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2014/09/14

ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一

[]残りの人生で吉田健一

吉田健一は「好きな作家」というより、「好きになりたいと思っている作家」でありつづけているといったほうがよかろう。「好きな作家」と胸を張って言える自信がないからだ。一度書いた本に『時間』の一節を引用したことがあるけれど、中味を正確に理解して引用できたかどうかは不安である。

書棚にある本をふりかえってみれば、講談社文芸文庫から出た『絵空ごと/百鬼の会』*1を新刊で買ったのが吉田健一との出会いだった。1991年。幻想文学の作家の一人という関心からだったと思う。この新刊を買ったとき、『金沢/酒宴』が既刊であることを知り、一緒に購った。それ以降同文庫で出るたびに買っている。その後、その時点で刊行され、すでに品切寸前になっていた中公文庫などを、新刊書店や古本屋を熱心にまわって必死にかき集めた。古い日記の1991年5月21日にこんな記述を見つけた。

熊谷書店青葉通店にて、『舌鼓ところどころ』(吉田健一、中公文庫)を購う。(…)吉田健一の本は中公文庫から五、六冊出ているのだが、結局一冊のみで新刊書店には全くなし。殆ど品切れかと危ぶまれる。

「熊谷書店青葉通店」という古本屋はとっくの昔になくなっている。さらに日記を見てみると、東京に出たとき(出版社への入社試験だったろうか)に立ち寄った八重洲ブックセンターで売れ残っていた中公文庫版『東京の昔』を購っている。地方の人間にとって、すでに売れ切れて残っていない本が東京なら売れ残っているかもという期待が、大書店に対してたしかにあった。そういう感覚も懐かしい思い出だ。

それでも入手できなかったものは、直接中央公論社に代価の切手を同封して「汚本・旧カバーの本でいいから買いたい」とお願いしたところ送られてきたので驚いた。『瓦礫の中』『怪奇な話』『書架記』の3冊であった。それが9月6日のこと。この方法は井狩春男さんの本に教わったのである。3%の消費税が導入されたのが1989年。そのさい、それまで売られていた文庫のカバーに旧価格が書かれていて対応できず(その頃はおおよそが内税方式だったからか)、消費税に対応した新しいカバーを作るほど売れる見込みがないものは書店の倉庫に眠っているのだという話だった。その後、このうち『怪奇な話』は1993年に「僅少本復刊フェア」と称して中公から復刊され、いま書棚には、旧版とその復刊が2冊並んでいる。

そう見てみると、1991年という年は、吉田健一との出会いから一気に沸点まで達した年だったのだ。そんなふうでありながら、この間新潮社から『吉田健一集成』が出て、二十数年も経っていまだに吉田健一をきちんと理解できているか怪しいというのは、何とも情けない話である。

しかしこのほど、角地幸男さんの『ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一*2(新潮社)を読んで、吉田健一が好きかどうか、好きになれるかどうか、というよりも、とにかく今後残りの人生で真剣に付き合ってみるに値する作家であることを強く認識した。この本によって、日本語という言葉でものを考え、表現する人間のひとりとして、吉田健一がそうした問題にどのように向き合ってきたのかがよくわかった。

また、たいへんに難解な書である『時間』に対する丁寧な解説「時間略解」を読んで、この本に書かれたことがらをどう読むべきか、はじめておぼろげながらわかってきたような気がする。

驚きなのは、吉田健一の仕事のなかでも大好きな『大衆文学時評』が、角地さんによれば、後期の『時間』へと向かってゆく吉田健一の文業において重要な位置を占めているという指摘だった。『大衆文学時評』は、取り上げられている作品がわたし好みであることもあって著作集の端本を持っているほど好きなのだが、これまた内容を十分に理解できているかといえば、覚束ない。この仕事のなかで吉田健一が考えていたことが、後期の仕事につながってゆくという指摘に、自分の“吉田健一好き”の方向性は間違っていなかったのかもしれないという大きな安堵を覚えたのも事実である。

いよいよ著作集を購入する時機がやってきたように思う。以前は高くて買えなかったが、最近全集全般の価格下落とともにだいぶ手に入れやすいところまで安くなってきた。これらを残りの読書人生、じゅうぶん愉しめるだろうとふんでいる。

