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2016-07-17 「萌え」文化はミソジニーの発露なのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略)  まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。

 これとよく似た問題が、BLボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
 また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。

 女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。

 墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。



 ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。

 この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
 この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。

 この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。

 墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。

 女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。

crowserpentcrowserpent 2016/07/18 23:50 >id:lisagasu氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/lisagasu
> 腐女子かつ萌え文化に関わるオタク女の一人だけど、自分の少女好きと大人の女、
> 母的なものへの強烈な嫌悪は無関係じゃないと思っている
> 女性オタクの存在は萌え文化ミソジニー説を否定する根拠としては弱いと思う

 うーん、「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではないんですよ。そもそも「萌え文化の中に(も)ミソジニーが含まれる」から「萌え文化の本質はミソジニーだ」に繋げるには論理の飛躍があり、その飛躍を埋めるには(本田透氏のように)「現実の恋愛・性愛の代替」という前提を置く必要があるが、その理屈は「女性オタクの存在」を無視した形で構成されている、という話なんです。
 オタク女性の中にも強いミソジニーを持つ人は居るでしょうし、それはさほど不思議なことでもないと思います。オタク個々人をみたとき、「萌え文化」への関わりとミソジニーとが強く関連している人も居るでしょう。しかし、それを以って「萌え文化」全般が根源的にミソジニーに根差しているとは言えない、というのがこの記事で述べていることです。


>id:rag_en氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/rag_en
> 『観測し得る「Xの否定」をして、観測し得ない内心について「Xへの憎悪」と
> 定義するのは、端的に言って「エスパー」』だよ、と。
> そもそも、表現者や消費者の「内心」を「問題」扱いしてる時点でダメ過ぎる。

 仰るとおり、「一部オタクのミソジニー」が問題だとされているとき、本来的に意味のある問題設定は「女性の権利に対する攻撃や否定の是非」であって、憎悪や恐怖といった「内心」ではないですね。問題が「ミソジニー」という枠に嵌め込まれることで論点がずれている面は確かにあると思います。この記事でも「ミソジニー」と「女性差別」などをきちんと峻別せずに書いてしまっているところは反省点です。

lisagasulisagasu 2016/07/20 10:57 ブコメに返信ありがとうございます。
>「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではない
というところは理解しました。というか烏蛇さんが「女性(のオタク)はミソジニーと無縁」のような認識でいるとは思いにくかったので、私の読み違いならよかったです。
ただ、烏蛇さんのtwitterも読ませてただくと、最初にあげている「墨東公安委員会」さんによる萌え文化批判の対象は、男性オタクが形成してきたそれなんですよね。そして、仰るとおり本田氏は女性オタクの存在をほぼ無視して持論を展開していたので、本田論にそのまま乗っかれば「男性オタクにとって萌え文化の本質ミソジニー説」は成立する。
だとするとやっぱり、そこで「何より」と持ち出しても、女性オタクの存在によって否定できるものは無いように思うんですが…まだ読み違いしてるのかな?

余談ですがブコメを書いた後で「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、自分が女だからだと思いました。
もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。
オタク文化、萌え文化に関わる人、愛する人には男性も女性もいますし、ミソジニーはどちらにもありえますが、それを同質のものとして語れるのか、また考えたいと思います。

crowserpentcrowserpent 2016/07/21 08:35 >lisagasu氏
 あー、なるほど。「萌え文化」を完全に「男性の萌え文化」と「女性の萌え文化」に分断できるという立場をとれば、「女性萌えオタクの存在」は矛盾にはならない、と言えるわけですね。私が普段触れてるジャンルのせいか、こういう立場の存在が頭になかったんですが、確かにこのように主張する人は割と居そうです。

> 「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、
> 自分が女だからだと思いました。
> もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。

 rag_en氏へのレスを書いてるときもちょっと思いましたが、男性のミソジニーは即「女性差別・女性の権利への侵害」と結び付けられるのに対し、女性のミソジニーについてはそうではない、という非対称はあるような気がします。
 「男性と女性のミソジニーは同質なものか」という問いは、問いをどう解釈するかによって答えも変わってくるような問いだと思いますが、個人的には「本質的に同質か異質か」はさておき、「社会的な語りによって『異質なもの』と見做されている」という状況の方が気になっています。

crowserpentcrowserpent 2016/07/22 15:43 >id:muryan_tap3氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/muryan_tap3
> 混ぜ返すようなことだけど「恋愛」や「結婚」はミソジニーを抱えてない証には
> ならない難しさ
> 女たらしのミソジニストなんて古今東西いくらでもいるだろう

 ちょっと前のコメントと繰り返しになりますが、「恋愛や結婚がミソジニーを抱えてない証にはならない」のはもちろん当然ですし、この記事では「恋愛や結婚している萌えオタクがいるからミソジニーではない」という話をしているのではありません。「萌えオタクの人たちの中に恋愛・結婚している人も居る」というのは「萌え文化は現実の恋愛・性愛の代替物である」という主張に対しての反論の一つとして出しています。


>id:hhasegawa氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/hhasegawa
> この批評だと、@bokukouiさんの元記事がダイクストラの図像研究から出発し、
> ヴィクトリア朝美術で描かれる女性類型と「萌え」表象のそれが共通して
> 依拠する構造を示唆していることが無視されているのでは。

