(紀元前202年〜西暦8年)
中国の王朝。漢帝国の前半。 秦帝国の滅亡後、漢楚の戦いに勝利した漢王劉邦を高祖とする。 建国直後にうっかり匈奴に大敗を喫したりしたが、その後は民力を養いつつ中央集権の強化にも成功して国力を増大させる。 7世の武帝の時代にはその基盤の上に盛んに外征を実施し、匈奴を大いに破った。 その後は次第に衰え、最終的に外戚の王莽による簒奪によって滅んだ。 のち、劉秀が漢を再興した(→後漢)。
秦帝国→前漢→新
この記事では前漢の領土を朝鮮半島まで広げた武帝についてまとめていきます。 前漢の武帝とは? 漢帝国の統治が朝鮮半島まで及ぶ 漢四郡の設置 前漢の武帝とは? 劉邦が漢を勧告しておよそ、60年あまりがたったころ(紀元前2世紀)になると、第七代皇帝の武帝(即位:紀元前141年)が郡県制(地方の貴族ではなく中央政府が派遣した役人が領主となる制度)の施行地を拡大し、ほぼ中国全土への統一的支配を実現していきます。 さらに、武帝は漢の領域の拡大にも力を入れていきます。中国南部や朝鮮半島への郡県制の範囲としたのです。 上の武帝の時代が前漢の最大領域です。 漢帝国の統治が朝鮮半島まで及ぶ 中国全土の郡県制を強化…
この記事では『キングダム』の秦が滅びて、劉邦が漢を建国するまでをまとめます。 秦の滅亡 中国史上初めて天下統一を成し遂げた秦の始皇帝でしたが、始皇帝が没すると各地で反乱が起き、再び戦乱の世となりました。 秦滅亡のきっかけとなった農民反乱「陳勝・呉広の乱」です。 始皇帝の死後たった3年余りで秦は滅亡(紀元前206年)したと知ったなら始皇帝は悲しむでしょう… 『キングダム』より 楚の後継者「項羽」とは 農民反乱は、またたくまに中国全土に広がっていき、やがては秦政府に不満を持つ王侯貴族、旧戦国七雄の6カ国の末裔も反乱に参加するようになります。 横山光輝『項羽と劉邦』より かつての楚の地からは、項梁(…
皆さんこんにちは。 今回はずっと前から気になっていた漢代のある地域のことについて話していこうと思います。その地域は中国西方のタリム盆地に存在し、古代から「西域」と呼ばれた場所になります。 前漢 領土 漢帝国の地図を見てみると、西方に伸びるようにして領土が広がっていることが分かります。なぜこのような形なのか、どういった経緯でこの場所を支配したのか、調べてみましたので、どうぞお楽しみください。 西域の地理 前漢が西域に進出した背景 まとめ 西域の地理 西域に存在する国々の情報が初めて記録に現れるのは、『史記』大宛伝になりますが、中国の歴史書における西域という語は『漢書』西域伝にて初めて登場しました…
皆さんこんにちは。 今回は昔偶然知った遺跡のことについてお話していきたいと思います。 その遺跡の名は、「馬王堆漢墓(ばおうたいかんぼ)」です。 名前からして、日本の遺跡ではないことがすぐに分かった方もいるかもしれません。馬王堆漢墓は中国にある漢の時代の遺跡です。 ミイラの画像が出てくるので、苦手な方はすみません。 どうぞ、お楽しみください。 墳墓の場所と被葬者 辛追の遺体 遺体を解剖して判明したこと 辛追の遺体はなぜ腐敗しなかったのか まとめ 墳墓の場所と被葬者 馬王堆漢墓は、中国の湖南省 長沙市 にあり紀元前2世紀の頃に造られました。 東西に並んだ二つの墳丘で構成されており、初めに発掘された…
57年に後漢の光武帝が倭の奴国王に授けたとされる金印。金印に刻まれた名前の国はいったい何を意味するのだろうか。■金印には何が刻まれているのか教科書などでは中国の皇帝から倭の奴国王に金印が授けられたと紹介される。まず金印には何と書いてあるだろうか。「漢」と「委奴國王」と記されている。倭とは書いていない。ただし、倭を省略して委とすることはありえるとされる。↓下記で金印を画像で確認できる www3.nhk.or.jp ■金印はどこで発見されたのか志賀島(福岡県福岡市東区)、江戸時代に、農民が地面を掘っていたら金印が出てきたとされる。 ■金印への疑惑がある発見の経緯が疑問とされる。疑惑の論証がなされな…
目次 1.秦の時代 2.前漢の時代 3.南北朝時代 4.明の時代 1.秦の時代 今日は2013年1月25日放送の地球絶景紀行で紹介された中国の万里の長城について調べてみた。 秦の始皇帝の時代、北方の異民族である匈奴の進撃を防ぐ為に築かれたとされる。 実際には秦の統一前、各国が防壁として築いた長城がすでにあった。 中でも北方の騎馬民族に備えるために北の国境に築いていたのが秦、趙、燕の3か国であった。 こうした長城を繋げ、一体化させたのが始皇帝であった。 東部では現在知られているものよりかなり北に、逆に西部ではかなり南に築かれた。 高さは約2mほどであったようだ。 2.前漢の時代 始皇帝の死後、長…
前漢墓 陝西省考古研究院が19日に明らかにしたところによると、考古学従事者は大堡子墓地で保存状態が良好な前漢早期の墓を発見し、現在まで百点近くの貴重な文化財が出土している。うち非常に珍しいのは大型の陶房倉で、中には粟がぎっしり詰まっていた。中国新聞網が伝えた。 粟 陶房倉の高さは約80センチメートル、長さは約1メートル。前漢の房倉のうちこれほど大きな物はめったに見つかっていない。その中で見つかった食糧は、専門家の鑑定により、粟であることが分かった。これは当時の前漢の人々の飲食構造を判断するのに非常に重要な材料を提供した。(編集YF) 「人民網日本語版」2021年4月20日
【4月18日 Xinhua News】中国陝西省(Shaanxi)西咸新区の大堡子墓地でこのほど、前漢時代の銅鏡80枚余りが出土した。2千年以上前の遺物だが、幾つかは人の顔を映すことができたという。 同遺跡は秦漢新城高荘鎮大堡子(だいほうし)村の西にある。陝西省考古研究院が昨年5月から実施した発掘調査では、400基余りの墓が見つかり、前漢初期の土器や青銅器など各種遺物2千点(組)余りが出土した。 同研究院で大堡子発掘チームのリーダーを務める朱瑛培(Zhu Yingpei)氏によると、銅鏡の年代は戦国時代末期から前漢時代末期に集中しており、蟠螭(ばんち)文や星雲文、草葉文など典型的な文様が含まれ…