来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2016-05-20 日本史特講:日本仏教史(05/20分)

動物に関する伝承で、人と動物の混血が人間的な姿になることが多いのはなぜですか。

いわゆるアニミズム信仰においては、信仰の対象は森羅万象に宿る生命精霊ですが、これは人間と同じ姿をしていると考えられることが多かったのです。熊や虎、狼などの獣も、その毛皮を脱げば、人間と同じ姿をしている。逆に人間が毛皮を着れば、熊や虎、狼になれる。他者表象としては、それがアニミズムの限界であり、しかしそれがために、あらゆる生命に上下の価値付けや差別を設けることがなかったのです。

少数民族のクランと、動物の生息域は一致するのでしょうか。民族の移動により、クランの対象動物がみられなくなっても?

これは本当に重要な問題ですが、例えば、少数民族のトーテムのうちで最も広汎に分布しているのは、虎トーテムなのです。これは、東南山地を中心に棲息してたアモイトラ(華南虎)のためで、ほぼ、民族集団分布範囲生活領域と一致しています。しかしこのアモイトラは、近現代の撲滅運動を通じ、ほぼ全滅して姿を消していました。しかし、未だにトーテム信仰としては維持されているのです。例えば未だにオオカミの勢力が強いモンゴルのように、その威力を実感している情況では問題ないのでしょうが、それがなくなったとき信仰はどう維持されるのか。伝承の力だけで持続するのか。でも考えてみると、例えば漢民族の龍トーテムは、その姿が実在しなくとも何百年にわたって生き残っているわけです。風雨や雷などを龍の実態として捉えているからかも分かりませんが、詳しい調査が必要でしょう。

山と里・平地の対立が東アジアを中心に各地でみられたという話だが、それは里に住む人々にとって、山が神秘的な存在であったからこそ、そこに住む人々も人間離れした存在と考えたのだろうか? / 山で修行もするのに、なぜ差別的な四川でみるのでしょうか。 / 西洋の聖書的自然観において、自然と人間など、二項対立的な事例はあるだろうか。

ひとつにはそのとおりです。山は恐ろしい獣のほか精霊なども跋扈する世界と捉えられていたので、そこに生きる人々は常人ではない、あるいは魑魅魍魎の仲間であると考えられていたわけです。しかしそうした神秘化は、ある意味では差別なのです。これは、ヨーロッパにおけるオリエンタリズムと同じものです。オリエンタリズムも、ヨーロッパ東方差別ばかりしていたわけではありません。実際に優れた発明品、芸術思想その他が将来されていたわけですから、一種憧憬も懐きつつ、それが逆に嫉妬や愛憎、差別へと転化してゆくわけです。ヨーロッパではこのオリエンタリズムカテゴリーなかに、野生/文明森林耕地女性/男性、悪魔/神といった二項対立的構図がすべて重なってきます。もちろん、オリエントヨーロッパも。例えば、中世ヨーロッパでは、森林文明対立的なものと位置づけられ、化け物だの魔女だの悪魔だの野人だのの巣窟とみなされるようになります。一方で、これを伐り拓いて耕地化してゆく修道院は、それだけで神の意志を実現するものとみなされました。このとき、授業で扱ったのと同じ猿人のような毛深い野人のイメージを、ヨーロッパにおいても確認することができます。アジアにおける平地/山地も、これとほぼ同じものですね。ゆえに実は、自分と同等のものとはみないという意味で、崇敬も差別、疎外の一形態なのです。

山の民は、いつから偏見を持ってみられるようになったのですか。

こういうことは、関係論的に捉えなければなりません。すなわち、平地の道徳倫理価値観確立していったことと関係があるのです。日本列島の場合は、やはり、稲作文化一般化に対応します。例えば、かつて標高300メートルを超える山々には、縄文時代の人々は普通に踏み込んで狩猟採集を行っていました。彼らにとって、山は「高いところ」でしかなく、気温や峻険さに伴う困難がない限りは、日常生活の普通のフィールドだったのです。しかし弥生時代以降になると、このクラスの山々には、段々と生活痕跡が少なくなってゆき、そうして一部は禁足化されて、神聖な山になってゆきます。この傾向は、平地が開発されて水田化してゆくことと対応し、比例しています。すなわち、平地で水稲文化が成立してくると、開発できない領域日常のなかからはじき出され、神聖化されてゆく。これが、神社を生み出してゆくひとつのパターンになるのです。

『遠野物語』から平地の人たちによる山に住む人々への差別がみられたが、山に住む人たちは、平地に住む人々のことをどのように考えていたのだろうか。

これは重要な視点ですね。例えば、近世山中を移動しつつ、樹木を伐って器などを作成していた木地師集団は、その生業を歴代権力者保障したお墨付きを持ち、平地の人々との通婚を厳しく規制していました。これとよく似た文書を持ち、やはり移動と焼畑従事していた中国西南ヤオ族は、一時期水田経営を強いられていましたが、やがて反乱を起こしてそれを放棄し、山中生活に戻ってゆきました。人類学者・歴史学者のジェームズ・スコットは、中国西南部から東南アジアに及ぶこれら少数民族活動を、王朝支配や国家化に抗する文化として高く評価しています。山に暮らす人々は、平地の文化否定していたわけではありませんし、交易などの交渉は持っていましたが、それで自分たちの生活文化が汚染され、解体してしまうことの恐怖をしっかりと認識していたようです。

十二神将にしろ十二誓願にしろ、なぜ12という数字が仏教においては重視されているのでしょうか。また、十二獣と十二支は、方角に準えられることが多いのでしょうか。

12は、仏教だけではなく、種々の宗教整数として用いられるスタンダードのひとつですね。例えば、キリスト教でも「十二使徒」などがあります。これは、12が月や方位など、世界を分割する、あるいは表現する基本的な数字であるからです。ネリー・ナウマン民族学者によれば、聖数はまず方位、空間を分割するものとして4から始まり、やがて8、12と次々分割されてゆく。そのなかで、他の事象をも包括的表現しうる数字が生き残っていったということでしょう。

十二支と十二獣の動物がほとんど同じなのは、どちらがどちらかに影響を受けているからですか?

