来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2017-07-21 歴史学特講(07/21分)

「人はみんなマイノリティである」という話から、マイノリティの線引きがどこからなされるものか気になった。

何かと何かを区別する線引きは、常に相対的なものです。マイノリティは直訳的には少数派ですから、ある情況においてはマイノリティであった人々が、別の条件のもとではマジョリティになるということも、もちろんその逆もありえます。しかしこの授業では、マイノリティを抑圧されるもの、その抑圧の経験を通じて他者と連帯するものとの定義を与えました。これは、人々に自覚を迫る倫理でもあります。マジョリティにアイデンティファイして安心立命を得るのではなく、ひとりひとりが他とは異なるマイノリティであるとの自覚をもとに、多様な価値観を認め合ってゆこうとの呼びかけです。

訳書も原書も読んだことがないので偏見かもしれませんが、宮本常一がクロポトキンに傾倒したのは、クロポトキン自身の思想でしょうか。それを訳す際、大杉栄は自分の思想と混同しなかったのでしょうか。

クロポトキンについては、当時原書で読んだ人も少なくありませんでしたので、大杉栄意図的に自らの思想を忍び込ませたということはありません。しかし面白いことに、宮本常一は『相互扶助論』を大杉思想として受容したようです。同訳を収録した1964年刊行の『大杉栄全集』第10巻(現代思潮社)に寄せた回想のなかで、宮本は、「この書物の著者はクロポトキンであるはずなのに、私には大杉栄のような気がして、頭の中では区別がつかなくなってしまった」と述べています。

有島武郎が遺したアイヌに関する本とは何でしょうか、教えて下さい。

未完成の絶筆となる「星座」という作品です。有島が未だ札幌農学校学生であった1900年、友人たちと千歳川沿いを旅行し、北海道旧土人保護法のもとで苦しめられるアイヌの姿をみたことが、執筆動機となっていたようです。保護法の立場に基づいて北海道経営推し進めるべき農学校で、有島は、「􀀀正直にして朴敬、勇猛にして多情なるアイヌの遺民が長髯を振ふて山中の􀀀自然と勇ましき戦闘を為し、酷薄なるシャモ(彼等が日本人を指して云ふ語)の蛇の如き毒手を避け居る有様は、転た愁痛にして清新なる一篇の詩に御座候。小子は例の自然癖に不堪独り後れて呻吟しつゝ心中無限の慰藉を得て孵化場に着仕候」と、日本人に対して批判的、アイヌに対して同情的な見解を述べています。

震災後の日本はやたら愛国心を煽るような言説が増えたように感じますが、大きな災害の後は差別やクリアランスに繋がる言説が広がるものなのでしょうか。

その傾向は強いようです。人々が災害の前にうちひしがれ、不安を払拭し自信を取り戻そうとする過程で、保守的になったり、あるいは〈大きなもの〉に依存することで、救済されようとしているのでしょう。また、災害によって長い期間にわたって社会に蓄積されてきた歴史性が崩れることから、権力の側にとっては都市や制度、そうして人々の記憶さえも思い通りに作り変えてゆくのに都合がよいのでしょう。ぼくは集合的忘却と呼んでいますが、記憶や心性のクリアランス、あるいはリセットが、災害の直後に大きく進むことがあります。関東大震災のときには、それによって大正デモクラシー雰囲気が失われ、国家総動員体制が醸成されてゆきました。東日本震災以降の社会の激変のなかでも、私たちは、震災以前に社会で何が問題化していたのか、想起しにくくなっています。

広島では原爆に関することが平和学習と題して行われ、クリアランスをせず、できる限り克明に原爆を伝えようとしてきました。最近では、資料館の原爆人形を除去するなどのクリアランスも行われていますが…。

そうでしょうか。例えば、授業でも扱った基町・相生通りなどは、かつて存在したバラックが一掃され、清浄公園河川沿いの遊歩道として整備されています。これはやはり昭和30〜40年代平和復興の名のもとに、広島市内の各河川沿い、広島城の御堀端などに集積されていた不法バラック(原爆被害によって家を失った人々が、バラックを建て失業対策事業労働などで生活していた)を一掃する計画が立てられ、実行された結果です。当時市会議員であった任都栗司が、基町のバラック群を「原爆スラム」と呼んで差別し、あたかも戦後復興の汚点であるかのように扱って、クリアランスの対象との雰囲気を醸成してゆくわけです。バラック群のうち、最後まで残った基町には、強制退去させられた人々が流入してゆきますが、昭和40年代になると同所では、その密集性から大火が置きやすくなってゆき、焼け跡となった場所は市によって厳しく立入が禁じられるようになりました。別に市を疑うわけではありませんが、明治東京においても、スラムが大火を契機にクリアランスされることが相次ぎ、行政による放火だったのではないかとの説もあります。経過が似すぎていて、少し怖ろしい気がします。

