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2017-12-31 「童貞差別」の背景と「対人性愛の特権性」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 少し前に、「童貞」をいじる(揶揄・侮蔑の対象とした言論活動)ことはセクシュアルハラスメントにあたるのか?という問題がインターネット上で話題になりました。

 発端は、フリーライターはあちゅう(伊藤春香)氏が過去に自身が受けたセクハラ・パワハラ被害を告発したことでした。この告発には大きな支持が集まったものの、kyoumoe氏による伊藤氏の過去の「童貞いじり」を含むセクシズム的な言説に苦言を呈する記事が書かれ、これに対する伊藤氏の反応が「セクシズム言説の自己正当化」と受け取られたことで、一転して伊藤氏に対して批判が集中しました。伊藤氏は「童貞いじり」について一端謝罪する記事を書きましたが、「本意ではなかった」として後に撤回しています。一連の流れはHagex氏によってこちらの記事にまとめられています。

 「セクハラやパワハラ被害を訴えた人が別の場面で差別的発言やハラスメントをしていた場合、ハラスメント被害を支援する立場からはどのように対応・行動すればいいのか?」という問題は、それ自体難しいジレンマを孕んでいると思いますが、今回はこの問題には触れません。今回考えたいのは、「童貞いじり」というセクシズムの背景についてです。
 ハラスメントに相当するかはさておき、「童貞いじり」が性差別的である、ということについては、ブログ記事やはてなブックマークのコメントなどを見る限り、この話題に関心を持っている多くの人が共有しているように思われます。そんな中でも、「『童貞いじり』はなぜ悪いのか」を論じて多くの人の注目と支持を集めたのが渡辺由佳里氏の記事でした。

はあちゅうさんがBuzzFeedでセクハラとパワハラを告白された #MeToo は、これまで黙っていた日本の女性たちに勇気を与える勇敢な行動だと思う。
私も大学に入学した18歳の頃から数多くの性暴力とセクハラを体験してきたので、他人事とは思えず、フェイスブックなどで支持してきた。

だが、その後、はあちゅうさんの「童貞いじり(ご本人自身の表現)」に関する過去のツイートを見る機会があり、これは彼女の勇気ある #MeToo とは別に問題として指摘しておくべきではないかと感じた。
(中略)
この異性間のハラスメントは、はあちゅうさんだけでなく、世間一般にまだまだ誤解があると思ったので、「なぜ童貞を笑いのネタにしてはならないのか」を説明してみたい。

 渡辺氏の議論が広く支持された理由の一つは、「『童貞差別』が性差別の問題として正面切って論じられず、軽んじられてきた」という意識が、少なからぬ当事者の間にあったことでしょう。「男性に対するセクハラ」の社会的認知度は、この数年で大きく変わりました。

 しかしながら、「童貞いじりはなぜ悪なのか」を論ずる渡辺氏の理路には論理の飛躍があり、この問題を扱うにあたってピントが外れている部分があるように感じられました。今回は、渡辺氏の記事の理路を批判的に検討しながら、「『童貞差別』とはどのような問題なのか?」を改めて考えてみたいと思います。



 渡辺氏の記事の理路においてまず目を引くのは、「童貞いじり」を「レイプカルチャー」「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」と結び付けて論じている点です。この点に説得力を感じた、という感想も多かったように思います。

多くの女性と性交渉をすればするほど「男らしい」。つまり、男としての価値が上がるという考え方も昔から存在する。
それが、男性の「初体験の年齢自慢」と「寝た女の数自慢」につながる。
(中略)
これは「セックスしたことのない男は一人前ではない。ふつうの男ではない」という見下げた視線が一般に存在するためだろう。特に、性体験が多い男性からの優越感が混じった蔑みの視線がある。
その視点なしには、「童貞いじり」は笑いのネタにはならない。
アメリカの若い男性は、以下の3つのタイプに分けられる。

