来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。
原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。
・ブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス
東京大学宗教学宗教特殊講義
 17秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2018-04-16 アジア・日本史系概説I(04/16分)

国家の誕生はある意味で必然的な出来事であり、失敗と捉えることはいまひとつ納得ができません。 / 中国西南少数民族などは生活している環境が悪く、物質的条件が整わなかったから国家化していないのではないか。

現在の歴史学や、社会学文化人類学など、国家の形成過程を扱っている人文・社会系の科学のなかで、資本主義形成を最良の到達点・必然的結果と考えている研究者がほとんどいないのと同様に、国家の形成必然的と考えている研究者もまたほとんどいません。世界の歴史過程を詳細に分析してみても、国家の形成は諸地域諸民族において必然的には生じていませんし、かなり選択的かつ流動的な現象で、国家を構築した地域集団民族集団が、その後これを放棄して顧みなくなった事例も複数確認できるからです。中国漢民族的な歴史観のなかでは、農耕社会の充実によって国家化するプロセスを、日本と同様にある程度必然的なものと考えていますが、それでは例えばモンゴルのような事例はどう説明するのでしょうか。中国の某人類学者が筆名で書き、世界的なベストセラーとなった『狼図騰』は、文化大革命期のモンゴル族のエスノグラフィーとしても質の高いものですが、そこでは漢民族下放青年であった主人公が、モンゴル族との共同生活を通じて、漢民族歴史観虚構に気づいてゆくさまが描かれています。このようなフィールド経験は、多くの人類学者や歴史学者が味わうもので、国民国家のイデオロギー客観化するためには必要なもののひとつかもしれません。マルクスの同時代には、アナーキズム理論根拠を構築してゆくバクーニンクロポトキンが、シベリア先住民調査と同地における施策を通じて、近代国家のシステムに疑問を抱くようになりました。レヴィ=ストロースには南米経験ブルデューにはアルジェリアでの経験が、自分の属している政治・社会・経済のあり方を批判する重要な契機をなしていたわけです。中国人留学生なかには、西南少数民族環境が充分ではなく…といった感想もみられましたが、例えば彼らは同一の環境下で、イ族は南詔国を、ペー族大理国建国しています。そして現在の彼らの情況は、歴史過程をみるに、大国領域国家の圧力迫害だけではなく、彼らが主体的選択した生活様式なのです。また日本のアイヌは、近世初期の段階で複雑な交易ネットワークを構築し、周辺の領域国家と情報・物資のやり取りとしていました。歴史学者の間では、いつ国家を作ってもおかしくない条件と整えていたのに、そうしなかった事例と考えられ、なぜ国家化しなかったのか活発に議論されています。それらのどれをとってみても、「国家形成必然」とする根拠は何もありませんし、逆にそう発言することは、国家形成以外の選択肢可能性を否定する、国家主義的な態度の表明になってしまうのです。

国家という大きな存在と、支配者・被支配者の構造がないと、技術の発達ができないのではないかと思います。

例えば、戦争がなければ人類技術発達はなかった、冷戦期に科学が急激に発達したが、それが終結したことによって、発達の速度が弱まった、という言説があります。これは一見歴史の事実をいいあてているようですが、幾つかの誤りや隠蔽があります。まず第一に、前回の授業でお話しした枠組み・語り方の問題で、冷戦期に発達した科学技術を無条件で「よいものである」と規定してしまっています。しかし、核兵器開発競争のなかで、世界にどれだけの惨禍がもたらされたのかを考えれば(よく、日本を唯一の被爆国というひとがいますが、大きな間違いです。なぜかは考えてみて下さい)、そしてまかり間違えば世界が滅亡していた危険性を考えれば(そして未だその危険は回避されていません)、それを「よいものである」とみなすのは非常に政治的です。原子力発電所は「核の平和利用」といわれていましたが、それが核兵器開発の副産物であったことは、歴史学が実証しています。同じように、国家や支配者/被支配者の構造が作り上げられることで、多くの問題や惨禍が出現したこともまた確かなのです。その苦難のなかで生きることを強いられてきたひとからすれば、「国家のもとで開発された技術がよいものである」などという価値判断は、とうてい受け入れられるものではありません。それは、国家が自己を保存するために喧伝しているイデオロギーに過ぎないのです。農耕社会では、狩猟を「残酷だ」と蔑む空気がありますが、逆に狩猟採集社会では、農耕を「女神の髪をむしり取り、目をくり抜き、手足をもぐ残酷行為」と位置づけます。歴史上、農耕を罪悪と捉える「農耕原罪論」も、世界中神話伝承なかに残っています。まず、われわれ自身が当たり前だと考えている価値観から自由になることが、歴史研究のうえでは非常に大切です。

