第40代とされる天皇。在位673〜686年。 生年不明。686年没。 本名は大海人皇子。
舒明天皇と皇極天皇の間に生まれる。 天智天皇は同母兄。
天智天皇の死後、その息子・大友皇子と対立し、672年に壬申の乱を起こす。 大友皇子を倒して、673年、天皇に即位。 天皇中心の国家体制を築いた。
日本の国号及び天皇の称号は、天武天皇の治世に成立したと考えられている。
八瀬天満宮社 歴史の中の八瀬天満宮社 八瀬と天皇家とのつながり 長ーいまっすぐな舗装されてない参道 地元に大事にされている天満宮社 弁慶の背くらべ石 本殿 境内 境内の雰囲気 地図アクセス 八瀬天満宮社 この神社は天満宮なので、当然菅原道真とのゆかりがある。 菅原道真が亡くなった後、師である叡山法性坊阿闍梨尊意(八六六~九四〇)の勧請により建立されたと伝えられる。 歴史の中の八瀬天満宮社 八瀬と天皇家とのつながり この天満宮社がというより八瀬との関わりと言った方がいいのかもしれない。 八瀬天満宮社=八瀬考えてもいいのかも。 京都市街地から離れた集落にポツンとある神社にしてはと言うと失礼かもしれ…
訓読 >>> 淑(よ)き人のよしとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見 要旨 >>> 昔の立派な人々がよく見てよい所だと言った、この吉野をよく見なさい、今の立派な人々よ。 鑑賞 >>> 天武8年(679)5月5日、天武天皇が吉野離宮に行幸された時の歌。ここの「淑き人」は、天武天皇と持統皇后を寓しており、「良き人」は、同行していた草壁皇子ほか大津・高市・河嶋・忍壁・志貴の6皇子を指しています。天皇はこの折に、草壁皇子を次期天皇とし、他の皇子らとともに、千載の忠誠と結束を盟約させました(吉野の誓い)。壬申の乱による自身の即位の経緯から、自分の子たちが同じ事態にならないようにとの狙いが…
一戦も交えず敗走した平家の大将軍権亮少将維盛が、 福原に面目ない顔で現れたのは十一月八日である。 報を受けていた清盛は激怒した。 「武人たるもの何たる醜態か。恥を知れ、きゃつらの顔など見とうない。 維盛は鬼界ヶ島へ流せ。忠清は死罪にせよ」 といい捨てると、いかなる弁解も受けつけなかった。 そこで翌日平家の侍ども老若数百人が集って、忠清死罪の件について評定が行なわれた。 席の空気は忠清に同情的であった。 主馬判官盛国《しゅめのはんがんもりくに》進み出ると、 「忠清が卑怯者という話は昔から聞いておりません。 たしか彼が十八歳の時と思いますが、 鳥羽殿《とばどの》の宝蔵に五畿内随一といわれた賊二人が…
乙巳の変のエピソードも天智天皇から妃を賜った件も作り話とすると、中臣鎌足が天智天皇の寵臣であったこと自体に疑問が出てくる。 侮れない天武天皇との関係 壬申の乱で中臣氏が近江朝の重臣であったことから、天武天皇は鎌足の遺族を冷遇していたという説が多いが、本当だろうか? 天武天皇が天智天皇の娘を4人も娶ったのは有名な話だが、天武天皇は鎌足の娘についても2人も娶っている。妃の年齢からして壬申の乱後のことと思われる。 一方の天智天皇は鎌足の娘を娶っていない。 系譜を見る限り、鎌足は天智天皇より天武天皇に近かったと解釈できる。 孝徳・鎌足・天武という親新羅派人脈 天智天皇のブレインである鎌足は当然親百済派…
🪻古事記の企画🪻 ——前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。 後半、古來の伝えごとに關心をもたれ、 これをもつて國家經營の基本であるとなし、 これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、 まだ書物とするに至らなかつたことを記す。—— 飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において 天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、 まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。 しかしながら時がまだ熟しませんでしたので 吉野山に入つて衣服を代えてお隱れになり、 人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。 お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、 軍隊は…
訓読 >>> 明日香(あすか)の 清御原(きよみ)の宮に 天(あめ)の下 知らしめしし やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ) いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 潮気(しほけ)のみ 香(かを)れる国に 味凝(うまこ)り あやにともしき 高照らす 日の御子 要旨 >>> 明日香の清御原の宮で天下を治められた我が大君、高く天上を照らし給う日の御子は、どうお思いになられて、神風の吹く伊勢の国の、沖の藻が漂い、潮気ばかりが香る国に(おいで遊ばしたのか)、言い様もなくお慕わしい日の御子よ。 鑑賞 >>> 題詞に「天武天皇が…
中臣鎌足の長男の定恵は孝徳天皇ご落胤、次男の不比等は天智天皇ご落胤。男系で鎌足の血を継ぐ者はいない。俗説ではあるのだが、鎌足に対する扱いが酷すぎて切ない。 日本書紀には案外、鎌足の事績が少ない 中大兄皇子のブレインにして大化改新の立役者とされる中臣鎌足だが、日本書紀を読むと、案外事績が少ない。 乙巳の変前後で暗躍する大量の記載はあるが、まだ10代の中大兄皇子を担ぐなど小説じみていて、全て作り話とも解釈できてしまう。 孝徳朝設立時に「内臣」という他に見られない官職に就いて、以後、白村江の敗戦まで事績がなく、この間は実際には活躍はなかったとの解釈もできてしまう。 白村江の敗戦後、唐・新羅との外交調…
推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…
三井寺は防備のため山を切り開いて、 大小の関所を作った。 こうした中で衆徒一同が集って評定が真剣に行なわれた。 「比叡は変心、頼みの奈良興福寺の援軍はまだ来ていない。 このまま徒らに時を延ばすのは平家を利するだけだ。 直ちに六波羅へ今夜押しかけ夜討をかけよう。 ついては、老人と若い者を二手にわける。 老僧たちを如意ヶ峰より敵の搦手《からめて》に向わせる。 足軽どもを先手としてまず白川の民家に火を放てば、 六波羅の武士たちは、 敵襲と思うてここに駆けつけるにちがいない。 この間岩坂、桜本のあたりで防戦、 しばらく時をかせぐと共に敵をここへ引きつけておく。 こうしておいて、 大手の松坂から伊豆守を…
今回は、「日本書紀」や江戸時代の賭博とは? についてです。 goodweatherx.hatenablog.com 週刊エコノミスト(2024/6/4号)に記事が載っていたので、ポイントを紹介します。 ・日本最古級の歴史書「日本書紀」にも賭博に関する記述がある。 ー天武天皇(在位673年~686年)が「王らを召して博戯(ばくち)を行わせた。」 ー持統天皇(在位690年~697年)の時期に「すごろくを禁止した」 (禁止した理由は、賭博で農作業がおろそかになった、という説や、賭け事で財産を失うものが続出したという説などがある。) ・江戸時代に入ると賭博は多様化した。刃傷沙汰などトラブルの原因になる…