2012年・今年の10冊

もう一年経ったのか?と戸惑うような年の瀬である。
2012年に刊行された書籍のうち、自分で読んで感銘を受けたものをあげる。
ただし、今日が大晦日だということはわかっているのだが、なんだか一年の終わりという気がしないので、感想は簡単にする。

1.鎮魂と再生

鎮魂と再生 〔東日本大震災・東北からの声100〕

鎮魂と再生 〔東日本大震災・東北からの声100〕

今年読んだ新刊で最も読みごたえがあったのは本書である。
いろいろなことを考えさせられたが、うかつな言葉で感想を述べるのはためらわれる。

2.犠牲のシステム

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

いかにもこの著者らしい諄々と説くスタイルだが、どうしても今言わなければならないことに絞って禁欲的に言葉を選んでいるのが感じられる。新書という形式では、一見啓蒙的なメッセージの背景に分厚い蓄積のあることが伝わりにくいかもしれない。

3.動物に魂はあるのか

昨年の東日本大震災のときに、津波にさらわれて海上を漂流する民家の屋根から一匹の犬が海上保安庁によって救出されたニュースがあった。あの時、犬の救助なんて税金の無駄だと感じた人は少ないのではないか。筆者も、助かってくれと祈るようにテレビ映像を見ていた一人である。ところかわって、フランスはパリの街角、17世紀のことである。高い知性を持った紳士が眉も動かさずに路傍の犬を蹴飛ばした。驚く同行者に「おやおや、あなたは知らないんですか、あれは別に何も感じないんですよ」と冷たく言い放った人物はデカルト派の合理主義思想家マルブランシュである。
動物に魂はあるのか? デカルトに端を発した動物機械論をめぐるフランスでの論争を中心に、古代ギリシアアリストテレスから、現代で動物開放論を唱えるシンガーまで、動物と人間の境界、機械と生命の境界をめぐる西洋思想史の系譜をコンパクトにまとめたのが本書。淡々としながらもときにはユーモラスな語り口で、私たちがふだん意識していない問題圏へと案内してくれる。


4.詩歌と戦争

詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」 (NHKブックス)

詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」 (NHKブックス)

北原白秋といえば、代表作『邪宗門』のような異国情緒とロマンティシズムにあふれる詩で知られるとともに、官製「唱歌」に対抗して鈴木三重吉の主宰する児童文学誌『赤い鳥』を舞台に童心主義を提唱し自らも「この道」「砂山」「からたちの花」などの童謡を世に送りだすなど、幅広く活躍した詩人である。だが本書によればその一方で第二次世界大戦中は「万歳ヒットラー・ユーゲント」「ハワイ大海戦」「マレー攻略戦」といった戦争賛美の歌詞をつくる愛国詩人でもあった。私生活では大正デモクラシーの精神にも通じる自由主義者であった抒情詩人の顔と、戦争を賛美する国家主義者の顔、国民詩人・白秋の二つの顔はいかなる関係にあるのか。
著者は、白秋の文学活動の全盛期にあたる関東大震災前後の文化状況を「一般に心優しい叙情詩が求められるような精神状況が生まれて」いたとし、「そこに実はすでに内包されていた愛国主義が震災後という事態の中で亢進し、戦争の時代への進展とともに詩人たちをこぞって戦争翼賛へと導いていったのではないか」と想定する。本書は膨大な資料を分析しながら、優しさや癒し、懐かしさなどの心情を歌いあげる童謡の中にナショナリズムの核が胚胎していたことを突きとめる。やがて、白秋だけでなく佐藤春夫萩原朔太郎、高村村光太郎ら日本近代の代表的な詩人たちが総動員体制に合流していくプロセスを描き出す。単に文学者たちの思想からではなく、童謡や民衆歌謡の流行といった社会動向にも注目して戦時中の国民精神総動員を可能にした背景を描いた力作。

5.自律への教育

自律への教育 (MEDIATIONS)

自律への教育 (MEDIATIONS)