(1) 女性を自分が利用する道具や物としか考えない男性
(2) 女性の権利を強く信じるフェミニストの男性
(3) そのどちらでもない中間層

(1)と(2)は少数で、大多数は(3)の中間層だ。

だが、(1)の男尊女卑のマッチョなアスリートは、崇拝されやすく、強い影響力を持つ。だから、(3)の集団は、(1)につい引きこまれてしまう。
実際に男性の「童貞」を笑うことと、人格があるひとりの女性を「セックスの対象」というモノにしてしまい、「●人と寝た」という数のひとつにしてしまう行為は程度が異なるように感じるかもしれない。しかし、根底にある認識の構造は同じようなものなのだ。

 確かに、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」において、性経験の乏しい人が蔑まれるというのはありそうなことだとは思います。ですが、「童貞いじり」は「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」の中でしか生まれない、あるいは、そうした文化と必然的に繋がってしまうものだ、と言えるでしょうか?
 この繋がりについての渡辺氏の記述はやや曖昧ですが、引用した部分にもあるように「童貞いじり」の存在そのものが「性経験が多いほど価値が高い」という「男らしさ」の価値観なしには説明できないという前提が、これらを結び付ける論拠となっているように読めます。しかしながら、「童貞いじり」「童貞差別」の存在は、そのような価値観を想定しなくても容易に説明できます。

 「性経験に価値がある」という考え方は、必ずしも「性経験が多いほど価値が高い」「性的対象の相手は道具扱いすべし」といった発想と結び付いている必要はありません。こうした考え方よりもはるかに多数派である「女性をモノ扱い・道具扱いしたりせず、愛情と尊敬をもって接するべき」という思想と、「性経験に価値がある」という価値観とは、何の問題もなく両立します。「両立する」というよりむしろ、「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、「性的関係」が大きな価値をもつことを暗黙の前提にしている、と言った方が良いかもしれません。
 「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という考え方(ごく一般的な恋愛観・パートナー観と言っていいでしょう)は、「愛情を伴った性的関係が人格的陶冶に重要である」という発想としばしば結び付きます。ここから「愛情を伴った性経験のない人は人格的に劣っている」という偏見までの距離はごくわずかです。

 「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、単に多数派であるというだけでなく、私たちの社会において公的な制度(例えば婚姻)と結び付いてある種の特権的な地位を占めている、性に関する規範の体系です。例えば「愛情を伴った相手とのセックスは、自慰行為などの人相手でない性のあり方に比べて優位である」という価値観は、ほとんど自明のことであるかのように見做されてきましたし、今でも見做されています。
 そのような中で、「愛情を伴った相手とのセックス」から逸脱するような性のあり方は、繰り返し「対人セックスの優位性」を支える規範の内側へと回収されるように語られてきました。曰く、「社会病理」。曰く、「本当の恋愛を知らない不幸な人たち」。曰く、「本物の恋愛・セックスの代替物」。「童貞いじり」の多くも、そうした規範的な語りの一部であると捉えることができます。

 こうした背景に基づく「童貞差別」が、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」との関連が薄いことはお分かりいただけるかと思います。「あの人は人格的に問題があるから童貞(あるいは愛情を伴った恋愛関係に乏しい)に違いない」と言い放つ人たちの多くは、普段からパートナーを道具扱いしているわけでも、「性経験が多いほど良い」と信じているわけでもないでしょう。このような差別の背後にある規範は、渡辺氏言うところの「マッチョな」規範よりももっと巨大で、ずっと大きな影響力を持っています。

 もちろん、「性的関係に大きな価値を置く」価値観それ自体が悪いというわけではありませんし、それが性経験のない人・乏しい人に対する差別的言説に即結び付くというわけでもありません。ただ、「女性をモノ扱い・道具扱い『しない』こと」、あるいは「性経験が多いほど価値が高いという価値観『ではない』こと」が、「童貞いじり」「童貞差別」と対極にあるわけでもなく、また、歯止めになりもしない、ということなんです。

