『赤とんぼ』の原詩、探訪

赤とんぼの詩を調べると、「おわれてみたのはいつの日か」が、「追われて」ではなくて「負われて」となっている。誤字ではない。その心を調べてみると、そもそも、原詩は今の歌われている詩とは異なっていた。姉やも姉さんではなく、子守娘、だった。

 

童謡「赤とんぼ」について

吉海 直人(同志社女子大学 日本語日本文学科 教授) https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2018-10-09-11-19

 

赤蜻蛉(原詩)   三木露風

夕焼、小焼の、山の空、負はれて見たのは、まぼろしか。

山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か。

十五で、ねえやは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた。

夕やけ、こやけの、赤とんぼ、とまつてゐるよ、竿の先。

 

三木露風の、幼少時代の回想からなる詩、ということのようだ。これで、この曲の味わいが一段と深まる。三木がトラピスト修道院で働いていた大正10年、作詞され、山田耕作昭和2年に曲をつけた。三木の故郷は、兵庫県揖西郡龍野町、とのことである。こういったことをイメージしながら、ギターでこの曲をつま弾くと、三木の郷愁と山田の抒情が、今間近に蘇る。音楽と詩の、歌というものの、不思議さでもある。

山梨との県境に近い富士宮西部、柚野の風景

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なんとなく導かれるように歩き、みつけることのできた、柚野、興徳寺の見事な彼岸花。柚野地域は、そこここに用水路の水が豊かに流れて棚田を潤し、北東に雄大な富士に見守られた、なんだか、静岡らしからぬ、別世界のような場所だった。

 

 

 

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富士川支流、芝川沿いの用水路に沿った小道。道端に古い石碑も点在し、古来の道としても利用されていたような雰囲気でもあった。住んでみたくなる雰囲気のある里山だ。そう思ったのも、決して私だけではないようで、縄文の昔からこの地域には、人が住みついていたいた跡があるのだという。現在、日本の代表的な里山の一つにも、数えられてもいる。

 

 

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興徳寺から眺める富士山。ここまで左右対称で裾野が緩やかに広がる富士山も、珍しいかもしれない。少し東に行くと、驚くほど巨大で、かつ古い歴史を持つ大石寺がある。京都の東福寺あるいは、鎌倉の建長寺と同じぐらいの規模・歴史があるのだ。身延山から富士川流域でつらなり、日蓮宗系の仏教が広がる地域でもある。

蓬莱橋探訪

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大いなる 川の流れに 身を寄せて
夕空望む 蓬莱の橋

 

 

大井川下流に、長く長くかかる、木製の橋、蓬莱橋勝海舟が構想した、牧之原台地の茶畑化を実現しつつあった明治12年に、造られている。これが残っているのも、奇跡的だろう。近場にありながら訪れたことがなかったのだが、行って渡ってみて、ちょっと感動した。

 

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幅2.4mたらず、手すりもあってないぐらいの低いもので、そんな木製の長い廊下のような道が、浪々とながれる大井川の上を、対岸にまで掛けられている。これは、スリルがあったし、「川の流れに身を寄せる」という近さを感じることができた体験だった。

 

丁度渡った時間が、夕日が沈むころだったので、薄オレンジ色の雲と空が、大井川の川面にも映え、ザーザーと目下を流れる音を聞き、若干のスリルをかんじながら、シャッターを切りまくった。とにかく、いい景色と、体験をさせてもらった。通行料100円也。


街側へ戻る時には、この景色と空を、川の流れを、なにか表現しておくか、という気になり、久しぶりに、歌を練る。897mを渡っているうちに、言葉を探し、推敲して、短歌にまとめたわけだが、作成した後の充実感を感じる歌となった。

 

 

韓国人徴用工の方々への賠償問題について

「徴用工」「女子勤労挺身隊」訴訟に対する韓国最高裁判決に寄せて 弁護士 岩月浩二氏による特別寄稿! 2018.12.29 7.13加筆
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/438559