2014/04/15

本を読む人のための書体入門

[]ソシュールを超えて

正木香子さんの『文字の食卓』*1(本の雑誌社)は、文字好きにとってこのうえなく素敵な本であった。だから、本好きのうえに文字好きだろうと踏んだ同僚にも薦めた。

期待どおりそれを面白く読んでくださったようで、今度は逆に、正木さんの新著が出たことを教わった。『本を読む人のための書体入門』*2星海社新書)である。昨年12月に出た本で、発売後ほどなく教えられ、すぐ買ったはずだけれど、しばらく読まずに放ってしまっていた。

ようやく身辺に余裕が出てきたので積読の山から本書を掘り起こして読み始める。果たして一気に魅了された。前著『文字の食卓』からすでに感じていたが、正木さんの文字に対する関心のあり方が、自分のそれととても近いことをあらためて実感した。しかも本書では共感するところが随所にあって、何度も深くうなずきながら読み終えたのだった。

『文字の食卓』が実践編だとすれば、本書『本を読む人のための書体入門』は書名のとおり入門編なのかと言えば、実はそうではない。理論編というか、思想編である。著者の字体(フォント)に対する考え方が、軽やかで平明な文章を用いて力強く説かれている。

ソシュールによって提唱された言語論のキーワードとして、シニフィアンシニフィエがある。言葉を表記する文字や音声といった表面的な要素と、指し示す意味を示す要素のふたつから言葉が構成されているというのである。

ところが『本を読む人のための書体入門』では、そうした言葉のもつ二側面というソシュール以来の言語論をあっさり超えてしまった。字体というもうひとつの要素こそ、享受者に伝えられるあたらしい第三の感覚である。おなじ言葉であっても、字体が異なればまったく違った印象を与える。字体が固有の雰囲気を身にまとっているのである。これはたいへん画期的なことではあるまいか、と思う。

本書は従来も星海社新書の本文書体として使われてきた筑紫明朝が採用されている。編集部からは、字体の本なのだから自由に選んでいいと言われたが、正木さんはそのまま筑紫明朝を選んだという。この書体、わたしがかつて出した本のシリーズでも使われていた。そのシリーズから本を出すことが決まってからというもの、近刊を眺めては、自分の文章がその書体に包まれることを夢見た。筑紫明朝という字体は、その端正なたたずまいが、読む者をして一字一句もおろそかにさせないという雰囲気がある。少なくともわたしはそう感じる。

とはいってもその字体が筑紫明朝という名前だと知ったのは、後の話である。上述のように気になる字体だったため、本の校正中、校正のやりとりをしていた編集者の方に「この本の字体は何と言うのですか」と質問して教えていただいたのだ。

そのひとつ前の本では、やはり字体にこだわり、版元にあたらしい字体セットを購入してもらった。もちろんその字体は拙著のためということではなく、もともと別の字体を揃えてこれからも表現豊かな本をつくっていこうと考えていた版元の意向とうまく合致したからこそ、そうしてもらえたのである。幸運だった。

いま別に二つの企画が進行中なのだが、ひとつは僭越ながら字体を指定させてもらっている(実現するかは未定)。いまひとつは、そのシリーズで用いられている字体がやはりわたしの大好きなものであるため(こちらは名前をすでに知っている)、前著同様その字体で表現される自分の文章をイメージしながら準備を進めている。

このようにわたしは、内容以上に、文章が表現される字体の美しさ端正さにこだわりを持っている人間であり、これは自分の所属する業界では異端に属するだろう。版面の美しさより内容の良し悪しが問われるべき業界だからだ。でもわたしは、たとえ内容が良くても、それを表現する字体が醜ければすべてが台無しになると考えている。

正木さんの考え方に共感することのもうひとつは、キーボードで文章を打つとき「かな入力」を使っているということだ。大学生のときにワープロ専用機を購入して以来25年を経過しているが、わたしも最初からかな入力であり、ローマ字入力に浮気したことはない。最近でこそ、電子辞書はかな入力をはなから拒否しており、公共の場所にあるパソコンをわざわざかな入力に変えてから打つことまでしなくなったため、ローマ字入力には慣れてきた。大きな流れに乗せられやすい性格なのだが、これだけは死守したい。