 「童貞いじり」「童貞差別」には、渡辺氏の述べるような「レイプカルチャー」に端を発するものも中にはあるだろうとは思いますが、全部がそうではなく、「童貞いじり」が「レイプカルチャー」の一部であるというような議論は根拠に乏しいように思います。これは、なにも「童貞差別」を擁護したいわけではありません。「レイプカルチャー」という「悪者」に全てを押し付けることは、ごく一般的で広範な恋愛観・性愛を背景にもつ差別から目を背けることなのではないか、と問いたいだけです。


 渡辺氏の記事については、もう少し触れておきたいこともあるのですが、それについては別の機会にしたいと思います。
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2016-10-29 『倒錯の偶像』と思想家がもたらす女性蔑視 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 墨東公安委員会氏の記事に対して言及した前回の記事に対して、墨東公安委員会氏から次のようなお返事をいただきました。
 さて、烏蛇さんのご指摘は、小生が「『萌え』文化の本質はミソジニーである」という主張をしており、それは飛躍である、ということかと思います。しかし正直なところ、これは小生としてはいささか本意ではないのであり、弁解させていただければと思います。

 先の記事に寄せられた数多くの言葉を読みながら、小生が喉元まで出かかっていて、でも「それをいっちゃあオシマイよ」と抑えていた言葉があります。それは

「『倒錯の偶像』読んでから来い」

 です(苦笑)。
(中略) 小生が「萌え」表象の日本社会への浸透に、社会におけるミソジニーの瀰漫(これの一展開が「日本会議」の成長と影響力の増大です)を読み取ったのは、ダイクストラ『倒錯の偶像』が19世紀西洋を舞台として描いた構図を、21世紀の日本にも応用できるのでは、と考えたことが最大の要因なのです。残念ながら烏蛇さんは、小生のその論点をあっさりと閑却され、「墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)」とされています。しかし「フェミ嫌い」や「権威主義」が目に付くのはあくまでも補足であって、一番の理論的根拠はダイクストラに求められているのです。

 これは至極尤もな反論ですので、私の方でもブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』を入手して通読しました。その上での私の結論を先に言うと、「墨東公安委員会氏の記事のような結論が『倒錯の偶像』の記述から導き出せるとは到底思えない」というものでした。なぜそう思ったのかをこれから述べていきますが、その前に、このブログの読者の多くが未読であろう『倒錯の偶像』の内容と主題について、まず説明しておく必要があるでしょう。(私の説明が妥当であるかは『倒錯の偶像』を実際に読んだ上で判断していただくしかないのですが、その点はご容赦ください。)



 ブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』のAmazonのページを参照しますと、紹介文は次のようになっています。

 一世紀前の上流階級の人々が抱いた、危険な幻想であふれんばかりの書。映画やコマーシャルの世界に氾濫する女性イメージの起源を世紀末絵画のうちに読み解き、三百枚を越す数多くの珍妙な図版を収録する。

 しかしながら、これは(間違いではないものの)やや偏った説明です。確かに本書には多くの19世紀〜20世紀初頭欧米における絵画の図版が収録されており、それらの分析にページが費やされているのですが、当時の文学作品や演劇についても数多く取り上げられており、視覚的な分析のみの本ではありません。それに何より、当時の知識人(思想家・科学者・医師など)たちの著作の社会への影響について詳細に取り上げられており、むしろこちらが主題と言ってもいいくらいです。
 著者の目的は19世紀〜20世紀初頭の絵画作品の珍妙さをあげつらうことではなく、それらの作品が制作された思想的背景を明らかにすること、それらの女性蔑視的な思想の源流が誰のどのようなものであったかを論じることであると私は考えています。そこで、本書で取り上げられている「思想」の流れをごく簡単に追ってみましょう。

