昭和30年代史の叙述方法

昭和が明るかった頃

ラピュタ阿佐ヶ谷で始まった「昭和の銀幕に輝くヒロイン」第24弾の芦川いづみ特集を観に行くにあたり、もう一度日活のお勉強をしておこうと、去年11月に文庫に入った関川夏央さんの『昭和が明るかった頃』*1(文春文庫)を読むことにした。元版はその約半年前、去年の6月に読んでいるから(→2004/6/6条)、まだそれほど時間を経過していない。
この間ケーブルテレビに入って、わたしの映画鑑賞環境は大きく様変わりした。追加料金なしで視聴できるチャンネルNECOは日活が出資していることもあり、日活の古い映画をよく放映してくれる。まだ積極的にこれらいわゆる“アクション映画”を観ようという気持ちになれないでいるが、関川さんの本を読んでいるためか、まったく無視することはなくなった。
映画を観に行く直前、東北地方の小さな城下町に出張する予定が入っていたので、この本を携えることにした。帰りの新幹線でようやく読み終えることができたのだった。
さて、再読して感じたのは、前回ひっかかった点、すなわち、石原裕次郎が戦後はじめて軍人が似合わない俳優として登場したという指摘、また、映画「若い人」のなかで、殿山泰司ミッキー・スピレーンを音読する大家に扮しているという点、この二つのくだりがやはり同じく強烈な印象に残った。この記述は、わたしにだけ強く訴えかけてくるのか、読む人みんなに同じように強い印象を残すのか、どうなのだろう。
本書は、1950年代後半から60年代前半、高度経済成長前半期にあたる時代の時代精神を鋭く描き出した本である。こういう言い方が曖昧だと言うのであれば、思い切って、その時代の「歴史」を叙述した本だとしてもよい。ある意味きわめて正統的な“昭和30年代史”と言えるのかもしれない。
現代史という分野においては、前近代史の方法である政治史とか経済史といった歴史叙述は成り立たないのではあるまいか。現代史を叙述するためには、政治も経済も文化も個別に扱うことができないような気がする。関川さんはそうした障害を乗り越えるための素材として映画、とりわけこの時代の精神をリードする存在だった日活の映画に的を絞り込む。
そのうえで、日活映画と接点があった人びとが、この時期日活映画が体現していた戦後思潮である民主主義・個人主義的な思想とどうかかわっていたのか、一人一人の関わり方を積み上げてゆくことであたかもモザイクのように組み合わさり、昭和30年代という時代の歴史が浮かび上がってくる
中心となるのは、もちろん「石原裕次郎という物語」「吉永小百合という物語」にほかならない。これは前回も書いたことだが、そのうえ、彼らの作品を作った監督である西河克巳や浦山桐郎蔵原惟繕今村昌平、日活に一時所属した鈴木清順川島雄三熊井啓、同時代に活躍した増村保造山田洋次吉田喜重大島渚、日活のスターだった小林旭赤木圭一郎宍戸錠和田浩治浜田光夫高橋英樹北原三枝浅丘ルリ子芦川いづみ南田洋子月丘夢路、かつてのスターだった高峰三枝子轟夕起子や三浦充子(光子)、脇を固めた宇野重吉北村和夫、多くの日活映画に原作を提供した石坂洋次郎や、吉永に熱いまなざしを向けた川端康成、また日活の基本路線を決定し、制作を統括する経営者側の堀久作、石神清、江守清樹郎ら、一人一人がこの時代とどのように関わったのかという「小さな物語」が本書のなかに詰めこまれているのである。
元版を読んだときに書いた感想を読み返してみて、「そういえばそうだった」と気づいたのは、年代が西暦によって記述されていることだった。読みながら、西暦から25を引き昭和の年代に置き換えるという計算を何度やったことか。書名が『昭和が明るかった頃』であるのにくらべ西暦表現である矛盾、またもや読み終えてから気になってきた。上で本書を“昭和30年代史”と書いたのは、関川さんの意に沿わない表現なのかもしれない。

それぞれの50年代

「乳母車」(1956年、日活)
監督田坂具隆/原作石坂洋次郎宇野重吉/山根寿子/芦川いづみ石原裕次郎新珠三千代

関川さんの『昭和が明るかった頃』によれば、この作品は石原裕次郎が鮮烈デビューを果たし、映画界に革新をもたらした「太陽の季節」「狂った果実」に引きつづき、それらと同じ年に制作されている。
わたしは上記二作品をはじめ、いわゆる「太陽族」路線、アクション路線の裕次郎映画をほとんど観たことがない。「憎いあンちくしょう」がそれに入るのなら、唯一と言ってよい。
そういう人間がこの映画での石原裕次郎を観ると、他に思いあたる俳優がいないほどすこぶる爽やかな好青年というイメージで、この路線でいってもそこそこ売れたのではないかと思ってしまう。しかし高度経済成長前半期の日本において、日活は石原にそうした物語を求めなかったと言うべきだろうか。
石原がデビューする以前、日活は文芸路線の映画を多く制作していた。そこに石原という個性が登場した直後、日活はどのような姿勢をとったのか。関川さんは次のように書いている。

