je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

言葉が堰を切ってなだれこむ~『ハムレット』@彩の国さいたま芸術劇場

 

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彩の国シェイクスピア・シリーズ2ndスタート!

さい芸が1年半の大規模改修工事を経て、今年3月にリニューアルオープン。

それに伴い、蜷川さんとともに歩んできたシェイクスピアシリーズが、吉田鋼太郎さんの新たなシリーズとして始まりました。

5月、バラの季節。ちょうど「ばら祭り」開催中で、駅前もバラが満開。新しい門出を祝福しているかのよう。

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新しいさい芸はぱっと見は変わってないようにも見えましたが、古いところも生かしつつ、張り替えたところもあったり。何よりトイレが新しく使いやすくなってたのはうれしい。

まずはガレリアの蜷川さんコーナーにご挨拶。後で気づきましたが、命日前日。

レストランがなくなってしまったのは残念でしたが、中のカフェが広く使いやすくなり、メニューも豊富。新しくできた「シェイクスピアの庭」という、作品に出てくる花やハーブを植えた庭を眺めながら、開演前にランチ。ちょうど今回の公演の音楽担当の井上正弘さんによるミニコンサートがあり、短いながらも充実した空間でくつろげました。

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クリアな音を生かした演出

大劇場はかなりしっかり改装したよう。椅子が柔らかすぎず、反発もほどよくあり、座りやすい!今回R列中心寄り、1階席後方のブロックで区切られてるところ。多少離れてはいるので細かい表情はオペラグラスがいるかなというくらいで、目線も他に邪魔されず、舞台全体が見られる良席。美術、音響、照明を堪能できますし、ちょうど通路前なので、俳優が客席に降りる演出の時に通るので、近くで見られる楽しみも。今回劇中劇の時に、クローディアスらが通路で見る演出があり、背中の演技が見られて面白かった。

とにかく音響がよくて。台詞が多く、吉田演出は絶叫芝居になる箇所も多いのですが、抑えた声の時もはっきり聞こえてきました。

一番それを感じたのは、ハムレット柿澤勇人)の第一独白。少し震えるような、決して張ってない、つぶやきに近い極力おさえた独白。ハムレットの苦悩、悲しみ、憤り、品格、すべてを込めた台詞。それは大きくはっきりした主張の強い声よりも、よりスッと水のようにこちらに流れて入ってきました。ゾクゾクと鳥肌が。

もちろん柿澤さんの立ち姿の美しさや、シンプルに極力絞ったけれんみの少ない照明などの効果もありますが、舞台の音響構造がいいのがよく分かる。

その後の独白もですし、他のキャストの絶叫芝居の時も耳にきつく感じない。台詞劇を強調したいという演出に、リニューアルされた大ホールがばっちり合いました。

抑えた声の発声は、前回のジョン王の時に吉川光男さんの発声で、吉田さんが大きな声にはない効果について気づきがあったと言っていたので、何か変化があったのでしょうか。

生き生きとした言葉と肉体

王宮のシーンの時に太い柱が数本出てくるくらいで、大きなセットはほぼなし。目立つセットはミモザの花束が入った大きな花瓶、劇中劇のセット、先王とクローディアスの肖像画、墓堀りシーンの墓など。

俳優は歩き、走り、つかみ合い、抱き合い、言葉を迸らせる。生命の強さ、肉体の存在の強さを感じる。

最初にそれを認識したのは、亡霊(吉田鋼太郎、クローディアスと二役)の存在。最初は霧とともに幻のように出てくる。甲冑のマスクをつけたままで話すので声もこもっている。しかしすぐ外し、中から生きているような先王が現れる。その後のハムレットとのやり取りは、抱き合い、激しく言葉を交わす。ハムレットは父王の激しい思いに肉体と共に触れ、過呼吸のようにその腕の中でもだえる。

この演出で、なぜハムレットが復讐へ向かうのか、悲劇がなぜ起こったのかの説得力が増す。父王への愛、母への嫌悪。そして自国に迫る危機への不安も呼び起こすベースとなる。

それにしても、初っ端からノリノリ吉田鋼太郎節炸裂だったので、亡霊のくせに元気すぎ!と思いましたが、今回の作品がどういう方向に行こうとしてるのか、はっきり分かる箇所でもありました。

七つの独白

第一独白でゾクゾクし、その後の独白もハムレットをより身近に理解できる。柿澤さんの舞台を見るのは初めてでしたが、その堅実さにすぐ信頼と安心を感じました。こんなにハムレットを優しい気持ちで見れたことあったろうか、というくらい。もちろん歴代のハムレットは魅力的で、素晴らしい役者さんばかり。20歳の藤原竜也の妖艶さ、内野聖陽さんの力強さ、 野村裕基さんの和的な独特のリズムで語る新しい表現、カンバーバッチの知性溢れる様、アンドリュー・スコットのかわいらしさ。どれも心に残っています。

柿澤さんのハムレットは、すべての要素をバランスよく持ち、孤独で愛を求め、賢く、国を憂い彷徨いながらも、王子としての品格を保つ。なにより、言葉にあふれるキャラのその暴れるような台詞をうまくコントロールしているのが素晴らしい。

お友達とも話してたのですが、フォーティンブラスを見かけた時の会話。小さな領土を争うことのむなしさを憂う台詞の重み。現在の世界情勢もありますが、染み入る演出で、その後の独白もより深みを増しました。

ハムレットは家庭内悲劇ですが、それは個人の問題がやがてマスへ広がることを示唆しており、独白はそれを網羅していることが今回よく分かりました。ハムレットがどれだけ国を憂いていたか。

余談ですが、Netflixのドラマシリーズ『リプリー』に主演してるアンドリュー・スコットが、ハムレットの言葉を引用してました。(突然のアンスコ推し!)

『コミュニティにおける特定の要因を排除したら、デンマークに何かよくないことが起こるのだ(腐敗が起こる)*1

これは『リプリー』についてのメッセージとしての引用なのだけれど、アンスコのハムレットへの愛と理解が感じられる。ハムレットがただの若い青年ではなく、一国の王子としての気概があったという事。柿澤さんにも同じような理解の深さを感じました。

アンドリュー・スコット、Netflixドラマ「リプリー」の主人公は「モリアーティとは違う」 | Vogue Japan

咲きほこる花のようなキャスト

柿澤さんと吉田さんを軸に、他のキャストも生き生き、のびのび。

オフィーリアの北香那さんはメリハリのある演技が印象的。最初に兄レアティーズ(渡部郷太)とキャッキャウフフするシーンは二人とも朗らかで、仲睦まじい輝きが眩しい!その後オフィーリアの悲劇、レアティーズの怒りと悲しみを強調する。

オフィーリアの狂気のシーンは、かつてないほどその過激な狂いっぷり。叫び声の悲惨さ、ハムレットからもらった黄色いドレスを身にまとい、ミモザの花にうもれ、歌い踊る。悲しみと弱さだけでなく、王と王妃に怒りと共に投げつける爆発力のある演技。妹を「五月の薔薇」に喩えるレアティーズの台詞もさらに悲しみを誘う。

その後、いわゆる「ナレ死」のように台詞だけで語られるオフィーリアの死が、目に見えていくような演出。北さんは「たそがれ優作」で大酒のみの役を演じた時のぶっ飛びぶりが記憶に残ってて、可愛らしいけど近寄りたくないこわさがある。笑いながら怒る竹中直人みたいだな、と。

ポローニアスの正名僕蔵さんの陰のあるコミカルさは、他とのリズムを引き締める。父としての威厳や愛情の演出は少な目で、どちらかというと王への忠誠が悲劇を引き起こす演出は、国の腐敗が内側から始まるという印象を強くする。墓堀りの演技もぴったり。ポローニアスと墓堀り二役は見た事あるとは思うのだが、かなり印象的。

高橋ひとみさんのガートルードは可愛らしく、少女的な無邪気さもあり。クローディアスが兄を殺すほどほれ込み、息子にその色香を責められる存在感。彼女がすぐ再婚するのは、跡を継ぐには若い息子の立場を守るため、ひいては国のためもあるだろうが、そこははっきり語れらていない。しかしそれがあったとしても、生まれながらの傾城の魅力を感じる。吉田さんのクローディアスが常に王妃を愛おしむ演技もよい。

ガートルードといえば、ハムレットとの近親相関的演出もよくあるが、どちらかというと今回は「父を裏切ってその弟と再婚したビッチ母」への女性嫌悪が強く出る。ハムレットは母に覆いかぶさり、その股を無理やり開き、まるでレイプするかのような演出が露骨だ。ここは〝honeying and making love Over the nasty sty!” の台詞をまま表現しているのでおかしくはないのだが、ちょっとガートルードに同情しました。息子にあんなことされて、そら絶叫しますわ...。私の席からは見えなかったが、バックハグではがいじめにした時に、胸を掴んでたそう。高橋さん柿澤さん、熱演すぎる。

