森友文書改ざん 佐川元局長を捜査 東京地検 偽計業務妨害容疑 - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000267.html
http://web.archive.org/web/20180815233239/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000267.html

森友学園」を巡る財務省の決裁文書改ざん問題で、東京地検特捜部が偽計業務妨害の疑いで、佐川宣寿(のぶひさ)・元理財局長(60)を捜査していることが関係者への取材で分かった。財務省は六月の調査報告書で、佐川氏が改ざんの方向性を決めたと認定。特捜部は、改ざん文書を国会に提出したことで国会議員の業務を妨げたとする刑事告発を受理しており、慎重に調べる。
佐川氏は虚偽公文書作成容疑などでも告発を受けていたが、大阪地検特捜部は五月、嫌疑不十分で不起訴とした。今後は、改ざん文書が国会審議に与えた影響を、刑事責任として問えるかどうかが焦点となる。
特捜部は、改ざんの中核的役割を担った当時の理財局総務課長、中村稔・官房参事官(52)についても、偽計業務妨害容疑での告発を受け、捜査を始めた。
二人を告発した弁護士は本紙に「国民の代表の国会議員をだますような行為は許されない」と話した。
森友学園を巡っては、学園が小学校の建設用地として大阪府豊中市の国有地を取得した際、財務省近畿財務局が約八億円値引きして売却していたことが昨年二月に発覚。
安倍晋三首相の妻昭恵氏が名誉校長だったことと、大幅値引きとの関連性が取り沙汰された。
調査報告書によると改ざんのきっかけは、安倍首相が同月十七日の国会で「私や妻が関係していたなら首相も国会議員も辞める」と答弁したことだった。
理財局職員が決裁文書の確認を進めたところ、昭恵氏らからの照会が記載されていたため佐川氏に相談。佐川氏が「このままでは外に出せない」と発言したことを受け、職員らは同月二十六日から四月にかけ、広範囲で文書を改ざんした。改ざんされた決裁文書は五月八日、参院予算委員会に提出され、六月まで国会審議が続いた。
国会ではこの間、野党が昭恵氏の関与などを追及したが、佐川氏は「記録は廃棄した」と答弁し続けた。
佐川氏は七月に国税庁長官に栄転。今年三月の改ざん発覚を受け、辞任した。

終戦の日の言葉から 不戦の思いを次世代に - 東京新聞(2018年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081602000176.html
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きのうは平成最後の「終戦の日」でした。あの八月十五日から七十三年。昭和の戦争の記憶は不戦の誓いとともに、次の世代に語り継がねばなりません。
あの日も暑い一日だったことでしょう。気象庁の記録によると東京の最高気温は三二・三度、名古屋は三六・五度。一九四五(昭和二十)年八月十五日のことです。
三七年の日中戦争から始まった長い戦争は昭和天皇の「聖断」で終わりました。国民は正午の「玉音放送」で終戦を知ります。
あれから七十三年。今年も政府主催「全国戦没者追悼式」が東京の日本武道館で行われました。

◆歴代首相「加害と反省」
戦争の犠牲者は、日中戦争後に戦死した軍人・軍属約二百三十万人と米軍による空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦で亡くなった民間人約八十万人の合わせて約三百十万人。これは日本人だけの数で、日本が侵略した近隣諸国や交戦国の犠牲者を加えれば、その数は膨れ上がります。
政府は、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めます。戦没者を悼むとともに、平和国家としての道を歩み続けると誓うことも、追悼式に課せられた重要な役割なのです。
だからこそ日本は戦争を起こした過去を反省し、再び軍事大国にはならないと発信し続ける必要があります。
とはいえ、時の首相が追悼式で、アジア諸国への日本の加害責任を認めるまでには長い時間がかかりました。損害と苦痛を与えた主体を「わが国」と明確にして加害と反省の意を表したのは、二〇〇一年の小泉純一郎首相が初めてです。
「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
それ以降の首相は小泉氏を基本的に踏襲し、八月十五日に加害と反省の意を表明してきたのです。

