来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2017-01-11 全学共通日本史(16秋)

北大の頭蓋骨の件、発見状況からすると、1995年以前にも、その存在を知りながら隠匿していた人々がいるということだろうか。

戦後しばらくの間は恐らく事情を知る人間がいたはずですが、70年代以降は、何の骨か確認されずに、他の標本類と一緒にされていたのではないでしょうか。「人骨」「ワレモノ」というダンボールマジック書きも、あまり悪意はなかったのだと思います。ぼくも、某学科の倉庫を整理したときに、「人骨」というダンボールが出てきてひやっとしましたが、古墳時代遺跡から出てきたもので安心しました。まあそれでも、いつの時代以前のものならば標本にしてよいのかなど、学問には暴力が伴うものだということを、自覚せざるをえませんが。

東学党首魁の首が、なぜ北大に持ち込まれたのか不思議です。そのリーダーは、日本と何か直接的な関わりを持っていたのでしょうか?

日本と何か意味のある繋がりがあったのではないと思います。佐藤政次郎が珍島を調査した際に、さらし首になり、恐らくは腐敗して、白骨化した頭蓋骨を発見したのでしょう。墓暴きなどより、楽に採集ができたのだと思います。また、「日本反抗的朝鮮人の骨」を優生学的サンプルとして、「日本民族」の優位性を示すために利用できれば、反抗するような輩は遺伝的に問題があるのだ、といった正当化可能になる。そうした政治的思惑もあったのではないかと考えられます。

中学までの私は、日本は支配したくて戦争をしたと思っていましたが、本当は朝鮮の独立を望んでいたのだと知りました。

え、どうしてそういう理解になってしまったのでしょうか。「日本朝鮮独立を望んでいた」などという話は、一切していませんので、もう一度プリントなどしっかり読み直して下さい。日本朝鮮を大陸進出の足がかりとして植民地化してゆきますが、その最初期段階が、日清戦争の兵站基地に利用することにあったのです。東学農民第二次蜂起はそれを妨害するために起こり、日本は戦時体制を準備するために、これを殺戮するという暴挙に出ました。どこからも、「朝鮮独立」云々の理解は出てこないはずです。

司馬史観は、どのような経緯で発生したのでしょう。また、どうしてある程度世間に共有されるような思想になったのでしょうか。

司馬遼太郎は、一時期、国民作家ともいえるほどに「読まれた」、時代小説家でした。『竜馬がゆく』『花神』『翔ぶが如く』『最後の将軍 徳川慶喜』『功名が辻』など、NHKの大河ドラマ化された作品も多く、他の局のドラマ映画になった作品も数えきれません。『竜馬がゆく』などは、現在の坂本竜馬イメージを決定づけ、その人気を確立した小説といえます。『街道をゆく』『明治という国家』などの評論も多く、やはりNHKなどでドキュメンタリー制作されています。日露戦争において活躍した秋山兄弟を主人公とする『坂の上の雲』は、やはり司馬の代表作といえる長編で、明治時代日本青春時代として瑞々しく描いています。坂本竜馬や西郷隆盛を英雄化することで明治維新を肯定し、その結果生み出された明治を「荒々しくも輝いていた時代」と評価する。その正義感のなかで、拡大する西欧帝国主義に対抗すべく発展していったのが日本なのだ、という位置づけです。戦後日本社会においては、とにかく第二次世界大戦の惨禍が生々しく、その戦争を肯定することはできない。しかし、近代日本のすべてを否定することはやりきれない。そうした国民感情を満足させるものとして、司馬の作品が広く受け容れられていったのだと考えられます。

東学党は、もともと反乱を起こすために創られたのでしょうか? 下層民に支持されるような教え、斥倭斥洋の思想は、日本に対して非常に好戦的であると感じました。また、19世紀には、日本でも天理教、大本教、黒住教などさまざまな新宗教が誕生していますが、何か共通の理由があるのでしょうか。

最初の党首であった崔済愚には、反乱の意志はなかったかもしれません。しかし、彼が無惨な殺され方をしたために、政府に対して不満を持っていた民衆のエネルギーが爆発した、といえるでしょう。当初の反乱は政府に対してのものでしたので、日本軍に立ち向かうために組織されたのではありません。ただし、西洋日本朝鮮を圧迫してくることに反対していたので、それらの勢力排斥する下からのナショナリズムであったことは確かです。同時期、日本でも多くの新宗教が生まれているのは、一般的には「近代化の歪み」の結果として説明されますが、多くは幕末期、一種神秘体験に基づく神道の再構成のなかで起こってくるものです。背景には、やはり、帝国主義的な国際情勢に基づく政治・社会不安と、経済格差の拡大などがあり、社会のボトムラインへ抑圧が高まっていたことなどが挙げられるでしょう。そうした情況のなか、日常生活に喘ぐ民衆の需要に応えるように生まれてきたのが、これら新宗教であったと思われます。天理教や大本教など、女性教主が少なからずみられるのも、そのことと関係しているのでしょう。

邪教とされた東学党が、現在、民主運動の始まりとして理解されているのはなぜですか。

当時東学党が邪教とされたのは、反政府運動すなわち逆賊であったことや、日本政府の喧伝によるところが大きかったものと思われます。現在は、客観的な歴史理解のなかで、民衆救済を意図したその思想運動評価されているということでしょう。その民族運動としてのあり方が、国民国家的ナショナリズムと合致する、という側面もあります。

東学党の思想のうち、「有無相資」は、現在でも広まればいいなと思います。それは可能だと思いますか?

例えば、一昨年話題になったピケティの議論では、資本主義に内在する社会的格差を是正してゆくためには、国際的な富裕税の導入、すなわち世界規模での富の再分配を制度化してゆくしかないといわれています。これは、表面上は「有無相資」に近いですが、「人間善意に任せていては格差は是正できない」という諦観の表明でもあります。新自由主義が人間欲望を解放する装置であり、それに基づく施策世界を席巻する現代にあって、相互扶助は最も必要とされつつ、しかし実現の難しい思想になってしまっているのかもしれません。階層によっては、他者を扶助する精神的・経済的体力を、すでに奪われてしまっているところもあります。固定化しつつある階層をより柔軟に組み換え、かつその格差を可能な限り縮減する思想システムが、早急に求められますね。政府が逆の方向へ進むのであれば、国際的市民連携によって、その仕組みを模索してゆくしかありません。

エミシの時代にも、アイヌのような北方交易はあったのだろうか?