【日刊IWJより】日本は1965年の日韓請求権協定で、この問題に関しては解決済みであると主張していますが、1991年、外務省条約局長は「日韓両国の外交保護権(相手国の責任を追及する権利)を相互に放棄したが、個人の請求権は消滅していない」と答弁しました。
日本政府も昨年11月、初鹿議員(立民)の質問主意書に対し「91年答弁を含めて政府の見解は一貫したものだ」と回答、個人の請求権は消滅していないことを認めている。問題は、なぜ、安倍政権になってから日本政府のこれまでの一貫した外交姿勢をひっくり返し、事を荒立だてているのか、ということ。


【岩月寄稿文より引用】
 現在の情勢を踏まえ、確認しておきたいのは、本件は民間企業の被害者個人に対する賠償問題であり、政府は直接の当事者ではないことである。日本製鉄は、賠償を命じた2013年のソウル高裁判決を受けて、判決が確定すれば、これに従うという方針を有していた。にも拘わらず、日本政府が介入して、判決が確定しても支払わないようにさせ、事態を紛糾させた。問題を困難にさせているのは、当事者である民間企業ではなく、もっぱら日本政府である。韓国非難一色のメディア状況だからこそ、もう一度、基礎的な事情の正確な理解が欠かせないと考える。

請求権協定締結直後の国会において、条約締結を担当した椎名悦三郎外務大臣は、次の通り答弁して、請求権と経済協力は無関係であることを力説した。いわゆる「独立祝い金」答弁である。
「請求権が経済協力という形に変わったというような考え方を持ち、したがって、 経済協力というのは純然たる経済協力でなくて、 これは賠償の意味を持っておるものだというように解釈する人があるのでありますが、法律上は、何らこの間に関係はございません。あくまで有償・無償5億ドルのこの経済協力は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄するように、そういう気持ちを持って、また、新しい国の出発を祝うという点において、 この経済協力を認めたのでございます」(参議院本会議1965年11月19日)

 

【徴用工問題に関する日韓の交渉経緯】

戦時徴用訴訟 和解を拒否 政府、韓国側に伝達 - 産経ニュース https://www.sankei.com/politics/news/131230/plt1312300007-n1.html
ここで、深く事情を勘案し、今後のアジアでの日本の立ち位置を考え、和解の枠組みを作っておけば、流れは変わっていたと思う。

 

河野太郎氏の立論
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/10474.html
昨年11月3日街頭演説「1965年の国交正常化でいちばん問題になったのが補償や賠償をどうするかで、日本が経済協力として一括して韓国政府に支払い、国民一人一人の補償は韓国政府が責任を持つと取り決めた」と経緯を説明。


ところが、この一大重要事項が、請求権協定では、文書化はされていない。また、協定締結当時の解釈とも異なっている。岩月氏は、「となると、河野外相によれば、この「取り決め」について、書面化することなく、「韓国政府が責任を持つ」とする、口約束をしたというのである」

【筆者コメント】ここが、日本側の立論のアキレス腱になろう。日本国民に対しては、原発事故後の鼻血もストレスと強弁して忘れさられるのを待ったり、公文書も偽造してもうやむやにもできるかもしれないが、外国民となると、それもなかなか難しかろう。バカにしたり、威嚇したり、経済制裁は加えられるかもしれないが
 2013年の韓国側の和解の打診のときに、しっかり本腰をいれて、対応すべきであった。それができるためには、村山談話河野談話を、日本が真摯に受け止めつづけ、未来志向の外交として態度で示してゆく度量が必要であった。2012年からの安倍政権は、本質的な所で逆回転をしはじめていた。

東京春祭《さまよえるオランダ人》 鑑賞記

  東京文化会館で、N響、若手のアフカム氏指揮による、演奏会形式のワーグナーオペラ、『さまよえるオランダ人』を聴いてきた。オペラ全幕を、生演奏で聴く機会は、2回目であるが、やはり、非常に密度の濃い体験となった。

