「露出症」(『箱男』)

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

安部公房箱男*1から少し抜書き;


(再び赤インクによる欄外の註――露出症の存在は、視姦者を人間の普遍的傾向だとみなす筆者の主張と、かならずしも矛盾するものではない。露出症はしばしば、正常な性行為では満足しえない過剰性欲と誤解されがちであるが、実際にはむしろ抑制されすぎた性表現である場合が多いのだ。たとえば、患者某は次のように告白している。露出行為が効果をあげる第一条件は、見せようと思う相手が未知の異性であること。第二には、相手と一定の距離が保たれ、接近によって見る、見られるという関係が破壊されないこと。第三には、相互に顔を識別しえないこと。以上の三条件を満たす具体的な場所として、患者は木立の多い女子寮の中庭などをあげていた。こうした傾向は、患者が異性一般に対しては強い関心を抱きながら、実在する個々の異性に対しては、病的な羞恥心を抱いていることを示すものだ。筆者の論法を借りれば、醜さの自覚である。また患者は次のようにも言っている。露出行為によって、オルガスムに達するためには、相手が自分の性器を覗くことによって、性的な刺戟を受けていると想像することだ。相手にあからさまな嫌悪を示されるのも興醒めだが、好奇心をむき出しにされるのも腹立たしい。見て見ぬふりをされるのが、なによりのはげましになる。これは明らかに相手が視姦者として、自分の露出行為に加担してくれることへの願望だろう。露出症は、鏡に映した視姦行為にほかならない。)(pp.118-119)
このパラグラフは、「箱男」の手記とされている本文とは明らかに文体が違う。「筆者」は「註」を記している人物ではなく、手記を書いている人物、つまり「箱男」を指すか。
一つ前のパラグラフ(「箱男」の語り);

ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人間は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣裳をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする、こちらが露骨な視線を向けなければ、向うも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまりに残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」という行為が、一般に侮りの眼でもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られるほうが金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ劇場に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。(pp.117-118)
現実に起こった「露出」事件については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091015/1255580240とかhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091215/1260871847とか。

年齢詐称な話

『読売』の記事;


セネガル人留学生が年令詐称、総体優勝取り消し

 2004年全国高校総合体育大会の男子バスケットボールで優勝した福岡第一高校(福岡市)の中心選手で、セネガル人留学生だったディアン・ティエルノ・セイドゥ・ヌロ選手が、当時22歳の年齢を4歳9か月若く偽っていたとして、全国高校体育連盟は3日、同校の優勝を取り消した、と発表した。

 全国高体連が開催する大会では、日本人も含めて19歳以下が参加資格となっている。ヌロ選手は、この規定をクリアするために2003年2月、実際は1982年1月4日だった生年月日を、86年10月4日と偽った出生証明書を作り、それに基づいたパスポートを取得した。実際には21歳だった03年4月、16歳と偽って同校に入学した。

 2メートルを超える長身を生かし、04年の高校総体決勝ではチームの総得点74のうち39点を挙げる活躍を見せた。しかし体格などに不審を抱いた他校の指摘に基づき、全国高体連などが調査し、詐称が確認された。
(2011年9月3日18時42分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20110903-OYT1T00493.htm

この『読売』の記事は肝心なことを書いていない。「全国高校体育連盟」はどのようにして調査を行い、「詐称」を実証したのだろうか。「ディアン・ティエルノ・セイドゥ・ヌロ」本人(今何処に住んでいるの?)に事情聴取を行ったのだろうか。セネガル現地調査を敢行し、「出生証明書」を発行した公証役場(?)関係者などの証言を取ったのだろうか。『読売』がネグっているもう一つの重要なことは「福岡第一高校」の地位である。「ディアン・ティエルノ・セイドゥ・ヌロ」という男に騙された被害者だったのか、それとも彼に年齢詐称を教唆した共犯者だったのか。また、同校は年齢詐称を知っていたのかどうか。
それにしても、「ディアン・ティエルノ・セイドゥ・ヌロ」さん、16歳ということにしておいたということは、酒を飲むこと、煙草を吸うこと、成人映画を観ること、風俗店に行くこと等々、本来ならというか年齢さえ詐称しなければ合法的に可能だったにも拘わらず、3年間も我慢し続けたということになる。その我慢に免じて許してあげるべきだろうとは思う。

「世界の敵」?

