来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。なお、原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。なおブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)】
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2016-06-24 日本史特講:日本仏教史(06/24分)

2016-06-17 日本史特講:日本仏教史(06/17分)

人は自分の手を汚すことから逃げて逃げてしまいますが、いつかは現実を体感しなくてはいけないので、人間がこの逃げ続けていたことと相対したとき、どうなるのでしょうか。同じ生活を続けて生き続けるのでしょうか。

どうでしょうか、難しい質問です。しかしただひとつ確実なのは、手を汚すことからいかに逃げようと、確実に自分の手は汚れてしまっている、ということです。そのことから目を背け続ければ、大切なものも見失う。いかに自覚し、責任を取るか。もちろん、ぼく自身も臆病で卑怯人間なので、あまり偉そうなことはいえません。しかし、あまり手を洗わずにいると、もう気持ち悪くていられませんので。身体も心も、明らかに悪くしますしね。

日本だと、あまりベジアーゼ神話のような「肉を送る」話は聞かないような気がしますが、仏教と関係があるのでしょうか?

確かに仏教の影響もあるでしょうが、やはり狩猟という生業が、社会の表面から隠されてきたからでしょうね。しかし古代からのさまざまな物語が、動物主神話の痕跡を伝えていることも確かです。今後の授業でも扱ってゆきますが、例えば以前に紹介した『出雲国風土記』で、ワニの群れが語臣猪麻呂の娘を食べたワニを差し出す話。あの伝承では、猪麻呂の娘とそれを食べたワニという肉の交換が実現しており、双方が肉を贈り合っている形になっています。語臣氏は神話=歴史を管理し伝える職掌にあったと思われ、そのため生業に密接に関わる古いタイプの神話形式を保存していたのでしょう。狩猟が生命のやり取りにならざるをえないような緊張感が、背景にあるものと考えられます。またアイヌには、鹿や鮭といった日常よく消費する魚肉をカムイとはみなさず、鹿の主・鮭の主が届けてくれる肉に過ぎないとする考え方があります。

人が捕食する場合の、人と宗教との関わりとは別に、人が捕食される場合の、宗教との関わりはあるのでしょうか。

上の話にもその要素は残っていますが、アフリカブッシュマンの狩猟に関する言説を調査している菅原和孝さんによれば、彼らの狩猟は現代的なハンティング以上に生命の危険を伴う。ヒョウやライオンに殺される危険も、常にあるわけです。そうした緊張感のなかで、彼らは、例えばヒョウに襲撃されて生き延びた話、父親ライオンに殺された話などを、誇りに満ちた表情で生き生きと語るとか。そこには、生態系の頂点に位置する二種の生きものが、お互いを対等な好敵手と認め合う文化があるようです。同様のことは、オオカミ・トーテムを持つモンゴルにおいても認められます。モンゴル族は、牧畜の羊たちを狼に襲われ、ときには自分たちもその襲撃に合い、その被害を抑えるために狼に立ち向かいますが、彼らを先祖と崇め、狩猟の教師とし、信仰もしている。死後は死体を荒野に放置し、狼に食べて貰うことで、初めて天国へ行けると考えます。自分相手を傷つけるかわりに、自分相手に傷つけられることもある。それこそが世界の理だという理解で、人間を「霊長類」とする発想とは異なる場所に立っています。

アニミズムの思想にある生命の供養の仕方について、日本の精肉を行っている方々もしているのでしょうか。

屠殺場では、「獣類供養」などの仏教的法会が行われ、供養塔の立っているケースが多いですね。なお、これは屠殺場に限らず、動物実験の行われる病院研究所などでもみることができます。

宮澤賢治が構想した理想郷イーハトーヴは、授業で扱ったような生死の正しさをめぐる葛藤から生み出された、と考えてもいいのでしょうか。

イーハトーヴは、確かに理想郷ではあっても、生死をめぐる苦しみや悲しみが消滅している世界ではありません。むしろ、その葛藤が際立っている、あるいは、みなその問題自覚的である、という言い方は可能かもしれない。現実の世の中を直接舞台とすると生々しくて書けないことを、イーハトーブという架空世界の話として描いたともいえます。現実に対して、批判としてのファンタジーの力を遺憾なく発揮したということでしょう。

「八百比丘尼の告白」で、龍王が瞋恚のままに村を滅ぼしたといっているのは問題な気がします。神の立場にあるものが、契約違反で罰するならまだしも、怒りの感情に任せて…というのはどうなのでしょう。また、供養をし続ける娘の死で龍王の罪が浄化されるというのも、他力本願であるように思います。 / 八百比丘尼にあった龍王と仏教との関わりについて、日本では古来から神々や神道と仏教との関係が密接であったということでしょうか。

