電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

権威と権威主義の違い

仕事のため凄く久しぶりに靖国神社遊就館に行った。展示物を見ていたら、幕末に尊皇派が使った「錦の御旗」というものが展示されている。
幕末維新期、もともと尊皇派は幕府という権力に対する反体制の逆賊だったが、帝の象徴であるこの錦の御旗をかざしたことで「正義は我にあり」という権威を手に入れた。
いうまでなく「錦の御旗」といっても、物体としては、天皇家の菊花門が描かれただけの布である。
しかし、この「錦の御旗」には鎌倉時代からの由緒が云々と説明文か書かれているのを見ると、確かになんだかエラい物のように思えてくる。

エラいものはなぜエラいのか

講談社新書の『現代思想を読む事典』(isbn:4061489216)の「権威」の項を引くと、本来の権威とは、命令や強制によって人を従わせるものではなく、人々のほうが疑問もなく従うものであるという。
そうすると、権威とは、権威をかざす側ではなく、それを尊いエラいものだと思ってみずから従う人々の心の側にこそあるものだといえないか?
同書によると、ハンナ・アーレントは、西洋で本来の「権威」が生まれたのは古代ローマ帝国で、以後は近代まで権威の再建が繰り返されたがすべて失敗に終わったという。
まあ確かに、ローマ帝国の崩壊後、中世の西欧ではカソリック教会が王侯貴族に権威を付与するシステムが生まれたが、王権神授説なんてわざわざ自分から言うのは、人工的な「権威主義」であって、民が命令されなくても自然にそれを崇める「権威」とはほど遠い。
ハンナ・アーレント自身が生きていたワイマール共和国時代のドイツでもナチス政権が人工的な権威の再建を試みたが、結局は敗戦によって失敗している。
しからば、なぜ古代ローマ帝国では権威が権威たりえたのか? 古代ローマ帝国の繁栄を支えたのは、市民がみずから兵役に就く義務と引き換えに政治参加の権利を得られる重装歩兵民主制だったという。
自分らローマ市民は義務を果たしているからエラい、そのシステムに支えられてるから皇帝はエラい、ということなのだろうか?
末期のローマ帝国ではこの義務を奴隷とゲルマン人傭兵に押しつけた結果、貴族の退廃が起きてローマの権威の崩壊に陥ったようである。
さて、正直に言うと、わたしは権威が大好きである。
このブログでは何度も引き合いに出している『拝啓天皇陛下様』の山田二等兵や、前回触れた甘粕正彦が良い例だが、権威とは無力な個人にも誇りや意志の拠り所を与えてくれる。
前にも書いたが、阪神大震災の折、天皇が被災者を見舞ったら爺さん婆さんの被災者が深く感動していた姿などを見ると(いかに当時の総理大臣でも、村山富市橋本龍太郎が来てもこんなに喜ぶということはありえない)、悔しいが天皇制は否定できなくなる。
……が、自分が勝手にこれが権威だと思って崇めてるものが本当に良いものとは限らない。わたしは過去そのへんで失敗したので反省してはいるが。

死に逃げの独裁者はやさしい王様になれたか?

