来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。
原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。
・ブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス
東京大学宗教学宗教史特殊講義
 17秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2017-11-10 東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(11/10分)(書きかけ)

日本には、農耕原罪論的な要素は見出せるのでしょうか。それとも何もないのでしょうか。

死体化生による穀物起源神話が、単に死んだ神の遺体から穀物が発生するのではなく、殺された神の遺体から生じるので、農耕への後ろめたさは、多少なりとも共有されているのだと思います。しかし、神話文字として残した日本古代王権は、農耕を推進して狩猟採集的な習俗・心性を改変しようとしていたので、開発に際して神々を殺害してゆく神話が多く残っている一方で、そのことに強い負債感を感じるような伝承はあまり見出せない情況です。しかしいいかえれば、そうした神殺し神話が広く語られたことには、そうしなければ払拭できない怖れが強く存在したとも考えられます。

ヨーロッパ人がさまざまな生物種を「新大陸」に持ち込んだのに対して、逆に「新大陸」の側からも多くの生物種が持ち込まれたと思うのだが…。

ヨーロッパが「新大陸」に持ち込んだものは意識的無意識的なものが混在し、後者の方が大きな効力を発揮して生態系を改変していったと考えられています。しかしその逆の場合は、「持ち込んだ」というより「搾取した」「奪った」ということでしょうね。それらは意識的に、コントロール下に置かれてヨーロッパへ運ばれ、さらに必要に応じて作り変えられてゆくことになるのです。

骨卜に用いる動物自体には、宗教的な意味はないのでしょうか。

もともと獣骨を熱して行う骨卜=熱卜は、炎を用いて獣を神々に供犠した際、燃え残った骨の色やひび割れの具合で、神がそれを受け容れたかどうかを判断したとこに起源するといわれています。ゆえに狩猟採集時代の鹿、牧畜時代の牛や羊は、神霊に捧げられるものとして位置づけられていた、それが転じて神霊意志を体現するものとなったというわけです。亀の場合は供犠に用いられていたわけではありませんでしたが、その形状の特殊性ゆえか、亀甲に神霊意志が表れるとの信仰が早くからあったようです。新石器時代の段階から、亀の腹甲と背甲の間にのちの魔方陣のような図形が描かれた石板を挟み、そこに小石を投入し振り動かして、図形上のどこの位置に来るかで吉凶を判断する卜占が行われたらしいことが、考古学遺物から推測されています。

2017-11-08 全学共通日本史(11/08分)(書きかけ)

マルクス主義は、唯物史観を基本的な考えとしているのでしょうか?

そうです。現在目前にある資本主義の成り立ち、問題点課題を浮き彫りにするために歴史を分析した結果が、唯物史観という歴史観を創り出しました。マルクス主義の現在認識は、この唯物史観を基礎に成り立っています。

日本でマルクス主義歴史学が席巻していたのは、自覚を持って掲げていたのでしょうか、それとも後世の分析でそう位置づけられたのでしょうか?

もちろん、自覚を持って掲げていました。みな、マルクス主義であることを標榜していました(しかし社会主義の実現をどう目指してゆくかについては、レーニン主義、毛沢東主義無政府主義など、細かな相違は存在しました)。60年代の歴史の概説書などをみると、マルクス主義用語で覆い尽くされていますので、いまの学生さんたちがみても「読む」ことが困難でしょう。

戦前に流行していた皇国史観とはまったく異なるマルクス主義が、なぜ日本人の間にそれほど流行したのだろうか。この変化の要因は何だろうか。

戦時中における抑圧に対する反動が、最も分かりやすい説明でしょう。重要なことは学問世界学者世界に止まらず、「下からの発展」を目指したマルス主義的な見方が、社会に広汎に共有されていたということです。権利を再獲得した労働組合も盛んに活動していましたし、そうした社会の動きに根差した地域文化活動サークル活動も極めて活発でした。60年安保で激化する学生運動も、当初は一般市民理解を得ており、かなりの応援があったのです。彼らが支持を失うのは、警察が学生市民乖離を狙った結果、暴力化・セクト化が進んでゆくためです。共産党を忌避するような考え方は、このとき以降政治的に「創られて」ゆくものなので、注意が必要です。