「読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ」http://d.hatena.ne.jp/bluebarbe/20110819/1313767215


http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682に触発されたエントリー*1
曰く、


私も読書は反社会的な行為だと思う。

読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。

本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。

故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。

誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。

「人間」も「社会」も「世界」も「目前」のものだけではない。私は私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」が存在することを知っている。「社会」は「目前」の他者たちだけでなく、そのような私が会ったこともなく、また会う術もないような無数の他者たちによって構成されているということを知っている。大森荘蔵がたしか言っていたが、私にとって「世界」は三次元的ではなく四次元的な構造を持つものとして現れる。「世界」は〈現在〉のものだけでなく、(記憶や痕跡としての)〈過去〉や(予期や前兆としての)〈未来〉も組み込んだ仕方で存立している。換言すれば、「世界」には(「目前」かどうかを問わず)生きている人だけでなく、既に/未だ姿を現していない先祖や子孫も住んでいるのである。「世界」のこうした多層的な存立構造については、シュッツのAufbau第4章「社会的世界の構造分析」を参照されたし。言いたいことは、「目前」の「社会」を「無視」するからといって、直ちに「反社会的な行為」だとはいえないということだ。それどころか、書物を初めとするメディア(媒体)を通してしか社会関係が成立しない場合もあるのだ。「目前」にはおらず私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」たちとの社会関係、また既に息を引き取ってしまった「人間」たちとの社会関係。「読書」を通じて、私は50年前に死んだアルフレート・シュッツと、或いは数千年前に死んだ孔子プラトンと関係を結ぶことができる。というか、この人たちと何らかの関係を結ぶには、この人たちが遺した言葉を読み、そこに「連署*2を添えるという仕方しかあり得ない。この意味で、「読書」は「反社会的な行為」ではなく、具体的な他者を志向した行為としての社会的な行為であるといえる。ところで、「過去」の痕跡についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285447119で採り上げていたのだった。そのとき、フェリーニの『そして船は行く』をマークしておいたのだが、さらにヴェンダースの『パリ・テクサス』*3を追加することにしよう。
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ところで、「読書は反社会的な行為だ」ということは「反社会的な行為」の英訳がaction against societyではなく、action against a social organization/ a social community/a social regime...であれば正しいといえる。例えば、それまで資本主義経済を全く自然なものと感じていた人がマルクス主義の書物を偶々読む。それまで金正日将軍様の権威に全く疑いを抱かなかった北朝鮮青年が偶々〈韓流〉小説を読む。それは「目前」の資本主義体制とか朝鮮労働党体制にとっては「反社会的」ではあるが、同時に別の社会体制等へのイニシエーションでもある。つまり、本もTVもインターネットもない完全な引き籠りは別だけど、一般に〈脱社会化(de-socialization)〉 は同時に別の共同体、組織、運動、体制などへの〈社会化(socialization)〉なのだ。「読む者を所属する社会から引き剥がし、帰って来れなくなるかもしれない世界へと導く魔笛であり、その魂に現世(うつしよ)にまで溢れるほど夜の夢を注ぎ込む邪な水差しである」という言葉*4が引かれているが、「引き剥が」されるのは「所属する社会から」にすぎず「引き剥が」された途端別の社会に誘われるわけだし、「帰って来れなくなるかもしれない世界」とは言ってもそれは「世界」の一部分(下位世界)にすぎない。そもそも(グノーシス主義*5にコミットしない限り)私にとって「世界」は単数としてしか存在できない筈だ。
内田樹氏曰く、

小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
http://blog.tatsuru.com/2010/07/04_1125.php
用語法は私のと若干ずれているが、言わんとしていることは理解できる。仮令それまで「未知」であっても読書を通じて「経験」してしまった以上、それは私の「世界」の一部となる。「世界」なので〈世界地図〉に喩えてみると、最初は寝小便と変わらないというか、白地図に毛の生えたようなすかすかの地図が段々と記述が増えて高密度な地図になるという感じか。
読書は「世界の敵」にはならないけれど、読書が、書物などのメディアが「世界」を隠蔽してしまうということはありうる*6フッサール『危機』第9節から引用しておく;

