mrbq(松永 良平 blog Q)

2017-02-12 みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その2

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 光永渉ロング・インタビュー、第二回。


 第一回ではドラムをちゃんと叩くところまでたどり着かなかった。いよいよ第二回では、みっちゃんがドラマー人生を歩みだす。名門サークルの門を叩いて、それからどうなった?


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──思いきって学芸大のジャズ・サークルの人に話しかけた。で、どうなりました?


光永 入部しました。そのジャズ研(東京学芸大学軽音楽部〈Jazz研〉)が、すごく活動が盛んなところだったんですよ。フュージョンとかじゃなくて、超正統派のビバップが一番のサークルだったんです。発表会もあるし、練習もすごくちゃんとやる。プロも何人も輩出したすごいサークルで、上の世代だとスカパラの北原(雅彦)さんもいたし、Soil &" PIMP"SESSIONSの秋田ゴールドマンもいたんですよ。おれは3年だけど新入部生ということで立場としては1年生と一緒で、いろいろ話しかけてくれたのが、のちにチムニィや藤井(洋平)くんのバンドで一緒にやることになる(佐藤)和生なんです。


──ああ! そこで知り合う! 彼も学芸大だったんですね。


光永 そうなんですよ。おれはそのサークルではじめてちゃんとバンドを組んで、ちゃんとした曲をやりました。みんなで音を出すのも楽しかった。そこからおれはドラムにどハマりしていくわけなんです。当時はサークル棟っていう部室があって、24時間空いてたんですよ。だから、一日中音を出し放題。秋田とか和生とか、仲いい連中で夕方くらいに集まって、最初はだらだらとしゃべってて、そこから夜中もずっとセッションして、朝にファミレスで飯食って帰るみたいな。


──それまで夜の学校に忍び込んで即興やってたのが、ちゃんとしたサークル活動になった(笑)


光永 それが卒業までずっと続きましたね。本当に楽しかったですよ。さらにいえば、学芸のサークル棟は24時間練習ができる場所だったから、他大学の人も顔出したりしてて、今おれが一緒にやってる(岩見)継吾くんや、ceroのサポートでもトランペット吹いてもらった川崎(太一朗)くん(Ego-Wrappin’)も来てました。


──名門サークルなわけだから、それなりの厳しさもあったんじゃないですか?


光永 いわゆるアカデミックに突き詰めるところじゃないんですよ。4ビート命な感じとか、ジャズに関しては結構厳しさもありましたけどね。おれとか和生とかはロックが好きだから、こそっと隠れてレッド・ツェッペリンとかやってたんですけど、それを先輩に見つかると「おい、なにやってるんだよ! 4ビートやれ!」みたいに言われたり(笑)。和生はそういうのがだんだん苦痛になって、やがてサークルをやめちゃいましたけど。


──みっちゃんとしても、やっぱりドラムが一番好きだっていう気持ちが固まっていった時期は、ここですよね。


光永 そうですね。ここでドンとハマって、音楽やって酒飲んで、音楽やって酒飲んで(笑)。合コンとか、いわゆる大学生がやるようなことはぜんぜんなく、ひたすら音楽やってましたね。


──そのころ目標にしてたドラマーはいますか?


光永 今でもそうですけど、アート・ブレイキーですね。当時、部室にジャズやソウルのレーザーディスクがたくさんあって、それをみんなでお酒飲みながら見て「ああいうのやりたい」とか、いろんな話してましたね。そのなかで一番好きだったのが、アート・ブレイキーでした。もちろんエルヴィン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスも好きでしたけど、やっぱりブレイキーが一番。


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──どのへんが?


光永 なんだろう? こういうこと言うと怒られちゃうけど、アホなところ(笑)


──アホって(笑)


光永 アホじゃないんですよ。天才だし、素晴らしいんですけど、どこかふまじめな感じだったり、ちょっと不器用な感じだったりするのがかっこよくて。人間らしかったんですよね。


──スーパーテクニックを誇示するというところではなく、人間に惹かれた部分がある。


光永 もちろん他にもすごい人はいっぱいいましたけどね。森山威男さんもめちゃくちゃ好きでした。


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──山下洋輔トリオのドラマーだった方ですね。


光永 アケタ(西荻窪のジャズ・ライヴハウス「アケタの店」)とかでたまにやられるときは見に行ってましたね。「こんなすごい人はいない」と思ってました。


──こうやってあらためて話を聞くと、みっちゃんのドラムの源流って、やっぱりすごくジャズなんですね。


光永 そうですね。ただ、ジャズにどっぷりハマってたけど、デ・ラ・ソウルとかヒップホップも好きでしたよ。


──ヒップホップのサンプリングとかループとかって、ジャズの側からすると思いがけない脚光が当たったいっぽうでは、“搾取された”という見方もできたわけで、ストイックなジャズ・サークルだと怒ってた人もいたんじゃないですか?


光永 おれは、ヒップホップは周りには黙って聴いてました(笑)。


──ロックのライヴハウスとか、インディーズとか、そういう方向には行かず?


光永 ぜんぜん行かなかったですね。“インディーズ”っていうジャンルがあることさえ知らなかった。『CROSSBEAT』とかは読んでましたけどね。


──『CROSSBEAT』は読んでたんだ。『スイングジャーナル』かと思った(笑)


光永 ちがうちがう。『CROSSBEAT』読んで「アクセル・ローズ、わるいなー!」とか思ってました(笑)


──意外と、みっちゃんの大学時代の話って、みんな知らないと思うから、こういう話はいちいち貴重ですね。


光永 そうですね。ジャズやってたってことぐらいは知られてるかもしれないけど。


──大学はちゃんと卒業したそうですけど、就職は?


光永 してない。実家の酒屋を継ごうと思ってたから。


──あ、そういうことか。いったん長崎に帰ったんですね。


光永 ただ、ドラムやりたいという気持ちはずっとあったんですよ。だから長崎に帰ってからも実家を手伝いながら地元のジャズ・クラブに出入りしたりして、音楽をやってはいたんですよね。でも、だんだん「ちゃんとやりたい」という気持ちが強くなってきて、親にお願いしたんです。「もう一回、東京に行かせてくれないか」って。


──そうだったんですか。


光永 まあ、親もおれが長崎でもそうやってドラムを続けてたのを見てたし、なんとなく(帰郷したことに)悔いがあったんじゃなかろうかと感じてたと思うんです。親父から「まあ、じゃあやってこい。何年かかるかわかんないけど、納得いくまでやってみろ」みたいなことを言われた気がします。


──いいお父さんですねえ。だって姉がふたりいるとはいえ、後継をさせられる息子としてはみっちゃんひとりなわけだから。でも、自分の息子にやりたいことがあるということをうれしく思うのも親心だろうけど。


光永 それで、東京に戻ってバイトしながら音楽をやることになったんですけど、そこが運命の分かれ目だったんですよ。たまたま行った遺跡発掘のバイトに、チムニィのギターの春日(長)がいたんです。


──なんと!


光永 ジャズをやるつもりで東京に帰ってきたんですけど、春日に「バンドをやりたいんだけど、ドラムがいないんだ。ただうちらのバンドはかっこいいから売れる!」って話をされて。おれもロック好きだったから「やろう! いや、やらせろよ!」って返事したんです。完璧だまされました(笑)。そこからですね、おれのロック・バンド人生は。


──ジャズやるつもりだったのに(笑)


光永 でも、当時流行ってたジャズっていうのは音の求道みたいなものになってたし、おれもぜんぜん下手だし、そのときはロックが性に合ったんですよね。「じゃあ、おれはロックで行こう」と。


──そのとき誘われたバンドが、チムニィ。


光永 そうです。初のロック・バンド。チムニィ自体はおれが入る前からあったんですよ。福岡でやってて、バンドとして東京に出てきたんです。でも、ちょうどドラマーがいなかった時期で、そこにおれが入った。またこれがチムニィも酒飲みのバンドで(笑)。練習しちゃ飲んで、練習しちゃ飲んで、だんだん仲良くなっていったみたいな。


──そのころはどのあたりでライヴやってました?


光永 その質問おもしろいですね。府中Flight。……知らないでしょ?(笑)。たまに新宿JAM。JAMのオーディションとか受けて、落ちてましたよ(笑)。今おれが出てるライヴハウスでも当時オーディション落ちたとこ他にもありますよ。


──そうなんだ。


光永 Flightはオーディションがなかったんですよ(笑)。あと、おれは当時国分寺に住んでて、チムニィの他のメンバーは府中に住んでたから、やりやすかった。


──そのころから今もやってる曲はあります? 「西武球場」とか?


光永 まだ、そういうのはやってないです。ユウテツくんもまだいなかった。ヴォーカルも初代だったし、今とはぜんぜん違います。ジミ・ヘンドリックスみたいにやりたいヘタクソなバンドって感じでした。


──もっと混沌としてた感じですか。


光永 混沌……ですね。松永さんはそのころ、どういうバンド見てました?


──SAKEROCKかな。たぶん、彼らがカクバリズム入る直前で、ぎりぎりライヴハウスでやってたくらいの時期。


光永 おれらがいたのは、また違うシーンですよ。当時のおれらが見てた頂点にあったというか、「すげえな」と思ってたのが“関西ゼロ世代”。ZUINOSHINとか、ワッツーシゾンビとか、そういうバンドが出るライヴを新宿JAMに見に行ったんですよ。そしたら満員で入れなくて、横の駐車場でお酒飲んでた(笑)


──そうなのか……。


光永 でも、他人からはおれらのバンドは暗黒時代に見えたかもしれないけど、楽しかったですよ。バイトしながらノルマ払ってライヴやるというのが当たり前だったし。


──この時期やってたバンドは、ずっとチムニィだけ? ジャズには戻らず?


光永 所属してやってたのはチムニィだけでしたね。ジャズは、昔の知り合いに呼ばれて、たまにやってたけど。


──転機が訪れたというか、潮目がちょっと変わったのはいつごろですか?


光永 結構長いこと変わんなかったすよ(笑)。たぶん、おれらがそうやってる別のところで、ceroとかNRQとかも生まれてたんでしょうけど、まったく知らなかったし。片想いとも高円寺のペンギンハウスで一回対バンしたことあるんですよ。バンドの毛色が違うから、そのときは特にだれかと仲良くなった記憶もないけど。でも、あだ麗(あだち麗三郎)が当時四谷の某施設でやってたイベントにチムニィを呼んでくれたんですよ。そのころは、もうユウテツくんが加入してました。それまでの轟音ロックじゃなくて、ヒップホップというかトーキングブルースというか、ユウテツくんらしいスタイルにバンドが変わっていった時期です。で、その四谷のライヴ映像をVIDEOくん(VIDEOTAPEMUSIC)が撮ってたんですよ。その映像をビーサン(Alfred Beach Sandal)が見て、「この人のドラムいい!」って言ったんです。


──へえ!


光永 あれ? ちょっと待ってくださいね。なんでおれがビーサンがそう言ったっていう話を知ってるのか……? 思い出した! 当時、チムニィって一匹狼的なバンドで友だちになるミュージシャンがぜんぜんいなかったんですけど、一個だけ仲良くなったピンク・グループっていうむちゃくちゃかっこいいバンドがいて。そのピンク・グループのファンに(内田)るんちゃんとるんちゃんのお母さんがいたんです。それで、そのふたりがチムニィを気に入ってくれて、ライヴを見に来てくれるようになったんです。


──そこからくほんぶつでみっちゃんがドラム叩くことにつながる?