経済というものはそれ自体で存在するものではなく、人間あるいは社会が様々に関係を持つことによって成り立っていると私には思えます。つまり、経済は人間・社会の意志によって成り立っているものといえると思います。なぜマルクスは、人間が自分の意志で政治・経済を動かしているという現代の考えを否定し、人間によって成り立つ経済を下部構造に置き、それが観念などを規定すると考えたのか不思議です。

一般的には、人間自由に経済を作るとみられているかもしれませんが、学問世界では、そうは考えられていません。とくに社会科学においては、人間は社会によって規定された存在と捉えるのが普通です。昨今では、グローバリズムに便乗して利益追求を図るモンサントなどのバイオ企業を、「新しい帝国」とする見方もあり、国家権力とは異なる目にみえないより強力な力が、我々を根底から束縛しているとする議論が強くなっています。そうした見方起源のひとつがマルクス主義であることは確かで、「人間自由」を無条件に肯定するのは楽観的に過ぎる、というのが社会科学一般的見方でしょう。

下部構造が上部構造を規定するのは分かるが、上部構造は下部構造を規定することはないのだろうか?

それはありえます。マルクスはそのことも指摘しているのですが、図式的な説明では、どうしても下部構造規定説を強調し、こちらをより根底的なものと捉えているわけですね。政治/経済の相互構築は、現実的には認められ、例えば経済制度を構築してゆくのは政治ではないか、との批判も認められます。しかしマルクスの場合、経済制度を創出する政治のあり方も、その時代の根底的な下部構造規定付けられていると考える。政治家のものの考え方、国家の集合意識自体が、多少の表層的な相互交渉はあるにしても、経済構造によって規定されているのだ、経済構造問題がより根底的なのだというのが、マルクス立場だといえます。

マルクス主義で、世界経済が最終的に到達すると考えている社会主義、共産主義は、あらゆるものを平等に考えるといわれるが、どこまでの平等を目指しているのか。社会主義=悪というイメージを持つ人が多いので、気になりました。

主眼は、富の再分配にあります。あらゆることが平等、つまり相違のない世界にする、というわけではありません。例えば、数年前に日本でもベストセラーになったトマ・ピケティは、資本主義は格差の拡大によって早晩破綻するとし、それを抑止するためには、国際的な富裕税を導入して富の再分配を促進してゆくしかない、と述べます。これなどは、緩やかな共産主義といいかえてもよいかもしれません。西側諸国に対する東側諸国、いわゆる社会主義国が、極端な計画経済のもと民衆の自由抑制し、結果として専制体制になっていったことが、社会主義への悪いイメージを植え付けてしまったのでしょう。しかし、本来社会主義専制政治は相容れないもので、マルクス理想は未だどこの国も実現できていないというのが真相です。いいかえれば、人類は、いまだ社会主義を実現しうるまでに成熟していないのです。

現在の日本では、最後に到達するとされた共産主義にはならず、資本主義社会が形成されているため、現実との矛盾が形成されているため、マルクスの思想について学ぶことは意味がないのではないかと思った。

上にも書きましたが、資本主義破綻は、誰の目にも明らかです。現在の課題は、社会主義に関する研究政治的実験が失敗に終わったことで、資本主義オルタナティヴが準備されていないことです。社会主義は未だ実現されていませんし、社会主義思想を再検討する意味は逆に高まっています。

マルクス主義の歴史に対する考え方は、民衆独自の創意工夫で自由な歴史が作れるという国民的歴史学運動と呼応していたようですが、普遍的法則の部分とは相容れない気がしたのですが。

確かに、矛盾もありますね。マルクス主義内部での位置づけとしては、民衆の自由な歴史叙述活動は、まさに「イデオロギー自覚的になり社会を変革してゆく」実践の一環と位置づけられたわけです。すなわち、皇国史観を捨てて科学的歴史学を学び、民衆の歴史を構想してゆくことが、抑圧されてきた民衆のあり方を跡づけ、未来の変革へ向かってゆく重要なプロセスと考えられたのです。よって、大きな枠組みでは確かに法則のうちにあるのですが、局所局所では「解放」として機能した(あるいはしえた)ということです。

マルクスは、社会主義の問題点をどう考えていたのでしょうか。

マルクスが生きた時代は、未だ社会主義国家は存在しません(正確には、その後も実現していません)。よって、マルクスにとって社会主義理想体制であって、問題点云々の埒外にある概念です。しかしその後の研究は、当然、「社会主義を実現しようとした体制がなぜ専制体制に移行してゆくのか」は、重要な問題として議論されてきました。「共同体」「集団性」を重視することが個人の抑圧に繋がってしまうことも、大きな課題として検討されています。

以前、ジャーナリズムを教える大学の先生は左に偏っていると聞いたり読んだりしたことがあるのですが、それはマルクス主義史観と関係があるのでしょうか?