2017-12-26 東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(12/26分)

白神山地の伐採に朝鮮出兵が関係しているとのことですが、九州から遠い陸奥や出羽で伐採が行われたのはなぜですか。

当時、豊臣秀吉の全国政権が完成しつつあったためです。出羽の大名となった秋田安東)実季は、小田原従軍以降秀吉に属し、太閤検地を経て長年紛争の続いた所領を安堵されますが、同時に秋田杉の重要性に注目した豊臣政権によって多くの蔵入地を設定され、その代官に任じられています。秋田杉の供出は、文禄2年(1593)、朝鮮出兵に際した安宅船の建造に始まり、伏見城築造において固定化してゆきます。良材としての秋田杉の評判が囁かれ始めていたこと、中継の良港であった敦賀に能吏の大谷良継がおり、伐採地で適切な寸法に製材した秋田杉(太閤材)を大坂まで運ぶ流通システムを整ええたことなどが、大きく影響したのでしょう。

東北では、黒松などが防潮林として藩主導で積極的に植えられていたが、森林の役割自体はこの時期重く認識されていたということでしょうか。

もちろんそうです。授業でも扱いましたが、江戸初期には東北各藩で山林資源の大規模な枯渇がみられたため、土砂災害なども多く、藩主導での植林政策プランニングされています。近畿の土砂止めの法令も同じですね。ぼくの妻の実家がある秋田能代でも、「風の松原」と呼ばれる大規模な防砂林が、やはり藩政時代からの長期にわたる植林で醸成されています。森林の重要性は農民レベルで経験的に認知され、また研究も行われていましたが、同時に伐採しなければ経済が回らない、生活が成り立たない現実もあった。それをバランスよく保持することができなかったところに、江戸期の自然環境/経済関係の限界、構造的欠陥が存在したのだといえます。

棚田は、効率的に作物を増やすため、積極的に斜面に作られたと思っていたが、場所によっては、水田面積を拡げるため、やむなく柴草山を開発したところもあると知った。

日本棚田は、斜面下の川原の石を上へ上へ積み上げて畔を作り、上部に水源がないところでは川から水を汲み上げ、灌漑して耕作します。これはかなりの重労働であるため、「棚田を使用しないでも生活が営める」現在においては、観光資源として活用できる以外のほとんどの地域では、過疎化による労働力の減少と高齢化の影響もあり、水田としての耕作を放棄してしまっているのが実態です(あるいは、より環境に根差した楮、みかんなどの段々畑へと変化させています)。中国西南部から東南アジアへかけての山岳地帯における棚田地域は、かつて平地で水田を営んでいた人々が、領域国家の支配を避けて山地へ移動し、半ば要塞を営むような形で作り上げたものです。水源は上部にあるので、農作業日本棚田ほど苛酷ではありません。では、日本のそれはなぜ条件の悪い場所に作られたのか、作らざるをえなかったのか。「棚田百選」など景観の表面的な美しさのみを称揚するのではなく、当時の人々の生活に思いを馳せて考察することが必要でしょう。

私は小学唱歌「ふるさと」が嫌いなのですが、今日の講義を聴いて一層嫌いになりました。

ぼくもあまり好きではありません。そもそも、遠くにあって思う故郷が創出されるのが、やはり日本近代なのです。これは、もともと移動性のなかにあった人々の暮らし土地に縛り付け、家父長制的家族に固定し、租税・兵役負担安定的単位とすることが目的でした。「ふるさと」には、その関連で共同体紐帯を強化する機能付与されており、それゆえに東日本大震災後に喧伝されたのだと考えられます。講義のどこかの回でお話ししたように、固定された「故郷」に束縛されてあることは、むしろ自然災害被害大規模化させてしまいます。にもかかわらず、「故郷に帰る」ことを強調する歌がもてはやされたことには、あえて「帰宅困難区域解除」も問題を持ち出さずとも、何らかの意図があったのだと考えざるをえません。

2017-12-22 東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(12/22分)

仏像においての体骨柱は、宗教的意義もあるかもしれませんが、第一には技術的要因ではないでしょうか?

