来 る べ き 書 物

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本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2016-11-18 全学共通日本史(16秋)(書きかけ)

パブリック・ヒストリーのあり方に疑問があります。そのような議論の場に参加することができるひとは、やはり知識人寄りの一般人なのではないでしょうか。

パブリックヒストリーは、そうした概念でも活動でもありません。すでに世界では幾つかの実践例がありますが、例えば、ある河川の水産資源をめぐるファースト・ピープルズ(先住民=狩猟採集民)と白人地域住民、自然保護団体、行政関係者、研究者をめぐる意見交換では、それぞれの選ばれた代表や、あるいは抑圧の情況を回避するために、地域自治体や集会や部族の会合などへ、それぞれの代表が訪ねていって説明や意見交換を繰り返す、ということがなされています。確かに、どのような意見交換の場を設けるのか、何を目的に議論するのか、どういった形で意見交換を行ってゆくのかは難しいことで、ケース・バイ・ケースの割合がかなり高い。そのためにも、各国・各地域におけるケース・スタディを蓄積し、常に参照しうる材料を増やし、公開してゆくことが肝要です。

クラストルの考えを聞いてみて、人類はどのような方向に向かうのが幸せなのか、と考えずにいられませんでした。先生はどうお考えですか?

難しいですね。もちろんぼく自身にも、国民国家の先にある「必要なシステム」はみえてはいません。しかし、あらゆる人間集団にとって、可能な限り公正な状態を保持できるシステムを模索してゆく必要はあります。資本主義がその仕組み自体に格差を拡大し続ける因子を持つなら、それを是正することはいかにして可能なのか。国民国家が統合のために個々の自由を抑圧するのならば、それを回避することはどのようにして実現しうるのか。そうした課題、諸問題を追究してゆくためにも、国家形成とは異なる道を歩んだ人々の智慧は重要だろうと感じます。また、自分の立っているポジションを常に相対化し、別のあり方、ベクトル想像してみることは、閉塞に陥らないために必須の心構えでしょう。

アナール学派について初めて聞いたのですが、現在も残っている学派なのでしょうか?

もちろんですが、より正確なことをいうと、『アナール』に集った歴史学者たち自身は、自分たちのことを「学派」とは捉えていません。あくまで、他の歴史学者や、隣接する分野の研究者たちがそう呼称したことに由来しています。「学派」というと共通の方法論、理論などがあるかのようですが、むしろ彼らはそうしたあり方を拒否し、個々の自由スタンスをもって、過去に向かおうとしている/してきたのです。

社会史に関して、「世界をより根本的に規定している日常性」とはどういうことでしょうか。

これまでの歴史学が、国家の変転において重要な事件を主要な対象に叙述してきたのに対し、それら事件を生み出す日常自体に価値を見出すということです。つまり、日常性のなかで、人々が何をどう感じ、考え、行動しているか。それにも時代時代で相違があって、世界を最も基底的に決定づけている。アナールの第2〜3世代の総帥ともいえるフェルナン・ブローデルは、歴史をa)地理的歴史、b)景況、c)事件の三層構造で理解しました。aが自然環境と密着した日常性の歴史(生活史、生業史、一部の心性史・感性史、環境文化史など)で、最も変わりにくく、時間をかけて変化する(長期持続)。bは経済や社会、cは国家や事件の歴史。それぞれ中期持続、短期持続で、cなどはめまぐるしく変化してゆく。これらのうち、根底的かつ長く世界を規定しているのはaであって、bやcはこれを基盤に生成変化している。ゆえに、日常性をこそ重視して解明してゆかねばならないとされたわけです。

社会史は文化人類学に似ていると感じた。社会史が流行した当時は、文化人類学はなかったのかもしれない。しかし、歴史と民族史は違うものなので、分けて考えたほうがよいと思う。

アナールは、当時人類学的な要素を多く持っていた、デュルケーム社会学の影響を受けて生まれました。その後も、社会学文化人類学とは連携を欠かさず、なかには「歴史人類学」を標榜する人もいます。「歴史と民族史は違う」というのはどういうことか分からないのですが、歴史学と人類学には重なるところが多くあり、前者過去を、後者は現在を扱う、前者は過去に書かれたもの、後者はフィールドワーク経験や収集資料を素材とするなどの相違はあるものの、連携しないと明らかにならないこともたくさんあるのです。そもそも、学問とは対象によって決まってくるもので、制度によって分別できるものではありません。ぼくも、ずっと民俗学者人類学者と一緒に仕事をしています。

現在、文化人類学を受講しているのですが、人間のモラルや考え方などの内容が、こちらの講義ともかぶっています。今日、その関連している学問(社会学、人類学、心理学など)は、アナール学派によって作られてきたのだと知りました。

ちょっと誤解があるかもしれません。上にも書きましたが、アナールは、19世紀末〜20世紀初頭のヨーロッパで繰り広げられた新たな学問の勃興、とくに社会学民族学精神分析学などの活動に大きな影響を受けて誕生しました。その逆ではありません。とくにデュルケーム社会学は根底的なインパクトを与えており、デュルケーム弟子であったフランソワ・シミアンが、当時のフランス実証史学の第一人者であったシャルル・セニョボスを批判した一連の論争が、伝統的国家史を否定し社会史を生み出す契機になったのです。講義で紹介したブロックやフェーヴルは、やはりデュルケーム弟子であった『贈与論』のマルセル・モース、『集合的記憶』のモーリス・アルヴァクスらと共同の研究会を持ち、自らの歴史をみる視座や方法を磨いていったのです。

国家が最良の社会形態かどうかという問いは、納得をもって受け容れられましたし、考えるところがありました。しかし、古代と近代の国家では、少し性格を異にするため、同様に論じることができるのかという疑問があります。

