2018/04/16 馬喰町散歩 05 出土した江戸時代の石垣石/清水扇稲荷/左衛門橋/横山・橋通共栄会/新道問屋街/銭瓶町ポンプ所

浅草橋から東京駅まで歩く。
思ってたよりは遠くない。



◆出土した江戸時代の石垣石



この石が出土した場所は、ここから西へ約5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。




◆清水扇稲荷神社




◆左衛門橋






◆横山・橋通共栄会





◆新道問屋街




◆銭瓶町ポンプ所

東京駅の近くにこんな施設があったとは・・・・。
銭瓶町(ぜにがめちょう)を調べてみた。
武家地。道三堀に架かる銭亀橋が町名の由来とのこと。
明治中期に橋と道三堀は消滅し昭和四年に大手町二丁目となる。
今は「銭瓶町ポンプ場」に町名が残るのみとなっているとのこと。




東京駅でゴール。
本当は浅草橋から帰る予定だったんだけど、薬研堀不動尊で見ていなかった場所があることが発覚。
それならばと東京駅まで歩いちゃった(w
浅草橋の北部をまだ散策していないので、近いうちに巡ろうと思う。

2018/04/16 馬喰町散歩 02 金鳥/矢ノ庫稲荷神社/薬研堀不動院/矢ノ倉/御臨幸記念碑/川上稲荷神社

北東方向へ歩いていく。
浅草橋へは向かわず、両国橋付近まで移動する。



金鳥

大日本除虫菊株式会社」というのが社名。
本社は大阪でこちらのビルは東京支店とのこと。



◆矢ノ庫稲荷神社

上記の金鳥さんに隣接。







薬研堀不動院


順天堂大学発祥の地

天保九年(西暦1838年)
順天堂始祖佐藤泰然この地に
和蘭医学塾を開く



講談発祥記念の碑

由来の記
元禄の昔, 赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で 太平記を講じ, 江戸講釈の発祥となった。これが 後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親 しまれ, 安政年間,「太平記場起原之碑」が建て られた。この碑はその後, 当不動院境内に移され 大正12年の関東大震災まで名物となっていた。
 この度, 当不動院講談協会との因縁により, 真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し, 相はかって茲に新たに建碑をなすものである。



納めの歳の市之碑

 遠く江戸時代の中頃より江戸の街では12月に入ると各地で歳の市がたった。
 歳の市とは門松、しめ縄飾り、羽子板等の正月用品を売る市を云う。かつて東京の歳の市は12月14日15日の深川八幡に始まり、浅草観音神田明神、芝の愛宕神社、平河天神、湯島天神の両天神を廻って最後は28八日の薬研堀不動尊で終り、特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた。初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた。戦前は、何十軒もの羽子板屋が薬研堀不動院門前に並び、横町には神佛具、臼、杵、まな板、ざる、箒等の迎春用品の露天が出店し当時の千代田小学校の通りには「がさ市」が立ちしめ飾り門松、竹、海老、こんぶ等が威勢よく売られ、身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた。
 先の大戦の頃は、戦火の拡大と共に、一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった。
 時移りようやく昭和40年(1965年)、地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して同時に近隣問屋街とも協賛し、衣料品、日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり、苦心経営の末、最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た。有り難いことです。
 又、想いめぐらせば、戦前戦後を通じて、本院の大本山である川崎大使平間寺の厚いご加護を一貫して賑わったことも復興への銘記すべき事柄である。
 本年は、大出庫市を併催して丁度30年の節目に当るので、歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び、この町の今日までの歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする。




◆矢ノ倉



趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。


由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保二年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄十一年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和四十六年四月一日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋一丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。




◆御臨幸記念碑



臨幸記念碑 現代語訳
大正十二年(1923)九月一日に起こった関東大震災に伴う火災により、未だかつてない災いを蒙った帝都東京も、更正の努力7年にして、復興という重大な事業を完成しました。
昭和五年(1930)三月二十四日に、おそれ多くも天皇陛下が復興した帝都をご巡幸されました。
この日、天皇が常用する車を本校におとどめなさり、3階の御座所にてご休憩遊ばれ、復興功労者に直にお会いなされ、復興小学校代表者一同の拝礼をお受けになられました。
本校はまた、親しく方々をご覧になられる光栄を受けました。
この間、実に1時間25分に及び、まことに恐れかしこまり感激に堪えず、臣下である私達は、謹んで天皇の命令を心にとどめて、朝から晩まで一心に励み、それによってその本分を尽くして、天皇のご恩の万一にも報い奉ることを決心しました。
ここに本校後援会で相談をして、天皇が一時乗り物をとどめた場所としての記念碑を建立します。
碑が完成するにあたり、これを彫り刻んで後世に伝えます。





少し離れたところにも碑があった。



千代田小学校・臨幸記念碑・御幸通り

 千代田尋常小学校(以下、千代田小学校)は明治9年(1876年)8月、当時の馬喰町一丁目地元有志の学校建設の出願により、翌10年3月、当時矢ノ倉町15番地だったこの地に新校舎を建築し移転しました。
 大正12年(1923年)9月、関東地方を襲った関東大震災により学校は全焼し、その後東京市の震災復旧事業の一環として、昭和4年に鉄筋コンクリート建の校舎が建設され、翌年には、学校のとなりに校庭と一体的に利用ができるよう、震災復興公園として千代田公園が整備されました。
 昭和18年(1930年)3月、昭和天皇の復興帝都巡行にあたって、竣功間もない千代田小学校にご臨幸されました。これを光栄として同校の後援会を中心に記念碑建設の声があがり、地元有志の寄付、日本橋区役所の補助金に予知、昭和8年に臨幸記念碑が建立されてました。建立された当初は校庭の一角にありましたが、現在は千代田公園内に移設され、当時の記憶を今に伝えています。
 千代田小学校はその後、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲によって崩壊し、昭和20年3月廃校となりましたが、残った鉄筋校舎の骨格を用いて補修され、教育制度改革による中学校となり、中央区立久松中学校、第四中学校を建て現在の中央区日本橋中学校となりました。
 また、東日本橋二丁目1番先から東日本橋一丁目10番(本案内板設置個所)先の区道は、昭和天皇がご臨幸の際に通られたことから、昭和63年度に道路愛称名として「御幸通り」と命名されました。