それはそうですね。十二獣が仮にインド由来だとすれば、それが漢訳されるとき、中国十二支が参考にされたのだと思います。最も大きな相違は師子/虎ですが、中国では獅子想像上の動物麒麟や龍に近いものでした。それでも、虎と対応する位置に置かれているのは、知識としていかなるものがあったのか興味深いですね。

2016-05-16 日本史概説 I(05/16)

ある本で、日本に処女信仰が始まったのは明治維新で西欧の価値観が流入してからだと書いてあったのですが、そもそも神に仕えるのは清らかな処女であるべきという考え方が定着したのはなぜでしょうか。

かつては、古代においては神に仕える女性は未婚でなければならない、それが太古の昔からの伝統なのだ、と信じられていました。しかし近年の、とくに義江明子さんらの研究によって、古代に遡るほどそうした処女性は重視されておらず、既婚者や子供もいる女性夫婦の男女などがともに神に奉仕していることが分かってきました。現在では、家父長制の成立・浸透に伴って政治・社会・経済の表舞台から女性排除され、男性が女性の性をコントロールしようとする傾向が高まるなかで、処女清浄との神話が出来上がってくるものと考えられています。男性=文明女性自然との、二項対立的枠組みが構築されてくることとも関連しています。

卑弥呼の夫の話が出てきましたが、彼女の世話をしていたのは「男弟」ではないのでしょうか。

とりあえず、『魏書』東夷伝倭人条には、このように出ています(原漢文)。「倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻なし。男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。」この書き方で、「男弟」=「男一人」と読むのは、少し無理があるでしょう。別人と解するのが普通です。

卑弥呼の死で魏との外交が失われてしまったことに驚きました。難升米などの卑弥呼の近くにいた人々は、その後どうなってしまったのでしょうか。 / 『魏書』にはなぜ台与に関する記述が少ないのでしょうか。

『魏書』の記述に従うと、狗奴国との軋轢に対応すべく張政が邪馬台国へ渡ったようで、後継者が台与に落ち着くまで滞在事態の収拾に当たったようです。どのくらいの期間か分かりませんが、一度男王が立って政権が混乱し、誅殺の嵐が吹き荒れ、そののちに台与が立って、彼女は使者に供献物を添えて張政を魏へ送還しています。張政の、邪馬台国に対する並々ならぬ思いが感じ取れます。しかし残念ながら、こののち魏自体王権簒奪に遇い、晋はほとんど倭国への興味をなくしてしまったようで、ヤマト王権へ至る過程の記録が残っていない状態なのです。晋に至って呉の討伐にも成功したため、魏のときに懐いたような倭の政治的重要性が希薄になった、ということかもしれません。

結局、魏が援軍を送らなかったのはなぜでしょうか。

直接魏の領土に関わらない他国内の内乱ですから、普通は援軍など送らないでしょう。そもそも魏は、朝鮮半島の安定と呉への対処の目的で倭を必要としたのであり、そこで軍を邪馬台のために割いてしまえば、本国防衛が危うくなります。本末転倒となります。

邪馬台国は魏の属国といえるでしょうか。

一応、「王」として冊封されていますので、朝貢国という位置づけだと思います。しかし遠方の夷狄に等しい存在ですので、実質的には、友好勢力程度にみられていたのではないでしょうか。

銅鏡が山梨県から出土したとありましたが、誰かが九州から持ち出したものとは考えられないのですか? また、九州からは1枚も出土していないのですか?

呉の年号、赤烏元年(238)銘を持つものが山梨県鳥居原狐塚古墳から、同じく赤烏7年(245)銘のものが、兵庫県の安倉高塚古墳から出土しています。呉の年号を持つ銅鏡の話で、銅鏡全般のことではありません。銅鏡自体は、九州からもたくさん出ています。

寒冷多雨の環境下で、各地の王はどのようにクニを作りあげ、それを安定化させる水稲耕作を続けてゆくことができたのだろうか。

やはり、まだ分からないことが多いですね。授業でお話ししたとおり、品種改良などの対応が未だできない技術段階にあって、気候悪化するなかで稲の収穫を確保するためには、治水を行いできるだけ多くの水田を確保することです。河川の流路変更や溜め池の造成などを通じて、これまで開発できなかった丘陵地などを水田化してゆく。そのための土木技術革新労働力の集中化、それが可能なクニへ勢力が集中してゆく。そのプロセスにおいて淘汰が進み、幾つかの強力な地域王権と、それを統括するヤマト王権が屹立したのだと考えられます。

樹木を大量に伐採して環境改変を行うことは、当時の人々の心性と矛盾しないのでしょうか。 / 古墳時代には、アニミズムなどの観点から森林伐採に反対する人々はいたのでしょうか。 / 森林伐採は国家的事業として行われたのですか?