面白いのはその母子の激情の後に、突然亡霊が出てくる。「おいおいお母さん悪くないんだよ~優しくしな~。お前がやらなきゃいけないのは復讐だよ~」ってな具合に。今まであまりこのシーンちゃんと意味を考えた事なかったんだけど、やりすぎてる息子をクールダウンするためだけに父ちゃん幽霊出てきたんだ!と腑に落ちました。また、親子三人のシーンはここだけで、『異人たちとの夏』『異人たち』を想起させました。あと、先王は妻を愛してたんだなというのも分かる。先王と弟王を同じ俳優が演じるのはよくありますが、兄弟だから似てるからという理由だけでなく、ガートルードへの愛という共通点も今回の演出は強く打ち出してる。

他のみなさんも楽しく演じてて、劇中劇の役者、ローゼンクランツとギルデンスターン、おなじみの役も印象的。ハムレットはタイトルロールがとにかく目立つので、他がハムレットにかき回されてるだけの印象にもなるのですが、周りとのバランスも良い。ここは柿澤さんの演技のバランスの良さも良いことの現れ。

その分、ホレーシオとフォーティンブラスの印象があっさりめ。ホレーシオはラストの「おやすみなさい、優しい王子様」のとこが至高でしたが、そこに至るまでの演出があっさり。フォーティンブラスも衣装メイクは印象的だったのだけど、そっちに目がいきすぎた。ここは鋼太郎さんの若手俳優への演出の仕方の好みなのかも。他が背油ましまし二郎ラーメンなら、更科蕎麦なさわやかさなんですよね。

背油といえば、吉田さんはノリノリ台詞まわしで「~だったのくああああああ!」とか「~だああああああ!」とかセルフエコーかよという水戸納豆ばりの引っ張り具合。途中笑いそうになりました。藤原竜也がいると二人で演技合戦になるんだが。大好きなので、そのままでいてほしいですが。

あとバックハグ演出がたくさんあって、吉田さんバックハグ好きなんだねと思いました。

季節に合わせたのか、春の花のようにこぼれんばかりにバンバンと咲きほこり、満開になるキャストが楽しかった。

ラストは一人静かに横たわるハムレットがひたすら悲しく、染み入る演出なのですが、ここで天井からミモザの花が無造作に落ちてきます。そうオフィーリアの持っていた花。まるで天からオフィーリアや、先に逝った人々、もしくは神からの悼みのように。祝福なのか、葬送なのか。

天からものを無造作に落とす演出は前回の『ジョン王』で印象的な演出で、吉田演出としての特徴として続いていくのか。

今回なぜミモザなのかはちょっと分かりませんでした。ミモザ花言葉は「愛情、友情、安全」など。あとフランスでは「私がどれほどあなたを愛しているか、誰にも分かりはしない」なんだそう。またヨーロッパでは黄色い花は太陽や黄金のイメージ。国際女性デーのシンボルでもあります。とにかく明るいイメージ。

花言葉はオフィーリアの台詞に出てくるし、シェイクスピアの作品で花や植物は大事なモチーフ。吉田さんがどのようなイメージでこの花を持ってきたのか、これは気になる。

言葉!言葉!言葉!

とにかく今回は台詞に重きをおいた演出ががつんとはまりました。蜷川シェイクスピアで馴染んだ松岡訳から、今回は小田島訳。どちらも素晴らしく。松岡先生がかつてTo be or not to be の訳について、小田島訳を称賛されており、たくさんの翻訳でシェイクスピアを見られる僥倖をしみじみ感じました。

この後も続くシリーズ、果たして吉田鋼太郎さんはどのように展開していくのか。楽しみでなりません。

他にも書きたいことあるけど、また思いついたら別記しようかなー。そのくらいいろいろなものを受け取り、自分の中から花が咲くような感覚を感じたプロダクションでした。

*1:原文は"If you dismiss certain factors of the community, something becomes rotten in state of Denmark." ここは、第一幕第四場のマーセラスの台詞"Something Is Rotten in the State of Denmark"からの引用か。

『美しき仕事』クレール・ドゥニ監督アフタートーク@横浜ブルグ13シアター1(横浜フランス映画祭2024)

クレール・ドゥニ監督アフタートーク、というかティーチイン、Q&Aの濃い内容。

壇上の準備がちょうど終わると同時にドゥニ監督早速やってくる。まだ司会も通訳さんも来ていないが荷物をドサッと置いたり、何やら早口で話している。パワーみなぎる感じが伝わる。

冒頭あいさつを促され「意地悪なのと優しいコメントどっちがいい?」とニヤリ。いきなりだったので観客も反応に困るが、司会や通訳さんもちょっと戸惑う。

で結局「時差ボケが大変なの!こんな映画だけどどうだった?お休みの日よね、よい日曜日になったといいけど」というかなりフランクな出だし。少しテンション高めなのは時差ボケの影響?

アフトクはQ&Aにすぐ入る形式だが、まずは司会の方より。

司会:今回4Kレストア版はクレール・ドゥニ監督と撮影のアニエス・ゴダールで監修されたとのことだが、どのようだったか。

クレール・ドゥ二監督(以下監督):修復をどのようにするかということを考えた時に、実際最初に今作を作った時の感動を思い出すことにした。35㎜フィルムで撮ったジブチの風景は当時はすばらしく美しかったが、元のはプリントが古くなってしまった。ジブチの光を再現したいと思った。

最初にジブチを見た時に撮影のアニエス・ゴダールが感動して「ここは世界の始まりで、世界の終りのようだ」と言ったくらい美しい。

(※通訳の方は「地球の始まり/終り」と訳していたのですが、監督が≪...fin du monde≫と言っていたのが聞こえたので「世界」とさせてもらいました。「始まり」の方のフランス語は聞き取れなかったのでそっちはもしかしたら≪le début de la terre≫と言っていたのかも?)

ここから観客とのQ&A。

(作品のネタバレに触れる箇所がありますので、これから鑑賞される方はご注意ください)

Q:最後の踊るシーンの意味を教えてほしい。

監督:踊るのはシナリオではジブチを出る前のシーン。ガルーはフランスに戻り、存在意義を失い自殺するというラストだった。しかしそれだと悲しいと思い、編集段階でダンスを最後に入れた。ダンスの意味は、神へのダンス、死のダンス。死の前に素晴らしいものを残すという意味。

Q:ガルーの夢(?)のシーンで現地の女が石を投げるシーンがあるが、その演出はどのような経緯か。

監督:ジブチは小さい国で、土壌的に農業ができないため牧畜をしている。女が山羊を飼い働いている。彼女たちは軍が通ると石を投げていた。それは植民地意識への反抗だった。二人の現地女性が石を投げるのは演出だが、いつもやっているので自然にできた。

Q:ドゥ二・ラヴァンの印象について。

監督:今作は15人の俳優が出演してて、うち13人は兵士*1。その中でミシェル・シュポールが司令官役で出演している。彼はゴダールの二作目の映画*2に出演してて、一度俳優をやめてまた出てきた人。ラヴァンはミシェルが好きな俳優で、仕事がしたいと望んでいたので共演を喜んでいた。

ラヴァンには特に指示は出していない。役作りや演技の指示はない。ラヴァンはとても活発な人で、好奇心があり、撮影中はひとりでジブチを見て回っていた。

Q:音楽がとてもよい。特に兵士の訓練のシーンでの音楽がよかったが演出はどのように。

監督:当初のシナリオでは、原作の『ビリー・バッド*3』を完全に再現しないとしていた。当時原作のオペラのレコードを聴いた。原作は水夫の話なのでマストの作業にオペラの音を合わせている。聴いた時も音の演出は決めていなかった。実際にジブチに行き、部隊の訓練のシーンの撮影でオペラの音楽をかけたら、熱風で音が途切れるのがとても感動的だったので音楽を合わせる演出にした。

訓練のシーンは本当の訓練の動きだが、振付師によるもの。振付師に外国人部隊出身の人がいたため、動きがエレガントになったのではないか。

(ここで外国人部隊について説明)

監督:フランス外国人部隊はフランスの軍の部隊だが、外国人で構成される。皆5年から10年勤めて辞める。そうするとフランスの国籍とパスポートがもらえる。自国になんらかの理由で戻れない人が、二度目のチャンスをもらえる機会である。

Q:本作は2022年度発表されたSight & Sound誌「史上最高の映画」*4の7位にランクインした*5。本作は前回10年前のランキングは78位だった。このことから女性監督映画が今評価されていると思う。ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』も現在、日本で再公開されている。公開から時を経て女性監督作品が評価を得た事をどう思うか。

監督:Sight & Sound?ランキング?何?

