藤原不比等。諡号は文忠公、淡海公。内大臣藤原鎌足の子で、奈良初期の廷臣。
大宝律令の撰修に参加、養老律令を完成した。日本書紀の成立も関わって、もとい主導しているとも言われる。 娘宮子を文武天皇の妃とし、光明子を聖武天皇の皇后とするなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた。または藤原氏の最も榮華の時代ともいえる。 平城京遷都に際し、興福寺を建立。竹取物語の五人の貴公子の一人、車持皇子のモデルだと言われる。その原因は、母が車持与志古の娘で、不比等は実は天智天皇の子ともの噂にあるのではないか。
B553 神武天皇は徐福の孫?004 神武天皇は徐福の孫? 241127 ※はじめに 最近、古代日本史、 本当の歴史解明が進んできています シン>神武天皇は徐福の孫だ という情報があるんですが? リーダ>違います。 シン>神武天皇という名前は 後から付けられた名前ですか? リーダ>そうです。天皇家も 妻側ってずいぶんいろんな 民族が入っているんですよ。 シン>そうですね。 中国や朝鮮、新羅、 百済も混じっていますね リーダ>中国も1 つじゃなく、 秦の時代だと楚とか越とか、 呉とか斉とかありますね シン>あれって中国人なんですか? それとも別の民族が 色々交じってたんですか? リーダ>その時代…
B558 聖徳太子は暗殺されていた?002 聖徳太子は暗殺されていた? 241127 シン>歴史書っていうのが 出てきまして 出雲王国の歴史を 八咫烏が集めた情報。 村雲大王という名前。 後世に神武という名前に 変えられた様ですが? リーダ>キリストと同じで 何パターンもあるからね。 そうやって伝説でここから来た人だと いやここの出身だと それだけ力が強かったんでしょうけど・・・ 日本書紀とか残ってるのは そうじゃないと思いますよ。 シン>古事記とか日本書記が 書き換えられているのは 判明しています。 それは藤原氏が聖徳太子を 暗殺したから歴史を 書き換えたという事です? リーダ>その通りでし…
こんばんは! 都内在住アラフィフ主婦のnicoです。 ひとり時間を楽しんでいます。 馳星周著、 『比ぶ者なき』読了。 ※飛鳥時代の小説一覧はこちら。 飛鳥時代末期~奈良時代初期に 活躍した官僚、 藤原不比等(ふひと)が 主人公の作品です。 大化の改新の立役者、 中臣鎌足の次男で 藤原氏の基礎を作った人物です。 「ふひと」という名前は 元々は「史」という漢字をあてていましたが、 「等しく比(なら)ぶ者なき」という意味の 「不比等」をあてるようになりました。 それだけ類い稀な辣腕ぶりを発揮し、 古代の国造りに大きく貢献したことを 表しています。 その一つに 720年に成立した日本書紀があり、 本作…
中臣鎌足の長男の定恵は孝徳天皇ご落胤、次男の不比等は天智天皇ご落胤。男系で鎌足の血を継ぐ者はいない。俗説ではあるのだが、鎌足に対する扱いが酷すぎて切ない。 日本書紀には案外、鎌足の事績が少ない 中大兄皇子のブレインにして大化改新の立役者とされる中臣鎌足だが、日本書紀を読むと、案外事績が少ない。 乙巳の変前後で暗躍する大量の記載はあるが、まだ10代の中大兄皇子を担ぐなど小説じみていて、全て作り話とも解釈できてしまう。 孝徳朝設立時に「内臣」という他に見られない官職に就いて、以後、白村江の敗戦まで事績がなく、この間は実際には活躍はなかったとの解釈もできてしまう。 白村江の敗戦後、唐・新羅との外交調…
二官八省五衛府 645年大化改新(乙巳の変)専横きわめる蘇我入鹿(そがのいるか)から政権奪回のため中大兄皇子と藤原氏の祖 中臣鎌足が蘇我入鹿と父蝦夷(えみし)の暗殺を実行、孝徳天皇を擁立し大化の改新を為す。 yaseta.hateblo.jp 672年壬申の乱 大友皇子:中大兄皇子(38代天智天皇)の子 大海人皇子:中大兄皇子(38代天智天皇)の弟 天智天皇の子と弟の天皇の座を巡る争い 大友皇子(39弘文天皇 諡)壬申の乱で敗北し自殺 大海人皇子673年40代天武天皇み即位 藤原不比等の父(中臣鎌足)が大友皇子方だったため不遇 40天武天皇(在位673年~687年)―鸕野讚良(うののさらら)皇…