ワープロに親しみ始めた当初は、キーボードのキーを万遍なく使いたいという貧乏根性からかな入力を選択したのだが、それに慣れるうち、自分の頭で考えた文章がいったんアルファベットに変換されることがどうにも許せなくなった。日本語で考えている以上、浮かんだ文字をストレートに日本語キーボードに打ち込みたい。そんな意志が少しずつ強くなって今に至っており、たぶん死ぬまでかな入力はやめないだろう。

かな入力派なので、ノートパソコンを選ぶのにも条件がある。ローマ字入力主体だと、右のほうにあるキー(「け」「め」「ろ」「む」など)が、ほかのキーにくらべて小さいものがある。これはかな入力派としては受け入れられない。全部のキーがおなじ大きさであるのが理想である。意外にマックがそうなので、それだけで嬉しい。右端の、ローマ字が割り当てられていないキーが不当に小さいのは、ある種のマイノリティ差別なのではあるまいか。

そんなことを考えていたので、正木さんがかな入力派だと書かれていてとても嬉しかった。記号論を超えた言語論の展開、字体へのこだわり、かな入力、この三点によってすっかり本書の魅惑にとりつかれた。たかが新書とあなどるなかれ。中身はとても充実した、強靭な思想が展開されている文字論、言語論なのである。

八尾のポコペンさん八尾のポコペンさん 2014/07/11 10:20 漢字、という分野で、白川静さんはどうですか?
大学闘争でキャンパス封鎖の中でも、裸で漢字研究されてたとか?!興味あります。

のんののんの 2014/08/28 21:04 大坂志郎さんの大ファンです。今放映中の大岡越前も夢中になって見ているものです。志郎さんは本名でしょうか?お墓参りに行きたいのですが場所をごぞんじでしょうか?宜しくお願いします。

kanetakukanetaku 2014/09/14 21:11 大坂志郎さんのお母様が書いた本を2006/10/19のブログで書いています。姓は神成というので、本名ではないのかもしれませんね。お墓のことも存じ上げません。すみません。

2014/04/14

芸者小夏

[]花柳小説の金字塔

舟橋聖一『芸者小夏』*1講談社文芸文庫)を読み終えた。

実はこの作品が原作となった映画をかねがね観たいと思っていて、長いあいだ果たせないでいたが、日本映画専門チャンネルで放映していることを知って慌てて録画し、どうせ観るのならその前に原作を読んでおこうと奮起したのである。

山梨県にある温泉場の芸者の子として生まれ、幼い頃母を亡くし置屋で育てられた主人公夏子は、小学校卒業後芸者となり、小学校の恩師にほのかな恋慕を抱きながらも結局東京の建設会社の社長に身請けされて東京西郊(井の頭線沿線)の妾宅に囲われて二号さんとしての生活を送ることになる。

小説はそんな幼くて純情な芸者夏子と恩師久保先生との淡い恋を背景に、芸者としての生活、また囲われた妾としての日常生活が微細に描かれる。個人的には、芸者が身請けされるまでのかけひきや、身請けされてから妾宅で暮らしてゆく「二号さん」としての日常生活の細部、また二号さんが旦那やその正妻に抱く心の揺れなどが生き生きと描かれている点でとても面白かった。

「不倫は文化だ」という名言があったけれど、花柳界は堂々たる文化と言えるし、非難をかえりみず言えば、「女を囲う」という行為もそれに近いものがあったのではあるまいか。ただ「女を囲う」のが文化的性格を発揮したのは、近代以降の富裕層という限定された時間と階層に限定されていたのかもしれないが。そしてもちろんこの「文化」は、すでに明治期でも黒岩涙香のようなジャーナリストから「蓄妾」と批判された背徳的行為ではあった。

だからこの『芸者小夏』は、いまやまったく廃れてしまった花柳界の身請けから、身請けされた女性の生活までを漏らさず描いたという意味で、貴重な「文化」の一端を伝えているとも言える。

