「カフカ論」 F9会での報告資料

 9月のF9会での私の話題提供に関しての御心遣い、まことに恐縮に存じます。カフカの専門的な研究者でもない私の素人話など、文章家の上條君にとっては何の困難も覚えないことと思いますが、一応仰せのように飯沼君に記録をお願いすることにします。最近、無気味なというか、いささかぎょっとする本が出版されました。『カフカらしくないカフカ』(明星聖子著、慶應義塾大学出版会)という書物です。カフカと言えば、繊細・純粋・潔癖で誠実な作家というのが通り相場でしたが、この本ではそのようなカフカのイメージが覆され、狡猾でビジネス上手、経営者としての野心と強さ、といった面からカフカの人間像が詳細に分析されているようです。カフカはブロートの家で知り合った女性フェ―リクス・バウアーと2度婚約し2度ともそれを破棄しています。結婚生活への不安(小説が書けなくなる)が、そうさせたのでしょう。彼女との関係を断った後も、カフカは彼女に宛てて500通の手紙を書いています。著者は「カフカらしくないカフカ」の姿をバウアー宛のそれらの書簡にも見出しているようです。そこからカフカは実は強い出版意欲を持っていて、ブロート、フェリーツェ、カフカ三者の間には暗黙の契約があったのではないかという推論が生まれてくるわけです。この書物については、2014年8月24日の朝日新聞(13面)に柄谷行人氏の書評が載っています。こちらの方が話題提供としてははるかに面白そうですが、私はこの本をまだ読んでおりませんし、これからも読むことはまずないと思いますので紹介は諦めます。
 これまでにカフカが遺した膨大な草稿・日記・手紙から、まったく異なる考え方による3種類の「カフカ全集」が編集されましたが、本書はそれらを比較検討することによって、「カフカ」とは何者か、「作品」とは何か、「作品研究」とは何かを根底的に問うという新しい方法論、つまり「編集文献学」に立脚したラディカルなカフカ論ともいうべきものです。
 飯沼君からは、昭和23年発行の詩誌「荒地」(12月号)に載ったカフカの『審判』に関する鮎川信夫三好豊一郎の論文2編のコピーと、飯沼君の親戚筋にあたる詩人北村太郎氏の『変身』に関する論文のコピーを送っていただきました。ざっと読んだだけですが、若々しい情熱と直感の閃く文章の力に時代の差を超えた感動を覚えております。「書物は不変だが、解釈は絶望の表現にすぎない」とか「真実など問題にしてはならない。ただ必然があるばかりだ。」といった箴言のようなカフカの言葉が、頭の中を通りすぎて行きます。カフカを読むことは、必然的に再読を強いられ、限りない疲労が蓄積してゆく感じです。ミラン・クデラ風に言えば、カフカを読むとは、ほとんど無限大の量のカフカ学化されたカフカを読むことになるのでしょうか。
 とにかく私の今の課題は、カフカを読むことが老後の人生にとって、良い結果をもたらすのか、それとも悪い結果をもたらすのか、それを考えることです。皆さんも一緒に考えましょう。

 フランツ・カフカの評価をめぐって
 カフカは大学時代以来の親友マックス・ブロートにあてて、『変身』、『断食芸人』その他、既発表の数編を残して、他の未定稿類は一切焼却してくれるよう遺言した。しかし、カフカの20世紀文学としての決定的新しさと問題性を確信したブロートは、遺言に従わずカフカの伝記作者、遺稿の編集者、紹介者としての役割を果たすことになった。ブロートのカフカの遺稿の編集に関してはさまざまな批判があり、また彼が新聞雑誌に発表した多くのカフカ論に関しても多くの批判(特にシオニスト[ユダヤ民族主義者]であったブロートの主観的な思い入れや神学的宗教的に偏向した見方など)があるにもかかわらず、しかしもしブロートがカフカの遺言に逆らってその作品を出版することがなかったとしたら、われわれは現在カフカの数多くの作品を読むことができないのは事実であり、そのことを考えれば、ブロートの功績はいくら強調してもし過ぎるということはないであろう。

 生前発表された作品としては、
  『観察』Betrachtung 1913年
  『火夫』Der Heizer 1913年(長編『アメリカ』の第1章にあたる。フォンターネ賞受賞)
  『死刑宣告』Das Urteil 1913年 (現在では『判決』と訳される)
  『変身』Die Verwandlung 1915年 
  『村医者』Ein Landarzt 1919年
  『流刑地にて』In der Strafkolonie 1919 年
  『断食芸人』Ein Hungerkünstler 1924年
 死後、ブロートの手によって遺稿中から公刊されたものは、
  『審判』Der Prozess 1925年
  『城』Das Schloss 1926年
  『アメリカ(失踪者)』Amerika 1927年 (以上の三長編は「孤独の三部作」と呼ばれる)
  『支那の長城』Beim Bau der Chinesischen Mauer
  『ある犬の回想』Forschungen eines Hundes
  『田舎の婚礼支度』Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande
  『日記』Tagebücher
  『ミレナへの手紙』Briefe an Milena
「マックス・ブロートはカフカと彼の作品のイメージを創りだしたが、それと同時にカフカ学をも創りだした。カフカ学者達はその創始者と距離を置きたがるとはいえ、創始者が彼らのために確定した土壌の外に出ることは決してない。カフカ学はそのテクストの天文学的な量にもかかわらず、無限のヴァリエーションの形で、つねに同じ言説、同じ思考を展開し、その言説、思弁はだんだんカフカの作品から独立してゆき、自分で自分を養うような有様になっている。カフカ学は無数の序文や注釈、伝記や専門研究、大学の講演や博士論文などによって、固有のカフカ像を生産、維持している。その結果、読者がカフカという名前で知っている作家は、もはやカフカではなく、カフカ学化されたカフカになってしまった。」
ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』)

 モーリス・ブランショは、次のように述べている。
 カフカがその作品を破棄することを望んだのは、作品が広く世の誤解をつのらせる運命にあることを予感していたからにほかならない。未完のテクストが流布することによって、人々がよってたかってさまざまな解釈の駄弁を弄し、作品を粉々に分解し、ついには紙屑と化してしまう悲惨な運命をすでに予見していたからにほかならない。カフカの願いは、おそらく人目を忍ぶ一つの謎としてひそかに姿を消すことであった。ところが、この慎み深さは逆に彼を世間に手渡し、かえってこの秘密は彼を栄光に包んでしまった。今や謎は至る所に広がり、白昼大手をふって横行している……