以前に神身離脱の話をしたとき、聞いてくれていたでしょうか。アジアにおける神はキリスト教的な神とは異なり、より人間的な存在です。龍王などは『妙法蓮華経』にも描かれ、東アジアでは半ば仏教的な存在になっていて、人間より優れた力を持っているものの、その感情のあり方は人間と変わらず、それゆえに苦しみ悩む存在として造型されています。神が怒って災禍をなすという物語は、日本を含む東アジアにおいては、極めて一般的なものです。また、八百比丘尼の何百年に及ぶ鎮魂の作業が龍王の罪を消尽させるということは、その間龍王自身もずっと罪を背負いその重さに呵まれ続けることを意味します。『唐高僧伝』などでは、罪業を負った神の苦しみについて記述したものが幾つかみられますが、細蟲が宿り身体を喰い回るといった表現が出てきます。神が仏教的作善を僧侶らに乞うのも、神身離脱などの物語り形式の一要素です。

八百比丘尼の話で出てきた人魚は、ディズニーや西洋の話に出て来るような人魚に近いイメージなのでしょうか? / 八百比丘尼の話ですが、自分自身に言い聞かせるような龍王の姿は、どこから考え出したのですか。

宮古島に伝わる人魚伝承に、ヨナタマ=海の精霊と呼ばれる珍しい魚が捕らえられ、焼かれて喰われようとしているのを、大津波が襲って村ごと破滅させてしまうというものがあります。日本にも、上半身は人間下半身は魚という人魚形象が存在しますが、ここではもう少し怪物染みたものを考えています。まったく同じ話があるわけではないのですが、これまで研究してきた知識を使って、このような伝承がどこかに語られていてもまったくおかしくない、というふうに造型しています。

八百比丘尼の話のなかに、捕まった龍王の娘が、「泣いて赦しを乞うた」という記述がありましたが、何に対して赦しを求めたか分かりませんでした。

確かに、「命乞いをした」という方が、分かりやすかったかもしれません。しかしこのユルスという言葉も、例えば漁師に捉えられた魚介を僧侶などが贖い、海に帰してやるという放生譚のなかで、多く使われる言葉なのです。それらとの齟齬がないように、文章を作成しています。ユルスという言葉は、単に罪に対して用いられるだけではなく、生命を許す、存在を許す、といった意味で使用されます。漁師という存在が、いかに海の生命に対して圧倒的であるかが、おこに込められているのです。

2016-06-13 日本史概説 I(06/13分)

大伴金村は五経博士の来倭と引き替えに任那を割譲したとのことですが、百済はそれによって何かメリットがあったのでしょうか。勢力が弱まっていたため、鉄の産地や領土を獲得したかったと聞いたことがありますが、合っていますか?

もちろん、その理由は大きいでしょう。6世紀には、高句麗新羅の勢力に百済は圧迫されていました。倭が友好関係にあるうちは不安定ながらも差し迫った問題はありませんが、例えば半島南部新羅に押さえられてしまうと、百済は完全に高句麗新羅に囲い込まれてしまい、倭と連携するにも、最も近い壱岐対馬沖ノ島を経由するルートを直接使えず、西海岸から回り込まざるをえなくなります。将来的な連携のことを考えると、常駐の大規模な兵力を置いておけない倭にしても、百済委託してしまった方が利点があったといえるかもしれません。

五経博士は、儒教以外に、具体的にどのようなことを伝えたのでしょうか。

五経とは厳密にいうと、『詩経』『書経尚書)』『礼記』『周易易経)』『春秋』のことを指します。『詩経』とは、戦国諸国の国風歌謡や、貴族・朝廷の宴席、祭祀などで用いられた歌謡が収められています。かつては孔子が編纂したものとされ、各歌の背景には教訓、道徳倫理起源となる事実存在すると考えられていました。『春秋』も同じで、春秋時代歴史書ですが、簡易な文体の背景には歴史を貫く含意があるとみられていました。『書経』は戦国時代に至る政道の書、『礼記』は王侯士大夫の守るべき礼儀、『周易』は箴言の込められた卜占の書であり、いずれも変転する時代のなかで王権・国家を維持・発展させるために必須思想とされました。そうしてこれらにいかに通じているかが、中華世界における王侯士大夫の教養として重要であり、夷狄とは異なる扱いを受けるうえで大切だったのです。しかし、いずれも思想的、文章的に難解であったため、それらに習熟し解説してくれる五経博士の存在はなくてはならないものでした。一口に儒教の伝来といっても、文字、文芸、その背景にある思想、礼儀・儀礼中国史の知識とそれに対する洞察、卜占など、極めて多様で高度な文化の需要を意味したのです。

