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2016-10-29 『倒錯の偶像』と思想家がもたらす女性蔑視 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 墨東公安委員会氏の記事に対して言及した前回の記事に対して、墨東公安委員会氏から次のようなお返事をいただきました。
 さて、烏蛇さんのご指摘は、小生が「『萌え』文化の本質はミソジニーである」という主張をしており、それは飛躍である、ということかと思います。しかし正直なところ、これは小生としてはいささか本意ではないのであり、弁解させていただければと思います。

 先の記事に寄せられた数多くの言葉を読みながら、小生が喉元まで出かかっていて、でも「それをいっちゃあオシマイよ」と抑えていた言葉があります。それは

「『倒錯の偶像』読んでから来い」

 です(苦笑)。
(中略) 小生が「萌え」表象の日本社会への浸透に、社会におけるミソジニーの瀰漫(これの一展開が「日本会議」の成長と影響力の増大です)を読み取ったのは、ダイクストラ『倒錯の偶像』が19世紀西洋を舞台として描いた構図を、21世紀の日本にも応用できるのでは、と考えたことが最大の要因なのです。残念ながら烏蛇さんは、小生のその論点をあっさりと閑却され、「墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)」とされています。しかし「フェミ嫌い」や「権威主義」が目に付くのはあくまでも補足であって、一番の理論的根拠はダイクストラに求められているのです。

 これは至極尤もな反論ですので、私の方でもブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』を入手して通読しました。その上での私の結論を先に言うと、「墨東公安委員会氏の記事のような結論が『倒錯の偶像』の記述から導き出せるとは到底思えない」というものでした。なぜそう思ったのかをこれから述べていきますが、その前に、このブログの読者の多くが未読であろう『倒錯の偶像』の内容と主題について、まず説明しておく必要があるでしょう。(私の説明が妥当であるかは『倒錯の偶像』を実際に読んだ上で判断していただくしかないのですが、その点はご容赦ください。)



 ブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』のAmazonのページを参照しますと、紹介文は次のようになっています。

 一世紀前の上流階級の人々が抱いた、危険な幻想であふれんばかりの書。映画やコマーシャルの世界に氾濫する女性イメージの起源を世紀末絵画のうちに読み解き、三百枚を越す数多くの珍妙な図版を収録する。

 しかしながら、これは(間違いではないものの)やや偏った説明です。確かに本書には多くの19世紀〜20世紀初頭欧米における絵画の図版が収録されており、それらの分析にページが費やされているのですが、当時の文学作品や演劇についても数多く取り上げられており、視覚的な分析のみの本ではありません。それに何より、当時の知識人(思想家・科学者・医師など)たちの著作の社会への影響について詳細に取り上げられており、むしろこちらが主題と言ってもいいくらいです。
 著者の目的は19世紀〜20世紀初頭の絵画作品の珍妙さをあげつらうことではなく、それらの作品が制作された思想的背景を明らかにすること、それらの女性蔑視的な思想の源流が誰のどのようなものであったかを論じることであると私は考えています。そこで、本書で取り上げられている「思想」の流れをごく簡単に追ってみましょう。

 ヨーロッパにおいて、19世紀における女性の地位は17〜18世紀に比べて大きく後退した、と著者ダイクストラは言います。その入り口となったのは、資本主義経済の発展に伴って「商売人が道徳的な危機に晒される」(つまり、商売の世界に関わり続けると道徳的に堕落する)という議論でした。この「問題」に対する処方箋として幅を利かせ始めたのが「商売人の『魂の保護者』として『家庭』が必要であり、そのために女性は夫に献身するべきだ」という思想だった、というのです。この思想は19世紀半ばにジュール・ミシュレオーギュスト・コントらによって盛んに唱えられ、「道徳的堕落」という「不安」を煽ることによって(主に上流階級に)浸透していきました。この思想は次第にエスカレートし、「病弱な女性に道徳的価値がある」という風潮にまで至ります。
 19世紀後半には、これらの風潮に反発する形で女権拡張運動が高まっていきますが、それらを押さえ込むような思想も盛んに唱えられるようになります。特に、「科学的装いを持った、性欲を極度に危険視する」思想が目立つようになりました。すなわち、女性の自慰行為を破滅的なものと捉え、女性から男性への性的誘惑や要求を忌むべきものとするものです。これらは女性を「より自然的で原始的」と見做す発想へと繋がっていきました。性的な快楽に耽溺することは原始的・動物的であり、女性はそのような「誤った」方向へ流されやすい(ので理性的な男性が禁欲と母性へと導かなければならない)というわけですね。
 さらに、チャールズ・ダーウィン進化論から派生した社会ダーウィニズムが、女性蔑視に拍車をかけることになります。強い影響力を持った社会ダーウィニストの一人であるハーバート・スペンサーは、「性差の拡大は進化論的成長の証」であり「女性の成長は原始的な段階で留まっている」のだと主張し、「女性は原始的・動物的」とする思想にさらなる科学的装いの権威付けを与えました。

