかえりのいた(であろう)山中のコミューンがキーとなって展開していくのだろうか。
 天吾が買ったワープロはオアシス? ってことは、彼は「親指シフト」の使い手! 80年代だね〜。

〜それは意味性の縁を越えて、虚無の中に永遠に吸い込まれてしまったようだった。冥王星のわきをそのまま素通りしていった孤独な惑星探査ロケットみたいに。〜

 今の我々はそのロケットがある意味正しいことを知っている。冥王星はもう太陽系の惑星から外されてしまったのだから。


第8章(天吾)知らないところに行って知らない誰かに会う
『空気さなぎ』執筆の秘密の輪郭が、天吾とふかえりの会話のしじまにあぶり出され、彼女の独特のコミュニケーションの<理由>も推察されていく。
 日曜日を忌み嫌う天吾の過去が語られる。父にまつわる子供の頃の記憶。

〜彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし父親は、天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。父子はそれぞれに深く暗い秘密を抱き合っている。〜

 先生に会うために天吾とふかえりを乗せた中央線は多摩を進んでゆく。
「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」とふかえりが天吾にささやく。


第10章(天吾)本物の血が流れる実物の革命
 以前、村上春樹がどこかのインタビューで、今度の長編に関して応えるなかで、石原都政を一種のファシズムとして語る言葉が印象的だった。先頃のイスラエルでの文学賞受賞スピーチの「システムとしての壁」批判の記憶は新しい。だから今度の彼の長編は、間違いなく政治的色合いを帯びるものと皆が予想していただろう。
1Q84』はこの章でそのフェーズを垣間見せる。でも村上は左右の単なるイデオロギーの問題として政治を語らない。システムの原理にすり潰されていく個人を見据えて物語を紡いでゆく。
 天吾と先生の対面によってふかえりのバックボーンが明らかにされてゆく。ヤマギシ会的コミューンがふかえりを育て、そして彼女も1Q84の落とし子だったのだ。
 共鳴し合うふたつの物語。

〜ただ物音ひとつしないというだけではない。沈黙自体が自らについて何かを語っているようだった。天吾は意味もなく腕時計に目をやった。顔を上げて窓の外の風景に目をやり、それからまた腕時計を眺めた。時間はほとんど経過していなかった。日曜日の朝は時間がゆっくりとしか進まないのだ。〜


第12章(天吾)あなたの王国が私たちにもたらせられますように
 政治と宗教は似ている。そのドグマが急進的な時、否応なくそれに属するものと、周りの人や状況を飲み込んでいく。そして自分の意志とは無関係に巻き込まれた子供には、深い禍根を残すのかもしれない。
 ふかえりは宗教に多くのものを奪われた子供だった。『空気さなぎ』は、そんな彼女がたどたどしく語らずにはいられない物語だった。物語を削り出すことが「回復」の手立てだった。

〜「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるのかもしれない。〜中略〜おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」
 天吾は両手を膝の上で広げた。「むずかしそうです」〜

 そして『空気さなぎ』は天吾によって再構築されていく。


第14章(天吾)ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごと
 電車の女性週刊誌の中吊りに「新刊『1Q84』を読む前に村上春樹必修ネタ」という見出しがおどる。100万部を超え、この小説は「現象」となりつつあるようだ。まずいな、『ノルウェイの森』の時のように、ハルキさん、またへそ曲げてこもったり、疲弊して頭の中に2匹の蜂が飛ばなければいいけど…。
 編集者・小松に天吾は『空気さなぎ』の経過報告をし、プロジェクトの危うさを説くが、もう引き戻しは不可能だと小松はきかない。
 そしてこの章では天吾の父からの自立と思春期が語られる。

〜物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。〜中略〜それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。〜中略〜そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。〜

天吾が物語にのめり込んだ理由。それはふかえりにとっての「空気さなぎ」であり、村上の持つ小説観を伺わせる。
 天吾の章にも「シンフォニエッタ」が響き始めた。
 

第16章(天吾)気に入ってもらえてとても嬉しい
 15章に続き、この章も物語のジャンクション的なチャプターとして、テンションがゆるめられる。小松の画策する「プロジェクト」は、先生をも巻き込み一層加速していく。天吾とふかえりは小松に言われて「打ち合わせ」をする。
 ふかえりが口にする「めくらの山羊」は村上の短編(『ノルウェイの森』にも取り込まれた)『めくらやなぎと眠る女』を思い出す。差別用語と指摘する天吾が可笑しい。ハルキさんの昔の作品には知ってか知らずかよく共同通信記者ハンドブックが規定する「差別用語」が出てきたものだ。

〜カウンターに一人で座り、何を思うともなく自分の左手をひとしきり眺めていた。ふかえりがさっきまで握っていた手だ。その手にはまだ少女の指の感触が残っていた。それから彼女の胸のかたちを思い浮かべた。きれいなかたちの胸だった。あまりにも端正で美しいので、そこからは性的な意味すらほとんど失われてしまっている。〜


第18章(天吾)もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない
 ふかえり『空気さなぎ』がセンセーショナルなデビューを飾るが、彼女は特に意に介さない。先生は天吾に今回のプロジェクトの彼なりの目論見を語る。

「〜深い池に石を放り込む。どぼん。大きな音があたりに響き渡る。このあと池から何が出てくるのか、私たちは固唾を呑んで見守っている」
 しばらく全員が黙っていた。三人はそれぞれに、水面に広がっていく波紋を思い浮かべていた。天吾はその架空の波紋が落ち着くのを見計らって、おもむろに口を開いた。〜