なきにしもあらず、ですが、まずあなたの「聞いたり読んだりした」ことが、「右に偏っている」ことも注意しなくてはなりません。左や右が何を意味するのかも慎重に見極めねばなりませんが、そもそもジャーナリズム権力監視するのが役割ですから、そうした意味で反権力にならざるをえません。国家の意向賛同する言説を産出していては、監視にならないわけです。これは、いかなる政治思想に組みするか以前の問題で、もしそのメディアと国家とが同じ政治思想を持っていても、メディアは国家を批判しなければならない。よってジャーナリズムは、原則として左であるべきなのです。

マルクス主義は、他の国(例えば一見関係しそうにないオセアニアなど)では、どのような考え方をするのでしょうか?

西ヨーロッパでは、ソ連の誕生以降、共産主義・社会主義にもさまざまな派閥が発生してゆきました。社会民主主義などはその典型で、議会制民主主義などを採り入れた穏健な社会主義として広く浸透し、二大政党制の一党を担う状態になっています。オセアニアもこの影響を受け、例えばニュージーランドでは、世界恐慌以降、社会民主主義の労働党が断続的に長期政権を維持してきました。1980年代、新自由主義的な経済政策を進めて支持を失い、一時期政権を手放しますが、今年の総選挙によって、連立政権のもと久しぶりに労働党の首相が誕生する見込みです(しかも30代の女性)。なお労働党は、自由貿易を堅持しつつも、過度の自由主義政策によって生じた社会資本の劣化貧富の差の拡大などに対処すべく、ベーシック・インカムの導入を含め、一部「大きな政府」のありようを復活させています。

猫絵の殿様の話で気になったのですが、日本の江戸時代にはたくさんの藩があり、大名がいましたが、民衆の殿様に対する考え方が、なぜ地域によって全く違うのでしょうか。また、『王の奇跡』を読んでいないので分からないのですが、領主が宗教色を帯びるようになったのはなぜですか?

各藩は、それぞれ、近世前の在地の歴史的文脈踏襲しているからでしょうね。日本列島文化のあり方は、東/西でも大きく違いますし、そのなかでの地域性も非常に強い。現在でも、江戸期の藩の境界線を挟んで、隣接する地域の習俗が大きく異なる場合もあります。中世以前から同地に関わりのある大名と、国替えによって入って来た大名とでは、在地民衆の感覚もずいぶん違うはずです。なお、領主の宗教性は、一般論からいえば、歴史的に古い時代ほどそうした性質は強いのです。すなわち、宗教と政治が未分化状態があり、政治的支配者が神祀りの最高の司祭である場合が、古代では少なくなかったわけです。そもそも武力というものは、武士誕生の段階においても、辟邪の呪術の一形態とみなされていました。江戸時代になっても、当国の殿様やその一族による大蛇退治など英雄伝承が語られてゆくのは、彼らが宗教的に威ある存在ともみなされたからなのです。

どうして日本は、西洋のような時代区分を採用しているのでしょうか。

授業でお話ししたように、やはりドイツ流の実証主義歴史学を輸入したためです。マルクス主義歴史観において、天皇制存在する日本近世絶対主義だとみなされ、近代化を図るためにはまず資本主義革命を経過しなければならないとの議論もありました。そうした意味日本の「現状」を把握するためには、日本中世封建制を分析する必要があり、日本に封建制はあったのか、あったとすればいつからいつまでなのか等々、大きな議論となり中世史が重視されました。そうした影響もあって、原勝郎『日本中世史』において、古代中世近世の三区分が初めて誕生したのです。

北條先生は、冒頭、トランプ大統領の訪日の報道について言及していましたが、日本人が政治に対して積極的に批判できるようになるためには、どうすればよいと思われますか?

