来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2016-07-15 日本史特講:日本仏教史(07/15分)

個人の気持ちは、自分でも分からないレベルで難しいと思うのですが、歴史において感情というものはどう扱うべきなのでしょう。

確かに、学問で個人の内的な世界考察するということは、非常に難しい問題です。「自分でさえ…」ということも、ご指摘のとおり、ありますね。しかし同時に、他から指摘されて初めて自分気持ちに気づく、といったこともあると思います。個人の心理研究する学問には、心理学から哲学文学、歴史学まで多々ありますが、それぞれに得意な面と不得意な面があると思いますが、歴史学はそもそも集合的なものを扱ってきたので、個人のそれと向き合うのは方法論的に限界があります。しかし、社会史の興隆以降は、心理学精神分析学協働しながら、例えばギンズブルグのミクロストーリアアラン・コルバン感性の歴史学・個人の歴史学にみるような試みも進められてきました。個人の心理を、社会的なものとの関わり、時代的なものとの関わりのなかで考えてゆく方向性は、かなり開拓されてきていると思います(ただし残念ながら、個人の特性を、社会性や時代性などの集合的なものへ還元してゆく性格は強いですね)。

大寺院の造営には木材の調達がしばしば伴うはずで、草木の主体性に着目する視点が比叡山にとくに現れた説明としては、木材の伐採だけでは不充分ではないか?

確かに、まだまだ考えねばならない点があります。しかし、いわゆる大寺院の造営においては、木材としてある程度製材されたものが建築現場に送られてくるので、僧侶が伐採現場に居合わせることはほとんどありません。しかも、近江は大規模な林業地帯で、藤原京平城京東大寺石山寺長岡京平安京と、延暦寺建設の時点で100年以上の林業の積み重ねがありました。ほぼ同じ平安初期の時点で、奈良古刹長谷寺縁起が再編成されており、そのなかにも「祟りなす樹木長谷寺観音として再生する」という樹木信仰上重要なモチーフが描かれますが、物語りの始まりがやはり近江国高島郡なのです。僧侶生活圏でこれだけの伐採が常に行われていたというのはかなり特殊な情況なので、少なくとも、草木成仏論の形成とまったくの無関係であることはないと思われます。

8〜9世紀の平安京周辺以外で、朝鮮半島・中国大陸も含む東アジアの仏教の展開のなかで、良源的生育環境→良源的思想形成をなした例はみられるのでしょうか。

恐らくどこかに同じような事例はあるのでしょうが、残念ながらまだ発見できていません。いくら草木成仏主体性がないといっても、いくらおしなべて開発に肯定的であるといっても、「大木の秘密」にしろ「樹霊婚姻」にしろ、原型はすべて中国にあります。高僧伝類などにも、樹木に対するシンパシーのうかがえるモチーフは見受けられるのですが、例えばその主体である僧侶草木成仏をどのように考えていたのかは史料がないわけです。しかし例えば、銭塘江(潮の満ち引きとの関係で逆流現象が起きる地として著名)の神との逸話がある曇鸞が月の譬喩を用いるなど、環境思想との繋がりを密接に感じさせる事例はあるわけです。大理シンクレティズムなかにありそうだなと、物語世界を探ってはいるところです。

僧侶が外国の典籍を理解し、自分の言論を展開させ、書き記してゆく能力は、どの段階で習得されるのでしょうか。

いま、外国語習得四苦八苦している我々のことを考えれば、重要なことですね。それゆえに古代においては、僧侶出自で圧倒的に多いのは渡来系氏族です。氏族内の種々の家系氏族間のネットワークに、漢語習得や仏教の研鑽に関するファクターがあり、仕組みが整っているということでしょうね。そうした環境のなかで、まずは在家のまま、恐らくは同氏族もしくは姻戚関係にある氏族出身の師僧に付き、仏教の初歩と経典の読み方などを学んでゆく。しかしこのレベルでは大したことはできないようで、例えば正倉院に残存している「優婆塞貢進文」(得度させるべき修行者を推薦した上申書)には、読誦・暗唱できる経典のほとんどが短い陀羅尼(呪文)であったりするのです。いずれかの寺院に所属し、多くの経典に触れられるようになって、初めて能力の開花してゆく者も多かったはずです。

中国において、僧の成立と尼僧の成立にタイムラグが生じたのはなぜでしょうか。

まず第一に、天竺西域東南アジアなどから、長い道程を経て中国へ渡ってくるにはそれなりの体力が必要であり、そうしたことの可能な尼が少なかったことがあるでしょう。それゆえに三師七証が揃わず、正式な受戒を達成するのに時間がかかってしまった。また第二に、当初仏教は哲学的談論(清談)の思想として導入されており、それは文人士大夫の娯楽であって、宗教として女性や民衆に関わりのあるものとではなかったのです。そのような意味で、仏教が女性の心を掴み、必要とされるまでには時間がかかったのだといえるでしょう。

八敬法のなかで触れられている、夏安居とは何でしょうか。

僧侶は、毎年夏に一箇所に籠り、経典などの読解・研究精神修養を集中的に行います。これを夏安居といいます。もともとは、インドで雨期に当たる期間は外出しての修行や托鉢ができなかったためとか、小さな虫などが活発に活動する期間は意図せずそれらを殺してしまうことが多いため、こうした習慣が始まったといわれています。僧尼は、この安居に参加することによって1つ歳を取る、これを法瓩箸いぁ僧侶キャリアとされました。

六朝時代にみられたシャーマニズムの源流は、道教にあるということでよいのでしょうか。

道教も、在来の習俗や老荘思想神仙思想などをもとに、江南地域などを中心に発達した創唱宗教です。漢の時代から、身体の修養や病気治療などを目的に展開し、時代地域によって特色のある形式をみせました。貧苦した民衆の支持を集めたことで革命思想と結びつくことも多く、権力からはたびたび弾圧を受けています。そうした宗教に編成される以前のアニミズムシャーマニズムは、各地の自然環境生活文化に根ざして存在したのです。六朝初期に観られた降霊事象などは、もともとは道教と関わりのないレベルで起きていた、より土俗的なものであったと考えられます。

シャーマンの型としては、中山みきなど「神が乗り移り神の言葉を人に言わせる」のは、どのような型に当てはまるのでしょうか。生き物ではなく神が乗り移っているので、憑依型ではないと思うのですが。

憑依とは、動物霊死霊だけののりうつりを指す用語ではありません。神も含めた、何らかの霊的なものがよりつく現象、すべてが憑依です。もともと、人間によりつく神霊に、「神」だの「死者」だの「動物」だのとレベルを付けるのは、それこそ審神者の発想です。憑依された側には、そうした区別はほとんどありません。日本では、古く『日本書紀』の神功皇后、『源氏物語』の浮舟などに、憑依経験の内的世界をみることができます。また、谷川健一『神に追われて』は、現代の成巫譚を物語として収録しており、憑依がいかに苛酷な経験であるかが叙述されています。

女性の「職」としてシャーマンが出てくるのは、いつごろなのでしょうか。

北海道入江貝塚から発見された縄文女性の人骨は、幼い頃小児麻痺罹患したらしく四肢の成長が阻害されていましたが、年齢は思春期後期に到達していました。すなわち、労働できない女性を、同共同体はその年齢になるまで活かし続けていたということです。他の証拠が一切ないので不明な点は多いですが、これは同女性シャーマン的な役割果たしていたからではないかと考えられています。ただし、よく分からないことがあると宗教祭祀を持ち出すというのは、考古学などのマイナス点ではあると思いますので、真相不明です。日本列島では、弥生時代土器絵画に鳥の扮装をした女性が描かれており、稲魂を祀るシャーマンではないかとみられています。こちらの方は、やや蓋然性があるでしょうか。

審神者は同じ女性ではいけないのだろうか。伝える役割を男性が担うことで、女性の力を抑えているのか?

この神がかり女性審神者の男性という組み合わせは、『日本書紀仲哀天皇9年(神功皇后摂政前紀)3月壬申朔条に、神功皇后の事例として登場します。この場面はなかなか緊張感があり、仲哀に祟りを下し死に至らしめた神霊を探し出すために、神功皇后が憑霊者となり、武内宿禰が神を下ろす琴の弾き手、中臣烏賊津連が審神者となって、次々と皇后によりつく神霊に質問をしてゆくというものです。中国六朝の事例などをみると、男性への憑霊事例も少なからずあり、古代日本でも、例えば天皇が夢告として神の託宣を受ける話は多くあって、神霊の声を聴く者が女性とは限りません。第一古墳時代には、神霊の力を身に付けて統治を行う男王が、各地に蟠踞していたわけですから。よって、憑霊者/審神者ジェンダー役割は、本来は自在に転換しうるものだったのだろうと思います。すなわち、男性の憑霊者、女性審神者という組み合わせもありえた。しかし、女性宗教、男性に政治、という分業が強固になってゆくにつれて、組み合わせは固定化されてゆくのでしょう。なお、憑霊に男女が関わる意味は、性交渉による新たな生命誕生と関わりがあるのでしょうから、同性同士のペアはあまり例がなかったのではないかと思います。

そもそも、シャーマン=女性、女性=神霊的なものという認識は、いつ頃流布されたのでしょうか。

やはり、家父長制の成立と軌一していると思われます。中世から近世にかけて、実態的には強くなっていったはずです。研究史的には、柳田国男の「妹の力」論以来、このような見方が強固に受け継がれていき、ちょうど近代家族の成立に伴って女性への貞節・純潔要求が高まり(男性が出勤労働者となり、女性が家を守ることを期待されたために、そのイデオロギーとして貞節・純潔が強調されるのです)、処女性の価値が高くなったことと相まって、未婚の女性シャーマンという図式が確立したものとみられます。それによって、かかる見方が、未だ家父長制の成立していない古代へも適用され、多くの問題を生じることになりました。卑弥呼に対する誤解なども、この点に原因があります。

女性差別はどこの国にもあり、必ずしも仏教だけが差別を生んだとは思わないのですが、どうなのでしょうか。

それはもちろんそうです。しかし仏教に限らず、多くの創唱宗教は、出現当初は規制宗教批判するために、体制と一体化し弱者差別するそのあり方を攻撃するものの、当の創唱宗教自体が巨大化し護教的色彩を強めてゆくと、一転して弱者を抑圧する側に回ってしまう。仏教もその点からは逃れられないことを、しっかり認識しておかなくてはいけないわけです。