本書は、講談社文芸文庫において丸谷才一さんが『花柳小説傑作選』を編んだときに収録候補になったが、連作短編集のおもむきを呈しているとはいっても一篇だけを抜き出しがたく、結局は長篇小説ということになるので(とわたしは推測する)収録が見送られ、かわりに一冊独立しての文庫化が企画されたのだという。このいきさつは本書にとって幸福だったし、わたしたち読者にとっても同様だった。こんな素敵な小説を文庫で読めるのは幸せである。ちなみに「花柳小説の金字塔」とは文庫帯の惹句である。

中身は結構官能的で、かといってあからさまでなく大事な部分、場面は衝立の奥に隠されるようなうまい見せ方がされているから、それがかえって想像力を刺激する。

これで講談社文芸文庫に入った舟橋作品は『相撲記』『悉皆屋康吉』につづいて三作目であり、珍しくわたしはそのすべてを読んでいる。しかもいずれも面白いのだ。意外にわたしには舟橋作品が合っているのかもしれない、そんなことを感じた。

なお上記の文庫化経緯は、松家仁之さんによる解説に紹介されているのだが、丸谷さんの担当編集者でもあった松家さんの解説は文章表現が意を尽くして素晴らしく、やはりこの人の小説作品(『沈むフランシス』など)を早く読もうという気にさせられる。

[]岡田茉莉子の入浴場面に惹かれて

  • 日本映画専門チャンネル
「芸者小夏」(1954年、東宝)
監督杉江敏男/原作舟橋聖一/脚本梅田晴夫/岡田茉莉子/池部良/森繁久彌/御橋公/杉村春子/沢村貞子/中北千枝子/北川町子

この映画は、主演岡田茉莉子さんの入浴場面が入った宣伝ポスターが盗まれるという騒動になった伝説の作品である。やはりわたしもこの場面のスチール写真を見て以来、岡田茉莉子さんの美しさに見惚れ、観たいと願っていたのだった。ようやく今回その念願が叶った。

あらかじめ原作を読んでから映画を観ると、原作にあるエロティシズムはうまく再現されず(もっともこれは仕方のないことである)、また夏子がほのかに恋を寄せる恩師久保先生との恋愛関係が強調されてしまって、原作の良さである「二号さん」生活の細部が生かされない。これもまた、久保先生役が東宝きっての二枚目池部良さんである以上、そう改変されるのは致し方ない。したがってストーリーとしての面白さは原作に軍配を上げざるをえない。

ただ、岡田さんは匂い立つような美しさだし、配役も見事にはまっている。身請けする社長が御橋公なのはややインパクトに欠けるものの、二人の世話を焼く部下である経理課長河島の森繁さんはまさに適役。また夏子の養母となる置屋のおかみに杉村春子、馴染みの料理屋のおかみに沢村貞子という二大女優を配して盤石、この安定感は揺るぎない。

先輩だが売れ残り気味で不見転の年増芸者といった役どころに中北千枝子というのも見事。思わず成瀬巳喜男監督の『流れる』を思い出してしまった。

映画は旦那の御橋公の死で終わり、続篇へと続くことが予告されているが、御橋の葬儀の場で、焼香に参列した岡田茉莉子を好色な目で見つめる葬儀委員長佐久間に志村喬というのも絶妙。小説では、旦那没後献身的に夏子の世話をするものの、甲斐性がなく自分が囲うという立場になれない河島をさしおいて、夏子は結局佐久間の二号さんに収まってしまうのだが、枯淡というべき御橋公(原作でもそんな印象)と対象的に強引で脂ぎった老人実業家の雰囲気を、志村さんがあの葬儀の一場面だけで表現してしまうのだからすごいものである。

2013/09/23

異形の白昼

[]引用を読むか読まぬか

9月中旬に読んだ本。

筒井康隆『異形の白昼 恐怖小説集』*1(ちくま文庫)。

アンソロジストとしての筒井さんの見識の高さが発揮された一冊。巻末の筒井さんによる「解説・編輯後記」を早く読みたくて本篇を読んだという本末転倒の気味があった。全篇すばらしいのだが、なかでも、小松左京「くだんのはは」、結城昌治「孤独なカラス」、筒井康隆「母子像」、曾野綾子「長い暗い冬」が恐ろしい。さらに一篇を選ぶとすれば、別に編者に敬意を表してというわけではないが、「母子像」に指を屈する。やはりこれがもっともこわい。