 ダイクストラは、こうした女性蔑視的思想が当時の若者たちにどのような影響を及ぼしたのかについても、日記・エッセイなどの資料から詳細に分析しています。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米の若年男性は、女性蔑視的な「科学的」言説と現実の女性との大きなギャップ、それに長く続いた性欲危険視の思想による性教育の欠如に苦しめられ、それがどのような絵画・文学作品の傾向に繋がったか、といった調子です。
 そうした作品解釈の部分には、ちょっと無理があるのではと思えるようなものもいくつかあります。しかし、女性蔑視的な思想の源流と蔓延の流れを把握するには十分すぎるほどであり、また、科学的な装いの差別的思想の危険性を改めて感じさせてくれる点でも意義深い本だと私は思いました。



 さて、墨東公安委員会氏の記事に戻りましょう。大元の記事では、『倒錯の偶像』の内容が次のように紹介されています。

複雑化・高度化する社会で、安楽を求めた男どもがミソジニーに走り、さまざまな(擬似)科学を総動員してそれを正当化しようと躍起になっていた、という歴史的な先例が存在しているのです。であれば、ミソジニーを軸とした運動が何となく社会に受け入れられ、そこではおよそ学問的には誤った「歴史修正主義」が横行しているというのも、同様の事例であると考えられます。
 その先例とは何か――といえば、当ブログを長年読んでいただいている方でしたらまたかと苦笑されそうですが、それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。19世紀西欧のミソジニーについては、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、主として絵画に描かれた女性像を題材として、詳細に論じています。

 この説明には、違和感の感じられる点があります。それは、女性蔑視を煽る思想を流布し、権威付けしてきた思想家・知識人たちの存在が曖昧にされていることです。ダイクストラの議論においては、「誰が、どのように女性蔑視に繋がる理論を構築してきたのか」こそが中心的な論点であるにも関わらずです。その結果、「複雑化・高度化する社会で、男どもがミソジニーに走」ったのはなぜなのか、がこの紹介からでは分からなくなっています。
 さらに、墨東公安委員会氏は大元の記事の反響に応える解説記事中で、次のように述べています。

 つまり、単に「オタク」な人が反動だとかなんだとかではなく(前記事でも「日本会議=オタク、ではない」と述べました)、今世紀の日本社会でミソジニーの滲出する状況があり、それがある面では日本会議の影響力の巨大化を、またある面では「オタク」的表象の瀰漫をもたらしたのではないかと、ダイクストラ『倒錯の偶像』を補助線として考えたというわけです。言い換えれば、「オタク」文化の「萌え」美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもなく、本来マイナーであったそれが、社会に広く受け入れられている状況にミソジニーの反映が見られるのではないか、ということです。

 『倒錯の偶像』でなぜ19世紀当時の絵画や文学作品が数多く取り上げられ分析されたかといえば、「それらの内容と、当時の女性をめぐる社会的状況との関係を考察するため」でした。ダイクストラが絵画や文学作品の表現内容のみを見て19世紀当時の社会状況を論じたわけではないことは既に述べました。当時の日記やエッセイなどの資料とも突き合わせて、作品の内容が当時どのように受容されていたか、どのような背景で描かれたものかを分析しているわけです。
 「『萌え』美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもない」のであれば、それはダイクストラの議論の文脈から大きく外れていることになります。墨東公安委員会氏は「『萌え美少女表象』の内容が社会状況をどのような形で反映しているか」について何も語っていません。

 このように墨東公安委員会氏の議論は、重要な点でダイクストラの議論と決定的にずれています。その結果、氏の議論の展開は、ダイクストラとは正反対とも言えるところに着地してしまっているように思えます。