もちろん、その存在構造的必要性からです。しかし問題はその点ではなく、授業でもお話ししたように、「体骨柱を立てる」ことが特質的に扱われ、恐らくは何らかの儀礼がなされていることです。当時はあれほど巨大な銅造仏像の先例がなかったため、造立過程ポイントポイントでなされた儀礼は、金堂や仏塔などのそれに準拠して行われたものと考えられます。現存する列島最古の仏教説話集『日本霊異記』には、廃寺に泊まった僧侶が夜中にうめき声を聞き、打ち捨てられた塔の芯柱について、「塔霊が騒いでいるのか」と疑う場面が出てきます。8世紀の神社建築に関する祭儀を詳細に記した『皇大神宮儀式帳』によれば、神社建築の中心ともいうべき心御柱は、杣山の入り口、伐るべき樹木の前、立てるべき地において、何度も丁重な祭儀を繰り返し経験し、樹木から柱へ変わってゆきます。そのなかで、樹木に宿った樹霊は、正殿守護神へと転換してゆくのでしょう。仏教建築の場合も大枠はこれに準拠しており、塔霊が形成されるものと考えられます。大仏の体骨柱も、同じように、霊的に扱われたものとみられます。

須弥山像や類似した形の香炉台について、男性象徴であるとのお話がありましたが、これまでの授業に登場していたアジアの立柱にも同じような思想的背景があるのでしょうか? アマテラスが女神とされていることを考えると、神仏に制約を監視させるための依り代が男性象徴というのは、違和感を覚えます。

すべての神聖遺物を男性象徴女性象徴解釈するのは無理があるでしょうが、天地を繋ぐように屹立する柱や山には、男性象徴の重ね合わされることが多いことは確かです。縄文時代には、男性象徴を直接的に模した石棒が多くみつかっていますし、環状列石にみられる日時計遺構などは、女性象徴から男性象徴が屹立している様子、すわなち性交渉のメタファーであると推測されます。宇宙樹にまとわりつく龍蛇も、代表的男性象徴のひとつです。性交渉は生命を生み出す源であり、あらゆる宗教に(創唱宗教はそれを表面的には否定することは多いものの)関連の意匠を見出すことができます。恐らく、海から屹立する須弥山という構図自体も、女性象徴と男性象徴の組み合わせなのでしょう。

縄文時代の環状柱列や巨大柱列が古墳時代で途絶えてしまうのは、なぜだろう。稲へのトーテミズムと、宇宙樹・世界樹への信仰は両立しないものなのだろうか?

信仰の表層的形式は変わってゆきますが、その構造は概ね維持されると考えられるかもしれません。古い時代の巨樹信仰、柱列信仰は、一部には、諏訪御柱祭をはじめとして、各地の寺社などに存する神木信仰として残存しています。伊勢神宮心御柱など、神社建築には多く祭祀上重要な柱が存在し、寺院の金堂の柱列や塔の芯柱などにも類似メンタリティーが見て取れます。一般家屋にも大黒柱信仰存在し、かつて家宅とともに代表的木造建築物であった船舶にも、帆柱に対する祭儀が存在しました。宇宙樹や世界樹に対する信仰樹木トーテムの表現は、表層的には稲トーテムの神事にとってかわられていますが、授業でもお話ししたとおり、根本的に潰えてしまったわけではないと考えられます。

スサノヲ―イタケルが樹木神の系譜とのことですが、イザナギ・イザナミによって生まれたククノチも樹木神なのではありませんか? 両者の関係はどう考えるべきでしょう。

ククノチは、樹木「神」というより樹木「霊」ですね。古代ヤマト言葉で、神霊を表す語句にはヒ・ミ・チなどがありますが、ミは自然物に宿る精霊存在です。水の精霊であるミヅチ、火の精霊であるカグツチ、野の精霊であるノヅチなどが該当します。スサノヲイタケルは、『書紀』一書に語られているとおり木種を植え、樹木管理する存在ですが、ククノチ樹木そのものともいえるでしょう。

