桓武天皇.第50代天皇.平安時代の最初の天皇. 在位781年4月3日〜806年3月17日
天平9年(737年):誕生 宝亀4年(773年)1月2日:立太子 天応元年(781年)4月15日:即位 延暦25年(805年)3月17日(70歳) :崩御
光仁天皇の第一皇子. 母は百済系渡来人(8世ぐらいと言われています)の高野新笠. 桓武平氏の始祖.
東北地方に大規模な征夷軍を派遣した.長岡京遷都,平安京遷都を実施.
平安神宮 目次 名称・旧社格 創建 御祭神 みどころ アクセス 探訪レポート 名称・旧社格 平安神宮と称します。旧社格は官幣大社です。 創建 明治28年(1895年)に、平安遷都1100年を記念して創建されました。 御祭神 桓武天皇 孝明天皇 みどころ 朱塗りの社殿と緑の瓦屋根が目に鮮やかです。平安京を模した広々とした境内には、ゆったりとした時間が流れています。 アクセス 京都市左京区岡崎西天王町97 京都地下鉄東西線「東山」徒歩10分 探訪レポート 平安神宮はそもそも国内博覧会の目玉企画として、平安京の大内裏を再現するために造営された神社です。そのため全国にある他の神社とは一線を画しておりま…
皆さんご覧いただきありがとうございます! 「きゅうりのブログ漬け」へようこそ! きゅうりと申します! このブログでは、ほぼ毎日、オリジナルのロゴを作って投稿しています! 主に「今日の記念日(○○の日)」に合わせたロゴを作成しています! もしよろしければ、最後まで見ていただけると嬉しいです! よろしくお願いいたします! 【目次】 今日は何の日? 今日のロゴ紹介 ロゴの説明 さいごに 今日は何の日? 10月24日は...平安遷都の日です! 794年(延暦13年)のこの日、桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇太村やましろこくかどのぐんうたむらの新京に移った。「平安京」と命名されたのは、その年の11月8…
【都うつり①】 〜京都の街は公卿も庶民も動揺した。 治承四年六月三日の日、天皇は福原へ行幸し、 都うつりさせ給うとのことである。 都うつりの噂はかねて流れてはいたが、 まだまだ先のことであると人々は思っていた。 それが三日ときまっていたのを一日早められた。 ことの意外に京中はあわてふためいた。 院政に訣別し新帝を擁して 平家独裁政府樹立にふみ切った清盛の意志は固かった。 六月二日午前六時、天皇は御輿にのった。 年僅かに三歳の幼児である。 無心に乗る帝と共に同乗したのは母后《ぼこう》ではなく 御乳母《おんめのと》の帥典侍殿《そつのすけどの》一人、 そして 中宮建礼門院、後白河法皇、高倉上皇も御幸…
しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。 六月九日起工の式、八月十日|上棟《じょうとう》の式、 十一月十三日遷幸と定められ、 人々も多少はゆとりをもってきた。 福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、 凶変の重なった夏もすでに過ぎ、秋はすでに半ばである。 人々は仲秋の月に心を慰めた。 福原の新都に落ちついた公卿たちは月見に出かけた。 かねて名所といわれたところや、 そのかみの源氏の宮を慕って人々は須磨から明石へ浦づたいに赴いた。 白浦《しらら》、吹上《ふきあげ》、 和歌の浦、住吉、難波、など景勝の地に月を賞ずるものもあれば、 尾上《おのえ》の曙の月を惜しむものもいた。 もとの都、京…
京都を殊の外 気に入られた桓武天皇は、 大臣公卿、諸国の才人などに命じて、 土で八尺の人形をつくり、鉄の鎧兜を着せ、 弓矢をこれに持たせて東山の峰に西向きに立てたまま地に埋めた。 この都は永久に続くべしという桓武天皇のご祈念であった。 「末代になるともこの地から都うつすなかれ、 うつさば守護人となりてこれを罪せよ」 という意味であった。 それ故天下に大事の起る時、常にこの塚が鳴動するのである。 平ら安き都と書いた平安城は京都のことであるが、 平家の先祖桓武天皇が自ら定められ、 愛された土地から都をうつすとは、情ないことである。 先年嵯峨天皇のとき、 先帝の平城天皇が都を他国へ移そうとされたこと…