   まず、聴き終えて、ワーグナーにやられた、というぐらい、彼の劇展開のうまさ、効果的で隙のない音楽用法に、感銘を受けた。CDやエアチェックしたMDの音楽だけではなく、生の劇として、セリフの対訳もみながら、ワーグナー楽劇を体験するというのは、やはり、重量級の体験である。最後の最後に、オランダ人船長とゼンタが、手を取り合って舞台から袖に退いていくのだが、この場面をつくるために、2時間半の楽劇を必要としている。それは、男女が、こころから共に結ばれる、ということの浄らかさ、また、その難しさということでもあろう。最後の最後にうけとった耐え難い心境は、曽根崎心中文楽で見たときの感銘に、近いものがあった。


   こういう救いのテーマが、その後のトリスタンとイゾルデ、及び、ローエングリンにまで、共通するものとなる。また、長めの序曲で提示された、情景音楽的でもある非常に効果的なテーマ群が、3幕の中で、有機的、かつ自然に展開されていく。いわゆるライトモチーフの手法につながるものなのだろう。役者、もとい、オペラ歌手たちの演技も、演奏会形式なので動きは制限されるのだが、しかし、背景にながれる音楽に助けられながら、遠くからみても非常に情感のこもったものとなっていた。特に、解けぬ苦しみを背負いながら、真剣に生きようとするオランダ人役のターフェル氏の存在は、重いものがあった。


    ワーグナーのエッセンスが、20代後半の若い形で出尽くしているような、そんな作品なんじゃないかと思った。彼は、破天荒な人生を送っていた人物だったが、彼の紡ぎだす音楽の流れには、そういった粗さは一切なく、若さによる未熟さも感じさせず、一貫して肌理の細かいものである。N響と、今回の若い指揮者もよかったのだろう。演奏終了後のカーテンコール、まあ、カーテンはないのだが、それが、2階席からみて恥ずかしくなるほど熱烈であった。ブラボーと声をあげながら、大勢の人だかりが舞台に上がらんとばかりに、迫っていっていた。自分も、我を忘れてそこに交じりたくなった、そう、昨晩は、ワーグナーにやられた、ということだ。

 

 

 

東京春祭ワーグナー・シリーズvol.10
さまよえるオランダ人》(演奏会形式/字幕・映像付)
■日時・会場
2019/4/7 [金] 15:00開演
東京文化会館 大ホール

■出演
指揮:ダーヴィト・アフカム
オランダ人(バス・バリトン):ブリン・ターフェル
ダーラント(バス):イェンス=エリック・オースボー 
ゼンタ(ソプラノ):リカルダ・メルベート
エリック(テノール):ペーター・ザイフェルト
マリー(メゾ・ソプラノ):アウラ・ ツワロフスカ
舵手(テノール):コスミン・イフリム
管弦楽NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:トーマス・ラング
合唱指揮:宮松重紀
アシスタント・コンダクター:パオロ・ブレッサン
映像:中野一幸

第10回 浜松国際ピアノコンクール印象ツイート記

2次予選


November 18th

下駄はいて銭湯いくみたいには、地元民が予約なし当日券で行くことができないコンクールになってしまった。さらに、今回は日本人を優勝させるというミッションを課せられていないかどうかが、一抹の危惧。とにかく公正価格設定の浜松魂をコンクールは貫くべきである。


牛田智大 2次予選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail2.php?id=79
ラフマニノフ 第2番
ショパン バラード第1番
佐々木 SACRIFICE
ちゃらいアイドルかと思いきや、他のコンテスタントと同様の若き青年ピアニストの卵として、堂々とコンクールに臨む姿に感じいる。偉大な芸術家、紘子女史への想い出という凄みもある。


3次予選に勝ち残ったコンテスタントさんたちには、是非、作曲家、作品との直接対話を経て、自分の中にある、個性的な熱い表現欲求を、浜松の舞台にぶつけ切ってほしいと思う。そう、若さでぶち抜けてもらいたい。浜松という街はそんな新しい才能を受け止める度量はある、と思う。



3次予選



November 19th  
ラヴェル「鏡」演奏中なう
務川慧悟 3次
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=50
ドビュッシーではなく、骨と影のあるラヴェルだ。しかしこれも繊細かつダイナミックな熱演。