そのとおりですね。ちなみに、マルクスやエンゲルス以降の社会科学的国家論は、いわゆる古代社会からどのようにして国家が誕生し、その性質を変えながら近代の国民国家に辿り着くかを史的に論じています。クラストルが射程に入れたのは国家の始原への批判ですが、スコットのゾミアは中近世、そして近代の領域国家の問題を扱っています。さらに現代の狩猟採集民、焼畑農耕民、移動民の間にもさまざまな国民国家との軋轢、衝突があり、国連が彼らの権利保護する宣言を採択しながらも、まだまだ国際社会搾取と抑圧を続けています。クラストルやスコットの射程は、現代国家にも向けられているのです。

「ハーメルンの笛吹き男」の話で、子供を請負人に引き渡した親たちの後ろめたさが、伝承を発生させ維持させてきたと聞きました。しかし、それは現代の私たちの想像であって、当時の子供たちを思う気持ちは、今日とは違うのではないでしょうか。 / 後ろめたさが伝承を生むとは、具体的にどのようなことなのか。

子供古代から現代に到るまでどのようにみられてきたかという、『子供誕生』という書物も、アナールの歴史家 フィリップ・アリエスの著作にあります。それによれば、確かに中世には子供という概念がなく、7歳前後に言語コミュニケーションが可能になると、大人と同様に労働するものとして扱われたと論じられています。しかし上記は、いわゆる近代以降の〈子供認識以前に、自分の血縁者を口減らしのために売り渡すことへの罪悪感が問題とされています。芸能者の差別に対する報復も、やはり倫理的問題が絡んでいます。世界的に語り継がれる神話伝承の多くには、経済的社会的倫理的負債感を相対化し、自分たちの行為を正当化したり、隠蔽する方向で語り出されたものが極めて多く存在します。「ハーメルン」の場合も、そうした意識が集合的に広がっていればいるほど、支持を集め、語り継がれていったと考えられます。

ハーメルンの笛吹き男の話で、背景に植民の問題があるとのことでしたが、これと似た日本の伝承にも、何か歴史的出来事との関連があるものはないのでしょうか?

日本にあるよく似た伝承というと、やはり人さらい、神隠しに関するものでしょうか。アジアでは、山人によって女性が掠われて子供を産まされる、という系統の話が広汎に残っていますね。例えば、4世紀の中国江南編纂された志怪小説『捜神記』には、玃猨という猿のような妖怪が山に入った女性を掠って子供を産ませる、蜀(現在の四川省)にはその子孫たちが楊姓を名乗って多く住んでいる、という話が載っています。『捜神記』は、当時の江南地域民族誌としても読みうる性格を持っており、この伝承は猿を祖神とするトーテム集団、少数民族を、漢民族の視点から記述したものと考えられます。一方、日本近代岩手県を題材とした『遠野物語』にも、類似の山人譚が収められています。やはり、山人が里の女を掠って、仲間にしてしまう。猟師が山中で女に再会すると、髪の長い山女になっていたという内容です。これは『捜神記』に連なる幾つかの類輪に基づいている可能性もありますが、平地に住む稲作農耕民と、山地に住む狩猟や焼畑を生業とする人々との軋轢、前者の後者に対する偏見、先入観に由来するひとつの表現形式のようです。

ロイヤル・タッチのような宗教行為は、現在どの国においても存在していないように思います。一体いつ頃から、どのくらいのスピードで、このような共同幻想は薄れていったのでしょうか。

ブロックの『王の奇跡』では、まさにロイヤルタッチが失われてゆく過程を、中世王権の終焉として描いています。つまり、王と民衆との間で醸成されていた共同幻想(集合信仰)が解体してゆくというものです。このイギリスフランスの神聖王権のあり方は、正確にいうと、グレゴリウス改革に対抗する世俗王権の一表現であり、民衆の王に対する忠誠・信頼がそれを可能にしたと考えられています。しかしイギリス名誉革命フランス革命に至るプロセスが、それらを解体してゆく。すなわち、民衆の王に対する信頼が失われた時点で、王の(持つと信じられた)徳性に起源するこの信仰も消えていった、というわけです。

宗教的権威と世俗権力の一致/分離などは、世界的にみてどうなのでしょうか。分離している国が多いのですか、一致している国が多いのですか?

近代国家は、国民の信教の自由を侵犯しないため、祭政分離が原則とされています。よって現在では、分離している国の方が多いでしょう。しかし一般的には、部族社会の首長なり、王権なりは、時代的に古ければ古いほど、世俗的権力宗教的権威を併有していたと考えられています。それが次第に時代を経過してくると、神霊を祭祀しその託宣を受ける役割などが、他の宗教的専門家へ分有され、分離してゆく。社会的分業の一局面です。例えば日本列島では、古墳時代においては、地域首長古墳の被葬者の神的力を得て統治を行う、ヒト=カミであったとみられています。それが古代国家の大王、律令国家の天皇になると、それ自身でカミである現御神を標榜していながら、卜占と祭祀を担う神祇官中国的卜占や呪術を担う陰陽寮、仏教的呪術を担う寺院僧侶などが分立してゆく。国家の宗教的な現状は、そうした歴史的経緯の結果としてあるわけです。

世俗的権力の足りない部分を宗教的権威によって補完するという現象は、現在ではみることができません。明治政府の政教分離政策が原因なのでしょうか。

上でも述べましたが、それが近代国家のひとつの条件であるためです。しかし日本という国家が奇妙なのは、象徴天皇制が存在することによって、やはり国家権力宗教的権威によって補完されていることです。また靖国神社のように、一般宗教法人であるはずの一神社へ国家の官僚が公人として参拝し、あたかも国家的祭祀が斎行されているかのような印象が醸成されている点も問題です。靖国神社は、授業でお話ししたとおり、国家神道形成されてゆく段階で神道から排除された宗教的機能=死を扱うことを、一身担うべきものとして設置された機関です。それが未だ、国家に関係するところで機能しているということは、戦前の体制が持続していることをも意味します。