光永 そうなんですけど、それはもうちょっとあとの話です。るんちゃんはビーサンとも知り合いで、おれは彼女から「ビーサンが『あのドラマーの人、知ってる?』って言ってたよ」って、はじめて聞いたんです。


(つづく)


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2017-02-04 みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その1

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 光永渉、と書くのはどうにもまどろっこしいので、いきなり“みっちゃん”ではじめたい気持ちがつよい。でも、それだとくだけすぎるので、とりあえず文章上は“光永くん”でいきたい。


 光永くんとはじめて会ったのは、2012年の春。場所は阿佐ヶ谷のRoji。ワーキングホリデーで渡英していたシンガー・ソングライター野田薫さんの凱旋ライヴが行われた夜だった。その日、彼はあだち麗三郎クワルテッットのドラマーとして演奏していた。終演後、表現(Hyogen)の佐藤公哉くん、古川麦くんがふらっと現れ、片付け前の楽器を使ってセッションがはじまった。さらに偶然にも、伴瀬朝彦くんも現れ、「いっちまえよ」を歌った……という話、じつは過去にも何度か書いている。


 この夜、はじめて会ったひとたちに、いろんな偶然が仕込んだわけでもないのに、そのあと、この3人にそれぞれのタイミングでロング・インタビューをした。表現(Hyogen)にもバンドとして雑誌でインタビューをした。光永くんは、その夜にぼくが出会っていながらまだインタビューをしていない最後のひとりだったということもできる。


 今ではceroのリズム隊の要としてすっかり認知された彼を取材したいと思ったことは過去にもあった。2013年の暮れ、ceroにサポートとして厚海義朗くんと光永くんが参加した直後に、ぼくは厚海くんにインタビューしている。そのまま光永くんにも話を聞くというタイミングは、たしかにあった。


 だけど、GUIROの一員としての姿をすでに知っていた厚海くんに比べて、まだその時点ではぼくは光永くんのことをそんなによく知っていなかった。チムニィ、あだち麗三郎クワルテッット、伴瀬朝彦BAND、ランタンパレード、九品仏、藤井洋平&The Very Sensitive Citizen of TOKYO……、当時彼がかかわっていたバンドやアーティストについても、もっとよく知っておく必要を感じたのかもしれない(※今は、あだち麗三郎クワルテッットは脱退し、Alfred Beach Sandal、“おまつとまさる氏”が発展したユニットである松倉と勝と光永と継吾、G.RINA、バンド編成時のやけのはら、さらに大塚愛のツアー・サポートも加わる)。もっというと、当時から光永くんは職人肌のドラマーに見えたし、わざわざインタビューして聞くことがあるのかなとさえ思っていたのだ。結局、そんな躊躇をしているうちに時間だけが経ったわけだけど、それがあるきっかけで氷解する。本文中にも出てくる話だが、ぼくが「今なら話を聞きたい」と思ったのは2015年のceroのツアーで立ち寄った光永くんの故郷、長崎で一緒にいた時間があったからだった。


 光永渉くん、やっぱり、みっちゃん。愛すべきドラマーで、気のおけないよっぱらい。いろんなところで彼のドラムを見たり聴いたりしてるひとは多いと思うけど、じっくり話を聞いてみると、さらに興味深い話だらけだった。


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──みっちゃんと初めて会ったのは、ここ(Roji)ですよね。野田(薫)ちゃんの帰国記念ライヴの日。2012年(4月28日)だった。


光永 あ、そうでしたっけ? そんなに前になりますか?


──あのとき、まだみっちゃんはあだカル(あだち麗三郎クワルテッット)のドラマーで。ライヴが終わった後に話をしたんですよ。たしか、みっちゃんから話しかけてくれて、「曽我部(恵一)さんのROSE RECORDSで、ランタンパレードやチムニィのドラムをやっていて」みたいな話でした。


光永 あー、そっかー。そのときはまだceroやってないですもんね。しかもそれ、おれがはじめてRojiに来た日ですよ。


──え? そう?


光永 お店の存在は知ってましたけどね。チムニィの日永田(信一)くんって、Rojiが開店して2番目くらいのお客さんなんですよ。


──2006年ごろの話ですか?


光永 そうなんですよ。彼から「こういう店が阿佐ヶ谷にある」とか「ceroってバンドがいる。若い子たちだけどおもしろい」とか、そういう噂は聞いてたんです。当時のceroはまだ高円寺の円盤でライヴをしてたころだったと思います。でもそのときは別にライヴを見に行くでもなく、それだけで終わってた話でした。


──とはいえ、それはそれで興味深い縁ですよね。


光永 そうですね。だから、高城(晶平)くんとも、Rojiであだカルやったあの晩にはじめて会ったかもしれない。


──あだカルにあらぴー(荒内佑)がいた時期があるから、さすがにあの夜が高城くんと初対面というのはないんじゃない?


光永 そうだったかなあ?


──ぼくの話でいうと、あの夜に野田ちゃん、(古川)麦くんとも初対面で話してて。あの夜にはじめて会ったひとに、結果的にこうしてずっと取材してるという流れがあるんですよ。


光永 (厚海)義朗もあの夜でしたっけ?


──厚海くんは、GUIROの時代から知ってはいて。ただ、当時は「怖い人だ」と思ってたから話してない(笑)。話すようになったのは彼が東京に出てきてからですね。インタビューしたのはceroのサポートをするようになってからだし。あのとき、みっちゃんのインタビューも続けてやろうかとも思ったけど、結局やらなかったんですよね。当時は、まだぼくには“いろいろ思いのある人”というより“職人肌の音楽人”に見えてたのかもしれない。それがかなりくだけて、俄然興味が湧いてきたのは2015年のceroの〈Obscure Ride Tour〉後半に同行してからですね。特に大きかったのは、みっちゃんの実家のある長崎に行ったこと。


光永 ああ!


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──あのとき、みっちゃんの地元や光永家の人たち、昔からの友だちとの空気感に触れて、「あ、これはみっちゃんとなんか話したい」と思ったんです(※このインタビューは2015年と2016年の2回にわたって行われています)。夜中によっぱらってみっちゃんが卒業した小学校も一緒に見に行った(笑)。生家は長崎市内の歓楽街にある酒屋さんで、みっちゃんは“街の子”なんですよね。


光永 じつはそうなんですよ。田舎の子みたいに思われてるんだけど、わりとがちゃがちゃした街の育ちなんです。あのとき松永さんたちは、そんなに人が多くないと感じたかもしれないですけど、おれが住んでたころは週末にはすごいにぎわいでしたよ。


──荒っぽい感じもあった?


光永 そうですね。やっぱり歓楽街だから、そういう方面の人たちもいましたね。


──あのあたりは、地元の名前としては「思案橋」でしたっけ。


光永 美輪明宏さんの本にもたまに出てくる地名です。


──そうか。美輪さんも出身は長崎。


光永 とにかく、おれは長崎を出るまでずっとそこで暮らしてました。逆に、母方の実家は、絵に描いたような田舎なんですよ。川があって山があって。夏休みとかは毎年遊びに行ってました。


──どんな子どもでした? 兄弟とかは?


光永 姉が2人います。自分でいうのもなんですけど、そんなに手がかからない子じゃなかったかな(笑)


──末っ子ですもんね。


光永 上の姉とはちょっと歳が離れてるんですけど、下の姉とは1歳違いだったんで、音楽面では彼女の影響をわりと受けてますね。いわゆるチーマーじゃないけど田舎のミスドの前にたむろしてスケボーやったりしてる感じの女の子で、音楽はジャネット・ジャクソンとかホイットニー・ヒューストンとか、BOYZ II MENとか、そういうブラック・ミュージックを聴いてましたね。当時のおれはそれがブラックなのかどうかもわかんないし、ただ単に「いいなあ」と思って聴いてただけでしたけどね。a-haとかペット・ショップ・ボーイズとかもありましたね。


──ジャネットは『リズム・ネイション1814』(1989年)とか?


光永 そうそう!


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──のちにドラマーになる子どもが知らず知らずのうちに受ける影響としては、いいですよね。


光永 姉貴はレンタルCD店でCD借りてきて、カセットテープにダビングして聴いてたから、そのテープをおれが借りて聴く、みたいなね。中2くらいになると自分でも好きな感じのを探すようになっていって、そうするとロックとかを聴くようになっていくんですけどね。


──それがリスナーとしてのみっちゃんの歴史のスタートだとして、演奏するほうは?


光永 じつは太鼓自体は小さいころからやってて。和太鼓ですけどね。


──へえ!


光永 “おくんち”ってわかります?


──わかります。九州三大祭のひとつ、“長崎くんち”ともいいますよね。


光永 おれ、あれに囃子(はやし)で出てたんですよ。光永家は代々それをやってきたんです。親父は袴を着て祭を見守ってる役職みたいなことをやってました。おれは、小さいころは小太鼓。だんだん大きくなってきたら、太鼓も大きなのを任されて、最後は蛇(じゃ)踊りの大太鼓をトップでやってたんです。


──すごいじゃないですか!


光永 おくんちはすごいですよ。学校は半日休みになるし、出る人はその日は学校行かなくてもいいし。あと、やっぱり祭に出てると、モテるんですよ(笑)


──ああ!


光永 だからドラムセットとかを叩いてたわけじゃないけど、おくんちで太鼓の練習はしてましたね。本当はおくんちって決まりがあって、子どもたちは自分の町では7年に一度しか出られないんですよ。つまり、7歳で出たら次は14歳のときしか出られない。おれは、自分がいた船大工町の川船に乗って太鼓をやってたんですけど、隣町の人たちがやってる蛇踊りの太鼓がしたくって、頼み込んで特別枠で毎年のように出てたんです。


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──つまり、自分の町の太鼓では7年に一度なんだけど、蛇踊りでは毎年やってたんだ。すごいなあ。


光永 そうなんです。それは楽しかったし、自分の人生にとってもでかかったですね。太鼓ということも意識してなくて、ただ単にお囃子に入って楽しいってだけだったんですけど、その当時やってたお囃子のドンドコドンドコいう感じが今でも好きですね。


──それは基礎訓練として、結構な意味あるでしょ?


光永 いや、どうなんですかね?(笑)


──高校のときはバンドやってない?


光永 やってないです。高校時代はサッカーにめちゃめちゃはまってたから。結構がんばってたな。


──サッカーで長崎だと、国見とか強い高校ありますよね。


光永 国見にはボロ負けした記憶があります。まあ、うちらの時代の国見は鬼のように強かったですからね。でも、おれがいた時代で最高は県大会の3位まで行ったんですよ。


──じゃあ、高校時代はサッカー一色と。


光永 音楽は本当に好きでしたけどね。東京みたいにレコード屋さんもたくさんないけど、街に一軒くらい、ちょっと進んでる兄ちゃんがやってるような店があるでしょ? そういうところに通って、「これいいよ」みたいなのを教えてもらって、テープを作って友だちに配ったりしてました。


──大学で地元を離れたんですか?


光永 そう。東京学芸大学。


──東京に出てきたかった?


光永 うーん。それはあんまりなかったんですけどね。おれ、あんまり頭よくなかったんですけど、高3のときのセンター試験で、たまたま今まで取ったこともないようないい点が出たんですよ。「これなら東京の国立もいけるんじゃないか?」みたいな話になって。本当は福岡の私立に行きたかったんですけど、でも親父がもともと東京の大学に行ってたこともあって、東京に行くということに肯定的だったんですよ。まあ、おれも「東京行けばライヴとかいつでも見れるな」みたいな気持ちもあって、まあ受けてみっぺかと。二次試験も面接だけだったこともあって、学芸大に受かったんです。


──それで東京へ。


光永 でもね、東横線に学芸大学駅ってあるじゃないですか。おれ、学芸大ってその駅にある、超都会な場所だと思ってたんですよ。親戚もその駅に住んでるし、そこに泊まって大学も受けたらいいかな、くらいに思ってたら、じっさいに大学があるのは小金井のすごい先のほうだった(笑)。「あらー?」と思ったけど、結局受かっちゃったし、行くしかないと。


──それで、とにもかくにも東京には出てきて、大学で音楽サークルとか?


光永 いや、それが学校にぜんぜん行ってなかったんですよ(笑)。なんか、つまんなくて。


──1年生から?


光永 そうです。入学式終わって、おなじ課の人たちが自己紹介とかをするじゃないですか。


──オリエンテーション的なやつですよね。


光永 それに行かなくて、すぐ帰っちゃったんですよ。それで、次に大学に行ったら、ほかのみんなはもうわりと仲良くなってたんで、ぜんぜんおもしろくなくなっちゃって。


──そもそも、なんですぐに帰っちゃったんですか?(笑)


光永 なんか疲れてたんじゃないですか?(笑)……まあ、イヤだったんでしょうね。でも、そんななかでも自分の課とは違うとことろでたまたま仲良くなった美術課のやつがいて、そいつも学校も行かずに週末にはクラブ行ったりするような感じだったんですよね。そいつに一緒に付いていったりしてました。そしたら他大学のやつらとも知り合いになっていって、そいつらもいわゆるアングラ大学生だったというか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをずっと家でかけてるような変な人たちだったんですよ。


──クラブって、当時はどういうとこに遊びに行ってたんですか?