牛田君のプログラム視聴。シューベルト即興曲は、お口直し的だが、クラシックギターをやるものにとっては、大変好きなアルペジオ曲。その後のリストロ短調ソナタも圧巻だった。19才の今、もてる実力を出しきったのではないか。
牛田智大3次
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=79



おそらく、#浜コン でしか聴けないような、そういう渾身の音楽表現というものがある。今日の3次予選をライブ配信でちらちら見ながら、そういう思いを新たにした。コンサートではなく、コンクールという設定がなにか途方もないものんをひきだしてくれるのだろう。もはや競争ではない。饗宴になっている



November 21st
 浜コンに限って、静岡判定、嫌韓判定、日本スゴイ判定はないと信じたいが、キム君と、静岡県勢2人のうちどちらかの3次録画をみて確認しておく。浜コンで必要な忖度は、ヤマハとカワイのピアノをステージに置き、浜松市の音楽都市としての成熟を促すことで、優勝者の人種、民族性、性別、県別などに対しては、まったく忖度を要しない、というよさがあったのではないか。ピアノという楽器を、本当に優れて弾いてくれる人を発掘し、ピアノ芸術を高め、裾野を広げ、ピアノ販売数がオマケで増えてくれればいい、そういう意味のコンクールだったのではないか。それが、回数を重ねるごとにプライズとしての箔に磨きがかかってきて、そのプライズを得ること自体に、浜松市が認めたピアノ芸術の伝道者という価値とは、また別の、名声としての価値も生じてきたのだろうか。
 小川委員長は就任にあたり、浜コン優勝者というだけで世界にピアニストとして認められるコンクールにしたいとはなしていたが、そんな明言された方向性にもリンクする。演奏のみではなく、演奏プラス人を、選んでくる荷重が垣間見えなくもない。そんな邪推を限りなく薄めるためにも、3次予選録画配信も、確認。


梅田智也 3次
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=78
3次予選中継でみていました。ロ短調ソナタの気迫、伝わってきました。お疲れさまでした。 https://twitter.com/Tomoya__Umeda/status/1065157326171062272


キム・ソンヒョン 3次
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=35
特に、ショパン前奏曲全曲をきくと、ミスもゼロではないものの、チョソンジンを思わせるような上品さと、テンダネスさ、聴いていての安定感がある。韓国ピアノ界に今ある土壌が生んでいるのだろう、と感じる。


今回は、全日本浜松国際ピアノコンクール in 静岡という感じになった。こういう顔ぶれは初めてではないだろうか。 https://twitter.com/HIPICofficial/status/1065193306513059840
No.50 MUKAWA Keigo
No.90 YASUNAMI Takashi
No.79 USHIDA Tomoharu
No.22 IMADA Atsushi
No.41 LEE Hyuk
No.10 Can CAKMUR


November 22nd  
安並貴史 3次
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=90
ライブ配信聴いていた時に、ベートベンでどうかと思う時があったが、本人研究しているというドホナーニは、印象派に傾かないクラシックな色彩に溢れていた。ハンガリー人で指揮者ドホナーニの祖父ということだ。


 ロシアピアニストでもなく、チョ ソンジンやキム ソンヒョンのような韓国ピアニストではなく、日本人ピアニストの今の若手が確立しつつあるフィーリングというものがどういうものなのか、そういうものもにじみ出る本選となるかもしれない。楽器には、製造者の国籍の色調、個性が、意識しなくてもにじみ出てしまうものだが、演奏家となるとなおさらだろう。繊細さと清らかさといった所になるのだろうか。ただ、大陸的な豪胆さが、どこか足らないのでもないか、と心配はする。大河と大地がはぐくむスケールの大きさだ。



本選


November 23rd
務川慧悟 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=50

安並貴史 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=90

音のビビットさは、安並君にインパクトがあったとは思う。務川君は完成の域。ただ、序盤にもう一つ引き込むようなエネルギーが欲しかった。双方よくやってくれました。次が、牛田君の出番。