ミクロストリアという歴史学の一分野について聞いたことがありますが、アナール学派の一派なのでしょうか。

アナールではありませんね。ミクロストーリアはむしろアナールに触発され、また対抗して、1970年代頃にイタリアで始まりました。ジョヴァンニレーヴィやカルロ・ギンズブルグが代表的歴史家です。唯物史観が扱ってきたような、普遍理論に基づく巨視的な歴史把握ではなく、過去の細部に注目する方法です。例えばギンズブルグの代表作『チーズとうじ虫』では、16世紀異端審問記録を丁寧に読み解きながら、火刑に処された粉挽き屋メノッキオというひとりの男の、独特の宇宙観、神話世界を復原してうゆきます。「取るに足らない」一般民衆個人の思想など、国家史や事件史はまったく重視してこなかったわけですが、そうした「零れ落ちてしまう」細部にこそ、歴史の豊かさや多様性が現れる。ミクロストーリアは、ミクロマクロの往還を通して、ステレオタイプとは異なる、歴史の多様性を描き出してゆく試みといえます。

日本では、幕府が新たに設立されたときや代が替わるときに、将軍が天皇に拝謁しにゆく慣習があったと思います。それは幕府の権力に、どのような力添えを望んでいたのでしょうか?

日本の幕府制度のそもそもの起源は、中国六朝時代の府官制にあります。その頃の倭では、いわゆる倭の五王が、劉宋に朝貢して将軍職を獲得しようとしていました。北朝胡族王朝との戦闘、国内での内乱が相次いだ劉宋では、開府儀同三司の権限を認められた将軍職が、派遣地域の混乱を鎮圧し臨時行政府を設置し、配下に官職を仮授する仕組みがありました。五王らはそれを得ることによって、列島に幕府を開いて官職を仮授し、ヤマト王権の内実を整えようとしていたわけです。鎌倉幕府以降の仕組みもこれと同じで、頼朝は臨時であるはずの将軍職、幕府を恒常化することで、朝廷に対抗しうる政権を育てようとしたのです。しかし、核となる将軍職の任命権が、中国では皇帝日本では天皇にあることは否定できず、その宗教的権威をいかに次第に吸収しようと、江戸幕府においても天皇朝廷権威解体はできなかった。いいかえれば、幕府の世俗的権力宗教的権威基本的源泉は、常に天皇朝廷であったのです。

授業には直接関係ないのですが、最近、ポリティカル・コレクトネスがネットで話題ですが、これの暴走が起きていると私は思います。どうでしょうか。

「暴走」をどういう意味で使用しているのか分からないのですが、「倫理的配慮が行き過ぎる」という意味なら、ぼくはそうは思いません。確かに価値観多様化により、さまざまな倫理的根拠は入り乱れており、トランプ以降のアメリカと同じく社会的分断が進んでいることは確かです。例えばぼくが研究している諏訪大社では、ある弁護種グループから、その伝統的神事である蛙狩りが動物虐待と非難され、御柱祭が人命を軽視する神事として攻撃されています。相手は「批判先にありき」で攻撃のための攻撃を行っているので、議論しても共同の着地点は見出せません。こういう場合は、研究者が何らかの形で介入しなければならないでしょうね。しかし、日本の社会が、他者を抑圧し暴力を振るうことに無頓着で、責任を感じない特徴を持っていることも確かで、倫理的公正さをめぐっては、慎重に慎重を期すべきと考えます。例えば、最近一般的語彙として定着してしまった「ブラック企業」。公共放送でも普通に使用していますが、もとはネットスラングで、黒=悪と、blackにマイナスの意味を持たせたものです。このような用法は、黒人差別の歴史をくぐり抜け、現在も直面しているアメリカなどでは使えません。日本にも黒人の人々は住んでいるわけですから、彼らへの暴力にもなりうる言葉遣いなのです。グローバリズムを叫んでいながら、倫理的にはまったくグローバルになっていない。人権問題については国連の勧告を受け続けており、こうした倫理観の欠如に、日本社会の問題が表れているように思います。

なぜ社会史が衰退し、言語論的転回に変わったのかがよく分かりませんでした。 / 「転回」により、人間のみている世界は人間特有、ある言語を用いる者特有、ある状態にある個人特有のフィルターにより、歪められ造られたもので、実体の世界は異なると捉えられたそうですが、例えばもろもろの社会史研究も、時代ごとに人々のみるものが違い、異なる世界に生きていることを示すことで、同様の結論に至っているように感じます。「史料」の不正確さのためだけに、社会史・歴史学は批判されたのでしょうか?

言語論的転回の歴史学批判は、主に実証主義的な歴史認識、叙述のあり方に対して向けられました。社会史もそれらを批判していたわけですが、その全盛期は社会史研究者が歴史学界を代表していたようなところもあり、また隣接諸科学との協働も進めていたので、「転回」の批判に対して社会史が回答をするという構図になってゆきました。その意見交換のなかで、社会史側にも実証主義を克服しえていない部分が暴露されてゆき、そこを批判されて大きく勢いが阻害されたことも確かです。日本の歴史学界のレベルでいえば、社会史を主導していた人々や、近現代史でアクチュアルな問題と常に向き合っていた人々以外、しっかりした理論的対応、議論ができなかったという意味もあります。一般の歴史家たちは議論を敬遠して遠離り、社会史の人々は議論の応酬に倦んでしまった。そうして時期的に社会史の牽引者が亡くなってゆき、「歴史学者はもっと地に足がついた研究をすべき」という反動的雰囲気が強くなったという印象です。実際に網野善彦らの死後、「彼が遺した実証的成果はなにひとつない」といった批判や、『網野善彦の超え方』などという本まで出るに至りました。このあたりのことは、純粋に学問的議論を通じて枠組みや傾向が変わっていったというより、理論忌避のムードが高まるなかで、社会史は流行として処理されてしまった面が強いように思います。

言語論的転回の説明に際してあった「部屋の譬喩」は、個々が世界を選択的にみている、ということでよいのでしょうか。

クリサート・ユクスキュルの『生物からみた世界』に使用される部屋の譬喩は、多くの生物所与の機能によって分節された世界、すなわち環境意味しています。ゆえに、空間の諸要素を選択するというより、生物によって構築する世界環境が異なるといった方が性格です。あの説明にも限界があって、同じ部屋の図を用いるということは、それぞれの生物によって、空間が同じように「みえている」ことを前提にしてしまっているところがあります。実際は、ハエと人間とでは、「みえて」いる世界自体が違う。ハエにとって、食器と照明以外はみな同じものであって、区別されていません。真っ黒な空間に、明るい光体と、臭いを放つ物体が浮かび上がっているだけなのです。部屋という認識自体もありません。これは選択の結果ではなく、生物によってそれぞれ決められているのです。

日本史の先生が中国の少数民族のフィールドワークをされていたというのは意外でしたが、そこで得られた知識が歴史学に繋がったり、活かされたことはあるのでしょうか?