中国思想が導入され考えが変容したということは、中国の思想の方が優秀であったということになると思いますが、中国から伝わる以前に、日本では独自の思想というものは存在したのですか。

それは、列島社会の環境と歴史に根ざした在来の思想、思考方法が、しっかり存在したと思います。中国思想が入ってきても、それが列島に定着してゆくとき、さまざまな取捨選択が主体的に行われ、変容も起きる。日本列島が、中国になってしまうということはないわけです。しかし同時に、それは中国においても同じこと。あの広い空間で、すべての地域、すべての階層が単一の思想価値観文化を持っていたわけでは決してない。いわゆる儒教などは、中国のハイソサエティ、ハイアラーキー思想なのであって、中国全体を体現するものではありません。また○○独自といった考え方も、これまでみてきた東アジア全体の交流史のなかでは、あまり意味のないものなのかなあと思います。この飛鳥時代の「日本独自」も、それ以前のアジアにおける交流のなかで醸成されたものなのですから。

筑紫国造磐井は、新羅と手を組んで、何かメリットはあったのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、これはこのときだけの特殊な事情ではなく、弥生時代以来の朝鮮半島北九州との密接な繋がりのうえに成り立っているのだと思います。中央の支配勢力は、ヤマト王権として屹立してくるまでの間に、朝鮮半島中国大陸との政治的経済的交流を独占しようとしてきたわけですが、それは必ずしも全面的には成功していない。磐井のような勢力は、代々半島と繋がることで利益を得て、地域支配権を維持してきたのだと思います。ヤマト王権もその支配層は独立重視の気風が残る状態ですから、王権の継承期には政情が不安定になるでしょうし、大王の個性、個人的な統率力の強弱によって支配のあり方に差異も生まれます。磐井の反乱が実際にあったとして、それはどれほどの規模のものだったのか、果たして「反乱」といいうるものであったのかは分かりませんが、中央集権化が行き届いていない状態のヤマト王権において、半島と密接な北九州の把握に綻びが生じたということなのでしょう。

伴造制についてですが、擬制的血族として編成された氏の名前は、どのように決められたのでしょうか。

宗家の本拠や出身地などの地名王権奉仕する職掌に関するもの、元来本宗家の持っていたウヂ名を元にするもの、などがあったようです。いずれにしろ、王権設計、あるいは本宗家の仕奉のあり方に包摂されるものであったと考えられます。

神を王権に服属させるという考えのもとで、仏教が伝来し広まっていったことに衝撃を受けた。ここでいう神と仏教の信仰の対象は、まったく別物として認識されていたのでしょうか。 / 神殺しの考え方が広まることで、神仏と関わりが深い仏教の普及には、障害とならなかったのだろうか。 / 神殺しについて、仏教伝来の後に宗教間のすれ違いからそうしたことが起きたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

仏教は当時、「蕃神」つまり外国の神と認識されていたようです。日本列島では、在来の神祇を神像として表現する風習は一般的ではありませんでした。しかし、縄文以降神霊的なものを造形する志向が皆無であったわけではなく、古墳時代神仙を造形した三角縁神獣鏡も伝来していましたので、神聖なものとして理解をすることはできたと思います。日本列島では、外来の神も多く神祇と同じように奉祀されており、仏教の信仰を認めるか否かをめぐって、『書紀』に描かれるような大きな衝突が起きたとは考えられません。以前にも書きましたが、神と仏の交渉は、当初仏教によって祖霊を祀るというあり方、後に神霊を仏教によって活性化させるというあり方で進んでいったようです。8世紀になると、仏教の在地への浸透を通じて、仏教による神殺しも行われてゆきます。しかし神祇信仰世界でも、例えばスサノヲのヤマタノヲロチ退治のように、新しい神、あるいは王権の神が、古い神、あるいは土俗の神を滅ぼすという構図で、神殺しが繰り返されてきた経緯はあります。仏教による神殺しは、僧侶が開発の担い手になり、森林を伐り拓いて耕地を作り、河川を治水して橋や灌漑用水を作る過程で発生しますが、多くはこれまでの神殺しと同じパターンを踏んでいたために、あまり大きな混乱には至らなかったようです。