授業でも源頼朝が水豹の障泥を用いていた事例を紹介しましたが、もちろん北方交易存在したと考えられます。すでに10世紀の『延喜式交易雑物では、獣皮や熊胆などが貴重な交易品として規定されていました。『奥州後三年記』『台記』『吾妻鏡』など、院政期〜鎌倉初期の文献には、奥州藤原氏による海獣皮の貢進記録があります。藤原氏が、蝦夷北方交易をとりまとめて自己利益とし、中央政権との交渉の道具に利用していたことのあらわれでしょう。頼朝奥州戦後の入京における水豹皮使用は、彼が平泉を滅ぼしその権益を掌握したことの誇示だとみられているのです。

『夷酋列像』の左衽ですが、ただ単に書き手の誤りということはないのでしょうか。 / 昔、「アイヌの人は衣服を左前に着ていることがありますが、これはアイヌの伝統です」との文を見た記憶があります。曖昧な記憶ですが、これは書き手が誤った知識を持っていたということでしょうか。

「被髪左衽」は、中国文化においては夷狄表象の最も一般的なものなので、知識人常識のひとつです。また、蝦夷錦は中国清の官服ですので、すべて右衽で着るようにできており、左衽では着られないものなのです。よって、『夷酋列像』の左衽表現は書き誤りなどではなく、極めて意図的差別であったと考えられます。また、「左衽がアイヌの伝統」との言説は、上記に基づいて左衽表現が多かったことに基づく誤解でしょう。古写真などの画像資料をみても、左衽、右衽両方の着方があったらしいことが確認できます。現在では、右衽で着用することが多いようです。

2016-12-21 全学共通日本史(12/21分)

授業の最初で旧約聖書が自然破壊の根拠となったとあったが、それは現在批判されている。現代環境問題を論じるとき、インテリはこの点を指摘するが、もう少し研究してからいってほしい。

うーん、ぼくの説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、「創世記」の記述をもとにキリスト教責任を問うことは、リン・ホワイト1960年代に指摘したことながら、それが誤っていることは、環境倫理世界ではもはや常識です。ぼくも、10年以上前に編んだ本の総論で述べましたし(『環境と心性の文化史』上巻、勉誠出版2003年)、神学部との関係で行っている各種の講義でもお話をしてきました。ただし、「創世記」の一節がもともといかなる意味であるかということと、それが政治的社会的にどう解釈され、人間の行為の正当化に利用されてきたかということとは、別問題です。例えば、キリスト教ガリアやゲルマンに布教に入る際、聖書を根拠に自然崇拝と密接に結びついたアミニズムを解体したこと、修道院が開発=農耕=文化=神の恩恵、未開=森林=野蛮=悪魔二項対立図式に基づき、王や諸侯経済的利害・政治的意図にも支えられて、ヨーロッパ森林を次々に耕地に変えていったことは歴史的事実です。森林がいかに忌むべきものとされたかは、4〜5世紀の聖人伝以降、教学的な書物のなかにも度々みることができます。

桃太郎のおじいさんが刈敷の柴草を刈っていたということは、彼は「農夫設定」であったということでしょうか。また、柴刈りが仕事の一環であるなら、男=仕事、女=家事という図式が、昔からのものなのだなあとも感じました。

いわゆる百姓であることが、まさに柴草山の解釈から見出されると思います。ただし、一般の農業労働においては女性も重要な働き手ですので、必ずしも「桃太郎」昔話が、女性ジェンダー家内労働固定化して語ったわけではなかろう、とは思います。しかししかし、近代に至って女性が家庭に縛り付けられるようになると、「柴刈り」と同じく、「川へ洗濯」の読みは限定されてゆくことになると思います。

アジア太平洋戦争以前まで、農村では、庶民は米ではなく麦や粟、稗、芋などを主食にしていたと聞いたことがあります。雑穀や芋の育成には、米ほどの多量の肥料を必要としないような気がするのですが、柴草山から刈り取られた肥料が米以外の栽培にも使われたのか疑問に感じました。幕府が年貢を芋や雑穀で集めれば、柴草山の拡大を止められたのではないでしょうか。

刈敷は稲作のみでほぼせいいっぱいの情況だと思いますので、原理的には畑作にも使用可能で、農書にその類のことも出てきますが、水田以外にはあまり使用されなかったと考えられます。米が歴代王朝、政府によって租税化されたことは、その制作過程における労働編成、収穫後の計量しやすさ、栄養価の高さのほか、保存性に富むことも重要な要因でした。この点、他の雑穀、根菜類より秀でていたことは確かでしょう。幕府は、農村からの徴税は米を中心に行い、そのために水田が拡大し、柴草山も増大したわけですが、山村など物理的に無理があるところについては、薪炭その他の生産品での貢納も限定的に許可しています。このような柔軟な体制が一般化すればよかったのでしょうが、一方で武士職人・商人ら非食物生産層の生活を賄うためには米穀が必要であり、画一的支配の必要性もありましたので、現在的視点で適切と思えるような徴税体制が充分に採られなかったことは否めません。

刈敷を得るための柴草山ですが、何とか技術改良をして柴草山を減らす、ということは不可能だったのでしょうか?

江戸時代の場合、技術改良は拡大する米穀の需要に応えるため、寒冷地にも適応しうる稲の品種改良、栄養価の高い米穀を多く得るための肥料の改良、そして水田地の造成新田)などの形で進行しました。その結果が、柴草山の拡大と、その衰退に軌一する金肥の利用であったわけです。水田も、環境への圧力を最小限に止める形式でなら問題なかったでしょうが、租税化により当初からその選択肢は排除されており、制度の開始点においてすでに方向が誤っていたと考えるべきでしょう。

しかし、木々の生い茂った山林と、草山・柴山とでは、環境的にどちらが好ましいのか?

自然環境の善し悪しの基準は、一般的生物多様性の観点から考えるべきとされています。すなわち、より多くの生命が生育できる状態が望ましいということです。そうした意味では、柴草を肥料として利用するため、これらを選択的に生育できるよう圧力を加えた柴草山は、決してよい環境とはいえません。同じことは、水田に関してもいえます。よく、「水田を作った方が環境に変化が生じ、生物多様性が増す」との見解が聞かれますが、それは水田稲作結果論的に正当化する言説に過ぎません。それは、生態系が、人間が自らの利益を増すために行った改変に適応しようとした結果であり、決して人間側の功績ではないのです。

私の地元、青森では、未だに野焼きが多く行われている。地元の警察も黙認してしまっている情況だ。一歩外に出ると煙で前がみづらい。喉が痛くなる。植物の栄養としてはよいかもしれないが、人間の身体には害だと考える。先生は賛成ですか、反対ですか?