「くだんのはは」といい「母子像」といい、とくに有名な作品であり、わたしも過去に読んだことがあるはずなのだが、まったく憶えていない。そんな自分の記憶力のなさを思い知らされた読書体験だった。生島治郎笹沢左保といった作家にもこんなに魅力的な作品があるのだと知ったのも嬉しい。いまほとんど読めないのかもしれないが。

もう2冊。池澤夏樹『言葉の流星群』*2(角川文庫)と、谷口基『変格探偵小説入門 奇想の遺産』*3(岩波現代全書)。前者は宮澤賢治、後者は乱歩をはじめとした「変格探偵小説」、それぞれまったく違った対象を論じた本だが、そこで言及されている(引用されている)対象への向きあい方について考えさせられた本だった。

宮澤賢治作品は、童話にせよ詩にせよ、あまり読んでいない。読もうとしたことはあったが、肌が合わないというべきだろうか。深く入ってゆけなかった。でも、『言葉の流星群』のなかで池澤さんの文章とともに引用されている宮澤賢治作品であればスッと頭に入ってくる。宮澤賢治もなかなか面白いと思う。結局、自分ひとりでは歯が立たないということなのだろう。人の助けを借りなければ、宮澤賢治とは向き合えないのかもしれない。自分にとって宮澤賢治とはそういう存在であり、今後も変わらないだろう。

いっぽうの『変格探偵小説入門』。いままで作品として楽しんできた対象が評論されている。江戸川乱歩横溝正史小酒井不木夢野久作らの作品が掘り下げて論じられている。乱歩およびその作品を論じた第二章であればすんなり読める。かつてひととおりすべて読んでいるから、ここで谷口さんが論じておられる乱歩作品を知ったとしても、自分の乱歩作品に対するイメージの核がしっかりあるから、これから再読しようと思っても谷口さんの説が邪魔をするわけではない。乱歩であれば泰然と構えていられる。

ところが夢野作品だとそうはいかない。たとえば『ドグラ・マグラ』は学生の頃読んだが、あまりわけがわからないまま何とか読みとおしたという印象しかない。だから、いつの日か再読しようと思っている。この本の議論が再読に影響するのではと恐れ、表面をなでるように読むことしかできなかった。なるべく白紙で読みたいのだ。もっとも再読はいつになるかわからない。わたしのことだから、本書を熟読しても、そのあいだに論旨を忘れているかもしれないのだが。

本書のなかで惹かれたのは、第三章の横溝論(「変格の血脈―横溝正史が受け継いだもの」)だった。とくに戦前書かれた「孔雀屏風」という作品が漱石の「趣味の遺伝」の影響を強く受けたものであるという指摘は面白かった。「蔵の中」「鬼火」といった耽美的作品は横溝作品のなかでもあまり得意ではなかったが、その流れに位置するらしい「孔雀屏風」には強く興味をそそられた。角川文庫の『真珠郎』に収められているらしい。今度見つけたら買っておこう。

「変格探偵小説」を論じた評論が岩波書店から出るということに驚きつつ感慨深く受け止めていたけれど、横溝正史漱石の影響を強く受けていたという主張が、あるいは岩波から出てこそインパクトがあるということだったのかもしれない。「あとがき」などによれば、ここでの主張は既発表論文にておこなわれており、たんにわたしが初めて知ったに過ぎないようなのだが。

いずれにせよ、小酒井不木城昌幸の作品をじっくり読んでみよう、そんな気持ちにさせられ、「変格探偵小説」の大いなる可能性と文学における重要性を、文学研究の立場から教えられた本だった。

2013/09/11

決定版切り裂きジャック

[]永遠と名づけ

この9月上旬に読んだ本。

伊坂幸太郎さんの『終末のフール』*1(集英社文庫)。

子供の頃、人は死んだらどうなるのだろうと考えていたら眠れなくなったとはよく聞く話である。わたしもそうだった。しかも今もってときどきそういうことが頭から離れなくなって寝つけなくなり、本を読んだりして何とか忘れようとすることがあるから困ったものである。

死んだらもう永遠に家族と会えなくなる。それだけでなく、何億年かあとには地球という星そのものもなくなって、自分たちが生きていた痕跡すらなくなってしまう。そんなことを考えると恐ろしくなってしまうのだ。そんな死への恐怖、永遠への畏怖から、宗教や文学が生まれてきたのだろう。