現在、『この世界の片隅に』など、反戦を想起させるような作品がよく取り上げられている気がする。新安保法案などから、社会が反戦ムードに傾いたのだろうか。それとも、戦争から70年以上経ち、我々が先の大戦と向き合えるようになった、客観視できるようになったからなのだろうか。

戦争映画テーマの変遷を辿ることは、日本世界の人々の戦争観を探るうえで有効だと思います。ぼくが育った1970〜1980年代は、ベトナム戦争後の冷戦期で、世界は常に核戦争危機に直面していました。50年代以降、例えばハリウッド映画は、連合国側を正義とするエンターテイメント戦争映画量産していましたが、核戦争危機が最高潮に到達した80年代初頭になると、戦争による未来の破滅を警告する作品が多く作られるようになります。その前後、ベトナム戦争の狂気を描いたフランシス・コッポラ地獄の黙示録』、マイケル・チミノディア・ハンター』、そしてオリバー・ストーンプラトーン』など、反戦テーマとした作品が次々と生まれるようになりました。そうした大きな流れからすると、現在の『この世界の片隅に』などをめぐる動きは、社会全体の右傾化に比べ非常に小さなものに映ります。しかし、同作品がクラウドファンディングによって制作され、ミニ・シアター数館の上映から始まって口コミで全国興行化していった事実は、極めて大きな意義のあることと思います。

日本国内での差別が、戦後こうした形でなされていたことに驚いた。そして逆に、70年でここまで倫理観が育ったことにも驚いている。

うーん、そうなのでしょうか。ぼくには、逆に倫理崩壊しているように思われてなりません。あるいは、表面的な体裁は整えられていても、内実は極めて酷いことになっているのではないでしょうか。ヘイトスピーチを主導してきた人種差別団体トップが、東京都知事選に出馬して114171票も集めてしまうのですから。

2017-07-17 超域史・隣接学概説III(07/17分)

吉見裁判の件、歴史学の専門家ではない政治家によって、研究の成果が云々されることに疑問を感じました。結局、学者は権力の前では無力なのでしょうか。どうにか権力に立ち向かえるようにならないでしょうか。

自然科学社会科学人文科学の各学界が、垣根を越えてしっかり団結することが大事なのだろうと思います。しかし現実には、諸科学の分野によって、国から多くの補助金を受け、それで研究が成り立っているところもあるので、なかなか難しい。補助金問題は、国公立はもちろん、私立大学にまで及んでいますので、学問独立を守るのは非常に難しい情況です。また人文科学の場合には、どうも研究者と社会との繋がりがうまく保たれていないのではないか、という懸念があります。人文科学無用論は経済界には根強いですし、一般にも「趣味の分野だ」という印象が広がっている。上半期にも、「学芸員は癌」との閣僚発言がありましたしね。就職活動においても、人文は役に立たないという認識が、学生にも保護者にも、場合によっては企業にも強固にありそうです。しかし、例えば歴史学などの基本的スキルは、情報収集力、情報分析力、その情報に基づく論理的思考力、構築した歴史像を効果的に表現できるプレゼン能力文章力などですから、あらゆる職業・職場において応用可能なもののはず。そのうえで専門的な知識があるわけで、本来「鬼に金棒」なのですが、そのあたりはうまく認知されていないようです。人文学で培える知識能力現実社会でいかに活用してゆくか、それが政治・経済・社会にいかなる貢献をなしうるのか、もっと戦略的に訴えてゆく必要があるのかもしれません。

現前する世界は実体ではなく、観る者によって違うという話を聞いてから、自分のいる世界はいったい何なのかという、よく分からない疑問でいっぱいになってしまい、そのなかで歴史を使うということが結局どういうことなのか、こんがらかってよく分からなくなってしまいました。

高名な哲学者思想家が長年議論し続けている問題ですので、そう簡単に答えは出ません。とにかく、言葉に対してもっと敏感になること、周到な注意を要することだけは、しっかり自覚的に行った方がよさそうです。個人的には、もし世界言葉によって構築されており、我々がテクストの向こう側に直接アクセスすることができないとしても、我々が過去に書かれたものを読めるということは、その網の目のような構造には時間性があり、現在の我々と過去のあり方とが何らかの形で繋がっている、その繋がりを言語自体が反映していることは確かです。よって理論的にも、過去の探究可能であることになります。歴史叙述、あるいは歴史研究産物が、そのままの過去ではありえないとしても、それが過去を何らかの形で代理的に表象することはありえます。その表象蓋然性をめぐって研究を繰り返し、意見交換を繰り返してゆくことは、決して無駄ではありません。