「オタク」の一般化・大衆化は、本来マイノリティであったオタクが自己の趣味嗜好を正統化するために行っていた理論武装を、放擲させるようになっていったと考えられます。本来子供のおもちゃで「下らない」存在だったはずのマンガやアニメ、ゲームにあえて耽溺するのは、それがこんなにも面白いからだ――と主張する必要があり、さてこそそこでテクストを面白く読みこなす技能が求められたのです。オタクは読み巧者であり、だから面白かったのですね。
同じ淵源に端を発している可能性のある、日本会議的な反動と、「萌え」表象の浸透拡散については、ミソジニーの他に、体系化を軽んじて、目前の自分にとって好ましい衝動の断片をかき集めて、オカルト的に世界を構築する傾向にあるのではないか、そう小生は考えています。その背景には、冷戦後の「大きな物語」の喪失という毎度ながらの話はやはり無視できないですし、教養という一身を超えた普遍的な存在への敬意が失われていることもあるのでしょう。

 ダイクストラの議論に従えば、「自己の趣味嗜好の正統化(正当化)のための理論武装」は、まさしく19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家・知識人たちが行ってきた女性蔑視的思想の強化・権威化の過程そのものです。「自分達が普段触れている女性表象(絵画や文学)」を自明とした(根拠になりえないものを間接的に根拠とする)論理構築こそ、女性蔑視的思想とそれを背景とした表現との間の相互に強化しあう関係を生み出したものでした。
 「教養」もまた、女性蔑視的な思想の正当化/正統化におおいに貢献しました。科学的理論という装いを与えられることで、女性蔑視的な思想は身につけておくべき「教養」として権威付けられ、当時の女権拡張運動にとっての大きな壁となったからです。

 「オタクはかつて読み巧者であった」という言説がどこまで妥当であるか、「オタク」の歴史にあまり明るくない私には判断できませんが、ダイクストラを踏まえて、少なくともこれだけは言えるでしょう。「読み巧者」であることや「教養主義」は、差別的思想を跳ね返すよりも、むしろそれを強化するものとして利用され得ます。もちろん、「読み巧者」であることそれ自体が差別的であるということには全くなりませんが、「自己の趣味嗜好の正当化/正統化のために社会を語る」ような人たちは、社会を大きく歪めて語ってしまう可能性が高いと思われます。



 いずれにせよ、墨東公安委員会氏の「『萌え美少女表象』が社会に広く受け入れられていること」が「社会に蔓延するミソジニーを背景としたもの」であるという主張は、『倒錯の偶像』におけるダイクストラの議論からは全くかけ離れており、ダイクストラを論拠と見做すことはできません。

 墨東公安委員会氏の理路の欠点の一つは、「社会に蔓延するミソジニー」という言葉で具体的に何を問題にしようとしているのかはっきりしないこと、にあると私は思います。ダイクストラの議論では、「当時の女性蔑視思想の何が問題であったのか?」という問いには「女性蔑視思想の権威化による女性への抑圧」「女性蔑視思想と現実の女性とのギャップに苦しむ若年男性」と明確に答えられます。しかし、墨東公安委員会氏はその点が曖昧であり、「ミソジニーの具体的に何が悪いのか」「『萌え美少女表象』が広く社会に受け入れられているとなぜ悪いのか」と考えると、何が問題になっているのかが今一つよく分かりません。そして、何を主要な問題として具体的に設定するかによって、議論の流れ自体が大きく変わってくるはずです。
 19世紀ヨーロッパの女性蔑視的思想家たちの理路の欠陥の一つも、この点にあったと言えるかもしれません。コントやミシュレの議論における「道徳的堕落」とは具体的に何がどのように問題だったのか。「性欲や自慰行為の危険性」とは一体何だったのか。「進化論的成長」が阻まれるとどのような問題があるのか。どれも、一歩踏み込んで考えると「何が悪いのか」が曖昧であり、ただ何となく「悪そうな気がする」ようなものばかりです。

 墨東公安委員会氏に限らず、「オタク」「萌え」などに言及する議論には「何が主要な問題なのか」が曖昧にされたまま議論されているものが少なくないように思います。「何を主要な問題として論じているのか」を、今一度立ち止まって考えてみましょう。19世紀の「女性蔑視思想を振り撒いた思想家・知識人」たちと同じ轍を踏まないために。
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2016-07-17 「萌え」文化はミソジニーの発露なのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略)  まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。

 これとよく似た問題が、BLボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
 また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。

 女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。

 墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。



 ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。

 この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
 この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。

 この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。

 墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。

 女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。

crowserpentcrowserpent 2016/07/18 23:50 >id:lisagasu氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/lisagasu
> 腐女子かつ萌え文化に関わるオタク女の一人だけど、自分の少女好きと大人の女、
> 母的なものへの強烈な嫌悪は無関係じゃないと思っている
> 女性オタクの存在は萌え文化ミソジニー説を否定する根拠としては弱いと思う