樹木から生まれた人間の一例として桃太郎が挙げられていましたが、桃太郎伝説のルーツはヤマト王権のキビツヒコだと読んだことがあります。とすると、桃から生まれたくだりは後付けになると思いますが、これにはどういった意味があるのでしょうか(個人的には、神仙思想のにおいを感じます)。

桃太郎とキビツヒコとの関係はよくいわれることなのですが、しっかりと立証できているわけではありません。ただし、吉備津神社縁起伝承は、中世後期以降多岐に渡って作られてゆき人口に膾炙してゆきますので、まったく無関係ではないかもしれません。なお、桃は質問のとおり神仙象徴で、不老不死の仙果とされます。列島ではすでに邪馬台国の時期(奈良纒向遺跡をその遺構とすれば、ですが)、神仙思想とともに中国より輸入され、桃を用いた祭儀が行われたらしいことが、考古学的に確認されています。中国では、桃の花の咲き乱れる神仙境のことを「桃花源」といいますが、河川を通じてその世界のものが俗世を訪れる、逆に川を遡ってゆくことでその世界に分け入ってゆく物語が、多く残されています。川上から桃が流れてくる桃太郎の冒頭は、そのヴァリアントのひとつです。

気候変動と人口の増加とは、どの程度関連性があるのでしょうか。情況が悪くなると生物は多産になるのか、危機感などもその原因でしょうか?

人類社会は自然環境の影響を直接的に受けないよう、文化文明を発展させてゆきます。授業でもお話ししたとおり、現在では古墳時代は寒冷期であったと考えられていますが、その際にも人口は増加し統一王権誕生しているのです。環境圧力が高まってこれまでの方法では人口を支えられなくなると、一時的人口の増加は伸び悩み、場合によっては縮小しますが、技術革新や集約が行われ、その圧力に対抗できる情況が整えられると、再び増加傾向に入ってゆく。生物危機対応としての多産もないわけではありませんが、そうした人間の生態、環境情況に介在する文化、社会のあり方を考えてゆかねばならないでしょう。

東北や島嶼部など、稲作に向かない地域に対しては、どの程度柔軟に、租税制度を変えていったのだろう。

時代政権のあり方によっても相違はありますし、環境的に米穀の収穫が難しい地域では、古くから代替物の貢納が許されていました。例えば、奥山にあって雑穀の焼畑や茶の生産を主要な生業としていた宮崎県椎葉村では、江戸初期にこれを統括していた土豪を誅戮したのち、徐々に検地を行い、畑地面積に対応した年貢米を計算して、銀で代納させています。しかし、無産階級の生活を支えるため、水田造成できる土地においては徹底的に稲米を得ようとしたことは確かで、その結果、列島の平地は見渡す限りの水田とそれを支える柴草山になり、経済的にも環境的にも破綻した状態へ陥ってゆくのです。

2017-12-20 全学共通日本史(12/20分)

かなり昔から人間によって自然に手が加えられていたことが、研究によって分かっている。このような事実を与えられると、「人間が手を加えない自然こそが良い」というイメージを押しつけられているように感じるが、果たしてそれは正しいのだろうか。

このあたり難しく、また微妙な問題です。手つかずの自然を至上とみなす考え方をピュアイズムといいますが、これは質問者の意見と同様、さまざまに批判されています。ただし、前回お話ししたアンスロポセンの問題を考えると、人類活動自然環境回復能力凌駕してしまっていることは確かなので、人類とそれをとりまく生態系とのバランスがとれなくなってきていることは看過できません。ピュアイズム批判は、「人間の手が加わっている自然こそ多様性が増し、豊かになる」というヒト至上主義的言説に利用されてしまいがちなので、注意が必要です。「我々のいまの生活があるのは過去の自然破壊があったからだ」との見解もよく目にしますが、そうした経緯を辿らず現在に至っている人間集団存在するので、自分たちの国の歴史を正当化する意外の意味は持ちえません。自然破壊を戦争に置き換えれば、戦争を肯定する言説になってしまいます。四谷からも近い明治神宮の森は、明治基本的設計をして植林して以降、ほぼ人間の手を加えず自然の遷移に任せる実験を行ってきた場所ですが、原生林に迫るような生物多様性回復していることが確認されています。当たり前のことですが、自然は「手つかず」でも成立しうる。そこに人間が介入するのは人間利益のために過ぎないので、いろいろ理由をつけて肯定しよう、正当化しようと思うのがそもそもの間違いです。人間生存するためにどれだけのことが許されるのか、どう自然環境とバランスを保ってゆくことができるのか、自らを批判し相対化しつつ、考え行動してゆくしかありません。

