じじぃの「人の死にざま_833_K・アタチュルク」

ケマル・アタチュルク - あのひと検索 SPYSEE
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Sar? Zeybek & Mustafa Kemal Ataturk 動画 YouTube
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Mustafa Kemal Ataturk Goruntuleri 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oQygJ7aqZCg
山田寅次郎 写真
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古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議6」 2012年1月6日 テレビ東京
【MC】ビートたけし 【進行】松丸友紀テレビ東京アナウンサー) 【選考委員】荒俣宏高島礼子吉村作治 【レポーター】中田あすみ(アヤ・ソフィア)
トルコのイスタンブールにそびえるイスラム教のモスク「アヤ・ソフィア」。四角い建物に巨大なドームを乗せた様式は、奇跡の建築と賞賛されている。
この「アヤ・ソフィア」に重大な再発見があったのは20世紀初頭。研究者が漆喰の壁をはがしてみると、なんと壁の下から、キリスト教のイコンが姿を現したのだ。
アヤ・ソフィアは、6世紀、元々キリスト教の聖堂として誕生した。現在、我々がイスラム教のモスクをイメージする丸いドームは、実はキリスト教建築のアヤ・ソフィアが始まりとされている。そして、それはローマ建築の技術的な最終到達点でもあった。15世紀、イスタンブールを支配したオスマン帝国のメフメト2世は、アヤ・ソフィアの壁のイコンを漆喰で塗りつぶし、イスラム教のモスクに改造、さらにオスマン帝国のシンボルとして壮大なトプカプ宮殿を建築した。20世紀初頭、アヤ・ソフィアとトプカプ宮殿無宗教の博物館とし、その数奇な運命を明らかにしたのが、西洋列強による植民地化を阻止したトルコ初代大統領・アタチュルクだった。
アタチュルクは、非西欧諸国で唯一近代化を成し遂げた日本を手本に、政教分離と資本主義の導入を進めた。近代トルコの父、アタチュルク。彼に日本語と日本文化を教えたのは、和歌山沖で難破したトルコの軍艦のために、義援金をトルコへ届けに行ったひとりの日本人だった。
トルコと日本を結ぶ奇跡の絆が、感動と共にアヤ・ソフィアの数奇な運命を明らかにする。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nanafushigi6/
トルコの時代
【快男児山田寅次郎
山田は優秀な陸軍士官と海軍士官に日本語と“日本学”というべき精神論を講じた。その士官のひとりが、1923年(大正12年)に「トルコ共和国」を誕生させた近代トルコの父、ケマル・アタチュルクだった。後年、山田と再会したアタチュルクはそれを明言。山田当人を大いに当惑させたと言う。
http://www.turkey.jp/2003/info03_4.html
ケマル・アタテュルク フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ムスタファ・ケマル・アタテュルク1881年3月12日 - 1938年11月10日)は、トルコ革命の指導者、トルコ共和国の初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。日本では、彼の革命当時の呼び名であるケマル・パシャの名で言及されることも多い。
【経歴】
1881年オスマン帝国マケドニアの州都セラーニク(現ギリシャテッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏の子として生まれた。
士官学校では、校長メフメド・エサド(ビュルカト、後の軍司令官)、オスマン・ヌーリ(コプタゲル、後の国会議員)らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト(ジェベソイ、1926年のイズミル事件で失脚)、メフメド・アーリフ(1926年のイズミル事件で絞首刑)、サーリフ、アフメド・フアト、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル、竹馬の友)、キャーズム・カラベキル、キャーズム・「キョプリュリュ」(オザルプ)らと親交を深めた。また、士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、流暢なドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできたと云う。また、この間に山田寅次郎の教えを受けたとも言われる。後にはローマ法王庁の特使(後のローマ法王ヨハネス23世)を半年も待たせて遂に会わず、その間に病気で入院した日本大使の見舞いに行くという「あてつけ」をみせている。
ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校 (陸士1317年入学組)に入学した。1902年2月10日に同校を卒業(歩兵科8席)し歩兵少尉に、1905年に参謀学校(陸軍大学)を修了(陸大57期、5席)し参謀大尉に任官した。
第一次大戦終結後、帝国は連合国に分割占領されるが、やがてアナトリアの各地で占領に反対する抵抗運動が起こった。イスタンブルにいたケマルはひそかに抵抗運動の指導者となるよう要請されて、それを決意したが、ちょうどこのとき、大戦の英雄としてのケマルの名声が、軍が反対運動に荷担するのを抑止することを期待したオスマン政府によって彼は第9軍(直ぐに第3軍に改称)監察官に任命され、東部アナトリアに派遣されることになった。
1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
1924年、ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。

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『世界の「いま」がスッキリわかる! 逆さ読み世界史』 歴史の謎研究会/著 青春出版社 2011年発行
「アジアとヨーロッパの架け橋」が見た世界の歴史 (一部抜粋しています)
かっては小アジアと呼ばれたアナトリア半島と、ボスポラス海峡を挟んでバルカン半島の東端からなる広大なトルコ共和国は、日本の約2倍の面積を持つ国だ。多くの世界遺産を有していることからも人気の観光地でもあり、さらに親日的な国としても知られている。
このトルコ共和国の首都はアナトリア半島のほぼ中央に位置するアンカラだが、文化や経済の中心を担っているのはトルコ最大の都市でもあるイスタンブールだ。
ボスポラス海峡に面したイスタンブールは、地図を見るとわかるように、まさにアジアとヨーロッパというふたつの大陸にまたがっている。この地理的な特徴から、イスタンブールはその長い歴史においてロー名帝国やオスマン・トルコ帝国といったさまざまな大国の首都となってきた。歴史の教科書では「コンスタンチノープル」という名前のほうがおなじみかもしれない。
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そもそも、トルコ共和国オスマン・トルコ帝国滅亡後に成立したのは、第一次世界大戦後の1923年のことだ。
アナトリア半島バルカン半島は、15世紀以降、オスマン帝国支配下にあった。最盛期には東欧から中東、アフリカまでを支配下に置いたオスマン帝国だったが、徐々に衰退をはじめ、第一次世界大戦に敗れると「ローザンヌ条約」によってトルコ共和国が誕生したのである。
このときに初代大統領となった人物がケマル・アタテュルクだった。ケマルは国の自立発展のために、イスラム国家だったトルコを西洋化、つまりヨーロッパに近づけるための政策を推し進めたのである。
彼が定めたのは「政教分離」の大原則だった。憲法からはイスラム教を国教とする条文を削除し、公の場での宗教活動を禁止。アラビア文字に替ってアルファベットを導入して、イスラム教では認めている一夫多妻も廃止している。まさに国中がひっくり返るような大改革である。
こうしてトルコの近代化の基礎は整い、1952年にはNATOに加盟するなどヨーロッパ諸国の一角に名を連ねることになった。
しかし、オスマン帝国の侵入以来、500年以上続いてきたコーランの教えに従うイスラムの思想や生活習慣をそう簡単に変えることは難しかった。
国民の大多数がイスラム教徒であるなかで、近隣のイスラム教国とは一線を画した政教分離の原則は手放しで受け入れられているわけではなく、トルコ国内にはイスラム原理主義の台頭を望む勢力があるのも事実なのだ。

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ケマル・アタテュルク Google 検索
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じじぃの「芥川賞受賞作品・円城塔・道化師の蝶のあらすじ!文藝春秋3月号」

