来 る べ き 書 物

9999-12-31 スタートページ

本ブログの説明

このブログは、上智大学北條勝貴が担当している講義への質問の回答、演習科目(ゼミを除く)における学生の発表への講評を掲載するために作成しました。以前はそれぞれの科目で独立したページを作成していましたが、2007年秋よりこの場で一括して扱うことにしました。
原則として講義聴講者のために設営しているページですので、この場でのコメントには対応しておりません。あらかじめご了承ください。
・ブログの名称は、フランス文学批評家モーリス・ブランショの書名から借用しました。
※ なお、このブログは無料使用モードのため、記事の下に広告が貼り付けられています。すべて北條意図したもの、確認したものではありませんので、広告へのアクセスは閲覧者各自責任で行ってください。

○過去の開講科目のシラバス/質問回答ページへのリンク
日本史概説 I(古代史)→アジア日本史系概説機
 06春:シラバス回答、07春:シラバス回答、08春:シラバス、09:春シラバス、10:春シラバス、11:春シラバス、12:春シラバス、14:春シラバス、15:春シラバス
日本史特講(古代史)】
 06春:シラバス回答、06秋:シラバス回答、07春:シラバス回答、07秋:シラバス、08春:シラバス、09春:シラバス、10春:シラバス、11春:シラバス、12春:シラバス、14春:シラバス、15春:シラバス
【全学共通日本史
 06秋:シラバス回答、07秋:シラバス、08秋:シラバス、09秋:シラバス、11秋:シラバス、12秋:シラバス、14秋:シラバス、15秋:配付資料
【歴史学をめぐる諸問題
 08春:シラバス、09:春シラバス
原典講読】
 10秋:シラバス
東京大学宗教学宗教特殊講義
 17秋:シラバス

○関連リンク
 ・北條勝貴ブログ「仮定された有機交流電燈」
 ・北條勝貴 facebook(最近は上記ブログをなかなか更新できず、専らfb情報発信しています)

2018-07-23 アジア・日本史系概説I(07/23分)

平安中期までの日本史の大まかな流れについて、「仮のまとめ」を作っておきました。今日、ここまでお話ししたかったのですが…すみません。今後の勉強の参考にして下さい。なお、最後に時間がなく付け加えられませんでしたが、こちらの講義は「進歩史観から零れ落ちたもの」を見出すのがひとつのテーマでした。講義が王権・国家中心になってゆくなか、皆さんのリアクションがそれとは異なる民衆の世界をみようとしていることが、非常に小気味よかったことをお伝えしておきます。

自然環境との関係 →縄文〜平安期において、古墳時代を除き概ね温暖な時代。次第に王権・国家から一般階層へ、開発が大きく展開
寒冷化時代 →苛酷な情況のなかで権力が集中、王権・国家の成立の契機へ(戦争、内乱)
温暖化時代 →社会の下層に開発の気運が高まり、経済的社会的変動が起きやすくなる
環境状態 →稲作の展開、古墳の造営・工業の展開、都市開発、荘園制・条里制を画期に、大地の〈ドメスティケーション〉が進む
・9世紀の災害多発 →政治・経済・社会の変動のさまざまな契機をなす

●政治 →東西日本が異なる社会的性格を持った情況から、流通の中心であったヤマト王権が成立。畿内豪族結集して列島統治する機構形成
中国朝鮮との交流が大きなポイント →モノ・コトの威信財を得て活用、支配正当性を構築してゆく
王位安定的継承が大きな課題 →実力主義から血統主義へ、父系直系継承のなかで、天智・天武の血を引く草壁皇子の子孫、これを外戚藤原氏(北家)が支える形式へ。その表現として、群臣による合議制/天皇親政/摂関制が少しずつ形を変えながら繰り返し出現
・律令制/氏族制の二重構造 →倭の五王段階でみられる府官制が原型か。以下、両者の溝を近づける努力が払われ、奈良時代以降、律令制の改変、補足修正が行われて、王朝国家体制へと結びつく

●社会・経済・文化 →ヤマト王権から律令国家の成立期には畿内権力が強大化するが、前後の時代地域の社会・経済が独自性をもって活性化中世へと連結
・常に大陸半島と接触しそのヒト・モノ・情報の窓口であった北九州中国四国北陸
・独自の権力基盤を持ち、中央の王権に対して自立的ポジションを保ち続けた東国東海関東)、南九州
北方地域に連なり、社会のありよう自体を異質な状態を維持し続けた東北

➡常にアジア周辺諸国地域との交流のなかで、すべての要素が展開。列島に生きる人びとの組成も含めて、切り離して考えることはできない

2018-07-16 アジア・日本史系概説I(07/16分)(書きかけ)

藤原宮の元日朝賀に立てられた旗についてですが、なぜ月の象徴が兎になったのでしょうか?

以前にも、縄文時代あたりでお話ししたと思いますが、満ち欠けを繰り返す月は死と再生不老不死象徴です。ゆえに、中国ではオタマジャクシから変態するヒキガエル、冬になっても枯れない竹などが、同じ不老不死、死と再生カテゴリーに入れられ、月のなかにあるもの、月の象徴とみなされてゆきます。兎もそのひとつで、生殖能力が非常に高いことから、キリスト教文化圏ではイースター象徴ともなり、また淫欲の象徴ともされます。インド中国ではやはり再生象徴で、月のなかにいる生きものとされ、日本でもその形式が受け継がれてゆくのです。

県犬養三千代が後宮において女性官僚をとりまとめていたというが、女性官僚の世界がどのようになっていたのかあまり聞かない。

奈良時代の律令官制においては、後宮十二司という女性官僚機構が整備されています。具体的には、後宮における天皇日常生活に供奉する内侍司、神璽・関契など天皇御用の雑物を管理する蔵司、書籍・紙・筆・墨・楽器を扱う書司、医薬に関して供奉する薬司、兵器を掌る兵司、諸門の鍵を管理する闈司、輿・蓋・湯沐などを掌る殿司、清掃・舗設を担う掃司、水・粥などを掌る水司、朝夕の食事奉仕する膳司、酒を担う酒司、衣服制作を行う縫司、がそれです。中国王朝の宮人が皇帝の家に奉仕する未婚の女性であったのに対し、日本女官は男性官僚と並列して国家に奉仕し、それゆえに官位を持ち、婚姻も許されていました。これは、大化前代からの、女性の政治関与の伝統に則ったもので、唐令に倣って作られた古代日本律令官制が、中国と大きく異なる点のひとつです。

女性が初の天皇になったとき、さまざまな不満が出てきたとのことですが、具体的にどのような問題があったのでしょうか。

前回の質問でもある程度は答えていますが、やや誤解があるようです。阿倍内親王孝謙称徳は、日本最初の女性天皇ではありません。大王としてはすでに推古、皇極=斉明がいましたし、天皇としても、持統、元明元正即位しています。最初であるのは「皇太子」で、のちに天皇となることが約束された、前帝によって指名された唯一の後継者になったということです。持統にしても元明元正にしても、みな皇后、もしくは天皇の妹として、皇太子として立った特定皇子即位に相応しい年齢に達するまでの間、代理のような形で即位することになった、いわばイレギュラー即位であったわけです。『続日本紀』によると、のちに乱を起こした橘奈良麻呂は、天平17年(745)に聖武難波行幸した際、「陛下の枕席安からず、殆ど大漸に至る。然して猶ほ皇嗣を立つることなし。恐らくは変有るか(陛下の体調は思わしくなく、だんだん病が重くなっている。けれども、未だに後継者を定めていない。何か事変が起きるのではないか)」と述べたといいます。このとき、すでに阿倍内親王立太子し、皇太子となっていたにもかかわらず、です。奈良麻呂の認識が多数意見であったかどうかはわかりませんが、このときの宮廷社会に、女性皇太子正式な皇嗣ではないという考え方があったことは確かでしょう。

