映画 「カナリア」「ハウルの動く城」

molmot2004-11-20

第5回東京フィルメックス (有楽町朝日ホール) 

 今日から第5回東京フィルメックスが開催され、そのオープニング上映作品として塩田明彦の新作「カナリア」が上映された。場内には評論家の上野昂志や、黒澤組の名物スクリプター野上照代の姿も見られた(エンドロールで主演者の名前が上がると早々に立ち去ってしまったが)。

1)「カナリア」 (有楽町朝日ホール) ☆☆☆★★★

2004年 日本 カラー ビスタ 132分 
監督/塩田明彦  出演/石田法嗣 谷村美月 西島秀俊

  塩田明彦の作品は「どこまでもいこう」しか観ていないので、とやかく言う資格を全く有しないが、本作は素晴らしい力作だった。
 まず、オウム真理教を題材にした映画が、1995年以来何本作られたかだが、自分が観た範囲では、伊丹十三の「マルタイの女」で坂本弁護士事件、石井輝男の「地獄」で事件全般を、そして森達也の「A」「A2」でその後のオウムの内部を描いた。あまりにも劇的事件過ぎて映画化する難しさがあるのだろうが、塩田明彦強制捜査の際に保護された子供のその後を主題に持ってきた。子供を描くことに定評のある塩田ならではの良い企画だと思えた。
 開巻に石田法嗣のナレーションで事件後の自身の境遇が語られ、祖父が妹のみを引き取り、自身の引き取りが拒否されたことが語られる。そして、施設を脱走するところから映画は始まる。
 谷村美月援助交際相手と車でやりとりするシークエンスへ移る。この時、援交相手となるのが池内万作で(野上照代が来たのは乳母を務めた伊丹十三との繋がりか)、塩田明彦伊丹十三の再評価を求めていたが、池内万作の起用にその繋がりを考えるのは考えすぎか。それはともかく、池内万作の関西弁での援交に走る男は、短いながらも存在感があり、一瞬にして除く凶暴性も素晴らしい。
 逃走する石田が飛び出してきたことにより、谷村と池内の乗った車は横転し、中から這い出した谷村は、側に立ちすくむ石田と行動を共にすることになる。ここから映画が動き始めるが、正直言って前半は圧倒的に素晴らしい撮影と、来るべき位置にカメラが来てカットが連なっていく心地よさを感じつつ、そう感心しなかった。と言うのも、谷村が友人の少女を呼び出した廃車車内のシーンでの友人の科白が、余りにも大人の視点からの説明的長科白且つ生のまま露出した硬質な台詞回しだったからで(脚本は塩田明彦単独)、それは、谷村の科白の端々にも伺え、どうにも違和感があった。違和感は、途中で出会うレズで平仮名の二人組み(りょう・つぐみ)の描写でも言えて、全く不要だったと思う。殊に「君の瞳は10000V」の使用は使い方も含めてキモチワルイ。
 中盤より、石田が母親に連れられて出家するところからの回想が平行して描かれる。ここからのオウムの内部の再現が圧倒的に素晴らしく、これまで劇映画でオウムを間接直接描いたどの作品よりも空間、空気感含めて良く描けていて感心した。塩田明彦は、あくまで子供の視点から見たオウムという視線を崩さず、教祖等は一切描かずに、子供の目線でサティアン内の生活を描いていく。
 祖父が引き取っている妹を連れ出す為東京へ向かう石田と谷村、そしてサティアン内での生活が重なって描かれていくこの作品は、圧倒的な力を感じさせる。塩田明彦の描写力は「どこまでもいこう」の時は、ここまで強く感じなかったが、本作においては後半に行くに従って凄まじい力を発揮している。
 クライマックスは、当然祖父宅へ入っていくわけだが、その前の元信者達との出会いと、彼らと生活を共にする描写が味わい深い。そして、雨の中ドライバー片手に草木に覆われた道を歩む谷村のバックに劇中で何度となく谷村が口ずさむ「銀色の道」が大音響で流れるのには、感動させられた。映画史に残る名シーンだ。「君の瞳は10000V」は成功しているように思えなかったが、これは成功している。(因みにエンドクレジットで「銀色の道」の作曲が宮川康となっていたが、当然宮川泰の間違い。ザ・ピーナッツなども唄った本曲の作詞は、ドンドン鯨こと塚田茂である。)
 この作品は一種のファンタジーであり、リアリティの面や、ロードムービーとしては物足りない面もあるだろうが、圧倒的な描写力を買いたい。立教系映画監督(黒沢清青山真治、篠崎誠、森達也周防正行)の中でも、黒沢、青山系の作品が嫌いな向きには否定的側面が強いかもしれないし、クライマックスでの(以下ネタバレの為改行)

