mrbq(松永 良平 blog Q)

2017-07-15 夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その1

f:id:mrbq:20170715121619j:image



2ヶ月くらい前、ceroのライヴが終わったところだったかな。古川麦くんに「松永さん、今度、角ちゃんのインタビューをしてくださいよ」と話しかけられた。


「角ちゃん、今度ソロ・アルバムを出すんです。ぼくも参加していて」


そう聞いて驚いた。去年の11月、〈Modern Steps Tour〉からあらたにceroのサポートに参加した3人は、それぞれ際立った個性を持つ音楽家だ。麦くんはソロのほか、表現(Hyogen)、Doppelzimmerでも活動しているし、小田朋美さんもソロ、CRCL/LCKS、DCPRGなど忙しくやっていて、セカンド・ソロ・アルバム『グッバイブルー』を出そうとしているところだった。たしかその時点で、小田さんにインタビューする依頼をもらっていた(→ Mikiki / 小田朋美とは何者か? ceroやCRCK/LCKSなどで活躍する才媛が語る、早熟な音楽的歩みと歌うことへの葛藤経て見出した新起点)。


でも角銅さんがソロを作っていたなんて、まさかの驚きだった。ceroを通じて知り合ってから間もないし、伝える機会がなかったということもあるのかもしれない。それに、彼女のソロ・アルバムって、どういうものなんだろうか?


角銅さんの自由度が高く、楽しそうにプレイするパーカッションはceroのライヴでも見ていて楽しい。コーラスもceroにあらたな彩りを与えている。さらにいうと、彼女の歌がすごかった。去年(2016年)の暮れに発売されたジャズ・ドラマー石若駿のソロ・アルバム『SONGBOOK』の一曲目「Asa」で聴こえてきた彼女の歌声に、一瞬で魅了されてしまっていた。


果たして、角銅真実の初めてのソロ・アルバムは、メロディアスなのか、パーカッシヴなのか、プレイヤーなのか、シンガー・ソングライターなのか、そのすべてなのか、それ以外のすべてなのか。とても気になった。


でも、そんなことをつらつらと考えて、インタビューを承諾したわけじゃなかった。麦くんの依頼を聞いて、1秒も置かずに「やるやる」と返事していた気がする。角銅さんのプレイから、音楽から、人柄から、すでに答えは出ていた。


だって、そのインタビューは、ぜったいおもしろいだろ。


というわけで、今回から角銅真実『時間の上に夢が飛んでいる』発売を記念して、彼女のロング・インタビューを掲載する。このインタビューの定番として、生い立ちからじっくりと、最終的にアルバムに至るまでを彼女と一緒にひもといていくことにする。


タイトルは、彼女のアルバムを聴いて最初に思ったぼくの感想からつけた。


では、このあとは角銅さんのお話を。


====================



──たぶん、一番最初に角銅真実というミュージシャンを意識したのは、古川麦くんのアルバム『far/close』のリリース・パーティー『Coming of the Light』(2015年3月17日)だったと思うんです。あのとき、舞台の上にかわいいしけどずいぶん変わったキャラのパーカッショニストがいるなと思って見ていて。


f:id:mrbq:20150317215901j:image

(写真:鈴木竜一朗)



角銅 変わってましたかね?


──変わってたというか、「芝生の復讐」でソロを回したときに、口でパーカッションやりましたよね?


角銅 やりました(笑)


──それが第一印象でした。


角銅 へえ。


──そこから回り回って、ceroにサポートで入ることになって、去年11月から始まった〈Modern Steps Tour〉の初日、仙台で、ぼくは「はじめまして」のごあいさつをしたんだと思います。


角銅 そうでしたね。


──じっさい、そこで舞台に立った角銅さんのことを初めて気にかけたceroのファンも多いだろうし、そこまでの人生や音楽履歴にぼくもすごく興味があります。なので、いろいろと昔の話をうかがいつつ、最終的に初のソロ・アルバム『時間の上に夢が飛んでいる』に至る流れでインタビューをさせてください。よろしくお願いします。


角銅 よろしくお願いします。


──まずは、出身ですが、佐世保ですよね?


角銅 本当は佐世保市の隣の佐々(さざ)町です。両親の実家が福岡なので、生まれたのは福岡なんですけど、お父さんの仕事が長崎に決まって佐々町に。


──「角銅」って名字はめずらしいですけど。


角銅 福岡にある名字なんです。でも、本当に少なくて、自分の家族の周りくらいしかいなかった。


──どういうルーツがある名字なんでしょうね?


角銅 祖父が亡くなったときに親戚が集まったときに聞いた話なんですけど、炭鉱や採銅所の町の名字で、「角銅原(かくどうばる)」って地名もあるそうなんです(福岡県田川市)。銅を掘ってるときに、たまに銅の結晶ですごく角ばったのが出ることがあるらしくて。そういった銅を、奈良の大仏を作ってるときに都に送ったりしていて。もしかしたら弥生時代? 朝鮮半島とかの大陸からの青銅の流れがあるのかもしれないですけど。


──千年以上昔の話ですよ。


角銅 そう! でも、そのときに何かゆかりのある仕事をしていたという由来があるような話をしてました。


──やっぱり、ちょっと古さのある名字なんですね。ご家族の話を聞いていいですか? 何人兄弟?


角銅 ふたりです。2歳下の弟がいます。


──前にTwitterのアイコンが、子供のころの写真でしたよね。ああいう写真が残ってるのは、わりと家族仲がいいのかなと思うんです。


角銅 そう。いいですね。


f:id:mrbq:20170715122415j:image

生まれて半年くらいの写真(コメントはすべて角銅真実)



f:id:mrbq:20130310160919j:image

約二歳、夏祭りの花火の日におにぎりを持って機嫌が良い時の写真です



f:id:mrbq:20170715122550j:image

9,10歳の頃、夕ご飯の蟹の甲羅を洗って乾燥させたものをかぶっている写真(蟹の甲羅をかぶるのが大好きでした)


f:id:mrbq:20170715123214j:image

同じく9,10歳の頃、みかんのネットをかぶって、家族の誰かに上に引っ張ってもらって撮った写真(父に教わったこの遊びも大好きでした)



──ご両親は音楽好き?


角銅 お父さんは音楽がすごく好きですね。いわゆる音楽好きというより、自分の好きなものが好きというタイプで。八神純子、山下達郎、竹内まりや、大黒摩季、ABBAとか、ドライヴのときにいつもかかってて。わたしは車酔いするほうだったから、そういう人たちの曲を聴くと車酔いしてたときのことを思い出して「うっ」ってなってました。最近になって山下達郎とか、「いい曲だな」って思えるようになってきたけど。八神純子さんは大好きです。


──家に楽器があったりとか?


角銅 ピアノがありました。お母さんがちっちゃいときにやってたピアノがあって、誰も家族は弾いてなかったけど、わたしはいつもそれを弾いて遊んでました。でも、家族はわたしが弾いてることにはノーコメントでした。多分、暗い感じで取り憑かれたように弾いてたから(笑)


──ピアノ教室に通うでもなく。


角銅 小学校のとき一回「習いたい」って言って教室に行ったんですよ。でも練習が大変で、やめました(笑)


──じゃあ、子どものころは何が一番好きでした? 外で遊んだり?


角銅 食べられる木の実が周りにいっぱいあったんで、そういうのを見つけて食べるのが好きでした。


──え?


角銅 植物の実が好きでしたね。木いちごとか、柿とか、自生してるみかんとか、桑の実とか。食べられない実もあるんですよ、ピーピー豆とか。頭の中に季節の地図があって、その時期になったらあの実が成るからあそこに行こうとか、そういう感じでした。


──子どもだから、なにが食べられて、なにが食べられないかとか、わからないでしょ。どうやって見分けていたんですか?


角銅 おいしいか、おいしくないか(笑)。「へびいちごは食べたら死ぬよ」って言われてたのに一回食べたんですよ。そのあと「あれ? 食べたら死ぬって言ってたな」って思い出して。しかもあんまりおいしくなくて、すぐ吐いた。ヤマブドウと思ったら違う実で、食べたら口のなかが真っ青になってまずくて。そのときもお母さんに「死ぬよ!」って言われて、わーって吐いたりして。でも本当に食べれない実はなかったな……。あ、最近大人になって高尾山に行ったときに、わりと太い木に成ってる桑の実の仲間みたいな木の実があって、実自体はおいしかったんですけどトゲがすごくついてたんで、口のなかがイガイガになっちゃって。26、27歳でしたけど、そのとき初めて「ああ、なんでも口に入れちゃいけないんだ」って思った(笑)


──そっかー(笑)


角銅 山椒の実とかが自生して、芽が出てたりすると掘り出して持って帰って、自分で育てたりもしてました。すぐ枯れちゃうんですけど。そういうのが好きでした。道端の草とか。


──「自然が好き」というか、目で見て愛でるとかじゃなく、触って、食べて、みたいなじかで触れることが好きなんですね。


角銅 それが一番好きでした。


──学校では、どうでした?


角銅 学校は、ぜんぜん行ってなかった。


──行ってなかったかー(笑)


角銅 低学年のときは本当に理由をつけては休んだり、早退したり、保健室行ったりしてて。だんだん大きくなってからは、家を出てそのまま違うところに行ったり。小中高、そんなに学校は行ってなかったです。でも、昼休みには学校に行って、みんなと話して帰ってくるとか。学校の先生とはわりと仲よくて、なんで仲よかったは謎だけど。


──ウマが合う先生がいた。


角銅 好きな先生は好きでしたね。学校は嫌いだったけど。制服のごわごわした感じも匂いも嫌いだし、机が並んでるのもいやだったし。でも陸上部には入ってて、ハードルをやってました。中学では一応吹奏楽部にも入ってて、ジャンケンで負けて打楽器になったんです。


──あ、そこでパーカッション人生の始まり?


角銅 でも、そのときはほとんどやってなかった。打楽器の部屋があって、そこにみんな漫画の本を隠したり、グラウンドが見えたのでサッカー部にいる好きな人を見てたり、そういう感じだったんで、たまに授業いかない時も一人で部室には行ってました。楽器を梱包する毛布置き場に寝転がって漫画読んだり、書き物をしたり、その時、こっそり小さな音で部室の打楽器を演奏するのは大好きだった。


──陸上はなんでやってたんですか? 走るのが速かった?