円城塔(右) 画像
http://img.47news.jp/PN/201201/PN2012011701002404.-.-.CI0003.jpg
『道化師の蝶』円城塔著 (追加) 2012.3.11 MSN産経ニュース
■文学を愛する者への贈り物
 世の中には、わかりやすい作家も、むずかしい作家もいる。最新の芥川賞作家・円城塔(えんじょう・とう)の場合、後者のように喧伝(けんでん)されているものの、文学的教養のある読者にとっては、あまりにわかりやすい。
たとえば昨年2011年に発表された本書表題作の第1章は絶妙なツカミの1行「旅の間にしか読めない本があるとよい」で始まるが、同章はその全体が、友幸友幸なる多言語作家が人工言語無活用ラテン語で書き上げた小説『猫の下で読むに限る』の日本語訳。第2章以降では、前章にも登場した肥満体の出版業者A・A・エイブラムスが作家と凄絶(せいぜつ)なイタチごっこを演じ、やがてこの原稿を入手したエイブラムスは機内で亡くなるも、死後には同氏の私設記念館のスタッフが友幸友幸の捜索を続行する。
さてエイブラムスがたえず携えていたのは、人間の着想そのものを蝶(ちょう)のごとくつかまえることのできる捕虫網だ。しかも、同氏は時に道化師と呼ばれるが、じつはエイブラムスにしか見えない蝶の紋様こそは道化師風。タイトル「道化師の蝶」における格助詞「の」の用法自体がトリッキイなのである。はたして末尾の第5章では、当の「わたし」が変転をくりかえして超絶的などんでん返しを演じ、わたしたちは読者自身が捕虫網を携えたもうひとりの道化師であるのを実感する。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120311/bks12031109060006-n1.htm
道化師の蝶 合評
中島京子 最後は円城塔さんの「道化師の蝶」(「群像」七月号)です。
全部で5つのパートに分かれています。第1章で、語り手の「わたし」は、A・A・エイブラムスさんと飛行機の中で会います。銀色の虫取り網で着想を捕まえてはビジネスにしているエイブラムス氏に、「わたし」は旅行中に本が読めないという話をします。エイブラムス氏は「旅の間にしか読めない本があるとよい」という「わたし」の着想を捉え、『飛行機の中で読むに限る』など、一連の『〜で読むに限る』シリーズをヒットさせます。
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/books/topics/doukeshi/gappyou.html
円城塔「道化師の蝶」のあらすじ・感想【第146回(2012)芥川賞 NAVER まとめ
出身/北海道札幌市
妻/田辺青蛙(作家)
職業/作家 兼 ウェブエンジニア
http://matome.naver.jp/odai/2132684696138526701
文藝春秋』 3月号
芥川賞選評 「浮き上がってきた模様」 【選評者】小川洋子 (一部抜粋しています)
『道化師の蝶』に描かれた着想の1つ1つはどれも、”銀線細工の技法”により織られた網で捕獲したもののように、魅惑的だった。使用者のいない言語で書かれた小説。追跡者を死へ誘い込む死語。手芸の技術と並行して進む言葉の習得。こうした小片がつなぎ合わされ、1枚のパッチワークが縫い上がり、さてどんな模様が浮き出してきたかと楽しみに見つめてみれば、そこには模様など何も現れていなかった。それでも粘り強く、目を細めたり首を傾げたりして、猫だろうか蝶だろうかと考えているうち、パッチワークの裏側に何かが隠されているような気分になってくる。パッチワークに限らず刺繍でも編み物でも、手芸作品の裏側というのはぞっとする場合が多いのだがなあ、と思いながら、そろそろと縫い目を押し広げてゆく。
私にとって『道化師の蝶』を読むことは、このような体験だった。もし自分の使っている言葉が、世界中で自分一人にしか通じないとしても、私はやはり小説を書くだろうか。結局、私に見えてきた模様とは、この1つの重大な自問であった。
受賞者インタビュー 「小説製造機械になるのが夢です」 円城塔 (一部抜粋しています)
――ただ一方で、「蝶」というのは、その作者でなければ書けない固有性の象徴で、ロマンチックな存在にも思えます。
円城 まあ、僕の書いた小説は2、3行読んだだけで僕の書いたものとバレるらしいので(笑)、作者の固有性はやっぱりあるんだと思います。 ただ僕は、そういうところを抜けたいと思っているので、不本意でもあるんです。曲がりなりにも職業としてもの書きを名乗っている以上、三島由紀夫にしろ、村上春樹にしろ、「やってみろ」と言われればどんな文体でも書き分けられなければいけないんじゃないか、と思ってしまうんです。