この世界は常に言葉によって規定されている、ということは、私もときどき考えます。結局、いま、思考している私は私が認識した世界に基づいて思考している以上、他者とわかりあえないのではないだろうか、と思うのですが、歴史学と直接関係ないかもしれませんが、先生の考えを伺いたいです。

確かに、他者との理解を完全に達成することはありえません。しかし、他者理解しえないがゆえに他者なのだと考えれば、それは当然のことといえます。もし他者を完全に理解できたとすれば、論理的にはそれは同一化・一体化以外にはありえず、その時点で他者他者ではなくなってしまうからです。理解しえない部分があること、それをしっかりと自覚することが、実は大切なのではないでしょうか。また、理解しえないことが、そのままコミュニケーションの不全を意味するわけではありません。現に我々は、その理解しえないたくさんの他者と、日々意思疎通を図って生活をしてきています。当たり前のことですが、その些細な事実も非常に大切であると思います。

ラカプラは、〈歴史叙述=記述的な過去の再構成〉という見方について、「現実を再現=表象しようとする際の虚構に無自覚で、最も常套的な物語構造に依存している」点を批判したとのことですが、彼はこのようなあり方をまったく否定したのでしょうか。

ラカプラの批判は、歴史叙述の物語り性に対する、歴史学者自身の無自覚に向けられています。つまり、歴史叙述を文章による過去の再構成であると無自覚に考え、それゆえに事実性ばかりを当たり前のように主張して、本来多様なはずの過去が言語によって分節され、何らかの字句・表現形式を用いて構築されてゆく際のプロセスについて、しっかり分析的に把握できていない。ラカプラはあくまでその点を問題にしているのであって(物語り性の自覚が過去の多様性自覚に繋がり、歴史叙述自体多様化実証主義だけではなく文学批評的な方法可能にする〉に結びつくという考え方です)、歴史叙述自体無効にしようとしているわけではありません。

言語論的転回の歴史学批判に対して、さまざまな学者からの回答・反論を紹介して下さいましたが、それらのうち、一般の歴史学者から最も支持されている有力な見解はどれなのでしょう。

授業でも扱いましたが、一般的には、a)歴史叙述は物語りであるが単なる虚構ではないこと、b)歴史学には反証可能性があり学問としての体裁を持つこと、などが定説的〈反論〉でしょう。しかしこれらは、結局、言語論的転回問題にした「言語世界構成機能」と、それを前にした場合の歴史叙述の意義、歴史研究正当性に関する回答とはなっていません。近年、一部の日本の歴史研究者が、あらためて言語論的転回以降の歴史学のあり方を問う議論を展開していますので、まだまだ議論は終わっていないと考えるべきでしょう。

言語は、スピーゲルのいうように過去と現在の我々を繋げてくれる道具だが、現在の解釈と過去の意図が違ってきた場合、どのように過去に近づけてゆけばよいのか。

理論だけを追いかけてゆくと次第に議論単純化してしまい、袋小路に至りがちになってしまいます。理論は常に、現実データ収集分析と対になっていなくてはいけません。何がいいたいかというと、答えは過去の厖大なテクストとの格闘のなかにあるということです。現在のセンスをもって過去のテクストに当たると、読めること、読めないこと、分かること、分からないこと、ある程度は理解できるが違和感を拭えないものなど、たくさんの発見が生まれてきます。それらと丁寧に、誠実に向き合ってゆくことによって、あなたなりの過去との向き合い方が整えられてゆくでしょう(しかしそれも日々更新解体と再構築の繰り返しになりますが)。

ピーター・ゲイの、〈歪み〉を含んだ主観が歴史の多様性を実現しうるという考えは納得できますが、歴史を考えるうえでどこまでその〈歪み〉を認めるかという線引きは必要だと思いました。 / 主観という歪みが過去のある局面を明らかにすることもあるという話だったが、「正しい」主観と「間違った」主観とは、一体何なのだろうか。

誤解があるかもしれないのは、主観とは我が儘勝手、何を考えても云ってもよいということではありません。個別主体のものの見方・感じ方を指しますが、これを可能な限り客観的なものへ近づけてゆこうとするのが、とりあえずは学問基本的態度というものです。自己恣意性、政治性などを徹底的に批判し、排除してゆくことは前提です。歴史学の場合であれば、過去に倫理的に向き合い、それを自分政治的意図で歪曲することのないよう、好き勝手に表象することのないよう注意し続ける。ゲイがいっているのは、それでも主観客観にはなりえない、なぜなら人間自体が多様な存在だからだということです。多様な人間が生きた過去が多様なのは当たり前で、それは単一不変の、それこそ客観性の権化のような数式や法則によっては探究しえない。過去の多様性表現しうるのは、人間自身の持つ多様性、たくさんの人々が過去に向かうことで生じる豊かさだけなのです。