 ジョージ・オーウェルの『1984年』でビック・ブラザーが世を覇したように、ふかえりの見ることができるリトル・ピープルが1Q84年には巣喰っているらしい。物語は進む。


第20章(天吾)気の毒なギリヤーク人
 眠れない夜、天吾のアパートでふかえりと彼は物語の世界に身を沈める。
 天吾の求めに応じて、ふかえりは『平家物語』の壇ノ浦での安徳天皇の入水自害の段を暗誦する。村上の著作で実在の物語が2ページにわたって引用されるのは初めてではないか。「世の趨勢によって追い詰められる命」が村上春樹のこの小説の最後のキーとなっていくのだろうか。『ノルウェイの森』で直子のいる施設に向かう前、暗示的にワタナベ君はトーマス・マンの『魔の山』を読みふけっていた。すぐれた小説に無意味な引用はあり得ない。
 天吾はふかえりのために本棚から吟味して『サハリン島』を要約しながら読んできかせる。19世紀の人気作家・<チェーホフの極東・サハリン滞在記らしい。チェーホフが何故サハリンに行ったのかとふかえりに訊ねられた天吾は、その動機のひとつは地図でサハリン島の形を見ていて、どうしても行きたくなったのではないかと推察する。
 村上自身紀行本『地球のはぐれ方』の中で、実際にサハリンを訪ない、生のサハリン感を綴っているのだが、そこでもチェーホフのこの実務的な滞在記に触れ、『1Q84』の天吾と同じような解釈をしている。

 もっとも往々にして村上のほとんどのエッセイが十割ホントウなことは珍しいと思う。わずかにフィクションをまぎれ込まして巧妙ずらして世界を描く。<要約・参考>された『サハリン島』自体、そこには村上イズムの脚色は避けがたく加わっているのだろう(チェーホフ読んだことないもので僕には検証できないけど)。
 実際、僕は身をもって(?)そんなハルキさんのウソを経験したことがある。
 あるエッセイの中で、アリゾナにいた村上がアメリカの地図を見ていて、サハリンに誘われたチェーホフよろしくどうしても行きたくなり、サウスカロライナ州チャールストンに突発的に訪れる話がある。魅力的な古き良きアメリカの匂いを携えた町並みを、彼はたいへん気に入ったようで、食欲を刺激する南部魚料理を出すレストラン、そして幽霊の出る旅館などが、彼にしては珍しく実名で紹介されていた。
 僕は何年か前、チャールストンに行く機会があり、わざわざハルキさんご推奨のそれらの店や宿をメモしていった。確かにチャールストンはなかなか歴史のある趣のある街だった。そしてご推薦のレストランはちゃんとあったが、おいしそうに描写されていた料理はメニューになかった。また、彼の泊まったとするINNは存在しなかった。エッセイが書かれてから十年以上経っていたので閉館したのかと思い、街の観光協会に訊いてみたけど見つからなかった(窓口の女性は、そんな名前の旅館は、この街に存在したことはありませんと断言していた)。
 村上は引用と事実の中に小説家的ズラしをしのばせ、実に上手に嘘をつく。
 デビュー作『風の歌を聴けからして、架空の小説家、デレク・ハートフィールドという作家の多くの文章を<引用>して、初めての小説執筆のモチベーションとして物語の中で語った(そして当時の評論家の何人かはまんまとハルキさんにだまされた)。

〜「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ」
 ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」〜

 オーウェルの『1984年』のあらすじをふかえりに説明した後、天吾は説明する。記憶のすり替え、再定義、そして記憶の集合体としての歴史、記憶の改ざんから生じる歴史の再編集…。パラレルワールド1Q84世界も神の手なる誰かの記憶のリミックスなのだろうか。いずれにしても、このチャプターは小説『1Q84』にとってポイントとなる章のような気がする。


第22章(天吾)時間がいびつなかたちをとって進み得ること
 天吾は脳について思索し、それが生み出す時間と空間と可能性の観念が、ヒトをヒトたらしめてると考える。その観念によって主観的に時間性を変更調整して、せっせと記憶の積み直しを人間はしている。
『空気さなぎ』はベストセラーランキングをひた走り(現実世界の『1Q84』のようだ)、ふかえりは失踪してしまう。

〜ふかえりはきっと特別な存在なんだ、と天吾はあらためて思った。ほかの少女たちと比べることなんてできない。彼女は間違いなくおれにとって、何らかの意味を持っている。彼女はなんて言えばいいのだろう、おれに向けられたひとつの総体的なメッセージなのだ。それにどうしてもそのメッセージを読み解くことができない。〜

 天吾くん、それを恋と呼ぶのだよ普通。


第24章(天吾)ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
 いよいよBOOK1最後の章。
 冒頭にこの章の時点が7月半ばであると記される。ん? BOOK1<4月-6月>と表紙にあるけど…。時制にこだわる村上春樹がこんなケアレスミスを犯すわけもなく、きっと意識的記述だろう。もう時間がいびつなかたちをとって進み始めているということだろうか。
 ふかえりはギリヤーク人のように「広い道路から離れて歩いているだけ」で、自ら身を隠していることが判明する。大事なモノは森の中にあり、リトル・ピープルは森に潜み、ふかえりは森を抜けるすべを探している。『海辺のカフカ』でカフカやナカタさんが分け入った四国の森を自然に思い出す。
 年上のガールフレンドはピロートークで天吾にささやく。