野焼きが単に環境へ悪影響を及ぼすものでないことは、前回の質問への回答でも述べました。人間生産活動の善し悪しは、その地域環境にとって好適か否か、環境への負荷ができるだけ少なくなるよう配慮されているかどうかが重要と思います。野焼きは一般的に冬から春にかけてなされるもので、限定的であり、燃焼による煙も、人体に有害な成分はほとんど含まれていないはずです(土壌が汚染されている場合は別です)。地域では、その伝統文化としての価値環境への影響も配慮して実施しているのでしょうから、上記の理由だけで否定するのは難しいと思います。

日本の昔話には、山姥が悪役としてよく出てくる印象があります。これは、子供だけで山に入ってはいけないという警告的なメッセージであるとともに、姥捨の文化が背景にあるような気もします。姥捨の罪悪感を払拭するために、老女を悪人に仕立てたのではないでしょうか。

なるほど、そういう解釈もありうるかもしれませんね。一般的には、山姥には、里の人間にとって有害な部分と、恩恵を授けてくれる部分の両義性があると指摘されており、これは山の神の性格に基づくと考えられています。日本列島で崇拝されてきた自然神は、概ね、適切な祭祀を怠った場合に祟咎(災害など)を下す面と、豊穣をもたらし生活を保障する面との両義性があると考えられており、山姥はそれが世俗化してきた姿、あるいはそれが投影された姿であるというわけです。いわゆる金太郎伝説では、彼を育てたのは山姥ということになっており、必ずしも悪役のみを割り振られているわけではないのです。

私は、長崎の捕鯨文化のなかで育ってきており、鯨の肉を食べることは一般的でした。世界的な批判のなかで、確かに乱獲はよくないとは思うのですが、そこまで批判されることなのかとも考えます。さまざまな部位を無駄にすることなく大切に使用しても、だめなのでしょうか。

捕鯨については、まだまだ研究の余地があります。日本列島なかに、鯨を捕り、食用その他に満遍なく利用する文化が、早くから存在したことは確かです。しかし、それら捕鯨を行っていた地域で、自分たちで消費する以上の量を捕獲してゆくようになるのは、列島経済的交易圏のなかに組み込まれ、食用とは異なる商品価値を付与されてゆくからです。とくに近世の場合は、鯨肉の摂取は一般的ではなかったので、鯨の身体の大部分は海へ投棄されていました。鯨肉摂取が地域に根付いてゆくのも、近代捕鯨、とくに大正期以降であったことが多く報告されています。すなわち、「日本捕鯨は身体を無駄なく使用した」との主張は、必ずしも真実ではない、これもまた神話の要素が大きいわけで、捕鯨の善し悪しを論じる場合には、この点も充分に考慮されてゆかねばならないと思います。

日本の自然の回復力について、緯度・経度的に絶妙な位置にあるとのお話がありましたが、九州と同じくらいのシチリア・ギリシャ・レバノンなどは、今でも荒れ地です。いったい何が違ったのでしょうか?

すでに中学地理、あるいは世界史あたりで、地中海性気候などは勉強していると思います。ぼくの説明の仕方がよくなかったのでしょうが、局所的な気候については、緯度・経度のほかに、周辺の地形やそれに伴う大気の循環など、さまざまな要因が関連してきます。日本列島温暖湿潤気候に分類され、季節風の影響で季節の特徴が際立った気候状態になりますが、イタリア等と比較して大きく相違するのは、やはり一年を通じて降水量が高いことでしょう。適度な気温と豊富な水、変化に富んだ地形が多様な環境を生み出し、生物多様性を高度に実現していると考えられます。

里山が放棄されていったことについて、最近たびたび耳にする「市街地にイノシシや鹿が下りてきて暴走する」というのも、里山消失に関係するのでしょうか。

関係しますね。かつては、いわゆる野生の領域と人間生活領域が、里山的なものによって明確に区分されていたものが、その衰退で緑が繁茂したことにより曖昧になり、野生動物の増加と里への進出を引き起こしていると考えられています。例えばイノシシやクマの里への出没を防ぐためには、山と里との境界付近の下草を刈っておく(バッファゾーンを設ける)ことが有効とされ、多くの地域で実践されています。下草がないと、イノシシやクマは自分の身を隠せないため、警戒して里に近寄らなくなると考えられています。

最近は交通網の拡大によって都市へのアクセスがよくなり、必ずしも都市へ住む必要がなくなったので、都市化を目指す思考から田舎へ回帰する思考へ移る可能性があると感じている。農村が忘れられた影響は、これ以上広がりをみせないのではないか?

柴草山の集合的アムネジアにおいて特徴的なのは、その記憶喪失都市部だけではなく、農村においても起きているということです。これは、農村生活サイクルが変化したために、生業と密接に結びついた柴草山の記憶が塗り替えられてしまったものと思われます。すなわち、都市農村の対立だけが問題ではないわけです。それから、確かに近年ユーターン現象も多く聞かれるのですが、日本列島全体でみた場合には、政治・社会・経済の中央化が著しく進行しています。例えば、東日本大震災以前には真剣に議論された首都移転問題、道州制導入の問題などがまったく聞かれなくなり、地方自治の力はむしろ弱められて、国権のみが強化される一方となっています。中央/地方の格差は、むしろ拡大していると警戒するべきでしょう。

先生は、景観が変化したことによって記憶が塗り替えられることを「リセット」と表現されていましたが、今回の桃太郎の事例のように、実際は時代の移り変わりに応じて変化してゆくもので、なかったことにはならないのではないでしょうか。

確かに、リセットはいいすぎだったかもしれませんね。しかし柴草山の問題からいうと、農村からもその記憶がほとんど消えてしまっているのが現状なのです。これは、世代論だけでは説明できない現象です。集合的アムネジアの問題は、例えば世界的には、「スパニッシュ・インフルエンザスペインかぜ)」の流行の例が知られています。これは第一次世界大戦(1914-1918)の時期に重複して起きたパンデミックですが、初めての世界大戦として未曾有の犠牲者を出した、その戦争自体の死者が2000万人ほどであるのに対して、5000万から1億の死者を出したことが知られています。しかし、世界的にその事実はほとんど忘却され、パンデミックの防衛体制のなかで活かされることも、学校の歴史教育で教えられることもほとんどありません。日本でも25万の死者を出したことが確認されていますが、一般的にも教育のうえでも、10万人の死者数である関東大震災に及ばない位置づけとなっています。こうした集合的な忘却は、政治的社会的要因が大きく関係し、想起の契機が奪われることで生じるもので、通常の経年変化より急激に起きると考えられているのです。

環境史のまとめが、最終的に、「覚えている努力をすることが大事」のような結びになってしまうのは、腑に落ちません。もっと具体的に、できることはないのでしょうか?