 無視したというか、元々の類推の根拠があやふやではっきりしない議論に思えたので、その部分には敢えて突っ込みませんでした。ダイクストラの議論そのものについても、要点として墨公委氏がまとめている

> 実際には不可能なガイニサイド(女性皆殺し)の妄想の代わりに、
> 第一次世界大戦に至ってジェノサイド(民族皆殺し)への道を切り開いた

などは第一次世界大戦に対する歴史的背景の考察としてやや首を傾げる、という印象だったというのもあります。
 ただ、この記事は件のダイクストラの著書をちゃんと読まずに書いているので、その点は私の不備ではあります。

muryan_tap3muryan_tap3 2016/07/23 19:36 今回のお話の筋ではないコメントで、丁寧に解説いただいて恐縮です。
現実の恋愛性愛の代替物であるという事への反論の一つというのを自分が理解していた事が答え合わせできて良かったです。
ミソジニーをめぐる話題が出た時、テンプレなミソジニストを揶揄するコメントに、恋愛結婚していれば自分は"安全圏"にいるとばかりに勘違いして上から目線のコメントをする人がいるがそんなことないんだぞ、という皮肉のつもりでした。
今回のお話には余計な一言でした。
それにしてもどんな物語文化もミソジニーの片鱗がまったく見つからないものって、あるのでしょうかと考えてしまいます。

2015-05-31 「弱者男性論」によるフェミニズム批判と「社会運動の公正性」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 「フェミニズム弱者男性弾圧・抑圧している」という議論とそれへの反論が話題になっています。この議論そのものは以前からみられるものですが、大きく話題になったのはこのまとめからでしょうか。途中までの流れは司馬光氏の記事にまとめられています。
 最初のまとめの主題は「生活困窮する高齢男性」ですが、「困窮する高齢男性へのケアの方法論」といった問題はフェミニズム批判している側の主な論点にはなっていないようです。フェミニストであるfont-da氏の「弱者男性のケア」についての記事、「弱者男性の不満は『ケア役割』の女性が自分に配分されないことではないか」と推測した点が「藁人形論法」であるとして批判されましたが(これが見当違いの推測であることは確かだと思います)、ケアの方法論などについての批判や提案はほとんど見られませんでした。

 司馬光氏はフェミニズム批判の内実について次のように述べています。

何故弱者男性は、フェミニストに窮状を訴えるのか?を考えていこう。多くの人が指摘するようにそこには具体的な要求は少ない。彼らは何を言わんとしているのか?

(中略)

弱者男性に具体的な要求は無いと書いた。彼らはむしろ、むしろある疑いを晴らそうとしているのだ。女性たちの訴えは「公正」を巡るものなのか?そうでなく「自分たちの都合」だけのことなのか?「公正」なら何故自分たちは応答しないのか?「自分たちの都合」ならむしろ強者男性が彼女たちに応答する意味は無くなる。

強者男性には「公正」(法の下での平等)を掲げ要求を通し、一方自分たちが強者として弱者男性への応答を無視するならそれは欺瞞ではないか?弱者男性はそのような疑いを持っている。

 つまり、フェミニズム批判は不満やケアの要求ではなく、「公正性を追求する活動を自称していながら、その実は自分たちの利益を追求しているのではないか」という疑念に基づくものだということです。この司馬光氏の見方が全てのフェミニズム批判に当てはまるわけではないでしょうが、「弱者男性」をめぐるフェミニズム批判においてはこれが多数派を占めると考えてもいいのではないかと思います。

 さて、そうであるとして、実際にフェミニズムは不公正なのでしょうか。不公正であるとすると、それは「弱者男性」にどんな影響を及ぼすのでしょうか。……という問いの前に、そもそもフェミニズムのような社会運動における「公正性」とは何であるかを考えておく必要があります。まず社会運動の立場からの「公正」を考え、それと批判者の考えている「公正」とはズレがあるのかどうか、あるとすればどのようなものなのか、を見ていきたいと思います。



 「公正」という単語は「順法・適法」という意味で使われる場合もありますが、社会全体の公正性を考える上ではこの見方は不十分でしょう。現行の法制度それ自体の公正性を問うことができないからです。
 先の司馬光氏の記事では、「公正」を「法の下の平等」と言い換えています。確かに「法の下の不平等」すなわち法の二重基準性は、社会における不公正の大きな部分を占めると考えていいでしょう。ですが、これだけでは「法制度の問題」のみについてしか考えることができなくなりますので、これに加えて「非人道的ないし著しく不合理な社会的リソースの分配状況」を「社会的不公正」の一つとして挙げておきます。そして、法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たちを「弱者」と呼ぶことにしましょう。これらの定義はいずれも曖昧さを残していますが、概念の性質上「厳密な」定義が困難なことはお分かりいただけると思います。