男性差別というものはなかったのでしょうか。

結局差別というのは、その共同体もしくは社会において、多数もしくは権力の強い側が、少数もしくは力の弱い側を抑圧するなかで生じます。男性差別が成立するためには、男性よりも女性権力を持つ共同体、社会を想定しなくてはなりません。現在に至るまで、「概ね」その種の社会は存在してこなかった、それゆえに男性がその性の特徴において差別されるということはなかった、といっていいでしょう。現代においても、男性差別と疑われる情況のほとんどは、その男性性によってではなく、むしろパーソナリティに対する攻撃である場合がほとんどです。

文化のなかでは、どうしてこうも男性/女性を分けたがるのだろう。両性具有的なものが認められなかったのは、なぜなのだろうか。

男性/女性だけではなく、レヴィ=ストロースが看破したように、人間文化二項対立を基礎に構造化されているのです。AとBが存在したとき、我々はそれがAであること、Bであることを認識するためには、AとBの違いから判断せざるをえません。同質性においては、2つを区別できないからです。よって、その根本から形成される我々の認識世界というのは、無数の二項対立によって編み上げられたテクストとして存在するわけです。このような世界観のもとでは、「どっちつかずの曖昧なもの」、いわゆる境界領域は、危険なものとしてタブー視されました。両性具有存在は、それゆえに恐れられたのです。仏教が、例えば講義で扱ったように主体環境の分節を克服しようとするのは、こうした二項対立でがんじがらめになった認識世界を、現代哲学と同様に把握していたからです(ちなみに仏教は「捨てる」宗教ですので、両性の「具有」はせず、性自体の超越を目指します)。

女帝が古代以降に現れなくなるのは、仏教の普及の影響があるのでしょうか。

否定はできませんが、必ずしもそうした理由によるものではありません。例えば奈良時代孝謙称徳など、仏教によって性の超越を目指そうとした女帝です。中国唯一の女帝である武則天も、道教国教としていた唐王朝中絶させ、仏教を奉じる武周王朝を打ち立てました。女帝ほど、実は仏教の信奉者が多いのです。しかしこの点は、仏教が女性の罪業を強調しそのうえで救済の手段を指し示したためで、いうなればマッチ・ポンプ的な暴力性が存在したことも看過してはなりません。

2016-07-11 日本史概説 I(07/11分)

言語というものは、いつの時代に、いま現在使用しているような日本語になったのでしょうか。古代などは何語で話していたのですか。

以前にも少しブログで触れたことがありますが、いま私たちが使用している言葉、とくに東京などで使用しているいわゆる「標準語」は、近代の中央集権に合わせ、東京山の手言葉モチーフに作られたものです。それ以前は、地域ごと、階層ごと、職種ごとに、もっと多様な語句や表現、話し方が用いられていました。古代には、いま我々の使用しているものと連続性のある言語が成立していたことは間違いありませんが、やはり階層、地域によって、現在以上に多様性のある言葉が用いられていたと考えられます。音韻なども豊富で、朝鮮のそれに類似した音も多くありました。『万葉集』などから、東国方言の存在も明らかになっています。

孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡を天皇の地位に即けようとしたのは、仏教国家を形成するための一環と理解してよいでしょうか。 / 称徳はなぜ、皇族以外の人物を皇位に就かせたかったのでしょうか。 / 称徳天皇は仏法を信奉していたのに、なぜ神である宇佐八幡の信託を求めたのですか?

この問題については、授業でも触れたように諸説あり、まだ議論が戦わされている状態です。かつては、称徳と道鏡スキャンダルなどが俗説的に喧伝され、道鏡の悪人的イメージ、称徳の「愚かな女」的イメージが強かったのですが、近年はその再検討が進んでいます。有力な見方は、やはり称徳が聖武から託された仏教国家を完成させようとした、ということです。邪馬台国のあたりから連続してお話ししてきたように、王位の安定的継承は、古代国家において最重要の課題のひとつでした。ヤマト王権においても、血統重視、大兄制、父系嫡系継承、皇太子制と、その是否はともかく、紛争を回避し継承を無事に達成する仕組みが模索されてきました。しかし、奈良王朝に到ってもその完成はならず、称徳自身も、皇位継承に伴う種々の紛争、殺し合いを目の当たりにしてきたわけです。彼女にとって、血塗られた皇族の軛から解き放たれた、神聖な僧侶を王にいただき、血統から解放された真の禅譲を実現することこそ、仏教国家の完成だったのかもしれません。ちなみに宇佐八幡については、やはり前回のブログでも触れましたが、大仏造立に列島の神祇を率いて協力すると託宣し、以降仏教国家を守護する〈護法善神〉の代表のように扱われてきた神格でした。だからこそ、他の神社ではなく、宇佐八幡神託意味を持ったのです。

結局、法王とはどのような役職だったのですか。

歴史上、道鏡のみしか就任しなかった特殊な職位でしたので、詳細についてはよく分かっていません。しかし、法王を補佐する法王宮職が設置された点からすると、皇后皇太子に準じる地位、准三后のような位置づけであったと考えられます。「法王」の言葉自体は、恐らく聖徳太子(上宮法王)に基づいています。事実光明皇后は、阿倍内親王(孝謙・称徳)を即位させるに当たって、皇族でありながら仏教を興隆した聖徳太子のあり方を喧伝し、阿倍を性別の超越した仏教的王に仕立て上げようとしています。その意味では、推古天皇を補佐した聖徳太子と同じく、称徳に対する摂政的な役割を期待されたといえるでしょう。

道鏡は皇位を奪おうとした悪人とのイメージがあるが、実際は何を考え行動していたのだろうか。先生は、道鏡が悪人だと思いますか。

道鏡の個性については史料が少なすぎ、なかなか議論するのが難しいように思います。しかし、称徳の意向を忠実に実現しようとした人であったことは、間違いありません。悪人かどうかということは、多くの後世の政治的意図に基づく価値付けに過ぎませんので、あまり意味をなさないように思います。ただし、あえてその清廉潔白さを図るとすれば、道鏡の弟である弓削浄人の存在が鍵になるかもしれません。彼は、恵美押勝の乱以降、道鏡政権のもとで急速に昇進し、参議を経て就任した大宰帥の立場で、宇佐八幡と連携し道鏡即位を目論みます。権威の背景が称徳の寵愛しかない道鏡にとって、政権の主要部分を身内で固めることは不可避の選択肢であったのかもしれませんが、仲麻呂のように政権私物化するものとみなされ、貴族たちのなかから浮き上がってゆく。このあたりのことが称徳の指示であったのか、それとも道鏡の企図するところであったのか。道鏡という人物を考えるポイントとなりそうです。

僧侶が私欲のために皇位を望むなどあってはならないと思うが、なぜ道鏡は流刑だけで済んだのでしょうか。

上にも書きましたが、私欲で云々、というのは正しい理解とはいえません。また、道鏡あくま下野薬師寺左遷になっているのであり、失脚ではあっても処罰されてはいません。あくまで、称徳の崩御により政治体制が大きく転換したゆえの措置であって、例えば皇位顚覆の罪、謀反の罪に問われているわけではないのです。このあたり、道鏡即位問題の本質を考える手がかりでもあります。

一端僧侶になった人物は、自由に還俗できるのでしょうか。

出家・得度については厳しい制限がありましたが、還俗については、関連官庁への報告をしっかりと行えば、ある程度僧侶の自由意思に任されていたようです。出口より入口が厳しかったのは、僧尼身分が課役免除の対象となっていたからです(よって、還俗をした場合には再び租税賦課の対象となるため、関連官庁への報告が義務付けられたのです。隠匿した際には処罰の対象となりました)。律令国家建設当初には、陰陽道など学芸・方技の専門官僚を確保するため、僧侶に適任者がいればこれを強制的に還俗させる措置が取られました。

光仁天皇の即位は、天武系から天智系への皇統の転換ではないとのことでしたが、それならばなぜそうした見解が生まれたのでしょうか。

宇佐八幡神託事件を過度に評価し光仁即位革命性をみたこと、井上・他戸の位置を充分分析してこなかったことが原因でしょう。いずれにしろ、研究者の説の立て方によるもので、当時の正史続日本紀』に、そのあたりのことが明記されていたわけではありません。

どうして藤原種継は、暗殺されたのでしょうか? / 藤原種継の件ですが、罪人の処刑方法として、弓での射殺は一般的だったのでしょうか? / 「射殺」は、具体的にどのようになされたのでしょうか。

事件の記録は案外に短く、詳細はよく分かりません。正史続日本紀』延暦4年(785)9月乙卯(23日)条には、「中納言正三位式部卿藤原朝臣種継、賊に射られて薨ず」、続く9月丙辰(24日)条には、「車駕、平城より至る。大伴継人、同竹良、并びに党与数十人を捕獲し、之を推鞠するに、並に皆承伏す。法に依りて推断し、或は斬し或は流す。其れ種継は、参議式部卿大宰帥正三位宇合の孫なり。……(延暦)三年、正三位を授く。天皇甚だ委任し、中外の事を皆な取决す。初めて建議を首し、長岡に遷都す。宮室を草創するに、百官未だ就かず。匠手役夫、日夜兼作す。平城に行幸するに至りて、太子及び右大臣藤原朝臣是公、中納言種継等、並び留守を為す。炬を照らし催検するに、燭下に傷はれ、明日第に薨ず」とあります。この頃にはすでに遷都が行われ、桓武は長岡宮にあって政務を執り、種継は宮都の完成へ向けて突貫工事を続けていたようですが、桓武が平城京へ一事行幸していた折の夜分、何らかの形で射殺されたようです。一般的にはこの事件は、長く都であり仏教勢力の根づいた平城京を放棄することへの、反対勢力が引き起こしたものと考えられています。授業でも触れましたが、早良親王は仏教勢力と密接に結びついた人物でしたので、彼や伝統的名族である大伴氏を排除することで、光仁の頃から続いた旧体制の整理がひとまずはついた、ということになるでしょう。しかし実は政情は未だ不安定で、桓武の子の平城天皇が式家との繋がりのなかで平城京還都を強行しようとするように、支配層内でも水面下での闘争が続いていたものと思われます。

