第40代とされる天皇。在位673〜686年。 生年不明。686年没。 本名は大海人皇子。
舒明天皇と皇極天皇の間に生まれる。 天智天皇は同母兄。
天智天皇の死後、その息子・大友皇子と対立し、672年に壬申の乱を起こす。 大友皇子を倒して、673年、天皇に即位。 天皇中心の国家体制を築いた。
日本の国号及び天皇の称号は、天武天皇の治世に成立したと考えられている。
訓読 >>> 淑(よ)き人のよしとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見 要旨 >>> 昔の立派な人々がよく見てよい所だと言った、この吉野をよく見なさい、今の立派な人々よ。 鑑賞 >>> 天武8年(679)5月5日、天武天皇が吉野離宮に行幸された時の歌。ここの「淑き人」は、天武天皇と持統皇后を寓しており、「良き人」は、同行していた草壁皇子ほか大津・高市・河嶋・忍壁・志貴の6皇子を指しています。天皇はこの折に、草壁皇子を次期天皇とし、他の皇子らとともに、千載の忠誠と結束を盟約させました(吉野の誓い)。壬申の乱による自身の即位の経緯から、自分の子たちが同じ事態にならないようにとの狙いが…
一戦も交えず敗走した平家の大将軍権亮少将維盛が、 福原に面目ない顔で現れたのは十一月八日である。 報を受けていた清盛は激怒した。 「武人たるもの何たる醜態か。恥を知れ、きゃつらの顔など見とうない。 維盛は鬼界ヶ島へ流せ。忠清は死罪にせよ」 といい捨てると、いかなる弁解も受けつけなかった。 そこで翌日平家の侍ども老若数百人が集って、忠清死罪の件について評定が行なわれた。 席の空気は忠清に同情的であった。 主馬判官盛国《しゅめのはんがんもりくに》進み出ると、 「忠清が卑怯者という話は昔から聞いておりません。 たしか彼が十八歳の時と思いますが、 鳥羽殿《とばどの》の宝蔵に五畿内随一といわれた賊二人が…
乙巳の変のエピソードも天智天皇から妃を賜った件も作り話とすると、中臣鎌足が天智天皇の寵臣であったこと自体に疑問が出てくる。 侮れない天武天皇との関係 壬申の乱で中臣氏が近江朝の重臣であったことから、天武天皇は鎌足の遺族を冷遇していたという説が多いが、本当だろうか? 天武天皇が天智天皇の娘を4人も娶ったのは有名な話だが、天武天皇は鎌足の娘についても2人も娶っている。妃の年齢からして壬申の乱後のことと思われる。 一方の天智天皇は鎌足の娘を娶っていない。 系譜を見る限り、鎌足は天智天皇より天武天皇に近かったと解釈できる。 孝徳・鎌足・天武という親新羅派人脈 天智天皇のブレインである鎌足は当然親百済派…
🪻古事記の企画🪻 ——前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。 後半、古來の伝えごとに關心をもたれ、 これをもつて國家經營の基本であるとなし、 これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、 まだ書物とするに至らなかつたことを記す。—— 飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において 天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、 まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。 しかしながら時がまだ熟しませんでしたので 吉野山に入つて衣服を代えてお隱れになり、 人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。 お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、 軍隊は…
訓読 >>> 明日香(あすか)の 清御原(きよみ)の宮に 天(あめ)の下 知らしめしし やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ) いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 潮気(しほけ)のみ 香(かを)れる国に 味凝(うまこ)り あやにともしき 高照らす 日の御子 要旨 >>> 明日香の清御原の宮で天下を治められた我が大君、高く天上を照らし給う日の御子は、どうお思いになられて、神風の吹く伊勢の国の、沖の藻が漂い、潮気ばかりが香る国に(おいで遊ばしたのか)、言い様もなくお慕わしい日の御子よ。 鑑賞 >>> 題詞に「天武天皇が…