光永 〈MANIAC LOVE〉とか〈The Room〉とか。小金井の田舎から電車乗って、ズッコンズッコン音が鳴ってるところに行って。


──意外です。


光永 でも、そのころからサニーデイ・サービスは好きでずっと聴いてたんですよね。


──サニーデイはどのへんから入ったんですか?


光永 夏休みに帰省したときに、実家でテレビを見てたらSPACE SHOWER TVかなんかで「青春狂走曲」が流れて、「すごくいい曲だな」と思ったんですよ。当時の曽我部さんのイメージは、冷たい瞳で、すごいシュッとしてる感じがあって、そういうのがよかったんですよね。それが渋谷系なのかとか、そういうことはなにもわからなかったし、のちにまさか曽我部さんと一緒にやるようになるとは思ってなかったけど。


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──ね! それもすごい縁。


光永 話をちょっと戻すと、大学1年の終わりくらいだったかな。そのころに遊んでた他大学の知り合いのなかのひとりに「音楽やるから、おまえドラム叩いてくれ」って言われたんですよ。「いいよ」って返事したんですけど、そいつがやりたいのはすごく前衛みたいなやつで。


──前衛みたいなやつ?


光永 鐘をチーンと鳴らしたり、ビユビユビユビユって変な音出したり(笑)。そのバンドは3人だったんですけど、覚えてるのは、真夜中に大学の教室にしのびこんで、部屋を真っ暗にして鐘を鳴らしたり笛を吹いたり、そういうわけのわかんないことをひたすらしてました。


──それがみっちゃんにとって人生初のバンドってことですよね。バンドといっていいのか……(笑)


光永 そのうちドラムセットにも座るようになったんですよ。でも、やるのは曲とかじゃないんです。


──即興みたいな?


光永 そう、即興です! なんにもない即興というか、即興の真似事みたいな。ライヴもやると思ってないし、ただ音楽をやることがかっこいいと思ってたんですね。


──うーん。そうだったのか……。


光永 でも、ガンズ・アンド・ローゼズの「パラダイス・シティ」って曲があるんですけど、知ってます?


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──もちろん。名曲ですよ。


光永 あるときバンドの空いてる時間にドラムであの曲のパターンを真似してみたんですよ。そしたらドッパンドッパンって叩けたんですよ。足でキックも踏んだことなかったのに(笑)。それができたんで、ドラムっておもいろいなと思うようになったんじゃないかな。


──それがドラマー人生のはじまり?


光永 変わってます?


──変わってますよ! なにかのコピーをやるバンドだったわけでもないし、しかも、周りがわけのわかんない即興にいそしんでる最中に、突如ガンズのドラム・パターンを叩いたことがはじまりだっていうのは(笑)


光永 ああ、そういわれたらそうかもしれないですね。でも、それで自分で別のバンドを組むとかでもなく、また即興みたいなことをたまに集まって続けてただけなんですよ。そしたら、あるとき「渉、ジャズやればドラムってうまくなるらしいぞ」って言われて。大学の新歓で音楽サークルが外で演奏してたりするじゃないですか。そこでジャズやってる人たちを見に行って、めちゃめちゃ演奏もうまかったし「なんかおもしれえな」って思ったんです。それで、思い切ってその人たちに話しかけたんです。「1年生じゃないんですけど、入れてくれませんか?」って。そのとき、おれ大学の3年だったんですよ。


(つづく)


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2016-05-21 ユーミン40ドルから転がった話

アメリカにおけるユーミン評価の一例。


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ブルックリンで開催されたWFMUレコード・フェアにて見かけたレコード。先日ツイートしたこの写真に対し、思いがけずたくさんのご反応をいただいた。


似たような例というか、2年半前の話には、こういうことも。


【2013年11月18日のツイート】より。→【旅の思い出】ハリウッドのアメーバ・ミュージックで店内BGM担当の女性DJが突然この曲をかけて


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さらにこれにつないで


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お客さんが何人もゆらゆらと踊るように揺れるのを見た不思議な至福(ここまでが、そのときのツイート)。


あと、ユーミン40ドルを見かけたレコードショーでもうひとつびっくりしたのは、アメリカ人青年客がディーラーに「AORある?」と聞いてたこと。“AOR”って今や完全に和製英語でアメリカではもはやあんまり通じない実感があったから「“ヨットロック”みたいな音のこと?」と思わず彼に聞いた。


すると彼は「うーん、音的にはそうだけど、“あの言葉(ヨットロック)”って、セルアウトな感じだし、バカにしてるだろ?」との返事。つまりニュアンス的にいうと「ヨットロックよりもマイナーでレアでやばめの白人ソウル」にリスペクトをこめて、彼は“AOR”と表現していた。


“AOR”って言葉が逆輸入的に欧米で復活・定着するかどうかはわからないけど、英語として意味が成り立ちにくい造語“シティ・ポップ”よりは可能性がある気がする。


数日後、別の店で買付中。店内で流れてたネッド・ドヒニー「ハード・キャンディ」、値段を聞いたら「だれが買うんや!」と声が出るくらい強気だったけど、最後までかかりきらないうちに若い子がさくっと買ってった!


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レコード・ショー話でもうひとつ。「タイガー・リリーのボビー・ボイド(超ウルトラレアなソウル)ある…わけないか?」とディーラーに話しかけた客がいて、答えはもちろん「NO」なんだけど、そのあとがおもしろかった。「タイガー・リリーのレコードは、おれらにとってのパナマ文書なんだよ」


“レコード界のパナマ文書”とは最高のたとえだけど、実態はちょっと違う。英語では“tax scam record(税金ごまかし盤)”と呼ばれる。“売れなかった”からレアなレコードになっているのではなく、“そもそも売られなかった”レコードがそれ。つまり税金対策で赤字を作るための盤。


“tax scam”で有名なレーベルといえば、思い浮かぶのはタイガー・リリー、ギネス、一時期のB.T.パピー。こうしたレーベルのレコードは、ちゃんとレコーディングされ、かなりの量プレスしたにもかかわらず、“売れなくて赤字”という事実を作るために市場にはほとんど出回らなかった。


B.T.パピーは東海岸オールディーズ・ポップの名門グループ、トーケンズのメンバーが設立したレーベルだけど、この悪名高き商法に目をつけた最初期の会社のひとつ。60年代末〜70年代頭にリリースされたアルバムの数々は、ごくわずかしか現存していないと言われる。残りはすべて廃棄されたとか。


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タイガー・リリーも、ルーレット・レコードの社主でNYのマフィアで音楽業界の大ボスでもあったモーリス・レヴィが傘下に設立させた税金回避レーベル。ジャクソン・シスターズ、ボビー・ボイド、アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」などが、その仕打ちに遭ったレコードとして有名。


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これでそういうレコードが粗製乱造の駄盤ばかりならまだしも、“ちゃんと金かけて作りました”って事実だけ残すためにクオリティの高い作品が少なくないから困る。今でこそリイシューとかで触れやすくなったものもあるけど、まだ手つかずのものも多い。写真でしか見たことないレコードだらけ。


なお、こうした不法な税金回避の抜け道に対しては国税局の対策が行われ、1978年ごろを境に“tax scam”なレコードはリリースされなくなったという。78年で終わりってあたりが、音楽的にもデジタル以前のおいしさがかなりある時期で(特にソウルとか)、よけいにうらめしい感ある。


タイガー・リリーの“tax scam”な幻盤のひとつ。アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」(写真ぼけぼけですが)。数年前のレコードショーで。価格は1200ドルだったかな(買えません)。


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参考までに今年アップされていた“tax scam releases”についての記事(英文)。

2016-05-09 2016年のNRBQ

NRBQを見たのは、なにげに4年ぶりだった。前に見たのは2012年の1月。トム・アルドリーノが亡くなって1週間後のニューヨーク。ジェイク・ジェイコブスとサン・ラー・アーケストラのマーシャル・アレンがゲストで出て、ぼくは偶然にもヨ・ラ・テンゴのアイラとジョージアとおなじテーブル。ルー・リードがちらっと見に来ていたとあとで聞いた。


トムへの追悼だとはひとことも言わずに、テリー・アダムスはペイシェンス&プルーデンスの「ア・スマイル&ア・リボン」を歌った。


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あれから4年も経つのか。


その後、NRBQにはメンバーの交代が2回あった。ベースが美青年のピート・ドネリーから、仲本工事的な憎めいないルックスのケイシー・マクダフに。そして去年の暮れにはドラマーがコンラッド・シュークルーンから、若いジョン・ペリンに。


ジョンのドラムがいいとはうわさに聞いていたけど、実際に出てきた彼の姿を見ておどろいた。眼鏡の優男ふうのルックスで、どういうわけか、ピエロの衣装を着ていた。帽子こそかぶってないが、これはまるで道頓堀名物くいだおれ人形!


仲本工事とくいだおれ人形が加わったNRBQは、どうなるか予想もつかない見た目のワクワク感という意味では近年にない期待値を持つ。


確かな演奏力で近年になく多彩なアーカイヴを歴史から拾い上げる新生NRBQの第1期(テリー、スコット・リゴン、ピート、コンラッド)もかっこよくてよかったけれど、ある意味、ライヴから破綻が減ってしまったさびしさを感じてもいたのだ。


アメリカのくいだおれ人形ことジョン・ペリンがスティックを構えて、ずどんと全身の力を入れて振りおろしたとき、本当にひさびさにおなかにずしんと来る感覚があった。これだ、これこれ! 


ジョン・ペリンは、細いからだのすべてを使って、スネアを叩く。体重を乗せてキックを鳴らし、シンバルを目をキラキラさせながら叩く。ドタドタしてるし、ドスンともしてる。コンマ一秒の正確な刻みが幅を利かせる最近の流行からすれば、このドラム、ぜんぜん流行らねえ! でも、これはぼくの大好物。まだ23歳だという彼がどういうふうに音楽を聴いてきたのかわからないけど、たぶん、ジョンはトムのドラムが好きだ。


ステージ中央に立つのは、ずんぐりむっくりで、模型屋の店員みたいな大人のオタク臭がむんむんするケイシー・マクダフ。着実なベース・プレイと、思いがけずよく伸びるハイトーンの持ち主。真ん中にいながら脇を支えるという特殊な立ち位置がおもしろい。


ぼくはアル・アンダーソンがいた時代のNRBQは映像と音源でしか知らない(35周年の全員集合ライヴで、そのマジックの片鱗は感じたけど)。だけど今夜、あの“こわれそうでこわれない、結果的にこわれちゃうかもしれないけど、それでもいいよね!”って感じの奇跡的バランスを、もう一度感じた気がした。今のNRBQ、もしかしてすごくいいんじゃないのか?