うーん、これも説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、上の回答も参照してみてください。つまり、集合的アムネジアは個人的な現象として起きるわけではなく、多く社会的政治的要因が関係してもたらされるのです。それを防ぐためには、メディア等によってもたらされる情報のみで世界を考える、過去を想起するあり方を改めること、情報を受動的に信用するのではなく、分析・検証する知識・能力・習慣を身に付ける必要があるのです。過去にもたらされた情報と現在供給されている情報とを比較すること、それによって当時の自分の思考と現在の思考とを相互に検証することも、大切な作業になってくるでしょう。

日本人には、自然破壊に対する自覚が希薄であるとのお話に頷きました。確かに、山や川にゴミを捨ててしまった部分もあると思いますが、富士山が世界遺産に登録されたのち、外国人観光客による汚染が問題となりました。果たして、外国人と日本人との間に、そこまで違いはあるのでしょうか?

ひとついえることは、まず、富士山がなかなか世界遺産に登録されなかったのは、ゴミ問題が原因であったということです。最近は外国人観光客によるゴミ問題が取りざたされていますが、そもそも、世界遺産登録を目指し始めた1990年代富士山の五合目以上の屎尿やゴミ問題は深刻で、それゆえに「自然遺産」での登録を諦め、「文化遺産」としての採択を目指したという経緯があるのです。ゴミ問題はその後大きく改善されたはずですが、このような衛生観念の発達を「国民性」に結びつけ、アプリオリなものとしてしまう議論には注意すべきです。1970年代公害のすさまじさを経験している世代には、このあたりは実感できるはずなのですが、この点もやはり忘却されてしまっているのかもしれませんね。

アイヌの人々を保護するという目的で作られた北海道旧土人保護法は、なぜ差別的とも捉えられる「旧土人」という表現を使ったのでしょうか?

まず、上記の法律がアイヌを「保護」する目的で作られたとは、考えない方がよいでしょう。これは前提の話です。「土人」という言葉は、もともとは漢語で現地の人という意味に過ぎませんが、中央による収奪の対象となった作物を「土毛」というように、やはり中央集権的支配とは切り離せない言葉です。「旧土人」とは、本州日本人とは異なる土人を、同じ日本人と認めるとの意味で「旧土人」としたのであり、被差別部落の人々を「新平民」と呼んだのと同じ差別的ニュアンスを伴います。

日本政府の政策によってアイヌ人の文化を失ったことは猛省すべきだが、近代国家として農耕などの文化を与えたことも事実であるので、負の歴史も正の歴史も事実として学ぶことが重要だと感じた。

それは違います。そもそも、農耕が狩猟より優れているとの認識自体、極めて限定的エスノセントリズムに過ぎないことは、これまでの講義のなかでも指摘してきたとおりです。しかも、この同化政策による農民化は、アイヌの人々の望まぬものであったわけですから、なおさらです。先住民族への圧迫を「近代国家の恩恵」で糊塗しようとする言説は、それ自体が帝国主義植民地主義価値観の反映でしかありません。「広島長崎への原爆投下によって戦争が終結し、多くの人命が救われたのだ」という言説と、構造的には何ら変わりがありません。

私は高校で歴史をとっていないので知識がないのですが、アイヌと聞いて分かることは「北海道の先住民」ということのみです。アイヌ人は顔や身体に特徴はあるのでしょうか、話す言語に特徴はあるのでしょうか。

まず大きな誤解であるのは、「民族」という概念社会的文化的なものであり、自然科学的・生物学的なものではないということです。例えば、現在国際社会で最も一般的な、エクアドル人権学者ホセマルティネス・コーボが国連への特別報告書で行った定義は、「先住民共同体人民および国民は、彼らの領土に発達した侵略前の、あるいは植民地前の社会との歴史的継続性を保ちながら、その領土、あるいはその一部に現在優勢である社会の他の集団から、彼ら自身を明白に異なっていると考えている人々」(上村英明『先住民族』解放出版社1992年)といったものです。近年のアイヌ民族否定論は、この概念に対する不勉強から起きるもので、これはやはり日本社会のなかで民族概念が充分認知されず、理解されていないことと関係があります。日本国籍自体も血統主義で、例えばアメリカなど生地主義の国では、子供アメリカで生まれれば同国籍を得られるのに対し、日本では両親のどちらかが日本人でないと取得できません(もちろん、条件が整えば帰化が認められる場合もあります)。こうしたものの考え方ともどこかで結びついていそうです。

日本国が、アイヌを先住民として公式に認めたのが2008年として、しかし教科書には、それ以前から先住民としての扱いで書かれていたと思います。教科書がナショナル・ヒストリーの現れとするならば、この矛盾はどこから来るのでしょうか。 / アイヌも琉球も先住民族であるという認識を普通に持っていましたが、国はなぜ、その当たり前の事実を認めようとしないのでしょうか。そのことに何のメリットがあるのでしょうか。