現代歴史学の理想論と、上智の史学科で教わる歴史学はずいぶん離れていると感じます。実証主義の方法しか教わっていないので、理論的・方法論的多様性はないと思います。 / 実証主義世代の教授陣から教わっても、我々もまた同じことを下の世代に伝えてしまうことになるのではないか。

耳が痛いですね。しかし、それを「主義」にするかどうかは別として、実証学問の基本であることは確かです。大学学士課程では、まずはその実証をきちんとできるようにする、その訓練が大切なのです。またこの授業のように、たくさんの情報は発信されているはずです。学生指導教員と同じ立場に立たなければいけない、ということはありません。かくいうこのぼくも、ご指導いただいた多くの先生から破門され、独りで学問の周縁を彷徨い、そこで今も議論しあえる仲間と出会い、たくさんの先達にお世話になり、現在に至ります。大学の制度が柔軟であるに越したことはないですが、結局は学生の皆さん自身がどうするかでしょう。

上智のゼミで、史料と方法論を教えてくれるゼミはどこですか?

どこのゼミでも、学生さんからの要望があれば、きちんと応えてくれるはずです。それほど頭の固い教員ばかりではありません。

南京事件など、未だに問題になるのはなぜなのか。自虐史観にはうんざりする。慰安婦に謝罪するなど、プロパガンダに踊らされたバカのすることだ。

うーん、春学期この講義を行っていちばん受講生に身に付けてほしかったもの、自身の価値観を相対化・客観化する態度・能力をあなたが手に入れられなかったのは、ぼくの力不足のせいというべきでしょう。これからあなたがしっかり勉強して、このリアクションを1年生のときに書いたことについて、心の底から恥ずかしく思う日が訪れることを願ってやみません。

2017-07-14 歴史学特講(07/14分)

素朴な疑問ですが、どうやって火を使って耕作したのですか。水田しか知らないので、思い浮かびません。

授業でも話をしましたが、火田とは焼畑のことです。すなわち、秋から冬にかけて畑にする場所の木々を伐採し、草を刈り、これらを乾燥させておきます。冬から春にかけてこれに火を付けて焼き、残った灰を肥料にして穀物を育てるのです。

焼畑農業は日本でも行われますが、朝鮮から伝わったものなのでしょうか?中国では行われているイメージがないので、朝鮮発祥でしょうか?

これも授業でお話ししましたが、中国でも行われています。主に、森林の回復力が強い南方で盛んで、少数民族なかに焼畑を行いつつ移動する集団もままみられます。九州南部から東南アジアにかけてみられる竹の焼畑は、通常の焼畑では30年かけて森林再生するところ、10年で元の通りとなるため、竹の再生力を反映した種々の伝承が生じます。竹取物語の、姫が瞬く間に成長するモチーフもその一種で、土壌は水分を多く含むため、七夕伝承洪水伝承を伴うことも多いようです。日本ではやはり西南地域に盛んなので、朝鮮半島から伝わった可能性ももちろんあるのですが、東シナ海を介して南方から伝来した可能性も高いと思われます。

『遠野物語』の山人は、差別的なものだったのですか? てっきり妖怪の類だと思っていました。

妖怪なかには、異人を妖怪化して表象する場合もある、ということですね。昨年、今年度とジャパノロジー概論でも扱ったのですが、毛むくじゃらの人間というのは蛮人表象として世界共通です。中国では夷狄、蛮人に対して用いられ、日本も早く古代蝦夷表象の段階で受容しています。そもそも蝦夷」とは、蝦=エビのように長い髭を持った東「夷」のこと。のちのアイヌ表象にも直結してゆきます。

日本において、焼畑を行っていた人々の生活は、平地民のそれとはどのような相違があったのでしょう。

これも高校までの授業では習わないことかもしれませんが、近世初期の山村においては幾つかの一揆が起こり、幕府によって鎮圧されています。例えば、慶長19年(1614)の北山一揆、元和5年(1619)の椎葉山一揆、同6年(1620)の祖谷山一揆です。これらの地域は、基本的に非稲作社会で、共同体のありようも中世的なものを強く残していました。近世の幕府権力は、これらを石高制のもとに一律に支配しようとし、それに抵抗した在地勢力が幕府と衝突したものが、一揆として表現されたのだと考えられます。主要産物の相違は生活サイクルの相違、衣食住の相違、そして共同体における人と人の結びつき方の相違を生みますが、しかし近世山村が、異文化というほどに平地の農村との異質性を持っていたわけではないでしょう。やはり、共同体が共通の差別対象仮想敵のようなものを創り出してまとまろうとする、あるいはそれらを排除することによって、自分たちの社会のなかにあるさまざまな矛盾を隠蔽しようとする、そのために生じた虚像が大半だと考えたほうがよいように思います。

『青邱野談』の禹は、はじめ普通であったのに、山で火田民のような人々になじんだということでしょうか。『山月記』の李徴も殺人によって虎になりますが、それも被差別民になったことの譬喩なのですか?