森林伐採が以前から大規模に行われていたとして、ならばなぜ日本人は、昔から自然と共生してきたという言説が生まれたのでしょうか。 / 日本人のなかに、「緑は美しいから守らなければいけない」との考えが共通認識となったのは、いつのことなのでしょうか。

王権政治的権威寺社宗教的権威を保持するために、森林の美観を保持しようとする考えは、古代からありました。仏教のなかにも、生命平等主義的な考え方から、動植物の殺生を忌む発想が同時に存在しました。個人の発想では、江戸後期の安藤昌益、近代南方熊楠、田中正造らが存在しましたが、しかしそれはあくまで例外で、現代でいう環境保護の発想は、やはり戦後にならないと一般化はしませんでした。とくに「共生論」が盛んになったのは、バブル崩壊後の1990年代で、経済大国としてのプライドを失った日本が、欧米比肩しうる材料文化に求めた結果だと推測されます。この傾向は、歴史の歪曲・正当化という点も含め、現在の「自画自賛番組の垂れ流し」にも繋がってきます。

今回の講義を通して、高度経済成長というものが環境史的にはどのような位置づけになるのか、よく分からなくなってしまいました。山々に緑を戻した一方で、公害などの汚染もあったため。

非常に複雑な時代ですが、自然環境的にも、「地方農村が中央都市の食い物に位置づけられた時代」といえるかもしれません。都市への若年労働者流入人口の集中、第一次産業の衰退は、農業の衰退と農村の過疎化をもたらし、結果として里山自然回復を生じて、次第に野生動物の増加ももたらします。一部山林地域には、戦資供出ではげ山化していたところへ杉の植林が進みますが、周囲の環境との調和考慮しなかったために、日本材木海外材木との競争に敗れ手入れが行われなくなると、一気に荒廃し、現在は土砂災害などを繰り返しながら、周辺環境に適合的な林相へと遷移が進んでいる最中と捉えられます。そうして、バブル崩壊後の里山幻想」、関連しての共生ブーム自然保護ブーム都市の思潮の変転によって、フィジカルな面でもメンタルスピリチュアルな面でも、地方の自然環境は常に「消費」対象に置かれてきたといえるでしょう。

縄文時代には戦争はなく、平和であったと習いました。とすると、稲作伝来を契機に急に身分の上下が振り分けられたのでしょうか? それだと、少し不自然に感じられるのですが。

現在でも、狩猟採集社会に近い形態の民族社会は存在しますが、それらにおいては、一部への富の集中、それによる権力偏重禁忌とされてきました。集団で獲得した食料は、それぞれの貢献度の差違があろうと、可能な限り平等に再分配されたのです。縄文時代もそのような社会・経済であったと考えられ、実際に村落、墓葬にも、階級差を示すような規模の大小は見出されていないわけです。しかし授業でも触れましたが、弥生時代流入してきた稲作は、河川に何らかの灌漑施設を設けて水田に水を引き、季節に沿って適切な栽培作業を行ってゆく灌漑農耕でした。これには、優れた知識技術、そして一定計画性と、それに伴う組織的労働力編成が不可欠になります。つまり、稲作の遂行によって余剰生産物が生み出されてゆく一方で、社会的分業と、それを統制する権力の醸成も進んでゆくことになるのです。弥生時代階級が現れ、権力が生まれ、クニが組織されてゆくというのはそういうことです。

弥生時代の寒暖の差が激しい気候は、現在の四季のようなものが、もっと極端な振幅を持っていた状態ということでしょうか。すると当時、体調を悪くする人が増加したとは考えられませんか?