吉備真備は、阿倍内親王の立太子を正当化するために五節舞を用いたとのことですが、なぜ舞いなのでしょう。石やら鏡やらのほうが都合が良さそうですが…。

以前授業でお話ししたと思いますが、儒教では、礼に込められた社会秩序を一般社会に定着させてゆくためには、音曲によって人々の心を和す楽が必要だとする考え方がありました。これを礼楽思想といいます。日本では、大宝律令の制定によって、礼を構築するための法制度は整いましたが、中国では律令とともに編纂・制定される儀礼楽舞の制度が、未だ完備してはいませんでした。吉備真備は、留学前に、恐らくは大学助や図書頭を歴任し礼楽の整備に心を砕いていた武智麻呂の命を受け、その吸収・消化のために唐へ派遣されます。帰朝の際には、やはり音律と密接な関係のある暦、造暦のために日時計のほか、『唐礼』130巻、銅律管・鉄如方響・写律管声12条などの楽器、『楽書要録』10巻といった音楽書を将来しています。そうした真備だからこそ、皇太子としての阿倍の立場を最新の礼楽の知識正当化した、それが「天武天皇の定めた五節舞」を舞う、すなわち天武が国家に安寧をもたらすために作った舞を自ら務めることで、正統的後継者であると体現することであったと考えられます。

官僚の多くが天然痘で死んでしまったとのことですが、急遽政治運営に当たる人々を決定する仕方はどんなものでしょうか。

福原栄太郎氏の研究によると、天平9年の大流行では、従五位下以上の京官の約4割弱が半年のうちに死亡しており、12月末の任官では16寮のうち9寮の長官が新任となっています。また、細井浩志氏の指摘によると、『続日本紀』中の天平10年天平勝宝8歳の期間には、元日朝賀の際に奏上される祥瑞記事日蝕天文異変に関する記事が断続的にしかみられず、これは永久保存されるはずの祥瑞奏文・天文密奏が失われているからで、天然痘流行による実務官人の死亡が原因と考えられる、とのこと。熟練の実務官人を失った律令国家は、さまざまな局面破綻が生じていたようですが、残った官僚たちを掻き集め、必要最小限の職務に専念させて、特例の昇進により上層部の穴埋めを進めていったのだと推測されます。橘諸兄政権は天平9年9月に発足しますが、参議であった橘諸兄中納言を経ずに大納言に昇進(それでも当時は最高官)、また長屋王の弟の鈴鹿王が、やはり参議から知太政官事へと一足飛びに昇進しています。

なぜ天平7年、急に天然痘が大流行したのでしょうか?

以前に特講で半年、この話をしたことがあります。『続日本紀』によると、天平7年の流行の原因は明確ではありませんが、被害北九州大宰府管内から始まっていること、遣唐使帰朝後数ヶ月で大規模化していることなどからすると、やはり海外から持ち込まれた可能性は高いと思います。それまで列島天然痘流行がなかったとはいえませんが、身体的にも社会的にも耐性の弱い状態が大流行に繋がったのでしょう。天平9年はそれに輪をかけて深刻な事態となりましたが、こちらは、遣新羅使感染列島へ持ち込んだことが分かっています。『続日本紀天平9年正月辛丑条は、「遣新羅使判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂ら京に入る。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂、津嶋に泊りて卒しぬ。副使従六位下大伴宿祢三中、病に染みて京に入ることを得ず」と伝えています。同年4月には大宰府管内で流行、その波は6月に平城京へ到達、8月まで猛威を振るい朝廷の要職者が次々と死亡することになりました。こうした病因への認識はやがてステレオタイプ化し、仮想敵国新羅への反感とともに、新羅天然痘の直結がなされてゆきます。撰者不詳・建保7年(1219)『続古事談』巻5-6には、源俊房『水左記』承保4年(1077)8月9日条を一般化する形で、「もがさと云病は、新羅国よりおこりたり。筑紫の人うをかひける船、はなれて彼国につきて、その人うつりやみてきたれりけるとぞ」と、新羅筑紫との間を往還していた鵜飼いが持ち込んだ、との起源譚が載せられています。また、藤原定家『明月記』天福元年(1233)2月17日条には、「近日咳病、世俗に夷病と称す、去ぬる比夷狄入京し、万人翫見すと云々」とあり、夷狄のもたらす「夷病」の問題がささやかれていて、「外部」がよこしまなものをもたらす恐怖の対象としてみられていたことが分かります。

2018-07-09 アジア・日本史系概説I(07/09分)

父は、太平洋戦時下の教育で、「壬申の乱はなかった」と教えられたそうです。何か都合が悪かったのでしょうか?

以前のコメントにも書きましたが、大友皇子は明治3年(1870)に弘文天皇の漢風諡号を奉献され、明治政府によって、天皇として即位したものとみなされました。明治政府は、天皇現人神という神聖な存在へ再構築しようとしていましたので、いわば謀叛によって現天皇が殺され奈良王朝が築かれるという歴史は、そうした価値観と相反するものとして処理されたのでしょう。「万世一系」の神話にも傷が付いてしまいます。喜田貞吉休職へ追い込んだ南北朝正閏論争も、同根であるといえるでしょう。壬申の乱が普通教育の現場から消し去られたのは、明治19年(1886)の教科書検定制度と、同37年(1904)の国定教科書制度の開始によってですが、実はその際、「教育上為にならぬ事跡は教へてはならない」「児童の頭へ余計なことを多く注入する必要はない」とした文部省文部編修官こそ、上の喜田貞吉だったのです。

内乱状態になってしまった都を建て直すことはできたのでしょうか?

飛鳥京については、大海人軍の大伴吹負が、大友軍の留守司高坂王と内応し、ほとんど大きな戦闘もなく占拠することに成功しています。また大津京については、当時の都は羅城もなく防備に向いていなかったため、大友らは都を出て瀬田での激戦に向かい、それに敗れてのちは山崎へ逃げて自殺、もしくは誅殺されています。発掘によっても焼亡の痕跡などは見出されておらず、宮城自体は戦場にはならなかったようです。

道教の思想は、どのような形で採り入れられたのでしょうか?

正確には、陰陽五行思想に依拠した未来予知、都城占定、暦の知識・技術などです。例えば、『日本書紀天武天皇元年6月庚申条には、壬申の乱に際し、吉野から東国へ脱出した大海人が横河に差し掛かったとき、次のような記述がみえます。「横河に及らむとするとき、黒雲有り、広さ十余丈にて天を経る。時に天皇、之を異しびて、則ち燭を挙げて親ら式を秉りて占ひて曰はく、『天下両分の祥なり。然して朕、遂に天下を得むか』とのたまふ。即ち急かに行きて伊賀郡に到り、伊賀駅家を焚く。」黒雲をみて式盤を用いた占いを行い、黒雲を「天下が二分され、最終的に自分が天下を得る」予兆だと占断したとのことです。これは、中国に残る陰陽思想を用いた兵法の援用と考えられますが、いずれにしろ天武には、そうした知識があったと『書紀』は語るわけです。そのほか、のちの藤原京に繋がる都城建設に初めて陰陽師による風水を用いたり、初めて占星台を設けて天文観測に当たらせたりしました。授業でもお話ししたとおり、天武の和風諡号「天渟中原羸真人天皇」は、神山羸州山に座す仙人たる天皇意味し、その称号からも天武の思想傾向が分かります。中国では多くの民衆反乱のもとになった道教は、日本では体系的には受容されませんでしたが、古墳時代に引き続き、このように断片的な影響はみられるのです。

大津皇子の謀反は持統天応による謀略と習いましたが、本当に謀反を起こした可能性はありますか?