未だヤマト王権下においては、各地域土地公有にするような中央集権体制は実現できていません。よって、ヤマト王権の勢力基盤である近畿地方と、地域首長との関係において設定した直轄地以外で、大々的な国家事業を展開することはできなかったでしょう。しかし、そうした直轄地の周辺で、渡来系の集団をはじめとする先進的グループを送り込み、開発を展開した痕跡は残っています(のちのちお話ししてゆきます)。なお、地域王権統一王権の展開する環境改変に、共同体レベルでの反抗があった可能性はあります。当時のそのままを記録した文字史料存在しないので実証はできませんが、7世紀以降の段階でも、国家的開発事業に民衆の反対する事例はあるのです。例えば『書紀』や『風土記』のなかには、樹木伐採や治水事業を展開しようとする英雄、国家の命令を奉じた人物などに対し、自然表象する蛇などの神々が現れて妨害をする話が出てきます。これを、「いかなる神も天皇に逆らうことはできない」との言動のもとに打ち倒し、開発が達成されてゆく。この「妨害」こそ、共同体集合的意志でしょう。事実、『書紀』推古天皇26年是歳条には、国家の命を受け安芸国で造船を行っていた河辺臣某が、落雷した樹木を造船材として伐り出そうとしたところ、在地の人々が「落雷した木だから伐ってはならない」と反対した、という記事が載せられています。落雷し損傷した木をわざわざ造船材に設定したのは、落雷雷神の憑依を意味し、そうした特別な力を持った木は、それを用いて作りあげる船や家宅、楽器などに、やはり特殊な性能を付与すると考えられたためです。しかし在地の人々は、そうした神聖な木だからこそ、無闇に伐採することに反対しているのです。類似のことは、古墳時代にも各地で起きていたでしょう。恐らく、7世紀の時点より抵抗は大きかったはずです。

陶邑の樹種分析などから分かる環境破壊は、日本の歴史にどう影響を与えてゆくのでしょうか。建築や水軍力のあり方にも影響してゆくのですか。

古墳時代の頃ですから、環境改変が進んでゆくといっても、即座に社会にマイナスの影響が出るほど、環境悪化してしまうわけではありません。しかし7世紀にまで至ると、藤原京建設に至る時点で、すでに飛鳥周辺の森林における建築用大径木は底を尽き、近江国の山林にまで手を伸ばさなければならない事態となっていたことが分かっています。以降、遷都や寺院移転の際にも、もともと使用されていた木材解体して運び、再利用することが多くみられるようになってゆきます。

陶邑の木炭の樹種分析について、5〜6世紀は減っているが、6〜7世紀は急に増えている。これはアカマツが増えたからと理解してよいのでしょうか。

授業でも少しお話ししましたが、グラフに現れている木炭の量が、周辺の森林量を直接的に示すわけではありません。例えば、盛んに操業していればそれだけ木炭量は増え、活動が弱まっていれば減る。全体の木炭量が減少傾向にあるのは、森林資源が減少していることを大枠に、陶邑の生産自体が落ち込んでゆくことも表しています。それを前提にしたうえで、7世紀に少し増えるという情況ですが、地方窯が出現して陶邑の生産が衰えてゆくなか、飛鳥藤原都市開発が始まり人口が集中、陶邑の生産に何らかのてこ入れがなされたものと思います。寺院の造営が始まり、瓦が生産され始めたことも関係するでしょう。前後の時代比較し、樹種の変動には大きな混乱がないので、どこか別の場所からまとめて木材を運んできて燃焼させたわけではないでしょうが、周辺の樹木をかなり根こそぎにしていった可能性はありますね。

大仙陵古墳のような大型の古墳を築造するためには、非常に多くの労働力を必要としたと思いますが、人々は支配階級の指図に黙って従っていたのでしょうか。古墳の造営作業に対する不満とそれによる人々の反抗、あるいはそれが起こらないほど恩恵が与えられた記録があるのでしょうか。

古墳時代の社会に対する記録は、中国にもほとんど残っていません。『日本書紀』や『古事記』の内容も限られたものですので、民衆レベルの動向復原は、なかなか難しい状態です。弥生時代に灌漑稲作が導入され、それを契機に社会の大きな変動が生じてから、地域王権誕生するまで、全国レベルの戦争も含め、種々の紆余曲折があったことは確かです。しかし、ヤマト王権の成立に至り前方後円墳体制が実現されたことは、それによって社会が一定の安定状態に到達したことも意味しているのです。古墳のところで話し忘れていましたが、前方後円墳などは極めて幾何学的・人工的景観を持った構造物で、当時の人々はそのありようを驚きをもってみていたことでしょう。そうした構造物を作り出せる権力というものに、それぞれの地域依存していた部分も大きいと思います。

箸墓古墳を造営するのに、延べ135万人も労働力を動員したとありましたが、仮にヤマト王権が畿内であった場合、現在のどの市、県の規模があったのでしょうか。また、そのような多人数をまとめるシステムは、何を例としたのですか。 / 当時のヤマト王権の王たちは、どのような手段を用いて、治水工事などの人員を確保していたのでしょうか。

ヤマト王権の勢力基盤は畿内で、その核となる部分は畿内豪族結集体とでもいえるでしょう。これからお話ししてゆきますが、大王家には幾つかのグループがあり、箸墓を生み出した奈良盆地のグループ、大仙陵古墳を生み出した河内平野のグループが主要なものです。前者は中国王朝、後者は朝鮮半島との繋がりが強かったと考えられます。古墳は主に、自らの勢力基盤に構築されていますので、直轄の人民を、ある程度農繁期などのサイクルに注意しながら使役し、完成させていったのでしょう。7世紀になると、造宮のために東西人民徴発するという話が出てきますが、まとまった人数を中央に召集するということは、交通体系の整備も伴っていなければならず、古墳前期・中期の段階では困難であったと思われます。治水などの困難な開発については、渡来系氏族、あるいは土木関係の専門的な知識・技術を持つ氏族集団を核に、周辺の人民から労働力を編成して対応していると考えられます。それがどの程度の規模、範囲に及ぶかというのが、権力の大きさ、堅固さを表すことになるのでしょう。