◆謝罪と距離置く安倍氏
安倍晋三首相も第一次内閣の〇七年には小泉氏同様、加害と反省に言及しましたが、政権復帰後の一三年からは触れていません。
今年の式辞でも「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い…」と述べてはいますが、加害と反省に言及しないのは六年連続です。
なぜなのでしょう。
安倍首相は戦後七十年の一五年八月十四日に閣議決定した首相談話で「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と述べつつ、その前段では「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも明言しています。
追悼式の式辞で加害と反省に言及しないことは、謝罪を続ける必要はない、という本音の表れなのでしょうか。これでは加害への反省を忘れたかのように受け取られても仕方がありません。「歴史と謙虚に向き合い…」との言葉も、虚(うつ)ろに聞こえてしまいます。
安倍内閣が一三年十二月に定めた「国家安全保障戦略」では「我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた」「こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない」と、日本の進むべき道を明確にしています。
国際社会からの高い評価と尊敬を確固たるものにするには過去を振り返り、自省し、二度と戦争をせず、再び軍事大国にはならないという決意を、終戦の日という節目に、指導者自ら発信し続けることが必要なのです。
安倍首相はしばしば国会で「平和と唱えるだけで平和を実現することはできない。だからこそ、世界の国がそれぞれ努力し、平和で安定した世界をつくろうと協力し合っている」と言います。
しかし、平和を強く願う気持ちを言葉にしなければ、平和を実現する努力や協力にはつながりません。平和とは相互信頼が不可欠なのです。

◆陛下はお言葉で「反省」
日本国民統合の象徴である天皇陛下は、今年の追悼式のお言葉で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と述べました。陛下は戦後七十年の一五年以来、お言葉に「反省」の文言を盛り込んでいます。
国政に関する権能を有しない天皇の気持ちを推察することは慎むべきでしょうが、「反省」の文言からは、不戦への強い思いがうかがえます。
平成の八月十五日は今年限りです。昭和の戦争を平成の時代も語り継いだように、さきの大戦への深い反省と不戦の思いを、次の時代にも語り継いでいくことが、今を生きる私たちの責任です。

<つなぐ 戦後73年>陛下、等身大の願い次代へ 平成最後の終戦の日 - 東京新聞(2018年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081602000138.html
https://megalodon.jp/2018-0816-0940-49/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081602000138.html


終戦から七十三年となった十五日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区日本武道館で開かれた。天皇陛下が来年四月末に退位されるため、平成最後の追悼式になった。全国から集まった約五千二百人の戦没者遺族が参列、先の大戦で犠牲になった三百十万人を悼み、平和への誓いを新たにした。
皇后さまと共に参列した陛下はお言葉で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べた。
安倍晋三首相は式辞で、歴代首相が述べてきた「不戦の誓い」の言葉を直接は使わず、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と表現したものの、アジアへの「加害と反省」には六年連続で触れなかった。
正午の時報に合わせ全員で一分間の黙とうをささげた。厚生労働省によると、全国戦没者追悼式に参列予定の戦没者の子や孫、ひ孫ら戦後生まれの人が占める割合は過去最高の28・5%、千五百五十四人。四年前と比べ人数は倍以上で、世代交代が進んでいる。

    ◇

天皇陛下は十五日、在位中最後の出席となった全国戦没者追悼式のお言葉で「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と、これまでになかった一文を加えられた。戦後日本の歩みを肯定的に評価する表現で、側近の一人は「陛下のあるがままのお考えだ」と話す。追悼式のお言葉には、時代に応じて表現を変えながら、平和と不戦を願い続けた陛下の思いがにじむ。 (小松田健一、荘加卓嗣)