このように、石原裕次郎には性的な要素はむしろ稀薄で、いくら不良じみた役柄を演じようと、どこかにかすかなひ弱さを隠した都会的な育ちのよさを感じさせる個性だったから、日活は『乳母車』(五六年)、『陽のあたる坂道』(五八年)、『若い川の流れ』(五九年)とつづく、石坂洋次郎原作、田坂具隆監督の戦後民主主義ホームドラマ路線を用意したのであり、田坂具隆裕次郎の「思い入れのない演技」を愛したのである。(文庫版『昭和が明るかった頃』98頁)
この映画でも、芦川いづみの「出来心」に激怒した石原が、デパート(高島屋)の屋上に芦川を呼び出し、強い調子で詰問するシーンがあるが、あまり迫力を感じない。「ひ弱さ」という言葉に納得する。
そうそう、この映画は「芦川いづみ特集」で上映されたのだった。鎌倉に住む会社重役令嬢の芦川。ある日父(宇野重吉)に愛人(新珠三千代)があることを知ってショックを受け、翌日さっそく奥沢(最寄駅は九品仏)に住んでいるという愛人宅を訪れる。すると出てきたのは彼女の弟という石原で、彼女は父との間に女の子をもうけていた。自分の異母妹にあたる赤ん坊を見て、彼女の苦難の将来を慮り、父を糾弾しようとする芦川。
新珠三千代はまたしても「ひかげの女」役だ。もちろん、「あした来る人」の感想を書いたときにも触れた、川本三郎『続々々・映画の昭和雑貨店』*1の「お妾さん」項でも、この映画に触れられている。
芦川や石原から、外に愛人と子供を作る身勝手さを追及され、「大人には大人の事情もある」と弁明する会社常務に宇野重吉。映画前半一時間は、ちらりと遠目で写ったり、書斎でソファに深々と座りクラシックを聴く後ろ姿だったり、声だけの存在だったが、映画がちょうど半ばにさしかかったあたり、新珠の家で愛娘をあやすやさしい顔でようやく本格的に映画のなかに登場してくる。このあたりの演出がなかなかいい。
宇野に愛想を尽かして家を出る妻に山根寿子。彼女は生計を立てるため、銀座のバーに働きに出ようとする。あのきりっとした顔立ちの彼女にぴったりの役柄だ。
芦川はいつもながらキュートなのだが、アップにすると顔の肌荒れが気になってしまうのだった。きっと仕事に追われていたのだろうな。意外にストーリー的にも面白く、文芸路線の映画として、佳品であると言うことができる。

「三等重役」(1952年、東宝
監督春原政久/原作源氏鶏太/脚本山本嘉次郎井手俊郎/河村黎吉/森繁久彌小林桂樹沢村貞子千石規子/小川虎之助/進藤英太郎藤間紫/小野文春/越路吹雪

ようやく「三等重役」を観ることがかなった。海沿いのとある町、町のなかで誰知らぬ人はいないという有名な会社南海産業が舞台。公職追放で前社長が退任したため、社長の座についたのが河村黎吉。しかしある日新聞で前社長が追放解除となり、復帰に意欲満々であることを知ってブルーになる。朝から海水パンツで海岸を走り回り、ローストチキンを頬張るほど元気満々の前社長だったが、いざ出勤のため車に乗ろうとした直前、脳溢血で倒れてしまう。
前社長の復帰の報に緊急役員会を開いていた役員たちは、この知らせを聞いてホッと胸をなで下ろす。森繁が人事課長役で、小林桂樹が秘書室員役。のちの「社長シリーズ」の原型となったという。
後半、河村が知り合いの社長進藤英太郎と東京出張に出るあたりが面白い。河村は森繁を同行させたのだが、進藤は愛人の藤間紫を同伴する。汽車の車内でいちゃつく二人が気になってならない河村と森繁。愛人が藤間紫なのは帰宅後知った。色っぽい。
ところが東京駅で待ちかまえていたのは、進藤の妻だった。夫の行動を監視しようと飛行機で先回りしていたのだ。慌てた進藤は藤間を河村の妻と偽って紹介する。おかげで、旅館では河村と藤間が同室で眠るはめに。気になってしょうがない進藤は、夜中三度も二人の部屋を訪れ、監視を怠らなかったため、翌朝寝不足で愚痴る河村のおかしさ。
河村は東京出張所の仕事の視察が目的で上京した。事前連絡なしで突然訪れたため、出張所の社員がみんな朝遅く出勤することがばれてしまう。その出張所長が巨漢で茫洋とした雰囲気の小野文春。小野文春と言えば、松竹と大映が競作して話題となった「自由学校」で、文藝春秋社員から抜擢され大映版(吉村公三郎監督)の五百助を演じた人物ではないか。
こちらの「自由学校」はあいにく観る機会を得ていない。“日本映画データベース”を検索すると、小野文春の出演映画は「自由学校」と本作のみらしい。その意味でも貴重な映画なのだ。「自由学校」では素人臭さがあったようで、この映画でもたしかにそう言えなくもないのだが、けっこういい味を出している。
というのも、会社に遅刻してくるのも、社長との宴席を中座して早く帰ってしまうのも、付き合っているお好み焼き屋の女将越路吹雪の店を手伝うためなのだ。細面できつい感じの顔立ちをしている越路と、エプロンを付けて奥で野菜を刻んでいる人の良さそうな小野文春という二人の組み合わせが絶妙である。源氏鶏太の原作でも、出張所長はこんな五百助型なのだろうか。河村はそんな二人を見て、二人の結婚を仲立ちする。社員を思いやるいい社長なのである。