 ヨーロッパにおいて、19世紀における女性の地位は17〜18世紀に比べて大きく後退した、と著者ダイクストラは言います。その入り口となったのは、資本主義経済の発展に伴って「商売人が道徳的な危機に晒される」(つまり、商売の世界に関わり続けると道徳的に堕落する)という議論でした。この「問題」に対する処方箋として幅を利かせ始めたのが「商売人の『魂の保護者』として『家庭』が必要であり、そのために女性は夫に献身するべきだ」という思想だった、というのです。この思想は19世紀半ばにジュール・ミシュレオーギュスト・コントらによって盛んに唱えられ、「道徳的堕落」という「不安」を煽ることによって(主に上流階級に)浸透していきました。この思想は次第にエスカレートし、「病弱な女性に道徳的価値がある」という風潮にまで至ります。
 19世紀後半には、これらの風潮に反発する形で女権拡張運動が高まっていきますが、それらを押さえ込むような思想も盛んに唱えられるようになります。特に、「科学的装いを持った、性欲を極度に危険視する」思想が目立つようになりました。すなわち、女性の自慰行為を破滅的なものと捉え、女性から男性への性的誘惑や要求を忌むべきものとするものです。これらは女性を「より自然的で原始的」と見做す発想へと繋がっていきました。性的な快楽に耽溺することは原始的・動物的であり、女性はそのような「誤った」方向へ流されやすい(ので理性的な男性が禁欲と母性へと導かなければならない)というわけですね。
 さらに、チャールズ・ダーウィン進化論から派生した社会ダーウィニズムが、女性蔑視に拍車をかけることになります。強い影響力を持った社会ダーウィニストの一人であるハーバート・スペンサーは、「性差の拡大は進化論的成長の証」であり「女性の成長は原始的な段階で留まっている」のだと主張し、「女性は原始的・動物的」とする思想にさらなる科学的装いの権威付けを与えました。

 ダイクストラは、こうした女性蔑視的思想が当時の若者たちにどのような影響を及ぼしたのかについても、日記・エッセイなどの資料から詳細に分析しています。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米の若年男性は、女性蔑視的な「科学的」言説と現実の女性との大きなギャップ、それに長く続いた性欲危険視の思想による性教育の欠如に苦しめられ、それがどのような絵画・文学作品の傾向に繋がったか、といった調子です。
 そうした作品解釈の部分には、ちょっと無理があるのではと思えるようなものもいくつかあります。しかし、女性蔑視的な思想の源流と蔓延の流れを把握するには十分すぎるほどであり、また、科学的な装いの差別的思想の危険性を改めて感じさせてくれる点でも意義深い本だと私は思いました。



 さて、墨東公安委員会氏の記事に戻りましょう。大元の記事では、『倒錯の偶像』の内容が次のように紹介されています。

複雑化・高度化する社会で、安楽を求めた男どもがミソジニーに走り、さまざまな(擬似)科学を総動員してそれを正当化しようと躍起になっていた、という歴史的な先例が存在しているのです。であれば、ミソジニーを軸とした運動が何となく社会に受け入れられ、そこではおよそ学問的には誤った「歴史修正主義」が横行しているというのも、同様の事例であると考えられます。
 その先例とは何か――といえば、当ブログを長年読んでいただいている方でしたらまたかと苦笑されそうですが、それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。19世紀西欧のミソジニーについては、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、主として絵画に描かれた女性像を題材として、詳細に論じています。

 この説明には、違和感の感じられる点があります。それは、女性蔑視を煽る思想を流布し、権威付けしてきた思想家・知識人たちの存在が曖昧にされていることです。ダイクストラの議論においては、「誰が、どのように女性蔑視に繋がる理論を構築してきたのか」こそが中心的な論点であるにも関わらずです。その結果、「複雑化・高度化する社会で、男どもがミソジニーに走」ったのはなぜなのか、がこの紹介からでは分からなくなっています。
 さらに、墨東公安委員会氏は大元の記事の反響に応える解説記事中で、次のように述べています。

 つまり、単に「オタク」な人が反動だとかなんだとかではなく(前記事でも「日本会議=オタク、ではない」と述べました)、今世紀の日本社会でミソジニーの滲出する状況があり、それがある面では日本会議の影響力の巨大化を、またある面では「オタク」的表象の瀰漫をもたらしたのではないかと、ダイクストラ『倒錯の偶像』を補助線として考えたというわけです。言い換えれば、「オタク」文化の「萌え」美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもなく、本来マイナーであったそれが、社会に広く受け入れられている状況にミソジニーの反映が見られるのではないか、ということです。