◆川上稲荷神社






続く。

2018/04/16 馬喰町散歩 03 両国橋/大高源五句碑/ももんじや/三つの説明板/柳橋/初音森児童遊園

渡る予定がなかった両国橋を渡ってしまう(w
渡った先にも説明板がたくさんあった・・・・。



◆両国橋








大高源五句碑

google mapには「大高源五句碑」とあるが、他にもいろんなのがあった。
両国橋児童遊園という小さな公園内に沢山の碑や説明板があった。



一番左の碑が大高源五句碑だ。

「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」
大高忠雄→通称は源五・源吾(げんご)
赤穂浪士四十七士の一人とのこと。




両国橋

 両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ「大橋」であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。
 江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられずに、多数の死者が出た。そのため、大火のあとこの橋が架けられた。回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされるようになったのである。
 この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。
橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても開けた。幕末からは、川開きの花火もあって江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成した。



両国橋と百本杭

 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和五年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
 江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
 また、明治十七年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
 明治三十五年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。



奥の「表忠碑」は日露戦争で出征されて亡くなられた方のための「碑」とのこと。
左側に「大谷巌書」とあるので調べてみた。
大警視、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族院議員を歴任。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたるとのこと。




両国橋弁天 ー絵本墨田川両岸一覧ー

狂歌絵本「隅田川小雁一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々でにぎわう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の情報に見える小さい橋が、今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋、森のあたりが一の橋弁天、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。




◆もゝんじや




 享保三年(1718)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「もゝんじ屋」と総称しました。現在は、この「もゝんじや」を店名にしていますが、正式には「もゝんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。
 もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも、「山くじら」と称して食べられていました。
 猪は丹波鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼きにします。その他、鹿刺し、狸汁など、他にはめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。



◆三つの説明板




<両国物語 −片葉の葦ー>
 駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹きこみ方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議のひとつとされていました。
 その由来は・・・
 昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。
 当時、あしを吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。




<江戸の町 −藤代町跡ー>
かつてこの辺りにあった町名です。
その由来は……。
享保年間(一七一六〜三五)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。
 しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。
 回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、本所の入り口にふさわしい繁華街でした。




<江戸の町 −駒留橋跡ー>
駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四・五メートル)、幅二間(約五・四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。
 その堀の幅はもっとも広いところが四間(約七・二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと
伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。




柳橋




 柳橋神田川隅田川流入する河口部に位置する第一橋梁です。
 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌元禄十一年(1698年)に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治二十年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929年)に完成しました。
 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年(1991年)に整備し、平成十一年(1999年)に区民有形文化財に登録されています。




 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。

柳橋」と由来については、

(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。

 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。

柳橋の諸元

形 式 タイド・アーチ橋

橋 長 37.9m

遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)

建設年次 昭和4年12月(復興局施工)

春の夜や女見返る柳橋 子規

贅沢な人の涼みや柳橋 子規












橋の欄干に簪(かんざし)のオブジェが!




◆初音森児童遊園

サラリーマンが休んでました。




この回はやたら文字数が多い(w
続く。

2018/04/16 馬喰町散歩 01 神田駅/岩本町一丁目/千代田神社/初音の馬場跡/亀嶋神社/馬喰町駅/屋上ミニ神社

24時間勤務アケで、神田から浅草橋まで歩いた。
歩きなれればそんなに遠くない距離だったのは驚いた。



◆神田駅

このところ神田駅スタートが多い。



◆岩本町一丁目



見覚えがあるなあと思って過去の日記を探してみたらあった。
詳細はそちらのページで。

2017/09/05
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170905/1505001997



◆千代田神社





◆初音の馬場跡



google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは無かった。
なのでちょっと調べてみた。
天文20年(1551)初音森神社の前に初音の馬場が造成されたとあった。
馬喰町の地名は、馬の専門家を博労と呼ばれ、牛馬の売買や病気治療も行なう人の住む博労町の地名から馬喰町に改めたたとのこと。
明暦の大火後、墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮
昭和23年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立とのこと。




◆亀嶋神社



馬喰町駅



◆屋上ミニ神社

google mapに載っていたので来てみたが・・・・。
どのビルの屋上なのかわからない。
見つけたとしても勝手にお参りできそうもなかったので、あきらめた。




続く。

2018/04/16 馬喰町散歩 04 初音森神社/浅草橋/篠塚稲荷/浅草橋駅/浅草見附跡/郡代屋敷跡

西へ進んで浅草橋周辺を散策する。



◆初音森神社

ビルの階段を上がって2階になる。




境内社






◆浅草橋







◆篠塚稲荷神社








浅草橋駅




◆浅草見附跡



浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。昭和31年10月1日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる

って、36門もあったんだね・・・。



旧浅草橋

浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。




郡代屋敷跡



 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代 の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(1590)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688〜1704)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門 内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷 と称されました。
 寛政四年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行 が関東群代を兼ねることとなり、この地に移住しました。文化三年(1806)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した跡には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷 と改称されましたが、江戸の人々はこの地を長く群代屋敷 と呼んでいました。





続く。