今を、そしてこれからをどう生きていこのか。考える前に行動を。

今日から3連休。午後から自治会行事に参加して夕方実家へ。明後日帰宅予定。

 遅々として進まぬ計画。今日までの結果や現在の自分の姿は、今までの自分の取組の結果。自分の未来は、これからの努力次第。偉人の生き方を様々な形で学んできたが、たとえ群やが異なっても、怒涛の仕事量であり、絶え間ぬ探究心であったりとそれなりの努力の結果である。確かに、失敗もあるが、そこから這い上がってきた結果であろう。やは「り努力は天才にまさる」ものである。私のような凡人は、時に流されるのでhなく、自ら挑むことが不可欠である。人は、特に私は家好きに流されやすい。常に考え、学び、積み重ねていくことが大事であり、そのような行動をしていかざるえない。

 今、頭によぎることはなんだろうか。
 母、子供そして家族・これからの自分、起業、退職、小説、論文、、、、、。様々なことが浮かぶ。一つひとつに向き合い、努力して行かざるえない。まだまだ成長できるように考え、学び、自己実現して行かざるえない。一日一日をどう過ごすのかが重要な時期に来たのかもしれない。いや既にその中にあるのだろう。

(2月9日生まれの偉人)
◆秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。明治37年(1904年)の日露戦争において、騎兵第1旅団長[2]として出征し、第2軍に属して、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺身隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。
 大正9年1920年)12月28日:陸軍教育総監となり、陸軍の最高幹部の一人となる。また、軍事参事官を併任。 大正13年1924年)4月:私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長就任。退役陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事であったが、本人の強い希望だったと言われる。 昭和5年(1930年) 4月9日:校長辞任。
 フランス留学中の秋山 風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。
極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。
福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。
晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。
◆夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。
 帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現・宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。
 1937年1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し、横綱に推挙される。この推挙後に父親が死去。横綱昇進後、1938年1月場所と5月場所はいずれも13戦全勝で5場所連続全勝優勝を果たす。5月場所で双葉山の前の記録保持者である谷風梶之助の63連勝(分・預・休を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えている。1939年1月場所、前年の満州・大連の巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。しかし、力士会長の玉錦が1938年に虫垂炎を悪化させて現役のまま急死した(双葉山が2代会長に就任)ため、責任感の強い性格の双葉山は強行出場。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝をかけて1939年1月15日(1月場所4日目)を迎える。
 1939年1月15日、初日から4日目まで実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は前頭4枚目の安藝ノ海節男。この取り組み前、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山勝一を参謀に日々双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学出身の関取(早稲田大学)で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が半失明状態であることを知っていたことから対策の結論として「双葉の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。安藝ノ海は立会いから双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えのアナウンサーに対して「双葉負けたね!?確かに負けたね!?」と確認してから「双葉山敗れる!」と叫んだ。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っていて、この一番の後の取組のために土俵下で控えていた男女ノ川登三は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っている。しかし、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。この69連勝は2011年現在で歴代最高記録で、恐らく永久に破られることはない不滅の記録であろうとも言われている。
<名言>
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
「相撲は体で覚えて心で悟れ」
「われ未だ木鶏たりえず」
「勝負師は寡黙であれ」
「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」