官位相当表‐1 官位相当表‐2 飛鳥時代の終わり頃、藤原不比等を中心とするグループが律令編纂にあたり、考慮したのが貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持することでした。貴族の地位の維持について規定したのが蔭位制でした。*蔭位制:五位以上の親や祖父の官位により、子や孫が自動的に位階を与える制度この蔭位制を唐の官位制に組み込んで策定したのが日本独自の「官位相当制」でした。 平安時代中期の官位相当制について上軸(X軸)の位階(官位)に対し、右軸(Y軸)の官司(官庁)と対応する官職を配置した表「官位相当表」を掲載しました。*官司(官庁):官、省、職(しき)、寮、司、監(げん)、署(しゅ)、…
官位相当表 1/4 官位相当表 2/4 官位相当表 3/4 官位相当表 4/4 【大宝・養老律令について】藤原不比等が律令国家と平城京建設の青写真を作り、701年大宝律令成立、710 年平城京完成、718年養老律令を成立させ、律令国家としての原型を構築しましたが孫の首(おびと)皇子の聖武天皇誕生と新しい政治の中心平城京を内外にアッピールした724 年の聖武天皇即位式を見ることなく、4年前の720年62歳で亡くなっていました。 律令とは『刑罰について定めた法令「律」』および『政治の仕組みを定めた憲法・行政法や民法などの法令「令」』のことで国家の根幹を成す法典である。 【官位相当制について】701…
平安中期の官制「二官八省六衛府」 藤原不比等(ふひと)が中心となり、唐の律令制度をモデルにして701年大宝律令、718年養老律令を編纂し、唐も認める律令国家を造りました。 律令に基づいた官制「二官八省制」は時代とともに、追加・統廃合されました。平安時代中期までに摂政、関白、内覧、内大臣、中納言、参議、蔵人所、検非違使庁、諸使、諸所、院、司など新たに置かれ、さらに、後宮の職員、東宮、親王付の官職、地方官などが置かれ、大きく変わりました。律令制定後に置かれた官職をなど令外(りょうげ)の官といいます。 yaseta.hateblo.jp yaseta.hateblo.jp 【参考】1.「官職要解 講…
訓読 >>> いにしへの古き堤(つつみ)は年深み池の渚(なぎさ)に水草(みくさ)生(お)ひにけり 要旨 >>> 昔栄えた邸の庭の古い堤は、長い年月を重ね、池のみぎわには水草が生い繁っている。 鑑賞 >>> 題詞に「故(すぎにし)太政大臣藤原家の山池(しま)を詠む」歌とあり、藤原不比等が没した10年以上の後に山部赤人が詠んだ鎮魂歌です。何かの行事に際しての訪問だったと見られます。不比等が薨じた時(720年)は正二位右大臣でしたが、薨後に正一位太政大臣を賜りました。「藤原家」とあるのは諱(いみな)を書くのを憚った言い方で、尊称です。「山池」は、築山や池のある庭園のこと。「いにしへ」は、ここは藤原不…
絵:いらすとや www.nikkei.com www.youtube.com 古事記から日本書紀、日ノ本の記録空白の150年、藤原不比等の謎、伊勢神宮外宮の謎、出雲大社の疑問などなど… 神話に興味を持ってあれこれ調べて行くと、九州北部を経由して渡来人と縄文人の混血が進んだと言われる説や、邪馬台国が九州や西日本にあった説には、私は大いに疑問符が付くのです。 そこで、ゲノム解析にて滋賀県民に渡来人のゲノムが多いと言う点に、大いに興味関心が湧くのです。 絵:いらすとや 伊邪那美命と伊弉諾尊がはじめに生み出した島は「あわ」ですよね。 五十音で初めが「あ」、終わりが「わ」で、隣の国が「いよ」って話大好き…
興福寺(こうふくじ)は藤原氏の氏寺として発展し、かつて強大な勢力を誇った寺院。国宝指定の建造物・寺宝を数多く有します。
・749年(和暦天平勝宝1.7.2) 聖武天皇は譲位し、阿倍内親王が即位した(孝謙天皇)。(『続日本紀』) ・749年(和暦天平勝宝1.7.2) 日本の孝謙天皇は「天平勝宝」と改元した。(『続日本紀』) 〔要参考〕光明皇太后は、草壁皇子の系統が絶えようとしていることから、女性であるものの自身を即位させたと、後に孝謙天皇は語った。(『続日本紀』天平宝字6.6.3) ※既に子息,基王を失っていた光明皇太后は、孝謙天皇の即位の時点で、草壁皇子の子孫による皇位継承を断念し、別の皇子を将来の天皇にすることを構想してたと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。 ・751年(和暦天平勝宝3.11.?)…