角銅 そう。学校選抜みたいなのに入れられて、そこからやるようになったんです。県大会にも行きました。短距離を走るのが好きでした。パッと始まってパッと終わるし、スタートして一直線走るだけとかが超ドキドキするじゃないですか。長距離の駆け引きとかは無理でしたね。体が長距離向きって言われて、練習させられたりもしましたけど、「やっぱりわたし長距離はいやです」って言って、やめました。ハードルが楽しかった。


──ハードルは、一直線ではあるけど障害があるじゃないですか。


角銅 本当ですね。なんで好きなんだろ? でも楽しかったですよ。跳ぶのが楽しかったんだと思う。障害をどうにかするみたいな感じじゃなく。ハードルという競技に特別な気持ちがありました。


──これはこじつけかもしれないけど、ハードルってトントントーンって足の動きのリズムがあるじゃないですか。そういうおもしろさもあったのかも。


角銅 そうかもしれないですね。繰り返しの楽しさみたいなこと。


──そのころの角銅さんを覚えてる人は、走るのが好きな子だって印象だったのかな。


角銅 そうですね。走るのが好きで、学校行かない、ヘラヘラした人って見られてたと思う。


──ぼくも田舎だから感覚としてわかるけど、佐世保の街を高校生が平日にうろうろしてたら心配されるでしょ。


角銅 高校生のときは佐世保をぶらぶらしたり、知らない住宅街を歩いたりしてました。高校生の子どもを持ってるお母さんに、わたしが制服を着てるから「あなたどうしたの?」って声をかけられて、すごくうそついてその場を逃れようとしたらなぜか車に乗せられて学校まで送ってもらうことになったり(笑)。あと、よく行ったのは橋の下でしたね。中高生のころは、町にすごく好きな川があって、そこにひとりで行ったりしました。そこは人目につかないから、そこでじっとしてました。結構、悶々としてましたね。


──なんでしょうね? やりたいことを探していた?


角銅 うん、そういう感じに近かったと思います。結末のないお話とか完成しない絵をずっと書いたりしてたし。


──「こういうことをしたい」とか「こういうふうになりたい」みたいな具体的な夢もあった?


角銅 そういう欲求はすごくあったんです。ピアノもよく夜に一、二時間くらい謎の即興演奏を弾き続けたりしてたし。将来は、精神科医か薬剤師になりたいと普通に思ってました。薬剤師になりたいと思ったのは、漢方で植物の実を煎じたりするのとかが面白そうで興味があったから。長新太がめっちゃ好きで、絵本作家になりたいとも思ってました。


──精神科医というのは?


角銅 音楽とも近いんですけど、精神的なこと、言葉で説明できないことに興味があって。あと、学校にカウンセリングの先生が来てて、わたしは学校はあんまり行ってなかったけど、放課後にその先生のところにはよく行ってたんです。その人が唯一身近で学校以外の価値観を持った大人だったし、一対一で話せて、わりと仲がよくって。その先生に心の話を結構聞いたりしてて、憧れてたんでしょうね。


──ここまで話を聞いた感じだと、音楽も話題としては出てくるけど、その道に進むという流れは出てきてない。


角銅 そうです。音楽はすごく聴いてたんですけどね。


──でも、大学は東京藝大(東京藝術大学音楽学部器楽科打楽器専攻)ですよね? 高校はあんまりちゃんと行ってない。そこの目標のジャンプアップはどうやって起きたんですか?


角銅 山口ともさんっていうドラマーの人がいるんです。わたしが高校のころに『ドレミノテレビ』って教育テレビの番組をUAと一緒にやってたんです。そのころわたし、UAがすごく好きだったし、学校行ってないから朝の放送が見れるんですよ。山口さんはいろんな、いわゆる廃品的なものを集めたり、色々な素材を改造をしてパーカッションのセットを作って演奏する方なんです。衣装もすごく素敵で、「この大人の人は誰なんだろう? どういうこと考えてるんだろう?」って思ってたんです。そしたら高2の冬くらいに、山口さんが長崎の旧上海銀行(旧香港上海銀行長崎支店多目的ホール)にライヴに来て、ちょうどわたしの目の前でポコポコやってくれて、なんかもうドキドキしちゃって(笑)


f:id:mrbq:20170715123045j:image


D



──ドキドキしましたか(笑)


角銅 たぶん、すごく自由に見えたんでしょうね。自分のやり方と自分の音楽で、世界と向き合って、世界に何かを投げかけている。「わたしもこんなふうになりたい」と思ったんです。それで、とりあえず、打楽器の教室に本格的に通い始めました。長崎にはマリンバの先生しかいなかったんですけど、ちゃんと打楽器を習いたいと思ってマリンバを習いに行きました。でも、わたしは音楽も好きだけど絵を描くのも好きだし、やりたいことの延長線上に音楽があるという感じだったから、あんまり音楽だけをする人になるイメージはなかったんです。だから、大学に進むときも、いっぱいいろんな人がいるほうがよかった。そのときに、藝大なら美術もある学校だと思ったんです。あと、そのときの芸大の打楽器の先生が、クラシックだけじゃなくジャズのヴィブラフォンも叩く方で、お父さんのパソコン借りて先生が演奏してる写真を見たら、白黒の写真で、うつむいて楽器を弾いてる姿がなんだかすごくかっこよかった(笑)。「あ、わたし、この先生のいるところに行く!」って思ったんです。学費も安いし、美術もあるし、「藝大ってわたしのためにあるんじゃない?」って(笑)


(つづく)



D



====================


もう今日の夜(7月15日)ですが!


〈時間の上に夢が飛んでいる〉リリースライブat 渋谷7th Floor


開場: 18:30 / 開演: 19:00

当日: 3000円


出演

角銅真実とタコマンション・オーケストラ

夏の大△

Doppelzimmer


詳細はこちら

2017-03-19 みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その3

f:id:mrbq:20160714190619j:image



 ひと月空いてしまいましたが、光永渉ロング・インタビュー、第三回。


 みっちゃんの言葉を借りれば「時がいい感じで周りはじめた」2010年前後の話。


 なお、間が空いたので、前2回もご参照を。

 「その1

 「その2


====================


──ビーサン(Alfred Beach Sandal北里)がチムニィのライヴ映像を見て、みっちゃんに興味を持って。それからどうなりました?


光永 (内田)るんちゃんから「ビーサンが今度ライヴに行きたい」って言ってるって聞いたんで、「『いいよいいよ、遊びに来て』って言っといて」って伝えたんです。そしたら、本当に来たんですよ。下北沢〈THREE〉でのライヴだったと思うんですけど、あいつって今もそうだけど無愛想でしょ?(笑)。しかも今よりもっとシュッとしてるっていうか、怖い感じで。


──わかる。第一印象が怖い感じ(笑)。


光永 それで、2年後くらいだったかな、知人の結婚式の二次会があったんですけど、そのときにお互い酔っ払ってるし打ち解けて、「今度スタジオ入ろう。ドラム叩いてよ」みたいなことを言われて、一緒に入ったりしました。ビーサンは、そのころに継吾くんがやってたバンドとも入谷の〈なってるハウス〉で対バンしてて。継吾くんも店のマスターに「一緒にやってみなよ」って言われてセッションしたのかな。そのときは伴瀬(朝彦)くんもそこにいたかもしれない。そういうことが別々にあって、のちに、じゃあこの3人(北里、光永、岩見)でやってみようという流れになったんだと思います。


──話を2010年の四谷に戻すと、あだカル(あだち麗三郎クワルテッット)にも、その夜が縁になって参加することになるんですよね。


光永 それもあるけど、もともとあだカルで叩いてた(田中)佑司がくるりに入って京都に引っ越すから、ドラマーがいなくなったのがきっかけでした。それで暫定的にライヴで一回叩かせてみよう、くらいの感じだったと思うんですよ。そのときはもう(厚海)義朗くんもいたけど、彼もたしか四谷でおれらと対バンした日が初めてのあだカルで、まだ二回目のライヴくらいじゃないのかな。あらぴー(荒内佑/cero)とも、あだカルで初対面だったんですけど、最初に会ったときは、ぜんぜんいい印象なかった(笑)。あだ麗に紹介してもらうってことで、吉祥寺の一軒目酒場で飲んだんですけど、そのときはあんまりしゃべんないし「謎めいたやつだな」と思ってました。でも、一緒にやってるうちに仲良くなっていって。


──今、考えるとその時期のあだカルのメンバーはすごい。ほぼ、のちのcero(笑)


光永 今思えばそうですね。あだちくんのことは、“俺こん(俺はこんなもんじゃない)”とか、いろいろやってたから知ってましたけど、ceroのことはうわさに聞いてたくらいで、まだよく知らなかったですね。


──時系列をちょっと整理すると、チムニィ以外のバンドに初めてレギュラーで入ったのは、あだカル?


光永 るんちゃんのバンド“くほんぶつ”に、もう入ってたかもしんない。


──くほんぶつには「ピートタウンゼント」って超いい曲がありますよね。「2010年の日本ロックフェスティバルに出るために組んだドリームチームバンド」っていう記述を見たことあるから、たしかにおなじくらいの時期なのかな。


光永 あと、もっと前ですけど三村(京子)さんともやってました。彼女のセカンド(『東京では少女歌手なんて』 2008年)が出たあたりですね。CDではNRQの人たちが演奏してるんですけど、ライヴではおれがわりとドラム叩いてたんです。そのきっかけも、チムニィと三村さんの対バンですね。彼女はひとりでやってたけど、「バンドを探してる」みたいな話で。それでチムニィのリズム隊と(佐藤)和生で、そのままバックをやったという感じです。そういえば、そのころのライヴに王舟が来てて、カメラマンみたいなことしてたんですよ。王舟が三村さんの歌がすごく好きだったらしくて。そのとき飲み会でもしゃべってるんですけど、おれはほとんど記憶にない。何年か後に王舟から「おれ、あのときいたんですよ」って聞いたんです。


──ランタンパレードの清水さんと知り合ったのはいつですか? たしか、それもこの前後ですよね。前に清水さんに取材したときに、その時期の話を聞きました。ずっと宅録とDJだけやって作品を発表してた清水さんのところに、みっちゃんが来て「バンドで叩かせてくれ」と直訴したという。


光永 本当に好きだったから必死な感じではあったと思います。その時点では清水さんはバンドどころか弾き語りもやってなかったから。


──そういう存在だったのに「バンドやってほしい。で、おれに叩かせてほしい」とお願いしたんですね。


光永 そのころ、和生のギター、ヴォーカル、おれのドラム、チムニィのベースの浅川、もうひとりギターの4人で、Miniature Band(ミニチュア・バンド)っていうのもやってて、mona recordsとかにたまに出てたんです。チムニィでワーッて感じのことやりながらも、宅録っぽいポップスっぽいバンドもやってて。そのバンドでmonaでライヴしたときに、店内でオススメされてたCDにランタンパレードがあったんですよ。黄色い薔薇のやつ。


──ファーストの『LANTERN PARADE』(2005年)ですね。


f:id:mrbq:20170319094130j:image



光永 あれ聴いて衝撃受けたんです。清水さんの歌詞も、その当時の自分にはど直球で。それからは、もう勝手に崇めてました。でも、ランタンパレードはライヴはやらないし、そもそも情報がなさすぎた。「どんな人だろ?」と思ってたら、たまたま高円寺のバーでDJをやるという情報を見つけたんです。「これは絶対に生の清水さんを見なきゃいけない」と思って、勢い勇んで行ったんです。


──はしもっちゃん(橋本翼/cero)もランタンパレードの大ファンで、彼もDJを聴きに行って、「ギター弾かせてください」ってお願いしたそうですね。


光永 あ、本当? おれはこの当時はまだはしもっちゃんのこと知らなかったから。


──おなじような場所にいたかもしれない。


光永 DJが終わったあとで、思い切って清水さんに話しかけたんですよ。憧れが強すぎたから怖かったですけど、話したらすごくいい人で、「さっきかけた曲は」とかいろいろ教えてくれて。それで、その勢いで「清水さん、バンドしないんですか?」って聞いたんです。そしたら「いや、じつはその構想もある」みたいな返事だったので、「じゃあそのときはおれを使ってください」とお願いしたんです。で、そのへんにあったコースターに電話番号とかを書いて渡したんです。でも連絡取れたのは1年後でした。


──1年後!(笑)


光永 チムニィのユウテツくんも清水さんがDJで出た別のイベントに行ったときに、おれが本当に清水さんとやりたいって言ってるって伝えてくれて。そのときに清水さんが電話番号を教えてくれたので、連絡が取れたんです。


──いい話(笑)。チムニィのメンバーは本当にみんなランタンパレードが好きで、歌詞当てクイズとかをしてるって話、清水さんから聞いたことあります。で、ユウテツくんの一押しもあって、そこから清水さんとの活動も始まって?