牛田智大 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=79


 牛田君の演奏は、最初の出だしから引き込まれるものがあった。ラフマニノフの2番は、本当にいい演奏をきくと何故か涙ものの音楽なのだが、そんな深く美しい表現だった。彼がインタビューで言っていたように、コンサートではなく、コンクールだからこそなせた、本当に一期一会の演奏だった。この2年程度、いろいろあったのかもしれないが、ラフマニノフがこの2番で再起したように、牛田君もそんなラフ2番の演奏で、それも、浜松国際で、なにかを成し遂げた日になったのではないかと感じる。だいたい、本選を聴いていると、これは優勝するなという方の演奏はわかるが今日の牛田君はそうだった。

 すごい演奏に立ち会えた、生きていてよかった、そんな声もあるが、実際、私もコンサート後にバーに寄って、スパークリングワインをのみながら、そんな感慨を持った。音楽というものが時に深い体験になる時がある。それは、演奏家と聴衆があってこそだ。今日も、驚くほどのサイレンスがあった。牛田君の演奏が始まる前のサイレンス、そこにまず息を呑んだものである。ああいうサイレンスは浜コンでしかなかなかない。普通のコンサートでは、ああいう水を打ったような間は生まれないのではないか。一人の青年の実存的な賭けが、今まさに始まる瞬間、そんな間合いである。彼は、それを味方につける実力があったのだろう。また、サムライの姿や、禅僧の姿、そんな姿を彼の演奏から印象づけられる所があった。求道的といっていいような、日本人演奏家のなにかありようだろうか。

 明日の奏者の中から、優勝する人がもしかしたらでるのかもしれない。もしそうだとしたら、今日の牛田君を超えるほどの演奏をされたということであれば、彼にも敬意を表したいと思う。それはそれで、満足である。果たして、どうなるか。


 牛田君はもちろん、3次予選の曲を心の糧としていたという務川君、小さい頃に地元できいていたコンクール本選の場に自分が立つことになった安並君、それぞれがあの舞台に立つに至るまでの物語があるんだろうなと思う。確かに小説にはなろう。昨日の最後は映画のワンシーンのようでもあった。



November 24th
【コブリン インタビュー】私たちはいま、何が良くて何が悪いか、趣味がいいということは何か、その感覚が混乱する時代に生きていると思います。この不確実さが、若いピアニストに進むべき方向をわかりにくくさせているのだと思います。結果的に、彼らはひとり浮遊するような形になってしまう。 そしてある人は、早く簡単にそこから抜け出す方法をとり、ある人はそのままさまよい、ある人はもがきます。
http://www.hipic.jp/news/2018/11/post-69.php

Facebookでは、彼のおちゃらけた一面をみることができたが、インタビューは深い。いろいろ参考になった。


本日は、パソコンでちらちら視聴。イ ヒョク君のラフマニノフ3番、ソロパッセージの所が泣かせると思った。3番は2番に比べ、作品としての壮麗さと完全無欠さに欠く印象はあるが、今回、見直すきっかけにもなった。最後のジャン チャクムルのリストも同様。いい曲はまだまだたくさんある。

今田篤 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=22

イ ヒョク 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=41

ジャン チャクムル 本選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail4.php?id=10


 確かに、協奏曲の経験、ステージ経験ということで、やはり、牛田君には、他のコンテスタントにはないような、かなりのアドバンテージはあったと思う。高関、都響とは同じ曲で演奏しているというから、リハで合わせて1日目の他のコンテスタントに比べれば、半端ないアドバンテージではある。ただしセミプロの方が、国際コンクールにでるというのは、場合によっては2次予選、3次予選ぐらいで先にすすめないとされる可能性もあり、ピアニストとしてのキャリア形成にとっては大きな賭けになると思う。その裁きを受け入れ臨む潔さが、彼にはあったと感じる。


 牛田君、2位に終わったか。ただ、昨日の演奏を生で聴けて、非常にありがたかった。かけがえのない音楽体験ができたのは確かだ。聴衆賞には、私の一票とブラボーが入っている。ワルシャワ市長賞も、おめでとう!