ヤマト政権は、神殺しによって神を政治利用したとありましたが、民衆に統一された神のイメージはあったのでしょうか。

概ね自然環境象徴する存在としての神が列島中に広がっており、大地を潤す湧水点を抱え込む、前面に河川、後背に山地を持つ神社の神々が大部分であったと考えられます。6世紀の中頃には、王権の内部に構築された祭祀関係の機関を基盤に、ヤマト王権勢力範囲で神祭り方法が統一されてゆきます。すなわち、のちの三種の神器に受け継がれるような、刀剣・鏡・玉を象った滑石製模造品による祭祀です。もちろん在地的固有性多様性は残存はしますが、こうした中央集権化を通して、次第に神のイメージも一般化していったと考えられます。

天子という言葉を広辞苑で調べると、2番目の意味で「天皇」が出てきます。煬帝に当てた倭の国書に「日出づるところの天子」が倭の大王を指すのだとすれば、当時は大王を「天子」と呼ぶ風習があったのでしょうか。それとも、中国の天子の呼び名に合わせて、天子という言葉を使ったのですか。 / 南北方向が中国の君臣関係の基軸を為すことは分かるのですが、なぜ東西方向がプリミティヴなのでしょうか。

天子」は、中国的な天の概念が前提となっていますので、一般に当時の日本列島で、大王を「天子」と呼ぶことはなかったと思います。あくまで、外交的なものです。しかし、ワカタケル大王の時期に作られた刀剣や鏡の類には、すでにみたように「治天下」との概念が生じています。のちに「アメノシタシロシメス」すなわち天下を支配すると訓読しますが、中国的天の受容が進み、王権政治思想として内面化が進んでいたということです。倭の五王のときには決して外交上口にしなかったその自意識が、推古朝の遣隋使に至って、「日出づるところの天子」という言葉表現されてしまったのかもしれません。なお、文化とは、自然に密着する段階から解放され、人間独自の秩序を打ち立ててゆく点に「進化」が意識されます。中国文化においては、太陽を王と一体化させていたのは殷王朝の段階で、これを克服した周王朝に至り、「天」が意識されてゆきます。南北軸はこの天の概念と結びつくものであり、その価値観からすると太陽に左右される東西軸は、すでに克服された古い文化との印象になるのです。

仏教は外交のツールとして利用されたとのことだが、具体的にはどのように利用したのか。

まず、王権が仏教に奉仕しそれを支配地域に広げようとしている、という事実王侯士大夫から庶民に至るまでが仏教を理解し信奉している、というポーズを示すことが必要なのです。それによって、隋が支配する東アジアのなかで、自国のポジションを引き上げることができる。また、仏教は総合科学芸術ですので、そのエキスパートである僧侶には、多様な先進的知識・技術を持つ者がいる。そうした存在を招いて研究したり、あるいは自国でも僧侶を輩出し海外留学させ研鑽を積ませる。そのような交流が、政治的け・経済的利益を構築してゆくこともあるわけです。

飛鳥寺から古墳との関連性がみられるとありましたが、具体的にはどのような点なのでしょうか。

飛鳥寺の塔の芯柱を支えている心礎からは、塔には必ず埋納される舎利瓶(本来は釈迦の遺骨である舎利が収められるが、後にはそれに見立て宝石類、または法舎利として仏典などが替えられるようにもなった)のほか、勾玉管玉などの玉類のほか、周辺からは武具や馬具なども出土し、あたかも古墳の副葬品をみるかのようでした。事実、7世紀の寺院には、二上山の麓にある白鳳期の当麻寺をはじめとして、古墳の上に建てられた寺院存在します。

崇仏論争は虚構であった可能性が高いとのことですが、なぜ崇峻は暗殺されたのでしょうか。 / 崇仏論争が虚構だとしたら、物部氏はなぜ滅ぼされたのですか。

崇峻が殺されたのは、崇仏論争とは関係がありません。崇仏論争のときには、崇峻は蘇我馬子の側に立って勝利しています。ところで物部氏滅亡のことですが、これは『日本書紀』さえもがそう書いているので、これまで物部氏滅亡が崇仏論争の結果としてきたのは明治以降研究によるものであり、ある意味誤読です。もちろん、仏教を国を挙げて崇拝しようとする蘇我馬子と、神祇の信奉に関わる物部守屋・中臣勝海が、その是非をめぐって対立関係にあったのは確かですが、それが他の王族・氏族を巻き込んだ内戦に発展するのは、用明の後継者をめぐる穴穂部皇子/泊瀬部皇子との皇位継承争いが原因です。物部氏・中臣氏が穴穂部の側に付き、中臣勝海と穴穂部はその過程で殺され、孤立した物部守屋を、蘇我氏を中心とする王族豪族連合軍が包囲して滅ぼすのです。

