1987年10月19日月曜日、ニューヨーク株式市場に起こった過去最大規模の暴落のこと。508ドル、22.6%という下げ幅は世界恐慌の引き金となった暗黒の木曜日ブラックサーズデイの下落率12.8%を超え、そのため暗黒の月曜日ブラックマンデーとよばれることになった。翌日アジアの各市場にこれが連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした。更にイギリスで25%下落等ヨーロッパの各市場にも連鎖、世界同時株安となった。
転じて、月曜日の暴落を指すこともある。
ドル安によるインフレ懸念に悩むアメリカと、通貨高による不況が深刻化していた日独などG7各国は、1987年2月に世界的な景気後退につながりかねないドルの下落を止めるために政策協調*1を行うことに合意した。(ルーブル合意)しかし、9月に西ドイツはアメリカの反対を振り切って、ドイツマルクが上昇しているにもかかわらず金利を引き上げた。そのため政策協調の信頼性は損なわれ、ドル防衛のためにFRBは大幅に金利を引き上げるとのではないか、という不安が市場に台頭した。
ジャンクボンドで資金調達するM&Aに対する税制優遇措置の縮小法案。これは80年代後半の株式市場の活況を支えたM&Aの隆盛に水を注すものであったため市場からの資金流出懸念が生じた。
なによりこの暴落を尋常ならざるものとしたのはその下落のスピードと空前の売買高であったが、その本質は売り注文が殺到したことで米株式市場の流動性*2が突如消失してしまったことにある。
当時アメリカの機関投資家に普及していた「ポートフォリオ・インシュアランス」などクォンツのさきがけのような運用手法が、相場が下げれば下げるほど機械的に売り注文を膨らませて、その理論上の前提であった流動性を自ら食い尽くし、混乱を加速させたと言われている。
就任3ヶ月目だったグリーンスパンFRB議長は即座に対応し、「混乱と緊張の沈静化に意味のある流動性を供給する」との緊急声明を発表、大量の資金供給を断行して市場を支配する「恐怖」に対抗した。結果として金融システムの危機は回避され、グリーンスパンは市場の信頼を得ることになる。いわゆるグリーンスパン神話のはじまりである。
その後この大暴落を調査するために設置されたブレイディ委員会からは「サーキットブレイカー」導入が提言された。指数が一定の範囲を超えて下落した場合に取引を停止させる措置で、これは日本市場を参考にしたものである。
なお、このときの株価の下落分を最も早く回復したのは日本だった。当時日銀は利上げ時期を模索していたが、この大暴落に対処するために欧米当局が大量の資金供給を行う中で金融政策の選択肢を失い、ずるずる金融緩和が継続する中バブル経済の膨張とともに株価も上昇していった。