『青邱野談』は、話の枠組みは、それこそ中国南北朝時代に作成された説話を援用したものと思います。士禍を避けて山に入った人々、苛斂誅求を受けて山に逃げ込んだ人々が、どのような状態であったのかを想像した際に、その言説の枠組みが用いられたということでしょう。物語りを構築したのは平地民の一般的な視線、もしくはヤンバンの知識人層の視点ですから、火田民を含め山にいる人々のイメージが全体的に反映されているのだとみるべきです。山に入ってしばらくすると、文明から遠離って獣のようになってしまう、しかしそこには、神仙的な超俗性も垣間見える……差別と憧れがないまぜになっている、ということでしょうか。しかしその憧れもやはりオリエンタリズム的なもので、疎外の一表現に過ぎません。なお、「山月記」の元ネタになった説話には幾つかあるのですが、その根幹はトランススピーシーズ、すなわち毛皮の着脱によって獣が人になる、人が獣になるという狩猟採集民の感覚に由来します。中国に極めて多い少数民族の虎トーテムに、人が虎になった話、虎と結婚する始祖神話がたくさん伝承されています。それらを漢民族的な視点で怪奇なものへ変質させたのが、「山月記」の源流になってくるのです。

火田民は北朝鮮でも存在していたのですか。

授業でお話しした、「火田民の多い朝鮮半島北部」が現在の北朝鮮です。地図をみれば分かりますよね。

陸羽132号が東北や北海道で試験を繰り返したとありましたが、陸羽132号の導入で東北の農業が変わったりしたのでしょうか?

それ以前とはまったく異なる情況となりました。現在、東北北陸には日本最大の穀倉地が広がっていますが、これは陸羽132号の開発に端を発するものです。同米は、メンデルの法則を用いた交配によって作られた日本初の品種で、冷害に強く品質の良い亀の尾といもち病に強い愛国をそれぞれ純系分離した、亀の尾4号・陸羽20号を掛け合わせて、1914から1921年まで選抜を繰り返して誕生しました。現在のコシヒカリやササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれなどは、すべてその系統を受け継いだものです。

インターネットもない時代で、どうやって東学党は大規模な人数を集められたのですか?

うーん、そういわれると、80年代以前には大規模な人間の会集が困難だった、という話になってしまいますが、もちろんそのようなことはないわけです。人間社会には種々の情報伝達の方法があり、最も原始的ともいうべき「うわさ」や「口コミ」も、情況によってしっかりと機能します。東学党の場合、接(チョブ、群れの意。35〜75戸ほどの集合で、伝道者/受道者の人的結びつきから構成)と包(ポ、接が集まったもの。農民は大接主を指導者に、包名を記した旗や幟に結集し行動)という2階層の地下組織があり、各地に派生して、強固かつ緊密なネットワーク形成し活動していたようです。

今日のレジュメに、東学農民の反乱を鎮圧した部隊の史料が3つ挙げられていたが、いずれも四国のものであったのはなぜでしょうか?

あとの授業でも少し紹介しましたが、東学農民殲滅戦の専当部隊となった後備歩兵独立第19大隊は、当時大本営が置かれていた広島からも近い、主に四国4県から召集された兵士でした。指揮官大隊長 南小四郎少佐、この人は長州出身で、幕末の諸戦争から伊藤博文、井上馨の指揮下に転戦してきた人物です。種々の農民反乱、萩の乱、西南の役鎮圧にも功績のあった、いわば歴戦の勇士でした。日清戦争は、日本徴兵令が敷かれてから初めての海外戦争で、普通なら現役の戦争初経験部隊派遣されるところですが、この部隊は歴戦の経験豊かな部隊だったわけです。東学党の農民兵士たちとは、戦闘力において格段の開きがありました。