 社会における不公正はなぜ生じるのか? これには、「過去の偶然の歴史的経緯により定着したものが、慣習として残ってきた」「権力の集中する集団が自分たちの利益を追求した結果生じた」といったことが考えられるでしょう。では、不公正を解消するにはどうすれば良いでしょうか?
 まず考えられるのは「より公正な法や社会的ルールの形成」です。これは長期的には「社会の不公正の是正」そのものとも言えますが、短期的には実現が難しかったり、緊急を要するリソース分配の問題がある場合(「社会的不公正」の多くがそうでしょう)には他の手段が必要になってきます。そこで考えられるのが「弱者への直接的な手当て・ケア」「弱者の強者に対する対抗権力の形成」です。実際の「弱者」に関わる社会運動(フェミニズム以外に、少数民族の運動、被差別階級の解放運動、労働運動、貧困・ホームレス支援、LGBTの運動など)も概ねこの3つの要素を包含しています。

 ここで、「弱者に対するケアは分かるが、対抗権力の形成はなぜ必要なのか」と思われる方も多いと思います。弱者への対抗権力の付与は「逆差別」に繋がるのではないか、という懸念を持たれる方も居るでしょう。しかしながら、対抗権力なしに社会の不公正を是正することは事実上不可能です。
 理由は、先程述べた「権力の集中する集団」(これを「強者」と呼ぶことにします)が社会的不公正の一因になっていることと、公正・不公正の概念の曖昧さにあります。現実の社会において「強者」がルール形成を主導できる立場に居る以上、公正・不公正の基準は強者の都合の良いように定められがちです。また、「弱者へのケア」は、それに条件を付けることで「強者に都合の良い弱者のあり方」を「弱者」に強要する道具ともなります。それは「弱者」の固定化にも結び付くことになるでしょう。
 これらを防ぐには、「弱者が対抗権力を得る」ことにより「強者」に圧力をかけていく、ということが必要になってくるわけです。「社会的公正」と「弱者の利益・権力強化」は相容れないどころか、むしろ不可分であると言えます。

 かといって、「弱者の対抗権力の強化」に問題がないわけではありません。というと「逆差別」を想起する人が少なくないと思いますが、この概念は社会運動の公正性を考える上でやや一面的に過ぎます。現実には、「弱者の対抗権力の強化」によって「強者」と「弱者」の立場が完全に逆転するようなことはそうそう起こりません。問題はそのはるか手前で発生します。「ある側面における『弱者』の対抗権力の強化が、別の側面からみた『弱者』に対する圧力になる」という問題です。社会運動の歴史のなかでは、実際にこのような問題は頻繁に起こってきました。
 こうした問題を運動のなかで事前に予防することは困難であり、圧力を受ける弱者当事者や、運動内部からの批判によって是正されることが必要です。このような批判を契機として、新たな社会運動が起こる場合もあります。



 社会の不公正の是正という観点から「社会運動に対する批判」を捉えるとすれば、その「批判」自体の公正性も問われなければなりません。これは「既存の社会運動がどのような問題を抱えているか」によって話が変わってきます。

 まず、ある社会運動が、別の側面からみた「弱者」に対して「何もしない」、すなわちプラスにもマイナスにもならない場合(これを「不在型」と呼ぶことにします)は、既存の運動を批判してもあまり意味がありません。既存の運動に携わる人たちが、新たな運動に費やすリソースを十分持っている場合は多くありませんし、人には向き不向きもあるからです。この場合は、当事者やその問題に関心を持つ人たちが新たな社会運動を立ち上げるのが最善でしょう。
 批判が重要な意味を持つのは、ある社会運動が別の側面からみた「弱者」に対してマイナスになっている場合です。例えば、ある社会運動による訴えや施策が、ある側面からみた「弱者」にはプラスになっているが、別の側面からみた「弱者」にはマイナスになっているような場合(これを「ジレンマ型」とします)や、ある社会運動の当事者や支援者が別の側面においては「強者」であり、その発言などが「弱者」に対する攻撃になっているような場合(これを「無自覚強者型」とします)には、「圧力を受けている当事者やそれに近い人からの指摘・問題提起」が社会運動のあり方の改善に寄与できるでしょう。

 「弱者男性論」によるフェミニズム批判の場合はどうでしょうか? 各記事のはてなブックマークなどでよく見かける批判の様式は「フェミニズムは『救済対象の選別』をしており、これは欺瞞だ」というものです。これを「フェミニズムが『弱者男性』に対して何も救済しようとしない」という「不在型」の問題と理解するなら、この批判は不公正の是正という点からみてあまり意味のない批判だといえます。
 一方で、この批判を「『救済対象』と認定した以外の人たちに対して『救済を求めること』自体を批判したり差別的に扱っている」という意味に理解するなら、これは「無自覚強者型」に近い話になり、(主張が妥当であれば)批判には一定の意味があるといえるでしょう。
 実際のところはというと、この2種類の批判が入り混じっている(そして両者の区別があまりなされていない)ように見受けられます。また反批判側も、両者を区別せず単に「不在型」の主張と受け取っている人が多いように思います。

 同様の不明確さは、最初に挙げた司馬光氏の記事にもあります。

自分たちが地位向上の運動をして、その結果女性の地位が向上する。その結果強者となる女性も出てくる。強者になるのだから当然他の弱者から要求が出てくる。しかし、彼女たちはそれをどのように受け止めれば良いかわからないし、強者としての応答義務を果たすということも理論化出来ずに居る。