大津皇子の事件は、極めて不可解なところの多いものです。事件は朱鳥元年(686)10月、天武崩御の直後に起きました。2日に謀叛の全貌が発覚し、翌日には大津が処刑されていますので、その迅速さは極めて異例です。また、事件に連座して捕らえられた者たちは、なぜか同月の29日には、伊豆に配流された砺杵道作、飛騨の寺院に放逐された新羅沙門行心を除き、ほとんどが赦免されて誰も処刑に至りませんでした。当時、草壁は自身が病弱であったこと、長子珂瑠が幼年であったことなど、即位に際し種々の不安定要素を抱えていました。一方の大津は、謀叛で処刑されたにもかかわらず『書紀』で称賛されるほどの才能、声望の高さを持ち、天武天皇12年より聴政を行っていて政治的実績もありました。やはり、天武崩御に際して草壁即位の不安定要素を取り除くため、持統が〈政策としての謀殺〉を行ったのではないかと考えられます。しかし、『懐風藻』河島皇子伝は、大津親友であった河島が友情より忠義を取り、謀叛を密告したことを伝えています。あるいは大津自身にも、自らを天武の後継者に位置づける言動があったのかもしれません。

藤原京が低湿地帯に造営されたのは、何か理由があったのでしょうか?

よく分かっていないことが多いのですが、ひとつには、古墳時代から続く水の祭祀が、大王の責務として重視されたからでしょう。飛鳥諸宮、難波宮大津宮とも、水の至近にあり、必ず水とともに語られます。藤原宮も、『万葉集』に採録されたその存在を祝福する歌は「御井」の歌であり、藤原宮に湧出する清泉を言祝ぐ内容になっています。もうひとつは、やはり大和三山飛鳥時代からの南北・東西の交通路が、条坊の設定の基準になっていたためでしょう。藤原宮に繋がる中央の朱雀大路に、丘陵(日高山)のある位置を設定せざるをえなかったことを考えても、少なくとも宮の置かれる中心地については、あまり設計の自由度がなかったのではないかと考えられます。

藤原京(宮)と藤原氏には、何か特別な繋がりがあったのでしょうか?

正確には、「藤原」と地名が冠されているのは「宮」の部分で、「京」自体は史料的には「新益京」と呼ばれていますので、ここでは藤原宮藤原氏との関係について考えてみます。実証的には、その関わりは明確ではありません。ただし藤原不比等が、律令を体現する自らの氏族と、律令国家に不可欠な要素である藤原宮とを、関連づけようとしたのは確かでしょう。実は「藤原」という名称は、当初鎌足に連なる中臣氏全体に与えられていたものが、のちに不比等によって、鎌足の子供たちのみに限定されてゆくのです。これは、藤原宮で政務が執られる時代にあって、自らの氏族と王権との一体化を図ったものと考えられます。なお、日本における国文学民俗学大成者である折口信夫は、フヂハラを「淵原」、つまり水の湧き出す低湿地帯と解釈したうえで、王権の伝統に連なる、王にその神聖性の証となる聖なる水を捧げる巫女水の女)の存在を、天皇の妃を輩出する藤原氏属性にみていました。その見解の当否はともかく、新たな律令国家の出発点において、「藤原」という名称は特別な意味を持ったのだと考えられます。

陵墓の設定について、どのような根拠で行ったのでしょう。掘り返せない以上、中の遺体が誰なのか特定できないと思いますが…。

もちろん、大王の系譜である「帝紀」をはじめ、宮廷に何らかの記録は残っていたと思われます。しかし、その系譜自体が信憑性に乏しいので、ある意味ではこの時期、系譜と陵墓が「創出」されたといっても過言ではないでしょう。とくに、雄略より前の大王たちについては、『古事記』『日本書紀』のもとになった記述とともに、このときに造型されてゆくのだと考えられます。

飛鳥時代の死生観については、話がありませんでした。仏教の導入を受けて、どのように変わったのでしょうか?

飛鳥時代の死生観は、古墳時代のそれと大きな変化はありません。ただし宮廷社会とその周辺には、仏教的な浄土への往生を意図したような史料が散見されるようになります。この傾向は8世紀に至り、経典の願文にもみえるようになります。時代的には少々降りますが、奈良時代を通じて現れる重要な死生観の変化に、殺生罪業観があります。これは、生きとし生けるものが、みな生まれ変わり死に変わりを繰り返すなかで繋がった、かつての父母であり、兄弟姉妹であり、自分自身であるといった輪廻観と結びついています。ゆえに、それらの生命を奪う殺生は大きな罪となる、という考え方です。恐らくは、それまで日本列島に存在しなかった考え方で、飛鳥奈良・平安を通じて次第に社会に定着し、ある意味で人々の心性をがんじがらめに束縛し、鎌倉仏教の誕生を促してゆきます。

文芸と藤原京による天皇の神格化は、民衆にまで浸透していたのでしょうか?

難しいでしょうね。ただし、朝廷の命令は、一応は必要のあるものは里長まで伝達され、庶民へ口頭で説明されることになっていました。別のところでもお話ししたように、調といった租税は、被徴収者が直接都まで運搬してゆくことになっていました。その折に通過することになる直線的道路の威容、辿り着いた都の、整然と区画された広大な敷地に壮麗な建物を有する風景は、人々に、自分が強大な力によって支配されていることを刻印したと考えられます。

ローマ皇帝たちも自らを神格化したが、このような行いは多神教国家においてよくあることなのだろうか?

フレーザーの『金枝篇』が古典的名著ですが、王が神聖性を併せ持ち祭政一致の状態で統治をなすことは、古代社会、民族社会においては珍しいことではありませんでした。前にも同じように回答をしましたが、天皇は位についている間固有名詞を持たず、崩御によって位を退いてのちに、諡号の形で個性を手にします。これは、天子として君臨しているうちは彼/彼女は個体=人間ではなく、天皇霊を帯びた王という機関であることを意味します。そうすることによって人間性を超越し、神霊と感応し、森羅万象と結び合う存在になってゆくのです。しかしだからこそ、王が自らの役割を果たせなくなったときには、いわゆる〈王殺し〉が出来する。中国革命なども、そのヴァリエーションのひとつでしょう。王の身体が消えてもそれは交換可能であり、重要なのは神霊なわけで、殺害は罪とはされないのです。崇峻大王の謀殺に際し蘇我馬子が糾弾されなかったのも、大化前代の列島が同じような価値観なかにあったからかもしれません。

奈良朝には天智に対する信仰が強くあったとのことですが、どのようなところにみられるのでしょうか?

先日授業でもお話ししましたが、まず皇位継承法を定めた「不改常典」です。これは実態が不明ですが、「天武皇統」とされた人々によって、即位を正当化するために言及されます。大宝2年(702)には、天智の忌日も「国忌」として定められました。また、『懐風藻』の序文には、日本における文芸の始まりは天智の大津宮にあり、これが壬申の乱で灰燼に帰してしまったため、奈良朝においてはその復興を行わねばならない、といった趣旨のことが書かれています。皇位継承から文芸に到るまでのもろもろが、天智を起点に定められているのです。

中国や朝鮮に、皇族・王族が近親婚になった事例はあるのでしょうか。 / 当時の皇族は近親婚を繰り返して、何か身体的障害のようなものは生じなかったのでしょうか。 / 近親婚へのタブー意識は存在しなかったのでしょうか?