まず、検定教科書ナショナルヒストリーの提供メディアであることは間違いないとして、その記述すべてを国家主義価値付けることはできません。もしそうなら、教科書の内容は非民主的なものとなり、事実などほとんど影を潜めてしまうでしょう。そのうえで問いへの回答ですが、アイヌをめぐる教科書記述は、概ね歴史的事実を踏まえて書かれています。しかしそれが教えられることで、政府がアイヌを先住民族とは認めていなかった、琉球王朝主権国家とは認めていないということが、覆い隠されてしまうことになるのです。政府がアイヌを先住民族と認めていなかったのは、それを国連に対して正式に承認した場合、その権利を守るために果たさなければならない種々の義務が生じるからです。国連に強制力はありませんが、世界的な批判を免れるためには、これまでの抑圧の歴史を踏まえた謝罪、保障も必要になってくるかも分かりません(このあたり、日本のアイヌ政策は、未だアイヌの人々にとって満足のゆくものには至っていません)。琉球の場合も同様で、同王朝主権国家であった、すなわち日本はそれを侵略し併合したのだということを認めてしまえば、基地負担を一方的に求めることはもちろん、場合によっては独立をさえ許容しなければならない。こうした政府にとっての「弊害」を回避したい目論見を覆い隠す、教科書はそうした役割を担っているともいえるのです。

他の講義でも聞きましたが、琉球の人々については、アメリカ人だけではなく日本人も差別的に接していたと思います。これについてはあまり教わりませんが、琉球の人々への差別については、具体的にどのようなものがあるでしょうか。

沖縄文化が広くみなおされてゆく90年代以前には、就職結婚などをめぐって、沖縄出身者が不当な差別を受けることが多くありました。戦前、戦中においては、ハジチ女性に成人儀礼としてなされる入れ墨)など沖縄独自の習俗が未開なもの、原始的なものとして嘲笑されたほか、歌垣のような婚姻習俗を不道徳なもの、性的な乱れとして糾弾する発言もありました。昨年の「土人」発言をみても、この差別的感覚は現在も生きていると考えられます。

2016-12-14 全学共通日本史(16秋)

環境史の研究は、世界ではどのようになっているのでしょうか。

進んでいます。日本研究の歴史のところでも少しお話ししましたが、歴史学の世界的な展開においては、日本はむしろ立ち後れていて、社会史の関係のなかで勃興してきたにすぎません。欧米では環境問題自覚が、破壊責任とともに早かったので、環境史の開始も早かったといえます。それに対して日本では、唯物史観流行のなかで社会経済史が強く、その価値観においては開発が肯定されていた面もあり、90〜00年代に至るまで本格化しなかったのです。

私の父は、秋田県で製材業をしているのですが、父はある程度の伐採は必要であると話します。森林伐採に対してマイナスのイメージを持っていたのですが、効率よく伐採して若い木の成長を促進させるには、実は環境に優しいそうです。

これはですね、あくまで林業を展開する価値観において、ということなのです。林業のために植林をし、一種類の樹木に特化した山は、それだけでかなり無理のある環境なのです。下草をとって杉が生育しやすいようにし、また間伐を行って、限られた栄養のなかでできるだけ杉を成長させようとするわけです。その目的においては、人間が手を入れなければ、確かに山は「荒れて」しまいます。しかし、これをすべての森林適用することはできません。例えば東京の神宮の森は、近代になって新しく作られた森ですが、人間の手が加わらない、できるだけ関東気候・地形に適応した自然の森を目指して設計されました。以降、道に積もった落葉を除けるだけ、それ以外は一切人間の手を加えない形で、樹木群が自分たちで遷移を行い、極めて豊かな生態系活動していることが確認されています。これも当たり前のことですが、人間が関与しなければ、森林が生育できないなどということはありません。

自然に生えているマツは、病気になったり枯れてしまうこともあると思います。そうすると、マツの花粉量は少なくなってしまうと思うのですが、測定に影響を及ぼすことはないのでしょうか。

1万年に及ぶようなデータを集積してゆきますので、前後の情況から、異常事態があれば推測できるわけです。寒冷化温暖化は数百年のスパンで変動しますので、病気などによる限定的な変化は、さほど問題になりません。それこそ、異常事態として認識できるような変化に至れば、それは自然状態ではないと分かるわけです。

北方の寒冷な地域ほど、自然環境が豊かであるという印象を受けますが、それが事実とすると、それは単に地理的要因からだけでしょうか。

確かに、寒冷な地域ほど人間活動限定されますので、人間自然への圧力は小さいということはあります。しかし、それは熱帯地方も同じで、赤道周辺の熱帯雨林人間活動を阻み、地球における最も大きな酸素供給地帯になっていることは、よく知られていることでしょう(しかしその熱帯雨林も、さらなる温暖化=感想化と人間活動の拡大により、近年大幅に減少しつつあるわけですが)。北方でも、タイガ森林限界に達するような低温になると、ツンドラ地帯が広がり諸生命活動は抑えられてゆきます。人間活動が最も活発化するのは、環境の条件があまり苛酷ではない、温帯を中心とする地域でしょう。それゆえに、温帯地域には都市が拡大し、自然環境破壊されてゆくことにもなるのです。

移動から定住へ向かうには、川や海の近くの土地が重視されたことは理解できる。しかし古代において、どうして山がちで、大坂などより気温差の大きい奈良や京都に都が作られたのでしょうか。

そのとおり、縄文期に定住が開始されるのは、水の周辺においてです。春から夏は漁労を行える水場に近い場所に、秋から冬は最終や狩猟が行いやすい山麓森林地帯生活するという、半定住が始まってゆくわけです。なお、奈良山城盆地を大きく「海と離れたところ」と捉えてしまうと、確かに水と隔絶しているような印象となりますが、盆地にはたくさんの河川が流れていて水場は多くあります。とくに京都などは、桂川鴨川に挟まれ、南半分は常に水害に見舞われていたような場所で、前近代には、巨椋池という巨大な湖沼地帯を備えていました。むしろ、水が極めて豊富な場所だったのです。

都などを造るにあたって、労働力はどのように確保していたのでしょう。戦などをして手に入れたのでしょうか。

古代、ということでしょうか。古代であれば、「役民」と呼ばれる労働力として、強制的に差発されました。基本的には雇役の形式で、諸国国司を通して徴発され、中央へ派遣されて必要な現場へ配属、決められた日数で労働奉仕します。その間、賃金である功直と食糧が支給されますが、功直は1回の雇役の終了後にまとめて支給されるため、労働条件としては厳しく、逃亡が相次いだ記録が残っています。また、都への往復については自弁であったため、行路に窮乏して倒れる者、死亡する者が多かったことも史料みえます。

水田や古墳を造るために山を切り崩したと仰っていたが、今でも山を崩すためには重機が必要なのに、そうしたものがない弥生時代、古墳時代にどのようにして開発を行っていたのか疑問に思った。

重機などは便利ですが、その便利さの内実は何かといえば、大勢の人間が長時間かけてしなければできないことを操縦者1人いれば短時間でできる、その効率性にあります。逆にいうと、現代感覚で求められるような効率性を度外視すれば、大勢の人間が長時間をかければ、人の手持ちの道具のみで可能作業なのです。

古墳には木々が生えているイメージなのですが、あそこに生えている木は、もとからあったのではなく、あとから形成されたのでしょうか?