 『倒錯の偶像』でなぜ19世紀当時の絵画や文学作品が数多く取り上げられ分析されたかといえば、「それらの内容と、当時の女性をめぐる社会的状況との関係を考察するため」でした。ダイクストラが絵画や文学作品の表現内容のみを見て19世紀当時の社会状況を論じたわけではないことは既に述べました。当時の日記やエッセイなどの資料とも突き合わせて、作品の内容が当時どのように受容されていたか、どのような背景で描かれたものかを分析しているわけです。
 「『萌え』美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもない」のであれば、それはダイクストラの議論の文脈から大きく外れていることになります。墨東公安委員会氏は「『萌え美少女表象』の内容が社会状況をどのような形で反映しているか」について何も語っていません。

 このように墨東公安委員会氏の議論は、重要な点でダイクストラの議論と決定的にずれています。その結果、氏の議論の展開は、ダイクストラとは正反対とも言えるところに着地してしまっているように思えます。

「オタク」の一般化・大衆化は、本来マイノリティであったオタクが自己の趣味嗜好を正統化するために行っていた理論武装を、放擲させるようになっていったと考えられます。本来子供のおもちゃで「下らない」存在だったはずのマンガやアニメ、ゲームにあえて耽溺するのは、それがこんなにも面白いからだ――と主張する必要があり、さてこそそこでテクストを面白く読みこなす技能が求められたのです。オタクは読み巧者であり、だから面白かったのですね。
同じ淵源に端を発している可能性のある、日本会議的な反動と、「萌え」表象の浸透拡散については、ミソジニーの他に、体系化を軽んじて、目前の自分にとって好ましい衝動の断片をかき集めて、オカルト的に世界を構築する傾向にあるのではないか、そう小生は考えています。その背景には、冷戦後の「大きな物語」の喪失という毎度ながらの話はやはり無視できないですし、教養という一身を超えた普遍的な存在への敬意が失われていることもあるのでしょう。

 ダイクストラの議論に従えば、「自己の趣味嗜好の正統化(正当化)のための理論武装」は、まさしく19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家・知識人たちが行ってきた女性蔑視的思想の強化・権威化の過程そのものです。「自分達が普段触れている女性表象(絵画や文学)」を自明とした(根拠になりえないものを間接的に根拠とする)論理構築こそ、女性蔑視的思想とそれを背景とした表現との間の相互に強化しあう関係を生み出したものでした。
 「教養」もまた、女性蔑視的な思想の正当化/正統化におおいに貢献しました。科学的理論という装いを与えられることで、女性蔑視的な思想は身につけておくべき「教養」として権威付けられ、当時の女権拡張運動にとっての大きな壁となったからです。

 「オタクはかつて読み巧者であった」という言説がどこまで妥当であるか、「オタク」の歴史にあまり明るくない私には判断できませんが、ダイクストラを踏まえて、少なくともこれだけは言えるでしょう。「読み巧者」であることや「教養主義」は、差別的思想を跳ね返すよりも、むしろそれを強化するものとして利用され得ます。もちろん、「読み巧者」であることそれ自体が差別的であるということには全くなりませんが、「自己の趣味嗜好の正当化/正統化のために社会を語る」ような人たちは、社会を大きく歪めて語ってしまう可能性が高いと思われます。



 いずれにせよ、墨東公安委員会氏の「『萌え美少女表象』が社会に広く受け入れられていること」が「社会に蔓延するミソジニーを背景としたもの」であるという主張は、『倒錯の偶像』におけるダイクストラの議論からは全くかけ離れており、ダイクストラを論拠と見做すことはできません。

