第40代とされる天皇。在位673〜686年。 生年不明。686年没。 本名は大海人皇子。
舒明天皇と皇極天皇の間に生まれる。 天智天皇は同母兄。
天智天皇の死後、その息子・大友皇子と対立し、672年に壬申の乱を起こす。 大友皇子を倒して、673年、天皇に即位。 天皇中心の国家体制を築いた。
日本の国号及び天皇の称号は、天武天皇の治世に成立したと考えられている。
吉野発桑名着、総延長140km。不眠不休で丸二日48時間。女子含む大海人御一行全員が激走。すごすぎる。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 六月二十四日 壬申の乱参加者の系譜紹介で、ずいぶんと間隔があいてしまったが、六月二十四日から六月二十五日夜明けまでの経緯については「継体持統㊿:暴走族大海人御一行 - 上古への情熱」を参照。 女子含む大海人パーティー総勢約40人全員が吉野莿萩野間約70kmを激走した。これだけでも凄いのだが。 六月二十五日の日中 六月二十五日の夜明けに莿萩野(タラノ)で食事休憩。積殖山口(柘植)に着くころ高市皇子が鹿深(甲賀)を越えて合流。民直大火・…
「白村江の戦い」は663年、朝鮮半島の白村江でおこなわれた海戦だ。 その際に派兵を決め、自らも九州に赴いたのが女性の斉明天皇。 当時の朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国があり、倭国(日本)は百済と深い関係にあった。 百済から「仏教」「漢字文化」「建築技術」「学問」が伝わったのだ。 だが、その百済が660年同盟を結んだ唐・新羅の連合軍によって滅亡。 百済の皇子・扶余豊璋は日本に亡命。 そこで斉明天皇は百済を復興させるために大規模な遠征軍を派兵することを決定。 白村江で大規模な海戦が行われたが、圧倒的な唐・新羅連合軍の前に敗戦……。 そして斉明天皇は九州で崩御……。 大化の改新の大変革期を乗り切り…
本稿は、古事記、日本書紀などに見える記述を素材とし、史料の範囲で確認できる事実と、そこから導き得る推論を整理した学術的性質の私的考察です。史料の性質上、本文には複数の解釈が成立し得る部分があり、ここで述べる内容は確定的な結論ではなく、あくまで史料に基づく一つの可能性にすぎません。なお、本稿は学術的仮説であり、特定の学説を否定する意図はなく、引用は学術研究の紹介であり、民族的価値判断とは無関係です。 鎌足と不比等から見た飛鳥〜奈良国家形成 鎌足が生まれたとされる614年頃は推古天皇の治世だった。そもそも推古天皇と蘇我馬子は587年に物部氏を滅ぼした丁未の乱の中心人物であり、かつ、異母弟の崇峻天皇…
[ ひろせたいしゃ ] 当社広瀬大社の石標や周囲の社名掲示には「廣瀬神社」とありますが、公式ホームページには「廣瀬大社」となっています。廣瀬社・龍田社となると、兎にも角にも天武天皇が祭られた国家祭祀の神社というイメージですが、ご祭神の説明のされ方に天武天皇の即位前のお名前である「大海人皇子」の命名経緯が重なり、当社のそもそもの姿にいろいろ思いが巡りました。 長い参道が続きます 【ご祭神・ご由緒】 当社の主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)、相殿に櫛玉命と穂雷命を祀ります。「延喜式」神名帳に『広瀬坐和加宇加売命神社 名神大』と見えており、神社名で当時のご祭神が分かる稀な神社です。文献上の…
本稿は、古事記、日本書紀などに見える記述を素材とし、史料の範囲で確認できる事実と、そこから導き得る推論を整理した学術的性質の私的考察です。史料の性質上、本文には複数の解釈が成立し得る部分があり、ここで述べる内容は確定的な結論ではなく、あくまで史料に基づく一つの可能性にすぎません。なお、本稿は学術的仮説であり、特定の学説を否定する意図はなく、引用は学術研究の紹介であり、民族的価値判断とは無関係です。 天武天皇の深層心理 縄文以来の“異質性の共存”は、弥生の稲作協働で制度化され、古墳期の氏姓制度で政治構造となり、天武期に国家レベルで再編成された。そういう意味で、天武天皇の古事記編纂に対する深層心理…