 うーん、「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではないんですよ。そもそも「萌え文化の中に(も)ミソジニーが含まれる」から「萌え文化の本質はミソジニーだ」に繋げるには論理の飛躍があり、その飛躍を埋めるには(本田透氏のように)「現実の恋愛・性愛の代替」という前提を置く必要があるが、その理屈は「女性オタクの存在」を無視した形で構成されている、という話なんです。
 オタク女性の中にも強いミソジニーを持つ人は居るでしょうし、それはさほど不思議なことでもないと思います。オタク個々人をみたとき、「萌え文化」への関わりとミソジニーとが強く関連している人も居るでしょう。しかし、それを以って「萌え文化」全般が根源的にミソジニーに根差しているとは言えない、というのがこの記事で述べていることです。


>id:rag_en氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/rag_en
> 『観測し得る「Xの否定」をして、観測し得ない内心について「Xへの憎悪」と
> 定義するのは、端的に言って「エスパー」』だよ、と。
> そもそも、表現者や消費者の「内心」を「問題」扱いしてる時点でダメ過ぎる。

 仰るとおり、「一部オタクのミソジニー」が問題だとされているとき、本来的に意味のある問題設定は「女性の権利に対する攻撃や否定の是非」であって、憎悪や恐怖といった「内心」ではないですね。問題が「ミソジニー」という枠に嵌め込まれることで論点がずれている面は確かにあると思います。この記事でも「ミソジニー」と「女性差別」などをきちんと峻別せずに書いてしまっているところは反省点です。

lisagasulisagasu 2016/07/20 10:57 ブコメに返信ありがとうございます。
>「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではない
というところは理解しました。というか烏蛇さんが「女性(のオタク)はミソジニーと無縁」のような認識でいるとは思いにくかったので、私の読み違いならよかったです。
ただ、烏蛇さんのtwitterも読ませてただくと、最初にあげている「墨東公安委員会」さんによる萌え文化批判の対象は、男性オタクが形成してきたそれなんですよね。そして、仰るとおり本田氏は女性オタクの存在をほぼ無視して持論を展開していたので、本田論にそのまま乗っかれば「男性オタクにとって萌え文化の本質ミソジニー説」は成立する。
だとするとやっぱり、そこで「何より」と持ち出しても、女性オタクの存在によって否定できるものは無いように思うんですが…まだ読み違いしてるのかな?

余談ですがブコメを書いた後で「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、自分が女だからだと思いました。
もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。
オタク文化、萌え文化に関わる人、愛する人には男性も女性もいますし、ミソジニーはどちらにもありえますが、それを同質のものとして語れるのか、また考えたいと思います。

crowserpentcrowserpent 2016/07/21 08:35 >lisagasu氏
 あー、なるほど。「萌え文化」を完全に「男性の萌え文化」と「女性の萌え文化」に分断できるという立場をとれば、「女性萌えオタクの存在」は矛盾にはならない、と言えるわけですね。私が普段触れてるジャンルのせいか、こういう立場の存在が頭になかったんですが、確かにこのように主張する人は割と居そうです。

> 「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、
> 自分が女だからだと思いました。
> もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。

 rag_en氏へのレスを書いてるときもちょっと思いましたが、男性のミソジニーは即「女性差別・女性の権利への侵害」と結び付けられるのに対し、女性のミソジニーについてはそうではない、という非対称はあるような気がします。
 「男性と女性のミソジニーは同質なものか」という問いは、問いをどう解釈するかによって答えも変わってくるような問いだと思いますが、個人的には「本質的に同質か異質か」はさておき、「社会的な語りによって『異質なもの』と見做されている」という状況の方が気になっています。

crowserpentcrowserpent 2016/07/22 15:43 >id:muryan_tap3氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/muryan_tap3
> 混ぜ返すようなことだけど「恋愛」や「結婚」はミソジニーを抱えてない証には
> ならない難しさ
> 女たらしのミソジニストなんて古今東西いくらでもいるだろう

 ちょっと前のコメントと繰り返しになりますが、「恋愛や結婚がミソジニーを抱えてない証にはならない」のはもちろん当然ですし、この記事では「恋愛や結婚している萌えオタクがいるからミソジニーではない」という話をしているのではありません。「萌えオタクの人たちの中に恋愛・結婚している人も居る」というのは「萌え文化は現実の恋愛・性愛の代替物である」という主張に対しての反論の一つとして出しています。


>id:hhasegawa氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/hhasegawa
> この批評だと、@bokukouiさんの元記事がダイクストラの図像研究から出発し、
> ヴィクトリア朝美術で描かれる女性類型と「萌え」表象のそれが共通して
> 依拠する構造を示唆していることが無視されているのでは。