光永 すぐに「バンドやろう」という話になったわけじゃないんですよ。まずは「じゃあメシでも食おう」と。それからは清水さんが結構、当時、おれと和生が一緒に住んでた家に遊びに来てくれたんですよ。そのころは一瞬、ユウテツも住んでたのかな。鍋やったりしました。それで、2009年の終わりあたりから、二人でスタジオ入るようになりましたね。清水さんから「こういうのもあるんだよ」って弾き語りのCD-Rをもらったんですよ。それがもう本当に素晴らしくて、そこから1年くらいはその音源をどうやってバンドの音にするか、二人でずっとスタジオ入ってやってました。震災のときも、清水さんと二人でスタジオ入ってたんですよ。


──そうなんだ!


光永 次の日もスタジオに入りました。予約してたから(笑)。でも周りは大変なことになってたじゃないですか。空の色も変だったし。スタジオも練習してる部屋以外は真っ暗だし。「でも、やるか」みたいな感じで練習しましたけど、ちょっと怖かったですね。


──ランタンパレードのバンド・スタイルでのアルバム『夏の一部始終』も、そのリリース記念だった初ライヴも2011年ですよね(2011年11月17日、〈曽我部恵一 presents“shimokitazawa concert”第十一夜・十一月〉)。アルバムもライヴもたまたまこのタイミングになっただけで、震災とはなんの関係もないと清水さんは、はっきり言ってましたけど。


光永 そうなんですよ。でも、あのアルバムの曲の歌詞もそうだし、ceroのファースト『WORLD RECORD』もそうだったけど、起きた現実と結構リンクしてるところがあったんですよね。まったく関係ないころからずっとやってたことなのに、関連があると思われちゃう。清水さんは、そう思われるのを嫌がってましたね。


f:id:mrbq:20111018181317j:image


D



──『夏の一部始終』では、ベースで曽我部恵一さんが参加してます。


光永 満を持して清水さんと録音するかとなったときに「ベースはどうしよう?」と思ってたら、曽我部さんが「おれでしょ」って(笑)


──「おれでしょ」(笑)


光永 びっくりしました。清水さんもそうだけど、曽我部さんも雲の上の人だったから。「なんで?」みたいな。


──かつて「青春狂走曲」に衝撃を受けたみっちゃんですが、曽我部さんともそこで初対面。


光永 そうです。緊張しました。まあ、そのあと一緒に飲みに行ったら、おれ、うれしくてすごい泥酔したけど(笑)


──笑っちゃうけど、そのうれしさ、よくわかる(笑)


光永 そのへんからですね、時がいい感じで周りはじめたのは。


──ceroを初めて見たのは、いつなんですか?


光永 『My Lost City』のツアーファイナルに誘われて渋谷クラブクアトロに見に行きました(2013年2月3日)。というか、ceroがそのツアーで北海道行ったときに、対バンでビーサンをバンドを呼んでくれたんですよ(2013年2月1日、札幌cube garden)。そのときにおれがドラム叩いてるのを見てもらったのも、ひとつのきっかけだと思います。


──なるほど。みっちゃんと義朗をリズム隊にしたいという構想は、すでになんとなくあったという話も聞いたことがありますが。


光永 義朗くんは『My Lost City』で一曲弾いてるんですよ(「さん!」)。なんとなくおれらを誘いたいという雰囲気はあったのかもしれないけど、おれはわかんなかったですね。


──あだカルのリズム隊としての興味もあったけど、藤井洋平& The VERY Sensitive Citizens of TOKYOのリズム隊という意識が大きかったと思いますよ。まだその時点ではセカンド・アルバム『Banana Games』(13年11月)は出てなかったけど、ライヴは結構やってましたからね。僕も藤井くんのファースト(『この惑星の幾星霜の喧騒も、も少したったら終わるそう』)は好きで聴いてたけど、みっちゃんたちとアーバンなファンクをやるようになってからの演奏見たとき「こんなかっこいいバンドない!」って度肝抜かれましたもん。


D



光永 ああ、そうか。藤井くんも絡んでくるんだ。


──役者がいろいろ揃ってきましたね。じゃあ、次回はいよいよceroとの話にいきましょうか。


(つづく)

2017-02-12 みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その2

f:id:mrbq:20151006234412j:image



 光永渉ロング・インタビュー、第二回。


 第一回ではドラムをちゃんと叩くところまでたどり着かなかった。いよいよ第二回では、みっちゃんがドラマー人生を歩みだす。名門サークルの門を叩いて、それからどうなった?


====================


──思いきって学芸大のジャズ・サークルの人に話しかけた。で、どうなりました?


光永 入部しました。そのジャズ研(東京学芸大学軽音楽部〈Jazz研〉)が、すごく活動が盛んなところだったんですよ。フュージョンとかじゃなくて、超正統派のビバップが一番のサークルだったんです。発表会もあるし、練習もすごくちゃんとやる。プロも何人も輩出したすごいサークルで、上の世代だとスカパラの北原(雅彦)さんもいたし、Soil &" PIMP"SESSIONSの秋田ゴールドマンもいたんですよ。おれは3年だけど新入部生ということで立場としては1年生と一緒で、いろいろ話しかけてくれたのが、のちにチムニィや藤井(洋平)くんのバンドで一緒にやることになる(佐藤)和生なんです。


──ああ! そこで知り合う! 彼も学芸大だったんですね。


光永 そうなんですよ。おれはそのサークルではじめてちゃんとバンドを組んで、ちゃんとした曲をやりました。みんなで音を出すのも楽しかった。そこからおれはドラムにどハマりしていくわけなんです。当時はサークル棟っていう部室があって、24時間空いてたんですよ。だから、一日中音を出し放題。秋田とか和生とか、仲いい連中で夕方くらいに集まって、最初はだらだらとしゃべってて、そこから夜中もずっとセッションして、朝にファミレスで飯食って帰るみたいな。


──それまで夜の学校に忍び込んで即興やってたのが、ちゃんとしたサークル活動になった(笑)


光永 それが卒業までずっと続きましたね。本当に楽しかったですよ。さらにいえば、学芸のサークル棟は24時間練習ができる場所だったから、他大学の人も顔出したりしてて、今おれが一緒にやってる(岩見)継吾くんや、ceroのサポートでもトランペット吹いてもらった川崎(太一朗)くん(Ego-Wrappin’)も来てました。


──名門サークルなわけだから、それなりの厳しさもあったんじゃないですか?


光永 いわゆるアカデミックに突き詰めるところじゃないんですよ。4ビート命な感じとか、ジャズに関しては結構厳しさもありましたけどね。おれとか和生とかはロックが好きだから、こそっと隠れてレッド・ツェッペリンとかやってたんですけど、それを先輩に見つかると「おい、なにやってるんだよ! 4ビートやれ!」みたいに言われたり(笑)。和生はそういうのがだんだん苦痛になって、やがてサークルをやめちゃいましたけど。


──みっちゃんとしても、やっぱりドラムが一番好きだっていう気持ちが固まっていった時期は、ここですよね。


光永 そうですね。ここでドンとハマって、音楽やって酒飲んで、音楽やって酒飲んで(笑)。合コンとか、いわゆる大学生がやるようなことはぜんぜんなく、ひたすら音楽やってましたね。


──そのころ目標にしてたドラマーはいますか?


光永 今でもそうですけど、アート・ブレイキーですね。当時、部室にジャズやソウルのレーザーディスクがたくさんあって、それをみんなでお酒飲みながら見て「ああいうのやりたい」とか、いろんな話してましたね。そのなかで一番好きだったのが、アート・ブレイキーでした。もちろんエルヴィン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスも好きでしたけど、やっぱりブレイキーが一番。


D



──どのへんが?


光永 なんだろう? こういうこと言うと怒られちゃうけど、アホなところ(笑)


──アホって(笑)


光永 アホじゃないんですよ。天才だし、素晴らしいんですけど、どこかふまじめな感じだったり、ちょっと不器用な感じだったりするのがかっこよくて。人間らしかったんですよね。


──スーパーテクニックを誇示するというところではなく、人間に惹かれた部分がある。


光永 もちろん他にもすごい人はいっぱいいましたけどね。森山威男さんもめちゃくちゃ好きでした。


D



──山下洋輔トリオのドラマーだった方ですね。


光永 アケタ(西荻窪のジャズ・ライヴハウス「アケタの店」)とかでたまにやられるときは見に行ってましたね。「こんなすごい人はいない」と思ってました。


──こうやってあらためて話を聞くと、みっちゃんのドラムの源流って、やっぱりすごくジャズなんですね。


光永 そうですね。ただ、ジャズにどっぷりハマってたけど、デ・ラ・ソウルとかヒップホップも好きでしたよ。


──ヒップホップのサンプリングとかループとかって、ジャズの側からすると思いがけない脚光が当たったいっぽうでは、“搾取された”という見方もできたわけで、ストイックなジャズ・サークルだと怒ってた人もいたんじゃないですか?


光永 おれは、ヒップホップは周りには黙って聴いてました(笑)。


──ロックのライヴハウスとか、インディーズとか、そういう方向には行かず?


光永 ぜんぜん行かなかったですね。“インディーズ”っていうジャンルがあることさえ知らなかった。『CROSSBEAT』とかは読んでましたけどね。


──『CROSSBEAT』は読んでたんだ。『スイングジャーナル』かと思った(笑)


光永 ちがうちがう。『CROSSBEAT』読んで「アクセル・ローズ、わるいなー!」とか思ってました(笑)


──意外と、みっちゃんの大学時代の話って、みんな知らないと思うから、こういう話はいちいち貴重ですね。


光永 そうですね。ジャズやってたってことぐらいは知られてるかもしれないけど。


──大学はちゃんと卒業したそうですけど、就職は?