 墨東公安委員会氏の理路の欠点の一つは、「社会に蔓延するミソジニー」という言葉で具体的に何を問題にしようとしているのかはっきりしないこと、にあると私は思います。ダイクストラの議論では、「当時の女性蔑視思想の何が問題であったのか?」という問いには「女性蔑視思想の権威化による女性への抑圧」「女性蔑視思想と現実の女性とのギャップに苦しむ若年男性」と明確に答えられます。しかし、墨東公安委員会氏はその点が曖昧であり、「ミソジニーの具体的に何が悪いのか」「『萌え美少女表象』が広く社会に受け入れられているとなぜ悪いのか」と考えると、何が問題になっているのかが今一つよく分かりません。そして、何を主要な問題として具体的に設定するかによって、議論の流れ自体が大きく変わってくるはずです。
 19世紀ヨーロッパの女性蔑視的思想家たちの理路の欠陥の一つも、この点にあったと言えるかもしれません。コントやミシュレの議論における「道徳的堕落」とは具体的に何がどのように問題だったのか。「性欲や自慰行為の危険性」とは一体何だったのか。「進化論的成長」が阻まれるとどのような問題があるのか。どれも、一歩踏み込んで考えると「何が悪いのか」が曖昧であり、ただ何となく「悪そうな気がする」ようなものばかりです。

 墨東公安委員会氏に限らず、「オタク」「萌え」などに言及する議論には「何が主要な問題なのか」が曖昧にされたまま議論されているものが少なくないように思います。「何を主要な問題として論じているのか」を、今一度立ち止まって考えてみましょう。19世紀の「女性蔑視思想を振り撒いた思想家・知識人」たちと同じ轍を踏まないために。
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2016-07-17 「萌え」文化はミソジニーの発露なのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略)  まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。

 これとよく似た問題が、BLボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
 また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。

 女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。

 墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。



 ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。

 この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
 この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。

 この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。

 墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。

 女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。

crowserpentcrowserpent 2016/07/18 23:50 >id:lisagasu氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/lisagasu
> 腐女子かつ萌え文化に関わるオタク女の一人だけど、自分の少女好きと大人の女、
> 母的なものへの強烈な嫌悪は無関係じゃないと思っている
> 女性オタクの存在は萌え文化ミソジニー説を否定する根拠としては弱いと思う

 うーん、「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではないんですよ。そもそも「萌え文化の中に(も)ミソジニーが含まれる」から「萌え文化の本質はミソジニーだ」に繋げるには論理の飛躍があり、その飛躍を埋めるには(本田透氏のように)「現実の恋愛・性愛の代替」という前提を置く必要があるが、その理屈は「女性オタクの存在」を無視した形で構成されている、という話なんです。
 オタク女性の中にも強いミソジニーを持つ人は居るでしょうし、それはさほど不思議なことでもないと思います。オタク個々人をみたとき、「萌え文化」への関わりとミソジニーとが強く関連している人も居るでしょう。しかし、それを以って「萌え文化」全般が根源的にミソジニーに根差しているとは言えない、というのがこの記事で述べていることです。


>id:rag_en氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/rag_en
> 『観測し得る「Xの否定」をして、観測し得ない内心について「Xへの憎悪」と
> 定義するのは、端的に言って「エスパー」』だよ、と。
> そもそも、表現者や消費者の「内心」を「問題」扱いしてる時点でダメ過ぎる。

 仰るとおり、「一部オタクのミソジニー」が問題だとされているとき、本来的に意味のある問題設定は「女性の権利に対する攻撃や否定の是非」であって、憎悪や恐怖といった「内心」ではないですね。問題が「ミソジニー」という枠に嵌め込まれることで論点がずれている面は確かにあると思います。この記事でも「ミソジニー」と「女性差別」などをきちんと峻別せずに書いてしまっているところは反省点です。

lisagasulisagasu 2016/07/20 10:57 ブコメに返信ありがとうございます。
>「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではない
というところは理解しました。というか烏蛇さんが「女性(のオタク)はミソジニーと無縁」のような認識でいるとは思いにくかったので、私の読み違いならよかったです。
ただ、烏蛇さんのtwitterも読ませてただくと、最初にあげている「墨東公安委員会」さんによる萌え文化批判の対象は、男性オタクが形成してきたそれなんですよね。そして、仰るとおり本田氏は女性オタクの存在をほぼ無視して持論を展開していたので、本田論にそのまま乗っかれば「男性オタクにとって萌え文化の本質ミソジニー説」は成立する。
だとするとやっぱり、そこで「何より」と持ち出しても、女性オタクの存在によって否定できるものは無いように思うんですが…まだ読み違いしてるのかな?