寒暖差が激しいといっても、グラフに示しているとおり、600年というスパンのなかでのことです。古気温曲線では、1年の間における微細な温度変化はデータ化できませんので、四季が大きな振幅で訪れるというわけではありません。ただし、気候が温暖期/寒冷期の間へ変化してゆく時期や、現在の温暖化のように短いスパンで急激に変化する時期には、気象現象がさまざまに極端化し、災害をもたらすことも分かっています。温暖な縄文時代からの変化の時期、寒冷な古墳時代への変化の時期には、そうした不安定気候が続くこともあったかもしれません。

歴史を学習していたころからの疑問なのですが、遺跡や水田跡というのは、なぜ破壊されておらず、きれいとはいわないが、ある程度当時の形で発見されるのでしょうか。

縄文以降でも1万年以上にわたる日本列島人類史において、もしその痕跡破壊されずに残っているとしたら、いま都市が展開している平地などは、そこらじゅう遺跡だらけのはずです。しかし現実にはそうなっていないのは、大部分の文化痕跡自然崩壊し、あるいは人為的破壊されて、消滅してしまっているからにほかなりません。現在、われわれが史跡としてみることができるのは、その意味で希有のものであり、さらに研究者によるさまざまな復元が加えられたものなのです。当時の姿そのままに発見されているわけではありません。ただし授業で扱った条里遺構は、古代に作られた畔を現代に至るまで修築しながら使用してきたので(太閤検地によって多く更新されましたが)、律令制の規格が維持されて残ったものです。

古墳寒冷期の国家形成について。世界史的にみて、生態系の生命力が強い温暖な地域は文化が発展せず、寒さの厳しい地域は発展していることと同じ理屈なのでしょうか?

同じとはいえません。そもそも、温暖な地方での文明発展がないという考え方自体、不正確であることは、エジプトインド古代文明をみれば明らかです。中国でも、比較的寒冷な地域の黄河文明と同時期に、南方の長江流域でも高度な文明が発達していたことが分かっています。すなわち、人類文明に関するすべてが自然環境の諸条件によって決定される、という考え方は誤りなのです。現在、北半球にいわゆる「先進国」が集中し、赤道周辺や南半球に「発展途上国」が存在するのは、あくまで歴史の経過の産物です。また、欧米世界に強勢を振るっている時代は、未だ15世紀以降の600年ほどに過ぎないのです。

源平の争乱で焼失した東大寺を再建するとき、再建用の木材を九州のほうから運んできたという話を聞きました。近畿地方では、森林の伐採が進んでいたためでしょうか?

重源の東大寺再建の基盤になったのは、九州ではなく中国地方、とくに周防国(現在の山口県)ですね。ほかに安芸広島)、備前岡山)なども造営料国に設定されています。重源は、畿内周辺では紀伊伊賀などの荘園てこ入れをしてゆきますが、やはり東大寺伽藍を建造できるような大径の良材は、近畿では少なくなっていたものと考えられます(7世紀の藤原京の段階でその傾向がみえ始めるのですから)。

寒冷化や耕地拡大のために木を伐ったとのことでしたが、世界的にも同じ傾向があるのでしょうか?

例えばヨーロッパなどでは、森林は産業革命期と比較すれば、現在のほうが保護されて回復しています。ヨーロッパは、古代文明の起こった地中海の周辺で早くから森林伐採が進み、もともと森林のまばらな地域であったこともあり、樹木のない乾燥した空間を醸成しました。現存最古の神話であるメソポタミアギルガメシュ叙事詩では、造船材や内装材に用いたレバノン杉(香柏)の伐採と森林の番人フンババ殺害が、いわば環境問題起源のように語られています。ローマ帝国でキリスト教国教化すると、ガリアゲルマニア森林が、神/悪魔文明/野生=耕地森林二項対立論理のなかで次々に開発され、とくに中世の大開発時代においては、大規模に耕地化・牧草地化されてゆきました。また、18世紀の産業革命期には、石炭への転換が図られる以前、工業を支えたエネルギー木炭であって、多くの森林薪炭材となって消費されたわけです。熱量の獲得と耕地開発は、樹種をほとんど選ばない点においては材木としての使用以上に、森林伐採普遍的な原因となりえたのです。