『終末のフール』は、8年後に小惑星が地球に衝突し、人類は滅亡すると予告されたあと、5年を過ぎ、残り時間3年となった時点での仙台に生きる人びとを連作形式で描いた作品である。滅亡予告直後には世の中はパニック状態になり、絶望した人たちによる略奪や殺人などが横行し、自殺も増加した。5年を過ぎた頃になるとそれも若干落ち着いたというあたりの絶妙な時間的配置のなかに、終末を迎えようとする人びとの暮らしが点景として映し出され、それが底の方でつながっている。

やはり伊坂さんは物語の設定がうまいなあと脱帽する。そのうえ、そうした設定のなかで人間はどうなってゆくのかという想像力が豊かであり、細部に違和感を持たせない説得力を持っている。

もし本当にそんな予告がなされたなら、自分はどういう行動をとるのだろう。他人をかえりみずひたすら食料確保に走るのか、安全なところなどないくせに、少しでも安全なところに逃げようとするのか。あるいは達観して、どうせ無駄になることがわかっていても、そのまま仕事を淡々とつづけるのか。

すぐに達観はできないだろう。ならば、どのような階梯を経ればそういう境地に至るのだろうか。いろいろと考えさせられる物語であった。

仁賀克雄さんの『決定版 切り裂きジャック*2(ちくま文庫)。

1985年に刊行された元版以来蓄積されてきた切り裂きジャック関連の本をさらに渉猟してそれらを紹介し、最終的な見解をまとめる。あとがきによれば、たんなる85年版の増補ということではなく、大幅な増補改訂をしてあらたに書き上げたのだという。

初耳だったが、切り裂きジャック研究者(愛好家)を「リッパロジスト」と呼ぶのだそうだが、事件(1888年)から100年以上を経て、もうあたらしい証拠・証言などは出現しないという21世紀の今出された本書は、リッパロジスト仁賀さんの集大成というべきなのだろう。

読みながら、そもそもこの殺人鬼を「Jack the ripper」と呼んだ人は誰なのだろうと不思議に思った。ネーミングセンスが素晴らしいからだ。この呼び名が殺人鬼のイメージを決定づけ、100年以上にもわたって恐怖の記憶を残し、人によっては強烈に魅せられ、「リッパロジスト」まで生んだその名前。

答えは本書にあった。第二の殺人後に新聞社に送られた犯人自身からの犯行声明とされる投書。そこにそう署名してあったのだという。以降この名前が犯人の呼び名となった。仁賀さんはこの声明は犯人のものではなく第三者の悪戯だと断定しているから、結局その「悪戯者」が切り裂きジャックという大殺人者のイメージを導いたことになる。

では「Jack the ripper」を「切り裂きジャック」と邦訳した人は誰なのか。Jack the ripperは強い印象を与える呼称だが、切り裂きジャックもなかなか原語に劣らない喚起力をもっている。

もちろんJack the ripperを単純に訳せば、誰でも「切り裂きジャック」になるだろうと言われればそうかもしれない。でも最初にそう訳した人はやはりすごい。仁賀さんによれば、日本で初めてJack the ripperを紹介したのは、事件から40年後の牧逸馬『世界怪奇実話』だという。そこで牧逸馬が「女肉を料理する男」と題して切り裂きジャックを取り上げたのだそうだ。のちにタイトルが「切り裂きジャック」と変更された。

仁賀さんが引用している部分からは、牧が本文で「切り裂きジャック」と書いているかどうかまで確認はできない。だから、その後殺人鬼が「切り裂きジャック」と呼ばれるようになってから、タイトルがそれに合わせて変更された可能性もないわけではない。

むかし『世界怪奇実話』を持っていたはずだが、手放してしまったようだ。以前光文社文庫から、島田荘司さんの編にて復刊されたとき、買うか迷った記憶がある。買わずにそのままになって、古本で見かけたときも同じように迷ったように思う。買っておけばよかった。

Jack the ripperにせよ、切り裂きジャックにせよ、その名づけのうまさも殺人者像の増幅にあずかって力があったのではないだろうか。