Can Çakmur Personal Piano Web Page
http://www.cancakmur.com/home.html
ホームページみると、チャクムル君は、どうも、トルコの牛田君みたいな方のようだ。



競演/饗宴の後に



November 26th
中日新聞 26日朝刊】万感、輝く音色 浜コン入賞6人が演奏会
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/tokai-news/CK2018112602000085.html
小川審査委員長「今回、異例の盛り上がりを見せたのは「蜜蜂と遠雷」の影響が大きいのは間違いありません。私たちがこの小説に感動したのは、ピアノの音や演奏を巧みに表現してくれたのはもちろん、演奏していないときにも、人間ドラマがあると教えてくれたからです」

【公式】11/24 表彰式&記者会見
http://www.hipic.jp/news/2018/11/1124.php
小川審査委委員長「私が個人的な見解を他の審査委員の意見を聞く前に申し上げれば、日本人の出場者の水準、完成度は極めて高かったと思います。演奏している最中に腕をツンツンしても、弾くのをやめないだろうという意気込みが感じられるというか、侍の演奏というか。そのくらいの迫力が感じられました。
/サムライを持ち出したのは、私と同じような印象を持っていたということか。主従関係や階級、無名の暴力性を思わせる武士ではなく、一人でも立ちゆき、事にあたっては美学を貫き生きるようなサムライ。禅の書や芸術にもつながろう。


November 28th
Hamamatsu International Piano Competition
‏@HIPICofficial
本選指揮者・高関健さんのインタビューを掲載しています。本番前のリハーサル終了時のインタビューですが、ピアニストに必要な事やオーケストラと共演するために重要な事など、とても興味深いお話です。ぜひお読みください。
http://www.hipic.jp/news/2018/11/post-72.php
「いわば、参加者のほうが強い立場に立てる、そういう瞬間があるんです。圧倒的にいいと認めさせないと優勝はできませんし、その後が続きません。おそらく、他のコンクールでも同じではないかと思います」

/これは新たな才能が開花している瞬間でもあると思う。コンクール、特に本選で感じることがある。論文を投稿する機会を持ったことがあるので、似たような「怒り」に似たような「わかってくれ」という叫びはよくわかる。そこで、審査者が持ちえないような新しいものをはぐくみ、見通し、表現する者として、被審査者が審査者の上に立ってしまう瞬間が確かにある。あたらしい世代という問いに、生き様を含めて正面から立ち向かい、答えを出すものは、老練な玄人ではなく、若者しかいない、しかできないという所があるのだ。




P.S.


チャクムル君 3次予選
http://www.hipic.jp/streaming/vod/detail3.php?id=10
シューベルトはしみじみしすぎている嫌いがあるのだが、モーツァルトピアノ四重奏になると俄然、生き生きしてくる。装飾音は独自につけており、その軽妙さも彼ならではと思う。


チャクムル君情報は、トルコ語を訳してくださっている方のツイートを発見し、参考になりました。
@VillaVerde_Ant

質問:ステージで緊張し困ることがありますか?どのように解消していますか?
チャクムル君:ベルギーでの初めての国際コンクールで、ステージに上がった時、木の葉のように震えました。緊張を抑えられなくて、たぶんそのせいで暗譜で間違えてしまったんですね。でも審査委員はそこは気に留めず。それから自分自身にこう説き聞かせたんです。「お前には伝えるべき言葉がある。それを聴きたい人が集まってお前に耳を傾けている。大事なのは言葉を伝えること。間違えるのは人のさがなんだから…」その日以来、その時のような恐怖を感じることはなくなりました。
https://twitter.com/VillaVerde_Ant/status/1066804216293920775
/いい話である。


「その週のプログラムを父がCDに録音し、1週間を通してそれを聴き続けます。金曜日か土曜日の夕方のコンサートに期待することを自覚しながら聴くんです。コンサートで母は私の耳元でしきりに囁きました。「ジャン、ティンパニを見て!」とか「ほら、指揮者があんな風にチェロに合図してる!」とか」
https://twitter.com/VillaVerde_Ant/status/1066992091094499328
/これは、モーツァルトピアノ四重奏で、要所要所でしっかりと楽器演奏者たちをみようとしていた、彼のの演奏態度にもつながる。