誰もしたことのない分野や発展的な内容の研究を行うとき、そうした調査におけるレッドラインとはどれほどの位置にあるものなのだろうか。

自然科学の場合は、残念ながらその〈限界線〉は極めて低く設定されてしまっています。冷戦体制下では、東西陣営が相手を威嚇するため、あるいは殲滅するための兵器開発に血眼になっていましたが、恐ろしいことに、その時代のほうが現代と比べ、科学の〈進化〉のスピードは速かったわけです。あらゆる障碍を取り払い、純粋に発明・開発を追求するよう国家や社会に促され、科学者たちのもとに大金が投じられたからです。現在では、大学などでコンプライアンス研究倫理教育が強く意識されるようになり、自然科学分野だけでなくあらゆる領域において、生命尊重のみならず論文の書き方に至るまで、倫理規定の遵守が求められています。しかし、そのぶん形式化も進んでしまい、本当の意味での倫理意識は育っていないかもしれませんね。なお、〈限界線〉をどこに設定するかは明白で、その研究を推し進めることで生命の抑圧が進むのであれば、それがいかなる利益を生み出そうとも、やはり放棄しなければならないのです。

「植民地支配の最先端であった北大」という云い方がなされたが、北大をはじめ東大や京大は、帝国日本においてどのような役割を果たしていたのだろうか。

北海道大学は、1876年北海道開拓指導者養成するために設けられた札幌農学校母体に、東北帝国大学農科大学を経て、1918年北海道帝国大学となったものです。しかし上記の「開拓」がアイヌへの抑圧を含んでいたことは授業で扱ったとおりで、例えば1891年札幌農学校には日本初の「植民学」講座が設置され、北海道モデル・ケースとした植民地政策学が研究されていました。それを主導していたのが「武士道」で有名な新渡戸稲造で、彼はのちに東大植民地政策学講座の主任になってゆきます(クロポトキンのところで触れた有島武郎が、農学校時代、新渡戸に「最も関心のある分野は何か」と訊かれ、「文学と歴史」と答え失笑を買ったというのは、有名な話です)。なお、東学党首魁の遺骨が発見された古河記念講堂は、古河財閥(当時は古河鉱業)の寄付によって建てられた校舎の一部です。この古河鉱業は、二代目社長を陸奥宗光の実子、副社長を原敬が務めていた官との癒着の強い会社で、足尾銅山鉱毒事件を引き起こしたことで知られています。帝国大学への寄付は、鉱毒事件による社会からの非難を交わすための方策として、原が提案したものといわれています。アイヌ遺骨問題といい、叩けばいろいろ埃は出てくるのですが、戦前・戦時下の日本大学研究機関、企業などは、どこも似たようなものです。問題は、そのことを自覚的に反省し、将来にわたる抑止の方策を講じているかどうかでしょう。

当時の考え方に、「人道的」という側面は欠如していたのでしょうか? それとも帝国大学であったために、人種に対する研究が行われていたのでしょうか? 江戸時代から通じる「野蛮さ」のようなものが、まだ残っていたのかもしれないと思いました。

「人道的」という言葉意味感覚が、現代とは違っていたというほうが、正確でしょうね。近代日本社会=帝国日本においては、とにかく国権の占める位置が大きく、個人の意志倫理よりも、そうした意味での公の価値観、秩序が優先されていたのです。帝国大学においては、国家に奉仕するのがまずは当然、と考えられていたのです(もちろん、それに対して反駁する、抵抗する人々もいたわけですが、やはり〈マイノリティー〉に過ぎませんでした)。ところで、安易前近代を「野蛮」とみることはできませんので、注意が必要です。「ひとつの生命地球より重い」などと声高に叫んでいながら、前近代にはなかった大量破壊兵器天文学的生命を奪う現代のほうが、よほど野蛮とも考えられるからです。

この授業を取ってから、今まで自分が学んできた近代国家日本がいかに幻想にまみれていて、本当の姿からかけ離れていたかを痛感しました。探せば日本よりひどい国はあるかもしれませんが、他がひどいからよいという問題ではありません。こう考えるのは理想主義的で、現実では通用しないのでしょうか。

いえ、そんなことはありません。事実、歴史認識という意味でなら、東日本大震災より前の90〜00年代のほうが、日本の情況は現在より民主的でした。10年代、とくに東日本大震災以降、あたかも関東大震災が戦時体制を準備したことを繰り返すかのように、国権の強化と世論右傾化が進んだのです。他の国のほうがもっと…などというのは、子供喧嘩の台詞です。きちんと道徳的倫理的価値観確立し、自らのあり方を正してゆく必要があります。しかし現在のように、人々が国権喧伝する価値観のみにアイデンティファイしている情況では、日本の歴史認識はまったく改められないでしょう。

先日、現代美術をしている友人と戦争を美術にすることの可不可をめぐって議論になりました。現状の社会のなかで、批判を含んでいると明確に分からない形で戦争に関わる遺物(軍服など)を提示することについて、先生はどう思いますか?