〜「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知ってる?」と彼女が尋ねた。
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい違いまではわからない」
「insaneはだぶんうまれつき頭に問題があること。専門的な治療を受けるのが望ましいと考えられる。それに対してlunaticというのは月によって、つまりlunaによって一時的に正気を奪われること。十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で。信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。つまり月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ」〜

 近畿地方の方言で「てんご」は、いたずら、悪ふざけという意味があったりする。
 ようやくBOOK1全24章読了。6月2日から読み始めて20日弱、随分時間がかかった。ようやく半分というか、物語的にはまだ展開が半ばと考えるとBOOK2も楽しみ。

1Q84読中メモ BOOK2(青豆)

BOOK2<7月-9月>に突入。村上春樹の著作で分冊された長編のうち、『ダンス・ダンス・ダンス』『海辺のカフカ』はそれぞれ上・下で、章の番号も通しで書かれた。『ねじまき鳥クロニクル』は第1部・第2部で発表され、チャプターはそれぞれふられていた。そして時期を開けて第3部が発表された。ってことは、『1Q84』は必ずしも2冊じゃ終わらないということだろうか。
 ともあれ、BOOK2。

第1章(青豆)あれは世界でいちばん退屈な町だった
 老婦人の屋敷に呼び出された青豆はめずらしく憔悴した様子のクライアントと対峙する。残された不吉なサインは老婦人を揺さぶる出来事を引き起こしていた。
 経過した状況と判明した情報を説明した後、老婦人は今一度、青豆に「仕事」完逐の覚悟を確認する。青豆も決意を新たにする、ある悲壮な決志をもって。
 屋敷のボディガード・タマルと青豆のハードボイルドな会話。

〜青豆はワンピースの袖をなおし、ショルダーバッグを肩にかけた。「そしてあなたはそのことを気にしている。もし拳銃が登場したら、それはどこかで発泡されることになるだろうと」
チェーホフの観点からすれば」
「だからできることなら私に拳銃を渡したくないと考えている」
「危険だし、違法だ。それに加えてチェーホフは信用できる作家だ」
「でもこれは物語じゃない。現実の世界の話よ」
 タマルは目を細め、青豆の顔をじっと見つめた。それからおもむろに口を開いた。「誰にそんなことがわかる?」〜

 物語は、「ふかえり」のラインでも(青豆)の章に浸食していくイメージを提示し始めた。


第3章(青豆)生まれ方は選べないが、死に方は選べる
 梅雨の明けた澄み渡った夜空の月たちを見上げて青豆は思う。
 親との縁を切り孤独に生きてきた自分。自ら命を絶った高校時代からの唯一の親友。出会いは行きずりの軽いものだったが、青豆のことを思ってくれているあゆみ。「仕事」の準備の進捗を淡々と伝えるが、分かち合える部分の多い老婦人。青豆の無理な依頼を反対しながらも、プロフェッショナルに無駄なくレクチャーするゲイのボディガード。

〜月を眺めているうちに、青豆は昨日感じたのと同じような気怠さを身体に感じ始めていた。もうこんな風に月を見つめるのはやめなくてはと彼女は思った。それは私に良い影響を及ぼさない。しかしどれだけこちらから見ないように努めても、月たちの視線を皮膚に感じないわけにはいかなかった。私が見なくてもあちらが見ているのだ。私がこれから何をしようとしているのか、彼らは知っている。〜

 そして彼らはまた青豆の大事なものをひとつ奪った。


第5章(青豆)一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う
 ひとりぼっちに戻ってしまった青豆は気持ちと部屋の整理を進める。青豆は来るべき「仕事」のために準備を整える必要があった。さまざまなものをそぎ落としていく過程は、自然に自己の内面に向き合う作業を伴っていく。そして自分という存在の中心にある、青豆を支える愛する男のことを今一度認識する。

〜絵の一枚もかかっていないし、花瓶のひとつもない。金魚のかわりに買った、バーゲン品のゴムの木がベランダにひとつ置かれているだけだ。そんなところで自分が何年も、とくに不満や疑問を感じることもなく日々を送っていたなんて、うまく信じわれなかった。
「さよなら」と彼女は小さく口に出して言った。部屋にではなく、そこにいた自分自身に向けた別れの挨拶だった。〜

第7章(青豆)あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは

〜ホテル・オークラ本館のロビーは広々として天井が高く、ほの暗く、巨大で上品な洞窟を思わせた。ソファに腰をおろして何ごとかを語り合う人々の声は、臓腑を抜かれた生き物のため息のようにうつろに響いた。カーペットは厚く柔らかく、極北の島の太古の苔を思わせた。それは人々の足音を、蓄積された時間の中に吸収していった。〜

 冒頭、村上春樹お得意の雰囲気メタファーを駆使した風景描写が続く。青豆はそんな荘厳なロビーで「ターゲット」の使者を待つ。二人の、いかにもの男が現れ、青豆を部屋へ誘う。幾分の緊張が最初はあったが、彼女はいつもの「仕事」の時のマインド・セッティングに戻す。
 そしていよいよ青豆は「領域」に足を進めることとなる。