(1) フランツ・カフカの『判決』について
カフカは1912年秋に『判決』を一夜で(晩の10時から翌朝6時までに)一気に書き上げたが『日記』の中で「執筆中に…フロイトのことを考えた」と記している。『火夫』『判決』『変身』の三作品は、「父親と息子」というエディプスコンレックス的なモチーフを扱った作品と見られることが多い。
カフカは、家庭にあっても、専制的な父親に圧倒的な力で支配されていた。「僕は僕の家庭の中で他人よりもなお一層他人のように暮らしている」(『父への手紙』)。さらにフェリーツェ・バウアーとの2度の婚約も(1度は破棄している)、カフカの実生活上の不安や悩みがその背景にあることを考えないわけにはゆかない。
『判決』は、一見単純そうに見えるストーリーであるが、しかし、多くが謎めいている。主人公である若い商人ゲオルク・ベンデルマンは婚約し、その事を遠いロシアのペテルブルグで落ちぶれた生活をしている友人に知らせるかどうか迷っている。友人の件について、父親に相談するべく意を決した息子は、父親の部屋へ行く。妻をなくし、事業からも引退した老いた父親は、日当たりの悪い部屋に引き篭っていた。父親は、息子の話を聞いた後、おまえにペテルブルグに友人などいやしない、お前はただそう振る舞っているだけだと言う
そして耄碌していたと思っていた父親が本来の権威を示しながら、息子の欺瞞的な生活を徹底的に批判する。そして父親は息子に「わかったか。お前の知らない世間があるのだ。もともと確かに無邪気な子どもだった。だが実はな、悪魔のような人間だったんだ!――だから、よく聞け。これから判決を下してやる。溺れ死ね!」と溺死刑を宣告する。息子はそれに従い、家を飛び出して川に向かい、橋の欄干を飛び越え身を投げた。父親の宣告した溺死刑をわが身に執行したのである。あまりにも唐突な死への跳躍であり、奇怪としか言いようがないが、投身自殺の際に彼は、「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」という。
最後は「この瞬間、橋の上にとめどない無限の雑踏が始まった。」という一文で終わる。この最後の幕切れをめぐって、カフカ研究者によってさまざまに論議されている。この最後の一文は、一体なにを言おうとしているのであろうか?
この部分の解釈をモーリス・ブランショ(栗津則雄訳)は『カフカ論』で
「息子が、その父親の認容することも反論することもできぬ宣告に応じて、彼に対する静かな愛の言葉を口にしながら、流れに身を投ずるだけでは充分ではない、この死があの奇妙な結びの文章によって、生活の継続へ結びつけられなければならないのだ、『その瞬間、橋の上には、文字通り狂ったような馬車の往還があった』というのがその文章だが、カフカ自身も、この文章の象徴的価値と、明確な心理的意味とをはっきり認めている。」としている。 
カフカはマックス・ブロートに、『ぼくはあのとき猛烈な射精のことを考えていたのだ』と語っている。あるカフカ研究者によれば、これはようやく自らの天職は文学以外にはないと確信した息子の父母への訣別の辞である。最後の一行を書きながらカフカがイメージした『猛烈な射精』とは、そのことに関連している。射精とは脱父母(父母の保護を抜け出て独立する)の第一歩だからである。これは主人公ゲオルクの自己への道を進む過程として読み取ることもできる。それはまた作者カフカ自身の内的ドラマとも見ることができる。
In diesem Augenblick ging über die Brücke ein geradezu unendlicher Verkaehr.  「その瞬間、橋の上ではまさに果てることなく往来が続いた。」