ぼくの行っている研究では、すべてが有機的に関連しています。そもそも世界は繋がっており、単独で生起する事象などないわけですから、あるひとつのことを明らかにしようと思えば、より広くより深い視野を醸成することが、対象を正確に捉える結果に繋がるのです。

以前に、最近のオリンピック報道に強いナショナリズムを感じる、という人の話を聞いたことがあります。先生はどうお考えですか?

今年の、リオ・オリンピックにおける日本報道は酷かったですね。かつては、より多くの国々の活躍を丁寧に報じていた。各国の選手に対する敬意、礼儀がしっかりありました。いまは、自国の選手を応援するばかりで、醜いなあと思います。ぼくは個人的には、東京オリンピック開催には反対です。歴史学的、環境倫理的にみれば、前回の東京オリンピックにおいても、それに関連した東京の大改造によって消し去られたものが多かった。また関連工事による物価の高騰と労働力の偏重によって、東北地域復興に障害が生じている。これを足がかりにリニアモーターカーの実用化が進められれば、その膨大な電力を賄うために原発を稼働させざるをえなくなる。原発が低コストという喧伝は使用済み核燃料の処理、事故の起きた場合などまったく勘定に入れていないので、でたらめもいいところです。福島第一の事故処理をみても、終息の目途は一向に立たず、その処理費用や賠償金が、結局税金や電気料金を通じて国民の負担になっている。列島火山が活動期に入っていること、気候の極端化による激甚災害が頻発していること、政府の煽るテロ行為をリアルに考えた場合、原発再稼働は自殺行為でしょう。オリンピックはやはり単独の事業として遂行されるわけではなく、政治・社会・経済の動きと連動しているので、注意しておかないと大きな問題を生じることになります。

2016-11-09 全学共通日本史(16秋)

「終戦」の語について、第二次世界大戦の惨禍を繰り返さないために、戦争の終わりを印象付けようと「終戦」としているとは、考えられないでしょうか。

まず、皆さんのリアクションをみていて、「終戦」という言葉の選ばれたこと、そうして現在でも使用されていることが、何か特定支配集団なり何なりの思惑に沿う洗脳、操作のように感じてしまった印象がありました。確かに、8・15=終戦記念日の設定には、巧妙な政治的判断があるわけですが、現在も「終戦」の言葉が社会に溢れているのは、そのような国家の意図だけでは説明がつきません。これまで、国体形成思想弾圧について説明してきたなかでも言及しましたが、日本社会は、国家の抑圧に率先して社会が糾弾をする場合が非常に多い。「終戦自体も、国家やメディア情報操作は少なからずあるにしろ、我々が戦争を災害と思いたい、自分たちや先祖加害者と思いたくないという、意識的あるいは無意識的な欲求が形を持った結果だと思います。なお、佐藤卓己さんの『八月十五日の神話』に詳しく書かれていますが、8/15は、日本がポツダム宣言を受諾した日でも条約に調印した日でもなく、全面的武装解除が終了した日でもなく(外地では未だ戦闘状態だった)、天皇が玉音放送をして終戦宣言した日に過ぎません。ゆえに、この戦争に関わった国で、対日戦争の終了を記念する日として、8/15を設定しているところはありません。しかもこの日は、日本では死者を弔う盂蘭盆に当たり、戦争の犠牲者を思い被害者意識を醸成する格好の条件を備えていました。「終戦」とそれに関わる記念日の設定が、いかに胡散臭いものであったかが分かります。

キャロル・グラックは、「後期近代」についての定義で、帝国主義や全体主義、全面戦争を経済成長を阻むものであるとしていますが、特需などを考えると反例になるでしょうか?

グラックの発想としては、帝国主義全体主義闘争の結果として全面戦争に至る、この点が問題です。特需というのは、自国が平和状態に置かれ、経済的関係においてのみ戦争に参加している状態で生じる事象でしょう。全面戦争に至ったならば、特需も何も、人的資産も物的資産も消費される一方で、場合によっては領土さえ失う、国家機構自体が毛壊滅してしまう場合もある。経済成長になど、到底至りません。

私は一般常識程度にしか歴史を学んでいないから、歴史は規則的、歴史は繰り返すようには考えられない。今から民主化が薄れ、独裁者が政治を行うように変わるとは考えられない。また戦争が起こるなんて、今は考えられない。でもだからこそ、歴史を学ぶマルクス主義者が「歴史は繰り返される」と考えて、これからの世に警告を発しているのかもしれないと思った。

重要な考え方ですが、マルクス主義は、「歴史は繰り返す」とは必ずしも考えません。あくまで、一定法則に沿って歴史が展開する、ゆえにその法則自体は、それぞれの時代で同じ論理が繰り返されるとするだけです。しかし、例えば重要なのはやはりイデオロギーに対する考え方。例えば、「今から民主化が薄れ、独裁者が政治を行うように変わるとは考えられない」という発想も、現在の政治・経済体制を堅持するためのイデオロギー作用し、生じている虚偽意識かもしれないわけです。事実日本においては民主主義的な法制、あるいは政治運営のあり方は確実に後退しており、国外ではそのように報道されています。秘密保護法などの内容はアメリカでさえ訝る不充分なものですし、安保法制を含む国会審議のあり方も、手順を無視するばかりか議事録改竄まで行う、あからさまなルール違反が繰り返されました。20年前には大問題となり、内閣総辞職に至ったであろう事態が、現在では、国内的には何も問題視されずに許容されてしまっているのです。日本においても、すでに民主化の後退は著しく進んでいるのです。

マルクス主義とは少し違うかも知れませんが、私は経済構造がイデオロギーを形成するという考えを持っています。例えば、第一次大戦後のドイツはインフレで経済破綻をしていた、そのなかでヒトラーの過激な思想に救いを求めたと思うのですが、これはマルクス主義的な見方でしょうか?