天皇の中国化というが、唐風化政策には具体的にどのようなものがあったのか。

まず、桓武天皇に関しては、衣服についても中国皇帝と類似のものを身に付け、王権正当化の方法としても、中国王権の祭祀である昊天祭祀を実施、革命を唱える『春秋穀梁伝』を導入しました。また、詩文を国家経営に役立てるという文章経国思想(魏の文帝曹丕が唱えたもの)に基づき、『文選』など中国詩文の精華や正史の類など、中国の文物を盛んに導入してその吸収・消化に努め、勅撰漢詩集の『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』なども編纂してゆきます。この傾向は嵯峨天皇の弘仁年間にピークを迎え、国風文化を生み出す土壌にもなりました。

桓武天皇が藤原内麻呂と夫人を共有したということが、古代の君臣関係において可能だったのでしょうか。

百済永継ですね。永継の父は飛鳥部奈止麻呂(河内国安宿郡)という渡来系氏族ですが、光明皇后の幼名は安宿媛であり、恐らくは藤原氏の子女の養育に当たってきたような氏族であったと考えられます。一般的には、内麻呂の妻となって真夏・冬嗣を産んだ後、桓武天皇の後宮で女嬬となり皇子(臣籍降下して良岑安世を名乗る)を儲けたとされています。ただし、このとき内麻呂との婚姻関係が続いていたかどうかは、研究者の間で議論が分かれています。女嬬は後宮の下級職員ですが、日本古代女官中国朝鮮とは異なり、既婚者が出仕する場合、出仕後も婚姻関係を続けている場合が普通であったため、永継が内麻呂・桓武の双方と通婚していた可能性も充分考えられるのです。

徳政論争を、政治的セレモニーとして行う必要があった理由とは何ですか?

蝦夷征討も度重なる造都も桓武王朝においては必要な政策だったのでしょうが、これが列島社会に大きな疲弊をもたらしてしまった。これを単に失策として中止するより、臣下からの諫言を受けて徳を示す方が、天皇の権威を昂揚させると考えられたのでしょう。以前にも書いたかもしれませんが、中国的な皇帝の美質とは、臣下よりの諫言を受け止めることにあります。臣下の意見を聞いて行う政治が理想であり、これを「聴政」といいます。徳政論争は、桓武の徳治を喧伝する一大セレモニーであったともいえます。また、授業でも少しお話ししたように、桓武即位に貢献した藤原百川の嫡子緒嗣が表舞台にあり、彼と菅野真道の議論を監督していたのは、桓武と夫人を共有していた藤原内麻呂でした。そうしてみると、ある意味でミウチ的な儀礼であったともいえます。

徳政論争で征夷は中止されたが、中途半端な状態で中止して問題はなかったのか。

プリントにも書きましたが、光仁朝から始まった蝦夷の反乱は、延暦20年(801)における征夷大将軍坂上田村麻呂の鎮圧作戦によって、蝦夷の首魁であった阿弖流為・母礼らが降伏し捕縛され、翌21年に胆沢城の造営と鎮守府の移設、翌々22年には志波城の造営へと進み、ある程度の鎮静化と征討の成果を得ていました。桓武にとって妥協できるまでには事業が進んでおり、そうした意味でも上記「徳政論争」はセレモニーであったといえるのです。

日本は、戦後に至るまでずっと蝦夷を支配下に置こうとしていたが、本来は人種も文化も異なる北海道が独立するという形にはならなかったのでしょうか。

最初のガイダンスの際にお話ししたと思うのですが、中世後期から近世にかけてのアイヌは、ユーラシア北部から北アメリカに至る北方交易圏のなかで大きな富を得ており、国家に展開しうる社会・経済情況に到達していたともいわれています。なぜ国家化しなかったのかは微妙な問題で、南米をフィールドにしていた文化人類学者のピエール・クラストルや東南アジアをフィールドとする歴史学者のジェームズ・スコットによれば、民族社会には権力集中を抑止するシステムがあり、国家化しない選択をする場合がほとんどであるとのことです。西洋近現代を人類発展の必然的帰結とする歴史観のもとでは、国家の誕生もまた必然的進化と捉えられていますが、現状のポストモダン的研究は、そうした通説に異議を唱えています。蝦夷、アイヌの問題を考えるためにも、そうした視点が必要と思います。

都が成立したという判断は、何をもってなされるのでしょうか。

古代都市=宮都は、社会的分業などの進展によって必然的に成立した都市ではなく、あくまで国家機能の中枢が置かれた場所です。よって、遷都の詔が出され、天皇が居を移して、百官の移転が完了した段階で「成立」と考えてよいのだろうと思います。もちろん、その後も住民の移住が進められたり、必要部分の増築や改作が進められたりしますが、それはあくまで「補完」であるといえるでしょう。

何度も巨大な都を造るべく働いた人々に、きちんと賃金は支払われたのでしょうか。

基本的に、造宮の役民は労役ですので、いうなれば租税であり、賃金は支払われません(もちろん、食糧は支給されます)。ゆえに平城京段階から逃亡が相次ぎ、路上で飢渇する人々も増加する情況でした。よって実際には、平安京建設した山背葛野地域に本拠を持つ秦氏など、在地豪族の役民動員力を大いに利用したものと考えられます。桓武自身が渡来系氏族の血を受けていましたので、そうしたネットワークの活用もあったでしょう。それでも足りない労働力については、やはり賃金を支払う雇夫の制度を活用し補っていたと考えられます。

さまざまな欠陥のあった長岡京ですが、造営の前になぜ調査を行わなかったのですか。 / 長岡京遷都は、結果として、何か利益を生み出したのでしょうか。

これもレジュメに書いたことの繰り返しになりますが、長岡遷都には、地政学的な意味で、水陸交通の結節点という利便性淀川水系の交通に影響力を持つ秦氏の財政的援助、さらには新王朝創出の舞台として意識したことがあったのではないかと考えられています。後者はすなわち、天智皇統の開始という点で、都を少しでも、天智朝の宮都であった大津中臣鎌足が氏寺興福寺の原型を造営した山階などへ近づけようとしたのではないか、ということです。前者については、延暦元年平城京造営関係官司廃止されて後、同2年に和気清麻呂摂津大夫として難波宮解体し、同3年藤原小黒麻呂・藤原種継を中心に長岡視察が実行、直後に造長岡宮使(藤原種継、佐伯今毛人、紀船守、石川垣守、海上三狩、大中臣諸魚、文室忍坂麻呂、日下部雄道、丈部大麻呂、丹比真浄ら)の任命が行われました。小黒麻呂の妻は秦下嶋麻呂の娘であり、やがて平安京造営の主力となる葛野麻呂を産んでいます。また、暗殺された種継の母親も秦朝元の娘で、秦氏の人脈が濃厚であったことが窺われます。和気清麻呂難波宮解体し、資材を長岡宮へ運び込んでいることは重要で、恐らく桓武の意向としては、同地を難波宮のような交易・外交拠点にしようとしていたのではないでしょうか。種継暗殺事件でも表面化したように平城京勢力の束縛は顕著で、まずは速やかに長岡遷都を達成することで平城京脱出を既成事実化し、そのうえでより理想に近い宮都の実現を構想していたのではないかと推測できます。そうした意味では、長岡遷都にも大きな成果があったといえます。

古代の人々は、災害からの復興をどのようになしとげたのだろうか。

基本的な措置としては、まずその地域の租税や労役を免除することです。また賑給といって、食糧や衣料など物資の支給も行われました。被害が甚大な場合には、各地域からの報告だけではなく、朝廷から直接被害調査の使者が派遣され、それに基づく措置が取られます。土木その他、復興事業に必要な職能者の派遣なども確認されます。

嵯峨天皇が、母親の身分の低い親王・内親王に、源氏を賜り臣籍降下したのはなぜですか。 / 臣籍降下して貰った源氏と、『源氏物語』の源氏は、何か関係があるのですか。

いわゆる皇親とは、親王内親王以下四世以上の諸王を指します。彼らには、その位階や官職に応じて食封などの禄が授けられたほか、春秋の時服料なども支給されるなど優遇措置がありました。しかし、五世以下になると皇親とは認められず、六世以下は王号を名乗れないものとされました。奈良時代後半以降には、皇族のうち上位の位階・官職に進める者は非常に限定され始めたため、早くに臣籍降下し安定的な収入を確保しようとする者も出始めています。国家としても多くの皇親を抱え込むことは財政負担となったため、臣籍降下は望ましいものでした。授業でもお話ししたとおり、桓武や嵯峨は政権の安定のために多くの貴族と姻戚関係を結び、たくさんの皇子・皇女を儲けていたので、上記のような理由から続々と平氏賜姓、源氏賜姓などが行われ臣籍降下が実行されたのです。

人間関係が複雑でよく分かりませんでしたが、藤原北家が他の藤原氏勢力を排除していった、ということでよろしいでしょうか?

ものすごく端折って説明してしまいましたので、分かりにくくて申し訳ありません。そうですね、奈良時代半ば以降、藤原四家の競合から北家が脱けだし、さらに北家のなかで幾つかの流派が競合して、最終的に兼家流が摂関家として確立してゆくという流れになります。その過程で、種々の謀略・政変が勃発し、その度ごとに他氏、他家、他流が排斥されてゆくということです。

菅原道真の遣唐使廃止は、客観的にみて正しいものだったのですか? / 遣唐使の派遣は止めていたのに、交易が続いていたのはなぜですか?