この夜は、老舗のマスクマン・インスト・バンド、ロス・ストレイトジャケッツ(対バンとして最高!)とのツーマン・ツアーの一環。最初にやったストレイトジャケッツが一時間足らずだったので、NRBQもそれくらいかと思ってたら、2度のアンコールも含め、たっぷり2時間やり尽くした。遊びに来ていたジェイク・ジェイコブスがこの日もゲストに出てくれた。


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 NRBQ + Jake Jacobs singing "After All"



「That's Neat, That's Nice」を聴いた瞬間、忘れかけてたか、トムがいなくなってからあえて忘れようとしてた、あの感じを思い出して、動悸が早くなった。


終演後、テリーにあいさつしたら、とても喜んでくれた。ケイシーは初対面で「ぼく、いくつだと思う?」と聞いてきた、ちょっと変な人。ちなみに48歳で、ぼくのひとつ上。そして、ジョン。知人と話していてわかったが、彼の両親が熱心なNRBQファンで、彼自身もシャッグスの大ファンだという。産湯のように聴いて育ったのなら、そりゃあのドラムの音が欲しくなるよね。


知人がしみじみと言った。


「テリーは、NRBQでもっとやれることがあるとまだ思ってるはず」


それがどういうことかを聞く前に、テリーはハル・ウィルナーや友人たちと連れ立ってバーに行ってしまったけれど、これからもこのNRBQが続いていくことが答えを出してくれるだろ。


1996年の初来日から20年。そのときのメンバーで残っているのは、今やテリーだけだ。この世を去ってしまったひとたちもいるし、闘病しているひとたちもいる。白髪になったり、はげたり、太ったり、多少ゆるくなったりしながらも、みんな一緒に歳をとって演奏する姿を見たかったという気持ちは、もちろんある。


でも、60代後半を迎えても前のめりに音楽に我が身を捧げ、自分を鼓舞してくれるメンバーとともに音楽家として前に進みたいっていう気持ちを持ち続けているテリーを見るのはやっぱり刺激的だし、大好きだ。彼がうれしそうにしてる姿が舞台の上にないのなら、NRBQである意味がない。


NRBQは、まだまだ自分たちのリズム&ブルースを更新している。


願わくば、またすぐにでも見たい。


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  現編成での初リリースはロス・ストレイトジャケッツとのスプリット7"。

2016-04-17 beipana talks about beipana / beipanaインタビュー その4

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すこし間があいたけど、beipanaくんのロング・インタビュー最終回。


オーストラリアから帰国して取り掛かった自分の作品のレコーディングが、シングル「7th Voyage」、アルバム『Lost In Pacific』に結実するところまでをたっぷり話してもらった。


単に音楽的な興味だけにとどまるのでなく、beipanaくんが潜在的に感じ続けていたローカルとして自立した音楽活動のありかたや、自分が作りたい作品の持つ意味が、4回にわたるインタビューでかなり明確に浮かび上がったように思う。


なお、あらためて書いておくと、このインタビューは当初、去年(2015年)の夏に行った。第一回にもちょっと書いたけど、じつはその時点ではアルバム『Lost In Pacific』にリリースは宙に浮いた状態だった。なので、そのときはアルバムの話はそんなに突っ込んではしていない。その後、beipanaくんの決心により、自主制作でのリリースが決定した(11月20日)。


それを受けて、もう一度きちんとアルバムについて話そうということで、11月に再度追加でインタビューを行った。本編では、それをミックスし、ひとつながりに再構成している。


また、インタビュー中に出てくる『ルミさん』という本について、知らない人もいるかもしれないので、すこしだけ補足しておく。


『ルミさん』とは、阿佐ヶ谷でceroの高城晶平くんがやっているバー、Rojiの店主で高城くんの母親、ルミさんについての本のこと。2014年の12月に亡くなったルミさんへの想いを、いろいろな人たちに寄稿してもらうかたちで一冊にまとめたもので(beipanaくんも参加している)、2015年10月に行われたRojiの開店9周年パーティーで販売された。かたちとしては追悼本なんだけど、Rojiという場のなりたちや空気がよくわかる本になっていると思う。もしこのbeipanaくんのインタビューで、Rojiに興味を持った人がいたら、読んでみてもらいたい。


そしてもちろん、このインタビューの主役は、ミュージシャンとしての自覚をはっきりとさせ、自分の音楽を自分の納得いくかたちでつかんだ作品を作り出したbeipanaくん。ぜひ、彼の作品を聴いてみてほしいし、ライヴにも足を運んでみてほしい。


なお、前回の更新からすこし間があいたので、

念のため前回までのインタビューはこちら。

↓ 

beipana talks about beipana

その1

その2

その3


beipana tumblr


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──オーストラリアから帰国したのは、結局いつでしたっけ?


beipana  2013年の年末ですね。


──帰国を機に、それまで名乗っていた“BETA PANAMA”から、“beipana”に改名したんですよね。


beipana  そうなんです。きっかけは留学中、毎回自分も音楽を作ってるって説明をしなくちゃならないときに、オーストラリアで暮らしてる自分の日本人としてのアイデンティティを考えたうえで、適当につけたBETA PANAMAって名前をもう名乗りたくないなというのがあったんです。だから、もし次の音楽をやるんだとしたら変えたいなと思ってました。


──とはいえ、読みは“ベーパナ”で、かろうじてBETA PANAMAの痕跡は残ってます。


beipana  「ベーパナくん」ってみんな呼んでくれてたし、その響きは残そうと思ってました。でも、つづりは変えて。もうちょっと広い意味で自分の居場所を見たいという意味を込めて、“being pan-Asian”みたいな感じで行きたかったというか。“アジアの太平洋のなかのひとり” みたいな、ひとつの存在という意味にしたかったんです。それで、“being”の頭の“bei”と、“pan-Asian”の頭の“pana”で、“beipana”にしました。


──そうだったのか! でも、みんなが「ベーパナくん」って呼んでるからその響きは残したっていうのは、ローカル的なつながりを重視したいっていう話にも通じる気がします。


beipana  そうですね。ベーパナって略称は自分でつけたものじゃなくて、だれかがそう呼んでくれて定着したものだから残したいと思ったんです。


──戻ってきてからしばらくのうちは自分の作品作りよりは、VIDEOくんのサポートとか、Dorianのバンド編成(Dorian Quiet Session)が主な活動でしたね。


beipana  そうですね。渋谷のHOMEであったVIDEOくんのライヴ(2013年12月29日)で、「ひさびさにやろう」って言われてやりましたね。以前からときどき一緒にやってはいましたけど、帰国してからはすごくよくやるようになりましたね。年が明けて14年になってからは、伊東のハトヤホテルでのイベント〈ライヴ・イン・ハトヤ 2014〉(2014年2月1日〜2日)があったり。これから自分が作る音楽の方向性はオーストラリアにいたときに決めてはいたんです。だけど、しばらくはVIDEOくんのライヴに誘われるままにやってました。


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──2014年は、BIOMANがRojiでやっていたトークイベント〈笑ってバイとも〉で、VIDEOくん、beipanaくん、Dorianくん、ぼくの4人でエキゾチカと呼ばれる音楽の現在形について語る回(〈テン年代のエキゾチシズム〉 2014年7月10日)もありましたね。


beipana  スチールギターも使ってるし、ぼくにもエキゾ的な要素はあるんですけど、自分が次に作る音楽は、もうちょっとクラブ・ミュージックぽいのにしようと思ってました。VIDEOくんも、後に『世界各国の夜』に収録される楽曲を同時期に作りはじめていましたけど、それとは違うものになるだろうなとは思ってました。


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  〈笑ってバイとも〉終了後の記念写真


──クラブ・ミュージックと言いつつ、ダンス・ミュージックっぽくなりそうでならないところがbeipanaくん独特の“漂流感”にもなっていて、それがいいんですけどね。


beipana  あ、そうですね! わりとグルーヴレスなダンス・ミュージックにしたいなとは思っていたので、そこは意識しました。2012年に僕がカヴァーしたVIDEOくんの「Slumber Party Girls's Diary」を聴いた磯部さんが「現在的だけど、ここがどこだかいつだかわからないトリップ・ミュージックだ」みたいなことをツイートしてくれて。あのヴァージョンってすごくレイヤーも音の数も少ないんですよ。そこで出てきた、生と死の狭間の感じというか、まどろんでる感じというか。自分が作るアルバムは、そこに音の感じを統一しようというのはありました。


──2015年に入って、福島県いわき市のハワイアンズでやったイベント〈ライヴ・イン・ハワイアンズ〉(2015年1月31日〜2月1日)でbeipanaくんがやったブロンディの「ハート・オブ・グラス」のカヴァーにも、その感覚はあったと思います。あのカヴァーも、すごく印象的でした。


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beipana  ぼくが作るアルバムは、エキゾじゃなくてバレアリックにしようと決めていました。質感とか構造としては、自分の今までの生活を通じて知ったクラブミュージックの気持ち良さと、ダウンテンポなビートと、自分のルーツでもあるNATURAL CALAMITYとかLittle Tempoみたいな、日本のニューウェーブ、ダブから派生した音楽に近いものにしたかった。あとは、そういう音楽的ルーツに、自分が旅をしたという体験を混ぜて、かつローカルな知り合いだけで作りこんでやるということを前提に考えてましたね。


──ところが、諸事情によりリリース元になるはずだったレーベルからの発売は延期され、JETSETからシングル「7th Voyage」が8月に出て、最終的には11月にアルバム『Lost In Pacific』はbeipanaくんの自主制作盤としてリリースされることになりました。その事情についてはここでは触れるつもりがないので、作品ができた経緯にフォーカスして話を聞きます。まず先にリリースされたシングル「7th Voyage」の話から。


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beipana  この曲をシングルにしたのは、VIDEOくんとの会話がきっかけなんです。お互いにアルバム用の曲を作りながらちょいちょい話していたなかで、「PV撮るんならこれじゃないですか?」って言われて。この曲は、2時間くらいでさくっとできた曲で、一番自然にできた曲だからシングル出せるならこれにしたいと自分でも思ってたんです。それで、カップリングにはあらぴー(荒内佑/cero)のリミックスを使いたいというアイデアが頭のなかにあったので、ceroがツアーに出る前にお願いをしました。


──なるほど、それでB面の「7th Voyage (Arauchi Piano Dub Mix)」ができて。


beipana  磯部さんも指摘してくれてましたけど、あのB面は藤原ヒロシさんの「natural born dub」という曲への完全なオマージュです。藤原ヒロシさんとか、中西俊夫さん的なものは大好きだったし日本発のオリジナルな音楽として、アイデンティティとして誇れるものだという気持ちがあって。その流れを自分のいまの環境で継承したいという勝手な思い入れもあります。


──ピアノの音に濡れた感じがあって、その響きも日本的と感じたかも。


beipana  ひとつオーダーしたのは、ceroの「CTC(Contemporary Tokyo Cruise)」の最後に鳴るあのピアノの音にしてほしいってことでした。あの曲はぼくにとっても大事な存在なので、あらぴーにはあの音でやってほしかったんです。ceroがツアーで旅先にいるあいだに、完成したヴァージョンをデータで送って聴いてもらって、「旅にぴったり」みたいな反応が返ってきて、バッチリでしたね。


──あの音、しずくみたいな感じがあって、ジャケットのボタニカル・アートにもすごく合うなと思いました。結果、アルバムにも荒内くんのヴァージョンが収録されることになったし、大正解でしたよね。


beipana  たしかに。


──あの印象的なアートワークはどうやって決めたんですか?


beipana  アルバムのアートワークを考えてたときに、やっぱり旅行に関したものがいいなと考えてたんです。年末にちょうどBUNKAMURAでジョセフ・バンクスっていう18世紀の銅版画家が、キャプテン・クックの航海に同行したときに各地で見つけた植物で製作した銅版のボタニカル・アートの展示(キャプテン・クック探検航海と『バンクス花譜集』展)があったんです。それを見て「そうか、ボタニカル・アートって、旅とつながってるんだ」ということがわかったんで、なんとなくそれを自分でもやりたいなと思ったんです。で、Instagramでなんとなくフォローしてた人のひとりに韓国人のイラストレーター、ソヨンさんがいて。彼女の描くボタニカル・アートを見てて、「この人にやってもらえたら最高だな」と思ったんです。デザインはツンちゃん(惣田紗希)にお願いしようと思ってたので、彼女にも相談したら「わたしもあの人にやってほしいって思ってた!」って言われて。ツンちゃん自身もぼくのアルバムになる音源を聴いたときに「植物っぽい」というのは思ってたみたいで、しかもバンクスの展示も偶然見に行っていて、結構イメージが重なってたんです。


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──へえ! すごい偶然。


beipana  で、じっさいにソヨンさんにメールでお願いをして「旅をテーマにしたアルバムなんです」って説明したら、「わたし自身も旅をしながら絵を描いてるんです」って返事がきて。要は、ボタニカル・アートって植物が育つ過程も見なくちゃいけないから、しょっちゅう現地に赴いて採集してという作業をやっているんですよ。だから彼女からも「旅がテーマだったらぜったい合うと思うんで、使ってください」とOKをしてくれて、とんとん拍子に話が進んだんです。