つまり、地位向上の運動をするが、その結果として何が責任として生じるかに無自覚だったのだ。地位向上の運動が成功すれば成功するほど、女性たちはかって強者男性たちが居た場所を占めるようになり、自分たちがかって批判した「強者男性」にならないために何をなすかという理論が重要になってくる。

 「自分たちがかって批判した『強者男性』にならないために何をなすか」という一文を「『強者男性』のように更なる弱者を抑圧しないためには」と解釈すれば、確かにこれはフェミニズムにとって考えなくてはならない問題だと思います。しかし、「強者になるのだから当然他の弱者から要求に応えるべきだ」というのはそれとは話が違ってきます。
 仮に、「『強者男性』個々人が『弱者』である女性のために一定の負担を負わねばならない」のであれば、同様の負担を「強者女性」も負うべきである、という主張には妥当性があるでしょう。が、実際にはそのような規範は存在しませんし、フェミニズムはそのような主張をしてもいません。フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。

 「フェミニズムは公正なのか」という最初の問いに立ち戻ってみましょう。フェミニストが例えば「性経験の有無」で男性を差別するような言動をしたとすれば、そうした振る舞いは「不公正」であり批判されるべきだ、と言えますし、仮にそのようなフェミニスト・フェミニズム支持者が多数を占めるのであれば、それはフェミニズム全体の問題として捉えることも可能でしょう。一方で、フェミニストが「女性にとって有益」な施策を進めているから不公正だ、と言うことはできません。それを否定することは「弱者への手当て」や「対抗権力の形成」自体を否定することになるからです。

 フェミニズムに対する「不公正ではないか」という疑念は、「弱者の利益・権力付与」と「社会的公正」は相反するもの、という発想を前提にしていると考えられます。このような前提を置くと、不公正の是正を目指す社会運動・活動のほとんどが「不公正」である、という結論が導かれざるを得ません。「弱者男性」にフォーカスした運動についても同様です。従って、そのような運動を諦めるか、「弱者男性にとっての利益誘導を目指す運動は社会的公正とは相容れない、それで何が悪いのか」と開き直るしかありません。それは、多くの人たちの関心・共感を得る機会を自ら放り投げることになります。
 こうした態度は、社会的公正に対する厳格さというよりむしろ、社会的公正へのニヒリズムと呼んだ方が的確ではないかと思います。ニヒリズムに陥ることを当人達だけの責任に帰すことはできませんが、それが当人達の首を絞めていることも間違いないでしょう。

 フェミニストが常に「公正な」言動・行動をしているわけではありませんし、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く場合も考えられます。それらに対して必要なのはニヒリズムを背景とする「フェミニズムの偽善・欺瞞」という漠然とした「批判」ではなく、具体的な事象に対する具体的な批判です。社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。

lcwinlcwin 2015/05/31 15:00 記事ありがとうございます。抽象的な質問になりますがこの場合の「弱者」と「敗者」の違いはあるのでしょうか?社会的公正さ→能力主義→優勝劣敗・弱肉強食は公正と感じる発言を見ることがあり、その辺りをここでいう「弱者」と同じく扱うものなのか整理できていないのです。

crowserpentcrowserpent 2015/06/01 16:31 >lcwin氏
 記事中では「法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たち」を「弱者」と呼ぶとしました。「敗者」は勝負や競争があって初めて成立する概念ですが、「弱者」はそうとは限らないですね。
 社会的公正との繋がりで言うなら、社会の厚生の増大のためには競争は必要であり、「敗者」が生じることは避けられないが、「敗者」が「弱者」になりにくい仕組みが公正のためには必要だ、とは言えるのではないかと思います(お答えになっているか分かりませんが)。

lcwinlcwin 2015/06/01 21:32 ありがとうございました。穏当な意見だと思われ自分も理解できます。続きはハイクに書こうと思います。

lcwinlcwin 2015/06/01 21:43 ありがとうございました。穏当な意見だと思われ自分も理解できます。続きはハイクに書こうと思います。

shibacowshibacow 2015/06/03 00:41 司馬光です。言及ありがとうございます。

>>フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。

ここが本当にそうなのか分かりませんでした。例えばこのような例はいかがでしょうか?

「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!
http://togetter.com/li/166146

「ヘドがでるけどナ」と書いた学生
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110730/1312022488

この例で見られるのは、(強者男性が多数を占める権力者への訴え)では無いように見られます。むしろ強者?(上の例は単なる漫画好きだし、下は学生)の男性に対してある種のむきみのナイフを突きつけているような読後感に襲われます。

フェミニズムは多義的な内容で、各所でフェミニズムである/無いの判断が行われており、上に上げた例がフェミニズムの主張ではないかもしれませんが、ある種の断罪めいた主張をしがちなのかも知れません。

多分、強者とは何者なのかという話になっていくのかも知れませんね(中国嫁を読む男性は強者か?、ヘドが出るけどなと書いた男性は強者か?)。男性という性を受けた以上(無自覚な強者だという批判は当然ありうる)。

crowserpentcrowserpent 2015/06/03 08:43 id:rag_en 氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/254052388/comment/rag_en
> “「救済対象の選別」という欺瞞”って、自分以外使ってるの見た事ないんですけど。
> “よく見かける批判の様式”て、他のどこでですか?