マルクス主義的にその情況をみるならば、ヒトラーを待望したのはむしろその経済破綻に打撃を受けた資本家層、富裕層であり、一般民衆は彼らの欲望を満たすべく扇動されたということになるでしょうね。ヒトラーが演説に用いた、人の感情に訴えるさまざまな言説も、民衆を誘導するための装置に過ぎないということです。

さまざまな学問の根幹にマルクス主義が関わったのは、非共産主義国では希有なこととの説明があった。もしそうなら、なぜ日本ではそのようなことになったのだろうか。日本の社会がマルクス主義に適合的だったのだろうか。

歴史的地域的にさまざまな差異多様性があることを考慮しなければなりませんので、不正確な発言になりますが、列島の社会には、個人の突出を抑え集団の利益を優先する傾向が強いところがあると思われます。ゆえに、ヨーロッパ的な意味での〈近代的個〉の確立が進まず、いまでも「世間」の評判や「空気」を読むことが重要視される。マルクス主義親和性があるかどうかはあらためて考えなければなりませんが、列島共同体が社会主義的な一面を持っているのは確かでしょう。

マルクス主義歴史学の人々は、日本で実際に革命を起こそうとは思わなかったのでしょうか?

もちろん、戦前思想弾圧の対象になったのは、マルクス主義者がコミンテルンの指導によって革命を起こし、現状の体制を打破しようとする意志を持っていたからです。戦後学生運動においても、すべてがすべてそうした思想に一元化できるかどうかは別として、革命志向されました。歴史研究者なかにもそうした考え方を持つ人々はいましたが、現在意識的に集団を作り武力革命を行うか、あるいは社会情勢の展開によってそうした情況が整うのを待つか、さまざまな立場があったのです。

私はマルクス主義に賛成ではないのですが、1950〜60年代の国民にとって、それはどのように市民権を得ていったのでしょうか。

やはり大きな魅力のひとつは、これまで国家が喧伝してきたものの虚偽性が露わになり、抑圧されてきたものを解放するベクトルみえたことでしょう。一般の人々が自らの生活改善してゆくために結社を作ることも認められ、各地で労働組合の形成も進みました。そうした運動の展開を援助・誘導したのは、共産党や社会党などのマルクス主義に基づく政党だったのです。今では信じられないことですが、京都府などは長く共産党帝国であり、1950年以降7期28年に及ぶ革新府政を行った蜷川虎三知事のもと、自民党と最大派閥を争う情況が続いていました。

世界が規則的に発展してゆくとのことであったが、例えば古代奴隷制は、日本ではどの段階に当てはまるのだろうか。

つまり、そうしたことを議論してゆくのが、時代区分論争であったわけです。極端にいうと、班田農民を奴隷と捉えれば古代となり、農奴と捉えれば中世ということになります。

世界に純粋な資本主義国がないなら、純粋は社会主義国はどうでしょうか?

ありませんねえ、つまりまだ実現されていないわけです。1989年以降、雪崩を打って崩壊した旧ソ連東欧諸国も、社会主義の理想を掲げながら充分実現できず、むしろその計画経済性に端を発する専制権力の強大化、共産党一党独裁の情況に陥り、マルクスらが目指したものとはほど遠い体制に至ってしまったのです。

世界史の発展原則に関心を持ちました。近代資本主義の次は社会主義、そのあとは何が来るのでしょう。今後の世の中がどうなってゆくのか、予測を立てる方法があれば知りたいと思いました。

現在はむしろ、そうした「資本主義オルタナティヴ」が構想できない状態問題なのです。ネオ・リベラリズム世界を席巻して種々の弊害をまき散らし、社会的格差の増大と集団の分断が加速するなか、資本主義の限界が誰の目にも明らかでも、それに変わりうるものを構想できない。『21世紀資本』を著したピケティですら、資本主義の宿痾たる格差の是正には富裕税の導入で対応するしかないとして、やはり資本主義の内部でしか対応策を打ち出せていない。それは社会主義諸国崩壊とも関わりがあるわけで、自らが「絶滅」に向かおうとしているのにそのイデオロギーは健在であるという、資本主義の恐ろしさを体現しているのかもしれません。

歴史学が、ナショナル・ヒストリー形成の役割から抜けだし独立?するのは、歴史学にとってメリットのあることなのですか?

学問としては、いかなるものにも抑圧されずに真理を追究できる環境理想的なわけですから、望ましい情況といえます。むしろ、戦後歴史学以降、歴史学関連の諸学会は概ねそうした意向です。

国民的歴史学運動の展開について、マルクス主義の考え方から、どう個々の主体のあり方に沿った歴史の形成へ、という視点が出てくるのでしょうか。

マルクス主義は、歴史の主体支配層よりも民衆、農民や労働者に置いたのです。現状の資本主義イデオロギー情況を打破するためにも、民衆の覚醒第一であり、その主体形成に寄り添わねばならない。そうした発想から、個々の生業に基づく国民的歴史学運動、そして民衆史や女性史などの視点が生じたのです。

民衆個々に寄り添う歴史というのは初めて聞いたのですが、面白い考え方だと思います。これは現在の歴史観にどのような影響を与えているのですか? / 知識人がその傲慢さから一般の人々、あるいは対立する人々を嘲笑し、思想を押しつけるような運動のあり方は、例えばそれが左派のものであったとしたら、極右のすることと何ら変わりはないと思う。こういった傲慢な態度に陥らないような運動は可能だろうか。