(監督よく分からなかったようでしたが、ポスターの惹句にそれが記されているのを説明され把握する)。

ジェーン・カンピオン監督がなんですって?

(ここも女性監督の例として名前が挙がった経緯がつかめなかったようでしばし間があるが、丁寧に通訳やスタッフに質問内容を確認する。)

映画というのは機械で動き、フィルムは化学で処理されるもの。映画は男の世界で、男の仕事だった。けれど女性が少しずつ社会進出して、最初はカメラで写真を撮り、弁護士になり、バスの運転手になり、少しずつ社会が動き変化していった。

たまたま最近女性が増えたわけではない。

フランスは第二次大戦後、映画作りに支援金が出てCNC(国立映画映像センター)が設立された(1946年)。そしてシナリオを書くとお金がもらえるシステムができて、それだと女性が参加しやすい、映画を作りやすい土壌ができた。

フランスでも最近マティ・ディオップという素晴らしい女性監督が、パルムドール*6を受賞したり活躍している。多くの国で女性監督は増えた。

(※下線部は監督が一番言いたかったのでは!と思い。ここの質問と答え思うところあったので後述)

Q:兵士の肉体がとても美しかった。人間の身体への賛歌を感じた。

監督:長い事、芸術は女性の体を描いてきたから、男性の体をこのように描いてもいいと思った(ちょっといたずらな笑顔)。

Q&A感想

フランス映画祭という場で、観客もマニアックな方も多いせいか、具体的な内容についてよりは映像などについての質問が多かったような。私は咀嚼するのに時間がかかって、皆これ理解できたのすごい!と思ってました。

なんとなくですが、女性はドゥニ・ラヴァンに思い入れがある方が多いようで、ラヴァンについての質問はほぼ女性でした(ダンスについての質問は男性)。かといってカラックスの名前を出すのも失礼かしらという配慮からか、皆さんほんとはもっといろいろ聞きたそうな感じで。でもそこは監督もうっすら汲み取ってるようでした。多分散々ラヴァンのファンに質問されてきたのであろう。

ところで最後から二つ目の「女性監督再評価」云々の質問ですが、男性からでした。この質問出た時にわたくし「わァ...わァ」ってちいかわになってちょっとドキドキでしたよ。監督がどう思ってるか気になって気になって。しかし監督の懇切丁寧な説明!そしてちょっぴり皮肉めいた表現も交えての素晴らしい返し!

質問者も悪気はないし(悪気がないからといって悪くないわけではないが)、聞きたい気持ちも分からんでもないし、そこそこ映画好きゆえの質問なのは分かる。私のバイアスもめちゃくちゃあると思うんだが、日本の男性って女性の歴史についてほんと無頓着なんだな、この人たちの世界で女性はずっと透明人間で最近急に姿を現したんだな、とちょっと意地悪な見方をしてしまうような質問でした。でも監督から素晴らしい言葉を聞けたのだから、これを機に視点を変えて見てもらえれば。マティ・ディオップの名前が監督から聞けたの嬉しかったな。めっちゃいいんよー!私も大好きな作家ですよドゥニ監督!

そういや、質問でランキング1位のシャンタル・アケルマン監督の名前じゃなくて、なぜかジェーン・カンピオン監督の名前を出したのは果たして気を遣ったのかしらんけど。カンピオン監督も素晴らしい経歴だけど、アケルマン監督はフランコフォンの国のベルギー出身でフランスと縁もあるし、フェミニストでもあるし、「女性監督」という質問をするに最適だったと思うのだが。

それにしても、そういう質問は、できればシネマ・ヴェーラあたりのイベントで蓮〇重彦御大あたりににしてください(怖いので伏字にする)。

あと監督、まあそこそこ不愉快だとは思ってたと思う。映画のランキングの件も知らなかったようだし、いまさら女性云々言われるの興味ないのでは。女性差別は散々辛苦を味わってきただろうしもう怒る気もなかったとは思うけど、だからこそこの質問はもう少し気を遣ってもらえたらとも思うが、ほんと返しがよかったので聞いてよかったというのはある。

ちなみに、女性の仕事について監督が「カメラマン」「弁護士」「バスの運転手」を挙げていました。フランス語は名詞に女性形と男性形があるのですが、近年まで「職業に関する名詞はすべて男性形」でした。なぜなら昔は男しか仕事につけなかったから!

うわーめっちゃ理不尽!(ってもしや男性はこの理不尽さに気づかないのだろうか。それはそれで恐ろしい。)

最近は見直されて、両方の性で表記されるように。その中で「弁護士」<avocate(女)/avocat(男)*7>はおそらく女性が社会進出した際に早々に参加しやすい職業の代表格だったのでは。それもあって監督は例として挙げたのではと推測。カメラマン<photographe>については名詞にもともとeがついてるので区別はないよう。運転士については<conductrice(女)/conducteur(男)*8>。この辺の話はフェミニズムの話でもあり、言語学的な話でもあり。あ、医者<médecin>は-eを語尾につけると「医学」の意味になるので、区別をつけられないというのもあったり。

このように、言語においてさえ女性がその存在や権利を主張してきた長い歴史があるので、監督が粘り強くお話しされたのはほんとに素晴らしすぎました。カッコいい!

質問者の方には期待しとった答えと違かったかもしれんけど、フランスの女性がいろいろ戦ってきた歴史は10年やそこらじゃないんよ…ぶちやねこい話じゃけど『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』とか見たらよう分かるけん、よう見んさい(突然のインチキ広島弁)。

サイン会

終わった後にサイン会。入場時にくじを引いて当たるとサイン会に参加できるのですが、運よく当たりくじ。てっきりかなりの人数が参加できんじゃないのと思ってたら10分の1くらいでした。おおおお!めっちゃ引きが強いぜ!

サイン会はサインのシートは提供され、名前も書いてもらいたい場合はメモなど準備してくださいとのアナウンス。スマホのテキストを見せて書いてもらいました。

少しお話もできるくらいのゆるい感じだったので、思い切ってフランス語で簡単な挨拶とメッセージを。

≪Le film d'aujourdhui est magnifique, mon préféré est <J'ai pas sommeil>≫

(今日の映画も素晴らしかった。私のお気に入りの映画は『パリ、18区、夜』です)

と言った時に、J'ai pas と言ったところで何を言うか察してくださって、sommeil を一緒に言ってくださって声が重なったのがほんと感動でした。惚れてまうやろ...。すき!

ところで≪J’ai pas sommeil ≫とは「私は眠くない」なので、もしや時差ボケの監督のお気持ちに重なったのか、はたまた逆だったのか。監督はその後渋谷に移動しトークショー、次の日は早朝フライトで帰国という大忙しスケジュールだった模様。

監督ありがとうございましたー!本公開も行きたい、そして日仏学院のドゥニ監督特集行けなかったので、どっかで特集上映してほしい!

 

*1:13人が兵士、と言っていたが現役の兵士なのか、あるいは兵役経験があるという意味だったのか、詳細は不明。

*2:『小さな兵隊(Le Petit Soldat)』 1960年制作1963年公開

*3:ハーマン・メルビルの小説

*4:英国映画協会(BFI)の発行する映画雑誌、サイト&サウンド・マガジン Sight&Sound Magazine が1952年から10年間隔 で毎回、世界の映画批評家たちへのアンケート調査により選定・改定している史上最高の映画トップ10ランキング。2022年の1位はシャンタル・アケルマン監督『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』

*5:The Sight and Sound Greatest Films of All Time 2022 - Wikipedia

*6:厳密にはパルムドールではなく2019年のカンヌ国際映画祭グランプリ(最高賞パルムドールに次ぐ賞)を「アトランティック」で受賞。先日、第74回ベルリン国際映画祭金熊賞を「Dahomey」で受賞。

*7:フランス語は語尾にeをつけると女性形に変化する規則がある

*8:女性形にする時に語尾に-eをつけるだけのと-riceにするのがあり。

美しさの定義への挑戦~『美しき仕事』4Kレストア版@横浜ブルグ13シアター1(横浜フランス映画祭2024)

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横浜フランス映画祭、前回2022年から二年ぶりの開催。この映画祭は1993年に始まり、2006年からは東京に場所を移し横浜の地名が外れていたが、2018年からまた横浜へ。横浜市民で仏語学習者としては気になるイベント。

横浜へ戻ってきたのは、横浜がリヨンと姉妹都市だったり、神奈川県がフランスと縁深い(横須賀など)ということからのよう。2022年にオープニングイベントを見に行った時、壇上にゲストのフランスの俳優や監督らと一緒に、フィリップ・セトン駐日フランス大使、横浜市長、スポンサーの日産役員(日産はフランスのルノーと提携しており、ゴーン時代に東京本社を横浜に移した経緯がある)が並んでて。横浜とフランスが文化的のみならず深く交流してることを示す結構大き目なイベント。