光永 してない。実家の酒屋を継ごうと思ってたから。


──あ、そういうことか。いったん長崎に帰ったんですね。


光永 ただ、ドラムやりたいという気持ちはずっとあったんですよ。だから長崎に帰ってからも実家を手伝いながら地元のジャズ・クラブに出入りしたりして、音楽をやってはいたんですよね。でも、だんだん「ちゃんとやりたい」という気持ちが強くなってきて、親にお願いしたんです。「もう一回、東京に行かせてくれないか」って。


──そうだったんですか。


光永 まあ、親もおれが長崎でもそうやってドラムを続けてたのを見てたし、なんとなく(帰郷したことに)悔いがあったんじゃなかろうかと感じてたと思うんです。親父から「まあ、じゃあやってこい。何年かかるかわかんないけど、納得いくまでやってみろ」みたいなことを言われた気がします。


──いいお父さんですねえ。だって姉がふたりいるとはいえ、後継をさせられる息子としてはみっちゃんひとりなわけだから。でも、自分の息子にやりたいことがあるということをうれしく思うのも親心だろうけど。


光永 それで、東京に戻ってバイトしながら音楽をやることになったんですけど、そこが運命の分かれ目だったんですよ。たまたま行った遺跡発掘のバイトに、チムニィのギターの春日(長)がいたんです。


──なんと!


光永 ジャズをやるつもりで東京に帰ってきたんですけど、春日に「バンドをやりたいんだけど、ドラムがいないんだ。ただうちらのバンドはかっこいいから売れる!」って話をされて。おれもロック好きだったから「やろう! いや、やらせろよ!」って返事したんです。完璧だまされました(笑)。そこからですね、おれのロック・バンド人生は。


──ジャズやるつもりだったのに(笑)


光永 でも、当時流行ってたジャズっていうのは音の求道みたいなものになってたし、おれもぜんぜん下手だし、そのときはロックが性に合ったんですよね。「じゃあ、おれはロックで行こう」と。


──そのとき誘われたバンドが、チムニィ。


光永 そうです。初のロック・バンド。チムニィ自体はおれが入る前からあったんですよ。福岡でやってて、バンドとして東京に出てきたんです。でも、ちょうどドラマーがいなかった時期で、そこにおれが入った。またこれがチムニィも酒飲みのバンドで(笑)。練習しちゃ飲んで、練習しちゃ飲んで、だんだん仲良くなっていったみたいな。


──そのころはどのあたりでライヴやってました?


光永 その質問おもしろいですね。府中Flight。……知らないでしょ?(笑)。たまに新宿JAM。JAMのオーディションとか受けて、落ちてましたよ(笑)。今おれが出てるライヴハウスでも当時オーディション落ちたとこ他にもありますよ。


──そうなんだ。


光永 Flightはオーディションがなかったんですよ(笑)。あと、おれは当時国分寺に住んでて、チムニィの他のメンバーは府中に住んでたから、やりやすかった。


──そのころから今もやってる曲はあります? 「西武球場」とか?


光永 まだ、そういうのはやってないです。ユウテツくんもまだいなかった。ヴォーカルも初代だったし、今とはぜんぜん違います。ジミ・ヘンドリックスみたいにやりたいヘタクソなバンドって感じでした。


──もっと混沌としてた感じですか。


光永 混沌……ですね。松永さんはそのころ、どういうバンド見てました?


──SAKEROCKかな。たぶん、彼らがカクバリズム入る直前で、ぎりぎりライヴハウスでやってたくらいの時期。


光永 おれらがいたのは、また違うシーンですよ。当時のおれらが見てた頂点にあったというか、「すげえな」と思ってたのが“関西ゼロ世代”。ZUINOSHINとか、ワッツーシゾンビとか、そういうバンドが出るライヴを新宿JAMに見に行ったんですよ。そしたら満員で入れなくて、横の駐車場でお酒飲んでた(笑)


──そうなのか……。


光永 でも、他人からはおれらのバンドは暗黒時代に見えたかもしれないけど、楽しかったですよ。バイトしながらノルマ払ってライヴやるというのが当たり前だったし。


──この時期やってたバンドは、ずっとチムニィだけ? ジャズには戻らず?


光永 所属してやってたのはチムニィだけでしたね。ジャズは、昔の知り合いに呼ばれて、たまにやってたけど。


──転機が訪れたというか、潮目がちょっと変わったのはいつごろですか?


光永 結構長いこと変わんなかったすよ(笑)。たぶん、おれらがそうやってる別のところで、ceroとかNRQとかも生まれてたんでしょうけど、まったく知らなかったし。片想いとも高円寺のペンギンハウスで一回対バンしたことあるんですよ。バンドの毛色が違うから、そのときは特にだれかと仲良くなった記憶もないけど。でも、あだ麗(あだち麗三郎)が当時四谷の某施設でやってたイベントにチムニィを呼んでくれたんですよ。そのころは、もうユウテツくんが加入してました。それまでの轟音ロックじゃなくて、ヒップホップというかトーキングブルースというか、ユウテツくんらしいスタイルにバンドが変わっていった時期です。で、その四谷のライヴ映像をVIDEOくん(VIDEOTAPEMUSIC)が撮ってたんですよ。その映像をビーサン(Alfred Beach Sandal)が見て、「この人のドラムいい!」って言ったんです。


──へえ!


光永 あれ? ちょっと待ってくださいね。なんでおれがビーサンがそう言ったっていう話を知ってるのか……? 思い出した! 当時、チムニィって一匹狼的なバンドで友だちになるミュージシャンがぜんぜんいなかったんですけど、一個だけ仲良くなったピンク・グループっていうむちゃくちゃかっこいいバンドがいて。そのピンク・グループのファンに(内田)るんちゃんとるんちゃんのお母さんがいたんです。それで、そのふたりがチムニィを気に入ってくれて、ライヴを見に来てくれるようになったんです。


──そこからくほんぶつでみっちゃんがドラム叩くことにつながる?


光永 そうなんですけど、それはもうちょっとあとの話です。るんちゃんはビーサンとも知り合いで、おれは彼女から「ビーサンが『あのドラマーの人、知ってる?』って言ってたよ」って、はじめて聞いたんです。


(つづく)


====================


光永渉ホームページ mitsunaga wataru.com

2017-02-04 みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その1

f:id:mrbq:20151006234457j:image



 光永渉、と書くのはどうにもまどろっこしいので、いきなり“みっちゃん”ではじめたい気持ちがつよい。でも、それだとくだけすぎるので、とりあえず文章上は“光永くん”でいきたい。


 光永くんとはじめて会ったのは、2012年の春。場所は阿佐ヶ谷のRoji。ワーキングホリデーで渡英していたシンガー・ソングライター野田薫さんの凱旋ライヴが行われた夜だった。その日、彼はあだち麗三郎クワルテッットのドラマーとして演奏していた。終演後、表現(Hyogen)の佐藤公哉くん、古川麦くんがふらっと現れ、片付け前の楽器を使ってセッションがはじまった。さらに偶然にも、伴瀬朝彦くんも現れ、「いっちまえよ」を歌った……という話、じつは過去にも何度か書いている。


 この夜、はじめて会ったひとたちに、いろんな偶然が仕込んだわけでもないのに、そのあと、この3人にそれぞれのタイミングでロング・インタビューをした。表現(Hyogen)にもバンドとして雑誌でインタビューをした。光永くんは、その夜にぼくが出会っていながらまだインタビューをしていない最後のひとりだったということもできる。


 今ではceroのリズム隊の要としてすっかり認知された彼を取材したいと思ったことは過去にもあった。2013年の暮れ、ceroにサポートとして厚海義朗くんと光永くんが参加した直後に、ぼくは厚海くんにインタビューしている。そのまま光永くんにも話を聞くというタイミングは、たしかにあった。


 だけど、GUIROの一員としての姿をすでに知っていた厚海くんに比べて、まだその時点ではぼくは光永くんのことをそんなによく知っていなかった。チムニィ、あだち麗三郎クワルテッット、伴瀬朝彦BAND、ランタンパレード、九品仏、藤井洋平&The Very Sensitive Citizen of TOKYO……、当時彼がかかわっていたバンドやアーティストについても、もっとよく知っておく必要を感じたのかもしれない(※今は、あだち麗三郎クワルテッットは脱退し、Alfred Beach Sandal、“おまつとまさる氏”が発展したユニットである松倉と勝と光永と継吾、G.RINA、バンド編成時のやけのはら、さらに大塚愛のツアー・サポートも加わる)。もっというと、当時から光永くんは職人肌のドラマーに見えたし、わざわざインタビューして聞くことがあるのかなとさえ思っていたのだ。結局、そんな躊躇をしているうちに時間だけが経ったわけだけど、それがあるきっかけで氷解する。本文中にも出てくる話だが、ぼくが「今なら話を聞きたい」と思ったのは2015年のceroのツアーで立ち寄った光永くんの故郷、長崎で一緒にいた時間があったからだった。


 光永渉くん、やっぱり、みっちゃん。愛すべきドラマーで、気のおけないよっぱらい。いろんなところで彼のドラムを見たり聴いたりしてるひとは多いと思うけど、じっくり話を聞いてみると、さらに興味深い話だらけだった。


====================


──みっちゃんと初めて会ったのは、ここ(Roji)ですよね。野田(薫)ちゃんの帰国記念ライヴの日。2012年(4月28日)だった。


光永 あ、そうでしたっけ? そんなに前になりますか?


──あのとき、まだみっちゃんはあだカル(あだち麗三郎クワルテッット)のドラマーで。ライヴが終わった後に話をしたんですよ。たしか、みっちゃんから話しかけてくれて、「曽我部(恵一)さんのROSE RECORDSで、ランタンパレードやチムニィのドラムをやっていて」みたいな話でした。


光永 あー、そっかー。そのときはまだceroやってないですもんね。しかもそれ、おれがはじめてRojiに来た日ですよ。


──え? そう?


光永 お店の存在は知ってましたけどね。チムニィの日永田(信一)くんって、Rojiが開店して2番目くらいのお客さんなんですよ。


──2006年ごろの話ですか?


光永 そうなんですよ。彼から「こういう店が阿佐ヶ谷にある」とか「ceroってバンドがいる。若い子たちだけどおもしろい」とか、そういう噂は聞いてたんです。当時のceroはまだ高円寺の円盤でライヴをしてたころだったと思います。でもそのときは別にライヴを見に行くでもなく、それだけで終わってた話でした。


──とはいえ、それはそれで興味深い縁ですよね。


光永 そうですね。だから、高城(晶平)くんとも、Rojiであだカルやったあの晩にはじめて会ったかもしれない。


──あだカルにあらぴー(荒内佑)がいた時期があるから、さすがにあの夜が高城くんと初対面というのはないんじゃない?


光永 そうだったかなあ?