第9章(青豆)恩寵の代償として届けられるもの
 村上春樹小説世界においては、主人公のキーパーソンとの対面は、ほとんど光のないホテルの部屋で描かれることが多い。『ダンス・ダンス・ダンス』では、いるかホテルの時折つながる真っ暗な異空間で、羊男はじっと主人公を待っていて、彼を最後の冒険へ誘う。『ねじまき鳥クロニクル』では、カティーサークがベッドサイドに置かれた208号室で、トオルは電話の女に物語のヒントをもらう。
『1Q84』では、青豆がホテル・オークラのスイートルームの暗闇の中、「ターゲット」といよいよ対峙する。「リーダー」と呼ばれるこの小説の<黒幕>が、物語の四分の三をむかえてようやく姿を現す、光のほとんどない部屋の中だけど。村上ワールドでは、ホテルの暗闇は「あちら側」を意味するのだが。

〜そのリズミカルな、また多くの意味を含んだ反復は、青豆を落ち着かない気持ちにさせた。これまで見聞きしたことのない領域に足を踏み入れたような気がした。たとえば深い海溝の底であるとか、あるいは未知の小惑星の地表であるとか。なんとか到達することはできても、もとに戻ることのかなわない場所だ。〜


第11章(青豆)均衡そのものが善なのだ
 ターゲットの黒幕に対して、青豆は表の仕事の作業をプロフェッショナルに進めていく。そして老婦人から依頼された、裏の仕事に段階を進めるが、青豆を何かが躊躇させる。すべて黒幕に把握されているような気がする。
 探り合ううち、黒幕は青豆に彼女と同じように、この世界において<天吾>も重要な役割を持っていると告げる。そして黒幕から、青豆のいるこの世界を指して<1Q84年>という言葉が出た。青豆が自分だけに便宜的に置いた言葉なのに。

〜「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男はいった。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪のバランスを維持しておくことだ。〜」


 今日、電車の座席で隣の初老の男性の読んでいる本をふと見ると『1Q84』だった。こういう現象をベストセラーというのだろうなあ。彼は僕より少し先の章を読んでいた。


第13章(青豆)もしあなたの愛がなければ
 2冊通して全48章の物語は、37番目の章をむかえていよいよ核心が語られることになる。1Q84世界の成り立ち、リトル・ピープルと呼ばれるものが意味すること、青豆・天吾・ふかえりの関係性とそれぞれに課された役割、「黒幕」の後ろにあるモノ、パシヴァとレシヴァ。
 リトル・ピープルが中空から紡ぎ出す<空気さなぎ>は、ハルキさんがよく言う【物語】そのものかもしれない。ウイルスのように我々の世界に巣くうコトモノへの「抗体」としての物語、うむ、『1Q84』自身が<空気さなぎ>だったのか。
 大枠の謎が説明され、物語の構造も明らかにされた。それでもまだ多く残る、コトバや出来事のシニフィアンは、残り200ページで回収され、あるべき位置に納まるのだろうか。さて。村上春樹、腕の見せ所である。

〜青豆は目を閉じて、一瞬のあいだに長い歳月を振り返り、見渡した。高い丘に上がり、切り立った断崖から眼下に海峡を見渡すみたいに。彼女は海の匂いを感じることができた。深い風の音を聞き取りことができた。
 彼女は言った。「私たちはもっと前に、勇気を出してお互いを捜しあうべきだったのね。そうすれば私たちは本来の世界でひとつになることもできたのに」〜

 青豆は後悔する。でも1Q84ではもうどうすることもできない。彼女は二者選択を迫られ、決断することになる。


第15章(青豆)いよいよお化けの時間が始まる
 青豆は「仕事」を終えてホテル・オークラを後にする。1Q84世界はリトル・ピープルがもたらしたゲリラ豪雨交通機関が混乱していた。青豆はタクシーに乗り込むと、運転手は赤坂見附の駅に大量の雨水が流れ込んで地下鉄がストップしていると教えてくれる。我々が記憶している台風で地下鉄の赤坂見附駅が水没した出来事は、調べてみると1993年の8月だったようだ。リトル・ピープルは時間の流れを不均一にゆがめることもできるらしい。
 青豆はタクシーを乗り継ぎ、クライアントの老婦人の用意した高円寺のセーフハウスにたどり着く。高円寺? 天吾くんのアパートって高円寺?、阿佐ヶ谷だっけ? とにかく、青豆はBOOK1の冒頭のように、ハードボイルドで「クールな青豆さん」に戻り、そして逃亡者になった。最初の青豆と異なる点は、確固たる愛を自覚していることだ。これって、おおきい。

〜それに考えてみれば結局のところ、我々の生きている世界そのものが、巨大なモデルルームみたいなものではないのか。入ってきてそこに腰を下ろし、お茶を飲み、窓の外の風景を眺め、時間が来たら礼を言って出て行く。そこにあるすべての家具は間に合わせのフェイクに過ぎない。窓にかかった月だって紙で作られたはりぼてかもしれない。〜

第17章(青豆)ネズミを取り出す
 青豆もセーフハウスで朝を迎える。そして老婦人のボディガードから電話がかかってくる。青豆を実の娘のように思う老婦人との、たぶん、最後の会話。青豆と老婦人はとても特殊な関係ではあったが、何かを共有することができた相手であり、青豆にとって現実世界への数少ないジャンクションでもあった。

〜「お元気で」青豆は言った。
「あなたこそお元気で」と老婦人は言った。「できるだけ幸福になりなさい」
「もしできることなら」と青豆は言った。幸福というのは青豆から最も遠くにあるものごとのひとつだった。〜