幾何学的な、また自然科学的な数学化のばあいには、われわれは、無限に開いた可能的経験のうちにある生活世界――われわれの具体的な世俗生活の中でたえず現実的なものとして与えられている世界――に、いわゆる客観的科学の真理というぴったりと合った理念の衣を合わせて着せるのである。すなわちわれわれは、(われわれの希望するような)現実的に細部にいたるまで貫徹され、たえず確証される方法によって、生活世界の具体的直観的な諸形態の現実的ならびに可能的、感覚的充実に対して、まず一定の数指標をつくりあげる。そうすることによってわれわれは、まだ現実に与えられていなかったり、もはや現実に与えられていなかったりする、具体的な生活世界の直観的できごとに対する予見――日常的な予見の作業を無限に超えている予見――の可能性を獲得するのである。
「数学と数学的自然科学」という理念の衣――あるいはその代わりに、シンボルの衣、シンボル的、数学的理論の衣といってもよいが――は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、それをおおい隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。つまり、生活世界で現実に経験されるものや経験可能なものの内部ではもともとそれしか可能ではない粗雑な予見を、無限に進行する「学的」予見によって修正するための方法を、真の存在だと思い込ませるのである。(後略)(p.73)
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

上のエントリーに戻る。「故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える」。いや、「フィクションの中でも最も罪が重いのは」私小説だよ。金井美恵子先生曰く、

いわば真正な体験を書いているはずの私小説作家もまた、読んだから書いたのであり、ようするに先行するモデルの小説を真似ることで小説を書き、あるいは田中英光などが典型的な例ということになるのでしょうが、破滅的といわれるような作家の生活までを、私小説の理論としては当然、真似しなくてはならないという愚かしいこともありましたが、それは、「作品」と「作者」を同一のものとみなすことから、当然おこるべき帰結でした。(p.148)
小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

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British Connection

承前*1

あれから1か月以上過ぎて、その間に倫敦で暴動が起こったり、元漫才師が引退したり、日本の首相が交代したりと、色々な事件が起きたので、既にもう話題にする人も少ないけれど、Anders Behring Breivikによるオスロ虐殺事件を巡って。


Matthew Taylor “British rightwing blogger denies meeting Norwegian gunman” http://www.guardian.co.uk/world/2011/jul/27/norway-paul-ray-lionheart-blog


これは7月27日付の記事。英国の右翼blogger、Paul Rayは例のBreivikの「マニフェスト」の中で、倫敦における「テンプル騎士団」の会合で会い、インスピレーションを受けたとして言及されているが、Paul Ray本人はBreivikとは会ったこともないし、虐殺事件が起こるまでは名前も知らなかったと、Breivikとの関わりを否定している。また、Breivikの所業について強く非難もしている。


Matthew Taylor “More Britons face questions over links to Utøya killer Anders Breivik” http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/01/britons-links-to-anders-breivik-utoya


諾威の警察・検察当局は既にPaul Rayに事情聴取しているようだ。また、諾威当局はBreivik及びPaul Rayへの尋問から名前が浮かび上がったとして、さらに複数の英国人右翼への事情聴取を予定している。ブリティッシュ・コネクションへの注目?
ところで、


ノルウェーのテロに便乗してヘイトクライムを扇動するヒトタチ」http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20110801/1312195547


オスロ虐殺事件に「便乗」する日本のウヨども。引用されているアジを見て最初に感じたのは或る種の左翼的レトリックの盗用というかパスティーシュ。ウヨによる盗用を許した左翼的レトリックの再検討というのも知的には重要な課題かと。

ところで、どの国の新聞も菅直人の辞任よりスティーヴ・ジョブスの辞任の方を大きく報道していたけれど、これは理の当然か。

『如果…』

土曜日は東画廊*1にてグループ展『如果…(If...)』のオープニング。参加アーティストは韓鋒*2、劉任*3、陸天洋、蘇暢*4、ZAKA、張雲垚*5、鄭煥。全体としての印象は、一方における概念性(conceputuality)への指向と他方における具体的な社会的・政治的問題への関心。韓鋒の作品は淡い水墨画だが、描かれているものは〈動車組〉。 劉任は卵の殻を使ったコンセプチュアルな作品とともに7.24高鉄追突事故についてのNYTの記事をコラージュした作品を出展している。 張雲垚の作品は一面ピンクで塗りたくったカンヴァスの脇にI don't think I see is the Pink.という書き込み。ミニマリズムなマルセル・デュシャンか。