(2)フランツ・カフカの『変身』について
 ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』という著書の中で、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』、ゴーゴリの『外套』、カフカの『変身』の三作品をわれわれの日常的現実から離れているという意味で、幻想的作品と呼んでいる。
作品の出来栄えや構造から見て、ナボコフカフカの『変身』が第一位、ゴーゴリの『外套』が第二位、『ジキル博士とハイド氏』を第三位と順位をつけている。
 『変身』を幻想文学というジャンルで論ずることの当否は別として、ナボコフカフカをマックス・ブロート流に一種の宗教的な意味合いでの聖者(聖人)として見ること、およびフロイト的な精神分析学的な見方、たとえば『変身』はカフカと父親との複雑な関係やカフカが一生抱き続けた罪意識というものを背景において解釈する立場を峻拒している。カフカが毒虫という象徴を使ったのは、息子のグレゴールを子供のように弱い存在である虫へと変身させ、それによって父親に対する無力感を特色づけようとしたというような見方も、まさにフロイト的原理による解釈である。
 ナボコフは、作品の細部に踏み込んで精緻に緻密に分析を進めている。グレゴールが変身した虫とは、いかなる虫であろうか。ゴキブリであろうか。甲虫であろうか。原作のドイツ語テクストでは、老いた雑役婦が彼のことをMistkäfer マグソムシと呼んでいる。物語の冒頭では、Ungeziefer(害虫)と呼ばれている。たくさんの細い脚がゆらゆら動いているその虫は、ナボコフの精密な観察によれば、6本の足をもった甲虫である。虫については、カフカ自身もグレゴールもそれほど精密な観察をしているわけではない。
 グレゴールの妹が食物を選んで持ってくる。彼女は牛乳の鉢を素手でなく、布切れでつかむ。おぞましい怪物が触れたものだということで。しかし、この妹はなかなか利口者で、いろいろなものを選んで持ってくる。腐った野菜、古びたチーズ、飲みかすの白ソースのたれをかけた骨、…グレゴールはこのご馳走に喉を鳴らして喰らいつく。
 妹にはグレゴールがまだ人間の心、人間の感性、尊厳、恥、屈辱といった人間の意識を保有していることが、分からない。グレゴールが甲虫になることによって、身体は歪み醜悪になったが、彼の身内にある人間としてのあらゆる優しさ、善良さが、かえって強く引き出され、くっきりと浮き彫りにされているように思われる。カフカの芸術の不思議な魅力は、一方では変身したグレゴールの昆虫としての特徴、昆虫の悲しい細部のすべてを露わに示しながら、他方、読者の目の前にグレゴールの内面の優しく微妙な人間性を生き生きと描き出しているところにある。二つの相反する要素を平衡関係において提示する象徴的表現が、カフカのもっとも優れた技法の一つであると思われる。
 グレゴールが変身した日に、出社しないグレゴールの様子をうかがいに会社から主任(マネージャー)がやってくるが、ドアの鍵を締めきって部屋に閉じこもっているグレゴールと主任とのやりとりはユーモアさえも感じさせる。グレゴールは主任に向かって懸命に言い訳を述べたてるが、主任には動物の声のようにしか聞こえない。グレゴールが、歯が無いかわりに頑丈な顎をした口でドアの鍵をくわえてこじ開け、主任を追いかける場面。主任は、『うわっー!』と階段中にこだまするような恐怖の叫び声をあげて、階段を一気に飛び降りて姿をくらますところなど。
 虫に変身したグレゴールに餌(食事)をあげるのは妹のグレーテである。料理女がひざまずいてザムザ夫人に暇乞いをする場面がある。涙ながらに彼女に暇をくれたザムザ一家に感謝する。あたかも解放された奴隷でもあるかのように。そして今ザムザ家で起こっていることについては一言たりとも他言はしないと、堅く誓う。
 グレゴールの変身以来2カ月が経って、家具を動かす場面が起こる。今までグレゴールの部屋を訪ねてきていたのは、妹だけであるが、喘息もちで身体の弱い母親が仕事を手伝うために、初めてグレゴールの部屋に入ってくることになる。カフカはこの場面を描くにあたって慎重で周到な準備をしている。グレゴールは気晴らしのために、足の裏のねばねばした跡をつけながら、壁や天井を歩き回る習慣を身につけていた。そこで妹は彼がもっと自由に這いずりまわれるように、邪魔になる家具をどけてやろうと思い、母親に手伝ってもらうことになったのである。彼女は息子に会いたい一心で、嬉々としてやってくる。
 家具を動かす仕事の最中、母親は突然花柄の壁紙の上に巨大な褐色の塊(グレゴール)を見る。彼女はしわがれた大声で悲鳴をあげると、両腕を広げて長椅子の上に倒れ、気絶してしまう。
 そこへ父親が仕事から帰ってくる。グレゴールがセールスマンとして働いていた頃は、父親は疲れてベッドにもぐりこんでいたり、肘掛け椅子に座ったままでいるような怠惰な人間であったが、今はすっかり変わって力に漲り溢れている。銀行の用務員が着るような金ボタン付きの紺の制服を着込んでいる。そしてもの凄い顔つきでグレゴールのほうに近寄ってくる。彼はサイドボードの上の深皿からリンゴをいくつか掴んでポケットに詰め込み、グレゴールめがけて投げつける。1個のリンゴがグレゴールの背中に命中して食い込む。
 『変身』は、第1章、第2章、第3章からなるが、この場面は第2章の最後の場面である。父親にリンゴを投げつけられてグレゴールは意識を失いかけるが、その時グレゴールの目に映ったのは、自分の部屋のドアがぱっと開けられ、妹より先に母親が下着姿で飛び出てくる。光文社文庫の丘沢静也訳から引用してみよう。
 「下着姿だったのは、気絶していた母親の呼吸を楽にするため、妹が服を脱がせていたからだ。そして母親は父親のほうに駆けよった。ゆるめられていた重ね着のスカートが、途中で1枚また1枚と床にずり落ちた。そのスカートに足をとられながらも母親は突進して、父親に抱きつき、完全に一体となり──ここですでにグレーゴルは目が見えなくなったのだが──、両手を父親の後頭部にあてて、グレーゴルの命を助けてやってくれと頼んだ。」
 いささか唐突であるが、ここでカフカ精神分析の問題に関して触れたい。
 『火夫』『判決』『変身』の三作品は、「父親と息子」というエディプスコンレックス的なモチーフを扱った作品と見られることが多いが、変身はグレゴールのエディプス的行為に対する罰と見ることもできる。(エディプスコンプレックス:男子が、同性の親である父を憎み、母に対して性的な思慕を抱き、同性の親である父親から罰せられることへの不安をもつ無意識の傾向。ギリシャ神話のオイディプスにちなみ、フロイト精神分析学の用語としたもの。〔オイディプス王がそれと知らずに父を殺して母を妻としたギリシャ神話にちなむ〕)
 上述の場面には、息子の原場面観察(具体的には父母の性交を見ること)と、父親への嫉妬というエディプス的葛藤が暗示されている。(フロイト的な精神分析的解釈を拒否するナボコフは、もちろんこのような解釈はしていない。)
 第3章になるとザムザ家の状況は、一層深刻さを増す。グレゴールは重傷を負って1カ月以上も身体の自由がきかなかった。女中に暇を出し、もっと安い雑役婦を雇う。彼女は骨ばった大女で力仕事をこなす。彼女はグレゴールに親愛の情をこめて「馬糞虫さん」と呼びかけたりする。妹のグレーテは、仕事に出かける前と仕事から帰った時に、あり合わせの食物をグレゴールに与え、部屋の掃除もぞんざいに済ませる。家計の足しになるように、三人の下宿人が住みつくようになる。そこでアパート全体に変化が起こる。つまり下宿人たちは、居間の向こうの両親の寝室を占領し、両親はグレゴールの部屋の隣の妹の部屋に移り、グレーテは居間で寝なければならなくなる。