今年はクレール・ドゥニ監督作『美しき仕事(Beau travail)』を鑑賞。1999年の作品で多くの映画作家に影響を与えた名作と言われているのに、日本では未公開。今回4Kレストアされたのをきっかけに、5月に日本で公開されることに。

beau-travail2024.com

この日は先行上映。監督もアフタートークに参加(別途記述)。

内容についてはここではネタバレなしで。下記あらすじは公式より。

仏・マルセイユの自宅で回想録を執筆しているガルー(ドゥニ・ラヴァン)。かつて外国人部隊所属の上級曹長だった彼は、アフリカのジブチに駐留していた。暑く乾いた土地で過ごすなか、いつしかガルーは上官であるフォレスティエ(ミシェル・シュポール)に憧れともつかぬ思いを抱いていく。そこへ新兵のサンタンが部隊へやってくる。サンタンはその社交的な性格でたちまち人気者となり、ガルーは彼に対して嫉妬と羨望の入り混じった感情を募らせ、やがて彼を破滅させたいと願うように。ある時、部隊内のトラブルの原因を作ったサンタンに、遠方から一人で歩いて帰隊するように命じたガルーだったが、サンタンが途中で行方不明となる。ガルーはその責任を負わされ、本国へ送還されたうえで軍法会議にかけられてしまう…。

美しき4K映像

もともとドキュメントとして撮影の予定だったそうで、外国人部隊のトレーニングや生活の様子、ジブチの人々の描き方もかなりそのままを映しているように見える。

4Kレストアということで、映像が美しい。ジブチの青空、砂浜に吹く風、乾いた空気、つややかな肌の肌理、瞳の奥の光、男たちのうねる筋肉...。ゴダールの『軽蔑』の4Kを昨年見た時にも感じたが、青い空と海に関しては本当に4Kにするとリアルに再現されているのだろうと思う。もしかしたら実物よりも美しいと思うかもしれない。

一応ストーリーはあるのだが、細かい説明もなく、ガルー視点で話が進んでいるわりにはガルーの気持ちもつかみにくい。とはいえドゥニ・ラヴァンの存在感、演技、肉体性は言葉がなくともこちらにうったえる力があるのはカラックス作品でご存じの通り。

ジャン=ポール・ベルモンドとドゥ二・ラヴァン

ジブチの土地や肉体の美しさに反して、ガルーの想いや行動は混とんと迷いに満ちている。まっすぐでジブチの土地のように開かれている(かのように見える)サンタンは、ガルーにとっては眩しすぎる光だ。嫉妬と羨望の渦にはまるガルーは、まるで『気狂いピエロ』(1965)のジャン=ポール・ベルモンドに重なる。ベルモンドとラヴァンの類似性についてはおそらく手垢がつくほど語られているだろう。カラックスがポストゴダールと言われ続けたように。

特徴のある鼻、捨て犬のような愛嬌のある表情、肉体による演技表現の鮮やかさ。肉体についてはベルモンドはボクサー志望で兵役についた経歴もあり、必然であろう。ラヴァンは肉体を駆使した演技が頻繁にあり、『ホーリー・モーターズ』(2012)でのアクションシーンはそれの集大成のようだった。

しかし見た目に共通点があるといっても、二人はまったく異なる俳優である。そしてクレール・ドゥニヌーヴェルヴァーグの影響が全くない、とは言えないだろうが、ゴダール作品とクレール・ドゥ二作品の類似性もこうして挙げてみれば多少は、というくらいで別物である。カラックスはいくつかの作品でゴダールをわざとオマージュしている。

クレール・ドゥニとカラックス

クレール・ドゥニ作品にはカラックス作品の象徴的な俳優が出演している。『パリ、18区、夜』(1994年)のカテリーナ・ゴルベワ、今作のドゥニ・ラヴァン、『ハイ・ライフ』(2018年)と『愛と激しさをもって』(2022年)のジュリエット・ビノシュ。三人ともカラックスにとって重要な俳優ばかりである(ゴルベワについてはカラックス作品に出る前だが)。かといってそこにカラックス的な影はない。ゴルベワの笑顔を撮るクレール・ドゥニと、彼女に儚い美しさを見出したカラックスの違いは特に印象的だ。

そこは俳優の力量もあるだろうが、クレール・ドゥニは他の監督の作品を意識していない。それはもうのびのびと自分の見ているものだけを信じている強さがある。

美しさの定義について

今作は1999年の作品であるということを忘れる。スマホがないとか時代を感じさせる描写が多くないというのもあるが、それだけではなく。とても新しい作品を見た新鮮さがある。普遍性というのとも違う。4Kの画面の鮮明さもあるだろう。

それはおそらく「どこにもないここにしかない」という景色や人や事物を映像に写し取る、そのシンプルでただ美しいことを追求する姿勢によるのではないか。宗教的で哲学的で深い思索をめぐらせる、それでいて自由でプリミティブな彼女の魂そのもののような映像だった。

美しさの定義は人それぞれで、何をもって美しいというのか、とても難しい。それゆえこのタイトルの美とは何を意味するのか。

幼少期をアフリカで過ごし、幼いころから多様性に触れた彼女が見る美しさ。それは言葉では到底言い表せない。だからこそフィルムに閉じ込めた。そしてできるなら、多くの人と共有したいというメッセージ。

もし美しさというものが何か、という問いになんとか答えを出すなら、やはりそれを感じた時の人の心、というのが今は妥当ではないだろうか。

そして映画とはそれがどのような形であれ、まずは美しさを提示し、それで目を引くことが最重要な表現である、という当たり前で基本的で、しかし誰もがあまりやってこなかったことを、強くうったえたからこそ、多くの映画人に影響を与えたのだ。

各種作品との関連性、メモ

ドキュメントとして撮影予定だったが、物語を入れたフィクション作品になったという経緯と、抽象性の高さ、肉体による演技表現、戦争、などの大枠で共通する事項はあるが、ストーリーとしての共通項はなく、舞台背景、時代、カラーとモノクロと違う点の方が目立つ。しかしその抽象性の表現は、ゴダールヌーヴェルヴァーグ主流派に対して左岸派と呼ばれたアラン・レネの目線の方が、クレール・ドゥニの目線に近い気もする。フランス映画が戦争を描く時に表現方法がいろいろあり、きちんとストーリーがあるものも多いが、このように一見分かりにくい表現の方にフランス的な文脈がより濃く示されているように感じる。それは欧州の地理的な条件や、長く入り組んだ複雑な歴史によるであろう。

また、おしゃべり好きで言葉をつくし、議論する事やその経過を好むフランス人が、映像表現を選ぶ時に言葉やナラティブに頼らない意識的な姿勢を感じる。それは一見矛盾しているようにみえる。しかしそれは、言葉の力を信用しているからこそ、その結果もたらされるものについてはとても慎重だというのが分かる。彼らは決して言葉を軽はずみに使わない。それが持つ力によって悲劇へ転じた歴史を数多く見てきたからかもしれない。

 

  • 『裸足になって(原題:Houria)』(2023年)ムニア・メドゥール監督作品 リナ・クードリ主演

内戦後のアルジェリアで、現代を生きる少女の物語。こちらの共通点としては、女性監督、戦争(アルジェリア内戦)、肉体による演技表現(ダンス)など。

『美しき仕事』の背景に、1991年からのアルジェリア内戦があるので、参考作品として。内戦後の影響がかなり分かりやすい作品である。女性の受けた傷、恩赦があったゆえの弊害、等々今も色濃く残る内戦の気配がたいへん分かりやすい作品だ。

ちなみに主演のリナ・クードリは幼い頃に内戦を逃れてフランスへ移住している。

ゴダールの最後の短編でもアルジェリア戦争と内戦について触れていた。そして、フランス映画で近年それを振り返る作品がいくつかある。おそらくフランスに移住してきたアルジェリア人がそれを表現するようになったこと、近年の多様性、またフランス国内の人種差別による問題、世界情勢などが影響している。

ネット上で開催されるマイフレンチフィルムフェスティバルの2022年に『ハニー・シガー 甘い香り』(2020年)を見たのだが、これも若いアルジェリア人女性を通して内戦の事が語られる。こちらの方はより濃く詳しい。主演はゾエ・アジャーニ、イザベル・アジャーニの姪(イザベルは父親がアルジェリア人)。(日本では劇場未公開か)

『美しき仕事』のジブチアルジェリアからそこそこ離れているとはいえ、同じアフリカでまったく関係ないとはいえない状況だったのでは。

 