一般的には、寛平6年(894)、菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたと理解されていますが、この件については断片的な史料が残るのみで、実はことの実相はよく判明していません。『菅家文草』巻9 奏状に収める、道真自身の寛平6年9月14日の上申には、「反乱による混乱で唐自身が他国からの入国を禁止しており、大陸に辿り着いても安全に都へ行けるか分からないので派遣の再検討を」と述べているだけに過ぎず、遣唐使そのものの廃止など一切触れられていません。9世紀後半から唐国内では反乱が相次ぎ、やがて滅亡に至り五代十国の林立する情況となってゆきます。周辺諸国への統一力は緩んで社会不安を生み、新羅海賊などの被害も増大していました。よって道真は、海上交通はもちろん、唐土へ入ってからも危険が及ぶという認識を持ったわけです。近年注目されているのですが、道真はこの後も数年にわたって遣唐使の肩書を使用し続けており、「道真の建議による廃止」は事実ではないようです。そのことについて正式に審議された痕跡もなく、どうやら、唐の混乱のなかで派遣が立ち消えになったというのが真相で、「廃止」はもちろん「中止」「停止」ともいえない情況だったものと考えられます。とすれば、実質的な利益に繋がる交易が継続されたのは当然で、次第に王権が優先的に唐物を確保する制度も整えられ、アジアに産する香料、貴重な樹木、染料、陶土、薬品、顔料、皮革、調度・装飾、骨角器、衣類、衣料、楽器の材料のほか、書籍、鸚鵡・孔雀・鴿・白鵞、羊・水牛・唐犬・唐猫・唐馬などの珍獣、唐紙・唐硯・唐墨などの文房具が多く輸入されました。

遣唐使の停止以降、唐物の流入がむしろ拡大したのはなぜですか? / 私的な貿易が発展していたとすると、相応の航海技術があったということでしょうか。 / 私的貿易に朝廷が介入していたのなら、それは結局公的貿易といっても過言ではないのでは?

上に答えてきたことからすると、遣唐使の停止云々は、交易には大きな影響を及ぼさなかったようです。情況としては、9世紀の半ば以降、唐物をめぐって、院宮王臣家や大宰府管内の富豪層が買い占めを行う情況が問題化していました。交易品については、律令関市令官司条)に国家による先買権が設定されていましたが、これが次第に侵犯される事態に到っていたのです。王権は、貞観5年(863)頃から、唐・新羅の商船がもたらした舶来品を優先的に購入する唐物使を蔵人所から派遣、まず朝廷の必需品を購入しました。しかし、それが阻まれるようになると、貞観16年には、商船が海にいる間に少人数で便乗し買い上げを行う、入唐使の派遣に踏み切ります。唐物の需要は次第に拡大し、宮廷社会にも多くの中国文物が溢れました。これらには確かに公権力が介在していますが、国家と国家とが公式に提携して行った交易ではないので、私的範疇のものと理解されています。

法律の抜け穴で自分の利益だけを増やす原因を作った墾田永年私財法は、格差社会を生み出したが政府の財源は満たす両刃の剣だったということですか?

授業でもお話ししましたが、墾田は輸租田でしたので、私有の密に誘われて土地開発が進んでゆけば、国庫も充分に潤うはずでした。しかし、奈良時代末から社会階層の大規模な変動が起こり、旧来の豪族層が衰退する一方で新興の豪族層が力を蓄え、浮浪逃亡や偽籍も増加し租税賦課の対象が把握できなくなっていったのです。課税対象を人から土地へ転換した王朝国家の国政改革が必要となったのは、墾田永年私財法という法律自体に問題があったのではなく、その法令と社会・経済情況の関係から種々の弊害が発生したためなのです。しかし、開墾の灌漑用水は自ら開発することを義務づけたため、一般の農民には負担が大きく、結果として墾田は、一部有力農民や豪族層のもとへ集積される結果となり、公の耕地を確保するには到らなかったようです。

中学では荘園の定義として「貴族の私有地」としていましたが、院宮王臣家と貴族とは異なるものでしょうか。

大きな勢力を持つ皇族や貴族を指す言葉で、彼らが新興の富豪層らと結びつき、私有地としての荘園を拡大してゆきます。例えば荘園として最も巨大な規模を誇ったのは、父である鳥羽院のそれを継承した八条女院領で、これなどは皇族の領地です。荘園を「貴族の私有地」と定義するのは不充分なのです。

荘園制の展開において、不輸租の私有地を院宮王臣家に与えたのはなぜでしょうか。国家にとって何か利益があったのですか。

上にも書きましたが、結局、国家権力を担っていた皇族や上級貴族たちが、大土地所有者でもあったことが原因でしょう。

奈良時代にはあまり天皇が変わらなかったのに、なぜ平安時代には頻繁に交替しているのですか。

頻繁に交替しているようにみえるかもしれませんが、平安時代は391年、奈良時代は84年で4.6倍の長さがあり、天皇奈良時代が8名、平安時代が33名で、統治機関はともに平均ほぼ10年であり、あまり変わらないのです。

天皇の政治への関与が少なくなっていったのは、具体的に何が原因だったのでしょうか。

まず、授業でもお話ししたように、貴族の合議制の基盤が充分に整い、摂関家という天皇を代行するまとめ役が確立したことが前提です。それゆえに、政治判断、政策決定の場において、天皇の強大な権力を必要とすることが少なくなった。時間がなく説明できませんでしたが、レジュメの最後に書いた政策決定システムでは、天皇の決裁を仰がねばならぬような重大な案件のほかは、例えば弁官局という太政官の事務局で処理し、それで駄目ならば議政官の合議へ上申する形式として、極力天皇の出御を仰がない形式に変えられてゆきました。天皇を国家的な決定の場から排除するというより、徹底した合理化・効率化が図られたのです。一方で、偶然的な要素として天皇の病弱化、幼帝化などが生じたほか、これらと相まって天皇自身のさらなる神聖化が図られたことも原因です。天皇は常に御簾に隠れて姿をみせず、絵画などにも直接的には描かれなくなってゆきました。これらの条件が重なり合って、天皇の政治への関与は希薄になっていったのです。

最初に幼帝が立ったとき、周囲からの反発はなかったのでしょうか。 / 幼帝の出現は、摂関家などが政治の実権を握るためだとの印象が強いのですが、実際はどうだったのですか。 / 天皇と摂関との権力関係は、結局どちらが上なのでしょうか。

上で少しお話しした平安時代の政策決定システムに、陣定と呼ばれる合議があります。最終的に天皇の決裁を受けねばならぬ重大案件について、議政官=公卿たちが、位階が低い者から順に見解を述べてゆき、大勢を決して天皇へ裁可を仰ぐ。最終的に天皇の存在を必要とするところが、やはりその権力上下関係を如実に表しています。ただし、摂関家が策動し天皇を退位させてしまう場合も多々ありました。すなわち、現実はその制度的な地位とそれに付随する権力だけでは意味をなさず、いかなる勢力と結び味方に付けているかという個々人の力量、政治的ネットワークにあったといえるかもしれません。

摂政や関白、太政大臣の地域の違い、権力関係について教えて下さい。 / 右大臣や左大臣が、太政大臣を介さずに摂政や関白になってゆく事例がありますが、それはなぜ可能だったのでしょうか?

充分説明する時間がなく、失礼しました。画期は、一条朝の藤原兼家です。当初未だ右大臣に過ぎなかった兼家の上席には、太政大臣頼忠、左大臣源雅信がおり、天皇の外戚であっても太政大臣にはなれませんでした。そこで右大臣を辞職して准三宮の詔を受け、皇太后皇后皇太子に準じる地位を得て、自らを太政大臣の上へ位置づけることに成功したのです。方法としては、藤原仲麻呂道鏡が採った、太政官制の外に権力基盤を構築するやり方と変わりません。そのうえで兼家は摂関を歴任したわけですが、結果として本来太政大臣の職掌であった摂政関白を、それから分離し再校独自の官職とする動きを促進しました。これは〈寛和の例〉と呼ばれ、以降摂関は太政大臣とは別に常置されることになるのです。

出家をした天皇は、それ以降は政治に関われないのでしょうか。

出家意味するところは、平安時代を通じて次第に変わってゆきます。宇多天皇、花山天皇の頃には、出家は政治の表舞台から引退を意味していましたので、出家した天皇が直接政治に関与することはありませんでした。しかし、同時期から次第に〈入道〉の概念が成立し始めます。この言葉は本来出家イコールでしたが、日本では、とくに皇族や三位以上の貴族が仏門に入ることを指し、やがてそうした人々への敬称としても用いられるようになります。また入道者のなかには、剃髪したものの寺院には入らず、世俗の生活のまま仏道修行を続ける者も生じるようになりました。結果、出家後も治天の君として隠然たる勢力を持つ法皇出家しながら政治を執る清盛入道のような人物も成立したのです。

陰陽道は本当に使える技術だったのですか?

陰陽道の原型は中国陰陽五行説で、日本においてはまず都の位置を定める風水の技術として展開しました。その後、天文・暦の知識・技術を集合させ、空間と時間の吉凶を知り、邪なものを斥け幸いを招き入れる科学体系として大成されてゆきます。天文・暦の知識は現在のそれに通じるもので、1年のありようを予測し自らの行動を決定するうえで重要な意味を持ちました。風水も、いいかえれば古代的な人文地理学であり、水や風の動き、地盤、人文との関わりを考えるうえで実質的な効果を発揮しました。近代的な意味での科学が充分発展していない古代にあって、「本当に使える」技術であったといえるでしょう。

日記の慣習は、どの階層にまで広がっていたのですか。

授業でもお話ししましたが、古代日記は、近代以降の、自分の一日の行動を書き留める、プライヴェートな意味での日記とは性格を異にします。とにかく、未来の自分の子孫たちが宮廷社会で生き残ってゆくために、あわよくば発展してゆくために、先例や有職故実の知識になりうる事柄を記録していったデータベースです。よって、識字層であることはもちろんですが、家を保持する必要のある貴族たちにしか浸透はしませんでした。

朝廷のような中央権力と、地方の武士たちがネットワークを築くようなことは、どのようにして始まったのでしょうか。

朝廷の中心にいた貴族たちは、一方で国政を運営するために荘園整理を実施しつつ、一方では自らが巨大な荘園領主でもありました。彼らは地方の荘園の経営と、その収穫を中央へ輸送させるため、在地の有力者層を自らの配下に取り込んでいたわけですが、そのなかに後の武士勢力となる人々が含まれていたのです。また、国司として地方に赴いた貴族が任期満了後もその地に勢力を扶植し、周辺の武士層を取り込んでゆく事例もありました。そのなかには、源氏や平氏のような武門、軍事貴族もあって、地域の武士層から旗頭としても仰がれてゆくのです。例えば、平治の乱で敗死する藤原信頼などは、近年大きく見直しが進んでいます。彼は東国に巨大な荘園を築いており、奥州藤原氏さえも掌握していた。一時期中央を離れ東国で勢力を拡大する源義朝などは、その領土内で、信頼の庇護のもとに活動していたと考えられているのです。そうみなしてみると、平治の乱もこれまでとままったく異なる像を結んでゆきます。

生徒に、「日本古代史を学ぶ意義とは何か?私たちが生きてゆくうえで何の役に立つか?」と聞かれた場合、北條先生ならどう回答しますか?