 グレゴールは食も細くなり、痩せてしだいに弱っていく。グレゴールも少しずつ変化してゆくようである。そんなある日下宿人たちはグレーテが台所でヴァイオリンを弾いているのを聴き、ぜひ私たちのために弾いてもらいたいと言い出す。こうして三人の間借人とザムザ家の家族が居間に集まって、ヴァイオリンを聞くことになる。今やあらゆることに無関心になったグレゴールは埃まみれになって、糸くず、髪の毛、食べ物のかすを背中や脇腹にくっつけて這い回っている。そしてほこり一つ落ちていない居間の床に、ためらいもせず足を踏み入れ、さらに前へ這って出て、頭を床すれすれまで低くした。うまくすると妹と目を合わせることができるかもしれない。こんなにまで音楽に心をつかまえられるとは、やはり動物なのであろうか。待ちこがれていた未知の栄養への道が、見えたような気がした。
Gregor kroch noch ein Stück vorwärts und hielt den Kopf eng an den Boden, um möglicherweise ihren Blicken begegnen zu können. War er ein Tier, da ihn Musik so ergriff ? Ihm war, als zeigte sich ihm der Weg zu der ersehnten unbekannten Nahrung.
 (斜線部の解釈について、ナボコフは独特の解釈をしている。つまり一般的な意味で音楽は文学や絵画よりも聴き手により感覚的、より直接的な印象を及ぼすという点で、より原始的、より動物的な形式に属するという解釈である。もちろん、これには異論もあるかもしれない。斜線部は、体験話法と受け取るのが妥当かもしれない。「こんなに音楽に感動するのは、俺はやはり動物なのだろうか」)
 下宿人たちは音楽に退屈していた。グレゴールは妹の所まで突進しようと決心する。スカートをつまんで引っ張り、ぼくの部屋まで連れてくるんだ。この部屋には音楽が分かる人間なんて一人もいないんだから。下宿人がグレゴールの姿に気づき、即刻借りている部屋の解約を通告する。妹はこんなケダモノと一緒に暮らしているだけで間借人を追っ払う破目になることを嘆き、両親に向かって仕事だけでも大変なのに、家でもこんな厄介者を抱え込んでいるなんて、とても無理といって、グレゴールを厄介払いすることを訴える。身体がすっか弱したグレゴールは、やっとのことで自分の部屋に戻る。妹は大急ぎで閂をかけ、部屋を封鎖する。暗がりでグレゴールは、家族のことを優しさと愛情をもって思い返しながら、自分は消えなければならないと考える。夜中の3時をまわった頃、彼は息を引き取る。(ここからは、作品の中でグレゴールの父親や母親は、常にザムザ氏、ザムザ夫人と呼ばれるようになる。)
 朝早く家政婦がやって来て、グレゴールの身体を突いたり押したりしても反応が無いので、ようやく事の真相に気がつき、大声で叫ぶ。「ほら、くたばっていますよ。あそこで。完全にくたばってますよ」
 ザムザ氏は妻と娘を両脇に抱え三人横一列に並んで、食事にやってきた3人の間借人に向かって言い渡す。「すぐに、ここを出てもらいたい!」家政婦は朝の仕事を終えた帰り際に、「お隣の部屋の例の片づけものですがね、心配には及びませんよ。もうすっかり済ませましたから」という。これを聞いてザムザ氏は、「あの女は、夕方にはクビだ」と言うが、妻からも娘からも返事がない。
 最後の場面。三人そろって家を出て電車に乗って、郊外にピクニックに出かける。暖かい春の陽光が隅々まで溢れていた。気持ち良さそうに座席にもたれて、将来の明るい見通しを語り合う。さんざん苦しみを味わってきた娘も今は花のようにきれいな成熟した肢体を伸ばして電車を降りようとする。その姿を、ザムザ夫妻が満足げに眺めているところである。
虫としてみじめな死を遂げたグレゴールを厄介払いして、ザムザ夫妻とグレーテの三人が、嬉々として郊外へピクニックにでかけるこの作品のラストシーンは、それまでとは対照的な明るさで描かれている。これまで『変身』の不条理ともいうべき物語の世界を読み続けてきた読者にとって、この最後の場面ほど、残酷な衝撃を与えるものはない。
 『変身』は、読み終わっても理解できない原因不明な部分が残る作品である。変身のイメージは強烈、不可解で、それに圧倒されながら読んでいくが、読み終わるとまた変身とは何だろうといろいろ考えさせられ、最初に戻ってくる。
カフカは再読されることを求める」と言われるゆえんである。
 この作品に出てくる3という数字は、何を象徴しているのだろうか。まず作品が3章に分かれていること、グレゴールの寝室を真中にして左右両側にグレーテの部屋と両親の部屋がある。さらにグレゴールの部屋からは居間(リビング)にも通じている。だからグレゴールの部屋には鍵が三つ付いている。グレゴールを除いた三人の家族、三人の間借り人、いずれも3という数でまとめられている。
 北村太郎さんがその論考『カフカの「変身」について』で書かれているカフカにおける「動物との親和」という点について触れてみたいと思う。ヤノーホは『カフカとの対話』の中で、「…動物との親和は、人間とのそれよりも容易です」と語っているが、『変身』にしても『ある学士院への報告』(アカデミーで報告する)にしても『ある犬の回想』、あるいは『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族(やから)』にしても、カフカが動物に異常ともいうほど関心を持っていたことが感じられる。甲虫への変身という特異な状況を描きながら、日常生活の克明な観察とリアリズムといってよい精緻な描写が、平衡関係を保持しているのである。北村さんは、『変身』はよく考えて、丁寧に書かれた小説であると指摘されておられる。グレゴールが死んだ後の家庭の様子が生き生きと描かれてゆく。それまで平身低頭していた三人の紳士(間借り人)に対するザムザ氏の痛烈な復讐とこれに対する彼らの態度とは、むしろ喜劇的な効果を与える。
 この作品の結びについて、モーリス・ブランショは、1949年「カフカを読む」の中で次のように述べている。「……彼は死ぬ。この死は、放棄と孤独のなかで耐えがたい死であるが、──だがまた、それが体現する解放感と、今や決定的なものとなった或る終末に対する新たなる希望とによって、これはほとんど幸福とも言える死である。だが程なく、この最後の希望も消え去るのだ。まちがいないのだ。終末などありはしなかったのであり、生活が相変わらず続いているのだ。この物語は、あの妹の動作で、人生に目覚め快楽に呼びかけるあの身ごなしで終わるのだが、これこそ恐怖の絶頂である。このコント全体のなかでこれ以上おそるべき個所はない。これは呪詛そのものであり、一陽来福でもある……」(モーリス・ブランショカフカ論』粟津則雄訳)。カフカは、1914年1月19日の日記で「『変身』に対する大きな嫌悪。読めたものじゃない結末。」と書いている。自信作の『判決』についても、後年ヤノーホに「あれは一夜の『亡霊』ですと語っている。 「オドラデク」のことに言及。