あとから形成されたものです。古墳の墳丘は、例えばある程度の規模の前方後円墳などでは、幾つかの段からなる幾何学的な設計構造で、表面はほぼ石敷き、そのうえに埴輪や装飾用の木製品が立て並べられています。現在のようなこんもり緑の茂った姿は、そうした状態を維持する努力が失われたあと、木々が呑み込んでいった状態なのです。

古代の環境破壊は、自然を使いつつも共存するという意識が、人々の内にあったのではないかと思います。

現在でも、自然との共生を願って抑制的な生活をしている人もいれば、環境破壊を何とも思わない人もいます。古代においても、いろいろな考え方を持った人がいたでしょう。すでに自然のバランスを崩すのはよくないという発想は、紀元前中国存在しますので、列島文化にも将来されたか、あるいはもともと醸成されていた可能性もあります。しかし一方で、自然人間のもとに屈服させようとする考え方も存在しました。天皇制などは、まさにそうした考え方、自然象徴である神を天皇に従わせる、従わなければ殺してしまってよいというイデオロギーのなかから生まれたことは、古代研究を通じて明らかにされています。

寒冷期は樹木を犠牲に得た稲からの恩恵も少なく、さらに暖をとるための薪炭材も必要であったと思いますが、どのようにバランスをとったのでしょうか。バランスがとれなかったから、はげ山ばかりだったのですか。

時期や地域による相違もあると思いますが、次の回の講義でお話ししたように、草肥=刈敷を得るための柴草山が大規模に展開するなかで、各地で災害が相次ぎ、バランスは崩れかけていました。幕府や諸藩が禁止令を出し、植林奨励するなかで、ギリギリのところで調和が保たれていたり、あるいは破綻回復を繰り返したりが続いていたわけです。東北地域では、材木薪炭材伐採のため、17世紀の時点で山林資源が枯渇しかけており、これも伐採禁止令とのいたちごっこで、破綻回復を繰り返していました。そうした意味では、やはりバランスはとれていなかったと考えるべきでしょう。

森林が減ると地球温暖化が進行すると思うのですが、例えば授業で扱っていた、17世紀の情況などはどうだったのでしょうか。

地球温暖化は、森林の枯渇だけで起きるわけでもなければ、日本のみの環境状態で左右されるわけでもありません。まず前提として、地球エネルギー供給する太陽活動の変化、オゾン層代表されるような大気に内在する諸要因、噴火によるエーロゾルの増加、海洋の変動など自然的要因が大きくあります。中近世移行期以降の寒冷化は、その大きな情況のなかで起きているもので、森林の枯渇は、全体としては大きな影響を与えなかったものと思われます。舗装ではなく、地表面に土や木(木造の建物など)が多く残っていたことも、熱吸収に効果的だったでしょう。しかし、夏期の局所的な影響はあったはずで、人々の体感温度がどのようであったか、その微細な部分については、今後研究の必要なところでしょう。

和歌や文学作品に登場する山は、森林ではなく草山や柴山だったのでしょうか。

例えば『万葉集』など、自然との精神的な繋がりを歌うものが多いとされていますが、その歌が多く詠まれた藤原京時代などは、周辺の山林の大径木が枯渇状態にあったらしいことは、すでに判明しています。すでに藤原京造営の時期から、遠く離れた近江の山林地帯にまで、必要な材木を求めに行かなければならなかったのです。有名な藤原宮を祝福する「藤原宮御井の歌」では、大和三山のひとつ耳成山を、「耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり」と歌っていますが、「青菅山」とは「青々とした菅の山」の意味、すなわち柴草山のような低植生の山のことと思われます。恐らくは高木の生えていたはずの山が、伐採を経て低植生となっていたものでしょう。それを「神さび」、すなわち神々しいと歌っているわけです。古代においては、未だ柴草山は一般化していませんが、低植生の山々を「青山」と表現する場合もあったと考えられます。

野焼きをするということは、辺り一面を焼くことで多くの樹木を失わせてしまう。野焼きを考えた人は、自然に対してどのような思いを持っていたのか、気になりました。

野焼きは、際限なく周囲を焼き尽くしてしまうわけではありません。予め焼く範囲を決め、その周囲の木々を伐り倒し、燃焼性のものを取り除くなどして、延焼を防ぐ手立てを講じておきます。野焼き後の土壌は化学変化を生じ、植物の育成に適した状態となるので、これが死と再生論理・思考に大きな影響をなし、女神の屍体から主要作物が化生するという「殺された女神神話」などを生み出してゆくとの見解もあります。よって、野焼きを行う人々が自然を軽視している、自然敵対しているというわけでは決してありません。

江戸幕府や諸藩が、植生についてこれほどしっかり調査をしていたのは、問題意識が高かったためですか。

正確に土地生産力を調査し、租税をしっかりと徴収するためです。ゆえに正保の国絵図・郷帳を生み出した検地は、中近世移行期の人々の自然観、心性を大きく転換する画期であったと思います。

先生が木材のことを、「樹木の遺体」といっていることに、違和感を覚えました。

えっ、遺体ですよね、木材も含めて。皆さんの食べている肉は、動物の遺体ですよね。皆さんは、生命の遺体のなかで暮らしているわけですよね、概ね。

熊沢蕃山など、高校日本史でも学ぶような有名な人物が日本の森林について発言しているのに、それらの事実が教科書などで教えられないのには、何か理由があるのでしょうか。

環境研究があえて排除されているからではなく、やはりナショナルヒストリーにおいて重要なのは政治史である、他の分野の研究の参照は最小限に止める、ということなのでしょうね。そうした考え方が、未だに旧態依然状態で残っているわけです。

農業が衰退したくらいで、森林が復活するのでしょうか。植林はまったく行っていなかったのですか?