 普段は身の上話など一切しないボディガードが青豆に子供の頃の出来事を話す。サハリン出身で孤児院育ちの彼がいた施設に、何をしてもからきし駄目だが、彫刻だけ卓越して上手な男の子がいた。いじめにあっていたその子を、体躯の大きかったボディガードは、いきがかりで守っていた。その子はネズミしか彫らなかった。木の塊をしばらくにらんで、イメージが見えてくると木の中からまるで取り出すようにねずみを彫った。ある種の天才的な仏師がそうであるように。施設を逃げ出したきりその子の行方は知らないが、ボディガードはその子のことは明確に覚えていると語った。老婦人もボディガードも青豆に伝えたかったことは、お互いかなり特殊な関係だが我々はファミリーだということ。青豆もそれをしっかり受け止める。
 セーフハウスの部屋の備品を青豆がチェックしていると、本棚にふかえりの『空気さなぎ』があることに気づく。


第19章(青豆)ドウタが目覚めたときには
 青豆は『空気さなぎ』を読み進めていく。僕たちはようやくその小説がどんな物語なのかを垣間見ることができる。
 さて、純粋なメモ:空気さなぎ→ドウタを生成 ドウタ(分身)=マザ(実体)の心の影 リトル・ピープルの入り口=パシヴァ(知覚するもの)→レシヴァへ伝達 ん〜ん? こうしてメモると訳わかんないな。
『空気さなぎ』ないしは『1Q84』という小説を映像化するとどうなるかを想像してみると、やはりリトル・ピープルの表現がネックなるなるかもしれない。描写をそのまま画にしてみたら結構マヌケだ。ウンバ・ルンバになっちゃう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中のやみくろが映像化できないのと同じだ(みんなまっくろくろすけを思い浮かべてしまうしさ)。早稲田で映画の脚本を読みふけったハルキさん、映像に落とし込めない世界を文章で表現することが(リュミエール兄弟以降の)小説が成立する要件のひとつであることも忘れないなあ。
『空気さなぎ』に手を加えたあと、それに感化されて湧き出るように天吾が自分の小説を書きためていたけど、それが『1Q84』の(青豆)の章自体で、青豆がその中で自分が物語の中の人物だと自己認識しているとすると、このお話、かなり複雑な構造になる。あくまで勝手な仮説ですが。
 青豆は分析する。

〜いずれにせよ、『空気さなぎ』という物語が大きなキーになっている。
 すべてはこの物語から始まっているのだ。
 しかし私はこの物語のどこにあてはまるだろう?〜


第21章(青豆)どうすればいいのだろう
 ベランダのガーデンチェアでふたつの月を眺めながら、青豆は自分の部屋に残してきた哀れなゴムの木のことを思う。彼女が所有したただひとつの生命だ。決して丁寧に育てた訳ではないが、こうして追われる身になると妙に気になった。

〜彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこぼれ出る涙を抑えることができなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。みすぼらしいゴムの木ひとつ残されていない。少しでも価値のあるものは次々に消えていった。何もかもが私のもとから去っていった。〜

 青豆はベランダから外を眺めていて、自分と同じようにふたつの月を眺めている男性がいることに気づく。瞬間、その人が自分にとって大切な人だとわかる。
 青豆はこのあと、どうすればいいのだろう? と4回繰り返し逡巡する。青豆の中の女の子が決心を鈍らせる。


第23章(青豆)タイガーをあなたの車に
(青豆)の章ラスト、いよいよ大詰めだ。
 用意ができている青豆は、『華麗なる賭け』のフェイ・ダナウェイのように、クールでセクシーなビジネス・スーツを身にまとい、タクシーに乗る。そして<1Q84>の出発点を確認する。「リーダー」が言っていたように、それはすでに閉じられていた・・・。

〜しかしその中年の女性は、どうしても青豆から目をそらさなかった。青豆はあきらめて小さく首を振った。悪いけどこれ以上は待てない。タイムアップ。そろそろショーを始めましょう。
 タイガーをあなたの車に。
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。
「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。
「天吾くん」と青豆は言った。〜

1Q84読中メモ BOOK2(天吾)

第2章(天吾)魂のほかには何も持ち合わせていない
 手塚治虫のある種のキャラクターは彼の作品を超越して登場する。ヒゲオヤジ、ロック、サルタ、ランプ、ヒョウタンツギ(?)…、いわゆるスター・システムだ。
 村上春樹の作品世界でも直接つながりのない小説間に同一キャラと思わせる人物がたびたび見受けられる。そして『1Q84』のこの章でもそんな人物である「牛河」がのっそりと現れる。
「牛河」は『ねじまき鳥クロニクル』の中で主人公に「黒幕」のメッセンジャーとして登場した。『1Q84』の牛河は天吾を予備校講師の控え室に訪ねてくる。彼は不吉で不快な使者として天吾に<警告>を残していく。

〜リトル・ピープルの知恵や力は先生やあなたに害を及ぼすかもしれない、ふかえりはテープの中でそう語っていた。もりのなかではきをつけるように。天吾は思わずあたりを見回した。そう、森の奥は彼らの世界なのだ。〜


第4章(天吾)そんなことは望まない方がいいのかもしれない
 天吾は、十歳の頃クラスのいじめから一度かばったことのある女の子のことをぼんやり考える。親の宗教に振り回されて教室で浮いていた子、誰もいない放課後黙って天吾の手をじっと握り何も言わずに去っていったあの子のことを時折気にして彼は生きてきた。そのまま音信不通になってしまった彼女と自分はもっと違った接し方ができたのではないかと後悔もする。
 天吾は知らない、その子にとっても彼は生涯ただ一人の愛した男性であることを。