近親婚は、アジア地域に限らず、全世界に普遍的にみられます。王権との関係においては、やはりピュアイズム=純潔性堅持との関係が強いようですが、地域や民族における、時代ごとの個別の情況のなかで考える必要があります。一方で、近親婚がタブー視されていたことも確かです。それは、別段劣性遺伝を経験的に知っていたということではなく、女性を交換するためだったというのが人類学定説です。すなわち、かつて移動生活にあった人類は、その小集団のなかで婚姻を繰り返すと、縮小再生産となりいずれは滅んでしまう運命にあった。そこで、他の集団から女性を得て集団の縮小を抑止するという文化ができあがってゆく。しかし、他の集団から女性を得るということは、自分の集団からも女性を出さなければならない、そうしないと無用な軋轢や対立、場合によっては戦争を招くことになる。そこで「近親婚のタブー」を作り、小集団のなかで婚姻を繰り返すことを否定し、外部へ転出させる文化を構築していったというわけです。多数の勢力がせめぎあうような政治情況においては、無用な対立・紛争を回避するために、政略的に婚姻関係をなすことが行われました。そうした環境下では近親婚は意味がなく、共同体的な罪としてタブー視されたと考えられます。中国朝鮮ではそうした意味もあり、時代によって同性婚を禁じる仕組みが存在しましたが、藤原氏全盛となってゆく古代日本ではそのベクトルが弱く、皇位継承を安定的に行う血統の神聖性を構築するためか、ミウチ化を進めてさらなる結束を生み出そうとするためか、宮廷社会を中心に近親婚が繰り返されてゆくのです。

「不改常典」のとおりに、本当に皇位継承は行われえたのでしょうか?

授業でお話ししたとおり、「不改常典」がいかなるものなのかは、史料には明確に語られていません。しかし、元明以降の天皇が即位の際、それをあたかも天智の権威で正当化するかのように口に出すのです。奈良王朝の皇位継承のあり方と結びつけて考えれば、それは中国的な父系直系継承の原理、具体的には(藤原氏を外戚とする)草壁の子孫に皇位を嗣がせてゆくこととみられますが、それは結果論です。「不改常典」のとおりに皇位継承が行われたのではなく、かかる皇位継承を実現するために「不改常典」が持ち出された、誤解を怖れずにいえば「創り出された」のです。

大宝律令などの律令には、どのような目的があったのでしょうか。人民のためなのか、逆に人民を支配するためなのか。 / もし中国の影響を受けなければ、日本は律令国家にならなかったのでしょうか。もしそうなら、どのような国家になっていたのでしょうか? / 律令が定められる以前は、法のない社会だったのでしょうか?

古代国家の意識としては、まずは中国王朝と同様の文化的体裁を手に入れることが、目的であったと思われます。律令を制定する以前の列島社会も、もちろんまったくの「無秩序」であったわけではありません。それぞれの共同体には、長年の間に培われてきた慣習法が存在し、それに基づき、より広範囲な形での社会的合意も存在したはずです。しかし、中央主権国家が作られ、もともと異なる社会であった遠隔地どうしが結びつき、ひとつの社会のなかでも上層と下層との間にさまざまな接触が生じ、国家の業務が複雑・煩瑣になってくると、どうしても統一的な取り決め=法律が必要になってくる。古代日本はそれについて、まず大きな枠組みを中国律令を微調整して輸入することで形成し、それと現実社会との間を調整する修正法(格)、施行細則(式)を、準じ制定してゆく形で運営してゆこうとしたわけです。

律令国家においては、日本の在来の習俗を抑え込むように、儒教に基づいた統治を行っている。なぜいつの時代にも、国家のエリートは、「外国万歳」の状態になるのか? / 日本は、他の国から文化、社会のあり方を採り入れなければいけないほど、発展が遅れていたのでしょうか?

この授業の冒頭でお話ししたように、現在、国際社会で「先進国」と位置づけられている日本と、少数民族の生活を比較したとき、われわれが常識的に「日本が発展している」と考えるのも、極めて限定されたものの見方に過ぎません。いま、着の身着のままの状態で原野に放り出されたら、都市社会に生きるわれわれは、数日のうちに生命を落としてしまうでしょう。いまのわれわれは、社会と文化によって庇護されているわけで、ひとりひとりが必ずしも、身体的・精神的に優れているわけではないのです。それは果たして発展なのか、と問うことは可能でしょう。それと同じように、律令国家の形成期には、朝鮮諸国や中国王朝の文化を摂取し、同等の「文明国」となることが「発展」と考えられたに過ぎません。それは当時の王権・国家が、アジアに対し開明的な意識を持っていたことの表れで、別段恥ずかしく思うことではないはずです。ただし、その中国化、「近代化」によって失われてしまったコト・モノがあるのも確かであり、それらにしっかりと目を向けてゆくのが、歴史学の役割のひとつであると思います。

不比等は大宝律令の制定に関わりますが、律令に関することはどこで学んだのでしょうか? / 国史の編纂や貨幣制の整備なども、不比等が行った政策なのでしょうか。彼は法についての知識だけでなく、経済の動かし方や掌握の仕方についての知識も持ち合わせていたのでしょうか?

不比等田辺史氏との関係については、『尊卑分脈』藤氏大祖伝/不比等伝に、「内大臣鎌足の第二子なり。一名は史。斉明天皇五年に生まる。公避くるところの事有りて、便ち山科田辺大隅等の家に養はる。其れを以て史と名づくるなり」と出てきます。「公避くるところの事有りて」というのがミステリアスですが、とりあえず田辺史についてみてみると、河内国安宿郡田辺(現大阪府柏原市田辺)、摂津国住吉郡田辺郷(現大阪市住吉区田辺)などを拠点とする、フミヒト系渡来系氏族(史部。西文氏の管理下に、文筆・記録を担った)であり、学問や渉外関係で顕著な業績を残した人々を輩出しています。例えば、田辺史鳥は白雉5年(654)の遣唐判官、田辺史百枝は大学博士大宝律令の撰定者、田辺史首名も同じく大宝律令の撰定者、田辺大川は宝亀8年(777)の遣唐録事・大外記・『続日本紀編纂者、田辺史(上毛野朝臣)頴人は延暦23年(804)の遣唐録事・大外記・『新撰姓氏録』の編纂者です。すなわち、歴史編纂だけではなく、不比等法律的知識、対外的知識なども、この氏族との関わりにおいて養われたものと推測できます。彼は先進的な知識・技術を持つ渡来系氏族に養育され、彼らのネットワークに接続することで、中国朝鮮の国家運営に関わる知識を吸収し、身体化していったものでしょう。

レポートで『日本書紀』について書こうと図書館に行ったとき、『古事記』と比べて文献が少ないように感じました。この2つの史料に冠して、研究の進み方に違いはあったのでしょうか?

授業でもお話ししたとおり、古代においては、『古事記』は『日本書紀』を読むための参考書のひとつに過ぎませんでした。しかし近世の国学以降、中国に侵されていない純粋な日本を志向する立場から、中国正史の形式に倣い漢文で書かれた『書紀』より、ヤマト言葉の音韻を諸々に用いた『古事記』が重宝されるようになりました。また、『古事記』がひとつの統一的な神話の体をなしているのに対して、『書紀』が異伝を多く含み、また漢籍も多く引用していて、難解な箇所が多く存在します。そうしたことから、『古事記』の神話学的・神道学的な研究啓蒙的な概説が多く出版されるに至ったのです。しかし歴史学においては、『書紀』研究の積み重ねは厖大ですし、授業でも紹介した森博達さんの本をみてもらえれば、その深遠さがよく分かると思います。とくに今年は、『日本書紀編纂1300年へ向けて、すでに多くの出版物論文集が刊行されています。ぼくの関わった専門書もありますので、ぜひ手に取ってみてください。

神話と歴史はイコールなのでしょうか?

学術的な概念としては、2つは異なるものです。まず神話は、過去のある1点との関係において、現状の諸事象を説明するもの。例えば天照大神が皇孫ニニギに豊葦原中津国の支配を命じたことをもって、天皇統治正当性正統性を説明するようなものです。それに対して歴史(近代歴史学)は、事象を過去から現在までの変化のプロセスなかに捉えます。過去の1点を絶対化・神聖化する歴史とは、相容れないものです。しかし、前近代においては、神話を神の言行、歴史を人の言行と捉え、両者を時間的に接続するものとみなしたり、歴史事象を神話によって説明することが広く行われていました。そうした考え方においては、神話=歴史の等式が成り立ちます。

不比等は、草壁皇子にどのように接近したのでしょうか?

