私も四十なって、漱石のバイブスっていうのかしら、となりに漱石がいたらどんな感じか、というのが、わかるようになってきた。 誤解も理解、とかいうのではないんだな。 そうではない。 しっかりと、直観のなかに填まる断片というか、情景の、後ろ姿の、ひとかたまりが一個の明確なカタチを備えることって、あるんだよ。 そんな日が来るのかな、とか、夢見ているうちは、先達のいろいろな人生訓ってやつは、来ないですね。 ある時にストンと来る。 人並みに、数寄屋橋のオーバカナルで酒飲んでくつろぐことを覚えて、緑内障のための診察券とかが財布のなかに入るようになって、ある時にそういえばそんなこともかんがえていたものだっけ、と…