◇変遷
追悼式での陛下のお言葉は、即位後初めて出席した一九八九年から九四年まで、戦後の平和と繁栄への感慨や戦没者への追悼で構成されていた。戦後五十年の一九九五年に「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」との文言が加わり、以降はほぼ同じ内容が続いた。
戦後七十年の二〇一五年は内容が大きく変わった。「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と平和希求の主体は国民であることに言及し、「さきの大戦に対する深い反省」という一文が盛り込まれた。翌一六年以降、元の構成に戻るが「深い反省」は使われた。
宮内庁関係者は今年の「戦後の長きにわたる…」について「平成は近代以降、戦争がなかった初めての時代だった。その締めくくりにふさわしいお言葉で、深い感慨を覚える」と語る。
両陛下の相談役である宮内庁参与を〇六〜一五年に務めた三谷太一郎東大名誉教授(日本政治外交史)は「深い反省の上に立った戦後七十三年間を肯定し、平和が将来も存続することへの願望がはっきり出ている。陛下のお考えの集大成とも言え、象徴天皇制憲法の平和主義は深く結び付いている」と指摘した。

◇継承
元側近は「陛下は戦争の記憶風化に強い危機感をお持ちだった」と述懐する。陛下は皇太子時代の記者会見で「日本人として記憶しなければならない四つの日」に終戦の日沖縄戦終結の日(六月二十三日)、広島、長崎の原爆投下日を挙げた。これらの日は毎年、皇后さまと皇居・御所で黙とうする。
両陛下の気持ちに応えるように、若い皇族も過去を学ぶ。皇太子ご夫妻は九日の長崎原爆の日、午後に英国短期留学から長女愛子さま(16)が帰国するのを待ち、三人で黙とうした。側近は「一緒に黙とうし、愛子さまに平和の大切さを教えたいとのご夫妻のお考えから」と話す。秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(11)は十日、紀子さまと一緒に広島市平和記念公園を訪れ、原爆資料館を見学。被爆者の体験談にも聞き入った。
陛下は来年四月末の退位後、戦没者追悼式への出席を含む全ての公務を新天皇となる皇太子さまへ譲り、両陛下の姿が国民の目に触れる機会は大幅に減る。宮内庁幹部は、今後の両陛下による戦没者慰霊について「お気持ちは変わるはずがない。節目の日は、これまで同様にお住まいで黙とうされるなど静かに過ごすのではないか」と話した。

天皇陛下のお言葉(全文
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に七十三年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

平成最後の戦没者追悼式 悲しみ新たにする大切さ - 毎日新聞(2018年8月16日)

https://mainichi.jp/articles/20180816/ddm/005/070/075000c
http://archive.today/2018.08.16-004152/https://mainichi.jp/articles/20180816/ddm/005/070/075000c

平成最後の終戦の日天皇陛下の全国戦没者追悼式への参列も今年が最後となった。30年間続けてこられたおことばには、平成の時代らしい追悼のあり方が刻まれてきた。
天皇のおことばは昭和と平成でスタイルが変わった。分量が倍に増え、言葉遣いが柔らかくなり、国民と思いを分かち合う表現になった。
昭和天皇戦没者への哀悼は「今もなお胸のいたむのを覚える」という「である」調だった。途中「胸がいたみます」と「ですます」調に変わったが長年、定型化していた。
今の天皇陛下は1989年に即位した最初から「深い悲しみを新たにいたします」と、国民一人一人の心情に寄り添う言い方に改めた。
おことばは毎年、陛下ご自身が文を練られ、微妙に手直しされてきたが、冒頭で国民と「悲しみ」を共にする姿勢は一貫していた。
戦争の時代を顧みる時、根底には深い悲しみの心が欠かせない。祈りにも似た表現の反復を振り返ると、今更ながらそう気づかされる。
安倍晋三首相は再登板後、最初の2013年の追悼式から式辞で加害責任や「反省」に触れなくなった。
天皇陛下は15年、戦後70年のおことばから「深い反省」を述べられるようになった。折に触れて戦争体験をご自身の原点と強調されてきた悲しみがあればこそであろう。
3歳の時の日中開戦を記憶し、11歳で敗戦の焦土に立ち尽くし、「戦争のない時を知らないで育ちました」(即位10年の記者会見)という最後の戦争経験世代である。
自ら覚えた戦争の悲しみを、次世代に伝えねばという使命感が、30年間の積み重ねを支えてきた。
平易な言葉が重みを増したのは、天皇陛下が言葉だけでなく、皇后陛下と共に沖縄への特別な配慮を絶やさず、高齢になっても海外の戦地跡を巡る慰霊の旅を続けるなど、実践の裏付けがあったからだ。
一昨年、陛下が退位を望むお気持ちを述べられた際、懇切に説かれた国民統合の象徴としての新たなあり方が、ここにも表れている。
来年からは、即位する皇太子殿下がおことばを述べられる。平成の時代に培われた象徴天皇と国民が共有する戦没者追悼の心を、次の時代も大切に受け継いでいきたい。