崇峻天皇は馬子によって暗殺されたとありますが、なぜそのことが分かったのでしょうか。 / 蘇我入鹿が暗殺されたという証拠はあるのですか。

『書紀』に記述がありますが、この2つについては複数の史料存在します。前者は聖徳太子関連の寺院関係、後者は藤原氏の『藤氏家伝』などです。前後の文脈や複数の史料比較から、大きな矛盾点はないので、とりあえずは事実と考えられています。ただし、崇峻の暗殺については、東国の調の奉呈という儀式、入鹿の暗殺について、三韓の調の奉呈という儀式で、ともに類似の舞台が用意されているという不自然さはあります。古代においては、政治的社会的、あるいは自然環境的な混乱を作った王を殺害し、世界人間との契約更新するという発想が世界的に存在しました。キリスト教におけるイエスの死も、そのような神話的文脈を参照して作られた可能性があります。崇峻や入鹿の例にもそうしたニュアンスが見受けられますので、どこまで事実性が認められるかについては、今後さらに研究が進められてゆくでしょう。

崇峻天皇のモガリの期間は1日しかなかったと聞きました。どうやって墓を用意したのでしょうか。また、モガリの期間が短くなるのはなぜですか?

全部がそうだというわけではありませんが、大王の墓は寿陵、すなわち即位してから生きているうちに造営し始めるものが多かったのではないか、と考えられています。崇峻の治世は5年ほどに過ぎませんが、大王墓自体の規模も小さくなっていたので、造営にはそれほどの時間はかからなかったでしょう。しかし彼は、亡くなった即日に埋葬されており、そのあたりは異例です。モガリの制度自体は、天武などの頃と比べるとまだ整っていなかったと思われますが、やはり臣下に残酷な殺され方をしたなどの理由で、魂魄が凶匆修垢襪里鯔匹意味があったのかもしれません。

『日本書紀』は、なぜ蘇我氏の代わりに、蘇我の血縁である厩戸を政治の中枢に置いたのだろうか。もっと別の人間を置いた方が、王権の正当化としては合理的だったのではないか。

日本書紀』は、実は蘇我馬子に対しては、それほど批判的に記述しているわけではありません。大化の改新の際にも、馬子が仏教を隆盛させた功績は大きく評価をしています。用明も崇峻も推古も蘇我氏系の血統でしたので、蘇我氏の血自体を忌避しているわけではないのです。厩戸という人は、法隆寺その他の寺院を建て、蘇我氏の仏教興隆政策に協力したことは確かであったようです。そこで彼を馬子の代役に立て、推古朝改革を象徴させる存在としたのでしょう。

いま現在残っている文献で、蘇我氏よりに書かれているものはないのでしょうか。

上にも書きましたが、『書紀』が批判的に描いているのは、晩年蝦夷と入鹿の2人であり、決して蘇我氏を完全に否定しているわけではありません。また入鹿については、中臣鎌足の伝記である『藤氏家伝』大織冠伝に、僧旻が自分の塾のなかで卓越しているのは入鹿と鎌足であると評価したこと、尊大な入鹿が鎌足にだけは礼を尽くしたことなどが描かれています。明らかに鎌足正当化するための叙述ですが、引き合いに入鹿を登場させるところに、8世紀初めに至るまで彼が偉大な存在であったと意識されていたことがうかがわれます。

聖徳太子は、摂政でなかったとすれば、どのような官職についていたのでしょうか。

官職には就いていなかったでしょう。あくまで有力な王子宮の経営者、大王位継承候補者として、王権に参加していたものと考えられます。ちなみに、一般的厩戸摂政に任じたとされる『日本書紀』推古天皇元年夏四月庚午朔己卯条には、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子と為し、仍りて政を録摂し、以て万機を尽く委ぬ」とあって、摂政という官職の任命などどこにも記されていないのです。

高校の授業で、聖徳太子は藤原不比等が創り出したと習いました。これが事実だとしたら、何のために創り出されたのですか?