――確かに音楽なら、ビートルズの曲を他のバンドがカバーするといったことはよくあるし、それが上手ければ褒められますが、小説だと贋作と言われてしまいます。
円城 SF的な発想かもしれませんが、あらゆるパターンの小説を書ける、「小説製造機械」があったらどうだろう、なんて考えることもあります。というか、自分がそれになりたい(笑)。もともと言語の根っこにある仕組みに興味があって、研究対象にしていたこともあって、それがストレートに発想に出てしまうんでしょうね。 実際、ハーレクインロマンスではコンピュータで筋書きを組んでいるわけですから、じゃあ、夏目漱石の小説を品詞レベルに分解してみて、コンピュータがもう一度組み立て直したら別の作品ができるんじゃないか、とか夢想しますね。
――「難解」「読者を置き去りにしている」という批判をどう受け止めますか。
円城 当然全然読めないという人もいるでしょうし、それには「すみません」と謝るしかありません。ストーリーや登場人物の心理に没入して読むのが小説のオーソドックスなあり方でしょう。ただあえて言わせてもらえれば、僕だけではなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。エンターテインメントとしては突き合うけれど、結局は嘘じゃん、となってしまう。文系・理系という区別がいいかどうかわかりませんが、世の中の半分ぐらいはそういう人たちがいるのではないでしょうか。彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います。少なくとも、僕にとっては小説を読んでいて一番快感なのはそこなんです。
第146回 芥川賞受賞作 『道化師の蝶』 【著者】円城塔 (一部抜粋しています)
旅の間にしか読めない本があるとよい。
旅の間にも読める本ではつまらない。なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。
       ・
思い出しつつまた同じことを繰り返す。繰り返している記憶はないが、実際に存在している紙の山は圧倒的な現実だ。過去か未來か知らないが、とにかくいつかに書かれたものだ、言葉をまた、最初から書く。その音から。字を覚え、数字を覚え、単語が分かれまとまりとなり、小麦粉が小さなだまとなり、レモン汁が牛乳をほろほろと固め、挽肉がねばり、タマネギがフライパンの上で溶けていく。
布の目を数え、毛糸の目を数え、レース糸の目を数え、頭の中の編み図を、刺し図を布の上に書いていく。
幾何学模様を位相幾何学模様を代数幾何学模様を書いていく。それが何かはわからないまま、模様自体に意味はなく、模様から意味が紡がれていく。糸で、針金で、鉛筆で、ボールペンで、万年筆で、銀筆で、アルファベットを縫い取っていく。裏と表で、同じアルファベットが並ぶように、裏と表で、鏡文字とはならないように。
そうしてそれを文字へと移す。つくりかけの状態を手芸本用に写真へ移す。自分がこうして何をしているのだか、だんだんよくわからなくなる。完成品を仕上げるためではなくて、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。途中で書きやめられた文字、文章、その総体が、わたしのつくり続けているものだから、わたしの仕事は終わらない。終わりようがありはしない。絨毯(じゅうたん)にはじまった刺繍が編み物へ繋がり、レースの縁取りがビーズを受け取り、ビーズは花の形を作り、真鍮(しんちゅう)の針金製の蝶を呼ぶ。なりゆきはどこまでも繋がっていく。形を絶えず変え続け、幼虫と蛹(さなぎ)と成虫とつがいと卵が一連に繋がった生き物のような形態をとり、自分の体へ卵を産んで育み育てる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
文藝春秋』 3月号 芥川賞受賞作品 円城塔著『道化師の蝶』を一通り読んだ。
読んでいて不思議な感じがした。随分昔読んだ、芥川賞受賞作品 吉田知子著『無明長夜』の作品と似た感じだった。
「ただあえて言わせてもらえれば、僕だけではなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。エンターテインメントとしては突き合うけれど、結局は嘘じゃん、となってしまう。文系・理系という区別がいいかどうかわかりませんが、世の中の半分ぐらいはそういう人たちがいるのではないでしょうか。彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います」
こういう小説もあっていいような気がする。