石田の白髪をどう解釈するか(普通に考えれば絶叫し一瞬にして白髪になったというところだろうが、唐突感と異物感が相当ある)、ラストがリアリティに欠けるとか、言われそうだが、個人的には可だと思えるし、この作品は、緑を画面内に行き渡らせただけでも賞賛されるべき得難い秀作だと思う。
 来年3月公開。
 

2)「ハウルの動く城」 (Tジョイ大泉) ☆☆☆★★★

2004年 日本 カラー ビスタ 119分 
監督/宮崎駿  声の出演/倍賞千恵子 木村拓哉 美輪明宏 我修院達也 神木隆之介

 一瞬完成度を危惧したが、蓋を開けてみれば宮崎駿の高い水準値は十分保っており、「紅の豚」や「もののけ姫」より遥かに良い。
 よくやる宮崎作品の順位を今更ながらに表明しておくと、上から「となりのトトロ」「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」「ルパン三世 カリオストロの城」「千と千尋の神隠し」「魔女の宅急便」「ハウルの動く城」「紅の豚」「もののけ姫」といったところで、基本的にカリオストロまでは、どう順序が入替わっても良い。
 宮崎駿黒澤明というのを提唱しているので、宮崎にとっての「赤ひげ」は、あるいは「どですかでん」「影武者」「まあだだよ」はどれだ、ということをよく考える。「千と千尋の神隠し」を観た時に、これは黒澤における「雨あがる」ではないのかと思った。「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」とプライヴェートフィルムを連発し、完全に童心に返った「まあだだよ」で一区切りつけた黒澤は、再び「用心棒」や「椿三十郎」を小品にした様な時代劇を作ろうとする。
 宮崎も「紅の豚」「もののけ姫」とプライヴェートフィルムを連発した後、これまでの集大成の如き「千と千尋の神隠し」を作る。では「ハウルの動く城」はどうなのかというと、やはりその延長にある作品と考えるべきで、これまでの集大に思える。

