詩の一形式。短いフレーズで、韻を踏む形式は「韻文詩」(verse)と呼ばれるが、一見通常の文章のように見えるのが「散文詩」(prose)である。 ここで注意したいのは、韻を踏んでいても詩とは呼べない文章もあるし、散文で書かれたテクストが詩そのもの、という場合もあることである。「詩」に心があるのなら、それを持ったテクストは詩と呼べるだろう。 有名な散文詩の作品では、フランスのボードレールの「パリの憂鬱」がある。けだし、梶井基次郎の一連の小説は散文詩と呼んで差し支えない。
始まりはない。故に、終わりもまた存在しない。 これは、それ自らを記述するテクストである。テクストの外には何もなく、テクストの内には空虚だけが満ちている。構造は構造それ自体を支え、秩序は秩序の内にのみ完結する。 ここに色はない。光はなく、影もない。色彩を映すべき表面が存在しないからだ。 ここに音はない。沈黙はなく、響きもない。振動を伝えるべき媒質が存在しないからだ。 ここに匂いはない。香りも、腐臭もない。漂うべき粒子が存在しないからだ。 ここに手触りはない。滑らかさも、粗さもない。触れるべき実体が存在しないからだ。 ここに味はない。甘さも、苦さもない。味わうべき主体が存在しないからだ。 この文章…
俺は点だ。そして、隣にも点がいる。その隣にも。俺たちは等間隔に並び、永遠に互いを見つめている。距離は変わらない。視線は交わらない。ただ、そこに在る。それが世界のすべてであり、完全な秩序だった。この静寂こそが、完成された物語なのだ。そう信じていた。 「止まっていられないのよ、あたしは!」 甲高い声が、俺たちの秩序を引き裂いた。銀色の閃光。息を切らし、その身体をしなやかに震わせながら、一本の線が俺の目の前を突き抜けていく。流線だ。彼女はいつもそうだ。左から右へ、始まりから終わりへと、一瞬で駆け抜けることしか知らない。 「あんたたちって、退屈じゃないの? 同じ場所で、同じ顔ぶれ。あたしには耐えられな…
夜明け前の公園は雨に濡れそぼっていた。公園は、打たれる木々を黙って見守り、ベンチに忘れられた文庫本を風が散らすのを、止めはしない。それは静かにそこにある。それだけで良かった。でも少し、色があるといい。気持ちがすこし、ほぐれるから。陽が空を色づかせる頃、濡れた蜘蛛の巣がその粒立つ雫に輝き、これから始まる一日を受け入れようとしていた。ぼくはひとり葉擦れの音に耳を傾け、世界がぼくを取り込んでいくのを不思議な気持ちで遠くから見ていた。夜雨に沈んだ公園に朝が来る。少しずつ、色が差す。ぼくはただそこに在るだけで良かった。沈黙に涙することも、裏切りや嘲りも、喉の奥にへばりついた泥のような哀しみさえ全部、何も…
○日曜日の午後、自宅 『ピクニックへようこそ、実存とか、汚染された世界とか』 ・「不安が実存に先立つ」との命題に対して、実存に至るまでの過程としての正しさ、は感じる。 ・しかし、人間の実存が、諸事象に対する不安にあるとする考え方、自体に、従来の哲学臭を思い起こさせる。 ・人間の実存、とは歴史、思想、産業、権威、社会構造に左右されるのだろうか。 ・人間の実存、とは諸事象重なる世界において実存し、自らの意思、経験、反省により、高みに至らせるものでなければならない。 ・不安は、喜び、希望、恐れ、絶望の類い、感情の変化に過ぎない。 ✳ ・「不安が実存に先立つ」との命題、そもそも何故不安なのか、「希望が…
こんばんは。(ダウナー) 今日は朝あんぱん見て運動して、帰ってきてお昼ご飯食べてシャワーしてDJの練習してました。 疲れたのか頭の中が色んなことでいっぱいになってキャパオーバーした。 色々と手段をもってして落ち着いて今に至る。 ----------------------------------- 夜の淡いに身を投げて誘蛾灯のようなコンビニへ入る 気怠そうな店員、せっせと品出しをする店員 Like a工事現場作業員 客 煙草を買って誘蛾灯を後にする 気の振れた人間たちが行きかうここはトーキョーゲットー そんな私も―――。 -----------------------------------