現代社会古代社会に直結するつもりはありませんが、列島社会では古代から、共同体首長に政治を体現させる、共同体の成員は首長共同体の運営を委託するといった傾向が強くありました。その根幹の部分は、恐らく近現代以降も変わっていません。すなわち、共同体の成員ひとりひとりが代表者に政治を丸投げし、自分生活が大きな政治的枠組みと密接に結びついていることを意識していない。近代から1970年代までは、それでも民衆の政治参画は盛んに行われましたが、学生運動市民運動が軒並み解体されて以降は、「丸投げ」が顕著になってしまっています。まずは、そうした情報操作を乗り越え、政治を自らの生活と直結するものと自覚することが肝要でしょう。

2017-10-27 東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(10/27分)(書きかけ)

農耕原罪論の「原罪」も「負債」ということでしょうか。地球から土地や種、肥料を借り入れて借財を作っているうちに、最後は破産するという暗示でしょうか。

面白いですねえ。厳密に定義すると、負債観の問題は、返済の意識を発動することが伴います。返済はたいていの場合、何らかの形で自然環境表象する神格に、祭祀をなす形で果たされます。原罪認識自体も広い意味では負債感だと思うのですが、自らの存在を贈与してくれたような神格造物主)に対し、現在を決定づけるような背信をなしたという罪悪感を抱くことを意味します。よって農耕原罪論は、農耕をすることが造物主への背信になるという意識、あるいは農耕が背信行為の結果として始まることを指すわけです。「殺された女神」も「失楽園」も「カインとアベル」も、そうした意味でみな農耕原罪論です。原罪は現在の自分世界規定付けるものですから、そもそも払拭できる性質のものではありません。世界が変革されてユートピアに復帰しない限り、罪悪感が解消されることはないのです。農耕原罪論の場合も、地球人間狩猟採集時代回帰しなければ、救済はないということなのかもしれません。

生命の循環が輪廻のなかで起こっているのなら、そこで殺害が行われたとしても、輪廻の枠組みから大きく外れることはないのではありませんか。仏教が、なぜ殺害を戒めるのかが、よく分かりません。また、仏教の生殺与奪は、基本的に動物のみを対象としているのでしょうか。植物を含めて考えるなら、基本的に何かを食べなければ生きていけない人間である僧侶たちは、どのように折り合いを付けているのでしょうか。

仏教は、輪廻のなかで生きること自体を苦しみだと捉えますが、その輪廻生命を縛り付けている悪業のうち、最悪のものを殺生と捉えているわけです。仏教は生命の循環を維持しようと考えているわけではなく、そこからの離脱最上としますので、殺生戒を設定しているのです。また、仏教教団のなかにおいても、成立から大乗仏教誕生、そして現在に至るまでに、生命に対する考え方は変化してきています。肉食について、原始仏教教団では、〈三種の浄肉〉といって、自分に施すために殺されるのをみていない、自分に施すために殺されたのだと聞いてない、自分に施すために殺されたという疑いがない肉は、食べてもよいということになっています。しかし、大乗仏教化によって殺生戒がより厳密になってゆくと、植物についてもこれを適用しなければならなくなってゆくので、「植物生命ではない」と考えるようになりました。しかしまたさらに、中国日本へ仏教が伝来しますと、草木人間と同質の生命だと考える認識が広がり、「これまでの考え方ではあらゆるものが覚りを開けなくなってしまう、ゆえに超越的尊格に帰信することで救済されることを願う」信仰へと変質してゆくわけです。日本流行する浄土宗浄土真宗などは、このような傾向が強い宗派です。

ブッダやシャカを、漢字ではなくカタカナで表記しているのはなぜでしょうか。

仏教だけではなく、神話学などでもそうなのですが、同一の尊格を扱った文献が複数存在すると、同じ存在を示していても表記が異なる場合が出てきます。例えば日本神話では、『古事記』や『日本書紀』の間で、同じ神名でも表記が異なるので、その音を取ってアマテラススサノヲなどとカタカナで示します。仏典の場合、原典サンスクリットやパーリ経典漢訳経典とを併せて論じようとすると、「釈迦」「仏陀」といった表記では総括的な扱いができなくなってしまいます。ゆえに一般的には、メタ・レヴェルの表記としてカナを用いているのです。

トランス・スピーシーズ・イマジネーションとパースペクティヴィズムの関係ですが、前者を有する結果として後者の視点が発現するということでしょうか。

そうですね、分かりにくいのですが、私は逆であると考えています。つまり、対象をその視角から理解するという認識論が基底にあるために、他種・多種の視点を獲得しうるのでしょう。しかし、パースペクティヴィズムを持つ文化の構成員すべてがそうだというわけではなく、恐らくシャーマンその他の宗教者が、先鋭的にそうした知識技術を彫琢しているのでしょう。一般的な人々は、それらシャーマン神話語りを聴くなかで、ある程度の想像力を醸成してゆくのだと推測されます。ブッダが悟った内容を弟子たちに説き、弟子たちがそれをもとに宗教的実践を繰り返してゆく、その縮小版のような情況が、民族社会一般では起きていたのでしょう。

神話を文化人類学的に分析してゆくうえで、何か入門的な書物はありますか?