・724年(和暦神亀1.2.4) 元正天皇は、皇太子で甥(文武天皇と宮子の皇子)の首親王に譲位した(聖武天皇)。聖武天皇は「神亀」と改元した。(『続日本紀』) ※聖武天皇即位宣命は、文武天皇が首親王(聖武天皇)に「天下の業」を賜ったが、若年だったために「皇祖母」元明天皇に授け、元明天皇は元正天皇に授け、将来は「不改常典」に従って首親王(聖武天皇)に授けるよう命じたとの由緒を述べる。 ※宣命では元正太上天皇が聖武天皇を「ワガコ(=吾が児/朕が子 など)」と呼んでおり、故文武天皇の皇后格として、擬制的な息子として皇位を継承させることを宣言した(仁藤敦史『女帝の世紀』)。 ※元明天皇の即位宣命におい…
・717年(和暦養老1.11.17) 日本の元正天皇は「養老」と改元した。(『続日本紀』) ・717年(和暦養老1) 養老律令の編纂が始まった。 ・717年(和暦養老1) 首親王は側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王を儲けた。(『続日本紀』) ・717年(和暦養老1) 遣唐使(第8回)が派遣された。そのときの押使は多治比県守・大使は阿部安麻呂(後に大伴山守に変更)・副使は藤原不比等の三男馬養(後に漢字を宇合)であった。 この遣唐使に同行して、吉備真備・阿倍仲麻呂・僧の玄昉が入唐した。(『続日本紀』) 使者は儒者から経書を学ぶことを求めて、儒者の趙玄黙に広幅の布を納めて経書を学んだ。使者たちは…
・713年(唐暦開元1.12.庚寅) 唐の玄宗,李隆基は「開元」と改元した。(『資治通鑑』) ・和銅6年(713) 日向国から大隅国が分立した。(『続日本紀』) ※日向国からの分立が薩摩国よりも遅かったのは、大隅が日向国と密接であったことが理由と考えられる(平林章仁「神武天皇伝承東遷形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。 ・713年(唐暦開元1) 唐の玄宗,李隆基は「開元神武皇帝」の号を称した。 ※「中国」においては皇帝は唯一の支配者であるため、在位中に個人の称号を名乗る必要はない。隆基が個人号を称したのは、匈奴や突厥のような遊牧国家の文化が影響したものと考えられる(杉山清彦「ハン・・ハーン・…
・712年(唐暦先天1.8.甲辰) 唐の玄宗,李隆基は「先天」と改元した。(『資治通鑑』) ・712年(和暦和銅5.9.?) 太安万侶と稗田阿礼による歴史書『古事記』が完成した。元明天皇は、天武天皇以降の史書編纂が滞っており、それまでの歴史書に誤りが多いことから、安万侶に編纂を詔したのだという。(『古事記』序) ※『古事記』においては、天と地が分かれた最初の地上世界は、水に油が浮かんだようなものであったと語られる。海岸に打ち寄せられたクラゲ群から連想されたとも推測される(稲垣諭『「くぐり抜け」の哲学』)。 ※天照大御神と素戔嗚尊が誓約によって互いに神を産んだ際には、互いの剣と勾玉を砕いて息を吹…
《 小野澤洋次郎氏の「症例報告」その13の2 》 ドラスティックセラピストの小野澤洋次郎氏から「症例報告」の続きです。 以下、転載します。 【岩倉具視、西郷従道、の子孫】 女性のクライアントですが、 どうやら、岩倉具視と、西郷隆盛の弟、西郷従道の子孫らしいのです。 (家系図も確認しています) 岩倉具視は、こちらのブログでもあるように、明治維新にて、大きな役割を果てしていますが、かなりのフィクサー振りが見てとれます。 (岩倉具視) 多くのドラマなどでも、あまりヒーローには、扱われず、むしろ、ヒール役として描かれることが多いと思われます。 江戸時代漫画【風雲児たち】にも、詳細を描かれていて、公武合…
B569 邪馬台国の卑弥呼と伊勢神宮の秘密を大公開!!007 邪馬台国の卑弥呼と伊勢神宮の秘密を大公開!!(有料版解放) 2025年1月8日 新年、明けましておめでとうございます! 今年も宜しくお願い致します。 日本を良くする為に微力ながら 努力させて頂きます。 2024年中に調査判明した事を 無料公開させていただきます。 今後また詳細な部分は 更新されると思いますが 現時点での調査結果です。 ①>>邪馬台国(大和国)>> 日本国の発祥と言われる 邪馬台国については大和国。 今の奈良県。 大和国一宮、三輪明神と 呼ばれる大神神社が 大和朝廷の皇居だった様です。 私の現地調査では三輪山西側に ち…