神仙思想は、古墳時代の日本に広く知られていたのでしょうか。あるいは、一部のみに伝わっていたのですか。

銅鏡など神仙思想を表すモノは、王権トップから地域トップへ伝来していたでしょうし、前方後円墳神仙思想に基づくものなら、その意味するところは教示されていたはずです。7〜8世紀にみられる神祇関係の記録、祭祀祝詞や次第をみていると、古代の神祭りのあり方、神観念のあり方には、すでに相当「中国的なもの」が入り込んでいます。例えば、神祀りを担う中心的氏族であった中臣氏、その氏族名のナカトミは、神と人の間を取り持つという意味でのナカツオミとされていますが、恐らくは中国後漢の字書『説文解字』にある「史」の本義「中正」に由来するものです。中国の史官は本来、祭祀を担う祝官、卜占を担う卜官と一体のもので、神の意志を知る卜占、神への対応を実践する祭祀の参考材料となる歴史、神話の記録・管理を職掌としていました。中臣氏の職掌もまさにそれで、中国的史官に準えて設置された氏族と考えられます。7〜8世紀には、地方でも道教的な祭祀がみられはじめますので、地域政治的中心、あるいは渡来系氏族勢力範囲などから、次第に喧伝され広がっていったことが考えられます。この浸透力は非常に大きく、時代は降りますが、物語のはじめの祖と呼ばれる『竹取物語』を生み出し、七夕伝承や天人女房譚などを、民間伝承や昔話として根付かせてゆくことになります。

神仙思想は日本の御伽草子にも取り入れられているそうですが、どうして川が桃源郷に繋がっているのでしょうか? 私なら空をイメージします。 / 上流から高貴な人が流れてくる話は世界中にあると思いますが、日本のように急な川ばかりある国では少ないのでしょうか?

あらゆる地域で、川は生命の源です。灌漑農耕にしても都市生活にしても、川や井戸がなければ成り立ちませんし、交易流通の面でも極めて重要な意味を持っていました。洪水による被害も恐ろしいものでしたが、平時恩恵には計り知れないものだったのです。よって、川が神聖視され、その川の源泉が、ある意味幻想のなかで尊崇されてゆくのは、必然の帰結であったようにも思われます。古墳時代に湧水点祭祀が始まるのも、そうした意識と密接に結びついているのでしょう。桃源郷は、そうした生命の根源たる「水源」を、ユートピアとして表現したものです。ということでもちろん、川上から聖なるものが流れてくるタイプの物語は、日本にも多く存在します。例えば、日本神社縁起の一原型をなす賀茂社伝承。『山背国風土記』の逸文と考えられていますが、賀茂川の上流から流れ下ってきた丹塗矢を持ち帰った玉依毘売が、神の子妊娠するという展開になっています。松尾大社も、同じタイプの縁起伝承を共有しています。

纏向遺跡で出土した桃核は、貝塚のように消費した桃を集めておかれた遺構なのでしょうか、それとも遺跡内に点在していたのでしょうか。

纒向遺跡の桃核は、土坑からまとまってみつかっていますが(2000個以上に上ります)、詳しく分析したところ食べられた痕跡がなく、恐らくは付近に桃の栽培地があって、一括して廃棄されたものだろうと考えられています。桃核は、纒向以前の弥生時代から吉備地方でも多く見つかっており(さすが桃太郎の里)、桃を駆使した祭祀は、吉備からヤマトへもたらされたものかも知れません。ちなみに王権中央部への桃への信仰は長く続き、『古事記黄泉神話にも邪を祓うものとして登場しますし、飛鳥からも園池に桃が多く植えられていたことが分かっています。

2016-05-13 日本仏教史(05/13)

仏図澄は、腸を洗ってどうするのですか。

この話も『梁高僧伝』に出てくるのですが、「斎日」に、と書いてあります。すなわち、自らの身体を清浄にすべく、体の外面だけではなく内臓さえも洗ったのだ、という意味でしょうね。

仏図澄は、『梁高僧伝』では「酒を飲まなかった」とされていますが、敦煌壁画では酒を吹いて雨雲を出したとあり、伝承とはいえ気になりました。

鈴鐸の話も『梁高僧伝』に出ていますので、記述者の慧皎はそのあたりを矛盾しないよう配慮したと思います。すなわち、最後の仏図澄の自説の原文は、「酒は齒を踰えず」です。すなわち、口に含んでも歯の奥に入れなかったという書き方なので(可能かどうかは別として)、飲んではいないのだということを強調しているのでしょう。

「一切衆生悉有仏性」といいますが、自然や動物が仏となった例や記録はどれくらいあるのでしょうか。

いわゆる六道輪廻の六つの世界のなかで、動物が属する畜生道は、地獄道餓鬼道と並んでもっともランクの低い「三悪道」のひとつです。よって、畜生道からなかなか一足飛びに成仏することはできません。しかし、善行を積んだり、仏教への帰依を深くしたりして、よりよい場所へ転生したと暗示するような物語は多数残っています。例えば、少し授業でも触れた堕牛譚。生前、借金をして返すこともできずに亡くなった者が、牛や馬に生まれ変わって貸し主にこき使われる。これを見抜いた僧が語りかけ、貸し主が哀れに思って借金を帳消しにすると、牛が涙を流して命を終える……そんな説話が、『出曜経』という経典から六朝の各種仏教説話集、日本の『日本霊異記』に至るまで残っています。

狛犬も、犬の神聖視と関わりがあるのでしょうか。

一般的には、狛犬獅子が変化したものだと考えられています。聖域を守るために配された獅子像が半島を経由して伝来し、威力ある半島の犬として高麗犬=狛犬と捉えられるようになったというものです。しかし、授業でも紹介した『集神州三宝感通録』の霊隠寺の話のように、すでに6世紀の江南で、白犬が寺院を守っているという考え方がある。狛犬も白犬なので、江南が源流と考えることもできると思います。

梵僧が連れている動物は、白犬だったり白猿だったりしていますが、白色には何か意味があるのでしょうか。

一般に、仏教を離れたところでも、白色は清浄表現するものとして神聖視された色です。黒と対立的に用いられることは多くの文化にみられ、仏教伝来の動物として白/黒のものがみられるのも、例えば日本のあ・うんのように、始まりと終わりを表すものであったのかもしれません。ちなみに中国の陰陽五行では、白は金徳、西方などを表します。ゆえに、十二支では西方に属する猿、鳥、犬が、白い姿でインドと関連づけられ表現されるのは、中国的発想といえるかもしれません。