残念ながら、パースペクティヴズムを簡易に理解できる著作は、まだないといっていいかもしれません。通常の神話分析ならたくさんの入門書が出ていますが、今回の参考文献リストに載せた煎本孝さんや中沢新一さんの文献は、人類学的な神話分析多様性を分かりやすく示してくれると思います(もちろん、批判的に読解することが前提です)。

農耕原罪論のところで、中国王朝と北方遊牧民族の対立を想起した。農耕/遊牧の二項対立的視点が、根底にあるのかもしれない。

そうですね。そのあたりの葛藤を理解するための参考文献として、中国の某文化人類学者がペンネームで書いた自伝小説、姜戎『神なるオオカミ』(講談社)を推薦しておきます。映画にもなりましたが、小説の方がずっといい。文化大革命の時期、モンゴル下放された漢人青年が、モンゴル民族トーテム動物である狼との特別な関係をみてゆくなかで、自らの世界観歴史観を再検討してゆく内容です。「農耕文化農耕民族こそ至上」という枠組みのパラダイムシフトを、内面的に追いかけるような内容となっています。

「アニミズム的世界観では、精霊は人間の姿で捉えられる」とのことでしたが、アニミズムという言葉を用いてしまうと、そのなかでのさまざまなヴァリエーションがみえなくなってしまうのではないでしょうか。

授業でもお話ししたと思いますが、ご指摘のとおり、アニミズムという概念は、地域的・時間的多様性隠蔽してしまう語句で、その使用法については注意しています。精霊人間体で考えることは、アニミズム概念の重要な核で、これを前提に多様性時間的推移を論じますので、上のような表現をしています。

トーテミズムなどにおいて、無機物を信仰するという事例はあるのだろうか。あるとすれば、それに対しても、トランス・スピーシーズ・イマジネーションは発現するのだろうか?

以前、樹木が伐採に抵抗するという伝承を、中国から日本にかけて集めていたことがありました。その抵抗の形式で最も多いのは、切り口から血が噴き出すというものです。これなどは、樹木を「人間と同じもの」と表象した結果、生まれる表現であろうと思います。これと全く同じ形式で、石を対象としたものが、和歌山県に残っています。確か、和歌山城建設の際の伝承であったと思いますが、城の石垣に使用しようとして断ち割った石から血が噴き出す。樹木適用された形式が、無機物の石にも適用された事例です。必ずしも、TSIのみによるものではなく、祟りなどの形式に近いのではないかとも思うのですが(すでに奈良時代正史続日本紀』には、西大寺の塔の心礎に使おうとした石から祟りがある、といった記事が出てきます)、どこかしらに、「石であっても割られたら痛いはず」という感応の姿勢があったのではないでしょうか。石を神として信仰することは縄文時代よりあり、近現代に至るまで、柳田国男折口信夫民俗学によって、列島各地に見出されています。

ウィンター・カウントについて、その図様からラコタ族の時間観念を「螺旋的」とするのは、強引ではないのだろうか?

民族社会の時間観念については、多く円環的であるとの分析一般的にあり、神話伝承、祭儀のあり方などから説得的に立証されています。太陽・月・星の運行、月の満ち欠け、季節の移り変わりなどからそうした認識が作られてゆき、〈死と再生〉という枠組みが構築されてゆくわけです。これは、世界的に広く確認でき、ラコタにもみられる考え方です。しかしウィンター・カウントは、その始まりと終わりを一致させておらず、異なる時間として認識しています。ある程度の円環を前提としながら始点/終点を異なるものとみるのは、単なる直線とは表現しがたく、螺旋的であると考えているのです。

2017-10-20 東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(10/20分)