注:ドゥニ・ラヴァン(Denis Lavant)はドニ表記が日本では定着していますが、発音はドゥニがより正確なので、ここではそうします。

はえぎわ×さい芸『マクベス』アフタートーク @芸劇シアターイースト

2月22日(木)マチネ公演の後のアフタートーク

さい芸の高木さんが司会で、翻訳家の松岡和子先生と演出のノゾエ征爾さんのトーク

メモ書き起こしなので、細かいニュアンスなどの違いあるかもしれません。明らかな間違いありましたらコメントでご指摘いただければ幸いです。

上演台本について

松岡さん(以下松):トゥモロースピーチは今回変えている。1996年(初版の年・さい芸初演時)では「明日も、明日も、また明日も、」*1だが、今回2023年公演では「明日へ、明日へ、また明日へ」にした。

「太鼓だ!だだだん!マクベスだ。」*2カルメンに合わせてたのが良かった。原文でA drum, a drum! Macbeth doth come.>の雰囲気を出したい訳だったのでうれしい

ノゾエさん(以下ノ):高校生に向けた演出にするため、馴染みない層にも、言葉やフレーズを繰り返して刻み付ける上演台本にした。音として気持ちいいことを目指した。しかしウザくないように気を付けた。シェイクスピアに馴染みある人にも楽しんでもらえたら。

:笑いをいれる演出はどのように?

:笑いを入れようとしてはいない。笑わそうとすると面白くない。人を多面的に描くということを意識。俳優から生まれてくるおかしみが笑いになった。

シェイクスピアの作品は、初めから終わりまで深刻なのはない。笑いを取るのはシェイクスピア劇の側面。ロンドンのグローブ座は観客席が立ち見で、舞台と距離が近い。「ハムレット」などでも客を巻き込んだ形。大衆向けである。逆にプライベートシアターの劇場などは「テンペスト」など仕掛けがあるちょっと上流な雰囲気の演出をやる。

:ダンカン王の丁寧語(「側近のみなさん」「あそうなの」など)は親しみやすいキャラクター。日本の皇族のイメージ。

:2022年の試演会から大きくは変えていない。(試演会の苦労など)

シェイクスピアの大作を自分が演出すること、上演台本を作ることはとても大変だった。何も分からない状態で、松岡さんに助けてもらった。翻訳者は作家であり創作者で素晴らしい。脚色する自分は敬意を持っている。今回は松岡さんがいたのでできた。

音楽について

:音楽や歌はいい演出。マクベス夫人の歌はどういう段階で入れることになったのか。

マクベス夫人の独白パートの歌は、平常心でない状態を歌にしてみたいと思った。台詞に合わせて垂れ幕が落ちてくる演出は、台詞のいいところでリズムが切れなくて難しかった。

:マクダフ夫人のシーンで流れる歌がよい。

:「教訓1」はコロナ禍で女優の杏さんがYouTubeで弾き語りしたのを見て。

:まだ見られるなら見てみたい。

ラストシーン

松:マクベスの首が目をぎょろっとさせて、安堵の表情、白い波の中で眠る演出は、蜷川マクベスの胎児のイメージと重なった。眠りたい、という台詞は原作にはない。

演出について

:椅子は最初なかった。さい芸での試演会は素舞台。その後9台の平台を使っていた。椅子を細分化した演出へと変化した。チェスを模しているのは、人間が作ったルールや規律を壊していく。不自由さや思うようにいかないイメージ。

:椅子をつかった「ドン!」という音が印象的。椅子は社会的地位=chairという意味もある。積み重ね崩せるもの。

:さい芸のスタッフさんからネクストの「カリギュラ」のセットの椅子もあったらよいかもと提案され準備した

「両義性、曖昧な言い回し(Equivocation)」について

:「女から生まれた者は誰一人マクベスを倒せはしない」*3という魔女の予言があって、最後マクダフが「母の腹を破って出てきた」*4のでマクベスを殺せる、というくだりが分かりづらい。ゲネプロまでどうするか迷った。

:マクダフは帝王切開で生まれたというのは、通常の出産ではないという意味がある。当時は帝王切開は母親の死を意味するので、マクダフは「女」ではなく「死体」から生まれたという解釈になる。『ハムレット』のオフィーリアも死んでしまうと墓堀りの台詞で「もと女」*5と呼ばれる。死体は女ではないという前提がある。しかしそういう説明をするわけにもいかない。ややこしいからそのままにした。どういうこと?という謎のままでいい。

:「きれいは汚い、汚いはきれい」*6に代表されるように、この作品は「どうとも取れる言葉の使い方」がキーワードになっている。これは「equivocation」という。当時ジェームズ1世の暗殺計画(火薬陰謀事件)*7があった。その時の裁判の陳述がどうとでも取れる言い方で、社会問題になった。それを反映しているので、「女から生まれた~」の予言もどうとでも取れるままでよいと思う。

その他

松:バンクォーの息子を絵にして松明にくくって二役にしたのや、きつねのえりまきの使い方などよい。場をゆるめる演出。レイディマクベスの迫力があって、マクベスが追い詰められていた。

 

(感想メモ)

  • 上演台本のお話は、昨今の原作改変の件を踏まえてお話されてたのかな、と思いました。上演台本はノゾエさんやワークショップの俳優の個性が反映されているとも感じましたが、松岡先生の翻訳あってこそ、そこを大きく逸脱しないが自由で豊かなテキレジだったと思います。
  • 火薬陰謀事件については他のシェイクスピア作品にも多く出てくる。
  • マクダフの出生についてのくだり(帝王切開、死体は女ではない等々)はいろいろなところでお話されてるのですが、文献もあったか(要調査)。

*1:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.168

*2:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.17-18

*3:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.119

*4:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.177

*5:ちくま文庫 松岡和子訳『ハムレット』P.232-233

*6:ちくま文庫 松岡和子訳『マクベス』P.10

*7:火薬陰謀事件 - Wikipedia

曖昧の森で彷徨う偽王〜『マクベス』はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇 @芸劇シアターイースト

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2022年春に、さい芸がはえぎわ主宰のノゾエ征爾さんを招き『マクベス』を題材としたワークショップを実施。「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」というテーマの演出で約100分の『マクベス』を制作。そこから今回の本公演が実現。

松岡和子先生の翻訳をベースにしつつコンパクトにまとめられ、分かりやすく現代語に置き換えられた部分や、ワークショップの中で生まれたと思われる箇所も見られた(上演台本についての話は当日のアフタートークで語られたので別記)。

チケット取った時にC列だったので、まあまあ前の方だな、と思ったら思い切り最前列ほぼど真ん中。いやいいんですけど!嫌いじゃないけど!ちょっと恥ずいんです。

舞台には木の椅子がきっちりマス目に並べられている。床にはマス目に区切られた白線。前方にA〜Hの文字、横に1〜8の文字が記されており、チェス盤を模している。舞台両脇には長卓の上に雑然と置かれた物たち。舞台の小道具らしく、さい芸で幾度となく使われたものであろう。

舞台の一番前には白い紙が細長く引かれて、全体的に黒の舞台の中でとりわけ白く光るように見えた。

1.魔女の囁きはどこから/誰から?

開演前に女性の声で鑑賞注意のアナウンス。珍しく小さな言い間違いがちらほら、と思いきや大事なキーワードを密かに含めており(キタナイやキレイ)、まるで魔女の囁きのようだった。

芝居がまだ始まる前に魔女3人が舞台上を彷徨う。両脇の卓上の小道具で遊ぶ。球を上から入れると流れ落ちてくる円錐形の玩具を気に入ったようで、子供のように繰り返し遊ぶ。カラカラと球が周り落ちる音が響く。(もしかしたらここは日によって変わる?)

  • 茂手木桜子による魔女像

メインの魔女は茂手木桜子さんで、ワークショップ時は一人だったそう。やはり三人でなくては!という茂手木さんの希望だったということ。「3」という数字は台詞においても重要な意味を持つ*1ので、ここは戯曲に忠実だ。

茂手木さんの細長い腕と体を強調した衣装による踊りや動きはかなりインパクトがある。これは茂手木さんが映画『十三人の刺客』で演じた「両手両足のない女」を思い出させた。映画では視覚的なインパクトの強さはもちろん、かつてあったであろう手足を想像させ、その恐怖を引き起こす動きの演技だった。もちろんその手足はCGで消されているのだが、まるで本当にそこにそういう人がいるかのようで、当時のCGの甘さゆえに偽物だと気づくくらいだった。

2022年にジョエル・コーエン監督版マクベスを見た時に、キャスリン・ハンターが演じる魔女で『十三人〜』の茂手木さんを思い出した。ハンターの、荒野に巣食う蜘蛛の化け物のような不気味な動きの魔女。ハンターが茂手木さんの演技を参考にした可能性は低いが、かなりイメージが一致した。

そういえばイントロで魔女が踊る時のBGMは「めでたい‐だるま」(うた KAKATO-環ROY×鎮座DOPENESS)なのだが、茂手木さんからインスパイアされた選曲なのだろうか。この「だるま」というキーワードはラストシーンにもつながり、コミカルだがぞっとする。

  • 四人目の魔女

川上友里さん演じるマクベス夫人はかなり魔女的なイメージがあり、「四人目の魔女」ともとれた。特に独白のシーンで台詞を歌にしてミュージカル風にして、さらにその台詞を垂れ幕にした演出はエキセントリックな異化効果を感じ、マクベス夫人の狂気がすでに始まっていたと見えた。(4は日本での不吉な数字という符号は考えすぎか?)

