戦国時代の武将。島津4兄弟の末弟である島津家久の長男。(1570年〜1600年) 1584年の沖田畷の合戦で初陣を飾り、以降も島津一門の武将として各地を転戦する。 1600年の関ヶ原の合戦では伯父・島津義弘と西軍についたものの、夜襲すべきとの意見が退けられたことで静観。が、小早川秀秋らの寝返りで劣勢になり戦場で孤立したため、「捨て奸」となって敵中を強行突破する義弘を助け、自らは激戦の中に散った。
島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉と妹と 初陣は島原合戦(沖田畷の戦い) 元服 父の降伏、父の急死 佐土原領主になる 朝鮮転戦 庄内の乱 関ヶ原の戦い 島津義弘と合流 島津の退き口 佐土原を没収される 永吉島津家 なお、日付は旧暦にて記す。 串木野城で誕生、父は島津家久 島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名…
[rakuten:renet20:10709360:detail] 【あらすじ】 豊臣秀吉の島津征伐後に家督を兄義久(龍伯)から譲られた島津義弘。秀吉の命により朝鮮に出兵したが、敗勢の中秀吉が薨去して帰国命令が出る。明・朝鮮連合軍は20万、対して島津軍は6千余り。しかも日本軍は皆退却の中にいて、援軍は期待できない。殿(しんがり)となった島津義弘は、「釣り野伏せ」の陣を引き、20万の連合軍を完膚なきまでに打ち破ると、続けて朝鮮水軍の英雄李舜臣をも撃破し、義弘は敵から「石曼子(シーマンズ)」と恐れられる。 しかし領国は、長年の戦闘続きで疲弊しきっていた。しかも軍事を担当する義弘に対して、内政を担当…
破天の剣【電子書籍】[ 天野純希 ]価格: 858 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 島津貴久の四男として生まれた家久は、兄3人の武将らしい性格と反対に、口下手で何をやっても飽きやすい性格で字も満足に書けない。母が兄3人とは違うこともあり、軽んじて見られていた。しかし島津家中興の立役者、祖父忠良はそんな家久を「軍法戦術に妙を得たり」と見ていた。戦術を語り始めるとロは止まらず、皆も驚くほどの意見を述べ、15歳の初陣では敵将を討ち取る手柄を立てる。 長兄の義久が家督を継ぐと、島津家悲願の三州(薩摩、大隅、日向)制覇を成し遂げるために、兄弟で力を合わせて隣国を攻めて行く。次兄の義弘が先頭に立ち軍勢を…
令和5年7月12日(水) みなさんこんにちは! すえぞ僧です(*´Д`) 今日も株式情報特化型ブログの使命として株式情報をお伝えします(*´Д`) マンガ「ドリフターズ」の7巻が5年ぶりに発売ですって!( ゚Д゚) news.yahoo.co.jp www.youtube.com … … ※ヒテンミツルギスタイル(*´Д`) 5年ぶり… 長かった… 6巻の終わり方がヤバすぎて… 続きが気になりすぎてます… マンガ「ドリフターズ」を知らない日本国民がいる訳ないとは思いますが… いちおうどんな漫画か説明しますと… 島津豊久やら織田信長やら那須与一やら土方歳三やら源義経やらジャンヌダルクやらラスプー…
こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。 前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、 鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、 上石津町牧田の地まで追跡しました。 長寿院盛淳の碑(上石津町牧田) 牧田の地は関ケ原盆地から おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、 養老山系北端の小さな平野です。 そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、 西側を通る道の分岐点になります。 伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。 マップに追記してみますと、下図の感じです。 関ケ原盆地から、伊勢東街道(赤線)と伊勢西街道(黄線)を見る 牧田の分岐点辺りで撮影し…
こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ最後を飾るのは、 やはり、島津の退き口ですよね~。 いつか探訪したいと思っていたところ、 このはてなブログで、私が読者として登録 させていただいてる記事に、 桐野作人さん著の「関ケ原島津退き口」 の著書がご紹介されておりました。 (加筆版ですが、2022年10月の初版です) 早速購入して読んでみたところ、読み応え充分。😊 多くの興味深い情報を得ることが出来、 かつとても面白かったです。 ご紹介ありがとうございました。m(__)m 今回、この本を参考にしながら行ける所まで、 島津軍退き口の史跡をおおよその時系列で 追ってみたいと思います。 今…
佐土原城(さどわらじょう)跡は宮崎市佐土原町にある。別名に「田島城(たじまじょう)」「鶴松城(かくしょうじょう)」とも。日向国のほぼ中央に位置し、中世にこの地を支配した伊東(いとう)氏の拠点のひとつであった。 戦国時代末期に島津氏の支配下となったあとは、島津家久(しまづいえひさ)・島津豊久(とよひさ)が城主となったことでも知られる。 伊東氏の拠点のひとつに 本丸跡を目指す 島津家久が佐土原城主に 島津豊久、関ヶ原に散る 佐土原藩 永吉島津家 日付は旧暦で記す。 伊東氏の拠点のひとつに 伊東氏と日向国との関係は、建久元年(1190年)に工藤祐経(くどうすけつね)が日向国内に所領(地頭職)を与えら…
南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪回のために兵を送るが、島津忠良は島津貴久(たかひさ、忠良の嫡男、のちに島津宗家15代当主に)・島津忠将(ただまさ、忠良の次男)とともに撃退した。 ちなみに、「永吉」という地名は、城を取った島津忠良が「永久に吉地たれ」と祈念して改称されたとも伝えられている(現地の説明看板より)。 ちょっと登ってみる 南郷城の歴史 島津忠良の南郷城攻め 永吉島津家、島津家…
sengoku-jazz.bandcamp.com 島津豊久さまへ向けた戦国ジャズ。 哀しく切ない、それでいてわかりやすい、 どこか、俯瞰したような曲にありますな。 戦国ジャズは、過去の自作曲をリアレンジする場合も多く、 この曲もそうでした。 限界の悲しみの中にいる、といった風情で描いた曲を、 戦国ジャズとして構築し直し、新たによみがえったものです。 薩摩の血筋を受けたものとして、 何とも言えない気持ちになるのが、島津の退き口。 捨奸の精神は、当時は役に立ったかもしれない、 ただ、戦の世であってさえも、薩摩を包んだ悲しみの大きさ、 戦国ジャズリスナーの皆様におかれましては、 其処を見逃さぬよう…