ぼくも基本的には、きちんと批判的に扱う文脈ができていない形で、とくにファッション的に優れているとか、格好がいいとか、興味本位で提示するあり方には反対です。とくに、その背景にあるものが隠蔽されたり、正当化されたりするようなもの、例えば日本におけるナチ党的ファッション称揚などには、大いに問題を感じます。ただし、これは個人的な経験なのですが、ぼくらが子供時代を過ごした冷戦期の70〜80年代は、玩具店にタミヤハセガワ・レベル・モノグラムなどの兵器関係プラモデルが溢れ、書店には第二次大戦をある意味肯定的に描いた少年少女向けの戦記もの(小学館講談社などの大手出版社が刊行していました)、最新兵器を解説した子供向けの図鑑学研など)が多く置かれ、映画館ではエンターテイメント系の戦争映画がひっきりなしに上映されていました。しかしそれでも、現在とは比較にならないほど平和教育は行き渡り、子供も大人も良識を弁えていました。現在はこれとまったく逆で、玩具店の主流はアニメーションキャラクターとなり(まあガンプラはかつての戦争玩具の変形でしょうが)、書店からは戦争色の強いものは消え、戦争映画も批判的視点からのものが主流になったにもかかわらず、極めてタカ派的な考え方が社会に蔓延しています。そのずれがどこにあるのかは、しっかり考えたほうがよさそうです。

2017-07-10 超域史・隣接学概説III(07/10分)

アーヴィングは、ホロコースト否定論を喧伝すること自体に価値を見出していた、と聞きました。では、彼はこれを喧伝することで、社会に何を伝えたかったのですか?

ホロコースト否定論者は、概ねナチスに対する賛同者か、ユダヤ人差別主義者です。すなわち彼らの目的は、ナチス正当性を訴えること、ユダヤ人批判し冒瀆することです。彼らは議論を通じて、自らの政治思想世界に広まることを目的としているのです。

両論併記の問題性については分かりましたが、それをジャーナリズムに求めるのはどうなのでしょうか。白黒はっきりしていないないようだからといって、報道を自粛してしまうのは、かえって中立性を損なう可能性もあります。

両論併記について、はっきりしないものは報道するな、とは一言もいっていません。検証せよ、といっているのです。近年の日本ジャーナリズムの大きな問題は、情報のソースからその正確さ、内容の事実性などを検証する努力を、どんどん怠りつつある点です。ネットニュースでは、ブログやツイッターの記事をそのまま要約して載せるものまで見受けられます。そもそも新聞自体報道姿勢政治思想は会社によって異なり、それによってニュース選択、伝え方、論評も相違しています。きちんとした検証がなされなければ、両論併記自体が「偏った方法」になることもありうるのです。ホロコースト否定論などは、まさにそういった事例です。「両論併記」によってジャーナリズムがホロコースト否定論を無批判喧伝することが、歴史修正主義者の目的を達成することになってしまうからです。

実証主義の認識論が経験主義であることについて、客観性を求める実証主義がなぜ経験主義なのか、よく分かりませんでした。

確かに、そこには重大な自己矛盾があります。実証主義は、例えば史料批判における真偽判断を、歴史学者の「経験」に委ねます。その背景には、歴史学者の知と方法が、充分に訓練され信頼のおけるものだという自負が含まれており、実際その場合も多いのですが、しかし常に正確で正当性のあるものとは限りません。例えば、彼の経験にまったく含まれない問題が出来し、経験からの類推も不可能なときには、歴史学の知は何の効力も発揮しないことになります。本来ならば、その厳粛な限界性をしっかりと受けとめたうえで、可能な限りの客観性を目指すことを標榜すべきですが、伝統的歴史学はそうした態度を取ってはこなかったということです。

コルバンが、「真っ白な心で受け容れる」などといっているのは無理なことだと思うのですが、どうしてこのようにいう人、考える人がいるのでしょうか。また、「エピステモロジカル」な視点はどうすれば身に付くのですか。

社会史の泰斗であるコルバンが上のように発言したことは、たぶん多くの人々にとって衝撃であったと思います。ブロックやフェーヴルが生きていたら、彼を叱りつけたことでしょう。しかし経験主義極致に達すると、ある種の達観として、そのような認識枠組みが形成されてしまうのかもしれません。その時点で学問ではなく、宗教になってしまっている気がしますが。エピステモロジカルな姿勢を養うためには、まずは自己認識を相対化する訓練をすること。自分が正しいと疑いなく思い込んでいるときほど、批判者の視点に立って検証してみることです。また、歴史学以外のさまざまな学問について見識を深め、その知識で歴史学を検証してみる必要もあります。常に、自分ポジションを外部からみる努力をすること。実はそのことが、まさに〈客観化〉という作業なのです。

