美濃不破郡観光

ちょいとお隣りまで。その割に遠い


関ヶ原


 まず知らない人はいないであろう関ヶ原(行政的には「関原」が正しい)。岐阜県西部、滋賀との県境に近い場所にある山に囲まれた盆地です。西暦1600年10月21日(慶長5年9月15日)に天下分け目の関ヶ原の戦いがこの地で起こりました。
 関ヶ原は思ってたより広くなく、東西南北4km四方ほどだそうです。JR関ヶ原駅の前から道路の脇に諸大名ののぼりが立てられていました。随所に案内板も多く、観光地としてしっかり整備されている印象でした。
 駅から歩いて数分のところにある関ケ原町歴史民俗資料館では、関ケ原の戦いで使われた武具(甲冑、大筒・火縄銃、ほら貝、陣跡からの出土品)等を公開しています。また、合戦の経過を描いた大型ジオラマもありました。これに関しては岡崎公園の家康館にあったジオラマの方が凄いかも。他にも合戦に参加した諸武将のプロフィールのパネル展示もありました。あと、大河ドラマ『葵 徳川三代』の撮影の様子を撮った写真や、小泉純一郎元総理が訪問した際の写真も飾ってありました。
 資料館にはおみやげ店も隣接していて戦国グッズを販売しています。昨今の歴女ブームというものの影響なのか、若い女性客も結構いました。ちょうど資料館をあとにしようとした時、武将コスプレしたお兄さん達がのぼり付きのママチャリで通りすぎていきました。なにかのキャンペーンをやっているようでした。

 石田三成が陣を敷いた笹尾山に登ると関ヶ原が一望できました。三成の布陣は完璧だったことを身をもって体感しました。

 開戦地は井伊直政隊が宇喜多秀家隊に向かって発砲した地です。その近くになぜか一頭だけヤギがいました。(−)(−)←こんな目に見つめられること30秒、急に後ろを向いたと思ったらおしっこをしだして、あわや風下にいた私の靴にかかるところでした(汗)


不破関跡】

 関ヶ原の戦いよりずっと前にもこの地が戦場になったことがあるのをご存知でしょうか。それは日本古代最大の内乱といわれる壬申の乱(672年)です。天智天皇中大兄皇子)の死後、弟・大海人皇子天武天皇)と子・大友皇子弘文天皇)の間で起きた皇位継承争いで、その際の重要拠点の一つがこの不破ふわなのです。
 乱の前、大海人皇子大津京から奈良吉野に移り出家していましたが、朝廷の動きに身の危険を感じて反乱を決断。吉野を脱出し、伊賀・伊勢・桑名を抜けて不破に入りました。その時、鈴鹿の道と不破の道を封鎖して朝廷と東国(現在の東海地方)との連絡を遮断しました。行宮を置いた不破で東国兵(尾張,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐)をかき集めた大海人皇子は、畿内の豪族で編成された朝廷軍と琵琶湖の南北に分かれて戦かいました。その末、大津・瀬田唐橋の決戦で朝廷軍が総崩れとなり、大友皇子は自害し、壬申の乱大海人皇子の勝利で幕を下ろしたのです。
 その後、大海人皇子天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位し、称号を「大王おおきみ」から「天皇」と改めたとされています。のちに、壬申の乱天武天皇に味方した東国の豪族たちには位階・功田が授けられています(特に多くの兵を出した尾張氏むらじから宿禰すくねに昇格している)
 無駄に長くなりましたが、この壬申の乱の時に不破の道を封鎖したのが、不破関ふわのせきが設けられるきっかけとなったのです。実際に設置されたのは翌年の673年で、701年制定の大宝律令にて正式に定められました。東山道不破関は、同時期に設置された鈴鹿関(東海道)と愛発関(北陸道)とともに“三関さんげん”と呼ばれています。不破関の役割は、国家の非常事態に備えるためであり、美濃国四等官(守・助・掾・目)が分番守固しました。また、通行証明書を検判する警察的機能も果たしていたようです。
 ところが、789年に三関は突如として停廃されてしまいました。それでもその後は、天皇崩御や重大事件の際には“固関使”が発遣され、固関の儀として江戸時代まで続けられたといわれています。
 関ヶ原の“関”とは、この不破関のことです。現在は関所のあった場所に不破関資料館(写真右)が建っています。壬申の乱に関する資料や、関跡から出土した土器や銭貨が展示されています。


【垂井】
 「たるい」という語感は何かやる気がなさそうですが、かつては美濃の国府が置かれていた町。JR垂井駅には「智将・竹中半兵衛生誕の地」をアピールする看板がデカデカと設置されていました。

【大領神社】

  • 祭神:宮勝木實
  • 創祀:不明(715年説あり)
  • 備考:美濃国二宮,南宮大社摂社

 南宮大社の東500mほどのところに鎮座する大領神社。南宮大社の境外摂社の一つであると同時に美濃国の二宮でもあるという。祭神の宮勝木實みやのすぐりのこのみ壬申の乱の折に、大海人皇子から勅命を受けて不破道を守護した人物。乱後、この地の大領(郡司最高官)に任じられた。
 二宮の割にはスッキリとした感じの神社でした。横からだと本殿がよく見えます。


南宮大社

 一宮だけあって立派な神社でした。鉱山の神・金山彦命を祀る。もとは現在より北に鎮座していたそうですが、のちに遷座し、国府の南方に位置することから南宮と呼ばれるようになったんだとか。境外摂社の南宮御旅神社(祭神:金山姫命)がもとの鎮座地ともいわれる。
 関ヶ原の戦いの兵火で社殿のほとんどが焼け落ちましたが、徳川家光が再建して今日に至ります。その多くが国指定重要文化財に登録されています。楼門、拝殿、舞殿、回廊などの朱塗りがとても鮮やかで惚れ惚れしてしまいました。


【真禅院】

 行基開山と伝えられる真禅院。もとは南宮大社の神宮寺でしたが、明治の神仏分離令南宮大社の西1kmの現在地に移転したそうです。地堂、多宝塔、梵鐘が国指定重要文化財
 南宮山は参拝客で賑わっていましたが、こちらは少し小高い所に位置することもあってか静寂に包まれていました。

左:多宝塔 右:鐘楼


【垂井の泉】

 「垂井」という地名の元ネタはコレ。お寺の隣にあるちょっとした広場にあります。古代から和歌に詠まれることが多かったという名所で、木曽路名所図会にも載っています。透き通った泉には紅白の鯉が泳ぎ、ほとりには樹齢800年のケヤキの木は立っていてとても涼しげ。泉の水は水道水よりひんやりとしていました。
 今回、ここから南宮御旅神社を回って駅に帰る予定でしたが、サマーシューズで来たのが災いして、脚が痛くなってしまったので先の事も考えて南宮御旅神社は諦めました。


(つづく...)