授業でもお話ししましたが、戦後林業国策的に拡大する目的で、杉の植林を大規模に行っています。しかし最近は、他国安価木材に圧されて林業も衰退、これを管理する労働放棄されて、荒れ放題の山林が日本中存在しています。ここ十数年の間にも、農業の衰退で農村森林が拡大、野生動物戦後類をみないほどに活動活性化しているのはご存知のとおりです。それだけ、列島の経緯が絶妙である、ということでしょう。

2016-12-07 全学共通日本史(16秋)

『日本書紀』などの昔の書物が、どれが写本でどれが原本に近いなどのことは、どのようにして調べるのでしょう。

まずは、最も古い写本が基準になります。あとは、各写本、刊本などを比較対照してゆく作業ですが、例えば、まとまった写本としてそのまま残っていなくとも、最古の写本と同時代、もしくはより古い時代の文献に、例えば『書紀』の文章が引用されて出てくるということもある。そうしたデータをできるだけ広く収集して、訂正・修正を繰り返してゆく作業となるわけです。

『日本書紀』には当初から捏造された部分が多いとのことなのですが、そんな文献を利用する意味があるのでしょうか?

授業の最初のほうでもお話ししましたが、いかに虚偽の部分の多い文献でも、それが作られた時代・社会の事実を伝えているのです。これまでお話ししてきたことも、『日本書紀』と、その他の文献との比較検討によって明らかになったことであり、『日本書紀』がなければ、何も判明しないに等しかったのです。たとえ「偽書」と呼ばれるようなものでも、歴史学においては大変に重要な史料となります。

蘇我蝦夷が、統制のために、山背大兄ではなく、田村皇子だけを支援したというお話がよく分かりませんでした。両者とも蘇我氏の人物ならば、どちらも支援して、それぞれ地位を上げてもらったほうが、蘇我氏の利益になってのでは? / 山背大兄が摩理勢に自殺を説得した、というのはどういうことでしょうか。

田村皇子には、蘇我氏の血が入っていません。当時、蝦夷は馬子から大臣のポジションを受け継いで間もなく、朝廷を把握しきれずにいました。推古大王の残した遺詔が、次期大王を山背大兄に継がせるのか、田村に継がせるのかはっきりしなかったために、朝廷内部に政治的な軋轢が生まれ始めていました。そこで蘇我氏系の山背を推すことに不安を覚えた蝦夷は、彼を「いずれまた機会はある」と説得し、田村を推すことにしたのです。しかしその結果、蘇我氏内部の方に分裂する事態が生じました。境部臣摩理勢は、自身が馬子に次ぐナンバー2であるとの自負があったようで、蝦夷の風下に立つことを快く思っていなかった節があります。そこで山背を擁立しようとしたわけですが、当の山背が皇位継承争いから身を引いたために梯子を外される形となり、一族の決定に背いて混乱を招いたかどで蝦夷に追及され、泊瀬仲王の邸宅に逃げ込んだ挙げ句、山背の説得を受けて自邸に戻り、命を失うに至るのです(ぼくの説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、自殺するよう説得したのではなく、抵抗を止めて自邸に戻るよう説得したのです。『書紀』によれば、このとき山背は、「お前が大事に思っている先王は、『もろもろの善をなせ、もろもろの悪をなすな』と遺言した」と、厩戸言葉を持ち出しています。これを穿って読むなら、やはり厩戸と摩理勢は外交という任務を共にしていたのだといえるかもしれません)。この事件の余波は大きく、恐らくは摩理勢とともに外交に当たっていたと思われる、朝廷において蝦夷に次ぐ地位の阿倍臣麻呂が蘇我氏への協力を見直し田村=舒明の政治グループに入ってゆきます。事態を傍観していた蘇我氏のナンバー3、倉山田石川麻呂も本宗家に対する不信感を強めてゆきます。この阿倍麻呂と蘇我石川麻呂が、乙巳の変のクーデターにおいて、田村=舒明の息子である中大兄を支える二大勢力になるわけで、大化の改新への動きはここから始まったと考えられるのです。

蘇我氏の人々は、ウマコやエミシ、イルカなどというように、およそ人ではない名前が付けられていて、これは『日本書紀』が改竄されたためだとの見解を読んだことがあります。歴史学的に信憑性はあるのでしょうか。

ありませんねえ。馬子の「馬」については、聖徳太子厩戸王の説明でもお話ししたように、古代においては王の権力、とくに軍事的な力の象徴でした。それを名称に持つのは、その人物の強力性、勇猛さを表現していると考えられます。エミシについても、実は「蝦夷」という漢字を当てはめられる以前のエミシについては、勇猛な人々との意味があったようです。当初、東国の人々をエミシと呼び習わしたのは、その地が肥沃であり、勇敢な人々が住むと考えられていたためです。よって奈良時代においても、佐伯今毛人=サエキノイマエミシなど、エミシ名を持つ中央貴族は存在します。蘇我氏族長の名乗る名前として、まったく不思議はありません。ただし、「蝦夷」という漢字表記は、彼を貶める意味で使用した可能性はありますね。イルカについては、現在の海洋動物イルカを指すものか、あるいは鹿に関わりのあるものか不明ですが、シャチやイルカについては、古代人によって海の神霊、海の主と考えられていた形跡があります。また鹿は、弥生時代以降、地霊の代表的存在でした。古代社会においては、動物は現在のように人間の道具ではなく、たとえ狩猟の対象となったりしても、尊び敬うべきものと認識されていたのであり、その名称を自らの名前とすることは世界的に確認できる現象で、別に貶めているわけではないのです。

仏教が伝来した頃の仏像は、聖徳太子をモデルに作られたと聞いたことがあるのですが、それは太子が当時から神格化されていたということでしょうか?