歴史学以外の学問は、歴史学よりも科学認識論的な基礎付けがあったといえるのだろうか。

歴史学はその歴史が古い分だけ、例えばヨーロッパ学問のなかでも、アジア学問のなかでも、存在することが自明とされてきました。国家にとって必要な知を供与するものであり、その社会的地位も高かったわけです。近代学問化においても、そのあり方は基本的踏襲されました。それゆえに、自分自身でその寄って立つ認識基盤を検証しようという方向性は、あまり強くは起こってこなかったのです。歴史学の最大の批判者である社会学人類学言語学は、みな近代において過去の学問批判しながら起ち上がってきた学問であり、それゆえに自らのポジションに関しては、常に隣接する諸学問との間で議論を繰り返してきました。その意味で、歴史学よりエピステモロジックな蓄積はなされていたわけです。

理想的年代記は、やがてAIによって可能になるかもしれませんが、それが歴史といえるのかどうか分からなくなりました。

そのとおりですね。ダントーがいいたかったことも、まさにそこにあるはずです。つまり、あらゆることを起きた直後に記録する「理想的年代記」は、たとえそれが可能になったとしても、単なる記録であって「歴史叙述」にはならない。歴史叙述の本質は、後世の視点から過去をみつめその意味を変容させるナラティヴにあるのだ、ということです。多くの歴史学者にとっては、これは歴史学の客観性否定するものと映ったかもしれませんが、ぼくには歴史学の歴史学たる由縁、歴史叙述の根幹を言い当てたものと映ります。

物語り性こそが歴史学の本質ならば、事実を知ることは不可能なのでしょうか。歴史学は事実を知ることが基本、と考えるのは間違っているのですか。

復習してほしいのですが、物語りとは、イコールフィクションではありません。上にも述べましたが、例えば新聞記事主観的物語りであって、言葉が介在する限り、あらゆる「事実」と呼ばれるものもすべて物語り性を持つのです。それゆえに、それらが事実と呼ばれるには何らかの手続き、条件が必要であって、新聞の場合にも、テレビのニュースの場合にも、歴史学の場合にもそれがある。その条件・基準をしっかり自覚し、オープンにしておかなければ、他の学問との間においても、一般社会においても、学問としての正当性を保ちえません。歴史学は主観的ですが、可能な限りその考察客観的であるべきで、事実を追求すべきです。しかしそれは、どんな学問からみても、あらゆる人からみても、単一事実をなすわけではない。その点が非常に重要なのです。

「私」「思う」「考える」という言葉を避け、主観性を隠蔽しているということは、実際は主観性が入っていることを黙認していることになるのではないかでしょうか。

そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナルヒストリー提供する教科書にはぶれがあってはならないとはいえ、このことが歴史学研究世界歴史教育世界に大きな溝を生じていることは確かです。

私は、レポートに「私は〜だと思う・考える」と必ず入れて書いているのですが、自分で考えて述べた意見は、すでに多くの歴史学者が考え出している場合が多いです。私もこれまで読んできたものが先入観となっているため、「私は……」と述べても、結果的には自分の本当の意見が出せなくなっています。

自分という存在コピーがないように、自分のものの見方、考え方も、他の誰かとまったく一緒ということはありえません。これから研究真摯に続けてゆくなかで、きっと、あなたにしか分からないもの、気づかないものが発見できるはずです。それこそが、歴史学の主観性の最も大切な意味です。

「アプリオリ」とはどのようなことですか。

即自的、あるいは超越論的などと訳します。つまり、議論するべくもない、当たり前のものとして決まっている意味、ということです。

「素朴実在論」とは何でしょうか。

目の前にあるモノをそのまま存在するとする考え方のことです。素朴実証主義も似たようなもので、史料を通じて過去の事実が明らかになると考える立場のことです。

歴史学の課題として、ものごとはなるべく客観的にみなければならないということは必要と思いますが、先生の思う一番の方法とは何でしょうか。

もちろんそのとおりですね。自分の政治性、恣意性を厳しくみつめ、相対化し、可能な限り客観性を目指すことは必要です。しかし、それにはやはり限界がある。大切なことは、そうした思考過程科学の名で隠蔽せず、しっかりと公開することです。手練手管を明確にみせることによって、初めて学問の内容が検証可能になり、それが自分では気がつけなかったさらなる客観性の確保に繋がるのです。

ポストモダン的傾向と、保苅が目指した方向とは同じものだったのでしょうか。

保苅は、ポストモダンの先へ行こうとしたわけです。ポストモダンの潮流は、近代学問問題性をあぶり出したけれども、結局は学問同士、また学問と社会との間に分断と軋轢を生み出してしまった。それを新しい形で結び直すにはどうするか。自分科学的、公明正大と偽らず、限界があり、課題満載の主体肯定したうえで、対象と関わるにはどうすればよいのか。クロス・カルチュラライジング・ヒストリーは、それを自らに科した保苅のひとつの回答であったと思われます。