壬申年(672年)、天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起こった皇位継承をめぐるクーデター。 一か月余の戦いの結果、大友皇子は自害し、大海人皇子が翌年正月即位して天武天皇となり。
即位以後、天武天皇が自らの正統性を示すため、国史の製作を発足した。
八瀬天満宮社 歴史の中の八瀬天満宮社 八瀬と天皇家とのつながり 長ーいまっすぐな舗装されてない参道 地元に大事にされている天満宮社 弁慶の背くらべ石 本殿 境内 境内の雰囲気 地図アクセス 八瀬天満宮社 この神社は天満宮なので、当然菅原道真とのゆかりがある。 菅原道真が亡くなった後、師である叡山法性坊阿闍梨尊意(八六六~九四〇)の勧請により建立されたと伝えられる。 歴史の中の八瀬天満宮社 八瀬と天皇家とのつながり この天満宮社がというより八瀬との関わりと言った方がいいのかもしれない。 八瀬天満宮社=八瀬考えてもいいのかも。 京都市街地から離れた集落にポツンとある神社にしてはと言うと失礼かもしれ…
🪻古事記の企画🪻 ——前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。 後半、古來の伝えごとに關心をもたれ、 これをもつて國家經營の基本であるとなし、 これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、 まだ書物とするに至らなかつたことを記す。—— 飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において 天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、 まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。 しかしながら時がまだ熟しませんでしたので 吉野山に入つて衣服を代えてお隱れになり、 人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。 お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、 軍隊は…
えー、昨日、今日(9月15日)が、関ヶ原の戦いの日だと、Xやらよそ様の記事で、「関ヶ原の戦い2024」のタグを見て青くなった私です。 もうそんな季節か……、というか、まだ暑いよ! とても関ヶ原の戦いって気分じゃないよ! と思います。まあ実際には日付をそのまま新暦に移してるからこんなことになるんであって、実際は新暦に直すと10月の21日になるそうです。その時にはもっと涼しくなっていて欲しいです(泣) ja.wikipedia.org さて、このブログ、あと投資ブログの方では、関ヶ原の戦いで、18歳にして一軍を率いて頑張った武将、小早川秀秋について語っています。(投資ブログの方の記事は、いずれこっ…
訓読 >>> 199かけまくも ゆゆしきかも[一に云ふ、ゆゆしけれども] 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木(まき)立つ 不破山(ふはやま)越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天(あめ)の下 治めたまひ[一に云ふ、掃ひたまひて] 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる …
三井寺は防備のため山を切り開いて、 大小の関所を作った。 こうした中で衆徒一同が集って評定が真剣に行なわれた。 「比叡は変心、頼みの奈良興福寺の援軍はまだ来ていない。 このまま徒らに時を延ばすのは平家を利するだけだ。 直ちに六波羅へ今夜押しかけ夜討をかけよう。 ついては、老人と若い者を二手にわける。 老僧たちを如意ヶ峰より敵の搦手《からめて》に向わせる。 足軽どもを先手としてまず白川の民家に火を放てば、 六波羅の武士たちは、 敵襲と思うてここに駆けつけるにちがいない。 この間岩坂、桜本のあたりで防戦、 しばらく時をかせぐと共に敵をここへ引きつけておく。 こうしておいて、 大手の松坂から伊豆守を…
今でこそ日本は一つの国家である事が常識になっていますが、いつから日本はワンチームとして意識されるようになったのでしょうか。 そのきっかけは飛鳥時代に大和政権が海外勢力と衝突した事を機に、海外の大きな力に対抗するために一致団結しなければならないと危機感を抱いた事件があったからではないでしょうか。 その出来事こそが「白村江の戦い」です。
7世紀の東アジアは、統一中国の隋・唐に飲み込まれるか生き残るかのサバイバルレースが展開された。驚愕のペースで変化する国際情勢に翻弄され、極東地域では、百済・高句麗が滅び、新羅・日本が生き残った。 系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。 六世紀末の589年には隋が中国を統一。598年には30万もの軍を高句麗に派遣してきた。辺境諸国に一気に緊張が走る。 高句麗・百済・新羅は、隋唐の冊封体制に入るという、常識的外交を行った。一方、「倭の五王」の後、対等の関係を目指していた倭国は強大な隋唐に対してもメゲずに自らを貫き通す。600年に隋に対して様子見の遣使をし、607年に小野…
天の川の太陽(下巻)改版 (中公文庫) [ 黒岩重吾 ]価格: 1485 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 中大兄皇子の弟として育った大海人皇子。大化の改新を実行した政界の実力者だが、弟は兄の奥底にある冷酷で非情な性格を察知していた。母の斉明(皇極)天皇は目の前で愛人、蘇我入鹿が殺害されてから心神耗弱の状態が続いている。その間に中大兄皇子はわがもの顔で邪魔者を次々と粛清する一方、同母妹で孝徳天皇の皇后であった間人皇女を寵愛して周囲を困惑させる。また大海人皇子が愛する妻であった額田王を奪われていた。 大海人皇子はそんな兄に疑問の目を向けるが、油断なく対応する。自分は一介の武弁者であり、政治はよく…
何とか続きそうです。。。#10で初日の午後にようやく回った位でしょうか。少し端折るかもしれません。 このあと古墳は一段落として、吉野の方に向かいました。計画としてもそうしようと思っていたので桜井市の方から宇陀で向かいグルっと回るルートで吉野の国栖の里にある浄見原神社が次の目的地。実はここも以前訪問していて、それでももう一度行ってみたく再訪となったのです。 場所は結構離れるんですが、大海人皇子が壬申の乱の前に隠遁した先であり、吉野宮よりさらに奥にある場所です。ここの崖に神社があるのです。そもそも以前なんで行ったのかは記憶にないのですが、再訪してみたくなる場所ということですね。 レポートは動画にし…
この日は久しぶりに【大津市歴史博物館】を訪れました。 滋賀に移住した2019年の春に、いの一番に訪れたのがここ大津市の歴史博物館でした(^^) a-jyanaika.hatenablog.com 目的はそう、もちろん、これです!! 特別展「大友皇子と人の乱」! なんでも、今年は壬申の乱から1350年の節目の年だということで・・・節目としては刻みが細かいな・・とかそういうことは置いといて^^;とにかく1300年超えとか凄過ぎですっ・・!!(あ、年数が4ケタだから50年の刻みが細かく感じちゃったんだ・・驚) (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push…