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  ソヨンさんが採集してる動画はこちら



──まさに旅ですべてがきれいにつながった! で、ここで話はすこし戻るんですけど、さっきも言っていたようにじつはこのシングル「7th Voyage」が出たのは、アルバム『Lost In Pacific』のリリースが宙に浮いていた時期だったんですよね。一時は海外のレーベルも当たってみてたそうですけど。


beipana  XTALさんに、この件でちょっと相談したことがあるんですよ。そしたら「好きなレーベルに音源送って直接交渉してみたら?」ってアドバイスをくれて。実際に送ってみて、いい反応をくれたところもあったんですけど「すぐには出せない」という感じでした。でも、ぼくはこのアルバムに関してはもうすぐにでも出したかったんで、結局自分でやるのが一番早いと思って、自主で出すことにしました。海外のレーベルの話は、また別で並行しながら探せばよいかなと。


──それで、めでたく2015年11月20日に、アルバム『Lost In Pacific』は、beipanaくんの自主レーベルであるTiny Waveから発売になりました。でも、結果としてリリースが棚上げになった期間があったことで、香港のバンド、My Little Airportのシンガー、Nicoleさんの歌詞とヴォーカルが加わることになったり(「心裡知道」)、あらたな展開もあったんですよね。


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beipana  そうなんですよ。さっき、『世界各国の夜』とは違うものって言いましたけど、Nicoleさんにオファーをした背景には『世界各国の夜』の存在があったんです。VIDEOくんがあのアルバムを作ってるときに「香港っぽい歌が一曲欲しい」みたいな話をしてて、「だったら香港の人に頼めば?」みたいなアイデアをぼくが出したんですよね。香港のデュオMy Little Airportをふたりとも好きだったので「ヴォーカルの女の子にお願いしてみたら?」みたいな話を雑談の中でしていたんです。結局、その件はVIDEOくんは泊の山田参助さんが参加した「Hong Kong Night View」として完成させて、ぼくはぼくで自分のアルバムに歌ものがあったほうがキャッチーかなと思いはじめて、My Little AirportのNicoleさんに連絡してみたんです。そしたら、ちょうど彼女は日本にいて、しかも奈良に旅行で行っていたという。


──おお。それもまた旅だった!


beipana  そうなんですよ。オファーしたその日にちょうど奈良にいて、「これはすごく運命を感じるからやりましょう」って言ってくれたんです。『Lost In Pacific』ってアルバムのテーマも理解してくれて。


──あの歌詞の対訳読みましたけど、すごくいいですよね。


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  心裡知道 (日本語訳)  Lyrics:Nicole Ou Jian


  あたしは地球に降り立った

  帰る予定はないの

  おいで 海の中で一緒に月を見よう


  のんびりして

  感じよう

  どこが目的地かは 心が知ってる


  8月にお姉ちゃんと関西に行ってきた

  目的地は 行ったことのない奈良と白浜


  高速道路は運転がとても楽ちんだけど、すごく疲れちゃった

  お姉ちゃんの運転はほんとうに最高

  夜はふたりでたくさんおしゃべりをして酔っ払った


  とても暑い夏だから しっかり休まないとすぐにイライラしちゃう

  翌朝早起きしなきゃいけなくって お姉ちゃんが感情を爆発させた

  あたしたちは泣き疲れて高速を走ってた


  どこが目的地かは 心が知ってるの


  深く息をして

  吐いて

  吸って


  香港に帰ってからもすごく悲しい気持ちのまま

  あたしは自分のことが許せなかった

  そしてようやく理解したの あたしは完璧じゃないってことを

  自分を許したらなんだか心が軽くなった


  あたしたち3姉妹がこの世で一緒になったのは本当に素敵なこと

  深刻に考えすぎると自分をとても傷つけちゃう


  あなたも地球に降り立った

  あなたも地球に降り立った


  目を閉じて

  リラックスして

  息をして

  感じよう



beipana  アルバムのテーマを汲んでくれて、いい歌詞になりましたよね。広東語であることで、“Pacific”圏内の音楽であるという感じも出たのが、すごくよかったです。広東語の歌から吉田さん(吉田悠樹/NRQ)の二胡をフィーチャーした曲へ続く展開も気に入っています。そういえば、Nicoleさんやソヨンさんみたいに、見ず知らずの人だけど大好きだったアーティストにオファーしようと決めたのは見汐(麻衣)さんのおかげだったんですよ。


──へえ!


beipana  それもある夜のRojiでの話なんです。たまたまぼくが来てたときに、見汐さんが酔っ払って「DMってすごい」みたいな話をしてて(笑)


──「DMってすごい」?


beipana  「本当に好きな人には直接メッセージを送ったほうがいいのよ!」みたいなことを見汐さんが言うのを聞いてて、「そうか!」と思ったんです。それがきっかけでソヨンさんに「あなたの作品が好きだからジャケットに使いたいんです」ってメールしたら「ぜひぜひ」って返事が来たし、アルバム用には描きおろしもしてもらえた。Nicoleさんもそう。そういうことを思い切ってできたのは見汐さんの意見が影響してます。


──酔っ払った見汐さんが知らず知らずのうちにそんな貢献を(笑)


beipana  そうやってアルバムは完成していったんですが、そもそもアルバムを作ろうと決めた一番大きなきっかけは、自分のDJミックスを友達が家族旅行で聴いてくれていたというのがあったんです。


──そうだったんですか。


beipana  帰国してから、周りから「もう一回アルバムを作れば?」ってアドバイスをもらったというのもあったんですけど、もうひとつのきっかけが、そのDJミックスだったんです。14年の4月に『Spring Mix』っていうDJミックスを作ってSoundCloudにアップしたんですけど、それをその友達が気に入ってくれたみたいで、次に会ったときに「こないだ家族旅行したときにみんなで聴いてたんだよ」って言ってくれて。そういうシチュエーションで聴いてもらえたのがすごく嬉しかったですね。だからそうやって淡々とした時間の流れのなかで聴いてもらえるアルバムを目指しましたね。おなじ温度感で統一されていて、そのなかでやや抑揚があってという音楽。あと、それより前の2012年にも『Kick Back Mix』っていうのも作って友達に渡してたんです。それは2011年のRojiの忘年会とか、ぼくが留学する2012年のRojiでの送別会のときにDJするために自分で用意した曲から作ったミックスでした。そのDJミックスのように、みんながわいわいしている中で流れているような曲も自分の作品で作りたかったんですよ。


──そういう話を聞くと、アルバムのラスト・トラックがなぜ「Kick Back Beats」ってタイトルなのか、合点がいく。


beipana  最後は「Kick Back Beats」で締めるというのは決めてました。あれは、Rojiの8周年のパーティー(2014年10月24日)にぼくがDJで呼ばれてたときに使った音源に、そのときじっさいにお店にいたお客さん、友達のガヤをかぶせた曲なんです。


──それこそ、高城くんが「おつかれさまでした」ってbeipanaくんに話しかけている声も、本当にあのとき自然に出た言葉が収録されていて。


beipana  「Kick Back Beats」に、あの8周年の夜のガヤを入れて、ちょうど一年経った9周年のパーティーで『ルミさん』を読んで、あの本自体もぼくのシングルのリリパがきっかけで作られたって書いてあったりして、ぜんぶつながっていくんだなと思ったというか。だから、ぼくも何をきっかけにこのアルバムを作ったのかはちゃんと言っておきたい。やっぱり、あのアルバムはRojiにめちゃくちゃ影響を受けたアルバムなんです。


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──『Lost In Pacific』の良さはそこにもありますよね。普通に生きてる人がそこに介在してる。だからこそ、これをいろんな人間たちがいろいろなことを思いながら暮らしてる旅の音、街の音としてもちゃんと響くというか。


beipana  山奥の仙人感がないってことですよね。


──ちゃんと迷ってるというか、考えているからこそふらふらと漂流して、だれかにめぐり会おうとしてるという感じ。内省的だけど、孤独ではないんです。クールだけど、ぬくもりがある。


beipana  ああ、そうですね。本当にそうですね。自分の心地よいポイントを手探りしながらアルバムを作っていても、ずっとひとりでやっていて不安だったし、だからこそ最後の「Kick Back Beats」で最後にRojiに着地させたかったんですよね。アルバムも一時は予定通りに出なくなったけど、友達のつながりがあったから、ものすごく狼狽したり絶望したりしなくて済んで、最終的に自分でやることを決断できた。つながりに恵まれてるなと思います。


──自分にとって信頼できる関係を、あらためてちゃんと見つめるきっかけにもなっただろうし。


beipana  そうですね。妥協せずに友達とやれる環境ってすごいなと思うので、自分もそうありたいと思います。あと、前に松永さんがヨ・ラ・テンゴのアイラにインタビューしたときに、彼が「“important”って言葉は好きじゃない」って言ってたことを教えてくれたじゃないですか。「しなくちゃいけない」とかじゃなくて、自分がやりたいことをしたいし、やりたくないことはやらない。そうしないとインディペンデントでやれる楽しみがなくなっちゃうなと思っていて。


──アイラって、こっちがいろいろまじめに質問しても、「別に? やりたいことやってるだけだから、そんな難しい質問されても困るよ」みたいなモードでいつもはぐらかされることもあるんだけど、それこそがスタンスの表明でもあるんですよね。それは、beipanaくんがメルボルンのミュージシャンやDJたちと話したときのやりとりとも本当に一緒。


beipana  そうなんですよ。もちろん震災のこととかいろいろあるけど、結局は、だれかと知り合って、気があって、一緒に音楽をやって、友達がDJミックス気に入ってくれたからその延長で作った、みたいな。だから自分としても「別に?」って答えたい感覚はあるんです。


──だから、よけいに「“important”って言葉は好きじゃない。やりたいからやるんだ」って言葉が効いてくるんですよね。


beipana  つまり「これはちょっと違う」と思ったものは断る姿勢を持つことでもあるというか。いつ何が起こるかわからないからこそ、やりたいことだからやるし、やりたくないことはこれからもやらなくていいと思ってます。


(おわり)


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全4回、おつきあいいただきありがとうございました。

じゃ最後にもう一度、beipana「7th Voyage」を。


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beipana Live Schedule


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●2016/4/30(土) 東京 吉祥寺Bar Cheeky

OPEN 23:00〜

1000yen+1drink


〈LIVE〉

beipana

ナインティーン


〈DJ〉

BTB(Pan Pacific Playa)

不時着

サモハンキンポー


〈舞踏〉

浪漫猫洲恋



●2016/5/8(日)

小岩BUSHBASH

詳細未定


〈LIVE〉

エマーソン北村

NRQ

beipana

KIRIHITO


〈DJ〉

COMPUMA

MURAKAMI

2016-03-19 beipana talks about beipana / beipanaインタビュー その3

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  撮影:西恵理


2011年3月11日。


「この日を境にいろんなことが変わった」という言いかたをすることは多い。それに対して、かつて坂本慎太郎さんに取材したときに、坂本さんは「変わった」のではなく「いろんな問題が明るみになったんだと思う」と言ったことを今でも思い出す。


悲しみや怒りに翻弄される人も多く、原発事故への対応も含め、社会の抱える矛盾も浮かび上がった。だが、そのいっぽうで「本当にやりたいことに気がつく」というかたちでの作用を受けたひともいた。


beipanaくんも、そのひとりだった。ある決意が、彼に出会いをもたらし、人生を大きく動かす。


第三回は、たぶん、彼がこの先の人生で忘れることがないだろう2011年、2012年の話。


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──2011年3月11日、地震の瞬間はどこでなにをしてました?


beipana  当時は、原宿にあるオフィスビルで働いてました。地震の瞬間はそのビルの17階で仕事をしてたんです。


──高いビルにいたら、すごく揺れたでしょ。


beipana  揺れましたね! その日は自宅に歩いて帰りました。時間が経つにつれて原発のこともわかってきて。余震も続いたし、「いつ死ぬかわかんないんだったら、やっぱり好きなことをやっておくべきだったな」と次第に思うようになったんです。3.11があって、それまでの「本当にやりたいことはこうじゃないはず」というところから、「じゃあ本当にやりたいことは何なんだ?」ってところまで深堀りできたというか。それで7月くらいに、やりたいことをやろうと思って、スチールギターを買ったんです。


──ここでスチールギターが出てきた!


beipana  スチールギターの話、ここまでまったく出てきてませんでしたよね(笑)。でも、昔からやりたかったんですよ。


──「昔からやりたかった」っていうのは、どれくらいさかのぼる話ですか?