歴史という物語り=ナラティヴは、詰まるところ、ツール以上でも以下でもありません。世界を把握し、現在と向き合うためのツールです。自分が正対しているさまざまな問題、課題が、どのように生起し、どのような情況にあるのか。将来、それはどうなってゆく可能性があるのか。それを判断し、自らの生に役立ててゆくための、さまざまなデータ、考え方が詰まっている物語りの集積です。しかし注意しなければならないのは、そのいずれもが仮説であるということ。あらたな発見、研究、再考、語り直しによって、その仮説は将来へ向けて更新されてゆく。また、地域や時代によって、多様な仮説の立て方、あり方が存在することも、忘れてはいけません。ゆえに、そうした仮説にアイデンティファイしてしまうのは誤りです。異なる仮説=物語りを持つものどうしが、無用な諍いを抱え込む結果になります。あるひとつの出来事について、異なる仮説が出現した場合には、冷静に意見交換しながら、それぞれが自分の仮説を検証できるようにすること。そうした心の準備を、常にしておく必要があります。以上のことは、古代から近現代に至るまで、それが歴史である限りは変わらない問題です。もし古代に特有の正当性を求めるならば、それは現在との大きな違いから、他者に対する想像力多様性の理解・認識を高めるということでしょうか。そのことで、自らの立つその場所をもう一度見直し、相対化し、確認することができます。

2016-07-08 日本仏教史(07/08分)

『霊異記』の橘奈良麻呂の話ですが、神霊に関わる行為だというだけで串刺しにしているのでしょうか。わざわざ神として送るために行ったとは考えにくいのですが。

説話を読む場合には、それがいかなるモチーフを題材として、どのような物語りを語ろうとしているのか、説話主体はいかなる個人/集団で、ストーリーには原型があるのかないのかなど、その複雑な重層構造多角的分析してゆく必要があります。その内容のありのままをそのものの史実として捉えてはいけないわけです。上記の『霊異記』は仏教説話集であり、編者の景戒は、仏典引用された物語や在地の伝承を巧みに組み換えながら、列島に仏教の因果応報が顕現していることを証明しようとしています。授業でお話ししたように、神送りの方法である串刺しを残酷行為として貶めることは、ある程度自覚的になされたと思われます。ちょうど、現在諏訪社蛙狩神事残酷行為として批判されているようなもので、串刺しを殺生として否定したいわけです。よってこの説話では、串刺しを身を滅ぼす悪報を呼ぶ行為としてのみ描いているわけです。ただし、景戒の説話の原型には在来伝承存在した可能性がある。そう仮定してあらためて読みなおしてみると、毘売埼の伝承のように人間個体/狐の個体等価交換が読み込まれている。もとは、人間の側の何らかの行為に応じて、狐が肉を差し出す契約があり、それが履行された際に神霊を送る、その種の〈動物の主〉神話存在したのかもしれません。『霊異記』には、狐直を名乗る氏族の始祖伝承として、のちに安倍晴明伝承にも使用される葛葉伝説、すなわち狐と人との異類婚姻譚が収録されています。そうした狐トーテムともいうべきものを持った氏族に、ずっと受け継がれてきていた物語の変形なのかもしれません。

仏教の殺生を悪とする姿勢が前提としてあるとはいえ、地獄の描写において串刺しが描かれるようになったのはなぜなのでしょう。

確かにそうですね。串刺しの残酷性については、何らかの作用によって歴史的に構築されてきたのだという視点のほかに、生理的嫌悪感危機感なども反映している可能性があります。地獄の責め苦については、とくにそうした問題を考える必要がありそうです。このような感性レベルのことがらが、どの程度本能といいうるものでどの程度歴史的なものなのか。なかなか難しいことですが、史料を丁寧に探索してゆくことで、明らかにできることも多いかと思います。例えば、ドラキュラの原型たるブラド・ツェペシュの〈串刺し〉はどう考えるか、古ヨーロッパ世界には神送りの串刺しは存在したのか。磔刑などとの関係も含め、分析してみる必要がありそうです。

『春日権現験記絵』に、病人の吐いたものを犬が食べている場面が描かれていましたが、これは何らかの宗教性があるのですか?

犬が嘔吐物や排泄物を食べる場面は、多く絵巻などに描かれています。犬に対する穢れ観、忌避感の展開と関係がありますが、宗教性表現しているわけではありません。あえていうならば、九相図において人の遺体を食い荒らしている犬と同じ、現実残酷性や汚らしさを表現しているとはいえるでしょう。

タツことが神の顕現である割には、神像は座った姿が多いと思うのですが。

立像もそれなりにありますが、坐像もありますね。坐像が多いのは、神像が仏像モチーフにしたことと、天皇臣下として衣冠束帯を着用に礼を示しているためです。また、顕現する意味でのタツはあくまで現れることであって、動作状態としての直立のみを意味するわけではありません。

神の顕現としての串刺しのあり方は、列島社会独自のものなのでしょうか。アニミズムとの関係でいうならば、普遍的な広がりを持っていてもおかしくないと思うのですが。

この問題は重要ですが、私のなかで、未だ充分な考察ができていません。ただし、上にも少し書いたように、いわゆる磔刑の成立が、タツことと関係するのではないかと考えています。すなわち磔刑とは、神送りに準えて、人間霊魂他界に送るための所作だったのではないか。これが繰り返される古典古代のなかで、次第に日本古代の串刺しのようなマイナス・イメージ固定化していったけれども、イエス十字架像が神聖化されるのは、根底に未だタツ姿の神聖性が持続していたからではないかのか、そのようなことを想像しています。

串刺しが残酷なものと捉えられるようになったのは、説話のなかで描かれていたから、ということだけなのでしょうか。

説話は、現在のような単なる読み物ではありません。それが唱導に利用され、寺院での絵解き、法会での法話、辻説法などを介して社会に広がると、浸透力のあるものは口伝いに拡散して各階層へ定着してゆきます。地獄物語のように人間の暗い好奇心を刺激する、残酷恫喝的要素の強いものは、感染力も極めて高い。一時期、口裂け女人面犬パニックを引き起こしたりしましたが、噂も怖ろしいもの、残酷なものほど強烈に広がります。そうしてそれがまた説話を語り直し、新たな説話を生み、文章としても固着されてゆく。ひとつの説話の背景には、そうした社会的文化的な動きの存在することも想定する必要があります。

なぜアニミズムの串刺しのあり方が、仏教の残酷な串刺しのイメージと、共存できなかったのでしょうか。

列島在来の、地域的特徴を強く持った祭祀のあり方が、長い時間を経て解体されてしまったからでしょう。それは仏教が攻撃対象にしたのと同時に、神道の側の責任も大きいと思います。かつては各地の神社も生業とともに存在し、魚肉を供える祭祀、生け贄を奉るような祭祀存在していました。それが、中世後期、近世を通じて、次第に血や穢れを嫌うものへ方向転換してゆく。近代における国家神道の成立によって、この傾向にさらに拍車がかかってしまいます。ステレオタイプ喧伝で繰り返されるように、現在の神社アニミズムと直接に結びつくものではなく、逆にこれを抑圧し解体してしまった責任のあることには、とくに注意が必要でしょう。

吉蔵『大乗玄論』への言及があったが、「〈成仏〉さえ仮の言葉なのだ」という内容が気になった。真の意味とはどういったものなのか。

大乗玄論』のなかでは、仏法の真理が世界に遍満しているのであれば、あらゆる区別や分節は煩悩に遮られた人間認識が生み出してしまうもので、本当には存在しない。成仏とは、「仏でなかったもの」が「仏になる」ことであって、そこにも差別や分節が存在している。よって「成仏」は、真理のみえない人間を導くための仮の言葉=方便であって、本当はあらゆるものがすでに仏なのだ、と語っているわけです。

日本では、山や森林が多いので、草木成仏論が追究されたのでしょう。草木というと生命のあるものですが、石などの無生物も含まれるのですか。

草木成仏」というと、確かに土や石などは指さないかにみえますね。より範囲の広い議論でいうと、「無情成仏義(非情成仏義)」ということになります。ここには、無生物問題も含まれてきます。「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉有仏性」もやはり天台系のスローガンですが、ここにも無生物問題が含まれてきますね。以前授業でお話しした『叡山大師伝』のなかの香春神宮神仏習合の話、あれも最澄ですから天台宗ですが、香春岳の山神の成仏を論じた内容でした。中国的な感性で語ってしまうと、単に主託神の成仏の話になりかねないのですが、崩れた山肌が神の身体にも現れていることから、あれは主託神ではなく山の生命としての精霊そのものなのだ、と考えることができます。無生物生命見出し、その成仏を考えている事例のひとつといえるでしょう。

寺において、大木を信仰することはあるのでしょうか?

あります。授業でも紹介したように、釈迦が覚りを開いた菩提樹は、仏教的真理の象徴です。これも授業でお話ししたかと思うのですが、かつて仏像による偶像崇拝がなかった時代には、菩提樹が仏の象徴としてストゥーパレリーフに造型されていました。列島最初の伽藍寺院である飛鳥寺は、飛鳥衣縫造の祖である「樹葉」の家を解体して建てられましたが、その西には天神地祇の憑依する巨大な斎槻が立っていました。これは、飛鳥における樹木信仰聖地であり、飛鳥寺はそれを取り込む形で成立したのだ、と考えられています。

仏教説話では、動物はしゃべるが植物はあまりしゃべらないな、と思いました。これも、無情のものと考えられていたからでしょうか?