梵僧のお供が、犬から猿へ変化したということなのでしょうか。犬の神聖視は、これ以降も続くのですか。 / 飛来峰において猿であったものが、道宣の記録した伝承では犬になっていたのは、林慮山には猿がいなくて、犬がいたから置き換えられたのでしょうか。

やはり、時代地域の特徴によって、梵僧に付き従う動物のありようは変わってくるのだと思われます。必ずしも、仏教の全流行において、犬から猿へ、あるいは猿から犬へという変化があるわけではありません。林慮山の霊隠寺と江南の霊隠寺は、どちらが成立時期が古いか決めがたいところもありますが、残っている記録でいえば、江南→林慮山の順番でしょうね。後者では「猿がいなかった」というより、犬への畏怖があって、それを取り入れたのだと考えた方がいいでしょう。

猿は、現在では人間より知能が劣っているとみなされています。昔の人々は、猿>人間と考えて神聖視していたのでしょうか。

前近代あるいは民族社会の人々は、動物に対し、現代人のように「愚かなもの」と考えると同時に、人間にはない特別能力を持つ存在として尊重してもいました。以前にもお話ししたように、動物を食べるという行為なかには、動物の持つ特別能力を身体に取り入れる、という意味づけがなされる場合もあったのです。少数民族は、犬や狼、猿、熊、虎など、多彩な始祖をいただくトーテム信仰を持っていますが、やはり動物の力を我が物とする発想がみられます。トーテム動物人間結婚する異類婚姻譚、毛皮の着脱によって動物人間トランスポジションする物語などにも、同じ要素があります。近代科学によって、人間の知能は猿よりうえだとされていますが、例えば野生の山へ放り出されたとき、人間は猿のようには生きてゆけないでしょう。前近代社会、民族社会の人々は、動物のことを、我々よりももっと総体的に捉えていたということです。

仏教における動物の格付けで、猿は高いランクにあるのでしょうか?

一般的な猿は、必ずしもそうではありません。以前にも質疑応答で言及した『成実論』のなかには、「落ち着きのない、軽薄な人間が猿に生まれ変わる」といった記述が出てきます。あくまで、江南などの地域神聖視されていたものが仏教に取り込まれ、そこで出来上がった形式が、日本にまで伝来したのだといえるでしょう。

猿が鬼門の守護をするという話がありましたが、厩の猿も守護神的な性格を持っていますよね。関係があるのでしょうか?

授業でも言及しましたが、石田英一郎河童駒引考』が、馬と猿の関係を追究した代表的なものです。『西遊記』の完成形でも、孫悟空三蔵の乗る馬を引いてゆく形式が出来上がります。馬や牛は、ユーラシアの各地で水神としての性格を持っているもので、とくに馬は龍と関連づけられることの多い動物です。実は、一方の猿も、中国では古く水神としての性格を持っていました。例えば禹王が治水の際に攻略し、銀の鎖を付けて封じた淮河の神として、無支祁という猿神が存在します。以前扱った植物再生の力を秘めた柱に、同じく再生の力を持つ龍蛇が巻き付いていたように、水神の馬にも水神の猿が連結したのでしょう。

「犬猿の仲」という言葉は、本来どのような意味を持っていたのだろうか?

民話十二支由来」のなかで、玉帝や釈迦の召命を受けた動物たちのうち、もともと仲のよかった犬と猿は共に出発するものの、競争するなかで仲違いをしてしまうというくだりがあります。犬猿の仲という言葉はこの物語に由来していますが、せいぜい近世一般化したもので、それほど古い故事成語ではありません。

時代は異なりますが、日光東照宮の三猿「みざる、きかざる、いわざる」も、同じ仏教の守護神的な位置づけなのでしょうか? / 三猿のルーツはエジプトにあると聞いたことがあるが、そこから伝来してきた可能性もあるのだろうか?

日光三猿は、人の一生のあり方を諭す猿の一代記の一場面で、とくに辟邪の意味合いを持つ意匠ではありません。不見・不聞・不言の訓戒は中国に古くからあるもので、これが日本に伝わり、猿を神使とする山王神道日吉社を鎮守とする比叡山で、否定サルと猿が掛けられて醸成されてゆくものでしょう。日光東照宮をプランニングしたのは天台僧の天海で、彼は東叡山として上野寛永寺も造営していますので、彼によって比叡山信仰移植された可能性はあります(もちろん、ユーラシアを横断する意匠が伝わった可能性もあります)。三つの訓戒に由来する三猿は、その後、庚申信仰に基づいて広がってゆきました。庚申信仰とは道教に由来する民間習俗で、人間の体内には三尸という虫神がおり、これが庚申の日になると宿主の身体を脱けだし、天帝のもとへ上って宿主の悪事を報告する。すると天帝は、その人間寿命を縮めてしまうため、庚申の日にちはみなで集まってお互いを見張り、翌日へ夜が明けるまで寝ずの番をする、というものです。庚申講という組織によって進められますが、それを記念して立てられたのが庚申塔という石塔で、悪行を抑える訓戒として三猿記載されているのです。

孫悟空は石に対する信仰と繋がりがあるそうですが、では、三蔵法師が天竺に向かったのは極楽浄土があるからですか? 天竺はインドを指すのでしょうか?

天竺からは多くの仏僧が中国にやって来ており、玄奘以前にも、4世紀の法顕など、天竺へ渡った中国僧はいます。よって極楽浄土を求めたというより、中国に欠けている仏典を持ち帰り、最新の仏教の考えを学ぶためであったとみてよいでしょう。

『古事記』の黄泉国神話にも、黄泉/地上を分けるものとして巨岩が出てきますが、これも仏教から取り入れられたものなのでしょうか?