 あー、ここでは、同じ趣旨のコメントという意味で書いてたんですが、この表現そのままだとrag_en氏以外には居ないかもしれません。
 想定していたのは、例えばこのようなコメントです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/253028007/comment/eirun
http://b.hatena.ne.jp/entry/252849900/comment/U150
http://b.hatena.ne.jp/entry/253335919/comment/t-oblate
http://b.hatena.ne.jp/entry/253200785/comment/etc-etc

crowserpentcrowserpent 2015/06/03 08:44 >司馬光氏
 うーん、私が司馬光氏の記事から受け取った「強者男性」のニュアンスは、ご本人の想定から結構ずれてたんですね。
 司馬光氏の書かれている「フェミニズムが要求し、強者男性がしぶしぶ従う」という事象を、私は主に「男女雇用機会均等法」や「産前産後休業」のような制度のことだろうと思ったので、ここで言われている「強者男性」とは権力者のことだろう、と考えていたんですよ。

> 「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!
> http://togetter.com/li/166146
>
> 「ヘドがでるけどナ」と書いた学生
> http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110730/1312022488
>
> この例で見られるのは、(強者男性が多数を占める権力者への訴え)では無いように見られます。
> むしろ強者?(上の例は単なる漫画好きだし、下は学生)の男性に対してある種のむきみのナイフを
> 突きつけているような読後感に襲われます。

 前者の中国嫁日記に関するまとめは、「批判」あるいは「罵倒」ではあっても「負担の要求」とは違うように思います(批判の内容が妥当だとは思いませんが)。
 後者の記事は私も以前読んでいますが、「学生」に対して「負担の要求」をしているわけでもなく、そもそも攻撃的なわけでもない(筆者の「戸惑い」は感じられますが)と思いますので、「ある種のむきみのナイフを突きつけているような」と形容されるというのがよく分かりませんでした。

crowserpentcrowserpent 2015/06/04 22:26 id:rag_en 氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/254197587/comment/rag_en
> まぁidコールの強要は出来ないし、しないけど、それとは別に「あてこすり」ぽい事されても正直なトコ気付けんですよ。
> こちらのブ※に対する指摘記事では無い、と明言して頂けるなら(これ以上は)スルーしますけど

 rag_en氏1人を指したつもりは無かったんですが、件の表現を実際にそのまま使ってるのがほぼrag_en氏1人だということに後から気付きました。確かにrag_en氏側から見たらあてこすりに見えてもおかしくないなぁと思います。誰がどのコメントをしているかチェックしてから引用する形にすべきだったと反省してます。

2012-12-12 天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 衆議院選挙を間近に控えて、自民党の憲法改正案が話題になっています。
 その中で、自民党の参議院議員片山さつき氏の次の発言が特に問題になりました。

国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!

 これに対し、「天賦人権論の否定なんて言語道断だ」という反応がある一方で、「天賦人権論なんておかしい、片山議員は正しい」という反論も複数出てきました。Twitter上での議論は既にかなりの量に上っています。以下のリストは私の目に付いたTogetterによる議論まとめを列挙したものですが、全部を網羅できてはいません。


 天賦人権論が「神から人権を授かったという一神教的な前提に立つものだ」という批判に対しては、法華狼氏が解説記事を書いておられます。

当然、天賦人権論は、単に天から人権が与えられたという宗教的な思想ではない。あくまで自然権思想を翻訳した時に「天賦」という表現が選ばれた。だから、天に与えられたという解釈を根拠として天賦人権論を批判しようとしても、レトリック以上の意味はないのではないか?
(中略)
そもそも「天賦」という言葉は、天に与えられたものという原義にとどまらず、生まれついての資質や、人の力で左右できないものも指す。
てんぷしぜん【天賦自然】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
天から与えられた、人の力ではどうにもならないもの。
つまり「侵すことのできない」もののことだ。

 天賦人権論が「一神教的な概念」であるという批判(というか誤解)に対してはこれで十分でしょう。「天賦」という言葉が嫌なら、「自然権思想」と言い換えれば同じことです。

 しかしながら、そもそも「天賦人権論が何を言わんとしているのか良く分からない」という人にとっては、これでもあまり納得はできないのではないかと思います。なぜなら、おそらく、「天賦人権論」に疑問を感じる人の多くは、「国家が出来てから人権を保障する仕組みが出来たはずなのに、なぜそれを人間が生まれながらに持っていることになるのか?」という疑問が真っ先に浮かぶだろうと思われるからです。

 そこで、まずは「天賦人権論」の基礎を作った一人であるイギリス思想家ジョン・ロックの思想をもとに、「天賦人権論」という思想のアウトラインを辿ることから始めましょう。その上で、天賦人権(自然権)やそれを前提にした憲法がなぜ必要なのか、を見ていきたいと思います。



 啓蒙思想家ジョン・ロック及び著書「市民政府論」は中学社会の教科書にも載っているくらい有名ですが、実際に読んだことのある人はそれほど多くないでしょう。「自然状態」という用語もよく知られてはいるものの、具体的にどんな状態が想定されているのか、詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。