Lou Ye語る

承前*1

駱俊澎「Lou Ye*2:這五年我是最愉快的流放者」『東方早報』2011年9月1日


ヴェネツィア映画祭*3にて新作『花(Love and Bruises)』*4が上映された Lou Yeへのインタヴュー。
Lou Ye は2006年に『頣和園』を当局の許可なくカンヌ映画祭に出品した「罰」として5年間の中国国内映画制作禁止処分を受けていたが、その「五年」について;


(前略)禁拍之後、我們非常失望、在我最難度過的那個時候、我接到聶華芩女士的邀請、邀請我参加她主持的国際写作計劃(IWP)、之後我在那裡我見到了来自世界各地的作家学者、和畢飛宇成為同学和朋友。我們経常傍晩去聶華芩老師家聊天、争論、同時也是在那裡完成寮之後両個劇本的準備工作。2009年在禁拍第三年、我在戛納*5的《春風沈酔的夜晩》*6発布会上正式呼籲提前解禁、之後不久《花》的工作在巴黎開始、一直持続到幾個月前。這五年来、我完成了這両部電影、我想説的是、這是我従影以来最愉快和自由的五年、但這自由代価太大、它使我成為一個中国電影的’流放者’。
スプリング・フィーバー [DVD]

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這五年来、我覚得同輩導演併没有中国市場認可是正常的、由於電影審査制度的存在、使得中国電影市場長期與国際市場脱節、而這些導演包括我、凡乎都是従地下電影開始的、中国地下電影的主要市場是国際市場、所以説這批導演其実不是甚麼電影節養活的、而是靠国際市場養活的。而国内市場基本上被電影審査屏蔽、所以以差距是必然的。但差距在不断縮小、現在凡乎已経縮小到一点上。
何故ラヴ・ストーリーなのか――「愛情問題本質上是人的日常生活問題、人與人之間的関係問題、同時也是某種政治問題和社会問題很好的様本和縮影」。
『花』について;

影片不是為了激情而激情、這都是要表達女主人公的心理状態。’花’是一位社会学和法語専業的老師、也是一位兼職的翻訳、她一直生活在不同的文化、地域、種族和不同的政治意識形態的中間。我能夠理解她在’両者之間’的感受、我們大部分人其実生活在’中間’。活得不是很好、但好像也不壊、有時候非常理想主義、有時候又非常現実和世俗。愛情也是、’在中間’可能是人的某種真実状況吧。
また、最近映画監督の馮小剛*7が映画検閲制度(審査制度)を公的に批判している;


「馮小剛称審査制度”傷害”電影創作」『東方早報』2011年8月31日

ムッソリーニの情事

John Hooper “Mussolini 'had affair with Italy's last queen'” http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/31/mussolini-queen-marie-jose-affair


伊太利の独裁者ベニト・ムッソリーニが白耳義国王の娘にして伊太利王国最後の王妃となったMarie-Joséと不倫関係にあったという話。この2人の関係については、既にムッソリーニ夫人のClaretta Petacciが1937年にMarie-Joséが羅馬近郊のビーチ・リゾートでムッソリーニを誘惑したが失敗したと語っている。しかし、伊太利の週刊誌Oggi*1に掲載されたベニトの息子Romanoの手紙によれば、Claretta Petacciは自らの夫とMarie-Joséが「短期間」ではあるが〈男女関係〉に進んでいたことを知っていたという。
Marie-Joséは以下のような人であったらしい;


The daughter of the Belgian king, Albert I, Marie-José was born in 1906. While still a child, it was decided that she should marry into the Italian royal family and in 1930 she wed Umberto of Savoy, the only son of King Victor Emmanuel.

By her own subsequent account, the marriage was not a happy one, and she separated from her husband after the Italian monarchy was abolished by referendum in 1946. She lived for most of the rest of her life in Switzerland where she died in 2001.

In contrast to the Savoy family, Marie-José had little time for fascism and during the Second World War made a failed attempt to broker a peace treaty with the United States.

Marie-Joséの夫 Umbertoの国王としての在位期間は34日。
ムッソリーニの娘婿Gian Galeazzo Cianoについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101107/1289139153で言及している。

*1:Oggiという雑誌は日本のファッション誌だけじゃなかったんだ!