中臣鎌足の長男の定恵は孝徳天皇ご落胤、次男の不比等は天智天皇ご落胤。男系で鎌足の血を継ぐ者はいない。俗説ではあるのだが、鎌足に対する扱いが酷すぎて切ない。 日本書紀には案外、鎌足の事績が少ない 中大兄皇子のブレインにして大化改新の立役者とされる中臣鎌足だが、日本書紀を読むと、案外事績が少ない。 乙巳の変前後で暗躍する大量の記載はあるが、まだ10代の中大兄皇子を担ぐなど小説じみていて、全て作り話とも解釈できてしまう。 孝徳朝設立時に「内臣」という他に見られない官職に就いて、以後、白村江の敗戦まで事績がなく、この間は実際には活躍はなかったとの解釈もできてしまう。 白村江の敗戦後、唐・新羅との外交調…
推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…
三井寺は防備のため山を切り開いて、 大小の関所を作った。 こうした中で衆徒一同が集って評定が真剣に行なわれた。 「比叡は変心、頼みの奈良興福寺の援軍はまだ来ていない。 このまま徒らに時を延ばすのは平家を利するだけだ。 直ちに六波羅へ今夜押しかけ夜討をかけよう。 ついては、老人と若い者を二手にわける。 老僧たちを如意ヶ峰より敵の搦手《からめて》に向わせる。 足軽どもを先手としてまず白川の民家に火を放てば、 六波羅の武士たちは、 敵襲と思うてここに駆けつけるにちがいない。 この間岩坂、桜本のあたりで防戦、 しばらく時をかせぐと共に敵をここへ引きつけておく。 こうしておいて、 大手の松坂から伊豆守を…
今回は、「日本書紀」や江戸時代の賭博とは? についてです。 goodweatherx.hatenablog.com 週刊エコノミスト(2024/6/4号)に記事が載っていたので、ポイントを紹介します。 ・日本最古級の歴史書「日本書紀」にも賭博に関する記述がある。 ー天武天皇(在位673年~686年)が「王らを召して博戯(ばくち)を行わせた。」 ー持統天皇(在位690年~697年)の時期に「すごろくを禁止した」 (禁止した理由は、賭博で農作業がおろそかになった、という説や、賭け事で財産を失うものが続出したという説などがある。) ・江戸時代に入ると賭博は多様化した。刃傷沙汰などトラブルの原因になる…
皇太子の答へし御歌 明日香宮に天の下治めたまひし天皇、諡を天武天皇といふ 紫のにほへる妹を 憎くあらば人妻ゆゑに 我恋ひめやも 大海人皇子 (萬葉集 巻第一 21) 紀に曰く、「天皇の七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦猟(みかり)す。 時に、大皇弟・諸王・内臣また群臣、皆悉(ことごと)従ふ」といふ。 明日香清御原宮(あすかのきよみはらのみや)の天皇の代(みよ) 天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇、諡を天武天皇といふ (万葉集 巻第一 21) 【教科書『国語総合』(桐原書店)の訳】 皇太子(大海人皇子)が答える御歌 紫色が鮮やかに映えているように 美しいあなたをもし好きでないならば (…
◎プロモーションが含まれます 人生を豊かにする遠隔ヒーラー アプリコットブレイン さとうきよたかです。 お寄りいただきありがとうございます。 辛い毎日が 「豊かな人生」と感じる毎日へと変わる スピリチュアル・ライフを綴っています 日本では、儒教は宗教としても学問としても廃れ 宗教施設として残っいるのはわずかです。しかし、儒教は仏教よりも古く渡来し 現皇祖の継体天皇の時代 531年という 本編に入る前に数行お時間をください。 必ず運勢の良くなるメルマガセミナーはご登録いただいた方にはプレゼントがあります。・必ず運勢が良くなるメールセミナー ・メルマガでは週一回の無料ヒーリング ・メルマガ読者様だ…
●歌は、「玉だすき畝傍の山の橿原のひじりの御代ゆ生れましし神のことごとつがの木のいやつぎつぎに天の下知らしめししを天にみつ大和を置きてあをによし奈良山を越えいかさまに思ほしめせかあまざかる鄙にはあれどいはばしる近江の国の楽浪の大津の宮の天の下知らしめしけむ天皇の神の尊の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の茂く生ひたる霞立ち春日の霧れるももしきの大宮ところ見れば悲しも(柿本人麻呂 1-29)」である。 【大津京址】 「柿本人麻呂(巻一‐二九)(歌は省略)斉明天皇崩御(六六一)によって中大兄皇子の称制となったが、その六年(六六七)三月一九日、飛鳥から近江大津京に遷都があり、翌七年一月皇子…