 「自然状態」とは、政府や成文法が存在しない人々の状態を指します。ロックは、この状態においても人々は完全な無秩序と混乱に陥るわけではなく、各人が自分及び他人の生命・自由・財産などを維持するため、各人の理性に基づいた法(のようなもの)に従って行動すると考えました。これを「自然法」と呼びます。人類の歴史において、国家や政府が最初から存在していたわけではないはずであり、その時代の人々が無秩序と混乱の中で生きていたわけではない、と考えれば、それほど受け入れ難い考えではないでしょう。「無政府と無法は異なる」ということです。
 現在の成文法には、法を執行する政府があり、法に基づいて裁判を行う裁判所が存在します。国家の存在しない自然状態においては、法の執行・裁判を各人が行う、とロックは考えました。他人の生命・自由・財産などを不当に侵した者が居れば、当人あるいは第三者が自然法に基づいて裁定する。あるいは、権利がぶつかり合った二人の揉め事を解決するには、両者が自然法に基づいて話し合うか、あるいは適当な第三者に調停・裁定してもらう、ということになります。

 このような状態は決して無秩序ではありませんが、しかし問題も多いものであるとロックは言います。人間はとにかく自分の権利は大きく見積もりがちであるし、自分の興味が薄いものに対しては真剣に考えない傾向があるため、各人が勝手にやっていたのでは自然法に基づく裁定が公正に行われず、各人の権利の保護に支障が出る。そのため、人々が互いに契約して国家を形成し、自然法の執行権・裁判権を人々が選んだ代表者に委ねたのである、というわけです。

 この場合、人々が委ねたのはあくまで法の執行権・裁判権であって、もともとの生命・自由・財産などの権利ではありません。それらの権利を守るために国家を形成したのですから、国家によってそれらの権利が侵害されたのでは本末転倒です。
 もし国家が、人々に託された法の執行権・裁判権を利用して人々の生命・自由・財産などを恣意的に侵害し始めるならば、そのような国家は国家としての存在意義がないことになります。従って人々は、そのような政府に従う道理はないので、現政府を打ち倒して新たな政府を立てる権利がある、とロックは主張しました。これが有名な「革命権」という概念です。

 「人権を守るために国家があるのであり、国家が人権を与えたのではない」という考え方は、このような思想的背景に基づいています。天賦人権論は「国家の存在意義とは何か」という問いと不離の関係にあるわけです。

 ロックが想定した自然権は生命・自由・財産など、現在の基本的人権の概念より狭いものですが、人権概念は時代とともに拡大していきました。しかし、「人権を守るために国家があるのであり、その逆ではない」という思想そのものは共有されていると言っていいでしょう。



 さて、では、このような天賦人権論を否定すると、何が問題なのでしょうか?

 天賦人権論を否定した場合の人権概念は、大抵の場合「国賦人権論」になります。これは、国が国民に人権を賦与したのだ、という考え方です(天賦人権論においては、国家は自然権を追認したに過ぎません)
 国家が人権を作り出して国民に賦与したのであれば、国家がなければ人権は存在し得ないわけですから、国民には人権を侵害する政府を倒す権利(革命権)はもちろん無いことになります。またそもそも、国家が人権を規定しているのですから、国家は人権を制限することも出来ます。

 例えば「権利を享受するには義務を果たさなければならない」という主張は、国賦人権論的な発想に基づくと言えるでしょう。これは国家が国民に権利を与える代わりに義務を果たせ、というバーターの関係であり、国家が与えなければ人権は存在しないということを前提にした主張だからです。

 「権利を主張したければ義務を果たせ」というのは当然ではないのか?と思う人も少なくないでしょう。しかしながら、ここにはある種の混乱があります。これについては電脳くらげ氏が詳細に解説しておられます。

よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。
(中略)
例えば、僕には選挙権がある。投票所に行って、国政の代表者を決めるための投票を行う「権利」があるわけである。そして、国には、僕(をはじめとする国民)が選挙権を行使できるよう、選挙を法律に基づいて実施する「義務」がある。「権利行使には義務が伴う」というのは、この場合、僕が権利を行使できるように、国家が義務を負うということである。

国家対個人以外に、私人間の契約でも「権利行使に義務が伴う」という場面はある。例えば、僕がパン屋であんパンを買ったとする。その場合、僕はあんパンの引渡しを店員から受ける「権利」を有する。一方で、店員は僕にあんパンを引き渡す「義務」を負っている(民法では、この権利・義務を債権・債務という言葉で表現する)。
(中略)
このように、「権利行使に義務が伴う」というフレーズは、国家対個人、あるいは私人対私人という関係において、一方が権利を実現するために、片方が義務を負うということを表現しているに過ぎない。
(強調は原文ママ

 つまり、「義務を果たす」ことと対になるのは「自分の権利」ではなく「相手の権利」であるわけです。このことは、「守秘義務」や「表示義務」のような言葉を考えてみても分かるでしょう。
 とすれば、「人権の享受のために義務を果たせ」というフレーズの場合、「権利の受け手」は国家であるということです。「国家は国民に○○をさせる権利があるのだから、その義務を果たせ。さもなければ人権は与えないぞ」と言っているわけですね。

 これの何が問題か? 国家が国民に人権を与える代償として義務を課すことが可能になるということです。これは、(国家が勝手に定めた)義務を果たせない人間から人権を取り上げることができる、ということでもあります。天賦人権論に基づく憲法は、このように「人権に恣意的な制限を加えてはならない」という国に対する義務を定めたものだと理解して良いでしょう。