カフカ実存主義
サルトルは、カミュカフカを比較して、次のように言う。「カミュ氏の見方は全く地上的だ。カフカは不可能な超越の作家だ。」「カフカは模倣できない。彼は永遠の誘惑となって、地平線に残るだろう。」
かつて幻想文学は、人間的なもの、現実世界を超越する世界を創造しようとした。しかし現代は人間の条件を超越することは考えない。ここに幻想の≪人間への復帰>がある。「幻想は現代人にとって、自分の姿を映し出す、無数の方法の一つにすぎない。」
サルトルカフカブランショを並べながら論評し、最後には両者を截然と区別して、このように言う。「カフカについては、現代の、数少ない、最大の作家の一人であると言うより他に、言うことはなにもない。彼は先駆者として、彼が選んだ技巧によって、不可能な超越ともいうべき存在を示してくれた。それはわれわれの手の届きかねるところにある。彼の世界は幻想的であると同時に厳密に真実である。ブランショは確かにすばらしい才能を持っている。だが彼は二番目の作家である。」しかしそのブランショによって、「われわれはカフカから解放され、カフカの方法を明らかにしてもらう」結果となった。
これらの論評を読むと、カフカに対するサルトルの傾倒と冷静さ、そして慧眼が感じられる。

カミュカフカ
『審判』は人間の在り方を描出したものだと語られたことがある。なるほどそうかもしれぬ。しかし『審判』はもっと単純で、同時にもっと複雑なのだ。という意味は、この小説の意味するところは、人間の在り方の描出というよりも、もっとカフカに特有なもの、もっとカフカ個人に属したものだということである。彼がここで告白しているのはぼくらのことではあるが、ある程度までは、ここで語っているのは彼なのだ。彼が生き、彼が罪を宣告されているのである。彼はそのことを、この小説のはじめの数ページで知ってしまう、だから彼は、そうした状況にべつに驚きを感じていない。こうした驚きのないことにこそ、不条理な作品のもっとも目立つしるしが認められる。」
根本的な両義性、すなわち自然らしく思えるものと異常なもの、個別的なものと普遍的なもの、悲劇的なものと日常的なもの、不条理なものと論理的なもの──こうしたものの間で揺れ動きながら保たれている平衡関係は、カフカの全作品を通して見出されるものであり、またそれがカフカの作品に独特な響きと意味を与えるのだ。 
カフカが小説に用いている方法は、いきなり超現実的な虫の姿を日常の小市民的な現実に対置し、それによって読者に一層リアルに鮮明に 現代社会における不条理性とか自己疎外の様相を描き出す。そこには単純なシュールレアリスムを超えたユーモア(ブラックユーモア)すらも感じられる。

以下は他人のブログからの引用

 カフカユダヤ人として生まれたが、ヨーロッパ化されたいわゆる「西方ユダヤ人」であった。したがって、民族としての強固な存在感を伝えている東方ユダヤ人、つまり正統ユダヤ教徒には属していなかった。同時に、ユダヤ人として、キリスト教的世界にも属していなかった。さらにドイツ語使用者として、(出自からいっても)チェコ人でもなければ、ボヘミア・ドイツ人でもなく、ハプスブルク帝国人民でありながらオーストリアにも属していなかった。
 多くの世界に少しずつ属しながら、そのいずれにも完全には所属しない、生まれながらの「異邦人」というのが彼の宿命的な生存の在り方であった。
  カフカにとって、存在するとは単に「そこに在る」ことだけではなく、同時に「そこに属する(帰属する)」ことを意味する。存在するとは、何らかの世界に所属することであって、いかなる世界にも所属しない存在というものはない。
 いかなる世界にも所属できない異邦人であるということは、存在を喪失しているということ、存在の零地点に「流刑」されているということにほかならない。彼は存在喪失という原罪を負うて生まれたのである。彼の生涯の苦悩と努力は、如何にして世界に入場と所属を許され、どうして存在の数値(ゼロではない)を獲得するか、という点にだけかかっている。質的にも量的にも彼の最大の作品である『城』は、存在獲得をめぐってのこの苦闘の集中的な表現であるといえるであろう。(実存主義的な解釈)いつまでたっても城とその村に所属することを許されない測量技師Kとの相関関係。

 たとえば『変身』は最も早くから注目を受け、カフカの独自な世界を端的に典型的に表現している中編として、常にカフカ文学の入門書のように見られてきた。『変身』の冒頭からして、一体なぜザムザが毒虫になったのかについては、なんの説明もない。虫への変身という事実は平然と受けとめられていて、そこには驚きが全く欠けている。そのこと自体にわれわれは驚かされる。虫に変身したグレゴール・ザムザは、その変身の原因などは少しも追及しようとはせず、相変わらず人間の意識と善意を抱きながら、出勤の時刻を心配し、社長らの思惑を気にかけ、一家のこれからの暮らしのことを思いわずらっている。
 セールスマンとして家計を支えているグレゴール・ザムザが、「どうしてこんなにしんどい職業を選んでしまったのか。明けても暮れても出張だ。オフィスでやる仕事より、ずっと苦労する。……くそっ、こんな生活、うんざりだ」と自らの小市民的な生活に嫌悪の気持を抱いた時に、彼は突如として「変身」の罰を与えられる。人間存在とは単に実在するだけでなく、世界に「所属」している。それがこの世界の「掟」である。掟に背くものは、罰せられて罪の意識の中へ沈みこまなければならない。グレゴール・ザムザが虫に変身した理由を、敢えて探せばこんな風に説明できるだろう。
 この作品では、ザムザ家の物語が一貫して虫の視点から描かれる。虫に変身したグレゴールが普通に喋っている言葉も、ピィーピィーという音が混じった動物の声になって聞きとれない。食事は妹のグレーテが運んでくれるが、日が経つとともに新鮮な食べ物は口に合わなくなり、チーズ、腐りかけの古野菜、こびりついたホワイトソースを次々に、嬉しさに目に涙をためて、むさぼるように食べた。
 皮肉屋のナボコフの表現を借りるならば、グレゴールは虫の皮をかぶった人間であり、彼の家族たちは人間の皮をかぶった虫けらだということだ。グレゴールの死とともに、彼ら虫けらの魂は、これで自由に楽しめると、早々に合点するのである。
すでに述べてように、この作品では一貫して虫の視点から、くっきりと緻密に、リアルに描かれた場面を読んでわれわれは改めて驚きを覚える。『百年の孤独』を書いたコロンビアのノーベル賞作家マルケスは、カフカの『変身』に影響されて、魔術的リアリズムに開眼したといわれる。「違った風に書くことができる、と教えてくれたのはカフカだった」と語っている。「違った風に」というのは、クンデラの説明によれば、本当らしさの境界を超えることである。つまりロマン派のように現実の世界から逃避するのでなく、現実の世界をもっと真実らしく把握することである。 

