石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)
1180年、小田原市南部の石橋山で行われた源頼朝挙兵後最初の合戦で治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。平家方の大庭景親らの軍に大敗し、頼朝は再挙のため一時安房に逃れた。安房より再挙後、鎌倉まで勝利を続け、結果として頼朝は関東を制することになる。
どうも、ようやく重い腰をあげて源平合戦石橋山の戦い古戦場に行ってきました。 小田原駅から石橋山古戦場近辺までのバスが土日は運休だし、日曜日の国道135号はとても混むので車もしんどい、それなら歩きでいいね?と根府川駅からいつもの徒歩ムーブで訪問しました。 根府川駅 大正11年(1922)開業の東海道線の駅 開業当初は東海道線丹那トンネルが開通していなかったこともあり、国府津〜熱海の熱海線として機能していました。 現在は線路が撤去された1番線ホーム跡 ホームの土台部分は開業当時の遺構です。 駅に残る機銃掃射痕 昭和20年(1945)7月末にアメリカ軍機による機銃掃射で受けた弾痕跡 先駆者様の投稿を…
どうも、今回は今まで神奈川県内で降りたことなかった自治体の1つ、真鶴町に行ってきました。 いつかは深夜ドライブで行くかと思ってましたがそんな機会は訪れず、気づいたら自分の方が真鶴に近づいていました。
左:大庭景親 右:梶原景時 いずれもネットから拝借 治承4年(1180年)8月、ついに頼朝は以仁王の令旨を旗頭に挙兵を決意します。頼朝34歳、伊豆に配流されてから実に20年後のことです。まず、伊豆国目代の山木兼隆を倒します。まあ、ここまではよかったのですが、世の中、そんなに甘くなく、このあと頼朝は散々な目にあいます。 1.石橋山の戦い 2.坂東の勢力図 3.坂東武士の理念「一所懸命」の意味 4.坂東武士が頼朝勢に加わった理由 5.まとめ 1.石橋山の戦い 山木を破った頼朝軍は相模国を目指すのですが、兵力はわずか300騎といかにも少なく、合流するはずの三浦軍も悪天候のため参戦できない状態。それど…
さて、今回は石橋山の戦いについて。治承4年(1180)、源頼朝公が平家打倒を掲げて決起したものの、大庭景親ら平氏方に敗れた戦いじゃ。 石橋山古戦場碑
第五回「兄との約束」を視聴した。 「吾妻鏡」で予習していたから、石橋山の戦いで「兄」に何が起こるのかは知っていたけど、キツかった。悲劇は苦手だ。(;_;) 三千の兵を率いる大庭景親に、たった三百の兵で立ち向かった頼朝勢は、あっけなく壊滅。 頼朝を守りながら逃げのびた北条家の人々は、負けてブチ切れる頼朝の器の小ささに呆れつつ、再起のために別行動を取ることになる。 頼政と義時は、甲斐の武田氏に援軍を求めに向かい、宗時は太りすぎて鎧が窮屈な工藤茂光と一緒に、北条館に戻ることに。 片岡愛之助の演じる北条宗時は、源氏嫡流の頼朝をヨイショする夢見がちなお調子者というキャラで、北条家の嫡男としては、危なっか…
「石橋山の戦いってどんな戦い?」 「石橋山の場所はどこ?今の何県?」 「石橋山の戦いは、誰と誰が戦って、どっちが勝った?」 このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。 石橋山の戦いは、源頼朝率いる源氏方300騎と大庭景親率いる平氏方3,000騎が神奈川県小田原市と真鶴市の間にある石橋山で激突した戦いでした。 戦いは、数に勝る大庭景親率いる平氏方の勝利に終わります。 敗れた頼朝は伊豆の山中に逃げ込み、真鶴から脱出し対岸の安房に落ち延びました。 今回は、頼朝が敗れた石橋山の戦いについてまとめます。 石橋山の戦いの主な登場人物 源氏方 源頼朝 北条宗時 北条義時 平氏方 …
治承四年八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いで敗れ、真鶴岬より海路小舟で脱出、安房国へと向かいました。 なぜ安房を目指したのか? 当時内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の影響が強く源氏の味方を得られやすかった 安房の有力武将・安西景益は頼朝の郎党であった人物で現時点で数少ない頼朝の味方である彼の協力を得たかった 安房は陸の孤島であり平家方の追撃を一時的にでも防ぐ上で都合がよかった と考えられています。 源頼朝上陸の碑 「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を合具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島(現千葉県鋸南町竜島)に着かしめ給う。北条殿以下人…