熊の義兄、熊となった姉も殺してしまうナーナイの話は、何を教訓とするものか確信が持てませんでした。

紹介した伝承は、物語の筋のほうは、かなり錯綜して複雑になっています。恐らく、話者が他者に語る際に、さまざまに尾ひれや要素の拡大・縮小が行われることで、多様に変化をしたものでしょう。しかし、類似の事例を多く収集してみますと、これが熊と人との同族関係を示す神話であり、しかもその同族を殺す狩猟負債感・罪悪感が表明されていることなどが分かります。自分たち対峙する熊は、同族であるために無闇に殺してよいものではない、また狩猟とは本質的には同族の殺し合いであり、それゆえに生きるための、必要最小限の殺生でよいのだという考え方です。北方狩猟採集民には、現実的には、熊皮や熊掌、熊胆などがギフト、もしくは交易品として重視されていたので、逆にこのような「規制神話」が構築されていったのだと考えられます。

トンプソン・インディアンの山羊の異類婚姻譚が、人間の狩猟における無軌道な欲望を抑えるものになったということは、葛藤によるストレスの軽減をなす物語システムという意味では、どのように説明されるのか。

紹介した神話においては、「雌を殺すな、子供を殺すな」という点が強調されていますが、これはいいかえれば、「大人の雄は殺してよい」との表明です。また多く前近代社会・民族社会において、捕食と性行為とはアナロジーをもって結びつけられますが、若者による山羊との結婚は、彼が山羊の雌を自らの所有にした、それゆえに競合する雄は戦って殺してよい、との表明でもあると考えられます。そうした意味でこの神話には、心理的葛藤の緩和の機能と、無軌道欲望抑制機能とが同居しているのです。

人間の異類に対する感応能力によって、人間なりの感謝の示し方として祭祀を行うとのことでしたが、その内容は、やはり動物からすると残虐な行為にみえるのではないでしょうか。そうした方向での想像力は働かなかったのですか? / 動物の主神話などは人間のための規範であって、他者への交感の事例としては強引なのではないでしょうか?

授業でもお話ししたと思いますが、例えばイヨマンテにおいては、子熊の精霊を父や母の待つ世界へ送るという建前の理解のほかに、そうした祭儀を残酷と思い、子熊を可哀想だと思う認識とが同居しているのです。そうした感情を示すものが、注意してみてみると、代々伝えられた祈り言葉、神謡などのなかにも確認することができます。これは非常に重要なことで、祭祀の建前的解釈と相反するような詞章が散りばめられていることで、そうした多様性存在することで、さまざまな考えや思いを抱いた人々を祭り包摂できる。極言すれば、それぞれの個別解釈祭祀のなかで獲得できるのです。そうした仕組みが活きているのは、まさに人々の他者への感応の力が活発に作用しているためです。

レヴィ=ストロースのトーテミズムに対する批判や、神話が他地域から伝わっている可能性も考えると、神話や習慣からトランス・スピーシーズ・イマジネーション的な分析をするのは慎重になるべきと思う。

まず、分析対象とする神話が、その地域にどのような形態として存在するのか、生活の基軸に据えられているのか、それとも単に娯楽に過ぎないのか、といった調査判断が重要です。また後者の場合であっても、それを語り継いでゆく人々の認識のありようを探る資料として、用いてゆくことは可能です。また、レヴィ=ストローストーテミズムは分類であるとの分析は、やはり認識世界論理的思考のみを対象とするもので、彼らの感性世界を充分に明らかにするものではありません。現在の人類学は、むしろ後者の視点に立って、感性・心性の面を重視しつつ動植物他者との関係の分析を進めています。

トランス・スピーシーズ・イマジネーションの事例として、植物に関するものは存在しないのでしょうか? / 輪廻で取り上げられるのは動物の場合が多いように思うのですが、植物は輪廻するものとしては想定されていないのでしょうか?

存在します。のちの、「巨樹から生まれしものの神話」で扱うつもりですが、とくに列島社会は、もともと人間草木一種であると考えていた形跡があります。ただし輪廻に関しては、もちろん釈迦樹木神になる物語りもあるのですが、やや注意して扱うべき問題もあります。というのは、仏教ではもともと、草木有情すなわち意識を持つものとは捉えず、生命の枠組みから除外している時期があったのです。これは、ランベルト・シュミットハウゼンという仏教学者が明らかにしたことですが、大乗仏教化に伴い殺生禁断・肉食禁忌を徹底し始めた仏教教団が、食事における無用な葛藤、食事を供する一般信者たちの葛藤を排除するために、植物生命範疇から除外したらしいのです。また、これは授業でも少しお話ししたかと思いますが、仏教でいう樹木神は多く主託神であり、樹木を容れ物としている精霊であって、樹木それ自体の神格化ではありません。動植物神話分析は、このようなことにも注意して進める必要があるのです。