法隆寺救世観音像ですね。厩戸王が創建したと考えられる、あるいは創建に関与したと考えられる寺院では、宮廷一般よりも早期に彼の神聖化が始まったと考えられます。太子救世観音に見立てるのはそのうちのひとつで、一種メシア信仰です。元来は如意輪観音という、あらゆるものごとを思いどおりに成就する如意輪=仏教の象徴を持った観音ですが、末世の混乱から仏法により世界を救済するとの希望が託されたのです。その背景にも、当時の古代国家が東アジアにおける国際的緊張のなかで抱いた危機感国内政治的混乱があるように思われます。

飛鳥寺釈迦如来坐像の顔の部分が、恐らく当時そのままだとのお話でしたが、どのような調査で判明したのでしょうか。

2012年早稲田大学のX線調査で、飛鳥時代創建当初のものといわれる箇所と鎌倉時代新造箇所といわれる部分を比較したところ、金属成分にほとんど差違がないことが分かりました。また今年の大阪大学のX線調査で、それらの成分が鉛とスズの割合が高く、飛鳥時代の他の止利派仏像の特徴に近いことなどから、顔の大部分と右手が造立当初のものと判断されるに至ったのです。

聖徳太子と聖書との関係に注目したという久米邦武の論文を、少しでもよいので紹介して下さい。

久米は、明治38年(1905)刊行の『上宮太子実録』で、隋唐の時代中国に入ったネストリウス派キリスト教=大秦景教を遣唐僧が持ち帰り、一種翻案の形で聖徳太子伝説が作られたと述べています。とくに、『書紀』よりあとの『聖徳太子伝暦』など太子伝におけるエピソード間人皇后への夢告や厩舎での誕生譚などは、「聖書の焼直し」であると断じています。この種の考え方は在野の歴史愛好家の間でも根強く、例えば渡来系秦氏キリスト教徒とみて、太子の側近的な位置にあった秦河勝が、これらの物語創作したのではないかとの見解もあります。

ヨーロッパには、「自然の支配は神によって認められている」との発想があるが、日本列島における環境破壊に対する認識の希薄さは、いったい何に由来するのだろうか。

非常に重要な質問です。非常に単純な答え方をすると、これは自然環境に対する依存度の強さです。各時代気候変動、列島内の位置によっても微妙に異なりますが、しかしおしなべて、日本列島生命の生育において「実に絶妙位置」にあります。すなわち、人間環境にその爪痕を残しても、たいていの場合は、数十年経つうちに回復してしまう。そのことによって、列島に暮らす人々は、自分が、祖先環境に対して何をしてきたか、容易に忘却してしまうことができるのです(これは、歴史意識の希薄さにも繋がってきます)。そうした忘却の繰り返しは、また、「自然には何をしてもよいのだ」という甘えを助長してゆきます。このようにして、あたかも乳飲み子が無邪気に母親生命を貪るように、日本列島の心性には、自然への愛情と過度な破壊、それに対する自覚責任感の欠如が同居しているのです。

日本古代の氏族制と、現在でも各地に残る部族制とでは、何が異なるのでしょうか。

社会が氏族共同体を軸に構成されているという意味では、基本的に同じです。しかし日本古代において氏族制という場合は、古代国家の運営氏族によって担われているというニュアンスが強いですよね。すなわち、一定知識能力をもとに官僚と認められた集団が、その役割に応じて幾つかの官職に編成され国政を担うという官僚制に対し、一定知識技術に秀でた世襲氏族集団がその特性に応じ、集団として国政を分担するというのが氏族制です。前者においては、例えば中臣氏のAという人物が仏教行政に秀で、試験合格して官僚となれば治部省という仏教を管轄する役所へ配属されますが、後者においては、神祇祭祀を担う氏族の一員である中臣氏のAは、父祖と同じく神祇祭祀を通じて国家へ奉仕することになるわけです。

なぜ古代の人々は、夢のお告げや神のお告げを信じるようになったのでしょうか。

それが歴史というものです。すなわち、世界観宇宙観、価値観、何を真理と考えるかは、時代によって大きく異なるのです。神霊が夢によって人間に何らかの情報をもたらすとの考え方は、東アジアでは、前11世紀以前に遡る殷帝国から存在します(その甲骨文字なかに、夢にて託宣を受ける概念が見受けられるのです)。夢という不可思議体験が、身体から離脱神霊世界と接続する事象だと考えられたのでしょう。王権成立以降、王やシャーマンに担われていた神秘体験である夢見は、やがて社会階層的に下方へ浸透してゆき、それとともに夢解きの知識技術も成文化されて詳細化、多くの解夢書などが書かれてゆくことになります。鎌倉時代、南都仏教復興立役者のひとりであった明恵などは、自身の夢を書き留め分析した『夢記』を残していますが、慈円法然、親鸞などにも、重要な夢告をまとめた文献などが存在します。

ある授業で、前近代には森林伐採=悪とは考えておらず、そういう概念は最近のものだと習いました。『もののけ姫』の関連なのですが、実際のところはどうなのでしょうか。

確実にありますね。近現代的な意味での〈悪〉とは異なるかもしれないのですが、日本列島においては、すでに古代の時点で、自然環境に対する開発により神々との軋轢が生じるという、『もののけ姫』を地で行く伝承が確認できます。これらは、開発に対して自然表象する神々が怒って災いを下し、それを天皇権力などを通じて抑え、正当化するものなのですが、まず神々が開発に対し災いを下すこと、そうして正当化をしなければいけないところに、伝承を生み出し維持していた人々の罪悪感をみることができます。また東アジアまで範疇を広げると、春秋戦国諸子百家時代に、自然環境調和を乱す人間の賢しらな行為が災いを招く、という考え方がみえます。儒教には人為を是とするものもありますが、老子墨子といった思想家は、例えば人間が器械を発明し開発を合理化させることに対しても激烈な批判を加えています。開発=悪といった思想は近年のものという考え方は、単なる無知以外の何ものでもありません。

「大王」から「天皇」へ表記が変わったのは、なぜなのでしょう。

天皇」という称号は、一般的には、天武持統朝から使用され始めたと考えられており、このことは同時代の出土文字資料である木簡から確認されています。「天皇」という言葉自体は、道教の至高神格である天皇大帝(北辰)に由来するとみられていますが、実は7世紀の後半、唐や新羅でも帝号・王号として使用された痕跡があります。天武も、そうした東アジア趨勢に従って自称したのでしょうが、もうひとつその内実の変化として注目されるのは現御神、すなわち生きた肉体を持った神という認識を身に纏うことです。古墳時代の時点で、亡くなった大王の霊魂はカミになるとみなされていましたが、現実の大王は、その力に支えられて政治を行うに過ぎませんでした。しかし、柿本人麻呂らの天皇即神表現(「神ながら」「大王は神にしませば」などの形式を伴う)を持った和歌(かつては単なる娯楽ではなく、儀式の場で披露され、政治的宗教的意味を持った)が、天武・持統を神として称賛し、また直接高天の原から降った神格と歌うこと、それに見合った神話祭祀儀礼などが整備されてゆくことで、「生きた肉体を持つ神」のイメージが構築されてゆくわけです。その一点においても、天皇と大王とはまったく異なる存在であったのです。