余談ですがブコメを書いた後で「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、自分が女だからだと思いました。
もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。
オタク文化、萌え文化に関わる人、愛する人には男性も女性もいますし、ミソジニーはどちらにもありえますが、それを同質のものとして語れるのか、また考えたいと思います。

crowserpentcrowserpent 2016/07/21 08:35 >lisagasu氏
 あー、なるほど。「萌え文化」を完全に「男性の萌え文化」と「女性の萌え文化」に分断できるという立場をとれば、「女性萌えオタクの存在」は矛盾にはならない、と言えるわけですね。私が普段触れてるジャンルのせいか、こういう立場の存在が頭になかったんですが、確かにこのように主張する人は割と居そうです。

> 「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、
> 自分が女だからだと思いました。
> もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。

 rag_en氏へのレスを書いてるときもちょっと思いましたが、男性のミソジニーは即「女性差別・女性の権利への侵害」と結び付けられるのに対し、女性のミソジニーについてはそうではない、という非対称はあるような気がします。
 「男性と女性のミソジニーは同質なものか」という問いは、問いをどう解釈するかによって答えも変わってくるような問いだと思いますが、個人的には「本質的に同質か異質か」はさておき、「社会的な語りによって『異質なもの』と見做されている」という状況の方が気になっています。

crowserpentcrowserpent 2016/07/22 15:43 >id:muryan_tap3氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/muryan_tap3
> 混ぜ返すようなことだけど「恋愛」や「結婚」はミソジニーを抱えてない証には
> ならない難しさ
> 女たらしのミソジニストなんて古今東西いくらでもいるだろう

 ちょっと前のコメントと繰り返しになりますが、「恋愛や結婚がミソジニーを抱えてない証にはならない」のはもちろん当然ですし、この記事では「恋愛や結婚している萌えオタクがいるからミソジニーではない」という話をしているのではありません。「萌えオタクの人たちの中に恋愛・結婚している人も居る」というのは「萌え文化は現実の恋愛・性愛の代替物である」という主張に対しての反論の一つとして出しています。


>id:hhasegawa氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/hhasegawa
> この批評だと、@bokukouiさんの元記事がダイクストラの図像研究から出発し、
> ヴィクトリア朝美術で描かれる女性類型と「萌え」表象のそれが共通して
> 依拠する構造を示唆していることが無視されているのでは。

 無視したというか、元々の類推の根拠があやふやではっきりしない議論に思えたので、その部分には敢えて突っ込みませんでした。ダイクストラの議論そのものについても、要点として墨公委氏がまとめている

> 実際には不可能なガイニサイド(女性皆殺し)の妄想の代わりに、
> 第一次世界大戦に至ってジェノサイド(民族皆殺し)への道を切り開いた

などは第一次世界大戦に対する歴史的背景の考察としてやや首を傾げる、という印象だったというのもあります。
 ただ、この記事は件のダイクストラの著書をちゃんと読まずに書いているので、その点は私の不備ではあります。

muryan_tap3muryan_tap3 2016/07/23 19:36 今回のお話の筋ではないコメントで、丁寧に解説いただいて恐縮です。
現実の恋愛性愛の代替物であるという事への反論の一つというのを自分が理解していた事が答え合わせできて良かったです。
ミソジニーをめぐる話題が出た時、テンプレなミソジニストを揶揄するコメントに、恋愛結婚していれば自分は"安全圏"にいるとばかりに勘違いして上から目線のコメントをする人がいるがそんなことないんだぞ、という皮肉のつもりでした。
今回のお話には余計な一言でした。
それにしてもどんな物語文化もミソジニーの片鱗がまったく見つからないものって、あるのでしょうかと考えてしまいます。