ちょっと誤解があったかもしれませんが、巨岩信仰磐座信仰は仏教以前から列島存在しました。後に宗像大社を備える沖ノ島大神神社を持つ三輪山など、古墳時代から歴史時代神社に直結する祭祀遺跡には、いずれも巨岩の屹立する景観をみることができます。

山が移動するのが面白いと思いました。それは山自体が移動したのですか、それとも山の霊が移動したのですか。 / そもそも、なぜ三国伝来の文脈で山が移動する必要があるのでしょうか。

自体が移動する、ということですね。とにかく、『法華経』の説かれた場、いうなれば法華信仰オリジンたる聖地霊鷲山なのであって、それが中国日本に現れたということは、同地が法華宣揚の場としてインドに劣らない神聖性を獲得したことを明らかにしているわけです。

飛来峰の伝説では、飛来を示す地形的な特徴はあるのですか。 / 「飛ぶ」ということには、何か特別な意味があるのでしょうか。

授業でもみましたが、周辺の山林に比して奇巌が露出している特異な印象の場所であり、それゆえに聖地化されたのでしょう。上に答えた、磐座論理と同じです。「飛来する」という現象については、やはり天空が未知の流域であることと関連するのでしょうね。現代のUFOなども同じ発想でしょう。空は夢などと同じ、現実世界他界を繋ぐメディアでもあったのです。

洞窟の問題と、僧侶が洞窟に籠もって仏像を彫ったりすることとは、何か関係があるのでしょうか。

個々の文脈によるでしょうが、洞窟修行の場になっていたのは、中国へ仏教がもたらされた後漢から六朝にかけて、西域などでも流行した現象でした。そのため壁画には、現実世界のしがらみを逃れるための九相図、浄土イメージするための変相図など、さまざまな瞑想の契機をなす観想図が書かれました。仏像洞窟に彫ることは、アートというより修行の一過程をなしていたとみるべきでしょうね。

2016-05-09 日本史概説 I(05/09分)

動物信仰について、虫を信仰していた痕跡などはあるのでしょうか。

いわゆる昆虫ですね。古代カテゴリー(とくに中国的な)では、蛇も蛙も蜥蜴も虫なので(漢字に虫偏が付いています)、まず厳密に区別しておく必要があります。そのうえでの虫への信仰ですが、目立ちませんが、恐らくないわけではなかったろうと思います。例えば、銅鐸にはトンボが描かれており、これも稲作と関連があるものとみなされています。日本列島の古名にアキツシマ(蜻蛉洲。美称としてトヨ(豊)を冠する場合もある)があり、ヤマトをトヨアキツヤマトなどと表現する場合もあります。これは、トンボが飛び乱れる豊かな稲穂の茂る島、の意味です。恐らく、豊穣を保証するものとしてトンボをみていたのでしょう。現在でも各地に残っている「虫送り」は、一種の疫病除けですが、本来は農耕の妨げとなる虫を駆除し、しかし犠牲となったその魂をあの世へ送り返す祭祀です。これを通じて豊穣が祈願される点では、動物の主信仰などと同じ意味を持っていますね。

日本では、目にみえない"神"の存在を第一に崇め、祭祀の対象を形に表さないことが近年の風習ですが、古代では青銅器に描く自然を対象にしたり、古墳の被葬者を対象にしている。どの段階で、祭祀の対象を具現化しなくなったのだろうか。

このあたり、やはり問題の整理が必要です。まず、神格偶像化/具体化は、例えば進化のように直線的、単線的に起きてくるのかということ。土偶を大地母神の形象とみるなら、すでに縄文時代神格偶像化は起きています。また神社の原型となる古墳時代祭祀遺跡には、多く磐座存在します。これは一種の巨石信仰ですが、人びとはこの岩自体を崇めていたのか、それとも岩に宿る神霊を崇めていたのか。どちらの立場に立つかで、信仰対象の具現化/抽象化問題は、180度変わってきます。また仏教の影響を受け、神祇信仰でも、少なくとも平安時代以降は「神像」を出現させてゆきます。伊勢神宮でも、アマテラスの神像が作られたことはありました。「日本では神を実体化しない」とする言説自体が、実は極めて不正確なのです。

当時の人々は、銅鐸を祭器として用いたり、他にもアニミズムを信仰して豊穣を祈ったりしていたようだが、本当に効果が現れることはあったのだろうか。私は効果など現れるはずはなく、信じない人が増えてもおかしくないと思うが。

宗教信仰というものは、祈願者の欲望を直接的に成就できないからといって、簡単に放棄されたりはしません。この「科学万能」が信じられている世の中でさえ、初詣に何万という人が寺社へ参詣しています。東日本大震災のあった2011年正月も、東北北関東暮らしていた人々の多くが家内安全を願って寺社へ参詣したはずですが、いま彼らはまったく信仰を捨て去っているのでしょうか。日本列島全体においても、むしろスピリチュアルブーム活性化し、被災地域でも、流失した寺社復興が進められています。神祇信仰のあり方としては、例えば何らかの災害が起きてその鎮静化が祈願され、それが果たされなかった場合、人びとは神を放棄するより、自分たちの祭祀の仕方が悪かったのだと考えます。そうして祭祀のあり方を変革し、それで(偶然でも)災害が鎮静化すれば新たな方式採用され、祭祀が続行される。それでも災害が鎮静化しなければ、さらに新たな祭祀方式が導入されてゆくわけです。神の放棄がまったく起こらないわけではありませんが、概ねこのようにして祭祀信仰は持続してゆくのです。