それはかなり飛躍のある授業ですね、たぶん大山誠一説です。あくまで仮説であって、通説ではありません。大山説に基づくなら、不比等が『日本書紀』を述作する際、中国教養を身に付けた理想的人物として太子を造形し、中国朝鮮に対し自国の歴史を粉飾した、ということになります。

聖徳太子や大化の改新をめぐる物語は怪しいですが、『日本書紀』の述作した虚構だとしたら、なぜ高校では誰も教えてくれず、国も教科書もこのままにしているのでしょうか。

どこまでが虚構でどこまでが事実なのかについては、まだ議論が続いており定説を見出せていません。ゆえに、教科書に充分反映されていないのです。しかし現在では、『日本書紀』に書かれているとおりの太子像を事実と認めているひとは、歴史学界においてはごく一部でしょう。そうした風潮を受けて、山川教科書なども、かつて「聖徳太子」としていた記述を、「厩戸王(聖徳太子)」と改めています。

乙巳の変で、蘇我入鹿は王位を奪おうとしたため殺されたと『書紀』には書かれていますが、本当に狙っていたのでしょうか。それとも、中大兄が入鹿への不満を爆発させ、方便を用いたのでしょうか。

これについてはよく分かりません。7世紀の半ばにおいては、未だ実力主義の大王擁立の慣習が残っていたとも考えられ、いわゆる継体王統以外からも、大王になりうる存在が輩出されたとしてもおかしくないのです。推古朝の倭国に対し、『隋書』は大王を後宮を持つ存在すなわち男王と記述しています。かつてはこれを厩戸のことだと考えていましたが、馬子のことを指していたとも考えられなくはない。いま我々が考えているより、大王位の継承は不安定であったと思われますので、王位簒奪しようとしていた可能性も捨てきれないと思います。

武力で山背大兄を死に追いやったことを朝廷は気に入っていないはずであるのに、なぜ蘇我入鹿を朝廷で殺したのでしょうか。 / 天皇の眼前でクーデターを行って、中大兄らは処罰されなかったのでしょうか。

クーデターですので、それを起こした勢力が政治の実権を握ってしまえば、処罰も何もありません。その立場正当化されるだけです。ちなみに山背大兄襲撃には、中大兄の異母兄である古人大兄、その他の有力豪族も関わっていました。クーデターの時点では、入鹿が蝦夷を継いで朝廷第一人者になっており、彼の側がいわば「正統」だったのです。

『書紀』に書かれていることで、他にも架空だと思われることはあるのでしょうか。

事実と虚構の境目が分からないものばかり、といった方が適切かもしれません。

蘇我蝦夷が、乙巳の変の際に『天皇記』『国記』を焼こうとしたのはなぜですか。蘇我氏中心の歴史が書かれていたのなら、残しておく方が蘇我氏にとって有利になるのではありませんか。

天皇記』『国記』に蘇我氏中心の歴史が書かれていたとすれば、それはクーデター勢力にとって格好の批判材料となり、例えば「国を私物化した」などと文句を付け蘇我氏を貶める手段に使用されてしまうでしょう。蝦夷は、それを怖れたものと思います。事実この記述の幾つかは、『書紀』の編纂に利用され、その史料となっているのです。

『天皇記』『国記』が焼かれても、それ以外の人の記憶や断片資料は残ると思うのですが、やはり抹消されたのでしょうか?

蘇我氏の権勢を物語史料は、さまざまに残されたと思われます。上記に述べたように、利用価値があるからです。しかしそれが、歪曲されて伝えられた。そのあたりを批判する言説が生まれなかったのは、改新政府においては反本宗家勢力がその中心に位置し、壬申の乱においては蘇我氏全体が没落してしまったからでしょう。

蝦夷の時代に反蘇我本宗家の勢力が結集した際に、蘇我本宗家側に留まった勢力はどの程度あったのでしょうか。

未だ朝廷の大勢は占めていた、と考えられます。そうでなければ、大臣の役職を維持することもできなかったでしょう。舒明天皇は、即位した当初は蘇我の本拠である飛鳥の中心部に宮を構えますが(岡本宮)、晩年にはその領域から出て、かつて継体を奉戴した息長氏の勢力範囲である百済朝鮮半島のそれではない)へ移り、そこに百済大宮と、大王による初めての伽藍寺院百済大寺を、蘇我氏飛鳥寺を上回る規模で造営しています。舒明の治世を通じて、次第に蘇我から政治の主導権を奪う準備が進められていたのだと考えられます。

2016-06-10 日本史特講:日本仏教史(06/10分)

レポートについてですが、例えばキリスト教とイスラム教など、宗教同士の葛藤ということでも構いませんか。

少し問題があります。講義テーマは、いうなれば外来宗教在来環境文化との軋轢と融和です。キリスト教イスラム教の葛藤を扱う場合には、どちらかが在来宗教の場合ということに限定させてください。地域外来の構図は、見失わないようにしてください。

レポートで用いる史料は、和訳、現代語訳されているものでも構いませんか。

2年生もいますので、その点は構いません。しかし西洋史や東洋史のひとはとくに、自分が読んでいるものが日本文脈にすりあわされた結果なのだということ、翻訳とは新しい意味を創出する行為なのだということに、自覚的になってください。

仏教はノンヒューマンも救済の対象とするとのことですが、そこに性差別はなかったのでしょうか?