不比等自身が草壁に接近したというより、天武もしくは持統によって、草壁のブレーンとして配置されたということでしょう。草壁のライバルともいうべき大津には、壱伎連博徳、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須らがブレーンとして奉仕していました。壱岐博徳は斉明〜持統朝に外交官として活躍、大宝律令編纂にも参加しています。中臣意美(臣)麻呂は鎌足の従兄弟国足の子で、藤原姓が不比等の子孫にのみ継承されると中臣氏の族長的地位に就き、大舎人として大津に仕えたのちは、判事・鋳銭司長官・左大弁・神祇伯・中納言などを歴任しています。巨勢多益須も『尊卑分脈』の伝記に鎌足の猶子とあり、判事・撰善言司・式部卿などを歴任しました。外交や法律に明るく、鎌足と縁の深い人物たちです。では、鎌足の正統な後継者というべき不比等はどうだったのかといえば、皇太子草壁との繋がり蘇想定せざるをえません。天平勝宝8年(756)『国家珍宝帳』は、同年6月、光明皇后が聖武の遺品を東大寺に献納した際の目録ですが、両者の関係を考えるうえで興味深い伝承が記されています。聖武の遺品のひとつとして〈黒作懸佩刀〉なるものが挙げられ、「右、日並皇子常に佩き持ちたまへるところにして、太政大臣に賜ふ。大行天皇即位の時、便ち献ず。大行天皇崩じたまふ時、亦大臣に賜ふ。大臣薨ずる日、更に後太上天皇に献ず」、すなわち同太刀は、もともと草壁の佩刀を不比等に与えたもので、文武即位のときに不比等から奉献され、文武が崩御したときにまた不比等に賜り、不比等の薨去の際に聖武に奉献されたというのです。不比等が草壁皇統の存続を補佐する、象徴ともいえるものだったのでしょう。

金属鉱開発の際の調査は、どのような人々が担ったのでしょうか。

各国の国司や郡司のもと、鉱山発見や採掘の知識・技術に明るい氏族が担ったものと考えられます。例えば殖産興業氏族の秦氏は、各地で銅や丹生(水銀)の生産に当たっていた可能性が指摘されており、例えば銅を採掘している豊前、丹生の地名がある越前伊予伊勢土佐讃岐若狭越前近江紀伊などにも、秦氏の広汎な分布が確認されています。恐らく渡来系氏族が多かったものと思いますが、これも氏族制の名残といえるでしょう。

武智麻呂は正六位で出仕したのち、最終的に正一位・左大臣にまで登り詰めていますが、それは不比等の長男だからでしょうか、それとも実力ですか?

もちろん、まずは藤原不比等の子息であるという点が大きいでしょう。しかし、『藤氏家伝』のうち「武智麻呂伝」を読む限りは、彼は充分な実力を持っていたようです。授業でも述べましたが、彼は長屋王や弟の房前のように議政官として廟堂に登場するのではなく、まずは地方官として地域の実情をみて、寺院合併令をはじめとした現実主義的な施策を提案してゆきます。当時の廟堂は、大化前代以来一氏族一人の原則がありました。不比等の存命中、参議として房前が廟堂入りしていましたが、これは房前がすでに不比等家から独立していたことを示し、不比等の死後、武智麻呂が中納言としてあらためて朝廷に入ります。房前は、皇室藤原氏との仲立ちを責務としており、長屋王邸にも出入りしていたようですが、長屋王変に際してはやはり武智麻呂に荷担しています。宇合や麻呂の行動にも乱れはありません。藤原氏は、武智麻呂・房前の母親蘇我氏出身であるなど、奈良時代に至る歴史過程で政治の表舞台から脱落していった氏族を、その内部へ取り込んでいった形跡があります。武智麻呂自身、外戚一族の石川石足をブレーンとしたようですし、長屋王邸を取り囲んだ各氏族も、律令制の枠組みからふるい落とされそうになっているところを、藤原氏に懐柔された形跡があります。文武に秀でた兄弟たちをしっかり統括しているのをみても、武智麻呂には強いリーダーシップがあったのではないかと推測されます。

親王と皇子は何が違うのでしょうか。 / 系図にある称号は、どのように区別しているのでしょうか?

律令体制以前の『古事記』や『書紀』の記述では、天皇の子女は「皇」字を持つ「皇子」「皇女」と表記されています。しかし、天皇制成立前の段階では、『書紀』などに「皇子」の表記があっても、学術的推測によって「王」「女王」と書き直す場合があります。また、律令制以降は令の条文などに従い、天皇の子女・兄弟姉妹を「親王」「内親王」と表記するようになりました。ただし平安時代には、天皇の子女が増加し皇位継承に混乱が生じるのを防ぐため、たとえ天皇の子女であっても、天皇により「親王内親王)宣下」を受けた者だけが「親王」「内親王」と認められるようになりました。

持統天皇や元明天皇など女性天皇は何人かいたのに、孝謙天皇が「初の女性皇太子」とはどういうことですか?

授業でもお話ししましたが、皇太子制度は天皇称号の使用とほぼ時を同じくし、草壁皇子の立太子に際して初めて使用されたと考えられます。前天皇が、後継者を予め一人に絞り、継承をめぐる紛争を可能な限り抑えようとする仕組みです。このあと孝謙に至るまで天皇に即位したのは、持統、文武、元明、元正、聖武ですが、まず持統の場合は、もともとは草壁が即位し、充分な年齢に達した珂瑠皇子=文武がその崩御後にあとを継ぐ予定であったため、持統は皇太子になっていません。文武を即位させるまでの間、持統が皇位を担った形でです。元明の場合も同様で、皇太子首皇子=聖武であり、草壁の早世を補うために即位をしています。元正もそれを受け継いだ形で、皇太子になっていません。つまり、のちに即位することが約束されている男性皇族がおらず、女性として初めて現天皇後継者皇太子に定められたのが、阿倍=孝謙であったということです。

平城京の朱雀門や大極殿は、何を手がかりに復元しているのですか?

基本的に、平城京遺構の柱跡や出土瓦のほか、平安京大極殿朱雀門に関する絵巻等々の史資料や、法隆寺薬師寺東大寺海龍王寺五重小塔などの前後の時代の建築四天王寺薬師寺唐招提寺難波宮などの出土品を参考に復元しています。よって、充分な研究の成果ではありますが、実際の平城京における朱雀門大極殿が、あのような建物であったという確証はありません。事実、復元工事が行われて間もなく、平城京朱雀門平安京のような二重門ではなく、単層平屋根であったという研究も発表されています。やはり、あくまで仮説を形にしたものである、という認識が必要ですね。

当時の一般の人々の暮らしについては、どの程度分かっているのだろうか?

中世以降に比べて史料が少ないことは、やはり否定できません。ただし、それでも民衆生活の判明する史料はあるし、いろいろなことが分かってはいます。例えば、これは「庶民」とは呼べないかもしれませんが、東大寺の造営や種々の仏教事業に当たった造東大寺司の下級官人、安都雄足。彼は、奈良時代の正史続日本紀』には登場しませんが、かなり事務能力の高い人間であったらしく、奈良時代の行政文書が一括して残った同時代史料正倉院文書のなかには、頻繁に名前が登場します。彼は造東大寺司の公経済と自らの経済活動を巧みに連結させ、米の運用や荘園経営において、多くの利益を得ていたことが分かっています。また、平安初期に編纂された列島現存最古の仏教説話集『日本霊異記』は、奈良時代に官僧たちによって法会その他で語られた説話類が収録されており、そのなかには、一般庶民の生活のあり方や生業の様子、結婚恋愛信仰などを具体的にみることができます。『万葉集』にも庶民の歌をみることができますし、『風土記』にも地方の生活、民俗や伝承を確認できます。さらに考古学的成果と重ね合わせれば、そこからみえてくることは少なくないのです。

2018-07-03 アジア・日本史系概説I(07/03分)

畿内の豪族たちの歴史をもって「日本史」とすることに非常な違和感があります。『書紀』を史料として用いる限り、万世一系の天皇制イデオローグの呪縛からは逃れられないのではないでしょうか。