〜時間というものは、人為的な変更を片端からキャンセルしていくだけの強い力を持っている。それは加えられた訂正に、更なる訂正を上書きして、流れを元どおりに直していくに違いない。多少の細かい事実が変更されることはあるにせよ、結局のところ天吾という人間はどこまで行っても天吾でしかない。
 天吾がやらなくてはならないのはおそらく、現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。それよりほかに道はない。〜


第6章(天吾)我々はとても長い腕を持っています
 編集者・小松から送られてきた『空気さなぎ』の書評の束を読んで天吾は思う。

〜『空気さなぎ』を読み終えて「ミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままに」なっている善男善女に対し、天吾は同情の念を抱かないわけにはいかなかった。カラフルな浮き輪につかまった人々が困った顔つきで、疑問符だらけの広いプールをあてもなく漂っている光景が目に浮かんだ。空にはあくまで非現実的な太陽が輝いている。天吾はそのような状況を世間に流布する一端を担った人間として、まったく責任を感じないというのではなかった。〜

 ハルキさん、大丈夫だろうね? 『1Q84』自体がクエスチョンの大行進として終わらないだろうね? ちょっと不安になる。過剰に散りばめられたシニフィアンはちゃんと回収されるのだろうか。
 そして天吾はエアーポケットに入ったかのような静かで無機質な日々を過ごす。誰も彼に連絡してこない、語りかけてこない。 そんな中、火曜日にたて続けに電話が2本かかってくる。村上春樹世界では不吉な電話は火曜日に鳴るものと決まっている。別れの通告と最後通牒、そして天吾もひとりきりになってしまった。


第8章(天吾)そろそろ猫たちがやってくる時刻だ
 ひとりポツネンとしてしまった天吾は目的なく外出する。そして何かに導かれるように、父親のいる千倉を訪ねる。(千倉は安西水丸氏の故郷で、ハルキ・水丸がふたりで行った『村上朝日堂』のエッセイが懐かしい)
 失われるべき場所にいる変わり果てた父親と天吾は向き合う。そして自分自身を愛するために必要な真実を求めて天吾は父を詰問する。退行する記憶と共に失われてしまう真実をつなぎとめるために、生まれて初めて父と積極的な会話をする。そして父親から天吾は、お前は何ものでもないと言われる。

〜天吾は息を呑み、少しのあいだ言葉を失っていた。父親もそれ以上口をきかなかった。二人は沈黙の中でそれぞれにもつれあった思考の行方を探った。蝉だけが迷うことなく、声を限りに鳴き続けていた。
 この男はおそらく今、真実を語っているのだ、と天吾は感じた。その記憶は破壊され、意識は混濁の中にあるかもしれない。しかし彼が口にしているのはたぶん真実だ。天吾にはそれが直感的に理解できた。〜

第10章(天吾)申し出は拒絶された
 父親のもとから自分のアパートに戻り、天吾は深い眠りにつく。

〜翌朝、八時過ぎに目を覚ましたとき、自分が新しい人間になっていることに天吾は気づいた。目覚めは心地よく、腕や脚の筋肉はしなやかで、健全な刺激を待ち受けていた。肉体の疲れは残っていない。子供の頃、学期の始めに新しい教科書を開いたときのような、そんな気分だった。内容はまだ理解できないのだが、そこには新たな知識の先触れがある。洗面所に行って髭を剃った。タオルで顔を拭き、アフターシェーブ・ローションをつけ、あらためて鏡の中の自分の顔を見つめた。そして自分が新しい人間になっていることを認めた。〜

 そして平穏な日々が過ぎ9月をむかえた頃、前触れなく天吾の部屋をふかえりが訪ねてくる。時を同じくして天吾の職場には不快な使者・牛河が最後の通告に来る。
 リトル・ピープルが騒ぎだしたとふかえりは言う。
「だからこそわたしたちはちからをあわせなくてはならない」局面に物語は進んでいく。


第12章(天吾)指では数えられないもの
 天吾が部屋に戻るとふかえりはシャワーを浴びた後だった。髪を上げた彼女はいつもと印象が違う。

〜おかげで耳と首筋がすっかりむき出しになっていた。ついさっき作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのような、小振りなピンク色の一対の耳がそこにあった。それは現実の音を聞きとるためというよりは、純粋に美的見地から作成された耳だった。少なくとも天吾の目にはそう見えた。そしてその下に続くかたちの良いほっそりとした首筋は、陽光をふんだんに受けて育った野菜のように艶やかに輝いている。朝露とテントウムシが似合いそうな、どこまでも無垢な首だった。髪を上げた彼女を目にするのは初めてだったが、それは奇跡的なまでに親密で美しい光景だった。〜

 父親訪問から戻った天吾にふかえりは「お祓い」が必要だと言う。雷鳴が近づく中、リトル・ピープルたちが入り口を探している。ベッドの中のふかえりが初めて漢字を混ぜた台詞を言う。