beipana  高校時代です。当時よく聴いていたSUGIZOさんやUAさんのラジオでは、スチールギターが楽曲に使われているNATURAL CALAMITYとかLittle Tempoとかも流れていたんですよ。音が気持ちいいから昔から好きだったんです。いつかやりたいなと頭の片隅でずーっと思っていて。BETA PANAMA名義のアルバムでも「Sleep Walk」というスチールギターの名曲のタイトル引用をしたり、スチールギターをサンプリングしていました。あと、震災直後の頃、音楽をあまり聴けなくなっていたんですけど唯一聴けたのがハワイアン音楽とNATURAL CALAMITYだったんですよね。


──ちなみに、スチールギターはやってみたいとはずっと思っていても腕に覚えはないわけですよね。もちろん高校時代にギターは弾いていたから基本的なことはできるとしても、そこから先も簡単にできるもの、ではなんですか?


beipana  いや、なのでちゃんと先生について習いました。山内雄喜さんの教室に通ったんです。


──今の日本で、オーセンティックなハワイアン・ギターの名手といえば山内さん。


beipana  ネットで調べたら、山内さんがグループレッスンをやっているというのを知って、そこで世代が2まわりくらい上の生徒さんたちに混じって一緒にゼロから学びましたね。ちょっと弾ける程度で飛び道具的に使うつもりではなかったので、スタンダード曲を弾けるようになるまでは毎日練習してました。


──beipanaくんが弾くのは、ペダルがなくて小型のラップスチールですよね。坂本慎太郎さんが『ナマで踊ろう』で使ってるのとタイプ的にはおなじの。


beipana  そうですね。


──スチールギターを手にした時点で、音楽的な方向転換も決意したんですか?


beipana  はい。「ダンス・ミュージックを作るのは一旦やめよう」というのは決めてましたね。スチールギターを使って、自分がやりたいことをちゃんとやろうと。


──それはかなり強い決意ですね。


beipana  ちょうどそのタイミングでVIDEOくんと知り合ったんですよ。2011年の7月後半でした。VIDEOくんが9月に江ノ島のOPPA-LAで〈Slumber Party Enoshima〉って企画をやるときに、面識のなかったぼくがDJとしてブッキングされたんです(2011年9月23日)。ダンス・ミュージックはもう作っていなかったけど、「DJならいいかな」と思って引き受けて、VIDEOくんと顔合わせのために7月に下北ではじめて会いました。そのときに「ちなみに最近、スチールギターを習いはじめたんです」と言ったら、「曲に参加してほしい!」って反応があって。「じゃあ、やります」と返事しました。


──VIDEOくんの話がなかなか出てこないなとは思ってましたけど、初対面が震災以降とは思ってませんでした。


beipana  そうなんです。しかも、あの夜のOPPA-LAにはDorianくん、ビーサン(Alfred Beach Sandal)とceroがライヴで出ていて、ぼくのほかに磯部さんと角張さんがDJでした。ceroもその日はじめて見たんです。だけど、その日のライヴではceroのみんなはテキーラでべろべろ状態で、「21世紀の日照りの都に雨が降る」を何回もトチってましたね(笑)。そんな状態だったけど、曲が良かったしとても感動しました。


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  ※cero@〈Slumber Party Enoshima〉



──結構、運命的な夜じゃないですか。


beipana  そういうことも含めて、VIDEOくんがつないでくれたことに感謝してます。ほかでも「一緒にDJやりましょう」みたいな感じでいろいろ誘ってくれたし、Rojiにも行くようになったし。その年のRojiの忘年会にもDJとしてぼくを誘ってくれたんです。


──2011年のRojiの忘年会は、ぼくもDJしました。VIDEOくんがDJタイムのオーガナイザーの役割をしていたのを覚えてます。夜12時までDJで、深夜はアコースティック・ライヴだった。


beipana  でも、あのときはぼくと松永さんとは話はしてないですよね。


──そうだったかも。


beipana  お店のなかに、みんなの荷物を置くハンモックが下げてありましたよね。朝方に弾き語りが終わった後、VIDEOくんがceroの「(I found it)Back Beard」をかけて、ぼくがその後SAKANAの「ロンリーメロディー」をかけたこととか、細かいディティールも覚えてます。震災の余韻が残っていた時期に、居心地のいい場所にVIDEOくんのおかげでふっと入れたのはよかったなと思ってます。あの夜は、本当に救われた感じがありました。


──はたから見ててもbeipanaくんとVIDEOくんはすごく相性がいいんですよね。空気感が近いというか、シーンとの距離の保ち方が通じてるというか。


beipana  いわゆるクラブっぽいところとライヴの中間にいるって感じですよね。「おなじ人を見つけた」という気はしてました。VIDEOくんのアルバム(『Summer of death』)は出会う前から聴いてはいて、音源もかっこいいし、「自分がやりたいものに近いかもな、自由にやっててうらやましいな」と感じてたんです。


──その流れでいくと、スチールギター奏者としてのBETA PANAMAがはじめて音源デビューしたのはVIDEOくんのアルバム『7泊8日』?


beipana ところが、そうじゃないんです。2011年の7月から年末にかけて、ウエハラ(シュウタ)くんと知り合ってYetiiというユニットをはじめたので。


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  ※Yetii


──そうか、そっちが先。Yetiiは2本のギター(エレキギター、スチールギター)と打ち込みによるエキゾチカ、サイケデリック・カントリーというスタイルのユニットでしたね。


beipana  Yetiiをやるきっかけは、ceroとの出会いも大きかったです。それまでの大半の日本のバンドには“日本のバンド”という括りの中でしか良し悪しを見出せなくて、音楽的なおもしろさを感じたことはほとんどなかったんです。でもceroはその括りを抜きにしてフレッシュな音楽だった。質感は独特だったし構成も今まで聴いたことがない感じで。それにも触発されてYetiiのEP『FARMER GONE TO HEAVEN』の一曲目になった「Grandfather of Idaho」を作りました。古臭い構成のカントリーをダビーな質感で作ろうと思って。それがスチールギターを録音した最初の曲です。VIDEOくんにPVをお願いして、公開したのが2011年11月とかでした。


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──ウエハラくんとはどうやって知り合ったんですか?


beipana  BETA PANAMAの名前で活動してた時代に、人のリミックスも頼まれていくつかやってたんですよ。そのなかで、2010年にある一曲をマスタリングしてたのがウエハラくんだったんです。


──へえ! じゃあ、エンジニアとして知り合ったんですね。


beipana  でも、じつはそのときのマスタリングにぼくが納得いかなくて。それで「担当したエンジニアの連絡先を教えてくれ」ってレーベルに言って、直接メールしたんです。それがウエハラくんでした。


──なんと、出会いはクレームから(笑)


beipana  そうでしたね(笑)。それで、いろいろやりとりをしてるうちに、彼の音源の存在を知りました。大滝詠一さん的なおもしろさのあるインストをやってたんですよ。それがずっと引っかかってて、コード進行とか構造的な部分を補ってもらうためにウエハラくんに参加してもらいました。


──EP『FARMER GONE TO HEAVEN』はよく聴いたし、今も好きな作品です。


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beipana  ありがとうございます。あのEPはVIDEOくんの『7泊8日』のツアーにYetiiが同行することになったときに、急遽それに合わせて作って自主で出したんです。


──今はYetiiは休止中なんですよね。


beipana  そうですね。自然消滅というか、またやるかもしれないですけど。


──ぼくがちょくちょくbeipanaくんと会って話したりするようになったのも、そのあたりからでした。


beipana  まあ、本当にありがたいというか、VIDEOくんが毎回いろんなことに誘ってくれるし、RojiでDJをする機会も多かったから自然と高城くんとも話すようになったし。“VIDEOくんのサポートをする人”という認識で、いろんな人と仲良くできるようになりましたね。その頃にはceroに関しては2011年のWWWでのワンマン(2011年12月25日)ではボロ泣きするくらいの純粋ないちファンになってしまいました。彼らを通じて知ったとんちれこーど周辺の人たちもceroと同じ新鮮さがあって驚きました。


──自分が知らなかっただけで、こんなにおもしろい場や音楽があるんだというのは、ぼくも驚きでした。


beipana  シーンというよりコミュニティというか、変な上下関係もないし、居場所を見つけた感じがしましたね。


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  ※VIDEOTAPEMUSIC『7泊8日』リリースパーティー『延泊』@渋谷7th FLOOR



──ところが、ですよ。やっと居場所を見つけたと思っていたbeipanaくんが、2012年の秋に突然いなくなっちゃうんですよ。日本から姿を消してしまって。


beipana  そうですね(笑)。1年ほど留学をしたんです。


──簡単にいうと、その理由はなんだったんですか?


beipana  震災です。スチールギターを始めたことで自分の志向性のチューニングが徐々に合いはじめて、VIDEOくんと演奏したりceroのワンマンで感動したり、楽しく過ごすうちに、震災以降のいろんな問題も帳消しになった気がしたんですけど、「実際はなにも解決してない」って我に返ることがたびたびあって。昔、Rojiのトイレにはハザード・マップが貼ってあったじゃないですか。それを見たときもいろいろ考えてましたね。そういう時期に「音楽的に自分が好きなことをやる」という決意と同じように、「明日自分が死ぬとしたら、今やりたいこと、やるべきことってなんなんだろう」って考えて、ちょうどワーキングホリデーを使えるぎりぎりの年齢だったこともあって、「海外に行ってみたい」と思い始めたんです。


──わかる気がします……。そして、実行に移せるのはまさにあのタイミングしかなかった。


beipana  海外に行くことを決めた日のこと、本当によく覚えてるんですよ。2011年の大晦日でした。30日の夜にあったRojiの忘年会が楽しくて、超いい気分で帰ってきたんですが、その日に偶然『Spectator』という雑誌で「これからの日本はどうなるのか」という特集をしてる号(24号。特集 「これからの日本について語ろう」)を読んで現実に戻されたんです。「確かに今は気持ちがいいけど、なかったことにはできないな」と思って、行くことを決めたんです。


──そうか。結構早くに決めてたんですね。


beipana  そうですね。ただ、仕事もしていたので本当にそれが出来るかはわからなかったし、ぎりぎりまでだれにも言わなかったんです。VIDEOくんやウエハラくんにも、行く2、3ヶ月前に「行くことにしたんだ」って告げて。『7泊8日』のツアーが終わったらもう日本から出ることを決めました。結構きつい判断でしたけどね。「もったいない。なんで今行っちゃうの?」っていう人もいたし。でも「今しかない」と思ってたんですよね。


──ワーキングホリデーで出国するのを決めたのはいいとして、具体的に何をするかは考えていたんですか?


beipana  行く目的は、新しい視点や可能性の獲得でした。震災と同じようなことが再び起きたり、今の生活を捨てなければいけない状態になったとき、どこでも生活出来るようにしておきたかった。よくない言いかたですが避難訓練のような意味合いも含んだ渡航でした。あと、震災のあった日本がどう思われているのかを知っておきたかったんです。たとえば「自分があのとき国会前に行ったことは、外から見てもちゃんと意味があったのか?」ということも知りたくて。英語がわかったらその反応もわかるし直接伝えられるだろうし。もしかしたらまったく別の方法で解決できることがあるかもしれないし。そういう意味でも、今までとは違う視点を獲得したかったんです。


──これは今だから俯瞰として言えることですけど、当時はVIDEOくんやceroのみんなと知り合って1年くらいで、その時期にできたあたらしい関係は刺激的だったけど、そこであえて空白を設けて、もっと時間をかけて意味を考えてみたことはいろんな面でよかったのかもしれないですね。「ただ楽しいから一緒にいる」みたいな感じだけで終わらない関係を考えられたというか。


beipana  まさにその通りですね。それに、自分は行ける環境にあるんだから、行くべきだろうなと思ったんです。幸い実家が神奈川だから、ワーホリから帰ってきても東京に戻ってこれる。結婚をしたらなかなか行けないだろうし。