とまあ、そんな権威と権威主義の関係について考えたきっかけは、案外しょうもない。
以前『機動戦士ガンダム00』の旧シリーズを観ていたときは、毎回「世界から戦争をなくすなんてできるのか? → 戦争の理由がなくならない以上は無理 → ただ、戦争が起きるのは仕方ないとして、犠牲者の数を減らす努力はできるのではないか?」とかいうことを、飽きもせず繰り返し毎度毎度考えてた。
で、『コードギアス反逆のルルーシュR2』を観てたら、毎回「権威と権威主義ってのは違うよな」と考えるようになってきたという具合。
仮に強大な軍事力や絶えざる洗脳でむりやり人民を従わせて平和なユートピアを作ることができたとしても、人民が自発的に従う場合に比べると効率は悪く、コストもかさむだろ……と思ってたら、R2の最終回は期待通りの展開になった。
世界の独裁者となった主人公ルルーシュは、みずから世界の全人民に敵になることであらゆる勢力を結束させたうえで、自己犠牲的にみずから死を選ぶ。
わたしが指摘するまでなく誰かが書いてるだろうとは思うけれど、『コードギアス反逆のルルーシュ』のルーツ的作品として、同じく、独裁者になることをめざす少年を主人公とした、望月三起也の『ジャパッシュ』と水木しげるの『悪魔くん千年王国』を挙げることができる。この両作品も、やはり主人公が権力の頂点に立ったところで死を遂げる。
もっとも、『ジャパッシュ』の日向光も『悪魔くん千年王国』の松下一郎も(ついでにいえば『DEAHT NOTE』の夜神月も)予期せぬ事故死のような殺され方だが、少年皇帝ルルーシュは、これまで自分の理念のため多くの命を奪った自己懲罰のように確信犯的な自死を選んでいるところがよい。
あえてひとつだけ贅沢を言えば、劇中で少年独裁者ルルーシュを憎み恨んだはずの連中が皆この最期で彼を許したりせず、誰か一人ぐらいは、そうやって自死を選ぶってのは、まっとうな指導者として権威を演じる努力の放棄じゃねーか、死に逃げしやがってこの野郎、ってツッコミも言って欲しかったかな。
そういや、『金色のガッシュベル』は、主人公が「やさしい王様」を目指す話だったっけ。
近年、漫画やアニメなどでも単純に「権威=大人・悪vs反権威=子供・正義」という図式に立たず、「良い権威」とは何かを考えようとする志向が現われていることは興味深い。
そう、権威を引きずり下ろしてツッコミを入れるだけなら、責任のない立場からでもできるんだから簡単だ。今日においては、ハンナ・アーレントが言うような意味での本来の権威が成立しない中、「良い権威」を創るほうがよっぽど難しいのである。

差別の善用は可能か

以前からもう何度も何度も何度も何度もしつこく書いていることだが、わたしは激烈な差別主義者である。毎日のようにナチスのような民族大虐殺をやっている。ただし脳内で。
毎日、瑣末なことでムカつく。
たとえば、自転車で買い物に行ったら、前から子供連れのおばさんが来たので避けようとしたら相手も同じ方向に避けようとして結果なんだか自分は意地悪通せんぼ野郎になってしまった。
こんなとき「くそっ!! 俺は悪くない!! ワザとじゃないぞ!! 俺のせいじゃない!! だがあのおばさんも悪くない……じゃあ悪いのは誰だ? ……えーと、えーと、そうだ! リバコ人(仮称)のせいだ!! ちくしょーリバコ人め地獄に落ちろ!!」と怒りの発作に任せて(脳内)リバコ人強制収容所からリバコ人を(脳内)銃殺刑にして怒りを抑える……が、30分後にはもう忘れている。しかし翌日また同じよーなことを繰り返している。
リバコ人(仮称)と書かれても何のことやらサッパリわかるまい。そりゃそうだ、これはわたし一人の脳内被差別民族だ。ただし、完全な実在しない創作物ではない。
要するに、わたしが10年前に一日付き合わされてさんざん嫌な思いをしたネットワークビジネス団体「リバティコープ」の関係者のことである。
が、実際「リバティコープ」という団体はとっくに消滅し、元会員は足を洗ってちりじりばらばらである。しかし、元幹部の連中はまた別のネットワークビジネス団体を作ってカモから金を巻き上げウハウハとよろしくやっているらしい。そこでわたしはその幹部数名を勝手に「リバコ人」と名づけて罵倒することにした(←小学二年生レベルの発想)
で、わたしは毎日、この「脳内リバコ人(仮称)」を瑣末なくだらない怒りのはけ口にしているわけである。ハッキリ言って、道で犬のうんこ踏んでも、トイレで紙がなくなっても「チョンのせいだ!」わめく嫌韓厨とまるきり変わらず同レベルである。
かようなわたしには、まあ到底、自分以外の差別主義者を批判する資格はないであろう。
だが、ひとつ言いたい。わたしの「リバコ人差別」は、ユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別や同和地区出身者差別やフツ族によるツチ族差別やセルビア人によるクロアチア人差別やその他いろいろとは違うのだよ。
黒人もユダヤ人もその他いろいろも、みなみずから好き好んでそういう被差別少数者に生まれたのではない。しかし「リバコ人」はみずから好き好んでネットワークビジネスに従事しているのだ、差別されるのが嫌ならネットワークビジネスを辞めて新聞配達員なり古書店員なり自衛官なり専業主婦にでもなってくれれば良いのである。文句あるかね?

