藤原不比等。諡号は文忠公、淡海公。内大臣藤原鎌足の子で、奈良初期の廷臣。
大宝律令の撰修に参加、養老律令を完成した。日本書紀の成立も関わって、もとい主導しているとも言われる。 娘宮子を文武天皇の妃とし、光明子を聖武天皇の皇后とするなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた。または藤原氏の最も榮華の時代ともいえる。 平城京遷都に際し、興福寺を建立。竹取物語の五人の貴公子の一人、車持皇子のモデルだと言われる。その原因は、母が車持与志古の娘で、不比等は実は天智天皇の子ともの噂にあるのではないか。
崇神天皇が宮殿から外に天照大神を出したことからも、天照大神は崇神天皇が祀る神ではなかったことは明白です。 つまり、元々は天皇が祀っていた神ではないということです。 ではいつから天照大神は皇祖神となったのでしょうか。 持統天皇(645年ー703年)以降、明治天皇が伊勢神宮を参拝するまで歴代天皇は伊勢神宮を参拝することはありませんでした。 皇祖神であるにもかかわらず、天皇と距離を感じさせる扱いです。 天武天皇・持統天皇の時代に、伊勢神宮の祭祀の諸制度や社殿が整備され、斎宮が制度化されたようです。内宮の式年遷宮も持統天皇の時代に開始されました。伊勢神宮の現在の社殿の形式も、天武持統朝に整備されたと考…
[ はかたひこじんじゃ/はかたひめじんじゃ ] 高槻市の弁天山古墳群とほぼ同時期・古墳時代前期の首長墓系譜ということで、かねてから親近感がわいていた玉手山古墳群ですが、その地に渡来系氏族ゆかりの神社が鎮座するという事で、神社参拝と古墳見学をしました。玉手山公園の無料駐車場に停めて廻ったのですが、二社の入口の間に玉手山古墳群の山の尾根がそびえる位置関係でなかなか高低差があり、猛暑のなか修行のような行脚となりました。 akuto508.hatenablog.com 【伯太姫神社】拝殿。見出し写真は入口鳥居 【ご祭神・ご由緒】 伯太彦神社のご祭神は、伯太彦命、広国押武金日命(安閑天皇)の二神で、一方…
藤氏家伝貞慧伝では「貞慧の功績により日本と唐の親密な関係が新たなものになり、また、父鎌足の徳行もいよいよ光り輝くものとなった。」とある。 この記述、美辞麗句ではなく、マジだった。 665年日唐外交交渉 取り急ぎ「封禅の儀」使節団を洛陽へ送り出した(継体持統㊱:中臣定恵が我が国を救う - 上古への情熱)後、日唐平和条約締結のため、665年9月に定恵を筆頭として劉徳高郭務悰が来日し、最終的には飛鳥倭京までやってきた。 定恵は皇帝高宗の勅命により帰国しており、孝徳天皇御落胤と皇帝高宗勅命を背景に、倭京で平和交渉の調整を行った。 定恵と共に多数の留学生もおそらく帰国を果たしており、一気に親唐派知識人が…
昨日の記事を書いたあと、大事なことを書き忘れていたことに気づきました。 kumashine369.hatenablog.com それは――藤原氏が日本の古代史を封印したという点です。 現在、最古の歴史書とされているのは、712年に編纂された『古事記』。そして、720年には外国向けの国史として『日本書紀』が作られました。 この2つの歴史書をプロデュースした人物――それが、藤原不比等だとする説があります。不比等は、あの藤原鎌足の次男です。 でも、ここで疑問が湧きます。なぜ、『古事記』以前の歴史書は一切残っていないのでしょうか? 実は、乙巳の変の際、蘇我蝦夷の屋敷にあった歴史書が全て焼かれたと伝えら…
天の岩戸の前で祝詞を奏上したとされる天児屋命(アメノコヤネ)と天智天皇(てんじてんのう)の関係について。次の流れで紹介していく。 ・天智天皇・天智天皇の家族関係・舒明天皇の子女の名前について・天児屋命(あめのこやねのみこと)・古語拾遺の布刀玉命と天児屋命・天児屋命と天智天皇の音韻・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・藤原不比等(ふじわらのふひと)・壬申の乱・藤原不比等の功績・乙巳の変と大化の改新・藤原不比等の出自に関する異説・天児と天智・藤氏家伝(とうしかでん)・まとめ ■天智天皇第38代の天皇。在位で668年~672年。諱は葛城、即位前の名前は中大兄皇子として知られる。 続いて家族関係について。…