──あとすこしみんなと深く交わってしまっていたら、逆に留学するのに踏ん切りをつけづらくなって、とどまってたかもしれない。


beipana  それは思いました。でも、スチールギターを使って始めたYetiiも、結局周りとの距離感を意識したものだったし、個人として「本当に自分がやりたいことは何なのか?」を人間関係とか抜きにして一回考えなきゃダメなんじゃないかという気持ちも同時にあって。もちろんRojiはその時点でもすでに特別な存在だったから、すごく悲しかったですけどね。DJ gossipgirlsのお二人が主宰のお別れ会もしてもらったし。


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  ※BETA PANAMA壮行会での高城晶平@阿佐ヶ谷Roji



──留学先は、最初はフィリピンで、そのあとオーストラリアって聞いてました。


beipana  最初はフィリピンに行って英会話学校で学んで、そこからオーストラリアに行きました。フィリピンからオーストラリアに行くあいだの2012年末に一回日本に帰ってきてるんですよ。「ルミさんが呼んでるから、顔だしたほうがいいよ」って言われて、一時帰国会というか、Rojiに集まって飲みましたね。


──ああ、ありましたね。


beipana  それで、2週間くらい日本にいて、そこからオーストラリアでしたね。


──オーストラリアはどの都市に?


beipana  メルボルンです。オーストラリアに入国するのは決めていたんですけど、街は具体的には考えていませんでした。日本人が少なくて、なおかつ都市部であるという基準で決めました。ショート・ステイで移動しながらじゃなくて、ひとつの街に定住してみたかったんです。東京以外の国で、都市生活者として1年くらい生活したら見えてくる視点があるはずだと思って。そういう感覚を獲得することが目的だったので。


──最初のフィリピンにもカルチャー・ショックはありました?


beipana  ありましたね。K-POPがすごく認知されていて、アジアの娯楽としてとても浸透していることに驚きました。それと、キリスト教徒の、しかもカトリックの人がすごく多くて、宗教の根付き方が日本とは全く違いましたね。でもその反面、田舎の住宅街は道も舗装されてない感じで、昭和の日本みたいでした。自分では体験していない時代なんですけどね。


──メルボルンでは、音楽的にもいろいろ刺激があったそうですね。


beipana  着いたのが真夏の年末だったので、フライング・ロータスなんかが出るフェスがいくつか開催されていたけど、それに行くお金はないので地元のレコード屋さんを回って、ローカルなカウントダウン・パーティーの情報を収集していました。行ってみたらすごくおもしろくて。


──そういうパーティーやライヴで見つけたおもしろいバンドを当時いくつか紹介してましたよね?


beipana  そうですね。バンドというよりクラブ寄りのミュージシャンやDJですけど。カウントダウンのパーティーで、後にワールドワイドに活躍するアンドラス・フォックス(Andoras Fox)やザンジバル・チャネル(Zanzibar Chanel)、ローランド・ティングス(Roland Tings)といった存在を知りましたね。あとはそこから芋づる式に地元の音楽家の情報が入ってくるようになりました。



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──ハイエイタス・カイヨーテもすごく小さいライヴハウスで見たって聞きました。


beipana  あるレストランで開催されたパーティーで、ハイエイタス・カイヨーテのサポート・メンバー(サイレント・ジェイ)がMPCを使ったライヴをやってたんですけど、盛り上がり方がほかの出演者と違ってましたね。ご飯を食べに来ただけのおじさんとかもノリノリになっちゃってて。それで「こいつは誰なんだろう?」と調べたら、ハイエイタス・カイヨーテにたどり着いた感じです。ちょうど彼らがSONYとの契約を発表するタイミングでした。彼らは、まさにぼくがいた家の近くに住んでいたんです。じつは、バンドで彼らを見るより前にヴォーカルのネイ・パームのソロ・ライヴを見たんです。チャージは10ドルでした。むちゃくちゃよかったですよ。マイケル・ジャクソンの「I Can't Help It」とか、サム・クックをカヴァーしてて。「すげえな、天才だな」って思いました。


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──うらやましい!


beipana  メルボルンでは、そういうローカルなミュージシャンのライヴやパーティーを見るのがおもしろかったですね。そのいっぽうで、メルボルンで暮らしていくなかで、自分の文化的なアイデンティティを見直さざるを得なくなってもいました。今まで日本というフィルター越しにあらゆる文化を楽しんでいたので、「自分の感性は正しいのか? 世の中とブレているんじゃないか?」という点までさかのぼって見直そうとしていました。実際見直せたこともたくさんあります。でも、同時に気が付いたのは、ぼくはローカル・ヒーローみたいなものに惹かれる人間だということでした。ceroが好きなのは音楽性はもちろんですけど、東京に住んでいる自分と響き合うものがあるからで、ハイエイタス・カイヨーテにあそこまで熱中したのも、自分が住んでいる街にいたバンドだったからだと思います。「音楽はコミュニティのものなんだ」ということにあらためて気付いたんです。つまりそれは、Rojiで味わった感覚とも似ているなと。


──情報過多な時代の音楽の、ミクスチャーではあるけどある程度情報で割り切れてしまう味気なさみたいな面を有機的かつ人間的なつながりで解決してくれる場所みたいなものを、無意識的に作り手が求めていった部分はあると思うんです。シーンとか流行というより、その感覚は“ローカル”って言葉がしっくりくる。ぼくにとっても、Rojiはそういう発見をさせてもらえた場所だっていう感じかたがあります。


beipana  そうですね。だから、ハイエイタス・カイヨーテを見てて思ったのは「東京に帰りたい」ってことだったんです(笑)


──それ最高ですね(笑)


beipana  周りの人間関係を抜きに自分は存在しないんですよね。やっていることがかっこいいのは大前提ではあるけど、コミュニケーションとしての音楽も僕にとってはすごく大事で。シーンとかメディアとかビジネス的な話の前に、ローカルな感覚を大事にしたいと思いました。自分たちで場所を作って有機的につながっていくことが音楽の本来あるべき姿なんだろうなと。本来、録音文化以前の音楽ってそういう存在だったんじゃないかなと。


──すごくうなづけます。


beipana  アンドラス・フォックスに今まで知った現地の音楽家のことを話すと「みんなもともと普通に地元の友達だよ」って教えてくれました。ある晩、アフロ・ビートのバンドを観た帰りに、そのバンドのメンバーと電車が一緒になったんです。そこでハイエイタス・カイヨーテの話をしたら「こないだまで一緒の場所で演奏してたのに、すごいよね!」とかうれしそうに言ってて。ネイ・パーム自身も、ライヴの直前に会場の外で友達と話していたり。「あ、この感じ、知ってるわ!」って思いました。


──Rojiの感じだって。


beipana  留学して「地元に根付くものが好き」ということに気付けたのは良かったですね。だからこそ、帰国後にアルバムを作ることになったときも、コンセプトや自分のやりたい音楽性に加えて、そういう感覚も大事にしたいと思ってました。


(つづく)


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『Alternative Tokyo』

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  VIDEOTAPEMUSICのサポートで出演。


2016/3/19(土) 東京 新木場STUDIO COAST

OPEN 13:00 / START 14:00

当日券:¥6,500-(税込/スタンディング/1Drink別)

     12:30〜会場当日券売場にて販売


<出演者>

ジム・オルーク

フアナ・モリーナ

Phew

cero

VIDEOTAPEMUSIC

KIMONOS

大森靖子

te'

フロー・モリッシー


(Talk Session)

ピーター・バラカンx野間易通

2016-03-16 beipana talks about beipana / beipanaインタビュー その2

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ロング・インタビュー第二回。


このインタビュー企画、たいていは第一回は少年時代の話で、なつかしくもほほえましい思い出が中心なのだが、第二回くらいからそのミュージシャンにとってなじみ深い人名や固有名詞が一気に増えてくる。現在とのリンクがぐっと太く強くなるわけだ。


beipanaくんの場合も、やはりそういう流れになった。時代的には武蔵大入学からはじまる2000年代の話。



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──武蔵大学に入学したらびっくりしたって、どういうことだったんですか?


beipana  ぼくが入ったのはC.M.A.ってDJサークルだったんですけど、部室に行ったら、ターンテーブルとサウンドシステムが完備されていたんですよ。ターンテーブルもそこにあるから自分で買わなくてよかったし、部員のレコードも置きっぱなしで、他人のレコードを使ってすぐにDJができたんです。しかも、そのころは大学のシステムもすごくゆるくて、24時間いていいし構内でお酒も飲んでよかった。毎日パーティーができるような環境だったんです。


──「日本のハシエンダが大学にあった!」みたいな(笑)


beipana  そうなんですよ(笑)。このインタビューを受けるんで当時を自分で振り返ってたら、あのころはめちゃくちゃ狂ってたなと思いましたね。学園祭(白雉祭)のときも、ぼくらのサークルが中心になって自分たちの好きなようにオーガナイズできるんですよ。ぼくが入学した年は、学園祭にROVOやOOIOOがライヴで呼ばれてて、しかもVJが宇川(直宏)さんでした! サウンドシステムをリヤカーに積んで江古田の街を歩きまわって“ラヴ・パレード”みたいなこともしてましたね。しかも、部として大学に公認されてるんで部費もおりる。「じゃあ今年はCDJ買おう」とか「ウーハー買おう」「スモーク・マシーン買おう」とか話し合ってるんですから(笑)。すごい楽しかったし、本当に夢みたいな時間でしたね。


──武蔵大の学祭って、バンドのライヴが全部無料で見られるんですよね。構内の広場にやぐらみたいなステージがあって、そこで何年か前に片想いを見た記憶あります。


beipana  そうです。その“やぐら”で外部のミュージシャンをオファーしはじめたのもC.M.A.です。


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  ※2003年の“やぐら”



──へえ! あの“やぐら”はレイヴ感ありますよね(笑)。beipanaくんが大学にいたのは2000年前半で、まさにレイヴ時代だし。


beipana  そうなんですよ。先輩たちはインド行ったり、代々木公園でジャンベ叩いたりとか、そういう時代でした。部室の鍵の番号が当時は「1558」で、それを「行こうゴア」って読むんです(笑)


──行こうゴア!(爆笑)


beipana  くだらないですよね(笑)。でも、そのサークルには本当に衝撃を受けました。ずっとリスニングとして聴いてきた音楽からクラブ的なところに行く足がかりになったし。クラブ系だけじゃなく、ブルーハーツしかDJでかけない人もいたし、パンクだけの人もいたし。で、夜中になるとテクノの時間帯になって(笑)。洗練されてはいなかったですが、誰でも受け入れていたのでなんでもありでおもしろかったですね。


──でも、そんなに居心地がよくて、しかも無料で全部できちゃったら、現実のクラブとかに行く必要を感じなくなるでしょ?


beipana  そうなんですよ。友達が誘ってくれて遊びに行ったりはしてましたけど、本当に大学だけで満たされてる感じでしたから、あんまり外のおもしろい場所を探したりはしなかったですね。新宿リキッドルームと青山CAYの深夜営業、恵比寿みるくとかそのぐらいです。


──beipanaくんの学年が学祭でブッキングしたのは、どういう面々でした?


beipana  3年生のときにはぼくがブッキング担当に指名されて呼んだのが、小玉和文さん、渋さ知らズオーケストラ、Double Famous、そして、COMPUMAさんのやっているスマーフ男組でした。だからCOMPUMAさんとはそのときからの顔見知りなんです。


──そのブッキングした面々は、“やぐら”のステージでやったんですか?


beipana  そのときは大講堂ですね。椅子を全部捌けて800人くらい入るライブハウスのように使いました。僕の入学前ですが、Boredomsが大講堂に出演したことがあって、それがそのままPVになっているので、それを観るとどんな感じだったか分かると思います。


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──そういう状況は、学生ながらも好きなことをやり尽くせる達成感があったでしょう?


beipana  今考えるとそうですね。『24 Hour Party People』みたいな生活を実際にやれる場所があったし、好きなミュージシャンを学祭に呼べたし、ああいうことをやりたくてもやれない人もいるでしょうしね。でもオーガナイザーをやり終えたあと、就活しながら「あれが人生のピークになってしまったら、嫌だな」と思いながら暮らしてました(笑)。実際、その四年間って今振り返ると、物を作らなくてもよかった時間だったんですよ。一年中“サマー・オブ・ラヴ”みたいな空気に飲まれていて、昼間はフィッシュマンズとかを聴きながらぼんやり過ごして、夜はパーティー三昧の日々。だから、のちに知り合ったVIDEOくんとかceroのみんなの話を聞いてると、ちゃんと大学時代から自分がやりたいことをやったり考えたりしていたて、それをうらやましく思う気持ちもあるんです。