本稿は、古事記、歴史書、研究報告などに見える記述を素材とし、史料の範囲で確認できる事実と、そこから導き得る推論を整理した学術的性質の私的考察です。史料の性質上、本文には複数の解釈が成立し得る部分があり、ここで述べる内容は確定的な結論ではなく、あくまで史料に基づく一つの可能性にすぎません。なお、本稿は学術的仮説であり、特定の学説を否定する意図はなく、引用は学術研究の紹介であり、民族的価値判断とは無関係です。 天武天皇と古事記 古事記とはどういった文書なのだろう。 ここでは古事記を天武天皇の私的記録書として捉え、その編纂の意図に古事記を使って後世に残したかった最も重要な点を明らかにすることで古代日…
『井沢式「日本史入門」講座2 万世一系/日本建国の秘密の巻』(井沢元彦,徳間書店,2015年1月1日)を読了した。 本書は,日本史の通説を多角的に読み解き,歴史の裏側にある思想や構造を明らかにする内容である。 以下では,特に印象に残った部分と,そこから得た考察をまとめる。 ユダヤ人と第三次産業の関係 「天武」という諡号に込められた意味 ランキング参加中読書 ユダヤ人と第三次産業の関係 ユダヤ人は今でも第三次産業に強いと言われています。例えば映画製作を始めとする芸能はユダヤ人の得意分野です。ハリウッド,あるいは弁護士,金融,サービス業,情報産業もユダヤ人の天下と言われています。でも見方を変えれば…
壬申の乱序盤の疑問の一つとして、行動がバレるのに、高坂王に駅鈴を求めたのは何故か?、というのがある。 倭京留守司高坂王の緩い対応 確かに高坂王は倭京留守司という近江朝廷の官吏であるが、高坂王は栗隈王の弟であり、大海人とは敵対していなかったと見られる。 また、吉野に隠遁したとはいえ、大海人皇子は首都大津宮に用事が頻繁にあったはずで、高坂王は普段から大海人に便宜供与=適当に駅鈴を貸していたことも大いにあり得るところ。 大海人皇子がいつものように小間使いの逢臣志摩を派遣し緩く駅鈴を所望。ところがこのとき近江朝廷は倭京に軍事物資の手配をしていて駅鈴は底をついていて無かったということだろう。高坂王は『今…
大海人皇子は全権力を捨てて吉野宮に隠遁。壬申の乱直前まで反乱の意思は無かったように見える。反乱スタート吉野宮脱出の瞬間に至っても優柔不断全開のちゃぶ台返しを演じる。あーぁ。 全くヤル気のない大海人皇子 天智天皇の弟という立場にありながら唐との外交交渉で表に出ることをせず、天智天皇臨終には出家すると言って吉野宮へ逃げた。吉野宮では半数の従者が霧散。残った従者は二十余人のみ。 日本書紀を素直に読むと、壬申の乱直前まで、大海人皇子はヤル気が全く無かったようにしか見えない。 ヤル気があるなら隠遁せずに、権力、兵力の温存を謀っただろうが、権力ナシ(駅鈴でさえ入手できず)、兵力ナシ(手持ち従者は二十余人)…
白村江の戦いは倭軍優勢で必勝体制であったのに負けた。生還率は悲劇の1割台。白村江の戦いから9年。再び中央政府は朝鮮出兵に動く。今度は唐との連合で、白村江の戦い以上に必勝体制と胸を張っているが。 好戦派は大津宮のみ スマホのない飛鳥時代。国際情勢なんて支配層のほんの一握りしか知らない。白村江の戦いは勝てる戦いを落とした(継体持統㉝:白村江の戦い - 上古への情熱)のだが、庶民に見える結果は、5万人以上つぎ込んで帰ってきたのは1万人以下の生還率1割台という大惨敗のみ(継体持統㉟:郭務悰初回来日の目的 - 上古への情熱)。庶民にとっては無謀な戦いだったとしか思えない。 白村江の戦いから8年、唐から「…