──ぼくの話でいうと、あの夜に野田ちゃん、(古川)麦くんとも初対面で話してて。あの夜にはじめて会ったひとに、結果的にこうしてずっと取材してるという流れがあるんですよ。


光永 (厚海)義朗もあの夜でしたっけ?


──厚海くんは、GUIROの時代から知ってはいて。ただ、当時は「怖い人だ」と思ってたから話してない(笑)。話すようになったのは彼が東京に出てきてからですね。インタビューしたのはceroのサポートをするようになってからだし。あのとき、みっちゃんのインタビューも続けてやろうかとも思ったけど、結局やらなかったんですよね。当時は、まだぼくには“いろいろ思いのある人”というより“職人肌の音楽人”に見えてたのかもしれない。それがかなりくだけて、俄然興味が湧いてきたのは2015年のceroの〈Obscure Ride Tour〉後半に同行してからですね。特に大きかったのは、みっちゃんの実家のある長崎に行ったこと。


光永 ああ!


D



──あのとき、みっちゃんの地元や光永家の人たち、昔からの友だちとの空気感に触れて、「あ、これはみっちゃんとなんか話したい」と思ったんです(※このインタビューは2015年と2016年の2回にわたって行われています)。夜中によっぱらってみっちゃんが卒業した小学校も一緒に見に行った(笑)。生家は長崎市内の歓楽街にある酒屋さんで、みっちゃんは“街の子”なんですよね。


光永 じつはそうなんですよ。田舎の子みたいに思われてるんだけど、わりとがちゃがちゃした街の育ちなんです。あのとき松永さんたちは、そんなに人が多くないと感じたかもしれないですけど、おれが住んでたころは週末にはすごいにぎわいでしたよ。


──荒っぽい感じもあった?


光永 そうですね。やっぱり歓楽街だから、そういう方面の人たちもいましたね。


──あのあたりは、地元の名前としては「思案橋」でしたっけ。


光永 美輪明宏さんの本にもたまに出てくる地名です。


──そうか。美輪さんも出身は長崎。


光永 とにかく、おれは長崎を出るまでずっとそこで暮らしてました。逆に、母方の実家は、絵に描いたような田舎なんですよ。川があって山があって。夏休みとかは毎年遊びに行ってました。


──どんな子どもでした? 兄弟とかは?


光永 姉が2人います。自分でいうのもなんですけど、そんなに手がかからない子じゃなかったかな(笑)


──末っ子ですもんね。


光永 上の姉とはちょっと歳が離れてるんですけど、下の姉とは1歳違いだったんで、音楽面では彼女の影響をわりと受けてますね。いわゆるチーマーじゃないけど田舎のミスドの前にたむろしてスケボーやったりしてる感じの女の子で、音楽はジャネット・ジャクソンとかホイットニー・ヒューストンとか、BOYZ II MENとか、そういうブラック・ミュージックを聴いてましたね。当時のおれはそれがブラックなのかどうかもわかんないし、ただ単に「いいなあ」と思って聴いてただけでしたけどね。a-haとかペット・ショップ・ボーイズとかもありましたね。


──ジャネットは『リズム・ネイション1814』(1989年)とか?


光永 そうそう!


D



──のちにドラマーになる子どもが知らず知らずのうちに受ける影響としては、いいですよね。


光永 姉貴はレンタルCD店でCD借りてきて、カセットテープにダビングして聴いてたから、そのテープをおれが借りて聴く、みたいなね。中2くらいになると自分でも好きな感じのを探すようになっていって、そうするとロックとかを聴くようになっていくんですけどね。


──それがリスナーとしてのみっちゃんの歴史のスタートだとして、演奏するほうは?


光永 じつは太鼓自体は小さいころからやってて。和太鼓ですけどね。


──へえ!


光永 “おくんち”ってわかります?


──わかります。九州三大祭のひとつ、“長崎くんち”ともいいますよね。


光永 おれ、あれに囃子(はやし)で出てたんですよ。光永家は代々それをやってきたんです。親父は袴を着て祭を見守ってる役職みたいなことをやってました。おれは、小さいころは小太鼓。だんだん大きくなってきたら、太鼓も大きなのを任されて、最後は蛇(じゃ)踊りの大太鼓をトップでやってたんです。


──すごいじゃないですか!


光永 おくんちはすごいですよ。学校は半日休みになるし、出る人はその日は学校行かなくてもいいし。あと、やっぱり祭に出てると、モテるんですよ(笑)


──ああ!


光永 だからドラムセットとかを叩いてたわけじゃないけど、おくんちで太鼓の練習はしてましたね。本当はおくんちって決まりがあって、子どもたちは自分の町では7年に一度しか出られないんですよ。つまり、7歳で出たら次は14歳のときしか出られない。おれは、自分がいた船大工町の川船に乗って太鼓をやってたんですけど、隣町の人たちがやってる蛇踊りの太鼓がしたくって、頼み込んで特別枠で毎年のように出てたんです。


D


D



──つまり、自分の町の太鼓では7年に一度なんだけど、蛇踊りでは毎年やってたんだ。すごいなあ。


光永 そうなんです。それは楽しかったし、自分の人生にとってもでかかったですね。太鼓ということも意識してなくて、ただ単にお囃子に入って楽しいってだけだったんですけど、その当時やってたお囃子のドンドコドンドコいう感じが今でも好きですね。


──それは基礎訓練として、結構な意味あるでしょ?


光永 いや、どうなんですかね?(笑)


──高校のときはバンドやってない?


光永 やってないです。高校時代はサッカーにめちゃめちゃはまってたから。結構がんばってたな。


──サッカーで長崎だと、国見とか強い高校ありますよね。


光永 国見にはボロ負けした記憶があります。まあ、うちらの時代の国見は鬼のように強かったですからね。でも、おれがいた時代で最高は県大会の3位まで行ったんですよ。


──じゃあ、高校時代はサッカー一色と。


光永 音楽は本当に好きでしたけどね。東京みたいにレコード屋さんもたくさんないけど、街に一軒くらい、ちょっと進んでる兄ちゃんがやってるような店があるでしょ? そういうところに通って、「これいいよ」みたいなのを教えてもらって、テープを作って友だちに配ったりしてました。


──大学で地元を離れたんですか?


光永 そう。東京学芸大学。


──東京に出てきたかった?


光永 うーん。それはあんまりなかったんですけどね。おれ、あんまり頭よくなかったんですけど、高3のときのセンター試験で、たまたま今まで取ったこともないようないい点が出たんですよ。「これなら東京の国立もいけるんじゃないか?」みたいな話になって。本当は福岡の私立に行きたかったんですけど、でも親父がもともと東京の大学に行ってたこともあって、東京に行くということに肯定的だったんですよ。まあ、おれも「東京行けばライヴとかいつでも見れるな」みたいな気持ちもあって、まあ受けてみっぺかと。二次試験も面接だけだったこともあって、学芸大に受かったんです。


──それで東京へ。


光永 でもね、東横線に学芸大学駅ってあるじゃないですか。おれ、学芸大ってその駅にある、超都会な場所だと思ってたんですよ。親戚もその駅に住んでるし、そこに泊まって大学も受けたらいいかな、くらいに思ってたら、じっさいに大学があるのは小金井のすごい先のほうだった(笑)。「あらー?」と思ったけど、結局受かっちゃったし、行くしかないと。


──それで、とにもかくにも東京には出てきて、大学で音楽サークルとか?


光永 いや、それが学校にぜんぜん行ってなかったんですよ(笑)。なんか、つまんなくて。


──1年生から?


光永 そうです。入学式終わって、おなじ課の人たちが自己紹介とかをするじゃないですか。


──オリエンテーション的なやつですよね。


光永 それに行かなくて、すぐ帰っちゃったんですよ。それで、次に大学に行ったら、ほかのみんなはもうわりと仲良くなってたんで、ぜんぜんおもしろくなくなっちゃって。


──そもそも、なんですぐに帰っちゃったんですか?(笑)


光永 なんか疲れてたんじゃないですか?(笑)……まあ、イヤだったんでしょうね。でも、そんななかでも自分の課とは違うとことろでたまたま仲良くなった美術課のやつがいて、そいつも学校も行かずに週末にはクラブ行ったりするような感じだったんですよね。そいつに一緒に付いていったりしてました。そしたら他大学のやつらとも知り合いになっていって、そいつらもいわゆるアングラ大学生だったというか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをずっと家でかけてるような変な人たちだったんですよ。


──クラブって、当時はどういうとこに遊びに行ってたんですか?


光永 〈MANIAC LOVE〉とか〈The Room〉とか。小金井の田舎から電車乗って、ズッコンズッコン音が鳴ってるところに行って。


──意外です。


光永 でも、そのころからサニーデイ・サービスは好きでずっと聴いてたんですよね。


──サニーデイはどのへんから入ったんですか?


光永 夏休みに帰省したときに、実家でテレビを見てたらSPACE SHOWER TVかなんかで「青春狂走曲」が流れて、「すごくいい曲だな」と思ったんですよ。当時の曽我部さんのイメージは、冷たい瞳で、すごいシュッとしてる感じがあって、そういうのがよかったんですよね。それが渋谷系なのかとか、そういうことはなにもわからなかったし、のちにまさか曽我部さんと一緒にやるようになるとは思ってなかったけど。


D



──ね! それもすごい縁。


光永 話をちょっと戻すと、大学1年の終わりくらいだったかな。そのころに遊んでた他大学の知り合いのなかのひとりに「音楽やるから、おまえドラム叩いてくれ」って言われたんですよ。「いいよ」って返事したんですけど、そいつがやりたいのはすごく前衛みたいなやつで。


──前衛みたいなやつ?


光永 鐘をチーンと鳴らしたり、ビユビユビユビユって変な音出したり(笑)。そのバンドは3人だったんですけど、覚えてるのは、真夜中に大学の教室にしのびこんで、部屋を真っ暗にして鐘を鳴らしたり笛を吹いたり、そういうわけのわかんないことをひたすらしてました。


──それがみっちゃんにとって人生初のバンドってことですよね。バンドといっていいのか……(笑)


光永 そのうちドラムセットにも座るようになったんですよ。でも、やるのは曲とかじゃないんです。


──即興みたいな?


光永 そう、即興です! なんにもない即興というか、即興の真似事みたいな。ライヴもやると思ってないし、ただ音楽をやることがかっこいいと思ってたんですね。


──うーん。そうだったのか……。


光永 でも、ガンズ・アンド・ローゼズの「パラダイス・シティ」って曲があるんですけど、知ってます?


D



──もちろん。名曲ですよ。


光永 あるときバンドの空いてる時間にドラムであの曲のパターンを真似してみたんですよ。そしたらドッパンドッパンって叩けたんですよ。足でキックも踏んだことなかったのに(笑)。それができたんで、ドラムっておもいろいなと思うようになったんじゃないかな。


──それがドラマー人生のはじまり?


光永 変わってます?