流刑地にて』
とある学術調査の旅行家が流刑地での処刑の立会いに招かれた。この地では処刑のために特別な拷問機械を用意しており、旅行家は処刑される予定の囚人の傍で、熱心な将校からその機械の説明を聞く。その機械は2つの棺を組み合わせたような形をしている。実際に使用するには、まず下のほうの《ベッド》と呼ばれる部分に囚人を腹ばいに固定する。そして上部の《製図屋》の中で組み合わされた歯車によって、《製図屋》の下に付けられた《馬鍬》と呼ばれる鋼鉄製の針が動き、囚人の体にその罪に沿った判決文を時間をかけて刻む。処刑には12時間もの時間がかかり、最後には囚人は死体となって片付けられる。
この機械は前任の司令官によって作られたものであり、将校には特別な思い入れがある。そして現在、この機械による処刑は批判にさらされ、現在の司令官のもとで存続の危機にあるという。将校は機械の説明をしながら、この機械の存続のためにひと肌脱いでくれないかと旅行家に頼む。しかし処刑機械の非人間性を感じていた旅行家は、その頼みをきっぱりと断る。すると将校は突然思い至って、縛り付けられていた囚人を放免する。そして《製図屋》の中身を新たに入れ替え、自分が裸になってその機械に横たわって機械を作動させる。しかし機械は鈍い音を立てて壊れ始め、《製図屋》からは歯車が次々と飛び出し、《馬鍬》はわずかな時間の間に将校を串刺しにして殺してしまう。死んだ将校は、生きていたときと同じ顔をしていて、約束されていた<浄化>の表情など、どこにもなかった。ショッキングな驚きを与える結末である。

『アカデミーで報告する(学会への報告)』の主人公である猿は、成熟した男性になれない人間を表わしている。リビドーの働きに障害をもつ猿は、シュナップス(焼酎)を飲む練習をして人間の仲間入りをしようとする。性的に未熟なもののもつ牢獄を脱出するため、芸人としての猿となり、ある自由を獲得するが、牝のチンパンジーに対しては依然として未成熟である。

 カフカの描いた世界は、いわゆる「不条理」の現実であると言われる。過去の小説とは全く類を絶した「異形(いぎょう)のもの」である。
 カフカの「誠実さ」とは、未完の作品の出版を拒否したというような点にあるのではなく、カフカの切り拓いた新しい方法そのものにある。方法そのものの独創的な誠実さこそ、真に彼自身の誠実を物語るものである。彼について語る場合、おそらく何から書き始めても結局この「誠実」の一点に帰着するであろう。純粋な誠実さ、どこにも遊びの虹色の華やかさはなく、真摯でけれんみのない誠実さ。
 「『火夫』の主人公である16歳の少年カール・ロスマンにはなにか元となるモデルがあったんですか」というヤノーホの質問に対して、「ぼくは人間を描いたのじゃない。ぼくは物語を語っただけだ。そして物語とは、形象(ビルト)、形象だけです」とカフカは答えた。カフカは、「ぼくは人間はちっとも描かなかった」と述べているが、このことはカフカのあらゆる作品に共通していることである。

カフカカフカになった日」カフカの日記の最も感動的な記述!
カフカは、フェリーツェ・バウアーという女性と、1912年8月13日に、親友のマックス・ブロートの家で会います。カフカはたちまち、ひと目惚れします。といっても、フェリーツェが美人だったわけではありません。
カフカはフェリーツェの第一印象を、日記にこんなふうに書いています。
「女中かと思った」「間延びして、骨張った、しまりのない顔」「所帯じみた服装」「つぶれたような鼻」「ごわごわした魅力のない髪」「がっしりした顎」
まるっきり悪口のようです。ところが、そのすぐ後に続けて、カフカはこう書いているのです。「もうぼくは揺るぎない決断を下していた」つまり、好きになっていたのです。いったいどこを気に入ったのか?
「彼は彼女のたくましさにしがみ付きたいのである」とカネッティは言っています。そして、9月20日、ついにカフカはフェリーツェに最初の手紙を出します。(手紙はその後、500通以上、送られることになります)
その2日後の22日の夜から23日の朝にかけて、カフカは一気に、短編小説『判決』を書き上げます。
『判決』の冒頭には「フェリーツェ・Bへ」という献辞があります。また作中の婚約者フリーダ・ブランデンフェルトは、フェリーツェと同じF.B.のイニシャルです。あきらかに、フェリーツェとの出会いが力となって、作品が生み出されています。
といっても、それは恋愛小説でもなければ、明るい物語でもなく、父親から死刑を宣告された息子が橋から身を投げるというお話ですが。
この『判決』を書き上げた後、カフカは日記をつけています。
この日記は、とても感動的なものです。
前回のブログで私は、「フェリーツェと出会った後、カフカらしくないことが起きた」と書きました。それがこの日記です。
カフカの日記や手紙は、『絶望名人』でもご紹介したように、絶望や愚痴で満ちています。ときには、ある程度、明るいことも言わないではないですが、それも必ず保留つきです。手放しに希望や幸福感や満足にひたるということは、カフカの場合、まずありません。
ところが、この23日の日記だけは別です。カフカは心から満足し、喜びに満ちています。これほど感動的な日記を私は他に知りません。
以下に引用します。
「この『判決』という物語を、ぼくは二二日から二三日にかけての夜、晩の十時から朝の六時にかけて一気に書いた。坐りっ放しでこわばってしまった足は、机の下から引き出すこともできないほどだった。
物語をぼくの前に展開させていくことの恐るべき苦労と喜び。まるで水のなかを前進するような感じだった。この夜のうちに何度もぼくは背中に全身の重みを感じた。すべてのことが言われうるとき、そのときすべての──最も奇抜なものであれ──着想のために一つの大きな火が用意されており、それらの着想はその火のなかで消滅し、そして蘇生するのだ。窓の外が青くなっていった様子。一台の馬車が通った。二人の男が橋を渡った。二時に時計を見たのが最後だった。女中が初めて控えの間を通って行ったとき、ぼくは最後の文章を書き終えた。電燈を消すと、もう白昼の明るさだった。軽い心臓の痛み。疲れは真夜中に過ぎ去っていた。
妹たちの部屋へおそるおそる入ってゆく。朗読。その前に女中に対して背伸びをして言う、「ぼくは今まで書いていたんだ。」人が寝なかったベッドの様子、まるでいま運びこまれたとでもいうような。自分は小説を書くときには、恥ずかしいほど低い段階の執筆態度をとっているという、ぼくのこれまでの確信が、ここに確証された。ただこういうふうにしてしか、つまりただこのような状態でしか、すなわち、肉体と魂とがこういうふうに完全に解放されるのでなければ、ぼくは書くことはできないのだ」