仰ること、よく分かります。飛鳥奈良・平安になると、短い時間のなかで語らなければならないことも多く、どうしても内容が中央政治偏重になってしまい、その意味でも問題があるな、と自覚しています。なお『日本書紀』の問題ですが、書かれていることはそのまま史実と位置づけられないとしても、例えば神話の叙述については『古事記』とは異なる多様性があり、また百済関係の諸史料を援用して本文を補足あるいは相対化しているような箇所があって、内容・構成的には極めて複雑です。これを、漢籍や音韻を利用し、あるいは他の7世紀末〜8世紀の史料と比較検討してゆく作業によって、『書紀』が表面的に語っている以上の内容が明らかになっていることは確かです。同書を天皇制のイデオローグとして無視することは簡単ですが、それ自体も科学的態度とはいえず、また『書紀』に内在するさまざまな可能性を放棄することになってしまいます。偽書をも史料として多くのことがらを見出すのが、史料批判白眉たるところです。例えば私は以前、漢籍・仏典と『書紀』の崇仏論争記事を比較検討することで、その説話性を明らかにするとともに、同書の歴史叙述が「中華王朝と同質の歴史を歩んできた」と立証するためにあるとの見解を発表したことがあります。史料は、読解者の視点と方法によって、表象する意味を大きく変えてゆくのです。

蘇我倉山田石川麻呂は、本家ではないとはいえ蘇我氏の人間なのに、乙巳の変に関わることは大丈夫だったのでしょうか?

乙巳の変の前段階でみたように、それをいうならば、蘇我蝦夷は氏族中第2の地位にあった境部臣摩理勢を自殺に追い込み、入鹿は山背大兄王を自殺に追い込んでいます。蘇我氏内部が内紛状態になり、この当時中立的な立場を貫いていた倉山田家は、最終的にクーデター派に組みし、自身が蘇我氏の本宗家となることを志向したのでしょう。蘇我氏の氏族構成については諸説ありますが、7世紀前半の段階では、内政・外交財政など、分掌する国務ごとに半独立的な状態に至っていたのではないかと思われます。本宗家が境部臣を粛清し、倉山田家に打倒されたことは、内政を担っていた集団が外交集団を牽制し、それに危機感を覚えた財政グループが密かに他氏と結びついて対抗した、とみることも可能でしょう。

暗殺事件を起こした人物は何らかの処罰を受けるものだが、中大兄や中臣鎌足は処罰を受けたのか?

授業でもお話ししましたが、刑法を規定した律は、奈良時代においても規定どおりには運営されていません。律令国家は法治国家の体裁を整えていますが、その内実は天皇家と一握りの畿内豪族による専制体制であり、生殺与奪の権限も、法律以前に彼らの手に掌握されていたとみてよいでしょう。実力主義の社会との端境期である飛鳥時代は、なおさらです。中大兄と中臣鎌足がクーデターによって実権を掌握した以上、彼らを処罰できるものはいません。むしろ、彼らの行ったクーデターこそが刑罰であったのだと正当化されるのです。

古代の日本の権力者はきらびやかな装飾品を身に付けていますが、平安時代くらいからそうしたことがなくなるのはなぜでしょうか?

難しいですねえ。NHKドラマの『大化の改新』は、藤ノ木古墳などの発掘によって浮かび上がってきたきらびやかな装飾品、その他高松塚古墳の壁画、隋唐の中国資料を参考にしながら衣裳デザインをしていると考えられますが、日常的にあのような装飾品を身に付けていたかどうかは分かりません。ドラマも、三韓の朝貢という儀礼の場を舞台にしていたので、あの場に集まっている大夫たちは、みな第一級の礼装を身に纏っているわけです。平安時代においても、儀式の場では種々の装飾品を身に付けます。もちろん、例えば女性の場合、耳環や腕環など、ストレートの髪型やゆったりした袂の展開によって使われなくなったものはあります。雰囲気も大きく異なりますが、衣服の布については上等なものを用いていますし、調度品も唐物の高価なものを散りばめています。質素になったというわけではなく、意を注ぐポイントが変わってきたのだといえるでしょう。

日本に儒教が入ってくるのは飛鳥時代なのに、本格的に日常生活に取り込まれるのは江戸時代に入ってから、というのはどうしてですか?

授業でもお話ししましたが、現在では当たり前の道徳のように考えられている長幼の序君主に対する忠、父祖・両親に対する孝、友人に対する義などが、儒教の教えが浸透する以前の倭においては、必ずしも自明道徳倫理ではなかったのです。ゆえに、これらの価値観が定着してゆくには、非常に長い時間を有しました。しかし、身分に応じて服装を区分する、話し方を変えるなどの礼儀も、実は儒教に由来します。そうした国家によって制度化しやすいものから始まって、だんだんと、民衆の世界にも儒教思想が入り込んでゆくのです。

孝徳朝から天智天皇の時期に謀反の疑いで殺されたひとのなかに、本当に謀反を企てていた人はどれくらいいたのでしょうか。

これはもう解釈論になりますので、正確なことは分かりません。しかし、実力主義の社会の名残があったとはいえ、政権首班蘇我宗家が滅ぼされた衝撃は大きかったはずですし、東アジア国際的緊張が高まっていることも、支配層には自覚があったはずです。それでも、自分に中大兄・中臣鎌足のグループを打倒できる実力があり、自分が政権の首座にあったほうが、倭国をうまく舵取りできるとの自負のある人物は、ほとんどいなかったでしょう。石川麻呂については、蘇我氏の力をもう少し削っておくべきだとの判断があったのでしょうし、蘇我宗家が次期大王に推していた古人大兄の場合は乙巳の変の事後処理、孝徳の遺児有馬皇子の場合は、斉明朝飛鳥の開発事業に反対する勢力を牽制するための措置であったと考えられます。

朝鮮三国が、別々の方法で中央集権へ向かったことが面白いと思いました。なぜ三者三様なのでしょうか?

高句麗百済新羅、それぞれの王国の特徴と、その時代の状態が表れている、ということでしょう。高句麗は、三国のなかで最も古く、古朝鮮を受け継ぎその復権を果たさねばならないという意識を、濃厚に持った国であったようです。半島中国王朝との境界をなし、これまで何度も王朝の介入に対して抵抗してきました。淵蓋蘇文が王を傀儡にして実権を掌握したのは、そうした度々の軍事行動において豪族の勢力が強大化していたためでしょう。それに対して百済は、王家内部の紛争の形で中央集権が果たされていますが、これは、王家が長く中国南朝に冊封されその高い文化性を受容し、そうした威信財をもって国家の統治を進めてきたことと関わりがあるのでしょう。最後の新羅中国王朝との連絡路を高句麗百済に阻まれ、文化的にも勢力的にも最も弱小でした。のちに、三国のうちで最も唐に親近しその文化を受容してゆくのは、そうしたコンプレックスの表れでもあり、三国間の闘争のうちで一足飛びに「近代化」を果たさなければならなかったためと考えられます。

唐はなぜ、百済や高句麗に介入したのでしょう。朝貢していた国には政治へ介入しない、という考え方を中国はしていた、と本で読んだことがあります。

中華を統一した隋や唐にとって、朝鮮半島経営は重大な関心事でした。高句麗は一応は中国王朝に冊封される立場でしたが、領土をめぐり緊張関係は常に持続しており、小さな衝突は続いていました。唐は、東突厥や高昌を滅ぼして北方・西方を平定したのち、631年に矛先を東方へ向け、隋/高句麗戦役における隋人戦死者の遺骨を収集、併せて高句麗の京観(戦勝記念塚)を破壊します。前王朝である隋の達成できなかったことを遂行する、という意思表示でしょう。また、高句麗百済が親唐的であった新羅へ、唐の抑止告諭も聞かず侵出を繰り返していたことも、大きな懸念材料でした。