戦没者追悼 「深い反省」突きつめて - 朝日新聞(2018年8月16日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13637360.html
http://archive.today/2018.08.16-004143/https://www.asahi.com/articles/DA3S13637360.html

終戦記念日のきのう、東京で全国戦没者追悼式が開かれた。来年4月末で退位することが決まっている天皇陛下が、最後の「おことば」を述べた。
30回を数えるおことばの趣旨や表現は大筋同じだが、細かく見るといくつか変化がある。
まず即位後初の1989年の式典から「尊い命(後に「かけがえのない命」)を失った数多くの人々」と、命の大切さを説く言葉が使われた。戦後50年を迎えた95年には「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と、日本が歩んだ道を忘れない姿勢が示され、以後引き継がれてゆく。
そして戦後70年の2015年夏。「過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に」と、「深い反省」の4文字が盛りこまれた。締めくくりとなったきのうは、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに」だった。
おことばは内閣の補佐と責任の下で決まる。だが、11歳で敗戦を迎え、内外の戦没者を追悼する旅を重ねてきた陛下の思いが、そこには込められている。
「かけがえのない命」「歴史を顧み」「深い反省」――。これらの言葉が意味するものを、いま一度、胸に刻みたい。
最近話題の一橋大・吉田裕(ゆたか)氏の「日本軍兵士」は、当時の戦争指導者や軍官僚がいかに人の生命を軽んじていたかを描き出す。例えば日本軍の戦死者は230万人とされるが、研究者の推計では栄養失調に伴う病死を含む餓死者が61%、少なく見積もっても37%を占めるという。多くの兵士にとっての「敵」は敵の軍隊ではなかった。
沖縄では住民の「敵」はしばしば日本軍だった。避難壕(ごう)から住民を追い出し、ときに自ら命を絶つよう迫った。軍が住民に集団自決を強制したという教科書の記載を政府が削除させた07年、事実を知る県民は激しく抗議した。その一人に当時那覇市長だった故翁長雄志氏がいた。
戦争の姿が正しく伝わらず、歴史の改ざんがまかり通る。そんな光景を生んだ原因のひとつが、近年もあらわになった記録の軽視である。敗戦直後、責任追及を恐れた政府の命令によって大量の書類が処分された。
それから73年の歳月を経て、日本はどこまで「歴史を顧み」「深い反省」を重ね、命を大切にする国に生まれ変わったか。
きのうの式辞で首相は「歴史と謙虚に向き合い」と述べた。この言葉を言葉だけに終わらせない。それが、戦没者に対する今を生きる者の務めだと思う。

<つなぐ 戦後73年>私たちが継ぐ 神奈川の高校生、体験に耳傾け - 東京新聞(2018年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081602000149.html
https://megalodon.jp/2018-0816-0944-30/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081602000149.html