ぼくが現在参加している、宗教学者民俗学者社会学者らとの共同研究に、日本における「パブリックヒストリー」の構築を目指すものがあります。これは、歴史実践を専門的研究者の独占から解放し、異なる価値観を持つもの、異なる政治的ポジションにあるもの、異なる職業、異なる階層にあるものどうしが議論しあうなかで、公正な歴史のあり方を目指そうとするものです。いわゆる白人原住民との歴史をめぐる対立がある地域で、導入が進められてきた概念であり方法です。まだ始まったばかりですが、歴史学の民主化における最も先進的な取り組みとして、国民的歴史学運動などの反省を踏まえつつ進めてゆきたいと思っています。

東アジア世界論に興味を持ちました。中国が中心となり、文化が広がる背景には、朝貢形式が関係しているのでしょうか?

もちろんそうですね。次回から扱う古代の単元でも言及しますが、必ずしも冊封体制なかに入らずとも、朝貢を通じて中国文物が周辺に行き渡り、政治・社会・文化活動もそれを基盤になされるようになる。東アジアの枠組みは、良くも悪くもそのようにして形成されてきたと考えられます。

冬休み中の史跡見学で、どこかおすすめの場所はありますか?

そうですね、年末までに、おすすめスポットを紹介する時間を設けましょうか。ちょっと考えておきます。

2016-10-19 全学共通日本史(16秋)

近代歴史学のディシプリンがスタートしたとき、ドイツ実証主義に基づく西洋史部門がまず発足し、それに対置される形で国史も発足したという理由がよく分かりません。西洋を手本にするなら、西洋史だけでよいのではないでしょうか。 / 国史学科の設置はリースの申請によるとのことですが、この頃はまだナショナル・ヒストリーへの志向はなかったのでしょうか?

史学科の設置は、やはり最終的にはナショナルヒストリーを構築するための学問根拠であり、その担い手となる研究者養成するための機関でもあった。それゆえ、国史学科が設置されてゆくのは当然といえます。リースの申請に至るまでは、すでに民間で福沢諭吉らの動きがあったわけですし、帝大内部でも、国学や漢学の方法論に基づく国史研究は行われているのです。リースのそれは、あくまで「西洋史の方法を使った日本史」の始まりだったのです。

江戸時代に誕生した国学には、皇国史観と共通する考えが多いと思います。したがって、ある時期においては、国学から皇国史観への流れこそが本流であり、実証主義歴史学が例外的なものであった情況が存在したと思うのですが?

そうだと思います。西洋史の方法論に依拠した実証史学は、まさに特殊です。皇国史観の方が、前近代の考え方に近い部分があった。もちろん国家の強制は大きいですが、それでも社会の需要にある程度応える側面を持っていたからこそ、強く浸透していったのだと考えられます。

実証主義歴史学が主流となった現代では、教訓を重視する歴史の現在主義は非アカデミズムの世界でも存続しているとのことですが、例えば第二次世界大戦などから得た教訓は、今の学問では対象にならないということでしょうか。

現在の歴史学者のほとんどは、研究実践と、個人としての政治的立場の表明は別々だと考えています。ですから研究自体においては、教訓的眼線を差し挟むことはしませんが(つまり、「この事実は現在における教訓となるだろう」といった結論の学術論文はほぼ存在しません。教訓の探求は、歴史学命題ではなく、歴史哲学倫理学のそれになっています)、個人としては、例えば自分研究によって得た内容を何らかの教訓として利用する、ということはあるでしょう。

歴史をそのままに受け取り、個人の意見や人為的な教訓を加えようとしない、これは理想的な理念だと思いますが、もし第一次史料の時点ですでに私見が入っており、同じ件について他に史料がないときなどは、どう対処したらよいのでしょう。

さまざまなレベルでの比較という方法があります。例えば、古代において、Aという人物がある事件に際して取った行動を検証するとします。それについて書いた記録はひとつしかなく、同一記事については比較対象がない。しかし、例えばAが所属している氏族の性格、国家における役割政治思想などは他の史料から分かる。また、A自身政治的業績も、他の史料から断片的に分かる。また、同時代でAと同じような政治的社会的ポジションにあるBという人物の行動原理などが、他の史料から分かっている、等々。こうした他の様々な史料記述比較対照してゆくと、Aの行為果たして事実として蓋然性のあるものか、あるいは疑わしいかの判断がある程度可能になってきます。そうした関連づけられる史料をいかに探索するか、またその記述をどのように読んでゆくかがポイントになるでしょう。

明治大正期に、北海道大学等がアイヌの墓を暴いて強引に研究資料を集めていたとの記事を読んだことがありますが、史料編纂国史校正局などの史料収集も、強引に民間の史料を徴集したりしていたのでしょうか。

一般の人々を相手恫喝的に史料収集することは、建国間もない明治政府の正当性を動揺させますので、一応はきちんとした手続きを踏み、買取や借用などが行われたはずです。しかし文化的には混乱期でもあり、とくに廃仏毀釈が吹き荒れた情況においては、古寺の持つ貴重な史料群など、保存を名目にタダ同然で取得してきた場合もあったと考えられます。ちなみに北海道大学のアイヌ人骨収集は、和人の人種的優越性を科学的に立証するための、比較標本として収集されました。同大は同じような理由朝鮮人の人骨も奪取してきており、植民地経営の先端に立つ機関としてかなり問題の多い行動をしていたことが明らかになっています。

純粋史学と応用史学の分離の問題について、もし生徒たちが大人になって、事実を知ったらどうなるのでしょうか。また、実証主義史学は依拠する史料を史書や古記録などとし、江戸期以前の物語や稗史を否定したとありますが、例えば物語は伝統文化として意味があったはず。否定することに問題はなかったのですか?