 本来、吉田玲子脚本、細田守で製作されていた本作が、画コンテも既に2/3完成し、原画作業にも入っていながら中断した真の理由は詳らかではない。「魔女の宅急便」でも当初新人監督を起用しようとしていたと聞くが、スタジオジブリクレムリンのこういった姿勢には疑問を感じる。とは言え、広報口となるプロデューサが毎回思いつきで喋るからジブリの思惑は検討がつかない。宮崎駿高畑勲に代わる新人を作らなければならないと言っていたと思えば、最近ではジブリ宮崎駿一代限りの商店などと言っている。又、高畑勲はもう映画を作らない方が良いと言い出したと思えば、最近では高畑が長らく温めている「平家物語」をやらせてあげたい、などと言う。だからこんな人物の発言を一々真に受けても仕方ないのだが、細田守を降ろしたことで、ジブリ宮崎駿の死を持って終焉するのだけは確かなようだ。
 原作は読んでいないのでわからないが、「魔女の宅急便」以来となる原作モノに何故宮崎駿が乗ったのか、細田の降板で仕方なく登板したのではないのか、という疑念はあった。
 作品を観ればわかるように、「天空の城ラピュタ」の要素に「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」が加えられたように思える。
 「千と千尋の神隠し」に関して、主人公の心理線のブレが指摘されていたが、自分は宮崎の言うラストにそれまでの経験を得て成長する必要なんてないという意見が疑問で、実際千尋のラストは疑問だった。
 「魔女の宅急便」を最後に、宮崎は普遍的構成から逸脱し、ある種の破綻も含めた話法で物語を紡ぎ、自身の演出の力によって見せていくという手法が取られるようになったと言われているが、これは、一重に描くべきものをやり尽くしたからこその次なるステップと考えて良いだろう。基本的に宮崎駿という人は、「となりのトトロ」で終わっていると思う。と言うのも、宮崎駿程、同じことを繰り返している人はいない。「どうぶつ宝島」「長靴をはいた猫」「ルパン三世カリオストロの城」は、単に冒険活劇ということのみならず、具体的描写に至るまで酷似した箇所は散見でき、そしてその最後の形としてオリジナルで「天空の城ラピュタ」が作られた。「パンダコ・パンダ」のリメイクと言っても良い「となりのトトロ」は、自身で演出すればこうなるという形での表明だし、「風の谷のナウシカ」こそは、生涯にこれだけはオリジナルで作りたいという情熱の結集だ。だからこそ、職人技術の切り売りとして「となりのトトロ」から僅か1年で「魔女の宅急便」が製作できたのだし、その後の完全なプライヴェート映画としての「紅の豚」や、ナウシカのリメイクとも言える「もののけ姫」が製作できたのだと思う。
 先述した「ハウルの動く城」が「千と千尋の神隠し」の延長上の方法論と言えるのは、構成において、雑多なまでに多くの要素を盛り込み、それをコギレイにまとめてエンディングに繋ぐのではなく、演出の馬力で見せきるという方法に主眼が置いてあるからで、今回でもその方法論は成功していると思うが、「千と千尋の神隠し」に比べれば演出の力が落ちる。いくら好きな人とは言え、千尋迄の宮崎作品に一切触れてこなかった小林信彦が『老い』による質の低下と言い出しても信用も納得もできる筈はなく、単に原作モノであることのカセ(実際はオリジナルに近い程改変してあるが)と、自分が疑念として持っている本当にやりたい作品だったのか、という箇所に問題があるような気がする。
 実際総体的な疑問として、千尋にしてもそうだが何故こうも本来こじんまりしたハナシで済むものを大風呂敷を広げた大作然とした作品にするのかという思いがある。本作にしても、『戦争』という要素を入れる必要があったのか、軍事マニア宮崎駿ならさぞかし、という期待は、軍艦、飛行艇等にいかにも宮崎らしいデザインが施されていることに喜べるぐらいで、それらが劇中で意味を持つ使われ方をしていたとは言い難い。戦争という設定が脇にありすぎて有効な使われ方をしているとは思えない。
 魔法をかけられ、90歳の老婆にされてしまうという根幹の設定は面白いが、それに至る布石、即ち何故魔法使いに老婆にされ、ハウルの城へ行くのかという肝心の部分が弱い。千尋でも、確かにやる気のない典型的な現代の少女という設定は十分描けておらず、極力早くパラレルワールドに誘い込むことでいつもの宮崎作品の少女にしてしまっていたが、それはさほど気にならず、豚に変えられた両親のことが中盤で完全に飛んでいるという批判も、自分にはさほど気にならなかった。しかし、本作は自身の身に降り懸かる身体的な出来事であり、兎に角ハウルの城に主人公を早く入れてしまいたいと思ったのだろうが、省略が過ぎる。ラストに至って老婆から戻るということが全くどうでも良くなってしまうのは納得できなかった。
 宮崎駿がやりたかったのは、戦火の恋でも、90歳になった老婆でも、又はその老婆の性でも恋でも、又はハウルの動く城でもなく、あの扉を開けて直ぐのダイニングキッチンを描きたかったように思える。この作品は住食眠を描いた家をめぐる作品だ。押井守の作品と違って、宮崎作品における食物は、実に美味しそうに見える。カリオストロのスパゲッティ、園丁宅での大量の食べ物、ラピュタのパズーのカバンから出すパン等、どの作品でも食べ物が驚くほど触感的である。本作でも、主人公がハムを焼く描写の素晴らしさにも瞠目させられた。
 個人的に弱いのが宮崎駿の飛行で、「もののけ姫」で一度も空を飛ばなかっただけで、ひどく呼吸困難に陥り、一度そういう目に遭うと新作で飛行シーンがあるだけで無闇に泣けてしまい、本作でも開巻間もないハウルが主人公を抱えて浮遊するシークエンスを観ただけで涙腺が緩んだ。
 もう一度観るつもりなので、細部は再見してからにしたいが、やはり城内部のディテイルが素晴らしい作品で、ハウルよりもマルクルカルシファーといった人物が魅力的だった。
 声優に関しては、相変わらず俳優・タレントの起用にゲンナリさせられるが、ここまでプロ声優を一掃してしまうと、肝要な部分まで緩みが出ていて、トトロの糸井重里北林谷栄程度の起用なら良いが、ここまで全面的なものにしてしまうと疑問を覚える。倍賞千恵子は悪くないが、やはりこの作品の幅を持たせたとまでは思えないし、木村拓哉は「2046」の時にも思ったが、低音過ぎる上に演技に幅がなく、ただでさえ判然としないハウルというキャラクターに付与さることはできていなかった。案外聡明な鈴木Pが、作品の完成度を危惧して木村拓哉を起用することで、興行での保険をかけたと勘ぐったりもしたが、前述の「2046」について記したことの繰り返しになるが、この絶大な機会を生かせなかったのは惜しい。
 全体としては、気になる箇所は散見できるとは言え、十分楽しめたし、異様に高いレヴェルを維持し続けている宮崎作品の質は問題なく保っている。少なくとも冒頭に記した「紅の豚」や「もののけ姫」よりも遥かに面白いという結論を改めて記す。