──変わってますよ! なにかのコピーをやるバンドだったわけでもないし、しかも、周りがわけのわかんない即興にいそしんでる最中に、突如ガンズのドラム・パターンを叩いたことがはじまりだっていうのは(笑)


光永 ああ、そういわれたらそうかもしれないですね。でも、それで自分で別のバンドを組むとかでもなく、また即興みたいなことをたまに集まって続けてただけなんですよ。そしたら、あるとき「渉、ジャズやればドラムってうまくなるらしいぞ」って言われて。大学の新歓で音楽サークルが外で演奏してたりするじゃないですか。そこでジャズやってる人たちを見に行って、めちゃめちゃ演奏もうまかったし「なんかおもしれえな」って思ったんです。それで、思い切ってその人たちに話しかけたんです。「1年生じゃないんですけど、入れてくれませんか?」って。そのとき、おれ大学の3年だったんですよ。


(つづく)


====================


光永渉ホームページ mitsunaga wataru.com

2016-05-21 ユーミン40ドルから転がった話

アメリカにおけるユーミン評価の一例。


f:id:mrbq:20160521091605j:image



ブルックリンで開催されたWFMUレコード・フェアにて見かけたレコード。先日ツイートしたこの写真に対し、思いがけずたくさんのご反応をいただいた。


似たような例というか、2年半前の話には、こういうことも。


【2013年11月18日のツイート】より。→【旅の思い出】ハリウッドのアメーバ・ミュージックで店内BGM担当の女性DJが突然この曲をかけて


D


さらにこれにつないで


D



お客さんが何人もゆらゆらと踊るように揺れるのを見た不思議な至福(ここまでが、そのときのツイート)。


あと、ユーミン40ドルを見かけたレコードショーでもうひとつびっくりしたのは、アメリカ人青年客がディーラーに「AORある?」と聞いてたこと。“AOR”って今や完全に和製英語でアメリカではもはやあんまり通じない実感があったから「“ヨットロック”みたいな音のこと?」と思わず彼に聞いた。


すると彼は「うーん、音的にはそうだけど、“あの言葉(ヨットロック)”って、セルアウトな感じだし、バカにしてるだろ?」との返事。つまりニュアンス的にいうと「ヨットロックよりもマイナーでレアでやばめの白人ソウル」にリスペクトをこめて、彼は“AOR”と表現していた。


“AOR”って言葉が逆輸入的に欧米で復活・定着するかどうかはわからないけど、英語として意味が成り立ちにくい造語“シティ・ポップ”よりは可能性がある気がする。


数日後、別の店で買付中。店内で流れてたネッド・ドヒニー「ハード・キャンディ」、値段を聞いたら「だれが買うんや!」と声が出るくらい強気だったけど、最後までかかりきらないうちに若い子がさくっと買ってった!


D



レコード・ショー話でもうひとつ。「タイガー・リリーのボビー・ボイド(超ウルトラレアなソウル)ある…わけないか?」とディーラーに話しかけた客がいて、答えはもちろん「NO」なんだけど、そのあとがおもしろかった。「タイガー・リリーのレコードは、おれらにとってのパナマ文書なんだよ」


“レコード界のパナマ文書”とは最高のたとえだけど、実態はちょっと違う。英語では“tax scam record(税金ごまかし盤)”と呼ばれる。“売れなかった”からレアなレコードになっているのではなく、“そもそも売られなかった”レコードがそれ。つまり税金対策で赤字を作るための盤。


“tax scam”で有名なレーベルといえば、思い浮かぶのはタイガー・リリー、ギネス、一時期のB.T.パピー。こうしたレーベルのレコードは、ちゃんとレコーディングされ、かなりの量プレスしたにもかかわらず、“売れなくて赤字”という事実を作るために市場にはほとんど出回らなかった。


B.T.パピーは東海岸オールディーズ・ポップの名門グループ、トーケンズのメンバーが設立したレーベルだけど、この悪名高き商法に目をつけた最初期の会社のひとつ。60年代末〜70年代頭にリリースされたアルバムの数々は、ごくわずかしか現存していないと言われる。残りはすべて廃棄されたとか。


D



タイガー・リリーも、ルーレット・レコードの社主でNYのマフィアで音楽業界の大ボスでもあったモーリス・レヴィが傘下に設立させた税金回避レーベル。ジャクソン・シスターズ、ボビー・ボイド、アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」などが、その仕打ちに遭ったレコードとして有名。


D


D


これでそういうレコードが粗製乱造の駄盤ばかりならまだしも、“ちゃんと金かけて作りました”って事実だけ残すためにクオリティの高い作品が少なくないから困る。今でこそリイシューとかで触れやすくなったものもあるけど、まだ手つかずのものも多い。写真でしか見たことないレコードだらけ。


なお、こうした不法な税金回避の抜け道に対しては国税局の対策が行われ、1978年ごろを境に“tax scam”なレコードはリリースされなくなったという。78年で終わりってあたりが、音楽的にもデジタル以前のおいしさがかなりある時期で(特にソウルとか)、よけいにうらめしい感ある。


タイガー・リリーの“tax scam”な幻盤のひとつ。アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」(写真ぼけぼけですが)。数年前のレコードショーで。価格は1200ドルだったかな(買えません)。


f:id:mrbq:20160521094351j:image


参考までに今年アップされていた“tax scam releases”についての記事(英文)。

2016-05-09 2016年のNRBQ

NRBQを見たのは、なにげに4年ぶりだった。前に見たのは2012年の1月。トム・アルドリーノが亡くなって1週間後のニューヨーク。ジェイク・ジェイコブスとサン・ラー・アーケストラのマーシャル・アレンがゲストで出て、ぼくは偶然にもヨ・ラ・テンゴのアイラとジョージアとおなじテーブル。ルー・リードがちらっと見に来ていたとあとで聞いた。


トムへの追悼だとはひとことも言わずに、テリー・アダムスはペイシェンス&プルーデンスの「ア・スマイル&ア・リボン」を歌った。


D



あれから4年も経つのか。


その後、NRBQにはメンバーの交代が2回あった。ベースが美青年のピート・ドネリーから、仲本工事的な憎めいないルックスのケイシー・マクダフに。そして去年の暮れにはドラマーがコンラッド・シュークルーンから、若いジョン・ペリンに。


ジョンのドラムがいいとはうわさに聞いていたけど、実際に出てきた彼の姿を見ておどろいた。眼鏡の優男ふうのルックスで、どういうわけか、ピエロの衣装を着ていた。帽子こそかぶってないが、これはまるで道頓堀名物くいだおれ人形!


仲本工事とくいだおれ人形が加わったNRBQは、どうなるか予想もつかない見た目のワクワク感という意味では近年にない期待値を持つ。


確かな演奏力で近年になく多彩なアーカイヴを歴史から拾い上げる新生NRBQの第1期(テリー、スコット・リゴン、ピート、コンラッド)もかっこよくてよかったけれど、ある意味、ライヴから破綻が減ってしまったさびしさを感じてもいたのだ。


アメリカのくいだおれ人形ことジョン・ペリンがスティックを構えて、ずどんと全身の力を入れて振りおろしたとき、本当にひさびさにおなかにずしんと来る感覚があった。これだ、これこれ! 


ジョン・ペリンは、細いからだのすべてを使って、スネアを叩く。体重を乗せてキックを鳴らし、シンバルを目をキラキラさせながら叩く。ドタドタしてるし、ドスンともしてる。コンマ一秒の正確な刻みが幅を利かせる最近の流行からすれば、このドラム、ぜんぜん流行らねえ! でも、これはぼくの大好物。まだ23歳だという彼がどういうふうに音楽を聴いてきたのかわからないけど、たぶん、ジョンはトムのドラムが好きだ。


ステージ中央に立つのは、ずんぐりむっくりで、模型屋の店員みたいな大人のオタク臭がむんむんするケイシー・マクダフ。着実なベース・プレイと、思いがけずよく伸びるハイトーンの持ち主。真ん中にいながら脇を支えるという特殊な立ち位置がおもしろい。


ぼくはアル・アンダーソンがいた時代のNRBQは映像と音源でしか知らない(35周年の全員集合ライヴで、そのマジックの片鱗は感じたけど)。だけど今夜、あの“こわれそうでこわれない、結果的にこわれちゃうかもしれないけど、それでもいいよね!”って感じの奇跡的バランスを、もう一度感じた気がした。今のNRBQ、もしかしてすごくいいんじゃないのか?


この夜は、老舗のマスクマン・インスト・バンド、ロス・ストレイトジャケッツ(対バンとして最高!)とのツーマン・ツアーの一環。最初にやったストレイトジャケッツが一時間足らずだったので、NRBQもそれくらいかと思ってたら、2度のアンコールも含め、たっぷり2時間やり尽くした。遊びに来ていたジェイク・ジェイコブスがこの日もゲストに出てくれた。


f:id:mrbq:20160503220721j:image

 NRBQ + Jake Jacobs singing "After All"



「That's Neat, That's Nice」を聴いた瞬間、忘れかけてたか、トムがいなくなってからあえて忘れようとしてた、あの感じを思い出して、動悸が早くなった。


終演後、テリーにあいさつしたら、とても喜んでくれた。ケイシーは初対面で「ぼく、いくつだと思う?」と聞いてきた、ちょっと変な人。ちなみに48歳で、ぼくのひとつ上。そして、ジョン。知人と話していてわかったが、彼の両親が熱心なNRBQファンで、彼自身もシャッグスの大ファンだという。産湯のように聴いて育ったのなら、そりゃあのドラムの音が欲しくなるよね。


知人がしみじみと言った。


「テリーは、NRBQでもっとやれることがあるとまだ思ってるはず」


それがどういうことかを聞く前に、テリーはハル・ウィルナーや友人たちと連れ立ってバーに行ってしまったけれど、これからもこのNRBQが続いていくことが答えを出してくれるだろ。


1996年の初来日から20年。そのときのメンバーで残っているのは、今やテリーだけだ。この世を去ってしまったひとたちもいるし、闘病しているひとたちもいる。白髪になったり、はげたり、太ったり、多少ゆるくなったりしながらも、みんな一緒に歳をとって演奏する姿を見たかったという気持ちは、もちろんある。


でも、60代後半を迎えても前のめりに音楽に我が身を捧げ、自分を鼓舞してくれるメンバーとともに音楽家として前に進みたいっていう気持ちを持ち続けているテリーを見るのはやっぱり刺激的だし、大好きだ。彼がうれしそうにしてる姿が舞台の上にないのなら、NRBQである意味がない。


NRBQは、まだまだ自分たちのリズム&ブルースを更新している。


願わくば、またすぐにでも見たい。


f:id:mrbq:20160504004900j:image

  現編成での初リリースはロス・ストレイトジャケッツとのスプリット7"。

2016-04-17 beipana talks about beipana / beipanaインタビュー その4

f:id:mrbq:20160110013838j:image



すこし間があいたけど、beipanaくんのロング・インタビュー最終回。


オーストラリアから帰国して取り掛かった自分の作品のレコーディングが、シングル「7th Voyage」、アルバム『Lost In Pacific』に結実するところまでをたっぷり話してもらった。