銅鐸が聞くものから見るものへ変化したのはなぜですか。 / 青銅器の巨大化はなぜ起こったのでしょうか。装飾品として豪華にみせるためですか。

祭祀で用いられる音は、概ね神を招き、喜ばせるものだと考えられています。銅鐸も、当初はそのようなものとして使用されていたのでしょう。それが巨大化し、絵画や装飾などが過多になってゆくのは、ひとつにはやはり神霊を喜ばせるためであり、もうひとつは、共同体の力を示す意味があったのだと考えられています。より大きな、より質の良い祭器・宝器をたくさん生産できることが、共同体の力の誇示になる。それを用いたセレモニー共同体の内部をまとめ、外部へのアピールになる。かかる競合状態が発生し、青銅器時代を追って巨大化してゆくことになり、またある地域では、それに変わる独自性を打ち出す(競合のひとつの手段です)ために異なる祭祀方式採用される。聴覚的なものから視覚的なものへ移行したのは、視覚的な肥大化の方が、その競合の手段に適合的だったからでしょう(聴覚的肥大化で競合をなすとなると、より質のよい音へ、より多様な音へ、よりたくさんの音へとのベクトルが考えられますが、古代列島音楽文化は、それを達成できるほど発展してはいなかったのです)。青銅器祭祀の変化は、そのように説明できると思います。

突線鈕型の銅鐸の突起の部分は、何を象徴しているのでしょうか。

どうでしょう。一説には渦巻ですね。渦巻文は、生命エネルギー象徴するものとして、世界各地に確認できる普遍的文様のひとつです。

弥生時代中期前葉後半〜後期前半に、青銅器祭祀を重視した地域とそれを終息させた地域に、まとまりがないのが気になる。また、近畿中央と近畿北部、山陰・山陽は隣接しているうえに陸続きであるが、なぜ青銅器使用に差が生じてしまったのだろう。

難しいですが、山地で隔てられた陸地より、むしろ海を挟んでの交通の方が活発であった点も影響しているでしょう。例えば出雲地域の四隅突出型墳丘墓は、北九州畿内瀬戸内地方へは充分に波及せず、沿海部を伝って北陸へ伝播してゆきました。

青銅器祭祀から墳丘祭祀への魁となった出雲地域が、後に出雲大社などに代表される宗教的、政治的に重要な場所となってゆくことには、何か関わりがあるのでしょうか。

それはありますね。まず、弥生時代政治的グループは、その後の古代豪族勢力の基本をなしてゆきます。北九州出雲吉備東海は、ヤマト王権のなかでも大きな力をなす集団を形成します。なかでも出雲は特殊で、王権に服属する集団の象徴であり、また宗教的な核をなすように位置づけられてゆきます。国譲りの物語は有名すぎるくらい有名ですが、それらに基盤を置きつつ、出雲国造は、代替わりごとに朝廷へ赴き、「神賀詞」という服属の誓詞を奏上します。出雲朝廷によって他界との境界に定められ、黄泉国と関連づけられることも重要です。弥生時代からの経緯を考えると、出雲の政治グループは王権に脅威を与えるほどの宗教的権威を持っており、これを服属させるのが困難であったことは確かでしょう。青銅器祭祀から墳丘祭祀へ早くに移行したことは、それだけ同グループの政治的展開、すなわち強力な首長の出現、首長権力形成が早かったということです。その蓄積自体ヤマト王権には畏怖すべき意味を持っていたのかもしれません。

青銅器祭祀から墳丘祭祀への移行について、なぜ前代の祭祀のあり方を、例えば祭器の破壊などによって放棄しなければならなかったのでしょうか。豊作を願いつつ、祖先信仰もできたと思うのですが。

青銅器祭祀と墳丘祭祀とでは、それを支える社会の構造が異なるのが問題なのです。前者はあくまで共同体祭祀であり、共同体全体が神霊と関わるものです。祭祀シャーマンによって担われ、必ずしも政治的リーダーとは一致しません。リーダー共同体をまとめる役割を帯びていますが、政治的な決定は合議の色合いが強く、リーダー権力制限されていたと考えられます。それに対して墳丘祭祀は、被葬者を宗教的政治的な力の源とする祭祀形態で、首長権力体現するものです。シャーマン存在したでしょうが、それは神霊首長を繋ぐ手助けをするもので、あらゆる権力首長へ収斂しています。場合によっては、宗教的な力さえも首長によって体現されます。よって、青銅器祭祀と墳丘祭祀とは相容れず、共存はしえなかったのです。

邪馬台国は、他の国々と比較して何が優れていたのでしょうか。

そのあたりの経緯は、『魏書』から窺い知ることはできません。ただし、その政治・社会制度、統治制度はかなり進んでいて、大陸の知識を積極的に採り入れていた痕跡があります。それが統一以降に始まったものか、あるいは統一以降に作られたものかは分かりませんが、前者とすれば、他国との競合のなかで大きな力を持つに至った理由のひとつになるでしょう。恐らくは早くから半島大陸と結んで技術革新をなし、頭角を現していたのだと思います。その具体相は、邪馬台国の場所を北九州と考えるか、畿内と考えるかでずいぶん違ってきます。

歴史学者の間で、なぜ『魏書』がそれほど重要視されていたのでしょうか。

やはり、その時代を記録した唯一の文献史料ですので、重視せざるをえません。また、儒教を重視した近世は漢学が学問において支配的であり、中国正史は歴史学者の聖典ともいうべき位置を保っていたのです。近代歴史学は、ドイツ実証主義を採り入れ「科学的歴史学」を志向してゆきますが、その根底には江戸期漢学の清朝考証学がありました。彼らは江戸一般支配的であった『平家物語』『太平記』の物語史観を排し、正史古文書、古記録を史料として位置づけてゆきますが、その流れにおいても中国正史は重視されたのです。

今後、邪馬台国の位置が確定されることはあるのでしょうか。

卑弥呼が魏から賜与されたという「親魏倭王」の金印が出土すれば、邪馬台国の位置確認に大きな手がかりとなるでしょう。それがなければ、どれだけ研究が進んでも情況証拠の積み重ねによる推測、ということになります。

『魏書』では卑弥呼は婚姻していないとされているのに、なぜ神功皇后と同一視されたのでしょうか。卑弥呼のモデルは、箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメであると聞いたことがありますが…。 / 高校の先生に、卑弥呼は天照大神のモデルだと聞いたのですが、そんな説はあるのでしょうか?