川上さんはマクベス夫妻の主語である「私たち(We)」を強調する台詞(松岡訳における大事なポイント*2)王殺しに戸惑う夫を鼓舞する強さ、夫への熱情、夫婦の絆を感じさせる台詞もすべて戯曲どおりに伝える。

しかし「なぜあれほど強くマクベスを殺人へと駆り立てるのか?」という疑問は残る。単なる自己顕示や出世欲なのか、夫への愛情が歪になったゆえの形なのか。そしてなぜ魔女の囁きを直接聞いてないのに信じたのか(信じてはいないのかもしれないが)。もし、「魔女の囁き=マクベス夫人」の願望としたら、辻褄は合う部分がある。

魔女はいるのかいないのか分からない。予言も本当か分からない。森が見せた幻かもしれない。マクベス夫人はそれを利用しただけ。はたまた夫人の前からの願いを知っていたマクベスが、都合のよい幻聴を聞き、バンクォーにはあたかも一緒に聞いたようにいい含めたかもしれない。

今作のマクベス夫人は、マクベスを操るような怪しさも待ち合わせており、魔女とともに得体のしれないホラー的要素があった。

魔女は一人でも茂手木さんの表現力ならば成り立つかと思うが、見ていくうちにこれは三人でバランスがよいなと思った。魔女の権化のような茂手木さんの存在感、それに劣らぬマクベス夫人の得体のしれぬ怪しさは、ともすると芝居の根幹になってしまいそうであやうい。魔女を三人にしたバランスはその偏りを感じさせない効果があった。

2.脇役たちの策略

マクベス夫妻と魔女以外のキャストもたいへん印象的だ。バンクォー役の山本圭祐さんは少年のような雰囲気とコミカルな演技で、バンクォーとその息子フリーアンスを演じ分ける。フリーアンスに至っては紙に適当に描いた顔を松明にくくりつけて、腹話術のように演ずる。この演出は「若者向け」というテーマに沿っていてよい。その後のえりまきの使い方も楽しい(場面としては緊張感あるが)。幽霊で出てくるときもその小柄な体が日本ホラー的で、外連味過ぎないがちょっと面白味ふくんだ感じがよかった。

2020年にグローブ座が無料配信したマクベスも若者向けで、フリーアンスのシーンは小話パートになっていた。全体的に暗い話なので、つかの間肩の力を抜くシーンになった。

ダンカン王役の村木仁さんはおっとりした王様像で親近感があり、抜けている感じがやすやすと殺されそう感があった。ただマクベス夫人の二の腕を触るくだりは「セクハラ」をイメージしてるのだろうが、ここはキャラに合ってなかった。このセクハラ表現は、2023年のKAATの『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋演出)や『レイディマクベス』でもあり、マクベス夫妻がダンカン王殺しの動機付けとしてあったが、戯曲上はダンカン王に瑕疵はみられない。セクハラ表現ない演出で、マクベス罪悪感を強調する方がよいのでは。おそらく若者への「こういうおじさんいるよね」的な表現なのかもしれないが。

マクベス夫妻以外の俳優は複数役を担い、椅子を動かし、場面を変えていく。マクベスはそれに従うかのようだ。俳優たちは影のように動き、主人公を策略にはめて、最後ははりぼての城の頂上に置き去りにする。

チェスの駒が動き、キングの駒を奥へ奥へと追い詰めていく。

3.孤独な偽王マクベス

内田健司によるマクベスは、ダガースピーチもトゥモロースピーチはもちろん、どの台詞も戯曲のひとつひとつ正確に発声し、そしてその体も台詞と違うことなく演技している。ある意味とても優等生的解釈のマクベスだ。

マクベスは魔女の言葉に翻弄され、王殺しに躊躇し、妻に鼓舞され、犯した罪におののく。決して強い人間ではなく、弱い。内田マクベスはその「弱さ」の表現においては他と違った。マクベスは仮にも軍人であり、男性社会の頂点に君臨しようという立場なので、その弱さを終始隠し古い男性的な強さを演じるのが割と多い(またそれも弱さだが)。内田マクベスマクベスが持つ繊細さを隠さない。マクベスの中に相反する男の見せかけの強さと本来の弱さのバランスを隠さない。

それは前述の、脇役による策略の演出に流される様、やわらかな偽物の甲冑を真剣な様子で身に着ける様、はりぼての城に破滅を予感しながら自ら上っていく様に現れる。抵抗していないかのように自然に破滅へ向かう様、それはまるで「哀れな役者」そのものではないか。荒野を彷徨うリアとは設定が逆の「偽王」のようだ。

「きれいは汚い、汚いはきれい」に代表される曖昧さ(equivocation)の表現は大事なキーワードである*3。曖昧な予言や他人の言葉に翻弄され「王」になることを、すべてはまやかしと薄々気づきながら流されるように受け入れる、そんな諦めに満ちた内田マクベスは、強さでも弱さでもどちらともとれない(あるいは両方の)演技は、まさにこのequivocation を体現していた。

おそらくこれは内田さんの持つ個性でもあると思う。たとえば蜷川シェイクスピアの常連の他の俳優がマクベスを演じるとしたら、ダガーもトゥモローも大体想像できる。朗々と大きく歌うような男性らしい台詞回し、死を強く恐れ、欲望渦巻く中で強く生きようともがく姿、コントラストのはっきりした古典的な男主人公。それが破滅へ向かう様は臨場感があり演劇的だろう。しかし内田マクベスは初めからより内的で、思索的だ。それはむしろ戯曲のマクベスを的確に表している。

4.美術・衣装・音楽

椅子を動かし、拍子木のように鳴らすシンプルなセットと演出は、この物語が嘘であり芝居だと強調する。衣装もモノトーンでシックだが、かわいらしいデザインと形状だ。ダンカン王の王冠はちょっと大きすぎるようだし、マクベスの甲冑は柔らかそうで何も守らない。何より椅子をより集めた城は子供の要塞あそびのようだ。

若者向けに分かりやすく、というテーマに沿ったであろうこれらの演出が、期せずしてこの芝居の「曖昧さ」というキーワードにつながる。嘘か真か、芝居か人生なのか、生きるのか死ぬのか。曖昧模糊とした世界をそのままに。

ダガースピーチの「幻の剣」は魔女(茂手木)によって差し出される。おもちゃのようなグレーの剣に水を垂らすと濃い色に染まっていく様を血のように表現し、殺人を終えた後のマクベス夫妻の手は墨汁の黒に染まる。舞台前面の白い紙にそれをこすりつけ黒い手形が記される様は、ここにも日本的ホラー感があった。ともすれば「分かりやすさ」から離れるようなアートな表現だが、不思議と外連味を含み、血なまぐささをすっきり表現してとっつきやすくする効果もあったのではないか。

前述のグローブ座の学生向け『マクベス』では、あえて血糊たっぷりにしたり、子供たちの興味を引くエキセントリックな演出があった。墨や陰影を血に見立てた今回の演出は日本的とも言える。カジュアルな衣装や、おもちゃを使った小道具などの演出は共通していた。

 

音楽については分かる部分だけ、下記。

「教訓1」は茂手木さん演じるマクダフ夫人が子供と共に殺される場面で流れる。現実のあらゆる戦争へのメッセージでもあり、芝居が血の流れる非道な世界であるということも気づかせる。

悪くはないのだが、さい芸の『ジョン王』の時も思ったが、日本のフォークソングシェイクスピアは合わせるのがちょっと難しいのでは。国の違いもあるが日本のフォークソングが生まれた1970年前後の雰囲気、今の世界情勢、シェイクスピアの頃、と三つの時代のつながるイメージは世代によって変わり普遍性があるかどうか疑問だ。またグローバルになった現代の若者にとっては、というとどうなのだろう。蜷川さんや吉田鋼太郎さんはフォーク全盛期が身近だったからというのもあるのかもしれない。「教訓1」はシンプルな日本語歌詞で分かりやすいが、直截的でなくてもよかったのではとも思った。

 

余談:森といえば

シェイクスピアといえば森がよく出てきまして、マクベスも動く森でおなじみの「バーナムの森」が舞台。シェイクスピアでは「庭」は「国」のメタファーなんですが、じゃあ森はどうなの?と調べてて、いろいろシェイクスピア専門の先生に聞いたり資料を掘り返したりしまして。

ブリテン諸島(UK)での森林割合って13%なんだそう。イングランドでは10%以下なんだそうです。マクベスの舞台のスコットランドが多めで19%*4

そして日本は国土の67%が森林なんだそうです。*5

英国は16世紀から17世紀の頃は木材輸出量も多かったのに、産業革命時にいろいろあって減ったそう(めんどいので気になる人は各自ググろう)。

ということでそもそも森というもの概念が日本とUKだと違うんじゃない?