カフカはこの日、カフカになったのです。
これ以前にも『観察』という本にまとめられた作品があり、それはとても魅力的なものですが、それでもまだ蕾かサナギが、まだ青いバナナの状態と言えるでしょう。
この1912年9月22日-23日は、カフカという小説家の誕生の日なのです。
ひとりの作家が、自身の方法にたどり着いた記録としても、この日記は貴重なものだと思います。
私はこの日記が大好きです。何度読んでも感動します。カフカは自分の作品をことごとくけなしていますが、この『判決』だけは、「彼はあれほど多くのほかの作品を否認したように、これを二度とふたたび否認することはなかった」(カネッティ)というわけで、今回は、カフカの感動的な日記をご紹介しました。
これが、さらに『変身』の誕生へとつながっていきます。
次回はそのことを書いてみようと思っています。

これまでの〈定説〉に対するテーゼであるという部分で「研究者的」な内容で、利害関係のないいい加減な読み手としてはそんなこと真に受けちゃうんだ、という部分も幾分あるが、その中でふとカフカの持つ狡猾さと強さ(とこの本で呼ばれるもの)はじつはかなり男性的な生理であるのかもしれないと考えさせられた(たぶん、自己弁護としてではなく)。 女性特有の(あるいは特定の女性の有する)生真面目さ、この本でも主として扱われているフェリーツェ(この本ではフェリス)側から書かれたカフカ論、と読めばおもしろい。

フェリーツェとの関係ブロートの家で、2人は初めて顔を合わせた。カフカはこのときの印象を日記に次のように記している。「ほとんど潰れた鼻。ブロンドの、やや剛い、魅力のない髪。がっしりした顎。」カフカは1912年9月20日に、フェリーツェ宛に最初の手紙を送り、10月より活発な文通が始められた。1913年にはカフカが休暇中、ベルリンのフェリーツェの元を訪れるようになり、1914年6月1日に正式に婚約が交わされた。しかしカフカは結婚生活が小説執筆の妨げになることを恐れるようになり、同年7月12日、ベルリンのホテルの一室で両者の友人を交えて話し合いをした後、婚約を解消した。婚約解消した後も2人は会っており、第一次大戦中に再び仲が近づいた。1917年7月、二度目の婚約を行う。戦争が終わったらすぐに結婚してベルリンに住むつもりであった。しかし間もなくカフカ結核にかかり喀血、このためカフカから申し出て再び婚約を解消した。カフカとの関係が終結した後、フェリーツェは1919年3月に14歳年上の銀行家モーリツ・マラッセと結婚し、後2人の子供をもうけた。1931年に一家でスイスに移り、1936年にアメリカ合衆国へ移住。フェリーツェは1960年に亡くなるが、彼女はカフカとの関係が終わって後も彼から送られた500通もの手紙を保管しており、この手紙はのちに『フェリーツェへの手紙』として刊行されている。
独りいたら、いつか彼は多分自分の職業を捨てることができるかもしれない。結婚したら決してできないだろう。つまり、カフカは生きるため、創作への情熱をおこすのにはフェリーツェを必要とするが、結婚生活は文で学と両立しそうにない。だから、フェリーツェなしには生きられないが、彼女と一緒でも生きていけない、ということになる。
 カフカはフェリーツェとの交友を──主として手紙による恋なのだが──自分の創作のいわば強烈な刺激剤として利用し、一日に二通もやりとりした。それはある人々の言う通り、文学者としてのカフカに吸血鬼のようなところがないとはいえないのである。フェリーツェをひどく苦しめたこと、さらにこうしたいわばエゴイスティックなことを考えれば、カフカが彼女とのことで「罪はないが、悪魔的だった」という言葉は、それでもまだ体裁のいい言い方だったかもしれない。(102頁)

カフカらしくないカフカ 明星 聖子(みょうじょう きよこ)著
プロローグ
第1章 手紙と嘘
 手紙とタイプライター
 不信な手紙
 嘘のうまい男
 大胆な男と商売上手な娘
 カネッティの解釈
 暴力のような手紙
 「あなたの物語」
 『変身』 と誕生日
第2章 〈弱い〉父とビジネス好きの息子
 手紙としての作品
 『父への手紙』 と 『判決』
 〈弱い〉父
 頼りになる息子
 ビジネスへの関心
 ブロートの理解
 経営者カフカ
 ビジネスマンの親戚たち
 『商人』 の世界
 『観察』 と 『ある戦いの記録』