「先生方は常に、個人としての成長と芸術的成長を技術の開発と同じくらい重視していました。学ぶこと、考えること、音楽を聴きそれについて深く考えをめぐらすこと、何が美的なもので何が醜いものか自分ひとりで判断を下すこと。それらがピアノを弾くことに並んで先生方が僕に習得させようとしたものです」
https://twitter.com/VillaVerde_Ant/status/1067043097794813956
/こういうphilosophicalな確信をもって、ピアノ音楽を教えている教師は、日本には少ないかもしれん。大事なことなのだが。


個々の奏者の感想、コメントを丁寧に記載され、コンクール事情にもくわしいであろう方のツイート、記事より引用。
@gnuton1
「より適切な採点法を模索すべきと思うが、少なくともYes/No制の問題点については広く議論されたほうがいいような気がする」
https://twitter.com/gnuton1/status/1067794312132317184
/一次予選で自分も感じた、あれっという落選について、少し納得いくような説明がなされている。ベストはないだろうが、ベターは探るべきだろうと思う。


【公式】ヤン・イラーチェク・フォン・アルニン審査委員 インタビュー
「古典派の作品を演奏するうえでは、自然な流れとエレガンスが大切です。ダンスの感覚を大切にすべきです。早く踊ったり遅く踊ったりするダンスではありませんよ。適切な間やテンポ感を大切にしたダンスです」
http://www.hipic.jp/news/2018/11/post-73.php


 ウィーン古典派からの逆襲といったインタビューだ。今回の優勝者選定のスタンスを見た感じである。ウインナワルツは、ズンチャッチャッ、ズンチャッチャッではなく、ズチャッ・チャ、ズチャッ・チャであると、ギター教師から言われたことがあった。 
 リストソナタ、ベートーベン後期ソナタも、個人的にはこのコンクールで若者の熱演が聴けるのは、ありがたい体験とは思っていた。先生、曲選定の偏りにお怒りのようだが、これらのソナタも、プロコ3番も、必ずしも過去の優勝者が弾いていたからやるということでもなかろうに、と思う。モーツァルトではなく、ベートーベン前期でもなく、それに挑もうとするコンテスタントたちの内的な必然性があったのだと思う。
 ただ、このコンクールからめっきり欧州風のピアニズムがみられなくなったというコメントもあったが、それを裏書してくれるようなインタビュー記事ではあった。チャクムル君が、むしろ、それを体現されていたのかもしれない。だから、次からは、それを真似てウインナワルツで、では、元も子もないので、アルニン先生の感慨を、バランス感覚を取り戻すきっかけとなるメッセージにする、ぐらいなんじゃなかろうかとも思う。その上で、コブリンもいうように、何がセンスよくて、何がセンスが悪いのか、その解が個人に問われる時代になった。チャクムルも、その美学、独自の判断力が大切であることを先生から学んだという。その解をみずから担い、世に問うという面もあるのがコンクールといえるのではないか。少なくとも、私は、そういった彼らの真摯さ聴きに行っているのだと思う。

医師数を1.8倍にすることで、医学部入試差別も消失するだろう


 本来、雇用機会の平等の主張は、就労責務の平等の前提の上で、現実的に、説得力を持って成り立つと思う。もし、入口にあたる雇用機会不均等が横行しているならば、まず、不平等となっているカテゴリー間での責務遂行の実態把握の上で、その平等化を担保するような施策が行われることで、そのカテゴリー間での雇用機会の平等の主張が、業界全体としても、文句なくなされるようになる。これは、カテゴリーが、男とか女とか、現役生とか浪人生とか、寄付金の金額だとか、あるいは、業界も、医者とか記者とか、そういうことを越えたところの、一般的な主張である。だから、まず、入口の差別を行っていた東京医大側に、まず、その理由についてデータをだして、不平等としていたことについて反論する機会が与えられてしかるべきだと思う。つまり、その不平等を業界内で正当化するような、医師となって以降の就労責務の不平等が、男性、女性間であるのか、現役生、多浪生の間であるのかどうか。そこからしか、どうしたらいいのか、どういう施策を打っていけば、就労責務の不平等について解消されるようになり、その結果、入口での差別が必要なくなるのか、そういうことは議論できないと思う。