そしてシェイクスピアの頃と今のUKの森も全然違うのでは?

確かにシェイクスピアだと喜劇に出てくる森はウフフアハハと恋人たちがたわむれたり、妖精だの魔女だの出てきてファンタジック。悲劇やマクベスではちょっとおどろおどろしいけど、やはり魔的な魅力のある異世界観。英国映画とかだとお金持ちがバカンスに行くし、英国の詩でも現実から離れた心休まる場所な感じ。

フランス人もバカンスは海も行くけど、山も大好き。

日本は近年はキャンプ流行りだが、どっちかというとなんにもないとこのイメージ。森はただ森なだけ。森がありすぎて「行って何かして感じる場所」というのではないのではないか。熊や猿もいるし。あとトトロとかもののけ姫などの宮崎アニメにあるように、穢してはいけない聖なる場所とか立ち入るべからすぽいイメージある。

シェイクスピアの森について日英文学比較でレポート書けそうですね。書かないけど!

☆アフタートークは別記します。

参考書籍

  • 松岡和子先生翻訳版『マクベス』。今回の公演はノゾエさんによる上演台本だが、ベースはこちら。

www.chikumashobo.co.jp

www.amazon.co.jp

 

深淵にのみこまれる境界〜『OTHELLO』滋企画@こまばアゴラ。

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青年団の佐藤滋さんが「 大好きな仲間と、やりたいことを、やりたいようにやる。」というコンセプトから始まったという滋企画。

今回はシェイクスピアの『オセロー』、演出はニシサトシさん。

ブラックフェイスをしないオセロー

現代口語調、俳優5人、セットなしパイプ椅子のみ。

タイトルロールのオセロー役の佐藤滋さん(父ブラバンショーとの二役)以外の4人の俳優は女性。イアゴーとデズデモーナの二役を演じるのは伊東沙保さん。

ほか3人の女性俳優は、同じ赤のジャージの衣装でその他の役を担う。キャシオー、侍女エミリア、情婦ビアンカを主に演じる。俳優の性別と役の性別はほぼ同じになる演出で、イアゴー、キャシオーなどの主要な役も女性の設定になっていた。そのためイアゴーとエミリア、キャシオーとビアンカカップルは同性カップルの設定となる。

男1人、他は女性。これは、オセローが「白人の中の黒人」であるという設定を、「女性の中で男性1人」というシチュエーションに置き換えている。昨今の「ブラックフェイスをしないオセローをどのように演出するか?*1」という難題への一つの最適解になっていたのではと思う。

また、男性が主要な役を占めるシェイクスピア作品において、女性俳優の機会を広げ演劇の多様性を目指すという意味もあったかもしれない。

弱き者汝の名はロダリーゴーズ、あるいはオセロー、あるいは

開幕前、コロスの3人が前説よろしく、観客に「シェイクスピアの全作タイトルを言うチャレンジ」をした。確認するのは観客で、この日は一作だけ抜けていた(十二夜だったか?)。埃鎮めの効果もあったが、この3人の存在を印象づける。

この3人は「ロダリーゴーズ」(ズは複数を表すs)として3人でロダリーゴーを演じる。コロスのように3人で噂話のような会話をして、主軸の関係性、物語の流れ、メッセージやテーマをこちらに暗示するような狂言回しの役割があった。

佐藤さんのオセロー像は、序盤のオリジナルの独白によってはっきりと提示される。世間知らずの幼さもある素直な人間的な弱さ、出自からの自己評価の低さや自信のなさ、デズデモーナへのまっすぐな愛情を、真っ正直に民衆へ向かって告白する。観客は市民となりそれを聞き、オセローへの強い同情と共感を感じずにはいられない。

しかしそれは、やがてイアゴーとの愛憎めぐる関係や、デズデモーナとの愛と行き違い、そして他の人間とのすれ違いの原因となり、悲劇をより深くする。

アゴーは「自分が女だから」低評価されたと思う。 ロダリーゴーズが終盤近く、理解し合えない悲しみとそれでも微かな希望を信じようとする語らいのシーンは、女達がずっと虐げられてきた歴史の事を話しているようだった。

クライマックスにオセローがデズデモーナを手にかけるシーンは、何度かリフレインされ、まるでこれは世界中で何度も繰り返された逃れられない愛情のすれ違いによる悲劇を描く。それに至るまでの伊東さんの、絶望がつみ重なっていく演技は、最後の懇願の台詞をより強く響かせる。

どれも「男と女の」という話をしているようだ。しかし、それは違う立場、大きな枠でも置き換えられる。人種、宗教、社会、あらゆる差別、国。その中で幾度も繰り返されて、今も続く戦争を思い起こさせる。

アゴー/デズデモーナという深淵

伊東さんはイアゴーとデズデモーナという、全く逆のキャラクターを演じている。共通しているのはオセローにとって重要な人物であり、オセローと深い愛情と信頼で結ばれて、誤解によって崩壊する関係性。

観劇した後に、これはタイトルを「イアゴー/デズデモーナ」に変えた方がよかったのでは、と思った。実際チラシに伊東さんの名が一番最初に出ている。実質的にも主演は伊東さんらしい。

オセローと女性2人の愛憎の物語は、決して男女のそれとは違う。イアゴーは女性だがオセローへの憎しみは性的な愛情から発しているのではないように、伊東さんは注意深く演じていた。そこは原作に忠実に。

NTLのオセローのように男性社会のマチズモが産んだ「有害な男らしさ」に飲み込まれる女性の悲劇ではなく、人と人が理解し合えない根源的な悲しみを描いていたように思う。

それはラストの解釈にも現れていた。原作ではデズデモーナの死後、妻のエミリアによってイアゴーの策略はバラされる。デズデモーナとキャシオーの名誉は守られ、オセローの愚行は悲劇の物語になる。今回はそこはカットされ、すべては闇に帰す。徹底した絶望感だけのラストだが、男とか女とか、上司とか部下とか、人種とか、そのような境界もいつのまにか闇にのみこまれる。

アゴーもデスデモーナもオセローも、誰も彼もただの弱い人間で、傷つき傷つけ、深淵に飲み込まれる。

従来のジェンダーフリーなキャスティングは、境界をなくすこと、あるいは曖昧なままを是とすることが多かった。ここでは境界がすべて混沌と深淵に飲み込まれていくように感じた。今回はより強い絶望のラストとなったが、見かけだけの解決でない、とても潔い演出にも感じ、なぜかスッキリした後味があった。

その中で、伊東さんの二役はとても難しいものではあったが、人間が隠し持っている深淵を体現するという点においては元来のオセローよりも救いようがない恐ろしさがあった。

オセローはその深淵に飲み込まれていく、ただの弱き人となる。シェイクスピアの主人公によくある人物像でしかない。

この深淵を描く表現は、実は冒頭からあった。イントロダクションの後、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」がポップに流れた後に漆黒の闇が会場を包む。イアゴーと女たちの会話だけが聞こえてきて、一瞬自分の視力が失われたのではという強い不安感に襲われた。シンプルな演出だったが、冒頭とラストを繋ぐ演出を印象付ける闇だった。

音楽の使い方も印象的で、ロダリーゴーズが劇中歌うのは久保田早紀の『異邦人』。あの辺りの日本のシティポップやニューミュージック系の持つ乾いているけれど決して軽くない感じが演出に合っていた。これが演歌や昭和歌謡だとジメジメするし、90年代以降のJポップだと軽すぎる。

おまけ:オセローは大谷翔平

当初の演出プランがHPにあり、読んでいたところ大谷翔平の名前がなぜか出てくる。

演出ノート - 滋企画

「オセローって例えば、大谷翔平?」

確かに「白人の中の優秀な嫉妬される黒人オセロー」は「メジャーリーグの中で人種的マイノリティの優秀な大谷翔平」は確かに当てはまる。が、この公演があった2月初旬に大谷選手はそういった影を感じさせるものはなかった。