 無視したというか、元々の類推の根拠があやふやではっきりしない議論に思えたので、その部分には敢えて突っ込みませんでした。ダイクストラの議論そのものについても、要点として墨公委氏がまとめている

> 実際には不可能なガイニサイド(女性皆殺し)の妄想の代わりに、
> 第一次世界大戦に至ってジェノサイド(民族皆殺し)への道を切り開いた

などは第一次世界大戦に対する歴史的背景の考察としてやや首を傾げる、という印象だったというのもあります。
 ただ、この記事は件のダイクストラの著書をちゃんと読まずに書いているので、その点は私の不備ではあります。

muryan_tap3muryan_tap3 2016/07/23 19:36 今回のお話の筋ではないコメントで、丁寧に解説いただいて恐縮です。
現実の恋愛性愛の代替物であるという事への反論の一つというのを自分が理解していた事が答え合わせできて良かったです。
ミソジニーをめぐる話題が出た時、テンプレなミソジニストを揶揄するコメントに、恋愛結婚していれば自分は"安全圏"にいるとばかりに勘違いして上から目線のコメントをする人がいるがそんなことないんだぞ、という皮肉のつもりでした。
今回のお話には余計な一言でした。
それにしてもどんな物語文化もミソジニーの片鱗がまったく見つからないものって、あるのでしょうかと考えてしまいます。

2015-05-31 「弱者男性論」によるフェミニズム批判と「社会運動の公正性」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 「フェミニズム弱者男性弾圧・抑圧している」という議論とそれへの反論が話題になっています。この議論そのものは以前からみられるものですが、大きく話題になったのはこのまとめからでしょうか。途中までの流れは司馬光氏の記事にまとめられています。
 最初のまとめの主題は「生活困窮する高齢男性」ですが、「困窮する高齢男性へのケアの方法論」といった問題はフェミニズム批判している側の主な論点にはなっていないようです。フェミニストであるfont-da氏の「弱者男性のケア」についての記事、「弱者男性の不満は『ケア役割』の女性が自分に配分されないことではないか」と推測した点が「藁人形論法」であるとして批判されましたが(これが見当違いの推測であることは確かだと思います)、ケアの方法論などについての批判や提案はほとんど見られませんでした。

 司馬光氏はフェミニズム批判の内実について次のように述べています。

何故弱者男性は、フェミニストに窮状を訴えるのか?を考えていこう。多くの人が指摘するようにそこには具体的な要求は少ない。彼らは何を言わんとしているのか?

(中略)

弱者男性に具体的な要求は無いと書いた。彼らはむしろ、むしろある疑いを晴らそうとしているのだ。女性たちの訴えは「公正」を巡るものなのか?そうでなく「自分たちの都合」だけのことなのか?「公正」なら何故自分たちは応答しないのか?「自分たちの都合」ならむしろ強者男性が彼女たちに応答する意味は無くなる。

強者男性には「公正」(法の下での平等)を掲げ要求を通し、一方自分たちが強者として弱者男性への応答を無視するならそれは欺瞞ではないか?弱者男性はそのような疑いを持っている。

 つまり、フェミニズム批判は不満やケアの要求ではなく、「公正性を追求する活動を自称していながら、その実は自分たちの利益を追求しているのではないか」という疑念に基づくものだということです。この司馬光氏の見方が全てのフェミニズム批判に当てはまるわけではないでしょうが、「弱者男性」をめぐるフェミニズム批判においてはこれが多数派を占めると考えてもいいのではないかと思います。

 さて、そうであるとして、実際にフェミニズムは不公正なのでしょうか。不公正であるとすると、それは「弱者男性」にどんな影響を及ぼすのでしょうか。……という問いの前に、そもそもフェミニズムのような社会運動における「公正性」とは何であるかを考えておく必要があります。まず社会運動の立場からの「公正」を考え、それと批判者の考えている「公正」とはズレがあるのかどうか、あるとすればどのようなものなのか、を見ていきたいと思います。



 「公正」という単語は「順法・適法」という意味で使われる場合もありますが、社会全体の公正性を考える上ではこの見方は不十分でしょう。現行の法制度それ自体の公正性を問うことができないからです。
 先の司馬光氏の記事では、「公正」を「法の下の平等」と言い換えています。確かに「法の下の不平等」すなわち法の二重基準性は、社会における不公正の大きな部分を占めると考えていいでしょう。ですが、これだけでは「法制度の問題」のみについてしか考えることができなくなりますので、これに加えて「非人道的ないし著しく不合理な社会的リソースの分配状況」を「社会的不公正」の一つとして挙げておきます。そして、法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たちを「弱者」と呼ぶことにしましょう。これらの定義はいずれも曖昧さを残していますが、概念の性質上「厳密な」定義が困難なことはお分かりいただけると思います。