異類婚姻譚について、生まれた子がどちらの種に属するのか、またいわゆる混血の誕生はないのか、といった点が気になりました。

異類/人間のどちらが男性、どちらが女性であっても、例えばトーテム信仰的な視野から語られる場合には、生まれた子は民族集団の祖、すなわち人間である場合は多いと思います(ナーナイの話に出てくる熊の子は、人間の娘が熊に掠われ、熊の集団に入って生んだ子だからこそ子熊として生まれているのです)。しかし同時にそれは、単なる人間ではなく、異類の力、野生の力を分有した存在です。『後漢書』などにも始祖伝承の語られる中国家族などの祖・稟君は、虎と人との異類婚姻によって生まれた英雄ですが、死んだ姿は虎であったと伝承されています。日本の大王家=天皇家も、天つ神の子孫であり、またワニ=海神の血を引くからこそ、地上の支配者たりうる霊性を持つ者と扱われるのです。

神話には、自然の有限性が語られていると思います。「持続可能な開発」が今でこそ世界で唱えられていますが、先人の知恵はすでにもっと前の神話の時代から考えられていた、ということでしょうか。

前近代社会の人々が、自然環境を近現代人と同じように有限なものとみ、持続可能な利用を考えていたかというと、必ずしもそうではなかったろうと思います。ただし、過度な利用、無軌道な利用が何らかの破綻を招くという共同体規制は、集団を経験的に縛るものとして作用していた。事実、そうした行為によって破綻に追い込まれる部族、集団のあったことは確かでしょう。それらは無意識防衛機制としては存在していたかもしれませんが、その積み重ねのうえに構築された他の動植物との連帯感こそが、彼らの内面における現実であったと思われます。

異類婚姻譚というと遠野のオシラサマの話を思い出すのですが、これはトランス・スピーシーズ・イマジネーションの視角からすると、少し違和感があるようにも思います。どう解釈すればよいのでしょうか。

遠野物語』のオシラサマは、原型としては、中国六朝の『捜神記』という志怪小説に出てきます。養蚕と桑、馬の飼育とは中国文脈のなかで密接に関連しており(恐らく、厩の二階などで蚕を育てることが原因のひとつです)、遠野地方でそれが盛んになるなか、江戸期に輸入された漢籍を通じて物語が定着したのでしょう。同話は養蚕起源を語るものであるとともに、生活における馬との連帯感(まさに家族の一員であること)をも表明したものです。中国の話は、馬の皮に少女が包まれることで蚕が生まれてくるモチーフがあり、蚕が少女と馬の子孫であることが端的に示されます。柳田国男遠野物語を語った佐々木喜善の『聴耳草紙』にも、やはり「馬の生皮でくるまれる」モチーフが出てきます。元来はこの物語は、馬の家畜化の起源を語る異類婚姻譚であり、それがやがて、馬の飼育と密接に関わる養蚕起源へ転化されていったのだと考えられます。

人間は子供のころから、そもそも自然や動物と交感する能力を持つのか、それともそのような能力は教育によって植え付けられるのか。もし後者なら、人間はもともと他者と交感する能力を持っておらず、文化的に刷り込む必要があるのかもしれない、と感じました。

恐らく、1か0かということではなく、どちらも少しずつあるのが本当のところでしょう。幼児自然に対する感応の力は、未だ自己他者の分節が明解でないために強く生じるものです。教育はそのあたりをコントロールしつつ、重要な部分だけを発展的に伸ばそうとします。レヴィ=ストロースは、民族社会の人々が自然を注意深く観察し、文化に転化させてゆく回路を明らかにしていますが、そのなかで、いわゆる「文明社会」においても、親が子供動物人形ぬいぐるみを与えることに注意しています。すなわち、民族社会においては動物を注意深く観察すること、その動向から自然界のさまざまな情報を摂取することが重要で、それが自身の生存に繋がってくる。ゆえに動物に注意を向けるよう子供教育するわけだが、上記の人形ぬいぐるみはその名残なのではないかと。彼の主張が正しいとすれば、昨今世にはびこるゆるキャラにも意味があり、動物キャラクターを大人までもが身に付ける列島文化は、やはりアニミズムの残存が強いのだといえるかもしれません(笑)