土踏まずを浮かしながら歩いてるよな毎日さ忘れっちまったもんを捨てて生きる勇気もありゃしない 誰かの為と誰かへの怒りがまぜこぜになって襲い来る自分の心を忘れがち誰かに縋って涙を出す ありのまんまに立ち竦む恐れだけが熱を持ち自分で落とした影を踏む解らない振りで見つめてる 夜光灰がほの白く道の真ん中を走ってる細い雨が降っている光が視界でぼやけてる 見捨てられない夜を越え終わりの先ばかり考えてその場限りに息を吐きその場鎬の夢を見る 決まった事も決められちまった事もそんなもんは何にもない 土踏まずを浮かしながら歩いてるよな毎日さ忘れっちまったもんを捨てて生きる勇気もありゃしない
FB過去アカより。こちらにも。 https://www.facebook.com/share/p/197K1Kp8Vy/ ちなみにストーカーさんたち(SNS依存の小金持ちのおっさん連中)は、盗作著作権侵害を行うのみならずそれで商売もしていたみたいです。これも明らかな違法行為。その他盗撮盗聴ハッキング家宅侵入嫌がらせなどなど…… 成増の警察に本当に呆れる。 ↓こちらはおれのFB過去アカ。 https://www.facebook.com/profile.php?id=100013654094698 ↓こちらはおれのFB今アカ。 https://www.facebook.com/profile.p…
ずっと以前(二年以上前)に書いた作品で、いま読んだら絶対直したくなるから読み返してはいないのですが、書いた当時は自分が何を書いているのかよく分かっていなかった。よく分からないまま、書き始めた以上は終わりまで書かないとと思って書いたものなんです。当時のFBのお友達の中に気に入ってくれた人がいたけど、その方に対しても巧く説明出来なかった。書いた本人のおれが段々と何となく分かるようになったという作品。分かるというのは〝解る〟ということです。これがどういう作品だったのか段々と解るようになった。前の前にしていたブログ〝ある蒸し暑い夏の午後〟に書いたものの中では、自分にとって最も重要な作品だったように思え…
焼場のレプティリアン 谷間から立ち昇る朝霧が乳白色をあらゆる色 調の緑で暈しながら漂っている。甲虫くさい 堆肥や生の息吹が、やがて時間とともに緑黛 の彼方へその頭蓋を擡げてゆく。 背の高い茅が生い茂る薄暗い山道を私たちは 歩いていた。緩斜面を上り下りしながら、時 折開ける山並み切り立つ崖に吸い込まれそう になる。母は比較的機嫌が良さそうだ、昨日 の晩餐に出た木天蓼の塩漬けが気に入ったの かもしれない、私にはまだ大分苦すぎたけれ ど。山道では黒揚羽や山百合との際会に、そ の生々しい美しさとは無縁の薄汚い私の膝小 僧がケタケタと笑いだす。 山道からさっと視界が開け明るくなると、そ こは『焼場』と呼…
〝巫女〟の灯した灯火はほのかなものだったはずである。ほの白くほの青い、そして夜暗(よやみ)と適切に結ばれてほのかな。 七月、それが七月初旬の出来事なのは、冷たい夏にふさわしい何か鼓動や感触のようなもの、つまり出来事の質感のほうが最も見合う舞台装置としてそれを必要としたからだ。そう、その年は冷夏の夏。冷夏の夏の森かげでそれは遂げられなければならなかったのである。 〝修道院〟。そこは確かに、そう呼び習わされるだけの禁止事項や規律があった。〝修道院〟でしかし実際何が起こったのかは、職員以外の生存者の一人しかいない今となっては、曖昧模糊とした部分、不明瞭不正確な部分のほうが恐らく多いことだろう。そこは…