さきたま古墳郡の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた乎獲居臣(おわけおみ)の系図について考察していきます。 大彦命(おおひこのみこと)とは? 大彦命(おおひこのみこと)を祀る神社 大彦命末裔と景行天皇と千葉 さきたま古墳の鉄剣に刻まれた大彦命の系図 磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る神社 まとめ 大彦命(おおひこのみこと)とは? 10代崇神天皇の時代に派遣された四道将軍の1人として、北陸に派遣された人物です。 稲荷山古墳から出土した鉄剣には「意富比垝」とあり四道将軍の大彦命の末裔がさきたま古墳の被葬者であるとする説があります。 北陸に派遣された大彦命の子孫が埼玉県行田市にでこれほど大規模な古墳を…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本の仏教は、時代によって違う。 ・ ・ ・ 2024年8月30日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「奈良時代の『仏教宗派』は現代とは違っていた~ 「南都六宗」とは 画像:玄奘三蔵像 wiki c John Hill 日本に仏教が伝来した当初は、渡来人(帰化人)が信仰する異国の宗教として受け入れられた。 百済国王から正式に公伝された仏教は、現代のように死者を弔う法要を行うものではなく、大陸からもたらされた最新の文化の一部として捉えられていたのである。 当時の仏教は、伝えられ…
どうも、ひのきですm(*_ _)m さて、じわじわと進めておりましたホツマツタヱの読み解きですが現在40あるうちの17アヤ(章)までしか進んでい状況でございまして、一気に進めていた所から急な巡拝続きでピタリと停まっておりましてw 18アヤ以降の読み解き再開は恐らく年末年始記事を書き終えた頃... 記事としてはひとアヤでひと記事だったりいくつかをまとめていたりとマチマチですがずっとそのままというのも参拝の考察(主に後述)とズレも出てきてしまうのでそろそろアップしていこうかな~と思います 過去に書いたこととも被りますが全体的に共通する部分を予めまとめておこうと思った次第であります ∠( ̄^ ̄) 人…
佐賀空港を出発される天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2024年10月11日、佐賀市 - 写真提供=共同通信社 日本の皇室典範は「男系男子」のみを皇位継承者と定め、現在の皇位継承資格があるのは秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまの3人のみだ。評論家の八幡和郎さんは「ヨーロッパでは性別を問わず長子に相続させるよう制度を改正する国が増えているが、適用されるのは改正後に生まれた子であり、すでに生まれた王族の継承順位を変更することは極めて稀だ」という――。 【画像】史上6人目の女性天皇(孝謙天皇・重祚して称徳天皇)。それから850年以上、女性天皇は途絶えた ■「女性天皇」の可能性に沸く識者たち 国連の女性差…
引用:Google Map 耳成駅は奈良県の難読駅としてもまぁまぁ出てくる駅ですね。 駅の近くには大和三山の1つ、耳成山があって、そっから名称を取りました。 どうやら耳成山はその形状から名前が付いたようですが、成り立ちについてはかなり謎が多いです。 その辺も考察してゆきます。 この記事の内容 耳成駅の歴史。最近リニューアルした駅の構造 耳成駅の名称元ネタ、耳成山に隠されたミステリー 今後行われる駅近くの整備状況 大阪線 大福>> 耳成駅の成り立ちと名称の元ネタ 引用:Google Map/k sさん 耳成駅は1929年1月5日に開業しました。 大和八木~桜井の開通の日と同じで、特にこの区間で後…
高崎市に、きわめて古い石碑が3基遺されている。飛鳥・奈良時代のものでユネスコの「世界の記憶」遺産に登録されているほど貴重なものだ。 多胡碑、山上碑、金井沢碑がそれであり、訪ねると今は3碑とも冷暖房付きのお堂に収まりしっかり保存されていた。 (山上碑のお堂と古墳) 何も分かっていない私だが、こうした古いものには、その古さだけでもう親しみを感じてしまい、ついつい足を運ぶ習性がある。この石碑3か所もドライブがてらご対面してきた。 現存する平安時代以前の古碑は、日本に18例だけであり、そのうち3つが高崎市の南部の丘陵地帯に集中しているという。 先ず多胡碑(たごひ)だが、鏑川を見下ろす丘の上にあり、ユネ…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年11月30日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「朝廷から特別な崇敬を受けた「二十二社」を紹介 ~王城鎮守を任された22の神社 ※伊勢神宮 宇治橋 筆者撮影 平安時代の中頃になると、諸国に赴任した国司が幣帛(へいはく)を地元の有力神社に頒布する、国司神拝が行われるようになった。 