 社会における不公正はなぜ生じるのか? これには、「過去の偶然の歴史的経緯により定着したものが、慣習として残ってきた」「権力の集中する集団が自分たちの利益を追求した結果生じた」といったことが考えられるでしょう。では、不公正を解消するにはどうすれば良いでしょうか?
 まず考えられるのは「より公正な法や社会的ルールの形成」です。これは長期的には「社会の不公正の是正」そのものとも言えますが、短期的には実現が難しかったり、緊急を要するリソース分配の問題がある場合(「社会的不公正」の多くがそうでしょう)には他の手段が必要になってきます。そこで考えられるのが「弱者への直接的な手当て・ケア」「弱者の強者に対する対抗権力の形成」です。実際の「弱者」に関わる社会運動(フェミニズム以外に、少数民族の運動、被差別階級の解放運動、労働運動、貧困・ホームレス支援、LGBTの運動など)も概ねこの3つの要素を包含しています。

 ここで、「弱者に対するケアは分かるが、対抗権力の形成はなぜ必要なのか」と思われる方も多いと思います。弱者への対抗権力の付与は「逆差別」に繋がるのではないか、という懸念を持たれる方も居るでしょう。しかしながら、対抗権力なしに社会の不公正を是正することは事実上不可能です。
 理由は、先程述べた「権力の集中する集団」(これを「強者」と呼ぶことにします)が社会的不公正の一因になっていることと、公正・不公正の概念の曖昧さにあります。現実の社会において「強者」がルール形成を主導できる立場に居る以上、公正・不公正の基準は強者の都合の良いように定められがちです。また、「弱者へのケア」は、それに条件を付けることで「強者に都合の良い弱者のあり方」を「弱者」に強要する道具ともなります。それは「弱者」の固定化にも結び付くことになるでしょう。
 これらを防ぐには、「弱者が対抗権力を得る」ことにより「強者」に圧力をかけていく、ということが必要になってくるわけです。「社会的公正」と「弱者の利益・権力強化」は相容れないどころか、むしろ不可分であると言えます。

 かといって、「弱者の対抗権力の強化」に問題がないわけではありません。というと「逆差別」を想起する人が少なくないと思いますが、この概念は社会運動の公正性を考える上でやや一面的に過ぎます。現実には、「弱者の対抗権力の強化」によって「強者」と「弱者」の立場が完全に逆転するようなことはそうそう起こりません。問題はそのはるか手前で発生します。「ある側面における『弱者』の対抗権力の強化が、別の側面からみた『弱者』に対する圧力になる」という問題です。社会運動の歴史のなかでは、実際にこのような問題は頻繁に起こってきました。
 こうした問題を運動のなかで事前に予防することは困難であり、圧力を受ける弱者当事者や、運動内部からの批判によって是正されることが必要です。このような批判を契機として、新たな社会運動が起こる場合もあります。



 社会の不公正の是正という観点から「社会運動に対する批判」を捉えるとすれば、その「批判」自体の公正性も問われなければなりません。これは「既存の社会運動がどのような問題を抱えているか」によって話が変わってきます。

 まず、ある社会運動が、別の側面からみた「弱者」に対して「何もしない」、すなわちプラスにもマイナスにもならない場合(これを「不在型」と呼ぶことにします)は、既存の運動を批判してもあまり意味がありません。既存の運動に携わる人たちが、新たな運動に費やすリソースを十分持っている場合は多くありませんし、人には向き不向きもあるからです。この場合は、当事者やその問題に関心を持つ人たちが新たな社会運動を立ち上げるのが最善でしょう。
 批判が重要な意味を持つのは、ある社会運動が別の側面からみた「弱者」に対してマイナスになっている場合です。例えば、ある社会運動による訴えや施策が、ある側面からみた「弱者」にはプラスになっているが、別の側面からみた「弱者」にはマイナスになっているような場合(これを「ジレンマ型」とします)や、ある社会運動の当事者や支援者が別の側面においては「強者」であり、その発言などが「弱者」に対する攻撃になっているような場合(これを「無自覚強者型」とします)には、「圧力を受けている当事者やそれに近い人からの指摘・問題提起」が社会運動のあり方の改善に寄与できるでしょう。