白村江の戦いについて、倭は本当に勝算があったのでしょうか。それとも百済との関係上、出兵せざるをえなかったのでしょうか。

これについては、謎が大きいですね。倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、それほど水軍戦に経験豊富だったとは思われません(もちろん、海上交通や対外軍事に知識・技術のあった氏族を、統轄者として派遣していると考えられますが)。中央集権化を進めるなかで、失われた南朝鮮の拠点に対する〈中華意識〉が肥大化し、百済復興の戦闘によって、それが回復できることを妄想してしまったのでしょう。倭が本当の意味百済を冊封しようとしていたことは、その後の百済王族の受け容れ方、〈日本〉への傾斜によっても推測できます。その意味では、推古朝の遣隋使と同じように、どこかで外交感覚麻痺してしまっていたとしか考えられません。

受け入れた百済の難民はどの程度の数だったのでしょうか。

日本書紀天智天皇4年2月己酉朔丁酉条には、百済王族に倭の位階を授け、百済の百姓の男女400人余りを近江国神前郡に貫付したことがみえます。また、同5年是冬条には百済男女2000人余りを東国移植させたこと、同10年11月甲午朔癸卯条には、唐使郭務悰らが1400人の百済遺民らしき人びとを率いてきたと記載があります。これらにどの程度重複があるのか、正確な数かどうかは分かりませんが、3000〜5000人規模の受け入れがあったとみてよいのではないでしょうか。

亡命百済人を受け入れることが、どうして「日本」という国号に関係するのでしょうか。 / 倭が百済と合体して大王が天皇になったのは、百済の権威が日本において大きかったからでしょうか。

どこかで指摘したと思いますが、中国王朝朝鮮諸国においては、滅亡したかつての王国や、自らが滅ぼした王朝の存在をその支配体制に取り込むことで、自国の正当性正統性を主張することがよく行われました。倭も同じように百済王家を取り込み、これまでの倭以上の〈小中華〉としてのあり方を目指し、〈日本国号の使用へ踏み切ったものと考えられます。具体的には、倭に人質として送られてきていた百済王族のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、列島に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。新羅は、朝鮮半島をも自国の範疇に組み入れようとする唐に反発、自らの管理下のもと名目上百済高句麗復興させますが、このような動きに対して倭は百済王氏を誕生させており、新羅正当性に対して「百済は倭にあり」とのアンチテーゼをなしたものと考えられます。これまで授業でお話ししてきたとおり、百済は倭を武から文へ転換させた窓口であり、ある意味でこの吸収は、古墳時代後期から模索されてきた倭の東アジア外交の、ひとつの到達点であったということができます。

日本は飛鳥時代、これほど異文化を受け入れていたのに、平安時代以降に閉鎖的になってしまうのだろうか。

そんなことはありません。今年は平安時代を詳しく扱う時間は持てませんでしたが、「菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、外来文化が入ってこなくなることで国風文化が栄える」といった考え方は、誤りであることが指摘されています。実は、道真の建議を受けて遣唐使停止の会議が行われたこと自体、史料的には確認できませんし、遣唐使が停止に至ったあとも、中国の民間船は大宰府との間を往復し、多くの唐物が列島へともたらされているのです。『源氏物語』にも『枕草子』にも、当時の貴族社会で中国舶来の品々、中国的知識がいかに珍重されていたかが記されています。列島文化は、常に対外的要素との交渉のなかで育まれている、ということは間違いありません。

庚午年籍について。それまで戸籍がなかったということは、大王の統治はどのように行われていたのでしょうか?

授業でもお話ししましたが、地方では、その地域の在地の有力豪族を国造に任命し、委託統治を行っていました。その段階では、民衆ひとりひとりに定額の租税と労役を課す個別人身支配ではなく、国造が支配地域の複数の共同体を統括し(一部は自らの私有民として支配)、その国造に王権が物品・人間の奉献や軍役奉仕などを求めるという、間接的/重層的な支配の構造が作られていました。一般の人々が地域首長に仕えることが、そのまま王権奉仕することとイコールで結ばれていたのです。のちに律令制で制度化される「租」などは、もともと共同体の人々が首長に対して行っていた、毎年の最初の収穫を奉献するという初穂貢上儀礼が原型であると考えられています。地域首長の支配のあり方が王のそれへと転化し、王の支配のあり方が地域首長のそれに転化する構造のなかで、古代王権の支配が実現していたのです。

戸籍が作成されたあと、戸籍登録者と無国籍者とは、どのように共存していたのだろうか。

奈良朝の律令体制以降も、戸籍が定期的に編纂されるなかで、海や山にはそれらに貫付されない人々が、狩猟漁労その他を生業に、半ば移動をしながら生活していたと考えられます。稲を経済的単位根本に据えた稲作至上主義のなか、水田耕作に従事しないこれらの人々は、次第に差別され排斥されるに至ります。しかし古代においては、未だそうした感覚は未成立で、里と山、里と海における物品の交換が種々進められていたと考えられます。王権自体も、それらの人々には租庸調ではない特別な税を課し、山海の産物を奉るニエなど、独自の貢献物を通じて弾力的に統括しようと考えていたもようです。

戸籍を定めて人びとを管理したいという気持ちは分かるが、読み書きのできる人は少ない時代で、どのように管理していたのだろうか。

古墳時代の屯倉などへも、文筆をよくする渡来系のフミヒトと呼ばれる人々が奉仕し、文書行政を担っていました。もちろん、全国的ということになれば、さまざまに無理があったものと考えるのが妥当です。庚午年籍全国的なものではなく、王権の直轄地や中央集権に協力的な豪族の統括地で、ようやく作成することができた試験的な戸籍だったのではないでしょうか。「氏姓の根本台帳」とは、それがヤマト王権支配層=畿内豪族のものであったことを暗示しているように思われます。

庚午年籍の作成は、実際にはどのように行われたのでしょう?

非常に難しい問題です。改新政府の政治改革によって、これまで国造へ委任統治されていた各地域へ国・評・五十戸の行政機構が作られてゆき、国造は自らの支配領域を評として立てることで、その管理者である評司(のちの郡司)へ転換していった。天智朝に至るまでに、そうした中央集権化の試みは一定の進展を得ていましたが、やはり白村江の敗戦もあって、氏上の権威の拡張、部曲の一部承認など、豪族たちへの妥協も図らねばならなかった。庚午年籍の作成は、そうした微妙な政治的駆け引きのなかで、初めて実現しえたものでしょう。具体的には、臨時の中央派遣官であった国宰が統括し、諸国の国造、評司の協力を得て進められたと考えられます。それゆえにこそ、その作成過程において、種々の混乱や軋轢、不満の蓄積があったものでしょう。のちの神亀4年(727)には、筑紫諸国において、庚午年籍770巻に官印を押すことが命じられ、承和6(839)・10年には、京畿・諸国において、庚午年籍を写し進上することが眼命令されています。実在していたことは間違いないようですが、それがどこまで正確なものだったのか(本当に「氏姓の根本台帳」となすに足るものだったのか)、全列島的なものであったのかどうかは不明で、個人的にはやや疑わしいと考えています。

壬申の乱と庚午年籍を関連づける義江彰夫説は面白いと思うのですが、なぜ王が人民のひとりひとりを把握することが、『旧約聖書』でタブーとされていたのでしょうか。 / 日本列島の情況と『旧約聖書』の状態を、それほど簡単に結びつけていいのでしょうか。

旧約聖書フォークロア』を著したフレーザーは、首長制から古代国家へ展開する段階での首長共同体との関係の軋みを、多くの民族社会に普遍的なものと捉えているのです。弥生時代のところでお話ししたように、共同体の結束を重視する社会では、成員の平準化が図られ、政治的社会的経済的に個人が突出することを抑制していました。一方、個別人身支配は、そうした共同体規制破壊して屹立した首長が、その権威権力のもとに、人民ひとりひとりを管理・支配するということなのです。『旧約聖書創世記表象する神は共同体の神であるために、いわばその神の権威を奪い強大化してゆく王を牽制し、個別人身支配をタブー視しているのでしょう。義江彰夫さんも、もちろん古代イスラエル列島社会を安易に結びつけているわけありません。類似の社会情況にある列島社会、すなわち、古墳時代を通して共同体を抑圧してきた王の力がある限界を超えようとしている7世紀後半に、『旧約聖書フォークロア』の見方を導入することで、記録に表されていないゆえに可視化されていない、その具体相を浮かび上がらせようとしているのです。

ある歴史番組で、大海人/大友の対立には、国際的な問題が絡んでいると放送していました。大友を支える官僚には百済系が多く、大海人は大友の政策が唐の侵攻を誘発するものと危惧していたとか。先生はどう思われますか?