単に音楽的な興味だけにとどまるのでなく、beipanaくんが潜在的に感じ続けていたローカルとして自立した音楽活動のありかたや、自分が作りたい作品の持つ意味が、4回にわたるインタビューでかなり明確に浮かび上がったように思う。


なお、あらためて書いておくと、このインタビューは当初、去年(2015年)の夏に行った。第一回にもちょっと書いたけど、じつはその時点ではアルバム『Lost In Pacific』にリリースは宙に浮いた状態だった。なので、そのときはアルバムの話はそんなに突っ込んではしていない。その後、beipanaくんの決心により、自主制作でのリリースが決定した(11月20日)。


それを受けて、もう一度きちんとアルバムについて話そうということで、11月に再度追加でインタビューを行った。本編では、それをミックスし、ひとつながりに再構成している。


また、インタビュー中に出てくる『ルミさん』という本について、知らない人もいるかもしれないので、すこしだけ補足しておく。


『ルミさん』とは、阿佐ヶ谷でceroの高城晶平くんがやっているバー、Rojiの店主で高城くんの母親、ルミさんについての本のこと。2014年の12月に亡くなったルミさんへの想いを、いろいろな人たちに寄稿してもらうかたちで一冊にまとめたもので(beipanaくんも参加している)、2015年10月に行われたRojiの開店9周年パーティーで販売された。かたちとしては追悼本なんだけど、Rojiという場のなりたちや空気がよくわかる本になっていると思う。もしこのbeipanaくんのインタビューで、Rojiに興味を持った人がいたら、読んでみてもらいたい。


そしてもちろん、このインタビューの主役は、ミュージシャンとしての自覚をはっきりとさせ、自分の音楽を自分の納得いくかたちでつかんだ作品を作り出したbeipanaくん。ぜひ、彼の作品を聴いてみてほしいし、ライヴにも足を運んでみてほしい。


なお、前回の更新からすこし間があいたので、

念のため前回までのインタビューはこちら。

↓ 

beipana talks about beipana

その1

その2

その3


beipana tumblr


====================


──オーストラリアから帰国したのは、結局いつでしたっけ?


beipana  2013年の年末ですね。


──帰国を機に、それまで名乗っていた“BETA PANAMA”から、“beipana”に改名したんですよね。


beipana  そうなんです。きっかけは留学中、毎回自分も音楽を作ってるって説明をしなくちゃならないときに、オーストラリアで暮らしてる自分の日本人としてのアイデンティティを考えたうえで、適当につけたBETA PANAMAって名前をもう名乗りたくないなというのがあったんです。だから、もし次の音楽をやるんだとしたら変えたいなと思ってました。


──とはいえ、読みは“ベーパナ”で、かろうじてBETA PANAMAの痕跡は残ってます。


beipana  「ベーパナくん」ってみんな呼んでくれてたし、その響きは残そうと思ってました。でも、つづりは変えて。もうちょっと広い意味で自分の居場所を見たいという意味を込めて、“being pan-Asian”みたいな感じで行きたかったというか。“アジアの太平洋のなかのひとり” みたいな、ひとつの存在という意味にしたかったんです。それで、“being”の頭の“bei”と、“pan-Asian”の頭の“pana”で、“beipana”にしました。


──そうだったのか! でも、みんなが「ベーパナくん」って呼んでるからその響きは残したっていうのは、ローカル的なつながりを重視したいっていう話にも通じる気がします。


beipana  そうですね。ベーパナって略称は自分でつけたものじゃなくて、だれかがそう呼んでくれて定着したものだから残したいと思ったんです。


──戻ってきてからしばらくのうちは自分の作品作りよりは、VIDEOくんのサポートとか、Dorianのバンド編成(Dorian Quiet Session)が主な活動でしたね。


beipana  そうですね。渋谷のHOMEであったVIDEOくんのライヴ(2013年12月29日)で、「ひさびさにやろう」って言われてやりましたね。以前からときどき一緒にやってはいましたけど、帰国してからはすごくよくやるようになりましたね。年が明けて14年になってからは、伊東のハトヤホテルでのイベント〈ライヴ・イン・ハトヤ 2014〉(2014年2月1日〜2日)があったり。これから自分が作る音楽の方向性はオーストラリアにいたときに決めてはいたんです。だけど、しばらくはVIDEOくんのライヴに誘われるままにやってました。


D




──2014年は、BIOMANがRojiでやっていたトークイベント〈笑ってバイとも〉で、VIDEOくん、beipanaくん、Dorianくん、ぼくの4人でエキゾチカと呼ばれる音楽の現在形について語る回(〈テン年代のエキゾチシズム〉 2014年7月10日)もありましたね。


beipana  スチールギターも使ってるし、ぼくにもエキゾ的な要素はあるんですけど、自分が次に作る音楽は、もうちょっとクラブ・ミュージックぽいのにしようと思ってました。VIDEOくんも、後に『世界各国の夜』に収録される楽曲を同時期に作りはじめていましたけど、それとは違うものになるだろうなとは思ってました。


f:id:mrbq:20160414214936j:image

  〈笑ってバイとも〉終了後の記念写真


──クラブ・ミュージックと言いつつ、ダンス・ミュージックっぽくなりそうでならないところがbeipanaくん独特の“漂流感”にもなっていて、それがいいんですけどね。


beipana  あ、そうですね! わりとグルーヴレスなダンス・ミュージックにしたいなとは思っていたので、そこは意識しました。2012年に僕がカヴァーしたVIDEOくんの「Slumber Party Girls's Diary」を聴いた磯部さんが「現在的だけど、ここがどこだかいつだかわからないトリップ・ミュージックだ」みたいなことをツイートしてくれて。あのヴァージョンってすごくレイヤーも音の数も少ないんですよ。そこで出てきた、生と死の狭間の感じというか、まどろんでる感じというか。自分が作るアルバムは、そこに音の感じを統一しようというのはありました。


──2015年に入って、福島県いわき市のハワイアンズでやったイベント〈ライヴ・イン・ハワイアンズ〉(2015年1月31日〜2月1日)でbeipanaくんがやったブロンディの「ハート・オブ・グラス」のカヴァーにも、その感覚はあったと思います。あのカヴァーも、すごく印象的でした。


D



beipana  ぼくが作るアルバムは、エキゾじゃなくてバレアリックにしようと決めていました。質感とか構造としては、自分の今までの生活を通じて知ったクラブミュージックの気持ち良さと、ダウンテンポなビートと、自分のルーツでもあるNATURAL CALAMITYとかLittle Tempoみたいな、日本のニューウェーブ、ダブから派生した音楽に近いものにしたかった。あとは、そういう音楽的ルーツに、自分が旅をしたという体験を混ぜて、かつローカルな知り合いだけで作りこんでやるということを前提に考えてましたね。


──ところが、諸事情によりリリース元になるはずだったレーベルからの発売は延期され、JETSETからシングル「7th Voyage」が8月に出て、最終的には11月にアルバム『Lost In Pacific』はbeipanaくんの自主制作盤としてリリースされることになりました。その事情についてはここでは触れるつもりがないので、作品ができた経緯にフォーカスして話を聞きます。まず先にリリースされたシングル「7th Voyage」の話から。


f:id:mrbq:20160312082647j:image



f:id:mrbq:20151019234955j:image



beipana  この曲をシングルにしたのは、VIDEOくんとの会話がきっかけなんです。お互いにアルバム用の曲を作りながらちょいちょい話していたなかで、「PV撮るんならこれじゃないですか?」って言われて。この曲は、2時間くらいでさくっとできた曲で、一番自然にできた曲だからシングル出せるならこれにしたいと自分でも思ってたんです。それで、カップリングにはあらぴー(荒内佑/cero)のリミックスを使いたいというアイデアが頭のなかにあったので、ceroがツアーに出る前にお願いをしました。


──なるほど、それでB面の「7th Voyage (Arauchi Piano Dub Mix)」ができて。


beipana  磯部さんも指摘してくれてましたけど、あのB面は藤原ヒロシさんの「natural born dub」という曲への完全なオマージュです。藤原ヒロシさんとか、中西俊夫さん的なものは大好きだったし日本発のオリジナルな音楽として、アイデンティティとして誇れるものだという気持ちがあって。その流れを自分のいまの環境で継承したいという勝手な思い入れもあります。


──ピアノの音に濡れた感じがあって、その響きも日本的と感じたかも。


beipana  ひとつオーダーしたのは、ceroの「CTC(Contemporary Tokyo Cruise)」の最後に鳴るあのピアノの音にしてほしいってことでした。あの曲はぼくにとっても大事な存在なので、あらぴーにはあの音でやってほしかったんです。ceroがツアーで旅先にいるあいだに、完成したヴァージョンをデータで送って聴いてもらって、「旅にぴったり」みたいな反応が返ってきて、バッチリでしたね。


──あの音、しずくみたいな感じがあって、ジャケットのボタニカル・アートにもすごく合うなと思いました。結果、アルバムにも荒内くんのヴァージョンが収録されることになったし、大正解でしたよね。


beipana  たしかに。


──あの印象的なアートワークはどうやって決めたんですか?


beipana  アルバムのアートワークを考えてたときに、やっぱり旅行に関したものがいいなと考えてたんです。年末にちょうどBUNKAMURAでジョセフ・バンクスっていう18世紀の銅版画家が、キャプテン・クックの航海に同行したときに各地で見つけた植物で製作した銅版のボタニカル・アートの展示(キャプテン・クック探検航海と『バンクス花譜集』展)があったんです。それを見て「そうか、ボタニカル・アートって、旅とつながってるんだ」ということがわかったんで、なんとなくそれを自分でもやりたいなと思ったんです。で、Instagramでなんとなくフォローしてた人のひとりに韓国人のイラストレーター、ソヨンさんがいて。彼女の描くボタニカル・アートを見てて、「この人にやってもらえたら最高だな」と思ったんです。デザインはツンちゃん(惣田紗希)にお願いしようと思ってたので、彼女にも相談したら「わたしもあの人にやってほしいって思ってた!」って言われて。ツンちゃん自身もぼくのアルバムになる音源を聴いたときに「植物っぽい」というのは思ってたみたいで、しかもバンクスの展示も偶然見に行っていて、結構イメージが重なってたんです。


f:id:mrbq:20160414214937j:image



──へえ! すごい偶然。


beipana  で、じっさいにソヨンさんにメールでお願いをして「旅をテーマにしたアルバムなんです」って説明したら、「わたし自身も旅をしながら絵を描いてるんです」って返事がきて。要は、ボタニカル・アートって植物が育つ過程も見なくちゃいけないから、しょっちゅう現地に赴いて採集してという作業をやっているんですよ。だから彼女からも「旅がテーマだったらぜったい合うと思うんで、使ってください」とOKをしてくれて、とんとん拍子に話が進んだんです。


f:id:mrbq:20160414220421p:image

  ソヨンさんが採集してる動画はこちら



──まさに旅ですべてがきれいにつながった! で、ここで話はすこし戻るんですけど、さっきも言っていたようにじつはこのシングル「7th Voyage」が出たのは、アルバム『Lost In Pacific』のリリースが宙に浮いていた時期だったんですよね。一時は海外のレーベルも当たってみてたそうですけど。


beipana  XTALさんに、この件でちょっと相談したことがあるんですよ。そしたら「好きなレーベルに音源送って直接交渉してみたら?」ってアドバイスをくれて。実際に送ってみて、いい反応をくれたところもあったんですけど「すぐには出せない」という感じでした。でも、ぼくはこのアルバムに関してはもうすぐにでも出したかったんで、結局自分でやるのが一番早いと思って、自主で出すことにしました。海外のレーベルの話は、また別で並行しながら探せばよいかなと。