朝刊に誘われて

午前中の「乳母車」と、15時過ぎからの「三等重役」の間の空き時間、また歩いて隣町の荻窪にでも行き、ささま書店でものぞこうかと思っていたところ、たまたま朝刊でこの「小野忠重傑作版画展」が開催中であることを知った。小野忠重版画館はラピュタと同じ阿佐ヶ谷北二丁目なのだ。今日はささま(=古本)より、小野忠重を選ぼう。
小野忠重という版画家については、池内紀さんの『二列目の人生 隠れた異才たち』*1晶文社)で知ったのだったと思う。池内さんはこの版画館について、「わが国に数ある美術館のなかで、もっとも小さく、もっとも道筋のいいにくい一つである、とともにもっとも充実した、そしてもっとも心のやすらぐところでもある」(174頁)と賞賛の言葉を贈る。
たしかに場所は説明しにくい。ラピュタを出て北に行くと「仲通り」という商店が点在するいくぶん人通りのある通りに出る。通りと言っても車一台分の幅しかない。そこを荻窪方面にしばらく歩くと変形の小さな十字路があり、そこを右斜めに折れると、すぐ版画館の建物が目に入る。
たしかに版画館は、「小野忠重版画館」という多少大きめの表札が下がった普通の家というたたずまいだった。中に入ると、女性(あとで知ったが、忠重の息子さんの奥様らしい)が出迎えてくれる。
版画が展示されている部屋は二つ。奥の狭いほうに掲げられていた「工場街」という作品に目を凝らすと、紙に文字が見える。どうやら新聞紙に刷られているらしい。面白いなあと思っていたら、後ろから声を掛けられた。どうやらわたしが新聞紙に刷られていることにひっかかっているところが気になったらしい。口ぶりからすると、あまりそのことに注意する人はいない模様だ。
それをきっかけに、お茶とお菓子を振る舞われながら、いろいろと忠重の作品、版画の技法などについて、レクチャーを受ける。広いほうの部屋に展示されていた「木場」の紙のごわごわした質感も気になったので質問したら、あれは一度別の作品を刷って失敗した紙の色を落とすためぎゅっと丸めて水分を絞った上にもう一度刷ったのだという。たくさんの材木が水に浮かぶ情景とあの質感がマッチしていていいなあと思ったのだ。
奥様によれば、忠重はあまり紙にこだわらない人だったという。池内さんの本にも、忠重が「捨てない人」「捨てさせない人」だったとある。紙も粗末にしないで、リサイクルして使うことで、思わぬ効果を生み出す。「こだわらない」のか、逆にこだわっていた人なのか。
暗色(黒と言ってよいのか)の紙に明るい色で刷るのが忠重の版画の特徴だったようで、その黒の線(もともと版木に直接描かれ、忠重が彫った陰刻の線でもある)がダイナミックな印象を残す風景画や人物画にしばし立ち止まる。
帰り際、自分が『二列目の人生 隠れた異才たち』を読んで、かねがね訪れてみたいと思っていたことを述べると、ひとしきり池内さんの話で花が咲いた。奥様と池内さんは顔なじみとおぼしく、気持ちのよい池内さんのエピソードを教えていただく。知らない人とあまり交わらぬ自分にしては珍しい体験で、それがかえって気分良かった。

小林久三は助監督

  • 千章堂書店@阿佐ヶ谷
★小林久三『雨の日の動物園』(キネマ旬報社
カバー・帯、800円。ミステリ作家の小林久三さんは松竹大船に助監督として入所した人なのか。その時代を振り返った自伝的回想エッセイ。「キネマ旬報読者賞」受賞作とのこと。川本さんの本もそうだが、この賞を受けた作品は面白さが保証されたものだと言える。