日本書紀』が『魏書』の卑弥呼に関する記述神功皇后紀に配したのは、『魏書』の記述をすべて正当な事実と認めたわけではなく、景初二年の女王朝貢を神功皇后時代に争闘するものとし、正史としての客観性アピールしようとしたものでしょう。よって、卑弥呼自身支配体制に関する記述真正さについては言及しておらず、無頓着です。ヤマトトトヒモモソヒメについては、『書紀』『古事記』に関する記述が極めてシャーマニックであること、ヤマト王権最初期の前方後円墳である箸墓の被葬者とされていることなどから、同一人物説が主張されました。しかし、継体天皇以前の『書紀』『古事記』の記述をそのまま史実とはみなしがたいこと、ヒメは女王ではないこと、箸墓は明らかに大王墓であって単なる王族女性の墓とはみなせないことなどから、現在ではそうは考えられていません。しかし、箸墓至近の纒向遺跡邪馬台国の遺構と認める立場からすれば、女王卑弥呼に対する何らかの記憶がヒメ埋葬の箸墓伝承に繋がった、と考えることは可能でしょう。なお、ヒミコアマテラスモデルとする見方には根拠がありません。ただし、ヒミコがヒノミコの意味だとすれば、アマテラスも別名オホヒルメノムチすなわち太陽祭祀する尊貴な女性ですので、女性祭祀者としての繋がりはあるといえます。

なお、実は近年の研究で、卑弥呼婚姻していたのではないかとの見解もあるのです。卑弥呼にはその飲食に独りだけ給仕していた男性の存在が知られていますが、彼が夫だったのではないかというのです。日本と同じ時期に女帝を輩出している新羅では、7世紀の善徳女王や9世紀の真聖女王に「匹」と呼ばれる存在がおり、彼らは高い位階を持ち女王の活躍を補佐していました。真聖女王の匹魏弘などは、新羅官制の最高位大角干にあり、「王、素より角干魏弘と通ず。是に至りて常に内に入れ事に用ゆ」(『三国史記新羅本紀、真聖王2年2月)と記録されています。のちに「恵成大王」とも追諡されており、王に近い立場にあったことが分かります。ヒミコの「男」も、彼らと同じ存在であった可能性があるのです。

帥升も卑弥呼も、なぜ魏に生口を献上したのでしょうか。どのような意味があったのですか。

夷狄や戦争捕虜を従えることは、自国の勢力の大きさを誇示することにほかなりません。帥升の場合も邪馬台国の場合も、自国列島の戦争状態を鎮めた勢力ある国であることを、魏国に対して示そうとしたのでしょう。また、古代における強権者への供献は、一種の供犠を意味します。供犠とは元来、神霊に自らの最も大切な存在を供献することですが、血族から同一部族の者、部外者の人間動物などへ次第に代替されてゆくようになりました。生口は、神にも比肩しうる皇帝に対する、人間段階の生け贄でもあったといえるでしょう。

箸墓古墳の副葬品は調査できないのでしょうか。 / 古墳の石室への立入は、考古学者でも難しいのでしょうか。

授業でもお話しするように、前期古墳は竪穴式石室を持ち、これは墳丘内に密閉されているので、調査するためには発掘作業を行わなければなりません。文化財保護観点から問題もあり、費用もかかりますので、おいそれと掘り返すわけにはゆかないのです。また、箸墓は現在宮内庁により陵墓参考地に指定されており、皇族の墓として立入さえ制限されている状態です。前期・中期の巨大古墳には、大王墓として発掘の許可されていないものも多く、この点が古墳時代考古学の発展に大きな足枷となっています。

女性は、どのあたりの時代から政治に関わらず、家の中へ押し込められていったのでしょうか。

中国律令官制では、家父長制のもと女性は政治の場から排除されており、後宮では男性機能を除去された宦官奉仕していました。しかし、もともと双系制をなし女性立場が高かった日本列島では、政治や社会の場で男女の共同労働が普通に行われていました。この伝統踏襲した8世紀の律令国家では、後宮官制として女官存在規定され、その出身方法も整備されて、多くの優秀な女性が活躍し天皇生活と政治を支えていました。しか平安時代以降になると、唐風化のなかで男性の官職も次第に変質し、宮廷社会の女官たちも天皇夫人女房などへ変質を余儀なくされ、政治の表舞台から排除されてゆくのです。ただし、戦国時代に至るまで常に例外存在したことから、近年では個々の女性の政治・社会・経済にわたる活動検討が重要になってきています。

地図をみると、クシャーナ朝はそこまで気にするのかというくらい西にあるのですが、西域はそれほど緊張状態で兵を割かなければならなかったのでしょうか。

魏が大月氏国(中国ではクシャーン朝と月氏と連続する国家と把握していた)を重視したのは、蜀を睨んだ近攻遠交策でした。一方のクシャーン朝でも、時のヴァースデーヴァ1世(波調)は、勃興するササン朝ペルシャに対する備えとして魏との友好を望み、使者を派遣してきていたのです。魏が邪馬台国を重視したのも、朝鮮半島の安定、そして呉との対立を優位に進めたかったためで、やはり近攻遠交策の一環なのです。

卑弥呼は魏ではなく、呉と交渉しようとは思わなかったのでしょうか。

どうでしょうか。すでに対立する他国が呉との関係を強めていた可能性はありますね。例えば邪馬台国畿内政権とすれば、彼らは朝鮮半島、もしくは遼東半島を通じて中原華北王朝と結ぶのが早道だったでしょう。一方の呉は、東シナ海を挟んで北九州の国々と結びついていたかもしれません。

公孫氏の燕国と邪馬台国が外交関係を持っていたとして、燕国には何か政治的利益があったのでしょうか。

公孫氏は常に魏と呉を相手にしなければならなかったので、例えば管理下に置いていた朝鮮半島は、兵站としても重要な意味を担っていたでしょう。その南方にある邪馬台国と友好関係を結んでおけば、後の備えとして重要な意味を持ったはずです。