戦前・戦中においては、応用史学知識教育された人々が、純粋史学研究成果に触れることは、機会としては多くなかったはずです。大部分の人々は、「皇民教育」を受けてその内容を信じ、国家主義的な思想や行動原理を持つに至ってゆくのです。また物語排除については、あくまで、歴史を構築するための史料として、ということです。『太平記』に書かれている種々の英雄エピソード、会話や教訓などを、江戸期の民衆たちは史実と信じていたわけですが(正確にいうと、史実かそうでないか、という判断自体をしなかった)、実証史学はその点を批判し、文学としての価値ではなく、史料としての利用のあり方を否定したのです。

あなたは現代で、国家にとって不都合な事実を教えることができなくなると思っているようだが、大学の講義で好きなだけそれらに触れることができ、ネットで閲覧することができ、図書館で見ることができる。日本では杞憂に思える。 / 久米邦武筆禍事件のようなことは、現在でも起きているのでしょうか。また、当時は、表現の自由を保障するものはなかったのでしょうか。

まず、この世界大学へ行くことのできるひと、ネット自由に情報を検索できる人、図書館自由に出入りして書物を閲覧できる人だけによって構成されているわけではありません。そうした環境にない人は大勢いますし、そうした環境にあっても利用しない人もまた大勢いるのです。よって多くの人々が、種々のメディアを通じて入ってくる情報に左右されやすい。そうして、その情報の成否判断基準となってくるのが、幼少期の教育によって形成された知的基盤なのです。もちろん、杞憂であればそれに越したことはないのですが、実際に東日本大震災以降のこの6年間においても、一般歴史的常識」は大きく変わり、保守的な傾向が強くなりました。久米邦武筆禍事件と類するような事象も、例えば慰安婦問題をめぐるバッシングに関連して、各地の大学で起きています。また、昨年の安保法案審議前後から、日本各地で「平和」と名のつくイベント博物館展示などが、「政治的偏向する」という理由で中止に追い込まれています。もはや、戦前・戦中に類似の事態が各地で起きているわけですが、そのことはほとんど報道されず、一般の知るところとなっていないだけです。もう少し自覚的に、注意深く、自分を取り巻く社会をみてみてください。

授業のなかで、今は歴史の根拠がアジア的共同体にある、といったようなことを仰っていましたが、具体的にどういうものか想像がつきにくかったです。

正確な文脈では、近代的個が確立していないアジア共同体では、個と神との葛藤をめぐるランケ的な実証主義が、深いところでは受容されなかったという話だったと思います。アジア共同体は、個よりも共同体の集合性が強く、またその共同体意志が、首長によって体現されるという性格を持っています。ゆえに、首長君主英雄としていただく、歴史の主体として位置づける考え方に陥りやすい。ランケの神の代替として天皇制機能してゆくのは、そうした心性も大きく影響していると考えられます。

ランケ的な実証主義が神の概念を欠落させて輸入されたとき、その代替として天皇制が機能したとの話を興味深く聞きました。しかしなぜ「天皇」であって、例えば「仏」や「釈迦」ではなかったのでしょうか?

面白い質問です。まず一つは、実証主義が国家の運営するアカデミズム機能したものであり、それゆえに国家主義的傾向を強く帯びたことがいえます。つまり、例えば民間の仏教信仰ではなく、君主である天皇を基軸とする世界観親和的であったわけです。また二つ目に、仏教は現在や現実を必ずしも進歩の結果とは捉えない、また現実世界の展開を仏の意志の実現とみるような歴史観存在しないこと。それゆえに仏教の考え方は、国家という到達点を高く評価するランケ的な進歩史観には適合的ではなかったのでしょう。

私たちが現在知っている神様の名前の多くが、近代に作られたことを知って驚いた。私たちは知らない間に国に操られていたのだと感じた。 / 日本には数え切れないくらい神社があると思うのですが。地方の神社もそのようになっているのでしょうか?

まず誤解のないようにいっておきますが、必ずしも「近代に創られた」神名を名乗っていたわけはありません。多くは、国家が国体聖典とした『古事記』『日本書紀』に登場する、古典的な神名に改められたということです。中世近世の神々をめぐる信仰の変化を捨象して、無理矢理古代に戻してしまったわけですね。また、『古事記』『日本書紀』に描かれているのはあくまで中央政府、中央宮廷神話であり、古代においてそれが「一般的」であったわけではない。もっと多様で地域に則した神々が存在したはずなのです。近代神仏分離廃仏毀釈神社合祀などは、それらをすべて無視し、国家神道価値観から神社を作り替えてしまったわけです。ただし、確かに地方の神社でそうした改変を免れた小社もあり、また古代から連綿と持続する神社存在することも確かです(ただし、祭祀儀礼古代から変わらずに維持されているわけではありません)。やはり、目前の事象をしっかりと批判的にみられるかどうかが、重要な鍵になりますね。

日本はかつて多様な宗教を信仰していたと思うのですが、いまなぜ無神論となってしまっているのでしょうか。

現在の日本社会は、必ずしも無宗教ではありません。それは、キリスト教的な宗教観でみた場合「宗教的」とはいえないだけで、実際はかなり宗教的なのです。例えば、正月。多くの人々が神社寺院初詣に出かけ、1年の無病息災などさまざまなことを祈願します。また7〜8月には、祖先の墓参のために多くの人々が帰省します。これらは列島社会全体で起きており、世界的にも注目すべき事例です。ただ列島の人びとは、キリスト教的な超越的神格ではなく、もっと身近に存在する自然精霊のような、アニミズム的な対象を崇めているのです(ただしこのような信仰のあり方自体が、年年衰退しつつあることも確かです)。

2016-10-12 全学共通:日本史(10/12分)

現在中学校や高校で使われている教科書は民間会社が作ったものですが、会社によって記述が異なる場合があるのはなぜなのでしょうか。国民統合の手段ならば、教科書の記述も統一した方が効果的と思います。

それをしてしまったら、もはや全体主義ですね。民間で教科書を作成する必要はなく、戦前・戦中のように、国定教科書を配布すれば済むことです。ガイダンスの際にもお話ししたのですが、戦後教育改革はこの反省から出発し、民間から自主的に教科書の作成・出版ができるような仕組み作りが目指されました。指導要領や検定制度によって緩やかな統一はなされていますが、ある程度の自由裁量が許容されているのは、いまだ自由主義教育の前提が生きているからです。

ナショナル・ヒストリーが構築される際に、例えば公家と農民のような階層差を前提にしたとすると、農民の考え、意志のような反映されたのでしょうか?