そうですねえ、樹木神は普通に話をするのですけれど。しかし、日本列島に最も広く分布する昔話である大木の秘密(ある巨樹を伐ろうとするが、切り口が翌日になると再生してしまっていて、いくら伐っても伐れない。疲れた木樵の一人が夜、木の下に宿っていると、木々の上で樹霊たちのひそひそ話す声が聞こえ、どうすれば巨樹を伐ることができるか盗み聞く)の初見として(原型は中国にあり)、『今昔物語集』のなかに、上に触れた飛鳥の斎槻を伐る話が収録されています。ここでは、樹霊がどうすれば巨樹を伐れるかつい喋ってしまうことがポイントなので、樹木は喋ります。ほかにも、「三十三間堂棟木の由来」として浄瑠璃歌舞伎などになってゆく樹霊婚姻譚でも、樹木は喋ります。確かに、純然たる仏教説話には少ないかもしれませんが、関連する領域では多くの事例がありますね。

2016-07-04 日本史概説 I(07/04分)

最初の遣唐使は、中国皇帝からどのような待遇を受けたのでしょうか。

大宝の遣唐使ですね。唐の正史旧唐書』列伝/東夷/日本国に、「長安三年、其の大臣朝臣真人来りて方物を貢ず。朝臣真人は、猶ほ中国戸部尚書のごとし。冠を徳冠に進め、其の頂に花を為し、分けて四散せしむ。身に紫袍を服し、帛を以て腰帯と為す。真人は経史を読むを好み、文を解し属(つく)り、容止温雅なり。則天、之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、本国に放還す」とあります。「朝臣真人」は、執節使粟田朝臣真人のことと考えられますが、恐らく武周王朝建設期に当たっていたためか、厚遇を受けたようです。しかし、当時中国王朝は他国に律令編纂を認めておらず、『旧唐書』に「倭国伝」と「日本伝」の二つが収められていることを考えると、所期の目的は充分には達せられなかったようです(二伝が収められているのは、遣唐使国号変更の理由を充分に説明できなかったからではないか、との見解があります)。

大宝遣唐使は刀を授けられたそうですが、これは「日本」の軍国的立場からの国際社会への主張と考えてよいのでしょうか。

確かに、将軍にも節刀が授けられます。しかしここは軍国的というより、天皇の権限の分有を粟田真人に許した、すなわち遠国に赴き重要な外交交渉をせねばならない彼に全面的信頼を置き、天皇の代理として外交権を委託したのだと考えた方がいいでしょう。

アンチモンですが、伊予より原材料を中央へ納めるより、地方で加工して銭にして納めた方が楽だったのではないかと思うのですが? / 当時はどのようにして金属鉱を見分けていたのでしょうか。

貨幣鋳造においては、実は未だ不明の点が多いのですが、和同開珎の生産に関しては、中央の催鋳銭司と河内などに置かれた鋳銭司の連携のなかで行われたようです。貨幣は権力の象徴でもあり、直接経済に関係してくるものであったため、偽金=私鋳銭は厳しく取り締まられました。和同開珎がまず中央にて生産されたのは、その設計や生産技術を中央が独占するためであったと思われます。なお、金属鉱の産出については、やはり渡来系氏族の知識・技術に委ねられていました。銅を産出した周防山口などには、殖産興業的氏族である秦氏が分布しています。

当時施行した条里制について、まだ理解できないので、詳しく説明してください。

大地を碁盤目状に均等に区画し、水田を配置してゆく制度です。東西区画が条、南北区画が里で、都市における条坊制(碁盤目状の区画に宅地を配置するもの)と同じ構造を持っています。それまでの列島には、地形に合わせて不定型に配置された水田しか存在しませんでしたが、それでは水田の計量ができません。支配地域の人民一定量の水田を配給し、一定量の米を租税として納入されるシステム効率的に動かすために、列島全域を目指して敷かれていった大土木工事なのです。

律令国家が誕生し、中国などの隣国に宣言する際に、なぜ「小帝国」で踏みとどまったのか。また、唐の長安城を模倣して宮都を造営したことは、冊封/被冊封には当たらないのか?

まず誤解のないよう正確にいうと、「小帝国」は、当時の律令国家が使用した言葉ではなく、研究者がそのあり方を規定して述べたものです。当時の日本には、目の前に唐と新羅という大国があり、現実に数十年前には、この二国によって存亡の危機に瀕している。しかも中国朝鮮半島には、日本はずっと知識・技術の提供を受けてきたわけであり、いわば古代における日本近代化は、これらの国々の影響下になしとげられたといってもいいわけです。なかなか、それらを凌駕し帝国化しようという意識は持ちえないでしょう。ちなみに、冊封とは中華王朝を宗主として崇拝し、その傘下に属して国王として公認されることを意味しており、種々の文化を学ぶこととはイコールではありません。

『古事記』は本文のみであるのに対し、なぜ『日本書紀』は一書、一書に分けて書かれたのですか。また、なぜ卑弥呼は両方の歴史書に登場しないのですか。

授業でもお話ししましたが、『古事記』は内廷的な書物であり、『日本書紀』は国家の正式な歴史書です。前者は宮廷社会においてのみ読まれていたと思われ、平安時代に至るまで記録は存在せず、その当初も『書紀』を読むための参考書と位置づけられていました。序文については偽作説が根強くありますが、その編纂の背景に天武天皇が存在したことはどうやら確かで、天皇の創出と律令国家の構築へ向けて王権を再編する際に、そのスタンダード神話・歴史を整理しようとしたものと考えられます。後者は中国正史に倣って編纂されたもので、公的な意味を持っていました。当時は神話も歴史も、中央/地方、大王/氏族の間で種々の齟齬があったと思われますが、とくに氏族や地方のアイデンティティーに関わる神話までは、未だ充分に統一整理することができなかったものと思われます。よって『書紀』の神話部分は、一応は王権の公式の伝承と定めた本文と、異伝としての一書を列挙する形式になっているものと思われます。

稗田阿礼の性別が、男性説だったり女性説だったりするのはなぜですか。舎人は男性ではないのですか。

稗田阿礼については、偽作説のある『古事記』序文しか史料がなく、その詳細は判明していません。しかし序文に則していうならば男性であり、女性説は、稗田氏を輩出した猿女君の性格に基づく推測、ということになります。猿女君は、中臣や忌部らとともに王権の祭祀に奉仕した一族で、アマテラスが岩戸隠れをした際に舞踊しその関心を惹いた、アメノウズメを祖としています。恐らく神懸かりの巫女を輩出したものと考えられ、それゆえに稗田阿礼女性と考えられたのでしょう。アレは生まれるの義で、例えば秋に神の再生を祈る賀茂社の神事などは、御阿礼祭と呼ばれます。これに奉仕する女性が阿礼乙女といわれたことも、一因でしょう。

現代ではカラスによい印象を持っているとは思えないが、奈良時代にやたらとカラスが出てくるのは、水田の形態が変わったなどの意味があったのだろうか。

カラス古代において、必ずしもマイナスの印象のみを持つ存在ではありませんでした。熊野社や厳島社をはじめ、烏を神使と定めている神社もあります。『古事記』や『日本書紀』では、熊野で遭難した神武天皇を導く存在として、八咫烏が登場します。しかしこれらの表象は、少なくとも戦国時代以来、烏を太陽の象徴と崇めていた中国文化の定着に由来するものかもしれません。現在の我々が持つ、死や穢れに関わる烏のイメージは、平安時代以降に、仏教との関わりのなかで浸透していったものと考えられます。

朝廷と武力衝突した隼人は、対立できるくらい大きな力を持っていたのでしょうか?

隼人は、南九州にあってヤマト王権に服属していた集団で、東北蝦夷と同じく水田経営を主体とせず、焼畑や狩猟・漁労などから成り立つ社会を築いていたと考えられます。彼らは、やはり九州という立地上、蝦夷よりも早くに王権へ服属していたようですが、当初は比較的緩やかな支配関係のなかで、これまでの政治・社会・経済を許容される形で推移していました。しかし律令国家の建設に伴って恐らくは支配が強められ、他地域と同じような支配関係のもと班田収授の適用が企図されて、水田経営を主体とする社会・経済へと改造が図られたのでしょう。それに対して隼人側へ不満が鬱屈し、反乱に至ったものと推測されます。当時の正史続日本紀』には、大伴旅人率いる征討軍によって1年余りをかけて反乱が鎮圧され、1400人に及ぶ捕虜・戦死者を出したと書かれています。

国家が隼人を制圧するために南島を懐柔しようとした方法は、中国的な遠交近攻策を想起させるとのお話がありました。これは、中華思想が浸透した結果でしょうか。

通常の政治、兵法としてはありうる話だろうと思いますが、確かに『春秋』三伝をはじめとする中国史書が輸入され、研究が進むなかで、このような方策が立案されるようになっていった可能性はあります。奈良時代以降、文章得業生に対する試験「対策」において、博士からの出題に受験者が答えた内容「策文」には、中国の故事をどれくらい熟知し漢籍レトリックをどれだけ駆使できるかが求められました。当時の貴族や官僚にも、例えば中国六朝の右書左琴のように、書・詩文の才と奏琴の技術などが期待されていたことが分かっています。教養人である藤原不比等や長屋王がトップに立っていたように、政治の現場においても、中国の故事などを引き合いに出した議論が行われていたと想定されます。

平城京を造営した際に、藤原京は壊されたのでしょうか? 藤原京はどの点で長安城と異なっており、再整備を求められたのですか?

例えば藤原京に造営された寺院に関しては、解体して平城京へ移築しています。平城宮については、藤原宮と設計が異なっていたので、そのまま移築するというわけにはゆかなかったでしょうが、再利用可能な木材・石材などについては、解体・運搬されて用いられたものと考えられます。藤原京長安城との重大な相違については、授業でも触れましたが、宮城が京域の中央付近にあり、「天子南面」の思想を実現できていなかったことです。よって、平城京では、宮城は京域の最北域に造営されました。

藤原京から平城京に移ったのは、藤原京の建設中に死者が出て不吉だったからと学校で習ったのですが、それは先生の仰っていた長安城との相違を背景にしたうえで、流された噂のようなものでしょうか?