──結局、就職はしたんですか?


beipana  しました。その時期には、高校の終わりごろをまた思いだして、「本当は音楽を作りたかったのに、大学でもだらだら過ごしてしまった」みたいな気持ちにもとらわれてましたね。


──結局、大学時代は、自分の音楽はいっさい作ってない?


beipana  ほぼ、なにもやってないです。高校時代の友達とスタジオに入ったりはしましたけど形には出来なかったし、彼らとも身内ノリのDJパーティーをやる方がメインになってしまって。唯一、掛け持ちで入っていた美術部で、学園祭に個々が作品を出すみたいな課題があったんで、そこにギターの宅録で作ったループみたいな40分くらいの作品を発表したりはしました。でもそれも、作り込んでがんばってみたというよりは、なんとなくできることをやっただけという感じですね。


──とはいえ、度を越した享楽の4年間に放り込まれたことはなかなかできない体験だし、自分にとってよいフィードバックもあったでしょ?


beipana  もちろん、それはあります。遊び方というか、クラブ・ミュージックの気持ち良さもそこでしかわからなかっただろうし。気が付いたら5時間ずっと踊ってたみたいな陶酔していく楽しさは、そういう暮らしをしていたから身についたみたいな感じはあります。あと、学祭を通じて他の大学とも交流が出来始めたんですよ。たとえば、法政大学の放送研究会の方とか。そこからXTALさん(当時はCrystalと表記)、PEECHBOYさんのように、ぼくよりちょっと先輩で、オファーされる側、作品を発表する側にいる人たちの存在を知ったりしました。ALL NIGHT THINGやDOEL SOUND FORCE周辺の方々ですね。既存の文化やシーンのフォローじゃなくて、自分たちの文化を創っていてとても格好良く見えました。やけのはらさんという人の存在もそういう流れで知りましたね。やけさんは当時ALPHABETSっていうグループをやっていて。「DJ CHERRYBOY(のちのCHERRYBOY FUNCTION)とALPHABETSがやばい」って話になってました。


──ALPHABETSのアルバム『なれのはてな』は、じつはぼくも持ってます。


beipana  やけさんとは、ぼくらが卒業したあとの、2004年の白雉祭に後輩たちがDJとしてブッキングして、そこでぼくもOBとしてDJをしたのがきっかけで、ちょっと仲良くなったんです。そこから一緒にDJしたり、やけさんのDJイベントに行くようになった感じでしたね。


──当時のやけのはらくんも今とあんまり変わってなさそうですね。主張のあるDJをして、周囲にも言うべきことは言う、みたいな。


beipana  そうですね。あんまり変わってないですね。今でもやけさんがよくやってることですけど、初めてやけさんのパーティーに行ったときも、知らない人を無理矢理にでも紹介して仲良くさせる、みたいなことはありましたね。でも、それがきっかけでイベントにも行きやすくなったんです。現在の“若い芽っこの会”の構成員や“King of Twitter”こと将軍ともこのころに出会ってますし、今までのDJサークルのなかだけじゃなく、もうちょっと外にアウトプットする機会をもらえだしたという感じでした。そのうち、やけさんから「一緒にDJ MIXを作ろう」ってお誘いをもらって、それで組んだユニットが“MP2”っていうんです。


──エムピーツー!


beipana  MP2を組んだのは、2006年後半くらいですかね。当時は、DJをやる機会が増えつつも「自分に突出してなにかあるわけじゃないからどうしようかな?」と思ってたんです。そしたら、ネット上にMP3でおもしろい音源がいっぱいあることに気づいたんですよ。その時期ってMySpaceは音質が悪かったし、Soundcloudとかのプラットフォームもまだない。だから、MP3のクリエイターたちは自分のサイトで曲を公開していて、散り散りにネット上に存在していたんです。そういう音源を集めていって自分で作ったコンピをCD-Rに焼いて、やけさんのDJパーティーで配ってみたんですよ。ぼくのフィジカルなアウトプットって意味では、そのときMP3のコンピを配ったというのが最初ですね。


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  ※MP3コンピCDのジャケ



──それって、具体的にはどういう音源だったんですか?


beipana  DJで使えそうなトラックを収録していました。最初にMP3のおもしろさを発見したのは、マドンナの「ホリデイ」を聴きたいなと思ってGoogleで「Madonna Holiday mp3」と検索したときで、勝手にシンセでメロディをつけてカヴァーをしてる人が無料でMP3を公開してたんですよ。「こんな人がいるんだ」って驚きました。その人はエイティーズのリミックスを自分で作ってる人だったんですけど、そこから当時のリンク文化でクリエイター同士のサイトをどんどん発見して、「これはやばい!」となったんです。


──懐かしの“ネット・サーフィン”。


beipana  そしたら、そうやって集めたMP3のコンピをやけさんも聴いて、「MP3縛りでDJするとか、そういうことは自分も考えてた」って言われて。それで2人でMP3縛りのMP2っていうDJユニットをやることになったんです。


──そのときはbeipanaくん個人の名義はすでにあったんですか? 本名とか?


beipana  じつは、MP2をやる前の2006年に、自分でもMP3だけのDJミックス(『Rebooting Mix』)をJET SETだけで販売したことがあって。最初は本名で出すつもりだったんですけど、やけさんに「それじゃ売れないでしょ。パンチがない」って言われて(笑)。「じゃあ、どうしようかな」って悩んで無理矢理つけた名前が“BETA PANAMA”だったんです。



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  ※『Rebooting Mix』



──あ、そこで! ついに“BETA PANAMA”誕生。


beipana  はい。


──その由来は?


beipana  ちょうどレンタルCD屋さんで借りた『Panama Disco』とかそんな名前のCDが机の上にあって。「“パナマ”は南国っぽくていいな」と思ったんです。でも、これを本当の名前にはしたくなかったんで、「β(ベータ)」にしたんです。

──なるほど! α、βのベータ版、つまり暫定的なサブ案ってことだったんですか。


beipana  そうなんです。仮称にしておいたんです。でも、仮称のつもりだったのが、やけさんがmixiとかで、「BETA PANAMAリリース!」とかプッシュしてくれてたりして、結局、自分としても「BETA PANAMAって名前でやることになったんだ」って周りに言ってた感じでした。


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  ※2006年、BETA PANAMAとクレジットされた白雉祭フライヤー



──そのうちMP2としての活動も対外的に始まったと。でも、それはアウトプットではあるけど、検索と収集の成果で、まだ創作ではないですよね。


beipana  そうなんです。創作ではないんです。創作という意味では、ひとつポイントがありました。2007年にDJの露骨キットさんが“galaxxxy”ってアパレルのお店を渋谷にオープンしたんですけど、そこのオープニングイベントのDJをMP2と磯部(涼)さんでやるという機会があって。そのころにはMP2のミックスをパソコンのDTMで編集して作る方法を知って、自分でマッシュアップが作れるようになったんです。それで、あるJ-POPの曲のリミックスを作ったんです。お店がギャル向けだったんで、その当時オリコン1位の曲と当時流行っていたBaltimore Clubというビートのマッシュアップを作れば受けるだろうなと思って。それが最初の二次創作というか、DJからようやくオリジナルなものが作れたきっかけでした。


──受けました?


beipana  それがめちゃくちゃ受けたんです(笑)。磯部さんにも「よかったから、もっと長い尺のがほしい」って言われたので、長いのを作ってネットにアップしたら、めちゃくちゃダウンロードされて。まだSoundcloudとかができる前だったんですけど、4、5千以上ダウンロードがありました。


──すごい!


beipana  やけさんがDJでたくさん使ってくれたり、宇多丸さんのラジオ(ウィークエンド・シャッフル)でかけてくれましたし、磯部さんが雑誌にも紹介してくれたり、まだマルチネをはじめる前のtomadくんがDJミックスに入れてくれたり。海外のブログでも紹介されました。そこでようやく作る側としての認知もされたという感じですね。


──はじめて作ったマッシュアップなのに、そんな展開が。


beipana  それはよかったんですけど、ただ作ったきっかけが、「受けるだろう」と思ってやっただけで、別に自分がJ-POPが好きだったわけじゃないというのが気にかかってたんです。いわゆるJ-POPが好きなネットの人たちからのアプローチもすごく強くなってきて。なんとなくDJでやってきたことの延長線なのに、それが“J-POPのマッシュアップを作る人”とか、“MP3のディガー”としてだけ認知されるという状況は、ちょっと不本意でしたね。


──別にそういうスペシャリストになりたいわけじゃなかった。


beipana  たまたまだれもやってなかったことをやっただけで、別にそれが死ぬほど好きでやりたかったわけじゃなかったので、認知されたことに対しては後悔のほうが強かったです。ただ、並行してやけさんや、大学時代から友達だったYasterizeくんが曲の作り方を教えてくれていたので、そのうち自分のアルバムを出せるくらいのオリジナル曲も溜まってきて。それで、2010年にBETA PANAMA名義でアルバムを出したんです。


──『FLOAT ON』ですね。


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  ※『FLOAT ON』



beipana  はい。でも、このアルバムもちょっと消化不良というか、なんかよくわかんないまま出しちゃった感じなんです。


──そうなんですか?


beipana  コンセプトも特になかったですし、自分がやってることを好きだって思い込んでやってた感じでした。MP3文化は飽和し始めていたしそもそも音楽的に好きだったわけじゃなかった。マッシュアップも作れるけど手法として好きだっただけで。クラブ・ミュージックっぽいものを作ってるけど、働きながら曲を作るのは土日しかないし、曲を作るほうに集中したらクラブも行かなくなっちゃうし。じっさい、もうクラブにも行かなくなった状態でクラブ・ミュージックっぽい作品を出してることが、自分でもわけわかんなくなってましたね。『FLOAT ON』というタイトルも「自分が周りから浮いている」という意味でつけました。とにかくこの状況を早く終わらせたいなと思ってました。


──そこが軌道修正された転機は、何だったんですか?


beipana  やっぱり、2011年の震災でした。2010年の1月にアルバムをリリースして、少ない範囲でしたけど反響はあったし、Soundcloudがプラットフォームとして確立されていたので、ここから先は自分のペースでたまにウェブにアップして楽しむ、っていう生活をしようと思ってました。年齢的にも20代の終わりだし、周りのちゃんと働いてる人たちとおなじような生活をして落ち着こうと。でも、そこであの地震があった。言葉にしたらベタですけど「本当にやりたいことをやらないと、いつ死ぬかわからないな」って思ったんです。


(つづく)


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『Background Music~New Season』

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長年にわたるレコードCDショップのバイヤーを中心として、音楽紹介・音楽にまつわる様々なシーンで幅広く活動する松永耕一(COMPUMA)氏と、タワーレコードのストリーミング・メディア、〈TOWER REVOLVE PROJECT(タワー・レボルブ・プロジェクト)〉、呼称〈タワレボ〉が贈るBGM選曲番組『Background Music~New Season』。


恵比寿リキッドルーム2階奥の音楽交差点、Time Out Café & Dinerから、毎回DJやアーティストをゲストにお迎えし、松永耕一(COMPUMA)氏と共に、普段のDJプレイとはひと味違うBGMをテーマに選曲をしていただき、日々の暮らしにも寄り添うような、様々な音楽の魅力を探りたいと思います。


第12回目のゲストは、2015年11月にデビューアルバム『Lost in Pacific』をリリースし、トラックメイカー、DJ、スティールギタープレイヤーとして活躍中のbeipanaさんをお迎えします!


選曲者の趣向やルーツを映し出した、安らぎや煌めき、ときめきを感じる豊かな音楽。その出会いと素敵なひとときを、ぜひ会場やタワレボのUstream配信でもお楽しみください。


GUEST BGM:beipana

BGM:松永耕一(COMPUMA)


2016.3.17 thursday

Time Out Cafe & Diner[LIQUIDROOM 2F]

open/start 20:00-23:00 ※配信は21:00-22:30となります。

1st drink charge 1,000yen(include music charge)


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