・708年(和暦和銅1.1.11) 日本の元明天皇は「和銅」と改元した。(『続日本紀』) ・708年(和暦和銅1.3.13) 藤原不比等は右大臣に昇進した。(『続日本紀』) ・708年(和暦和銅1.3.13) 蘇我連子の子息,宮麻呂は右大弁に任じられた。(『続日本紀』) ・708年(和暦和銅1.11.25) 元明天皇の大嘗祭が行われた。その御宴において、県犬養三千代は杯に浮かべた橘を賜り、橘宿禰の姓を与えられた。(『続日本紀』) ・708年(和暦和銅1.9.?) 頃? 元明天皇は平城の地を視察して歌を詠んだ。 ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣 楯立つらしも(『万葉集』巻1 77番歌)…
・701年(周暦長安1.10.辛酉) 周の則天大聖皇帝,武曌は「長安」と改元した。(『新唐書』則天武后紀) ・701年(和暦大宝1.3.21) 日本の文武天皇は「大宝」と改元した。(『続日本紀』) ・大宝1年(701) 持統上皇・刑部皇子・不比等の下で、大宝律令が完成した。(『続日本紀』) ※大宝律令は、日本において律と令の揃った最初の法典である。「大いなる、素晴らしい宝」を冠したことから、唐のような法典を持ったことに対する、貴族の感動や誇りが窺える(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。 〔要参考〕『令集解』「公式令 詔書式条」所引の『古記』には、『大宝令』の1節として「御宇日本天皇詔旨」…
・698年(周暦聖暦1.1.甲子) 周の則天大聖皇帝,武曌は「聖暦」と改元した。(『新唐書』則天武后紀) ・698年 4.壬辰 備前国の国人,秦大兄は香登臣の姓を賜った。(『続日本紀』) ※長子を意味する「大兄」が、長子の人名として用いられていたものと考えられる(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。 ・698年 8. 藤原不比等とその子孫以外の、意美麻呂ら中臣氏出身の人物が藤原姓を名乗ることが禁じられ、藤原氏が政治、中臣氏が以前と同様に神事を司ることとなった。(『続日本紀』) ※大宝令官制において、藤原氏が太政官、中臣氏が神祇官の官として並び立つことを定めたものであり、不比等とその子孫のみが王権を…
・694年(周暦延載1.5.甲午) 周の即天大聖皇帝,武曌は「延載」と改元した。(『資治通鑑』) ・694年 飛鳥の藤原京に遷都した。(『日本書紀』) ※『日本書紀』に見られる「新益京」という呼称は当時のものと考えられ、左右京域を有する点で、「新たに益す」すなわち「本来のものに付加する」という意味を持っていたとも考えられる。また、宮城には国家儀礼を行う場として朝堂院が設けられた(瀧浪貞子『女性天皇』)。 ※『周礼』-考工記が理想とするような、宮殿が京の中心となり、その北方に市がある(前朝後市)という古典的な都城の様式であった(吉村武彦「律令制国家の形成」『日本古代国家形成史の研究』)。 ※唐と…
・689年(唐暦永昌1.1.乙卯) 唐の睿宗,李旦は「永昌」と改元した。(『新唐書』則天武后紀) ・689年 2.? 藤原鎌足の子息、不比等は判事に任じられた。(『日本書紀』) ※『懐風藻』によれば、鎌足はかつて、自身の娘を大友王に妾として送り込んだようである。『日本書紀』において天武天皇の時代に不比等の記録がみえないのは、天武天皇が、自分と大友王のどちらにも接近した鎌足を嫌い、その子供をよほど忌避したとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。 ・689年 4.13 草壁皇子は薨去した。(『日本書紀』) ・草壁皇子の殯宮につけて、柿本人麻呂は挽歌を詠んだ。(『万葉集』巻2 167番歌) ※…
國津神社 箸墓古墳の東にあるホケノ山古墳に向かうとすぐに左手に村社・國津神社があった。国津神社は、古来より「地主の森」といって、天照大神の御子神五柱を祭神としている。この男神五柱、つまり、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 (まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)・天津彦根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野樟日命(くまぬくすびのみこと)は、「記紀」神話によると、素戔嗚尊が天照大神と天の安河を中に挟んで誓約をしたとき、 天照大神の玉を物実として成り出た神という。また『日本書紀』崇神天皇六年の条に「天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大…