うーん、それはもしかすると、長岡京の誤りではないかと思います。平安のところでも(駆け足で)お話ししましたが、平城京のあとの宮都である長岡京では、突貫工事中に建設責任者であった藤原種継が暗殺され、その事件の処理によって廃太子された早良親王が、軟禁中に食を断って自死する結果となりました。以来、桓武天皇はその怨霊に悩まされることになります。藤原京においては、造営時に工事域内にあった古墳を削平する際、遺体を別所にあらためて埋葬するといった記事は出てきますが、死者が出て不吉といった記録はありません。

平城京について、外京や北辺坊については、平城京を造営する前から計画されていたものなのでしょうか?

恐らくは、後に付加されていったものであると考えられます。現在興福寺元興寺の位置する外京地域は、春日山へ連なる丘陵地帯でした。平城京域は右京が低湿で、左京へゆくほど高燥になってゆきます。ゆえに、上級貴族の邸宅も左京以東に集中する結果となりました。春日地域は、平城京造営以前から仏教の山林寺院などが存在しましたが、恐らくはその点に基づきつつ、造営計画上仏教の重点地域として位置づけられたものでしょう。それゆえに〈日本最初の伽藍寺院〉の後継である元興寺、時代を担う藤原氏の氏寺である興福寺(旧山階寺)が並置され、やがて東大寺が造営されてゆくものと思われます。藤原京においても、東側は香具山三輪山を祀る大神神社石上神宮などの宗教的スポットがあった関係から、やはり藤原氏の氏神春日社なども整備されたものでしょう。それらと平城京域を都として連結するために設置されたのが、外京だったと考えられます。

藤原氏の南家、北家、式家、京家とは、何を示しているのでしょうか。

藤原四子が、それぞれ独立して起こした家です。以降平安時代にかけて、宮廷においては氏族としてのまとまりが細分化し、家の時代になってゆきます。それぞれの名称は、武智麻呂と房前の家がそれぞれ南北に位置したことから南家、北家となり、式家は宇合が式部卿にあったため、京家は麻呂が左京大夫にあったため、その官職から通称されました。

長屋王より藤原四子の方が、政治能力に秀でている印象を持ちました。不比等としては、長屋王を後継にしたかったということでよいのでしょうか?

藤原不比等自身が書き残しているものがないので、詳細は不明です。しかし、不比等が生前に長屋王は大納言となり、四子は次男の房前が参議に就任しているだけでしたので、長娥子を嫁がせていた関係からしても、長屋王をいただきつつ四子が協力する体制を志向していたのではないかと考えられます。四子のうち房前は早くから長屋王に接近しており、皇室藤原氏の間を媒介する役割を期待されていたようです。長男の武智麻呂は地方官を含め実務をこなしてきており、長屋王の理想主義と武智麻呂の現実主義を、房前が調整する形を理想としていたのかも分かりません。

長屋王と藤原四子の政策は、決定に至るまで会議体できちんと議論されていたのだろうか。また、長屋王を支えていた人には、どのような人物が挙げられるのだろう。

やはり著名なのは、四子の次男、藤原房前です。彼は、元明上皇から首皇子の後見役として内臣の職を任じられ、長屋王の宴席にも出席していました。また、宴席への誘いを辞退する漢詩が残っていますが、入唐留学から帰国した道慈(国分寺の発案者と推測)も、ブレーンのひとりであったと思われます。

行基の行いのどのような点が、律令の規定に違反しているとみなされたのですか? / 聖武がともに東大寺を造るほど行基を尊敬していたのに、長屋王はそれを弾圧して反感を買わなかったのでしょうか?

当時の行基集団は、平城京近辺の交通路布施屋を設け、行路に難渋した者や浮浪逃亡者、逃亡役民の類を救済する活動を行っていました。それらは仏教の説法を行う道場に付設され、私度僧を含む男女が協力して運営していたと考えられます。またその活動資金は、行基の背景にある渡来系氏族ネットワークのほか、平城京における大規模な托鉢行に負うところも大きかったと考えられます。しかし、律令の規定にある仏教・僧尼関連の法令「僧尼令」では、私度の禁止はもちろん、托鉢の規模や内容・時間にも厳しい制限があり、所属寺院以外での布教の禁止、僧尼の共住禁止などが規定されており、行基の活動は大きな問題となったのです。また、彼の活動に身を投じる女性たちも多かったことから、国家が儒教的家族の崩壊を怖れたとする見解もあります。

三世一身法や墾田永年私財法により律令制が崩れたという見解は、学界の通説とはいえないのに、なぜ教科書ではそのように記述されているのでしょうか。

実は教科書では、かなり以前から「この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策であったが、その一方で貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになった」と記されており、「墾田は、租をおさめるべき輸租田であった」との注記もあるのです(山川日本史B)。しかし授業において、後者を強調した教え方がずっとなされているということでしょうね。

霊亀二年の寺院併合令は、僧侶勢力を抑える目的で実施されたのでしょうか?

いいえ、必ずしもそうではありません。7〜8世紀にかけて、国家の奨励のもとに氏族による寺院造営が盛んになったのですが、ほとんどが国家による補助金を当てにしたもので、実際の信仰は根付かず、放置されたままになっている寺院が多かったのです。藤原武智麻呂は近江守(現滋賀県の国司)時代にそうした惨状を目にし、廃寺同様になっている堂塔を合わせ、整備する提案を中央に送ったのです。この段階では未だ、僧侶勢力は政府に圧力をかけられるほどには成長していません。

藤原四子が天然痘で亡くなったのは、都合がよい気がします。何か謀殺のようなものはなかったのでしょうか?

天平9年の天然痘の流行の被害は凄まじいもので、従五位下以上の京官の約4割弱が半年のうちに死亡し、国家の中枢である議政官の半分以上が亡くなってしまいました。国家を動かす知識・技術を持った人々が、地方の末端から中央の中枢に至るまでほとんど死亡してしまい、まさに存亡の危機に瀕していたのです。ちなみに藤原四子は、恐らくは互いに見舞い合うなどしたために、速やかに感染し命を落としてしまったものと思われます。緊密な関係であったのが、災いしたのでしょうか。

天平7〜9年に大流行した天然痘ですが、日本全体ではどの程度の人数が亡くなったのでしょうか?

人民から徴集した正税の帳簿である「正税帳」から、稲を貸し付けて利稲を取る出挙の免負稲率、すなわち負荷人民の死亡によって免除となった負担額の割合を調べてみると、おおよその死亡率を導き出すことができます。通常、この割合は10%未満なのですが、天然痘の猛威が吹き荒れた天平9年には、地域によって30〜60%前後に跳ね上がっています。データの残っている地域でいうと、和泉は未納も記載があり合わせて50%弱、駿河は概ね30%前後、長門は未納も記載があり合わせて30〜50%、豊後も未納の記載があり合わせて60%弱でした。すなわち、これらの国々では、郡の住民の3割から半分が死亡していることになり、列島全体に当てはめると大変な事態であったことがよく分かります。

天然痘によって支配者層の人々が大勢死亡してゆくなか、どのような対策が採られたのでしょうか。

天平9年の天然痘流行については、一般向けに出された太政官符による指示と、官人向けに出された典薬寮の答申に基づく指示の、2つの対策が残っています。当然のごとく、後者の方が専門的な、医薬なども多く用いた処方になっており、後者はそうした処置が受けられない人々に対して出された、民間医療ニュアンスさえあるものです。しかし、これは後世においても天然痘の処方として度々引用されており、相応の効果があったものと考えられます。内容的には、高熱によって引き起こされる下痢への対処が中心になっています。以下に、現代語訳を掲げておきましょう。『類聚符宣抄』巻3 疾疫事/皰瘡事 所引 天平9年(737)6月26日官符〔新訂増補国史大系、故実叢書『拾芥抄』にて対校〕、「太政官符す、東海東山北陸山陰山陽南海等の道の諸国司。一、総じてこの疫病は、名を「赤班瘡」という。症状が現れる始まりには、すでに瘧疾(マラリアのような熱病)に似ている。まだ膿疱が現れる以前は、床に臥して苦しむことが、あるいは三、四日、あるいはは五、六日続く。膿疱が出ると、また三、四日を経て、肢体も内臓も焼けるように熱を持つ。この時になると、冷水を飲みたくなる。〈しかししっかりと我慢して、飲んではいけない。〉熱病がまた快方へ向かい、熱気もだんだんと治まってくると、(今度は)下痢の症状がさらに生じてくる。速やかに治療しなければ、最終的には赤痢になってしまう。〈下痢の症状がある期間の前か、あるいは後か、時期が決まっているわけではない。〉この疫病と併発する症状には、また四種がある。ひとつは咳や嚔(シハブキ)、ひとつは嘔吐(たまひ)、ひとつは吐血、ひとつは鼻血である。これらのうち、下痢が最も急激に現れる。このことをよく自覚して、治療に専念しなければならない。一、かいなに綿を通し、腹・腰をしっかりと縛り、必ず温かくして、決して冷やしてはならない。一、寝具は薄くするが、地面に直接寝かせてはならない。ただ床の上に蓆を敷いて横たえ、休ませるようにせよ。一、粥やおもゆ、餅や粟などを煮た汁は、温かなものも冷めたものも、好みに応じて食べてよい。ただし、鮮魚や生肉、生の果実や野菜は食べてはならない。また、水を飲むこと、氷を食べることは、固く慎んでしてはならない。下痢の症状が出たときは、よく韮や葱を煮て多く食べるとよい。もし血便や粘液便が酷くなったときは、もち米の粉八、九を混ぜて煮させ、温かな状態で二、三度飲ませるようにせよ。また、もち米の乾したもの、うるち米の乾したものを湯で溶き、粥にして食べさせよ。それでも下痢が止まらないなら、さらに五、六度食べさせて、しっかり管理を怠らないようにせよ。その乾し米については、丁寧に突き砕き、そのままの形にならないようにせよ。一、おおむねこの病は、食事に悪い影響が出る(胃腸に悪い)ので、必ずあえてしっかり食事を摂るようにせよ。発症したら灸火の治療も始め、海藻に塩を付けてときどき口のなかに含ませよ。もし口や舌が爛れても、病にその効果があるのだと自覚して続けること(汗や下痢で出てしまうので、塩分、ミネラルを摂らせる)。一、症状が緩和してから20日を経ても、安易に生魚や生肉、生の果実・野菜を食してはならない。水を飲むこと、身体を湯や水で洗浴すること、無理に性交渉を行うこと、歩いて風雨に当たることはしてはならない。もしこの戒めを破ってしまったら、必ず霍乱(急性胃腸炎)を発症する。そうすると更にまた下痢が続く、いわゆる「労廃」である。〈さらに発症する病を、名づけて「労廃」という。〉こうなってしまうと、いよいよ扁鵲のような名医に診てもらう以外に、症状を止めることなどできない。20日ほど経って後、もし魚や肉を食べたいと思ったら、まずよく火を通して、そうして後に食べるべきである。ただし、干し鰒や堅魚(鰹節)などの類は、煮たものでもそうでないものでも、どちらも食べてよい。〈干し肉も同様に食べてよい。〉ただし、サバやアジなどの魚は、乾燥させた品があるとしても、我慢して食べてはいけない。鮎はまた、煮たものでも食べてはいけない。蘇油(牛乳から作った油)や蜂蜜、□などは禁止する限りではない。一、すべて疫病を治そうと思うならば、丸薬や散薬などを用いてはならない。もし胸に熱があれば、わずかに人参湯を服用する程度にせよ。以上のことは、四月以来、京及び畿内の人々が尽く疫病に罹患し、多く死亡することがあった。畿内諸国の人民も、またこの疫病の害に遭うだろうことは明らかである。そこで先のとおり条々を記した。国はこれを、伝送せよ。届いたならば写し取り、すぐに郡司の主帳以上一人を選んで、死者に立てて速やかに次の場所へ送り届け、停滞することのないようにせよ。国司は部内を巡行し、人民に告示せよ。もし粥を作る材料がなければ、国は量を測って支給し、その細目を報告書にして進上せよ。今、太政官の印をこの文書に捺す。官符が到達したならば、命令のとおりに実行せよ。  正四位下行大弁紀朝臣〈男人〉   従六位下守右大史勲十一等壬生使主  天平九年六月廿六日」。