〜「こちらに来てわたしをだいて」とふかえりは言った。「わたしたちふたりでいっしょにネコのまちにいかなくてはならない」〜

第14章(天吾)手渡されたパッケージ
 ふかえりとベッドの中で抱き合いながら天吾は、窓の外の激しい雷鳴にノアの洪水を思う。

〜もしそうだとしたら、こんな激しい雷雨の中で、サイのつがいやら、ライオンのつがいやら、ニシキヘビのつがいやらと狭い方舟に乗り合わせているのは、かなり気の滅入ることであったに違いない。それぞれに生活習慣がずいぶん違うし、意思伝達の手段も限られているし、体臭だって相当なものであったはずだ。〜

「テンゴくん」とふかえりは初めて天吾を名前で呼ぶ。記憶の依り代としてのふかえりは、天吾を10歳に引き戻し、放課後のあの記憶の世界に放り込む。パシヴァとレシヴァが感応し始める。天吾もあの子の名を思う、青豆と。そして彼女と会わなくてはならないと今更に、今だから、思う。
 三人称で物語られる村上春樹の世界において、主人公たちが呼び掛けるお互いの固有名詞は特別の意味を持つのかもしれない。
 物語の当初から抑揚なくひらがなでしゃべる美少女・ふかえりは、多くの人にエヴァンゲリオン綾波レイを想起させたことだろう。この章でふかえりは微笑み方を覚えた後の綾波に推移した(と僕は思う)。いやいや魂のルフラン


第16章(天吾)まるで幽霊船のように
 天吾は自分のアパートでふかえりと何も予定のない日の朝を迎える。彼女との会話は相変わらず暗示的・限定的で要領を得ない。編集者・小松と連絡を取ろうと出版社に電話するが、小松も「失踪」している。村上的、やれやれ、な状況だ。
 青豆の消息をあたるために天吾は電話局に赴き、珍しい名字「青豆」を電話帳で捜す。でも見つからない。ふたりが在籍した小学校に電話し、同窓会の幹事のふりをして当時の電話番号を聞くがその番号はもう使われていない。
 村上春樹のデビュー作の『風の歌を聴け』の中にも、レコードを借りたままになっている高校時代の同級生に連絡をとるために、ケチャップ会社の調査員のふりをして学校に、電話番号を訊くシーンが確かあったが、ま、個人情報保護法的セキュリティの概念などみじんもなかったよなあ、最近まで。新聞記事もそうだけど、電話番号や住所を調べるには、印刷物の索引をひとつひとつ当たらなくてならなかった時代って、そんなに前じゃないし。グーグルがあらゆる情報をデータベース化し、僕たちが欲望のままに情報を検索できる「動物化」には、1984年はまだ至っていなかった。マッキントッシュはふたりのスティーブによって産み出されていたけど、まだ我々の実生活的にはあまり関係のない話だった。
 収穫のないまま天吾が部屋に戻ると、ふかえりは床にそのまま座り古いジャズのLPを聴いていた。『1973年のピンボール』の双子や、ビル・エヴァンスを繰り返し聴く『ノルウェイの森』の直子など、LPレコードを丁寧に扱い針を落とす、村上小説の女の子たちは個人的にとてもセクシーだと思う。ふかえりのこのシーンを書きたくて、ハルキさん、今回の小説の舞台をまだCDがあまり普及していない1984年にしたんじゃないかとちょっと勘ぐってみる。

〜人の表皮細胞は毎日四千万個ずつ失われていくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えていく。我々はあるいはこの世界によっての表紙細胞のようなものなのかもしれない。だとすれば、誰かがある日ふっとどこかに消えてしまったところで不思議はない。〜


第18章(天吾)寡黙な一人ぼっちの衛星
 ふかえりの預言者的発言傾向はますます強くなっていく。天吾は青豆の記憶をたどる思考に集中するため、ふかえりを部屋に残して高円寺の町に出る。
 そして町の風景が描写される。テンションのかかっていた物語のテンポが緩められる。映画でいうと情景挿入カット。粒子の粗い映像にフォーカスを甘くして整音をオフ気味にした感じのシーン。天吾の思考はぼそぼそとしたモノローグが似合うかもしれない。それにしても天吾の入った居酒屋「麦頭(むぎあたま)」はどうしてわざわざ2回も店名が表記されたのだろう?
 天吾の思考は「月」にたぐり寄せられる。

〜その無感覚な灰色の岩塊は、まるで目に見えぬ糸にぶらさげられたようなかっこうで、所在なさそうに空の低いところに浮かんでいた。そこには何かしら人工的な雰囲気が漂っていた。ちょっと見たところ、芝居の小道具で使われる作り物の月のように見えた。しかしもちろんそれは本物の月だった。当然のことだ。誰も本物の空にわざわざ手間暇かけて、偽物の月を吊したりはしない。〜

 天吾は近所の公園からふたつの月を眺めていた。


第20章(天吾)せいうちと狂った帽子屋
 これまででいちばん短い章。スライドしてしまったこの世界の事実確認と、小説全体へのアクセントか。まあ、テレコでふたつの物語を重ねてきた訳だから、こういった「調整」も必要なのだろう。とにかく、残りページも少ないので、ここから怒濤のエンディングへ僕らを連れていって下さいな、ハルキさん。

〜しかし目に映るのはごく当たり前の都会の住宅地の風景だった。変わったところ、普通ではないところはひとつとして見受けられない。トランプの女王も、せいうちも、狂った帽子屋も、どこにもいない。彼を囲んでいるのは、無人の砂場とぶらんこ、無機質な光を振りまく水銀灯、枝を広げたケヤキの木、施錠された公衆便所、六階建ての新しいマンション(四戸だけ明かりがついている)、区の掲示板、コカコーラのマークがついた赤い自動販売機、違法駐車している旧型の緑色のフォルクスワーゲン・ゴルフ、電信柱と電線、遠くに見える原色のネオンサイン、そんなものだけだった。いつもの騒音、いつもの光。〜