本書は西ドイツ・ヘッセン放送局のラジオ番組「現代の教育問題」にアドルノが出演した際の四つの講演と四つの対談を活字化して編集したもので、話し言葉ならではの平易さもさることながら、時折ユーモアや皮肉をまじえながらも、全体としては率直でていねいな議論に徹している。アドルノは毎回の収録後にラジオの聴衆に誤解を与えないか、メッセージは伝わったかなどについて録音技師たちとディスカッションして表現に気を配ったのだという。脚注の中にはアドルノ自身が当時のリスナーからの手紙に応えているものもあって楽しい。
最初の講演「過去の総括とは何を意味するのか」は、日本でも90年代からゼロ年代にかけて議論が白熱した歴史教育ナショナリズムについての見解が示されているが、「ドイツ」を「日本」と置き換えてもほとんどそのまま通じるほどだ。第二の講演「哲学と教師」も実学重視の傾向から生じる「教養」の軽視への批判であって、これは教養を「雑学」と貶めている現代の日本にもそのまま通じる話である。第3章では対談形式で「テレビと教育」を論じる。当時はテレビ放送が普及したばかりで今昔の感があるが、教育は新しいメディアにどう対応すべきかという普遍的な視点は古びていない。第4章「教職を支配するタブー」は再びアドルノの講演。ここでは、なぜ教師は社会から攻撃されるのかという、まさに現代日本の教育界が直面している問題が扱われている。精神分析にも造詣の深い社会学者でもあるアドルノ大衆社会分析が光る一編。
本書の後半、アドルノの講演「アウシュヴィッツ以後の教育」とそれに続く三つの対談はナチズムの復活に抵抗するという関心によって貫かれており、ひとつながりのものとして読むことができる。アドルノは「これだから哲学者はと、お叱りを受けるかもしれませんが」と断りながら、当時の西ドイツで支配的だった「絆」や「順応」を強調する教育学や英米流の競争主義を批判しつつ、メディア・リテラシー教育の手法を用いて自律する個人を育てる教育を提唱する。本当に半世紀前の発言なのかと目を疑うほどだ。

6.日本ファシズム論争

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

危機を迎えた社会は大衆に自己犠牲や結束を要求する、大きな災厄を経験して自らの無力を痛感した個人は強い力による庇護を求める、すべての場合にあてはまるわけではないが往々にしてそうした傾向がある。そこで登場するのがファシズムである。ファシズムという言葉は、危険な政治家を揶揄するレッテルとして安易に使われすぎているような気がしないでもないが、財政危機と震災に苦しむ現代の日本にとって用心しておくにこしたことはない(もう手遅れかもしれないが)。
本書はヨーロッパ生まれのファシズムを戦前の日本がどのように受容していったか、その歴史をたどる。最初にとりあげるのは、今でこそヒトラーにくらべて影が薄いムッソリーニだが、1920年代の日本ではムッソリーニ・ブームが起きたという。政治評論でさかんに取り上げられたばかりでなく、子ども向けの偉人伝が出版されたり宝塚歌劇に登場したりと大人気だったらしい。著者はこの人気の背景に議会政治やデモクラシーに対する違和感があり、それがファシズムに対する共感になっていったのではないかと推測している。
ドイツのヒトラー率いるナチズムについても奇妙なエピソードが紹介されている。1930年代にドン・ガトと名乗る人物がナチ党機関誌通信員の肩書きで来日し、日本の雑誌に寄稿したり政治団体と交流したりして、一時はナチスのスポークスマンのような扱いを受けた。ところが彼は「ナチ党の特派員でもなんでもない」正体不明の人物だったのである。どこか軽薄な印象を受ける出来事だが、流行の熱に浮かされる直前の社会とはこのようなものかも知れない。

7.悪の哲学

悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)

悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)

著者が念頭においているのは、善人か悪人かという個人レベルの道徳問題ではない。3.11後「フクシマをもたらしたこの巨大な悪」に対抗するためにはどうしたらよいか、個人道徳に還元できない「社会的な悪を把握し、それを克服するための方途」を長い伝統を持つ中国哲学のなかに探ろうとする試みである。朱子学に悪の自覚を、陽明学に善悪の相対化を、漢代儒学に天の思想を見た後、カントとの比較でとらえなおした孟子性善説、非倫理の立場から儒学を批判する荘子、そして両者を踏まえた荀子性悪説の新解釈に至る。中国哲学の入門書としては高度な議論だが、古臭いと思われがちな東洋の古典が現代の問いのなかで活かされるのを読むのは新鮮な経験だった。

8.民主主義の革命

民主主義の革命―ヘゲモニーとポスト・マルクス主義 (ちくま学芸文庫)

民主主義の革命―ヘゲモニーとポスト・マルクス主義 (ちくま学芸文庫)

著者たちの立場はラディカル・デモクラシーと呼ばれる。再配分と承認(生活とアイデンティティ)、政治はこの二つのテーマに同時に取り組む必要があるというのが著者たちの主張であり、それが「ラディカルで複数的なデモクラシー」の意味するところである。

9.物語消費論改

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)

今年最後に買った本。今の私の関心にピッタリはまった。

10.死霊解脱物語聞書

死霊解脱物語聞書―江戸怪談を読む

死霊解脱物語聞書―江戸怪談を読む

最後は自分もお手伝いさせていただいた本の宣伝。
みなさん、よいお年を。