天子が北極星に喩えられているのが不思議であった。なぜ太陽や月ではなく北極星なのか?

北極星は、ご存知のとおり、地球の自転軸を点へ延長した地点に位置するため、地球からみると回転する天の中心に位置することになり自分自身は動きません。その中心性、不動性が、天帝の居処として意識される由縁です。地上の天子はそれを体現する存在、世界の中心として君臨するのです。

「南無阿弥陀仏」と「天子南面」とは関係あるのですか? 個人的には、「阿弥陀仏より偉いものはいない」といっているのだと思うのですが。

おもしろいですね! 確かに、「天子南面」の思想をもとに、漢文として「南無阿弥陀仏」を読解すれば、そう読めるかもしれません。しかし実際は、「南無」はサンスクリットのナモー、すなわち帰命=命を帰属させる、帰依する意味の言葉を、漢語に写した音写なのです。よって「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来に帰依し奉る、といった誓約の言葉になります。

「法華滅罪」にもともと女性が罪を抱えているという思想がなかったとはいえ、女性を罪悪とみる思想はのちに日本へ浸透してしまったのでしょうか?

そうですね。事例を挙げればキリがないのですが、仏教には女性差別関連の思想が拭いがたく存在するのです。例えば、五障。女性は、梵天帝釈天魔王、転輪聖王、仏陀といった卓越した存在にはなることができない、という考えです。また女性出家者の尼も、正式な尼と認められるまでの過程が男性僧侶より煩瑣であったり、男性僧侶の守るべき戒律が250戒であるのに対し尼は348戒であるなど、男性よりも厳格な情況に置かれました。こうしたあり方からの救済の方法が差別的で、一度男性へ性転換してから成仏するという、〈変成男子〉思想が喧伝されました。これを説く代表的な経典が『法華経』なのですが、奈良時代の日本ではその部分がほとんど重視されていなかったのです。かわりに、やはり変成男子を説き、そのための呪文も載せる『宝星陀羅尼経』が重宝され、まさに孝謙・称徳天皇光明子の周辺で盛んに書写されました。孝謙・称徳は、聖武の意向を汲んで自ら性を超越した転輪聖王となるため、同種の経典にすがったようです。

東大寺についてですが、古代のひとはみな実際に東大寺に拝礼に来ることを許されたのでしょうか。また、全員が仏教徒だったのですか?

奈良時代の当初、東大寺への庶民の参詣がどの程度許されたのかは、実はよく分かっていません。ただし、天皇から庶民までが協力してひとつの知識をなし、大仏造立を完遂するという聖武の理想からすれば、無礙にそれを禁制したりはしなかったと思われます。むしろ、そうした機会をあえて作り、大仏の威容を示すことが考えたでしょう。天平勝宝4年(752)、未だ完成には至らない状態で挙行された開眼供養会においては、1万人を超える道俗の参列者に庶民は含まれませんでした。しかし、大仏の覆い屋である大仏殿は、開眼供養より遅れての建設でしたので、市井の人々も京域よりその様子を望見することはできたでしょう。院政期に描かれた『信貴山縁起絵巻』下巻には、弟の命蓮法師を訪ねてきた小尼公が、大仏殿に参籠する様子が描かれています。これによれば、少なくとも平安後期頃には、東大寺も一般の参詣者を受け容れていたと推測できます。

仏塔は、五重塔、七重塔など、奇数であると高校で習いましたが、なぜでしょうか。

これは案外に難しい問題です。仏教では、とくに奇数を重視するという考えはありません。しかし、8を悟りを表す聖数として意識します。そうして聖数であるがためにあえて表示せず(例えば、日本古代天皇の姿を御簾で隠すのと同じ発想です)、あえて8を明確には表さず、その直前の7で代用するという方法が採られます。例えば、末法の世界に再び救済をもたらす弥勒の降臨は、56億7千万年後ですが、これは弥勒の成仏を8と捉え、5→6→7という形で8への接近を表現したものです。七重塔なども、こうした表現のひとつであると理解できます。一方中国においては、古く殷帝国の頃より3を神聖な数として意識し、後天・地・人を表象するものとして意味づけされてゆきます。また、易の概念では奇数は陽数であり、天を象徴するものであって、とくに9がその最大の数であると位置づけられています。恐らくはこのような観念の複合から、神聖なる7に隣接する陽数として、3や5、9などが選択され、とくに天へ伸びてゆく建築である塔の〈理屈〉として構築されていったのでしょう。

恭仁が橘諸兄の本拠地ということは、葛城氏の本拠地が恭仁であったということでしょうか。

恭仁京の置かれた木津は7世紀より物資流通の拠点として栄え、淀川水系を用いて水路で運搬された物資が、ここで水揚げされ南の藤原京平城京などへ車などで運送されてゆきました。橘諸兄の別業(別荘)の置かれた井手地域は、このような環境のなかで渡来系氏族の定着も進み、早期に仏教も入って多くの白鳳寺院が造営されました。諸兄が同地を本拠地として定めたのは、蘇我氏以前に渡来系氏族を差配していた葛城氏の影響があったのかもしれませんが、同所は葛城氏の本拠というより、橘諸兄が自らの〈足場〉として新しく築いた場所であったと考えられます。

仏教を国家統治の手段として使用した聖武朝が、天武朝の天皇即神を利用しなかったようにみえるのは、やはり唐の仏教文化を受容し、文明国としての日本を対外的にもアピールしたかったからでしょか。

いえ、即神自体は、天武以降天皇認識の前提となっています。それゆえに、大仏造立の際、聖武が「三宝の奴」になると宣言したことが、大きな矛盾を孕むのです。この先例には、中国南朝梁の武帝などがいますが、聖武の場合は、下に説明した宇佐八幡などのように、自らを護法善神、すなわち仏法を守る善神と位置づけて帰依を表明しているのでしょう。

天皇が仏教に深く帰依したことと、神仏習合とは関係がありますか?

大仏造立に関して、宇佐八幡神が仏教に帰依し、列島の神々を率いて事業に協力するとの託宣を下します。以降、一地方神に過ぎなかった八幡は急速に勢力を拡大し、仏教国家たる王権の守護神となってゆきますので、この動きには大いに政治的な臭いがします。しかし、八幡はその立地環境からしても渡来文化に開かれており、6世紀には仏教を導入していたことが確認されます。神仏習合の動き自体は、6世紀の終わり頃から地方でみえはじめますが、それを中央化したのが八幡託宣だったといえるでしょう。その実現の背景には、恐らく朝廷との実務的交渉があったのでしょうが、即神たる天皇が仏教へ帰依する構図の矛盾が、神仏習合によって解消されたことは間違いありません。

日本が女性を尊重しているようにみえるのは、大陸国家と海洋国家の相違なのでしょうか?

日本古代文化における女性の活躍は、もちろん列島の独自性もあるでしょうが、例えば大陸でも、六朝江南地域では女性が活躍しています。仏教では男性僧侶に匹敵する学識、政治力を持った尼僧が輩出していますし、茅山道教なども女性の地位が高い。朝鮮半島でも女王が即位し、尼僧が盛んに活動しています。武周の武則天をはじめ、7〜8世紀の東アジアでは、女性が政治・文化の表舞台に立って活躍していたといえそうです。

基皇太子が亡くなったとき、安積親王はなぜ皇位継承の表舞台に出てこなかったのでしょうか?

安積親王母親県犬養広刀自で、後宮を統括していた藤原不比等の後妻で光明子橘諸兄らの母親県犬養三千代の同族です。恐らく、三千代の差配によって、聖武の妃になったものと考えられます。奈良時代の皇位継承は、天武系/天智系の合体である草壁皇統によってなされますが、持統天皇の意向に協力しこれを実現したのが藤原不比等であったため、文武以降は藤原氏を母とする皇子を皇位継承者とする路線が敷かれたようです。ゆえに聖武の後継者の選定に関しては、その貢献である元正上皇は、藤原氏である光明子の系統を嫡流、県犬養氏の広刀自の系統を庶流と位置づけていたようです。安積親王の存在が常に継承候補から外れていたわけではなく、ゆえにその頓死のあり方には疑問も持たれますが、皇位継承の内紛を回避するためのバイアスとして、既定路線を維持してゆこうとする草壁皇統の意志は強かったものと思われます。