「戦争体験者や被爆者の話を生で聞ける最後の世代。必ず伝えていく」。戦後七十三年目の十五日は、平成最後の「終戦の日」となった。平成生まれの若者たちは、平和への思いを未来へ語り継ぐ方法に思い巡らせた。 (井上靖史)
神奈川県藤沢市JR東海道線辻堂駅前。県内に住む女子高校生八人が、市民実行委員会主催の「ふじさわ・不戦の誓い 平和行動」に参加した。ふだんから核兵器廃絶に向けた署名活動に取り組んでおり、平和を目指す趣旨は同じと合流。署名や平和の大切さを呼び掛けた。
被爆者の方は高齢化が進んでいる」。捜真(そうしん)女学校(横浜市神奈川区)二年の佐藤ハンナさん(17)はマイクを握り、危機感を口にした。本紙の取材に「次の世代が戦争の悲惨さを十分に理解できる年代になる頃には、体験者はほとんどいなくなってしまう。私たちの世代が語り継がなければ誰も戦争を知らない国になる」と強調した。
曽祖父は一九四四年、広島・呉港から空母でフィリピンに向かう途中、撃沈されて亡くなった。幼少期から社会科教諭の父に連れられ、被爆地の長崎を訪れるなどしてきた。だが三歳で父親を失った祖母の斎藤ケサ子さん(77)から体験を聞き出すことは、なかなかできなかった。
国連などに核兵器廃絶を訴える高校生平和大使に県代表として選ばれた今年、初めてケサ子さんから曽祖父の話を聞いた。骨も届かず戦死を知らせる紙だけ届いたという。「積極的に尋ねなければ、話せない人もいる。まずは多くの体験者に話を聞きに行きたい」
参加者の中には、昭和ひとけた世代の小坂治男さん(87)=藤沢市=の姿があった。自らは新潟県疎開中、都内の家を空襲で焼かれた。むしろ力を入れてきたのは、大正生まれの元兵士らから体験を聞き取り、学校などを回って紹介する語り部の活動だ。大正から昭和、そして平成へ。世代間の橋渡し役になれたらと願う。
小坂さんはこの日、同級生のことを佐藤さんたちに話して聞かせた。戦時中、生まれたばかりの弟の指に障害があるのを見た助産師が母親に「この子は銃の引き金を引けない。処置するか」と殺すかどうかの判断を迫ったという。小坂さんは「同じ子どもでも戦力として使える男児が女児より歓迎された」と当時の社会の空気を伝えた。
佐藤さんと一緒に話を聞いた横浜平沼高(横浜市西区)二年の伊藤美月(みづき)さん(17)は「ショック。国のためになるかどうかで価値判断されたなんて」と言葉を失った。中学時代に平和学習で戦争の怖さを知った伊藤さん。「戦争の怖さ、残酷さを、若者らが自分からはなかなか知ろうと思わない。でも唯一の被爆国。体験者の方から聞き取ることはもちろんだが、記録に残し、伝えていく効果的な方法が何か考えていきたい」と誓った。

<金口木舌>本紙投稿欄「琉歌や肝ぐすり」に国頭村での戦争体験を詠んだ歌が・・・ - 琉球新報(2018年8月15日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-782306.html
http://archive.today/2018.08.16-004354/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-782306.html

本紙投稿欄「琉歌や肝ぐすり」に国頭村での戦争体験を詠んだ歌が寄せられた。「戦世はあわれ 山おくにひなんかみ物がねらん そてつかだん」という作品だ。琉歌に詳しくなくとも歌意は理解できよう