ああ、あまり雄雌の区別はみたことがありません。ただし、否定的に扱われる動物は雌が多く、経緯を払われる動物には雄が多い、とは一般的にいえそうです。日本現在最古の仏教説話集『日本霊異記』に、血沼県主倭麻呂という人物が、烏の邪淫をみて発心し、出家して行基弟子になるという話があります(中巻第二縁)。雛鳥を抱えた雌烏に餌を運んでくる雄鳥、あるとき雌鳥は別の雄と姦通して飛び去ってしまう。雄鳥は独りで雛鳥を守るが、餌を採りに行くことができずに餓死。ここでも、女性性は悪者になっていますね。最近の不倫騒動でも女性へのバッシングが酷いですが、女性の社会的地位は現在になってもなかなか向上しない、ということでしょうか。

覚阿と覚恵の繋がりは、「覚」字を共有することからの推論とのことですが、その必然性はどのようなことでしょうか。

授業内でも少し話をしましたが、法系を同じくするグループは、法名の前の一字を共有していることがあります。中国ではもともと、安世高が安息国、竺仏図澄が天竺といったふうに、その1字が出身地域を指していました。しかし前秦東晋の道安以降、仏弟子としての釈○○という表記が次第に一般化し、この傾向は薄れてゆきます。かわりに、師匠法名の1字を貰い、自分法名の冒頭に付けるという習慣ができてゆくわけです。その傾向から考えると、覚恵と覚阿は兄弟弟子か、もしくは師弟関係にあった可能性があるということです。

臨済禅と浄土宗とを結びつける意図が、いまひとつ分かりません。

講義での推論は、浄土宗法然位置を卓越化するために、当時はまだ人々の記憶にあった「難解な先進的仏教」の体現者であった覚阿を利用した、ということです。またその背景に、天台青蓮院流と九条家ネットワークが関係していたのではないか、と。また教学的な意味でも、2つに繋がりがないわけではありません。実は浄土宗は、浄土教系統のなかで最も瞑想の要素が強い流派なのです。浄土真宗はまさに称名念仏時宗は踊り=無我を第一義とするわけですが、浄土宗は『観無量寿経』に代表される阿弥陀如来浄土観想を重要視し、中近世にもその種の注釈書を多く作成しています。論理ではなく実践を通じて救済に近付く、その実践として座禅瞑想を重視するという点で、臨済禅と浄土宗には共通点があったといえそうです。

宇賀弁財天の頭頂に付いている宇賀神ですが、なぜ頭に乗ることになったのでしょう。何か意味があるのでしょうか。

如来と同レベルに神格化した菩薩像が、その本地仏=化仏を頭頂に載せるという儀軌が、仏教では一般的にあるのです。観音の変化身、すなわち十一面観音千手観音などが、頭に阿弥陀仏を載せているのが典型でしょう。宇賀弁財天が頭頂部に宇賀神を戴くのも、この形式の流用と思われます。宇賀弁財天が、法華信仰観音信仰の強い天台宗内で作られたらしいことも、この推測を裏付けてくれます。

当時の人々が外国の人々と話をするとき、現代でも歴史認識でもめているように、神話でもめるということはあったのでしょうか。

例えば、中国文化に対してはその権威が圧倒的なので、少なくとも中世までは同レベルで張り合う、といったことはなかったでしょう。中国江南天地開闢神話を採り入れ、列島の始まりを語った『日本書紀』が良い例です。その後の中世神話も、中国神話、仏教、道教的要素などを採り入れつつ、日本神話の方を改変させてゆくことになります。天地開闢の話も、第六天魔王の襲撃から仏教国となる宿命日本を守るため、アマテラスが仏教を忌避しているかのように振る舞って魔王の目論見を回避した、それゆえに伊勢神宮は(建前上)仏教を忌むのだ、といった話が作成されたりします。しかし、近世にいたって国学誕生すると、日本の「オリジナル」を仮構して、猛然と中国文化排除してゆく動きが生じてくるのです。