 それでもまだ疑問を感じる人が居るかもしれません。民主国家においては、国家の代表は国民の選挙で選ばれた人たちです。それがなぜ国民の権利を恣意的に侵害したりすると前提しなくてはならないのか?人権の内容の制限が民意に基づくものであるとするなら、国民の不利益になるとは言えないのではないか?――このように考える人も居るかもしれません(もっとも、このような考え方であれば、憲法はそもそも必要ないことになるわけですが)
 それに対しては、このように答えておきましょう。不可侵の基本的人権という概念のない民主政の場では、「8割の賛成で、2割の人権を剥奪する」ことが可能になってしまう、と。イギリスの清教徒革命やフランス革命における大量処刑や、ソ連のスターリンによる大粛清は、いずれも「市民」「人民大衆」の名のもとに行われました。そして、自分がいつ「人権を剥奪される側の2割」になるかは誰にも分かりません。

 もちろん、憲法もまた多数決の原理で採択されたものである以上、少数派の人権を抑圧するものになってしまっている可能性は否定できません。また、天賦人権論に基づく憲法があるからといって、人権を保護するに十分であるわけでもありません。現に人権侵害は常に起こっていると考えられますし、現行の法の中には不当に人権を抑圧・侵害するものもあると考えている人は大勢います(私自身もそうです)。
 しかし、国家に人権を守る義務を課させる憲法は、少なくとも国家による人権侵害をある程度食い止めうる歯止めの役割を果たしていることも確かです。そして、天賦人権論の否定の上に立った憲法は、そうした歯止めの役割を果たせないのです。



(12/14追記)
コメント欄でのやりとりの一部を掲示板へ移行しました。

あえらあえら 2012/12/12 22:46 君の信仰を認めよう。だがそれを批判する立場も認めてよ。憲法の前提ならば彼らには革命しか残されていないんだから。

crowserpentcrowserpent 2012/12/12 23:08 >あえら氏
 仰りたいことがいまいちはっきり掴めないのですが、この記事では「天賦人権論の思想的背景」と「それを否定したときに生じる問題」について述べているのであって、「天賦人権論は無謬であるから批判は許されない」という趣旨ではないですよ。

あえらあえら 2012/12/12 23:10 では憲法改正において基本的人権が不可侵であるという立場ではないのですね。

crowserpentcrowserpent 2012/12/12 23:17 >あえら氏
 天賦人権論にも批判点はあるということと、憲法改正において基本的人権を制限する改正が妥当かどうかとは別の問題だと思いますが。私は後者については妥当ではないと思っています(理由はこの記事で述べた通り)。

フキハラフキハラ 2012/12/13 01:35 自然法によって基本的人権があるなら明文法(憲法)から削除されたとしてもなんら問題ないのでは?。
削除されることをを問題視するのは天賦人権論や自然法を否定しつつ、それを言い訳として国に天賦かつ不可侵なものとして認めるように言っているようにみえますが。
それから、基本的人権を神聖不可侵に見るひとは、どうも国家と国民を不倶戴天の敵同士として語りますね。そしてスターリンとか極端すぎて頭が痛くなる例を出さす。そこに左派的な嫌な匂いのする誘導を感じてとても賛成はできません。

gart_hgart_h 2012/12/13 04:53 >自然法によって基本的人権があるなら明文法(憲法)から削除されたとしてもなんら問題ないのでは?

『自然法によって基本的人権がある』という考え方はあくまで最小でも一個人の考えであり、万人に通じる真理的な物では無いと思います。(私個人としてはここに書かれている内容は納得出来ると思っていますが。)

また、仮に現状の政府が『自然法によって基本的人権がある』という認識の元に法の運用を行うとしても、それが未来永劫確実に保証されているものでも無いと思います。

むしろ現状においてすら、政府の法の拡大解釈によるグレーな運用はたまに行われているように見受けられます。

crowserpentcrowserpent 2012/12/13 05:41 >フキハラ氏
>自然法によって基本的人権があるなら明文法(憲法)から削除されたとしてもなんら問題ないのでは?。

 駄目です。現在も人々が自然状態にあるのであれば(あるいは国家が解体されるのであれば)それで構わないでしょうが、そうではないからです。
 記事を再度読み返してみてください。現に人々は国家に属している以上、法の執行権と裁判権を国に委ねており、国が自然権を無視しても(革命権を行使しない限り)それを自然法に則って排除することは出来ないんです。だから予め明文法にしておかざるを得ないんです。

 ヨーロッパの歴史的な例がお気に召さなければ、最近の日本の、それほど極端でない例を挙げましょう。
 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50400371.html
 オウム真理教元代表・麻原彰晃の子ども達が、地方自治体によって転入届の受付け拒否や退去勧告を受けた、ということがありました。居住・移転の自由を行政府が侵害した非常に分かりやすい例で、まさしく「8割の賛成が2割の人権を侵害した」図式と言えるでしょう。裁判所は憲法に記載された自由権・平等権とそれに基づく法律に則って、この処置を認めませんでした。