 「弱者男性論」によるフェミニズム批判の場合はどうでしょうか? 各記事のはてなブックマークなどでよく見かける批判の様式は「フェミニズムは『救済対象の選別』をしており、これは欺瞞だ」というものです。これを「フェミニズムが『弱者男性』に対して何も救済しようとしない」という「不在型」の問題と理解するなら、この批判は不公正の是正という点からみてあまり意味のない批判だといえます。
 一方で、この批判を「『救済対象』と認定した以外の人たちに対して『救済を求めること』自体を批判したり差別的に扱っている」という意味に理解するなら、これは「無自覚強者型」に近い話になり、(主張が妥当であれば)批判には一定の意味があるといえるでしょう。
 実際のところはというと、この2種類の批判が入り混じっている(そして両者の区別があまりなされていない)ように見受けられます。また反批判側も、両者を区別せず単に「不在型」の主張と受け取っている人が多いように思います。

 同様の不明確さは、最初に挙げた司馬光氏の記事にもあります。

自分たちが地位向上の運動をして、その結果女性の地位が向上する。その結果強者となる女性も出てくる。強者になるのだから当然他の弱者から要求が出てくる。しかし、彼女たちはそれをどのように受け止めれば良いかわからないし、強者としての応答義務を果たすということも理論化出来ずに居る。

つまり、地位向上の運動をするが、その結果として何が責任として生じるかに無自覚だったのだ。地位向上の運動が成功すれば成功するほど、女性たちはかって強者男性たちが居た場所を占めるようになり、自分たちがかって批判した「強者男性」にならないために何をなすかという理論が重要になってくる。

 「自分たちがかって批判した『強者男性』にならないために何をなすか」という一文を「『強者男性』のように更なる弱者を抑圧しないためには」と解釈すれば、確かにこれはフェミニズムにとって考えなくてはならない問題だと思います。しかし、「強者になるのだから当然他の弱者から要求に応えるべきだ」というのはそれとは話が違ってきます。
 仮に、「『強者男性』個々人が『弱者』である女性のために一定の負担を負わねばならない」のであれば、同様の負担を「強者女性」も負うべきである、という主張には妥当性があるでしょう。が、実際にはそのような規範は存在しませんし、フェミニズムはそのような主張をしてもいません。フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。

 「フェミニズムは公正なのか」という最初の問いに立ち戻ってみましょう。フェミニストが例えば「性経験の有無」で男性を差別するような言動をしたとすれば、そうした振る舞いは「不公正」であり批判されるべきだ、と言えますし、仮にそのようなフェミニスト・フェミニズム支持者が多数を占めるのであれば、それはフェミニズム全体の問題として捉えることも可能でしょう。一方で、フェミニストが「女性にとって有益」な施策を進めているから不公正だ、と言うことはできません。それを否定することは「弱者への手当て」や「対抗権力の形成」自体を否定することになるからです。

 フェミニズムに対する「不公正ではないか」という疑念は、「弱者の利益・権力付与」と「社会的公正」は相反するもの、という発想を前提にしていると考えられます。このような前提を置くと、不公正の是正を目指す社会運動・活動のほとんどが「不公正」である、という結論が導かれざるを得ません。「弱者男性」にフォーカスした運動についても同様です。従って、そのような運動を諦めるか、「弱者男性にとっての利益誘導を目指す運動は社会的公正とは相容れない、それで何が悪いのか」と開き直るしかありません。それは、多くの人たちの関心・共感を得る機会を自ら放り投げることになります。
 こうした態度は、社会的公正に対する厳格さというよりむしろ、社会的公正へのニヒリズムと呼んだ方が的確ではないかと思います。ニヒリズムに陥ることを当人達だけの責任に帰すことはできませんが、それが当人達の首を絞めていることも間違いないでしょう。

 フェミニストが常に「公正な」言動・行動をしているわけではありませんし、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く場合も考えられます。それらに対して必要なのはニヒリズムを背景とする「フェミニズムの偽善・欺瞞」という漠然とした「批判」ではなく、具体的な事象に対する具体的な批判です。社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。

lcwinlcwin 2015/05/31 15:00 記事ありがとうございます。抽象的な質問になりますがこの場合の「弱者」と「敗者」の違いはあるのでしょうか?社会的公正さ→能力主義→優勝劣敗・弱肉強食は公正と感じる発言を見ることがあり、その辺りをここでいう「弱者」と同じく扱うものなのか整理できていないのです。