▼戦中、山奥に避難したものの食糧不足に苦しみ、ソテツを食べたという戦争の悲惨さを詠んでいる。作者は常連投稿者のお一人、知花實さん、89歳。国頭村辺土名にお住まいである
▼先日、知花さんにお会いし、話を聞いた。8世帯30人で辺土名の山中に逃げたものの、たちまち食糧の芋がなくなり、ソテツを食べたという。米兵に捕らわれる恐怖と飢餓に苦しんだ避難生活は3カ月余続いた
▼餓えとマラリア禍に苦しんだやんばるの戦争を幾度か記事にしてきたが、知花さんの言葉が持つ力には到底及ばない。体験した者にしか分からない苦しみが、琉歌の30音から伝わってくる
▼沖縄の慰霊の日、広島、長崎の原爆投下の日、そして8月15日の終戦の日。それぞれの式典で歴代首相は犠牲者の冥福を祈り、平和を誓う式辞を読む。その時、厳かな空気を醸し出すが心には残らない。戦場の嘆きが伝わらないのだ
▼知花さんは穏やかな口調で「もう少しでパタイ(死ぬ)しよった」と振り返り、「戦世は駄目だよ。絶対、戦争は反対です」と念を押した。戦争を知る人の言葉の力がこれからも必要なのだと改めて思う。

8・15 終わっとらんかった 第二能登丸 13日後に米機雷で爆発 - 中日新聞(2018年8月15日)

http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2018081502100013.html
https://megalodon.jp/2018-0816-0856-32/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2018081502100013.html


犠牲者名簿に名前「生存」の松本さん
「ひどい爆発でいっぺんに大勢死んだ。八月十五日で戦争は終わっとらんかったんや」−。玉音放送から十三日後の一九四五年八月二十八日夕、木造の連絡船「第二能登丸」が石川県の七尾湾で米軍が敷設した機雷で爆発、住民ら二十八人が犠牲になった。平成最後の終戦記念日を前に、同乗の父姉を亡くした同県中能登町の松本(旧姓原田)武夫さん(82)が、戦後七十三年にわたり封印してきた体験談を初めて語った。(前口憲幸)
「八月が来るたんびに思い出す。何十年たっても忘れん」。時折、目を閉じながら口を開いた。その瞬間、船から投げ出され、渦を巻く海でもがいた。がぶっと水を飲み、父親を捜して「とーと、とーと」と叫んだ。男の人も女の人も両手を上げたまま沈んでいった。「戦争終わってから、本当の地獄見たんや」
敗戦から十日余り。父親と二人で和倉温泉につかった帰りだった。勤労動員の作業を終えた七つ上の姉と合流。初めて第二能登丸に乗った。五十人はいただろうか。ほぼ中央の機関室近くに座った。右隣に父親。姉は少し離れた前にいた。
七尾湾を真っすぐ進み、能登島へ。最初の経由地・久美で何人か降りた。「もう降りるんか」。そう尋ねて立ち上がると右手を下にグッと引っ張られた。「まだや。ねまっとれ(座ってなさい)」。これが記憶する父親の最後の言葉だ。
次の経由地を目指し、再び動きだした第二能登丸。まもなく悲劇は起きる。
爆発の衝撃は覚えがない。気が付くと海だった。必死で船の破片にしがみついた。「渦にのみ込まれてぐるぐる回った。波のあちこちに人の頭とか腕が見えた。そして消えていった」
手こぎの舟に助けられた記憶が残る。ぬれた体にむしろを巻き、たき火にあたった。父親と姉の死は入院先の病床で告げられた。
退院後、登校すると周囲に「しんがえり」とからかわれた。死にかけたのに生き残った「死に帰り」が由来という。今もふとした瞬間、ぐるぐる回る海や揺れるたき火の炎を思い出す。「どれも忘れてしまいたいけど頭にこべりついとる」

 本紙は船を所有した七尾海陸運送が六二年四月十一日付で作成したとみられる事故報告書を入手。犠牲者名簿の中に松本さんの名があった。自らの名が犠牲者名簿にあることを本紙の取材で知った松本さんは少しも驚かずに言った。「死んどっても全く不思議でない。悲惨な現場やった」