壬申の乱に、国際的な緊張状態が強く反映していたことは確かでしょう。しかし、例えば天智が自らの王朝に内包した亡命百済人たちが、果たして近江朝廷のために積極的な役割を果たしたのかといえば、その痕跡はあまりありません。うち最高位であった沙宅紹明など、乱の翌年に亡くなった際には天武が冠位を追贈しており、むしろ大海人軍側に付いていたのではないかと疑われます。あまり軽率なことはいえませんが、とくに大海人は、新羅の反攻もあり、唐が倭へ侵攻してくる危険はとりあえず去ったことを確認して、乱を起こしたのではないかと考えています。もし当時、大海人が唐の侵攻をリアルに危惧していたのなら、国家を存亡の危地に追い込みかねない内乱など、選択するはずがないからです。乱の勃発をめぐる国際情勢は、もう少し別の形で把握する必要がありそうです。

壬申の乱における地方豪族の不満に人口調査を関連づける考え方は、非常に興味深いと思いました。実際、豪族たちが具体的に中央政治の何に不満を持っていたか、示されている史料はあるのでしょうか?

残念ながら、それを直接的に示してくれる史料はありません。ただし、壬申の乱における近江朝廷脆弱さは、その点を端的に表しているのではないでしょうか。実はこの内乱、両軍とも、庚午年籍に基づく徴兵によって得た兵力を用いて戦闘を行いました。大海人の軍は、近江朝廷が対新羅戦に備えて徴発しておいた兵を援用したのだと推測されていますが、同時に東国の有力豪族、大海人の拠点を形成していた豪族らのネットワークが活かされたのでしょう。一方の近江朝廷側も、実は天智から奉仕する蘇我果安ら首脳部を除き、現場で指揮に当たっていたのは、多く中央の中下級豪族や地方豪族出身者でした。彼らに大海人軍のような結束力はなく、乱の後半では互いに責任をなすりつけ合い、離反を招くなかで瓦解してゆきます。天智の実績と強いリーダーシップのもとでは随従していた人々が、大友には無条件には服属しなかったともいえそうです。

以前関ヶ原に行った際、壬申の乱の激戦地といった碑をみました。天下分け目の戦が二度も同じ場所で行われたことに驚いたのですが、何か地理的な面で戦場になりやすい土地だったのでしょうか。

激戦地というより、大海人が本陣を置いた野上行宮伝承地がある、ということだと思います。付近の不破関が、近畿東国を分かつ境界でしたので、授業でもお話ししたとおり、同地を閉塞することが大海人の勝利する第一条件でした。それを速やかに達成して、大津朝廷東国への影響力を遮断し、美濃尾張信濃などに分布している、大海人を養育した尾張連ら海人系氏族たちの支援を受けることができたわけです。壬申の乱も関ヶ原の戦いも、東西を代表する勢力の衝突になっていますので、不破や近江といった、両地の境界に当たる場所で最終的な戦闘が繰り広げられているのでしょう。

大海人皇子は当初は皇位継承を辞退したと聞きました。とすると、大友皇子との衝突は周辺勢力の圧力が大きいのではないかと思うのですが、調べる価値はありそうでしょうか。 / 吉野へ隠棲した大海人は、大津朝廷に対し政権奪取を目論んで行動していたのでしょうか。 / 天智が中国王朝化を志向し、それゆえに父系直系継承を目指したように、大海人も中国の諸制度を参考にしたと思うのですが、自分の即位に関わるとなると、そこは矛盾した行動を取ってしまうのでしょうか。

そうですねえ…大海人が本当に王位を継承する意図があったのか、それとも大友皇子に殺害されるのを恐れてやむをえず挙兵したのか、そのあたりのことはよく分かりません。しかし、彼が壬申の乱を負い目に感じていたことは確かで、ある意味では、天皇律令国家も、その負い目の重さが生みだしたといえるかもしれません。天武とその後継者たちにとって、自分たち正当化する方法は2つありました。1つは歴史書に、壬申の乱を極力謀叛の内乱であったとは記さないようにすること。大友は大王に即位していた可能性が高いと思いますが、もしそうだとして『書紀』がその点を記述しないのは、大海人の行為が大王に弓引くことになってしまうためでしょう。そうして併せてもう1つは、大海人の即位があくまで天智の意向に基づくと喧伝することです。『書紀』には、天智が大海人へ譲位を申し出、大海人のほうがこれを辞退したのだと明確に書かれています。天智の本来の意図は、大海人の即位にあったと読めるように記述されているわけです。

大友皇子が最初の太政大臣と聞いたことがあるのですが、不確かであるというのはどういうことでしょうか。

日本書紀天智天皇10年春正月己亥朔庚子条には、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣大友皇子をその上に立つ太政大臣として、その首班体制がスタートしたことが記されています。しかし、太政大臣は太政官組織律令によって規定されて以降、出現すると考えるのが一般的です。恐らくは、持統天皇が浄御原令を施行した前後に制度化されたものと考えられます。個人的には、大友皇子即位していてもおかしくないのではないかと考えています。『書紀』天智天皇10年11月丙辰条には、大友が内裏西殿の織仏の前で、群臣たちと、天智の遺詔を遵守してゆく旨を誓願したとの記事があります。これは、飛鳥の斎槻や須弥山像の前で行われた大王への服属儀礼の形式で、織仏は恐らく四天王か、須弥山そのものが描かれていたと考えられます。これはあるいは、百済王族を受け入れ仏教的に王権を改造しようとしていた天智朝の、即位儀礼であったのかもしれません。大友即位が『書紀』に明記されていないのは、大海人の立場で記述された同書が大海人を、大王を死に追いやった謀叛人として位置づけたくなかったためでしょう。太政大臣は、その詐術のために、レトリックとして仮構された地位ではないでしょうか。

大友皇子が「弘文天皇」と呼ばれるのは、なぜなのでしょうか。 / 大友皇子は即位したのでしょうか?

大友皇子即位したかどうかは諸説ありますが、私見については上の回答を参照してください。なお、「弘文」の漢風諡号は明治3年になってから、明治新政府の解釈に基づきあらためて奉呈されたものです。

「天皇」の語が「天皇大帝」に由来するなら、それは中華なる概念を日本に導入したことを意味するのでしょうか。

中華概念については、大化の改新以降に順次導入されてゆきます。とくに、須弥山像を宮都の飛鳥に築き、同地が仏教的な意味世界の中心であることを宣言、エミシやハヤトを呼び寄せて服属儀礼を行い、それを通じて中華皇帝に対する「夷狄」を創出したことは、そのことを明瞭に示しています。「天皇」号の使用は、その延長上にあるとみてよいでしょう。

「郡」「評」の相違は、飛鳥時代と奈良時代の境目であると、高校で習ったような気がします。持統朝で「評」表記の木簡がみつかった、ということに疑問を持ちました。

どこかで誤解があるのかもしれませんが、持統朝は時代区分でいえば、未だ飛鳥時代です。「評」表記は飛鳥浄御原令に基づくものとみられているので、大宝施行以前はこの表記が用いられているのです。