国引き神話は、日本海の交易ルートからみるべきではないでしょうか。

もちろん、それは考えられますね。しかし、国引きの対象となる地域と、島根交易圏とは、微妙にズレがあります。隠岐能登とは当然関係がありますが、同レベルで連絡のある九州が出てこない。また、朝鮮半島島根半島と結びつくのは、東方新羅ではなく南方伽羅周辺です(もちろん、国引き神話形成統一新羅前に当てた場合の想定です)。交易ルートだけから考えると、なぜ国引きの主体が水流の神なのかということも分かりません。神話としては、明らかに生活世界の成り立ち、すなわち国土形成について説明する機能を持ったものなので、まずその観点から考える必要があります。

国引き神話の八束水臣津野命は、男神でしょうか女神でしょうか?

男ですね。個人的見解ですが、ぼくは八束水臣津野命は、ヤマタノヲロチと同じものだと考えています。両者とも、山地を抜けて平地に肥沃な土砂をもたらす水流を神格化したものです。前者は『出雲国風土記』、後者は『古事記』にしか出てきません。すなわち前者は出雲在来の、後者は王権側のフィルターのかかった伝承なのです(ゆえにスサノヲヤマノヲロチに勝利する)。恐らく、前者は在来視点から河川水流の効果を肯定的物語化したもの、後者は支配観点からその弊害(洪水被害)などを否定的物語化したものと考えられます。

現在の出雲大社は、今回のさまざまな出雲神話と直接関係しているのでしょうか。また出雲神話は、現在の島根県において、大切に扱われているのでしょうか。 / いま島根県を異質な地域と思っているひとは少ないと思うのですが、いつから重要視されなくなったのですか。

出雲大社は、国作りを行った出雲主神であるオホクニヌシが、王権側に国譲りの代償として祭祀を求め、創設された神社ということになっています。古代出雲国造を奉祀者とし、そのまま現在まで繋がっています。各地に古代から近世に至る神話と、その再解釈痕跡が残っていますので、前近代文化は大切にされていると思います。とくに近世には、伊勢参りモチーフにした出雲参詣の文化形成され、御師たちが盛んに巡礼地=観光地化を推進しました。明治初年にも、特異な宗教文化が日常生活レベルで残っていたことは、松江に住んだ小泉八雲ラフカディオ・ハーンが伝えています。また、明治には出雲国造を受け継ぐ千家尊福が、大社教を作ってオホクニヌシを世界主宰神とする神道を広めようとし、中央の伊勢派に敗れるという事件が起きています。その意味でも出雲は、古代以来現代に至るまで、ずっと特別地域であったといえるかもしれません。

鰐とは何でしょうか。鯨とは区別されているのですか。

授業でもお話ししましたが、サメなのか(出雲地域では古来サメのことをワニと呼んできた)、伝説上の生きものなのか、あるいは別の生きものなのか。シロウサギの話などは南方系なので、ワニの話がそのまま物語として伝わってきたのだ、という見解もあります。神話での描かれ方をみると、鯨ではありませんね。獰猛な肉食性で、海を生活の場とし、群れをなし、ときには浜付近にも上がってくる。この要素で想起されるのはシャチで、北方では「海の主」として崇められ、ときには浜辺に押し寄せ、陸に昇ってアザラシセイウチなどを食べる場合もある。ただし、生息域の問題からすると課題が残ります。

末法の始まる時代は、中国と日本では差違があるようですが、なぜですか。

末法の開始期、すなわち仏入滅後からの時間をどのように考えるかに、経論によって複数の説があるのです。代表的なのは三時説と五箇説で、前者は正法像法末法、後者は解脱堅固・禅定堅固・読誦多聞堅固・造塔堅固・闘諍堅固となり、その年数の数え方には諸説がある。中国では南北朝の廃仏が末法を想起させ、道教の終末思想などと相俟って中国仏教オリジナル洪水終末説などが生まれてきます。日本では奈良末から平安にかけて次第に高まってくるわけですが、これも中国の経論の消化過程と、時代情況との関連のなかで醸成されてくる。年表的に当てはめて考える、というものではないのです。

末法から救うのが弥勒菩薩だそうですが、あの独特のポーズには何か意味があるのでしょうか。

半跏思惟のことでしょうか。あれは、世界の救済の方法を思考している姿だと考えられています。近年では、半跏思惟というポーズ自体ガンダーラ彫刻ではマイナスの意味を持ち、調伏される悪魔や罪を犯し苦悩する僧侶表現している、との見解もあります。しかし中国以降は、救済の象徴とみられていたと考えて間違いないでしょう。