 天吾は状況を把握するために、今一度周りを見回す。いつもと同じ風景。佐野元春の『情けない週末』の歌詞みたいですね。アリス世界の住人達はいない。帽子の中のヤマネは相変わらずまどろんでいるのかもしれなし、せいうちはカキの子供達をだませなかったのかもしれない。とにかく異世界のものはいない。風通の風景。ただ青豆が逃げ込んだマンションは6階建ての新築マンションだった。そして空には月がふたつ浮いている。


第22章(天吾)月がふたつ空に浮かんでいるかぎり
 天吾は部屋に戻ると、父のいる千倉の施設から電話があったことを知り、先方に折り返しかけてみる。そして父が原因不明の昏睡状態にあることを知る。60代だが、まるで生きる意志が薄くなったかのような、役目を終えて人知れず秘密の墓場へ向かうゾウのように、バイタルサインが落ちてるという。明日、千倉(ふかえりの中ではねこのまち)を訪れることを天吾は施設へ伝える。
『空気さなぎ』の中の「ふたつの月」が、天吾の住むこの世界まで浸食していること、レシヴァとパシヴァとしての天吾とふかえりについて、天吾はあれこれ考え、ふかえりに質問するが、彼女は相変わらず答えたいことしか答えようとしない。

〜情報は日々更新されている。彼だけがそれらについて何ひとつ知らされていない。
「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」と天吾は気を取り直して言った。「どちらが先でどちらが後なのか順番がわからない。しかしいずれにせよ、僕らはとにかくこの新しい世界に入り込んでいる」
 ふかえりは顔を上げ、天吾の目をのぞき込んだ。気のせいかもしれないけど、その瞳の中には優しい光のようなものが微かにうかがえた。
「いずれにせよ、もう元の世界はない」と天吾は言った。
 ふかえりは小さく肩をすぼめた。「わたしたちはここでいきていく」
「月の二個ある世界で?」〜

 そしてふかえりは『羊をめぐる冒険』の<彼女>のように、美しい耳を髪から出して天吾にささやく。おなじではない。あなたはかわったと。


第24章(天吾)まだ温もりが残っているうちに
 いよいよBOOK2最後の章だ。
 父を見舞うため、天吾はひとり千倉の施設へ向かう。そして、静かに昏睡状態にある父親のベッドの脇で天吾は独白する。父親と別れて暮らすようになってからのこと、小学生の頃、自分は何を思って父の横を歩いていたか、ただ淡々と話していく。父の反応は勿論ない。
 検査のため空いたベッドに天吾のための<空気さなぎ>が出現する。その中には10歳の青豆が横たわっていた。天吾は決意を新たにする。僕は必ず君を見つける(天吾の一人称が<おれ>から<僕>に変わっている)。

〜月が見えなくなると、もう一度胸に温もりが戻ってきた。それは旅人の行く手に見える小さな灯火のような、ほのかではあるが約束を伝える確かな温もりだった。
 これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月のふたつある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。〜

 というわけで、1ヶ月以上に亘り、『1Q84』を1章読むごとにこのブログにメモを書いてきた。こんな作業をしながら本を読んだのは初めての経験で、しんどくはあったけどなかなか楽しくもあった。自分の中の「村上春樹」体験を振り返ることもでした。おつかれさま→じぶん。
 しかしこの終わり方だと、多くの人はBOOK3が出ると期待するだろう。『ねじまき鳥クロニクル』が第3部で、シナモンとナツメグという新たなキャラクターを得たように、『1Q84』BOOK3があるとしたら、天吾とふかえりにどういったキャラクターが加わるのだろう。青豆の章の最後に出てきたぴかぴかのメルセデスに乗る婦人が重要な人物だったりして。
 想像は拡がる。BOOK3があるとしたら<10月ー12月>になるだろう。そう考えるとBOOK4はないわけ? 物語のステージが1985年に入っちゃうし。それともループして、1984年の1月から3月の物語をBOOK4とするのか。それも『1Q84』の構成から考えても面白いかもしれない。
1Q84』の作中、月のふたつある世界を呼称するとき、<1Q84年>と必ず年がついていたことも気になる。天吾たちがこれからも生きていくと誓った<世界>は、1年間を繰り返す、サザエさん・コナン・うる星やつら的時制なのかな? 1Q85年という世界が1Q84年と地続きになったとしたら、その時閉じられた1Q84が解放されるのかもしれない。
 以前村上春樹はインタビューで、今度の小説は『ねじまき鳥〜』よりも長いものになると明言していたから、『1Q84』のまだ発表されていない部分はきっとあるのだろう(構想だけだとしても)。でもこんなふうに200万部売れちゃって、みんなが続編あるっしょ!的な感想を抱くと、わかりやすいカタチでの『1Q84』の続きは発表されなくなっちゃうかもしれない、ハルキさんのこれまでの性向からして。『ねじまき鳥〜』から大幅削除された部分をベースにして『国境の南、太陽の西』という小説が生まれたように、『1Q84』の続編は別のカタチをとるかもしれない。
 さてさて。僕的には、この小説はしばらく寝かした後、今度は一気読みしようかな。