crowserpentcrowserpent 2015/06/01 16:31 >lcwin氏
 記事中では「法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たち」を「弱者」と呼ぶとしました。「敗者」は勝負や競争があって初めて成立する概念ですが、「弱者」はそうとは限らないですね。
 社会的公正との繋がりで言うなら、社会の厚生の増大のためには競争は必要であり、「敗者」が生じることは避けられないが、「敗者」が「弱者」になりにくい仕組みが公正のためには必要だ、とは言えるのではないかと思います(お答えになっているか分かりませんが)。

lcwinlcwin 2015/06/01 21:32 ありがとうございました。穏当な意見だと思われ自分も理解できます。続きはハイクに書こうと思います。

lcwinlcwin 2015/06/01 21:43 ありがとうございました。穏当な意見だと思われ自分も理解できます。続きはハイクに書こうと思います。

shibacowshibacow 2015/06/03 00:41 司馬光です。言及ありがとうございます。

>>フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。

ここが本当にそうなのか分かりませんでした。例えばこのような例はいかがでしょうか?

「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!
http://togetter.com/li/166146

「ヘドがでるけどナ」と書いた学生
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110730/1312022488

この例で見られるのは、(強者男性が多数を占める権力者への訴え)では無いように見られます。むしろ強者?(上の例は単なる漫画好きだし、下は学生)の男性に対してある種のむきみのナイフを突きつけているような読後感に襲われます。

フェミニズムは多義的な内容で、各所でフェミニズムである/無いの判断が行われており、上に上げた例がフェミニズムの主張ではないかもしれませんが、ある種の断罪めいた主張をしがちなのかも知れません。

多分、強者とは何者なのかという話になっていくのかも知れませんね(中国嫁を読む男性は強者か?、ヘドが出るけどなと書いた男性は強者か?)。男性という性を受けた以上(無自覚な強者だという批判は当然ありうる)。

crowserpentcrowserpent 2015/06/03 08:43 id:rag_en 氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/254052388/comment/rag_en
> “「救済対象の選別」という欺瞞”って、自分以外使ってるの見た事ないんですけど。
> “よく見かける批判の様式”て、他のどこでですか?

 あー、ここでは、同じ趣旨のコメントという意味で書いてたんですが、この表現そのままだとrag_en氏以外には居ないかもしれません。
 想定していたのは、例えばこのようなコメントです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/253028007/comment/eirun
http://b.hatena.ne.jp/entry/252849900/comment/U150
http://b.hatena.ne.jp/entry/253335919/comment/t-oblate
http://b.hatena.ne.jp/entry/253200785/comment/etc-etc

crowserpentcrowserpent 2015/06/03 08:44 >司馬光氏
 うーん、私が司馬光氏の記事から受け取った「強者男性」のニュアンスは、ご本人の想定から結構ずれてたんですね。
 司馬光氏の書かれている「フェミニズムが要求し、強者男性がしぶしぶ従う」という事象を、私は主に「男女雇用機会均等法」や「産前産後休業」のような制度のことだろうと思ったので、ここで言われている「強者男性」とは権力者のことだろう、と考えていたんですよ。

> 「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!
> http://togetter.com/li/166146
>
> 「ヘドがでるけどナ」と書いた学生
> http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110730/1312022488
>
> この例で見られるのは、(強者男性が多数を占める権力者への訴え)では無いように見られます。
> むしろ強者?(上の例は単なる漫画好きだし、下は学生)の男性に対してある種のむきみのナイフを
> 突きつけているような読後感に襲われます。

 前者の中国嫁日記に関するまとめは、「批判」あるいは「罵倒」ではあっても「負担の要求」とは違うように思います(批判の内容が妥当だとは思いませんが)。
 後者の記事は私も以前読んでいますが、「学生」に対して「負担の要求」をしているわけでもなく、そもそも攻撃的なわけでもない(筆者の「戸惑い」は感じられますが)と思いますので、「ある種のむきみのナイフを突きつけているような」と形容されるというのがよく分かりませんでした。

crowserpentcrowserpent 2015/06/04 22:26 id:rag_en 氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/254197587/comment/rag_en
> まぁidコールの強要は出来ないし、しないけど、それとは別に「あてこすり」ぽい事されても正直なトコ気付けんですよ。
> こちらのブ※に対する指摘記事では無い、と明言して頂けるなら(これ以上は)スルーしますけど

 rag_en氏1人を指したつもりは無かったんですが、件の表現を実際にそのまま使ってるのがほぼrag_en氏1人だということに後から気付きました。確かにrag_en氏側から見たらあてこすりに見えてもおかしくないなぁと思います。誰がどのコメントをしているかチェックしてから引用する形にすべきだったと反省してます。