ちなみに、今のメジャーリーグは南米系やヒスパニックの選手も多くなっており、以前に比べると非白人選手は珍しくない。オセローに当てはめるなら、アジア人選手として人気とバッシングを両方受けて、常に戦っていたイチローの方が当てはまる。もしくは野茂や伊良部といった開拓者がそれであろう。松井はオセローにならぬよう、とても注意深かった。黒田もあからさまに公言はしていないが、差別的な状況はあったようだ。

しかし、この公演の1ヶ月後、大谷選手の突然の結婚報道の騒ぎのあと、あの事件である。まさにデズデモーナと電撃結婚したオセローと同じではないか。

しかし大谷選手はイアゴー(一平)の嘘に惑わされず、策略にはまることもなく、今も周りの信頼を裏切らぬスターであり続けている。

もちろん、彼自身の人間的な強さもあるが、それは戦ってきた先人によって積み重ねられたものも大きい。それをオセローではない大谷翔平はよく分かっている。自分には過去に現在に、味方がいるということを。嘘つきのイアゴーから彼を守ったのはそれらだと。

もしオセローを今後上演する際は、現代における人種差別のあり方も反映させるようなものも興味深い。

 

*1:白人が黒人を演ずる際に顔を黒く塗る「ブラックフェイス」は、近年は人種差別表現とされ、オセローは白人が演ずることはなくなっている。

Play out the play!~2023年観劇ベスト10

2023年舞台ベスト10 。シェイクスピアを中心に見つつも、新たな発見、素晴らしい俳優さんや演出に出会う2023年でした。

今年は劇場で見たのが24本、配信・映像が14本。計38本。うち15本がシェイクスピア作品(翻案含む)。

1.兎、波を走る(NODA・MAP東京芸術劇場プレイハウス)

野田地図は毎回がーん!ってなるんですが、今回は特に楔を打ち込まれたような。そして野田さん自身の楔も初めて見たんじゃないかなと思う。傷だらけになりながら、血を流しながら見る感じ。芝居が終わると磔になるかのような。それらをエモいなどという軽い言葉で表してはいけない。

劇場というラビット・ホール〜『兎、波を走る』東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

2.エンジェルス・イン・アメリカ(上村聡史 演出/新国立劇場

新国立の小劇場のかたい椅子に耐えながらの二日間。今上演時間調べたら、第一部が約3時間半、二部が約4時間でした...。8時間耐久レースか、鈴鹿なのか、はたまた演劇フジロックか。とはいえよかった。作品も俳優も演出も。なかなか再演難しいと思うがまたいつか見たいです。新国立劇場は早く椅子をなんとかしてください。

終わりの始まり:起~『エンジェルス・イン・アメリカ』第一部「ミレニアム迫る」新国立劇場小劇場 - je suis dans la vie

「祝福せよ」は聖なる祈りか禍々しい呪文か〜『エンジェルス・イン・アメリカ』第二部「ペレストロイカ」新国立劇場小劇場 - je suis dans la vie

3.星の王子さまサン=テグジュペリからの手紙―森山開次 演出/KAAT)

ダンスと音楽で綴る星の王子さま。心が洗われる体験だった。アオイヤマダさんの王子さまはもちろん、言葉を超えた踊りの表現は、世界で一番翻訳されている「星の王子さま」の新しい翻訳。美術も衣装も、そして音楽。唯一声を発する坂本美雨さんの歌が舞台に溶けるようなしなやかさ。

4.ペリクリーズ(中屋敷法仁 演出/演劇集団円

中屋敷法仁さんのキレキレでスタイリッシュな演出。衣装、美術を濃いターコイズブルーでまとめ、コンテンポラリーダンスのような振付で目にも楽しく。膨大な台詞、奇想天外な旅物語を分かりやすく楽しく。クルーズに出たような爽快感。

5.『L. G.が目覚めた夜』~ロリエ・ゴードロが目覚めた夜~ (山上優 演出/国際演劇協会日本センター 戯曲翻訳部会/Tokyo concerts lab.)

リーディング公演。ケベック戯曲。詩のように研ぎ澄まされたテキスト、熟練のキャスト、笠松泰洋さんの即興ピアノ演奏と台詞のマリアージュとみどころ満載。インプロヴィゼーション的表現の驚きときらめきがあったのはリーディングという形式ならではかも。

グザヴィエ・ドランが製作したドラマ『ロリエ・ゴドローと、あの夜のこと』の原作。ブシャールは『トム・アット・ザ・ファーム』原作者。 ドランが演じたエリオット役の玉置祐也さん(演劇集団円)が好演。

6.ハムレット野村萬斎 演出/世田谷パブリックシアター

多くはないけどいろんなハムレットを見てて、これはちょっと別格。萬斎さんのクローディアスは魅力的すぎるなあ。ハムレットだけでなく野村萬斎シェークスピアシリーズやらないかしら。あと完全狂言様式のハムレットって難しいのかな。見てみたい。

7.『尺には尺を』&『終わりよければすべてよし』(鵜山仁 演出/新国立劇場

新国立劇場シェイクスピアシリーズ。ダークコメディを交互上演。両作ともシェイクスピア後期の「問題劇」とされ、解釈が難しい。コメディだがハッピーエンドでもなくバッドエンドともいえない。両者ともベッドトリックが使われるのも問題作たる所以。そしてどちらも主人公が女性で、精神的に自立して意思が強い。

今回の演出ではフェミニズム観点を強く打ち出しており、現代における最適解といえるのではないでしょうか。最後まで意思を貫き戦うイザベラ(尺尺)を演じたソニンさん、たおやかさと芯の強さのあるヘレナ(終わり~)を演じた中島朋子さんは現代的な女性像。それを支える那須佐代子さんの助演には、戯曲と現実をつなげるようなシスターフッドを感じました。

女性が魅力的なプログラムでしたが、男性キャストも素敵。アンジェロ(尺尺)を演じた岡本健一さんはは特に戯曲をより深めた解釈と、戯曲を超える魅力&色気でした。フランス王(終わり~)もコミカルでかっこいい王様!バートラム(終わり~)の浦井健司さんも凛々しく上品ながらもコミカルなダメ男。わきもキャスト同士のきずなの強さを感じました。亀田佳明さんいいですね。

そして新国立劇場は早く椅子をなんとかしてください(二度目)。

8.ヘンリー四世(G.GARAGE////ウエストエンドスタジオ)

河内大和さん率いるG.GARAGE///(ジーガレージ)の「シェイクスピア道シリーズ。前回のリチャード二世と同じく、細長い花道を舞台に、セットも最小限のコンパクトな舞台。ただし前回は花道の先を正面にしてコの字に客席が囲む形だったが、今回は花道の両脇に客席配置で、どちらも正面になる。

そんな風に毎回少しずつ変化はあれど、和的な衣装や、最小限の小物やセットなど、ひとつの型ができつつあり、今後も続けてみていきたいプロダクション。

河内さんのフォルスタッフかわいかったー!

9.眠くなっちゃった(ケムリ研究室/世田谷パブリックシアター

久しぶりの舞台俳優・北村有起哉さんでした...ありがとうケラさん。やっぱり舞台の北村さんは格別。

3位の『星の王子さま』、4位の『ペリクリーズ』でも感じたのですが、コンテンポラリーダンスなどの表現を駆使した演劇が最近すごい好き。

コントロールできないのは夢も現実も同じ〜ケムリ研究室No.3『眠くなっちゃった』世田谷パブリックシアター - je suis dans la vie

10.金夢島(太陽劇団東京芸術劇場プレイハウス

海外からの演劇は最近やっと見られるようになりうれしいところ。ここの劇団の制作方法は難しい面もあるが、今の日本の演劇であんまりない気が。現地での公演も見てみたい。

演劇は世界に何をもたらすのか~太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

 

次点:『ハートランド』(ゆうめい)、『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋)、『レイディマクベス』、『たかが世界の終わり』(テアトル新宿・配信公演のスクリーン上映)

  • ゆうめいはテキストすごくよくて、ただ自分の中でまだ演劇が続いてる感じがありランキングに入れませんでした。戯曲、配役、美術、演出、すべてこれからも続けて見ていきたい劇団ではあります。
  • 藤原季節さんの出演作品を2023年は3作(『祈冬』、『たかが世界の終わり』、『人魂を届けに』(イキウメ))見ました。
  • 玉置祐也さんの出演作も3作(『ペリクリーズ』、『犬と独裁者』(劇団印象)、『L.G.が目覚めた夜』)見ました。

2022年は「俳優目当てで芝居を観ない」というしばりを設けてましたが、藤原季節さん、玉置裕也さん出演の作品はすべてよかったので今後このしばりは緩めます。2024年も基本は「シェイクスピア作品」を中心に観劇予定。