『新しいカフカ──「編集」が変えるテクスト』
 『1冊でわかるカフカ』の訳者解説で明星聖子氏はカフカの遺稿出版が大変なことになっていると書いていたが、具体的にそれがどういうことかを「編集文献学」という新しい学問の視点から述べたのが本書である。
 本書は卓抜なカフカ論であるとともに日本最初の編集文献学の紹介だが(編集文献学について知りたい人は明星氏が訳した『グーテンベルクからグーグルへ』を併読すると言い)、まずは基本的なところからおさえておこう。
 カフカが生前発表した作品は短編集二冊分にすぎず、『失踪者(アメリカ)』、『城』、『訴訟(審判)』の三大長編はもちろん、「ある戦いの記録」、「万里の長城」などの短編、さらには厖大なメモや書簡類などはすべて遺稿として残された。カフカは親友で作家のマックス・ブロートに原稿と書類の焼却を遺言して死んだが、ブロートはカフカの遺志に反して遺稿を守りとおし、世界恐慌ナチス台頭という困難な時代に全集の刊行を無報酬でやりとげた(印税はカフカの長患いで借金をかかえていた遺族にわたされた)。
 カフカはブロート版の全集によって世界の読者に知られたが、遺稿の出版に尽力した功績は功績として、ブロートが活字化した本文には問題が多々あった。ブロートは文献学の訓練を受けた学者ではなく作家だったために、自分の信じる文学作品のあるべき姿にあわせてカフカの未完成で未整理な原稿に勝手に手をいれていたのである。
 ブロートは明らかな誤記や引用符の片方の脱落、ピリオド抜けだけでなく、プラハ・ドイツ語特有の語法を「書き間違い」として訂正し、ssをßに置き換え、句読点をあまり打たないカフカ独特の句読法を規範通りの句読法に直した(当然、文章のリズムが変わる)。語句をいじっただけでなく、日記に埋めこまれたエピソードの断片をくみあわせて短編に仕立て、辻褄があわなくなる文章は削除し、『訴訟(審判)』や『城』では章の順番を決定した。またテキスト起こしは秘書にやらせたらしく、「体操選手か? 命知らずか?」を「まぼろしか? 追いはぎか?」と誤記している例まであるという(短編「橋」)。
 そこで遺稿の管理がブロートの手からオックスフォード大学ボードリアン図書館に移ったのを機に本文批判をおこなった新しい全集が1982年から15年がかりでフィッシャー社により刊行された。これが本書で「批判版全集」と呼ばれているもので、邦訳は白水社から出ている(新潮社版全集はブロート版による)。
 ところが批判版は決定版とはならなかった。批判版はドイツ文献学の伝統的なスタイルにしたがって各巻は本文篇と資料篇の二分冊にわかれ、異文は資料編に収録されているが、本文と異文を分離する分割的編集は1980年代にはすでに古くなっていたからだ。
 実はヨーロッパではフランスのテキスト批評の影響をうけて編集文献学という新しい学問が勃興していたのである。ここは本書の核心なので、長くなるがまるまる引用する。
 それは、一九七〇年代における統括的編集への転換には、六〇年代後半以降のフランスの文芸批評の傾向が重要な背景を成しているという点である。この傾向とは、ロラン・バルトのエッセイ『作品からテクストへ』に代表されるような、「作品」概念、「テクスト」概念の変容であり、すなわち、文学として書かれたものを「作品」という静的な閉じた体系としてみるのではなく、「テクスト」という開かれた形態、あるいは「エクリチュール=書字」という動的な形態としてみていこうというものである。そして、こうした流れの影響を明らかに受けて、一九七一年ドイツで文献学者グンター・マルテンスが「テクスト動性(Textdyamik)」という理論を唱えるのである。
 その理論は、簡潔に説明すれば、「草稿」のまま残された文学テクストを、従来のように「作品(Werk)」という静的な形態、あるいは完成体に近づけるように編集するのではなく、ダイナミックな生成発展の過程そのものを重視して、「エクリチュール=書字(Schrift)」として、書く行為の痕跡としてその「動性」を再現するというものである。この理論はすぐに多くの支持を受け、以後、作者による決定稿のない遺稿編集においては、草稿のなかから「最終稿」=「本文」を取り出してその前段階の「稿」=「異文」と分けるような分割的編集ではなく、すべての段階の稿を同等に扱うような統括的編集を是とする意見が支配的になる。
 フィッシャー社が古い分割的編集を選んだには商業的な思惑もあったらしい。厳密を期した批判版に対して一般読者に読みやすいテキストを提供する版を「普及版」というが、ブロート版は普及版としてもあまりにも粗笨だったために、ブロート版に代わる新しい普及版というニッチが残されていたのである。批判版は本文篇だけを見ているとどこに異文が隠れているのかわからないという欠点があるが、それは見方を変えれば異文に煩わされることなく本文が読めるということでもある。そして実際、フィッシャー社は本文篇だけを独立に格安の値段で販売したのである。フィッシャー社の全集は批判版を標榜しながらも、ブロート版に代わる普及版となったのだ。
 批判版はブロート版よりもましな本文を提供しているとはいえ、読みやすさを優先した結果、妥協の産物となっており、多くの批判にさらされた。こうして1995年から学問的厳密性を追求した新しい全集がヘルダーリン全集で名を上げたシュトルームフェルト/ロータ−シュテルン社から刊行されることになる。これが「史的批判版」である。
 史的批判版にもとづく『訴訟(審判)』の邦訳は頭木弘樹氏による『「逮捕+終り」 −『訴訟』より』(1999年、創樹社。絶版だが頭木氏のサイトで公開されている)と丘沢静也氏による『訴訟』(2009年、光文社古典新訳文庫)として出ているので普通の本の延長で考えていたが、本書を読んで愕然とした。常識的な本の範疇を飛び越えた代物になっているらしいのである。
 遺稿の写真版とテキスト起こしを両方載せているのは当然としても、史的批判版の『訴訟(審判)』は16冊の小冊子にわかれているのである。小冊子にわけたのは『訴訟(審判)』に属する遺稿の16の束を再現するためだ。書いた順番はほぼ推定できているが、カフカは冒頭の「逮捕」の章を書いた直後に結末を書いており、中間の章を書いたのは結末の後なのだ。頭木氏の解説に詳しいが、書いた順番=物語の順番ではないのである。
 続刊もわれわれになじみのある『万里の長城』や『掟の問題』という題名ではなく『1921年のノートから』のようになっている。カフカは作品をノートの流れの中で書くことが多く、どこからどこまでが作品かを確定することが困難だからである。白水社版の全集が『カフカ・コレクション』に発展的解消をとげ、『ノート〈1〉』や『ノート〈2〉』という形で再刊されているのは批判版を卒業して史的批判版に近づこうということだろう。
ナボコフの遺作『The Original of Laura』はミシン目に沿って切りとるとナボコフが執筆に用いたインデックスカードの束になったが、あれは編集文献学的には正しい方式だったのだ。)
 本の解体まで突き進むと浮き世離れした学者やテキスト理論かぶれの批評家の自己満足と受けとる人がいるかもしれない。しかし、ことカフカに関するかぎり、本という形態を解体する必然性があるのだ。というのはカフカは作品を発表しようという意欲の一方で、本として完結させることは逡巡しつづけたからだ。『失踪者(アメリカ)』や『城』、『訴訟(審判)』が未完で終わったのは時間がなかったからではなく、完結させることを拒否していたからなのだ。
 これは単なる解釈ではない。本書はカフカが陥っていた公表を望みつつ拒むというダブルバインド的状況を遺稿に即して実証的に明らかにしている。カフカというのはそういう作家だったのである。(とは言っても史的批判版を日本語で再現できるはずはなく、再現する必然性もない。光文社古典新訳文庫版も白水社カフカ・コレクション版も翻訳である以上、普及版であることを宿命づけられているのである。)


面白い。これほど面白い本はひさびさに読んだ。推理小説みたいで、一気に読める。
この本が描くカフカは、計算高く、狡猾で、女をたぶらかす、はっきり言って、嫌な奴だ。マックス・ブロートをはじめ、多くの作家が描くカフカは、求道者的、聖職者的なそれだが、こちらのカフカはみずからの欲望にすこぶる忠実なカフカだ。
もちろん、前者を否定するわけではない。
ただ、あまりにシリアスに、ストイックに偶像化されたカフカが「常識」のようにまかりとおる弊害はないだろうか。
自分の作品を「息子たち」と呼び、妹を叩き起こし、書き上げたばかりの「判決」を得意気に読み上げるカフカの姿は、滑稽だが、みずからの作品を誰かに読んでもらいたい、認めてもらいたいという純粋な欲望に満ちた、一人の純粋な青年の姿だ。
この本で扱っている「判決」「失踪者」「変身」の解釈もまた大胆かつ独特なものだ。
極東の片隅で、よくこんな本が生まれたものだと感心する。