国司が巡拝する神社は「一の宮」と呼ばれ、ここに「諸国一の宮制」が成立した。 そして、これとほぼ同時に成立したのが朝廷による幣帛頒布の「二十二社制」だ。 「二十二社」の制度は、後朱雀天皇の10…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本の底力は、天皇の和歌にある。 ・ ・ ・ 日本の和歌・俳句・狂歌・川柳などの口承文芸は、情緒的情感的な文系的現実思考と理論的合理的な理系論理思考で、観察と想像で詩作し、死への恐怖と生への渇望が詠われている。 和歌・俳句・川柳などの短詩系を学び楽しんでいたのは、上は天皇・将軍・大名、僧侶・神主から下は身分低く貧しい庶民・人に嫌われた賤民(えた・非人・河原者)、女性や子供、身分や貧富に関係ない全ての日本民族であった。 ・ ・ ・ 日本は、中国や朝鮮の様な儒教国家ではない。 ・ ・ …
【弖】について ≪【本居頼長⇔弖爾遠波(てにをは)】諸悪の根源。≫ 【現代辞書:字源】【一説に、氐が変形したもの。漢籍に用例が見られないため、長く国字とされてきたが、好太王碑碑文(414年建立)に「幹弖利城」と用例が見えることから、現在では朝鮮半島から伝わったものではないかと推察されている。】 【現代辞書:意義】【日本語の根幹である助詞4つ弖爾遠波(てにをは)の「て」。】【人名に用いる。「弖巳加利穫居(テヨカリワケ)」「ハテヒ(半弖比)」(『稲荷山古墳出土鉄剣銘文』471年製)、「阿弖流為(アテルイ)」(『続日本紀』797年成立)】 【正しい釋讀】 (表) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年11月29日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜ「百人一首」の最初の歌は、「天智天皇の作」なのか…? じつは「意外な理由」があった 群像編集部雑誌編集部 和歌の「オールタイム・ベスト100」 年末年始に「百人一首」のかるたをする……という人も、いまはあまり多くないかもしれません。 しかし、ときには日本の古い文化にふれ、いまの自分たちのありようを規定している歴史の流れについて考えてみるのもよいものです。 そんなときに最適な一冊が『百人一首がよくわかる』という…
改修工事中だった頃の夜の道後温泉本館 非常に有名な温泉で、日本三古泉のひとつ。 道後温泉は、三古泉に数えられているように、その歴史は有史以前に遡る。湯神社などがある冠山からは、約3千年前の縄文時代中期の遺物が発掘されており、その当時から、周辺の人々が利用していたのだろう。 開湯伝説としては、足を痛めた白鷺が、岩間から湧出する温泉に度々来て浸かり、傷が平癒したことから、人々が盛んに利用するようになったという白鷺伝説と、大国主命と少彦名命が伊予に来た際、少彦名命が重病となったため、大国主命が豊後の別府から湯を引き、少彦名命を掌に乗せて湯で温めたところ、たちどころに元気になったという伝説の2つがある…
蕎麦道楽人の古道・街道歩き旅の日記です。その道を歩いてみると,当時の歩いた人々の思いが,時代背景と共に,滲み出す霧のように立ち上る気がします。その思いを感じつつ,旅の無事を祈った寺社を訪ね,旅人の心を和ましたであろう美しい風景を愛で,昼なお薄暗い森の中の曲がりくねった道や美しい石畳がびっしりと敷かれた道,さらには道というべきなのか疑わしくなるほどの難所などを歩くのが好きです。とはいえ,在りし日の旅人のごとく,何日も連続で歩き続ける強靭な精神は持ち合わせていませんので,熱心な同好の方々のような「踏破」とか「完歩」というような雰囲気とは程遠いのですが,少し歩いては自宅に戻り又歩き出すというような旅…
『にぎたつの海に月出づ』配役が発表されましたね! 待ってました! どなたがどのお役を演じるのか…想像するだけでもワクワクします♪ 目次: 史実と創作コンボ、とても興味深いです!! 日本史の部分と百済の人たちとの関わりに興味津々 百済の人たちは5名 激動の歴史に翻弄される二人 メインのお役のインプレッション 今日、発表になったのは23キャスト。 史実と創作コンボ、とても興味深いです!! 演出家のさじ加減でお役の比重が変わり、ストーリーの焦点も変わってきます。 幕が上がり、観てみるまではなんとも言えないです。 中大兄皇子(碧音斗和)、蘇我蝦夷(輝咲玲央)、蘇我入鹿(大希颯)が登場することから、大化…