──それで、めでたく2015年11月20日に、アルバム『Lost In Pacific』は、beipanaくんの自主レーベルであるTiny Waveから発売になりました。でも、結果としてリリースが棚上げになった期間があったことで、香港のバンド、My Little Airportのシンガー、Nicoleさんの歌詞とヴォーカルが加わることになったり(「心裡知道」)、あらたな展開もあったんですよね。


D



beipana  そうなんですよ。さっき、『世界各国の夜』とは違うものって言いましたけど、Nicoleさんにオファーをした背景には『世界各国の夜』の存在があったんです。VIDEOくんがあのアルバムを作ってるときに「香港っぽい歌が一曲欲しい」みたいな話をしてて、「だったら香港の人に頼めば?」みたいなアイデアをぼくが出したんですよね。香港のデュオMy Little Airportをふたりとも好きだったので「ヴォーカルの女の子にお願いしてみたら?」みたいな話を雑談の中でしていたんです。結局、その件はVIDEOくんは泊の山田参助さんが参加した「Hong Kong Night View」として完成させて、ぼくはぼくで自分のアルバムに歌ものがあったほうがキャッチーかなと思いはじめて、My Little AirportのNicoleさんに連絡してみたんです。そしたら、ちょうど彼女は日本にいて、しかも奈良に旅行で行っていたという。


──おお。それもまた旅だった!


beipana  そうなんですよ。オファーしたその日にちょうど奈良にいて、「これはすごく運命を感じるからやりましょう」って言ってくれたんです。『Lost In Pacific』ってアルバムのテーマも理解してくれて。


──あの歌詞の対訳読みましたけど、すごくいいですよね。


D



D




  心裡知道 (日本語訳)  Lyrics:Nicole Ou Jian


  あたしは地球に降り立った

  帰る予定はないの

  おいで 海の中で一緒に月を見よう


  のんびりして

  感じよう

  どこが目的地かは 心が知ってる


  8月にお姉ちゃんと関西に行ってきた

  目的地は 行ったことのない奈良と白浜


  高速道路は運転がとても楽ちんだけど、すごく疲れちゃった

  お姉ちゃんの運転はほんとうに最高

  夜はふたりでたくさんおしゃべりをして酔っ払った


  とても暑い夏だから しっかり休まないとすぐにイライラしちゃう

  翌朝早起きしなきゃいけなくって お姉ちゃんが感情を爆発させた

  あたしたちは泣き疲れて高速を走ってた


  どこが目的地かは 心が知ってるの


  深く息をして

  吐いて

  吸って


  香港に帰ってからもすごく悲しい気持ちのまま

  あたしは自分のことが許せなかった

  そしてようやく理解したの あたしは完璧じゃないってことを

  自分を許したらなんだか心が軽くなった


  あたしたち3姉妹がこの世で一緒になったのは本当に素敵なこと

  深刻に考えすぎると自分をとても傷つけちゃう


  あなたも地球に降り立った

  あなたも地球に降り立った


  目を閉じて

  リラックスして

  息をして

  感じよう



beipana  アルバムのテーマを汲んでくれて、いい歌詞になりましたよね。広東語であることで、“Pacific”圏内の音楽であるという感じも出たのが、すごくよかったです。広東語の歌から吉田さん(吉田悠樹/NRQ)の二胡をフィーチャーした曲へ続く展開も気に入っています。そういえば、Nicoleさんやソヨンさんみたいに、見ず知らずの人だけど大好きだったアーティストにオファーしようと決めたのは見汐(麻衣)さんのおかげだったんですよ。


──へえ!


beipana  それもある夜のRojiでの話なんです。たまたまぼくが来てたときに、見汐さんが酔っ払って「DMってすごい」みたいな話をしてて(笑)


──「DMってすごい」?


beipana  「本当に好きな人には直接メッセージを送ったほうがいいのよ!」みたいなことを見汐さんが言うのを聞いてて、「そうか!」と思ったんです。それがきっかけでソヨンさんに「あなたの作品が好きだからジャケットに使いたいんです」ってメールしたら「ぜひぜひ」って返事が来たし、アルバム用には描きおろしもしてもらえた。Nicoleさんもそう。そういうことを思い切ってできたのは見汐さんの意見が影響してます。


──酔っ払った見汐さんが知らず知らずのうちにそんな貢献を(笑)


beipana  そうやってアルバムは完成していったんですが、そもそもアルバムを作ろうと決めた一番大きなきっかけは、自分のDJミックスを友達が家族旅行で聴いてくれていたというのがあったんです。


──そうだったんですか。


beipana  帰国してから、周りから「もう一回アルバムを作れば?」ってアドバイスをもらったというのもあったんですけど、もうひとつのきっかけが、そのDJミックスだったんです。14年の4月に『Spring Mix』っていうDJミックスを作ってSoundCloudにアップしたんですけど、それをその友達が気に入ってくれたみたいで、次に会ったときに「こないだ家族旅行したときにみんなで聴いてたんだよ」って言ってくれて。そういうシチュエーションで聴いてもらえたのがすごく嬉しかったですね。だからそうやって淡々とした時間の流れのなかで聴いてもらえるアルバムを目指しましたね。おなじ温度感で統一されていて、そのなかでやや抑揚があってという音楽。あと、それより前の2012年にも『Kick Back Mix』っていうのも作って友達に渡してたんです。それは2011年のRojiの忘年会とか、ぼくが留学する2012年のRojiでの送別会のときにDJするために自分で用意した曲から作ったミックスでした。そのDJミックスのように、みんながわいわいしている中で流れているような曲も自分の作品で作りたかったんですよ。


──そういう話を聞くと、アルバムのラスト・トラックがなぜ「Kick Back Beats」ってタイトルなのか、合点がいく。


beipana  最後は「Kick Back Beats」で締めるというのは決めてました。あれは、Rojiの8周年のパーティー(2014年10月24日)にぼくがDJで呼ばれてたときに使った音源に、そのときじっさいにお店にいたお客さん、友達のガヤをかぶせた曲なんです。


──それこそ、高城くんが「おつかれさまでした」ってbeipanaくんに話しかけている声も、本当にあのとき自然に出た言葉が収録されていて。


beipana  「Kick Back Beats」に、あの8周年の夜のガヤを入れて、ちょうど一年経った9周年のパーティーで『ルミさん』を読んで、あの本自体もぼくのシングルのリリパがきっかけで作られたって書いてあったりして、ぜんぶつながっていくんだなと思ったというか。だから、ぼくも何をきっかけにこのアルバムを作ったのかはちゃんと言っておきたい。やっぱり、あのアルバムはRojiにめちゃくちゃ影響を受けたアルバムなんです。


f:id:mrbq:20160417001341j:image



──『Lost In Pacific』の良さはそこにもありますよね。普通に生きてる人がそこに介在してる。だからこそ、これをいろんな人間たちがいろいろなことを思いながら暮らしてる旅の音、街の音としてもちゃんと響くというか。


beipana  山奥の仙人感がないってことですよね。


──ちゃんと迷ってるというか、考えているからこそふらふらと漂流して、だれかにめぐり会おうとしてるという感じ。内省的だけど、孤独ではないんです。クールだけど、ぬくもりがある。


beipana  ああ、そうですね。本当にそうですね。自分の心地よいポイントを手探りしながらアルバムを作っていても、ずっとひとりでやっていて不安だったし、だからこそ最後の「Kick Back Beats」で最後にRojiに着地させたかったんですよね。アルバムも一時は予定通りに出なくなったけど、友達のつながりがあったから、ものすごく狼狽したり絶望したりしなくて済んで、最終的に自分でやることを決断できた。つながりに恵まれてるなと思います。


──自分にとって信頼できる関係を、あらためてちゃんと見つめるきっかけにもなっただろうし。


beipana  そうですね。妥協せずに友達とやれる環境ってすごいなと思うので、自分もそうありたいと思います。あと、前に松永さんがヨ・ラ・テンゴのアイラにインタビューしたときに、彼が「“important”って言葉は好きじゃない」って言ってたことを教えてくれたじゃないですか。「しなくちゃいけない」とかじゃなくて、自分がやりたいことをしたいし、やりたくないことはやらない。そうしないとインディペンデントでやれる楽しみがなくなっちゃうなと思っていて。


──アイラって、こっちがいろいろまじめに質問しても、「別に? やりたいことやってるだけだから、そんな難しい質問されても困るよ」みたいなモードでいつもはぐらかされることもあるんだけど、それこそがスタンスの表明でもあるんですよね。それは、beipanaくんがメルボルンのミュージシャンやDJたちと話したときのやりとりとも本当に一緒。


beipana  そうなんですよ。もちろん震災のこととかいろいろあるけど、結局は、だれかと知り合って、気があって、一緒に音楽をやって、友達がDJミックス気に入ってくれたからその延長で作った、みたいな。だから自分としても「別に?」って答えたい感覚はあるんです。


──だから、よけいに「“important”って言葉は好きじゃない。やりたいからやるんだ」って言葉が効いてくるんですよね。


beipana  つまり「これはちょっと違う」と思ったものは断る姿勢を持つことでもあるというか。いつ何が起こるかわからないからこそ、やりたいことだからやるし、やりたくないことはこれからもやらなくていいと思ってます。


(おわり)


====================


全4回、おつきあいいただきありがとうございました。

じゃ最後にもう一度、beipana「7th Voyage」を。


D



beipana Live Schedule


f:id:mrbq:20160417004539j:image



●2016/4/30(土) 東京 吉祥寺Bar Cheeky

OPEN 23:00〜

1000yen+1drink


〈LIVE〉

beipana

ナインティーン


〈DJ〉

BTB(Pan Pacific Playa)

不時着

サモハンキンポー


〈舞踏〉

浪漫猫洲恋



●2016/5/8(日)

小岩BUSHBASH

詳細未定


〈LIVE〉

エマーソン北村

NRQ

beipana

KIRIHITO


〈DJ〉

COMPUMA

MURAKAMI