「世界公認被差別階級」は可能か?

さて、世界から戦争がなくならないのと同様、世界にはユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別や同和地区出身者差別やフツ族によるツチ族差別やセルビア人によるクロアチア人差別など多くの差別が存在する。
しかし、いくら差別は良くないと言っても、人間にはおそらく差別欲というものがある。
岸田秀フロイトを援用して述べているところによると、人間は本能の壊れた動物であるらしい。つまり、食欲も性欲も本来は本能を満たすことが目的だったが、人類はいつしか、食べることそれ自体や性行為それ自体に快楽を見出すようになっている、だから珍妙な美食趣味や、生殖行為と無関係な各種のフェチシズム性癖が存在するのだ云々、と。
そうすると、差別行為というのも本来は敵民族からの自己防衛などといった生存本能に根ざすものであったのだが、差別それ自体が快楽になっているのではないか?
実際、差別とは人に優越感の快楽を与える者である。サエないうだつのあがらないモテない自分でもあの○○よりはエラい、と。
(↑この○○にはユダヤ人でも黒人でも愛知県人でも中野区民でもマリ共和国のドゴン族でも何でも代入可能)
無力な弱者にとっては、前段で述べたように権威を求める心と、差別心は表裏一体である(ファシズム政権は巧妙に民衆に崇拝の対象と差別の対象とを提供してくれる)。
では、そのような、やむを得ず「差別欲」を持つ人々に、ユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別その他に換えて、リバコ人を「コイツならいくらでも差別しても良い」という「世界公認被差別階級」を提示してはどうだろうか? と夢想する。
自業自得の悪徳リバコ人が世界から憎まれる代わりに世界から差別はなくなる!! どうだろう、美しい解決策ではないだろうか?
――だが、このノーベル平和賞級の美しい理想は、絶対に実現できない。
なぜなら、わたし以外の人間にとっては「リバコ人」など、どーでもよいからであるw
イスラエルユダヤ人にとっては目の前のパレスチナ人が目障りなのであり、アメリカの白人には目の前の黒人が目障りなのであり、セルビア人にとっては目の前のクロアチア人が目障りなのである。
彼らに「黒人差別なんてダサいよ、それよりリバコ人を差別しようよぉ〜」と持ちかけても、「ハァ、リバコ人、なんじゃそりゃ? そんなもんワシには関係ない」と言われて終わりだ。人の憎しみとは本来、漠然とした対象に向かうものではなく、個別具体的な対象あって成立するものなのである。
つーか、そもそも、わたしが「リバコ人(仮称)」を憎むのも、自分が「リバティコープ」に一日付き合わされて生涯忘れられないぐらい不快な思いをしたから、という、一個人の個別具体的な私的事情が理由ではないか! ああくだらない!! わたしがいくらリバコ人(仮称)を憎もうとも、パレスチナ人の嫌いなユダヤ人、クロアチア人の嫌いなセルビア人、ツチ族を嫌うフツ族には、まるっきりどぉーでも良い話なのである。
――このように考えるとき『コードギアス反逆のルルーシュR2』の最終回で、主人公ルルーシュが「全世界の人民の敵として人々の憎しみを一人で引き受けて死ぬ」という役回りを演じたのは、もぉ本当にマンガ的夢想とか言いようがない。しかしそれだけに、このマンガ的夢想を真正面から描ききってくれたことには偉大さを覚えずにはいられない。