ナショナルヒストリー国民統合の歴史ですが、それは統治システムである国民国家が構築するものであって、それぞれの階層が話し合い、それぞれの意見を反映した結果として打ち出してゆくものではありません。後者はパブリックヒストリーと呼ばれ、ようやく近年になって本格的な議論が始まってきたものです。よって、農民の主体性に沿った歴史認識は、少なくとも明治維新によって構想されたナショナルヒストリーには反映されていません。

ナショナル・ヒストリーの一部として教科書があり、国民統合のアイデンティティに大きな影響を与えているとのことですが、それが近隣諸国との間に軋轢を引き起こしていることも事実です。それに対し、歴史学からはどのように批判をすることができますか?

前回の講義でも、今回の講義でもお話ししましたが、歴史学研究ナショナルヒストリーという形式自体批判しています。現在の教科書制度についても、現状を少しでもよくすべくその制度のもとで実践をしながら、問題点の指摘や批判を常に行い、教科書記述を補うための出版活動も盛んに行っています。また、参考文献でも紹介したように、例えば東アジアにおいては、中国韓国日本市民研究者の間で、相互に共有しうる公正な歴史を構築するための共同研究が長年行われてきており、その成果もさまざまな形で出版されています。

私が中学や高校で学んだ日本史には、圧力によって歪められた部分があるのでしょうか?

あからさまな権力の介入によって歪曲された記述は、今のところ目立っては存在しません。しかし例えば聖徳太子の評価のように、戦前・戦中に日本の大陸進出を正当化するために作られたイメージ大国隋と渡り合い対等外交を実現させたなど)が、未だに教科書へそのまま踏襲されている事例もあります。聖徳太子をめぐる言説は、日本列島が諸外国との間で危機に陥った際、国民を鼓舞するキャラクターとして常に作用してきました。その意味でこの記述は、近代に歪曲・創作された記述がそのまま踏襲されている、といえます。

ナショナル・ヒストリーとして日本史を学ぶことは分かったが、それではなぜ世界史を学ぶのだろうか。

もちろん、世界の成り立ちを知り、世界の人々と交流し、世界のなかで生きてゆくためです。一方でそれは、国家の国際戦略とも関わりがありますが、一方でナショナルヒストリーを相対化する力も持っています。一時期、世界史未履修などの問題もありましたが、日本史教育ナショナル方向性を強めてゆくなか、世界史教育のあり方が今後より重要になってゆくと思われます。

清朝考証学という言葉は初めて聞きました。これが現在の国文学に繋がっているということですか?

中国紀元前から文字を操っている国なので、厖大な書物をどのように読解するか、という注釈・考証の学問が著しく発展しました。清朝考証学はそのひとつの到達点で、多くの古典テクスト対照するなかから正当な解釈を導き出そうとします。江戸期の厖大かつ緻密な古典注釈はその成果であり、その学問のあり方、方法、具体的見解は、そのまま国文学や歴史学で先行研究として用いられています。

文明史学と文化史とは違うものなのでしょうか?

お話ししたように、文明史学は非常に啓蒙思想的かつ功利主義的な歴史観で、人間進歩文明によって可能になることを描き出すものです。そうした進歩史観では、常に現在の状態が最良であり、過去へ遡るほど、野蛮で未開な状態に近付くこととなります。すなわち、文明史学は過去・現在・未来価値付けをするものなのです。一方の文化史には、そうした価値付けは存在しません。人間が、自然環境を素材とし、それとの関わりのなかで構築してきた文化を、さまざまな面から探究します。近年ではその政治との関わりに注目が集まっており、例えば平安時代の女流文学宮廷内の中宮評価にどのような影響を与えたか、第二次世界大戦中の絵画映画文学が、国民のイデオロギー的操作にどのような影響を及ぼしたかといった、政治文化史が盛んに議論されています。

文明が「自然状態から解放される」ことを含意するとは、初めて聞きました。自然からの解放=進歩とは、果たしてよいことなのでしょうか?

上の進歩史観においては、「よいこと」といえるでしょうが、必ずしもそうとばかりはいえません。自然との関係において「解放」を最前とし、そのうえで自然から「収奪」しようとする意識こそが、地球上に種々の環境問題を生じ、全生態系的な危機を発現させているからです。進歩と考えられているものの背景に何があるのかが、大変に重要です。

江戸期の人々の歴史観は軍記物などを通じて形作られていたとのことだが、そこに政権の意向は何らかの形で反映したのか?

太平記』や『平家物語』は、例えば儒教的価値観を語る部分においては幕府の統治思想と一致をするので、とくだんの問題は含みません。しかし、その書物を通じて例えば勤王思想が強まり、幕府への批判高まったりすると、非常に都合が悪いということになります。江戸幕府は政権批判には敏感であり、種々の規制弾圧を行いました。「江戸の歴史叙述は自由で豊か」というお話をしましたが、政治の世界をも考慮に入れると、そこにはやはり種々の規制や窮屈さがあったものと思われます。

江戸期民間の人々が信じた物語や伝承の類は、信憑性としてはどの程度あるのでしょうか?

伝承研究という学問立場からすれば、そこに語られている内容が客観的事実かどうかは、さほど大きな問題ではありません。どのような形で語られているか、当時、誰によって何がどういう形で信じられていたのか、なぜそう考えられていたのかが重要です。伝承研究は、客観的事実ではなく主観的事実、人々の心のなかにある事実を見出そうとするのです。