マンガ日本の歴史 7大仏開眼から平安遷都へ石ノ森章太郎中央公論社1990年5月5日初版印刷1990年5月20日初版発行 『マンガ日本の歴史 6 律令国家の建設とあらがう神祇』の続き。 megureca.hatenablog.com 6では、平城京が開かれ、『古事記』『日本書紀』を編纂することで、天皇の地位を確実なものにしてきた道のり。そして、仏教の民衆布教がはじまったという社会まで。7では、とうとう奈良の大仏、着工へ。8世紀から9世紀の冒頭まで。 目次序章 大仏開眼への道第一章 激動の天平時代第二章 女帝の悲劇第三章 桓武新王朝・平安遷都へ 724年に聖武天皇(45代)が即位。聖武天皇は、平城…
平安京を作った桓武天皇 新年度、杉浦友紀アナが浅田春奈アナにスイッチしての第一回は、どうやら平安時代を特集する模様。まあこの辺りは明らかに大河絡みだろう。今回の主人公は平安時代を始めた桓武天皇について。 桓武天皇 781年に即位した桓武天皇であるが、その先行きは決して平坦なものではなかったという。桓武の母親は側室で渡来人の家系であった。母親が皇族か有力な氏族でない桓武の即位は異例の事態であったのだという。そして即位の翌年、大伴家持ら35人が桓武を天皇位から引きずり下ろそうというクーデターを企てる。企ては未然に発覚して関与した者達は捕らえられたが、桓武の地位の危うさが浮き彫りになった。さらには東…
今週のお題「元気を出す方法」 2024年1月26日金曜日。第27回日本病態栄養学会年次学術集会に参加するために私は京都にいます。烏丸大池の「松之助」でアップルパイを頂いた後に神社に向かいました。 ▼松之助 護王神社 ごおうじんじゃ 護王神社に来ました。 実は1年前の2023年の日本病態栄養学会に参加した時に偶然見つけた神社です↓ ↑この時はまったく知らなかったのですが、実は今、私にとってはとても大切な神様、なのです。 護王神社(ごおうじんじゃ)桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。もとは、神護寺境内にあったが明治…
日本の現在の皇室は百済王族と血縁関係がある。今回は「桓武天皇」に着目し、日本と百済の関係性を探る。 ■日本と百済の友好関係百済から倭に対して七支刀が贈られたその年代は腆支王(在位:405年 - 414年)の時代、394年と考えられる。腆支王は倭人の八須夫人と結婚、久尓辛王が生まれたと考えられる(ただし定説にはなっていない)。それを祝したものが七支刀と考えられる。以下、本ブログ「147.七枝刀に象徴される古代日本と百済の関係」より再掲↓ 腆支王は百済の第18代の王。倭国の女性、八須夫人と結婚した。子供として久尓辛王(くにしんおう)が生まれ、のちに百済の第19代王となった。韓国の建国大学、古代史学…
2002年韓日ワールドカップ大会での明仁天皇のメッセージの一部 「私自身に関しては、桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の武寧(ムリョン)王の子孫だということが続日本紀に記録されており、韓国との縁を感じている」 ー-------------------------------------- 第50代、桓武天皇は都を京都に移した天皇です 桓武天皇の父は光仁天皇、母は高野新笠(百済、武寧王の子孫)です 光仁天皇には皇后(正妻)、井上内親王がいて二人の間には息子の次期天皇(皇太子)である他戸親王がいました (光仁天皇が,どのように天皇になった説明が必要なのですが、省略します) 高野新笠は光仁天皇の側室(…