B553 神武天皇は徐福の孫?004 神武天皇は徐福の孫? 241127 ※はじめに 最近、古代日本史、 本当の歴史解明が進んできています シン>神武天皇は徐福の孫だ という情報があるんですが? リーダ>違います。 シン>神武天皇という名前は 後から付けられた名前ですか? リーダ>そうです。天皇家も 妻側ってずいぶんいろんな 民族が入っているんですよ。 シン>そうですね。 中国や朝鮮、新羅、 百済も混じっていますね リーダ>中国も1 つじゃなく、 秦の時代だと楚とか越とか、 呉とか斉とかありますね シン>あれって中国人なんですか? それとも別の民族が 色々交じってたんですか? リーダ>その時代…
B558 聖徳太子は暗殺されていた?002 聖徳太子は暗殺されていた? 241127 シン>歴史書っていうのが 出てきまして 出雲王国の歴史を 八咫烏が集めた情報。 村雲大王という名前。 後世に神武という名前に 変えられた様ですが? リーダ>キリストと同じで 何パターンもあるからね。 そうやって伝説でここから来た人だと いやここの出身だと それだけ力が強かったんでしょうけど・・・ 日本書紀とか残ってるのは そうじゃないと思いますよ。 シン>古事記とか日本書記が 書き換えられているのは 判明しています。 それは藤原氏が聖徳太子を 暗殺したから歴史を 書き換えたという事です? リーダ>その通りでし…
こんばんは! 都内在住アラフィフ主婦のnicoです。 ひとり時間を楽しんでいます。 馳星周著、 『比ぶ者なき』読了。 ※飛鳥時代の小説一覧はこちら。 飛鳥時代末期~奈良時代初期に 活躍した官僚、 藤原不比等(ふひと)が 主人公の作品です。 大化の改新の立役者、 中臣鎌足の次男で 藤原氏の基礎を作った人物です。 「ふひと」という名前は 元々は「史」という漢字をあてていましたが、 「等しく比(なら)ぶ者なき」という意味の 「不比等」をあてるようになりました。 それだけ類い稀な辣腕ぶりを発揮し、 古代の国造りに大きく貢献したことを 表しています。 その一つに 720年に成立した日本書紀があり、 本作…
2024年甲辰 九月三日火曜日 今年2度目の海龍王寺隅寺心経が伝わる海龍王寺は、奈良時代の政治家藤原不比等と深い関係があります。 不比等は、平城京遷都の際に土師氏から土地を譲り受け、邸宅を構えました。その邸宅の北東隅にあった寺院が、後に海龍王寺となったそうです。不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続し、皇后宮となりました。光明皇后は、遣唐留学僧の玄昉が無事に帰国することを願い、寺院の伽藍を整備しました。 遣唐使として唐に渡った玄昉は、帰国途中に遭難の危機に直面しました。 彼は約18年間唐で学び、天平7年(735年)に帰国の途につきましたが、航海は非常に危険なものでした。 玄昉が帰国すると、聖武…
中臣鎌足の長男の定恵は孝徳天皇ご落胤、次男の不比等は天智天皇ご落胤。男系で鎌足の血を継ぐ者はいない。俗説ではあるのだが、鎌足に対する扱いが酷すぎて切ない。 日本書紀には案外、鎌足の事績が少ない 中大兄皇子のブレインにして大化改新の立役者とされる中臣鎌足だが、日本書紀を読むと、案外事績が少ない。 乙巳の変前後で暗躍する大量の記載はあるが、まだ10代の中大兄皇子を担ぐなど小説じみていて、全て作り話とも解釈できてしまう。 孝徳朝設立時に「内臣」という他に見られない官職に就いて、以後、白村江の敗戦まで事績がなく、この間は実際には活躍はなかったとの解釈もできてしまう。 白村江の敗戦後、唐・新羅との外交調…