LawNeetLawNeet 2012/12/13 08:19 初めまして。コメント失礼します。

天賦人権論と対置される概念は国賦人権論であるという考え方は、一般的なのでしょうか。

こういった基礎法分野の研究は不十分なので、多分に感覚的ですが、個人的には、社会契約論(または法治主義)であると考えました。すなわち、国家と国民が社会契約において合意した内容としての憲法があり、その憲法が規定している権利であるからこそ、保障されなければならない、とする考えです。

そして私はこのような考え方に立ったとしても、憲法の基本的人権の条項を削除/制約する改変が許されるとは思いません。

少々話がそれましたが、
> 天賦人権論を否定した場合の人権概念は、大抵の場合「国賦人権論」になります。
についての理由をご教授いただけないでしょうか。

私はバカです私はバカです 2012/12/13 12:15 思考実験として、
日本人の八割が改憲を望み、人権を不要だと世論調査で回答した場合、民主的手続きに則って改憲すべきでしょうか。それとも、そんなことはあってはならないこととして世論を認めない、とすべきでしょうか。

まあ、憲法に載ってようといまいと人権無視な人々なんてたくさんいますし、それが社会の形として現れてる以上、「絵空事」として見てる人はそれなりにいそうですが。
(憲法がそういう実態に即したカタチに変えるべきだ、と言いたいわけではありません)

疑問疑問 2012/12/13 19:36 逆に欲しくもない人権を定めることで、本人の権利の問題にされてしまうことも?

国家が革命権を認めなくても反乱や革命は自然発生するわけで非民主国家、失敗国家ではよくあることですね。そういう騒乱をなしで改革を行いたいという願望が革命権という自然権じゃないですか。

疑問2疑問2 2012/12/13 19:39 国家は人権を守るために存在するのだから、反国家的な行為は人権侵害に繋がるので弾圧すべし、という論理もありですか。

crowserpentcrowserpent 2012/12/13 20:58 >LawNeet氏
 社会契約という言葉は通常、天賦人権論(自然権論)に対立するものではありません。というか、記事本文で挙げたロックによる国家形成の過程がまさに「社会契約」と呼ばれています。法治主義も同様に天賦人権論の対立概念ではありません。(もしかすると「法実証主義」と混同されているのでしょうか?)

>国家と国民が社会契約において合意した内容としての憲法があり、その憲法が規定している権利であるからこそ、保障されなければならない

 この文言だけでは何とも言えませんが、「憲法が規定している」ことのみを以って人権保障の根拠とするのであれば、(自然権という概念を否定しているので)国賦人権論的だと言い得ると思います。
 要は、自然権という概念を否定した上で「人権」概念を構築しようとすると、「国家が明文化しているから」という説明にならざるを得ないため、国賦人権論的な説明になるということです。いずれでもないような「人権」概念の説明が存在しないわけではないかもしれませんが、私はちょっと思いつきません。

>私はバカです氏
 どのような意味で「すべきかどうか」と問うているのか分からないので、あまり意味のない質問だと思います。

>疑問・疑問2氏
 何が問いたいのかもう少し整理してからコメントしてください。「反国家的な行為は人権侵害に繋がるので弾圧すべし」というのは天賦人権論の立場からはもちろん否です(記事をちゃんと読めば分かるはずですが)。

あえらあえら 2012/12/13 22:11 自然の法則は弱肉強食なわけで、それを抑えこむために我々は自覚的に人権を保護していく必要があるわけですよ。衣食住が基本であるならそれを維持するために仕事をしなければならない。それこそが自然だろ。

YoshiCivYoshiCiv 2012/12/13 23:50 自分は今自然法に興味が有るのですが、
からすへびさんにお伺いしたいことがあります
1自然法or自然権は「ある真理があるときそこから導き出される人間関係での原則」出逢ってますか?
2何か自然法関連で超いい本あるなら教えて頂けませんか?
3インドのDharmaは自然法に入りますかね?

crowserpentcrowserpent 2012/12/14 03:18 何が言いたいのか理解できないコメントにはこれ以降反応しません。

>フキハラ氏
 貴方が記事の内容を全く理解できていないことはよく分かりました。現在国民と国家は一体であるとか、日本には階級闘争はなかった等という歴史認識にはおめでたいとしかコメントのしようがありません。これ以上自説を開陳したければ、ご自分のサイトなりブログで行ってください。

>YoshiCiv氏
1 「人間関係での原則」というとかなりニュアンスが違うと思います。
2 「超いい本」があるかは知りませんが…。個人的には、自然権思想について勉強したいのであれば、下手な解説書を読むより原典に当たられた方が良いのではないかと思います。ジョン・ロックの自然権思想であれば「統治二論」http://amazon.co.jp/dp/4000241400 (記事で挙げた「市民政府論」の新訳)をまず読んでみては如何でしょうか。
3 インド哲学(ですよね?)の概念には詳しくないので分かりません。すみません。

crowserpentcrowserpent 2012/12/14 03:35  はてなidを持っていない方には申し訳ありませんが、あまりにも記事内容を理解していないコメントが目に付くので、コメント欄を一時はてなユーザー限定にします。

crowserpentcrowserpent 2012/12/14 06:10 やりとりが長くなってきたので、フキハラ氏とのやりとりを付属掲示板へ移動させます。以後のレスはこちらでお願いします。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/comic/3875/1355432067/