 以下、医師の男女比率、人口対医師数や、看護師数の国際比較から考察。


世界各国比較|医師・看護師・歯科医師・薬剤師数ランキング
https://labcoat.jp/medical-workforce-data-ranking/
 医師の仕事の大変さを見るという意味で、日本は、人口対医師、看護師数は、スロベニア、カナダと近いが、医師の男女比でみると、スロベニア女医55%、カナダ45%ぐらいで多くなっている。医師のみでみると、人口対医師数、男女比ともに近い韓国、アメリカと近い。ただし、アメリカは基本的に民間保険の国で、日本とは異なり、支払い能力のないものは高水準の医療からは排除されており、医師の仕事の負担という点で、比較にはならないと思う。日本は、生活保護の者でも、最高水準の医療を受けることができるし、医療者側も義務を負っている。今の人口対医師数で、アメリカの医師に日本の医師と同じ義務を課せば、医学部入試も含めて、アメリカの医療業界は果たしてどうなるであろうか。


日本の医療の「質」は世界最高レベル? 最新の国際調査でランセットにて発表
2017年6月29日
https://www.huffingtonpost.jp/mamoru-ichikawa/japanese-medical-no1_b_17327920.html
 人口対医師数が同数でも、人口に対して達成している医療の質が高いか低いかで、医師の仕事の負荷量が変わってくるため、こういう視点の研究が最も参考になるだろう。上位国としては、日本の外に、スウェーデン ノルウェイ オーストラリア フィンランド スペイン イタリア ルクセンブルク アイルランド が並ぶが、各国の医師の男女比はさまざまであり、あまり関係ないようである。つまり、この論文のみている「もし適切に治療されていたら防げたはずの死を、どのくらい防げたか」という観点からの医療の質という点で、医師の能力のは男女差は、あまりないものと推測される。


 そこで、医療の質、上位国で、人口規模がある国の人口1000人対医師数をグラフから目算すると、
ノルウェイ 4.2  
スウェーデン 4 
イタリア 4 
スペイン 3.8
オーストラリア 3.5
フィンランド 3 
日本 2.3


日本を1とすると
ノルウェイ 1.8 
スウェーデン 1.7
イタリア 1.7
スペイン 1.7
オーストラリア 1.5
フィンランド  1.3


 したがって、結論としては、同じ質の医療を国民に提供するために、日本人の医師は、ノルウェイスウェーデンの医師の1.7〜1.8人分の仕事を、1人でこなす責務を負わされている。産休、育休などとるような医師は、女性であっても、おそらく育休をとるようであれば男性であったとしても、白い目でみられ、一人前とみなされず、業界の論理として、雇用機会の入口で差別されることになる、ということになろう。つまり、日本における人口対医師数と、おそらく、国民から要求される医療の質といった業界の構造的な問題が、背景に横たわっている。東京医大の入試男女差別の問題は、医療、医師に、国民がなにをもとめるのか、スーパーマンみたいなものを求めるのかどうか、も問われている。



東京医科大を叩いてる人達はポリコレと人命のどちらが大切か冷静に考えて欲しい。現場でないと見えない現実 - Togetter https://togetter.com/li/1252985
口は悪いが、問題点はよくでている。冷静にいえば、医師の男女比がイーブンになっても、医師数を約1.8倍にすれば、ノルウェイスウェーデンのように医療の質はさがらないだろう。ランセットの医療の質国際比較論文と、各国の医師数データから、今回の問題に対する正当な要求とは、医学部入試点数で女性差別なくせというなら、同時に医学部の定員を1.5〜1.8倍にする必要があろう、ということだ。