第21代の天皇。 大泊瀬幼武天皇、大長谷若建命、ワカタケル大王とも。
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五子。母は忍坂大中姫命。 兄の穴穂天皇(安康天皇)が眉輪王(目弱王)に殺され、兄弟を疑いて、八釣白彦皇子を殺して、葛城圓大臣宅を炎上す、坂合黒彦皇子、眉輪王、圓大臣を一緒に燒死した。この後、市邊押磐皇子まで、自分以外の皇位継承者をすべて殺した、天皇になる。
子には、白髪武廣國押稚日本根子天皇(清寧天皇)、稚足姫皇女、磐城皇子、星川稚宮皇子、春日大娘皇女がある。
埼玉古墳郡の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた獲加多支 (わかたける)大王に左治天下したとされる乎獲居臣(おわけおみ)とは誰なのか考えていきたいと思います。 目次 稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた内容 雄略天皇の右腕身狭村主青(むさのあお) 身狭 青(むさ の あお)は呉の孫権の末裔? 身狭青が治めた大和国檜隈 まとめ 稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた内容 稲荷山古墳の鉄剣には乎獲居臣(おわけおみ)が斯鬼宮(しきのみや)で獲加多支 (わかたける)大王に仕えた事、乎獲居臣(おわけおみ)の祖先の名前が記されています。 獲加多支 (わかたける)大王は21代雄略天皇だと考えられています。『古事記』では「大長谷若建命」、『…
さきたま古墳群の稲荷山古墳(5世紀後半)から出土した稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の文字が刻まれ、21代雄略天皇の実在が証明されました。 今回は鉄剣に刻まれた「辛亥年」とはいつだったのか考えてみます。 目次 雄略天皇天皇とは? 稲荷山古墳出土鉄剣の辛亥年はいつ? 火山灰の年代から推定 雄略天皇天皇とは? 21代雄略天皇は『古事記』『日本書紀』に登場する人物です。古墳時代に活躍したと想定されていましたが、古墳時代の日本には文字で記録する文化がなく実在したかどうかは疑わしいとされていました。 鉄剣に刻まれた「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」が『記紀』…
赤猪子が御召しを待った八十年乙女心の純真哀れ 英雄的な君主とされる雄略天皇は、5世紀後半の第21代天皇です。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。その雄略天皇について、『古事記』下巻に、次のようなエピソードが載っています。 長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で天下を治めていた雄略天皇は、あるとき三輪山のふもと、美和河(みわがわ)のほとりで洗濯をしている少女に出会います。見目麗しいその少女を、天皇は一目で気に入り「おまえは誰の子か」と尋ねると、少女は恥ずかしそうに「私は引田部の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えました。天皇は「おまえは誰にも嫁がずにいなさい。その…
泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代 大泊瀬稚武天皇 天皇の御製歌 篭もよみ篭持ち堀串もよみ堀串持ちこの岡に菜摘ます子家聞かな告らさねそらみつ 大和の国はおしなべて我れこそ居れしきなべて我れこそ座せ我れこそば 告らめ家をも名をも 雄略天皇 (萬葉集 巻第一 1) 書 多紀理 歌詠 多岐都 万葉集の巻一の最初に詠われているのがこの歌である。 大泊瀬稚武天皇とは第21代雄略天皇のことで、允恭天皇の第5皇子、安康天皇の同母弟である。安康天皇が眉輪王に殺害されたため、雄略天皇はふたりの兄八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子と眉輪王の関係を疑い、三人とも殺してしまった。また、安康天皇に後継として指名されていた…
「ヤマトタケルノミコト”の”戦い」ではなく”との”戦いです。 ↓の画像は房総半島の南西端の近く、千葉県館山市にある船越鉈切神社&海南刀切神社で撮影したものです。道路を隔てて近距離に位置している両神社は解説板にあるようにペアのような関係にあります。 その昔、神さまがこの地で人々を苦しめていた大蛇を退治するために鉈を研いだ石...その名も「鉈研ぎ石」! ↓はちょっと見づらいですが説明板です。 船越鉈切神社の方は本殿が海蝕洞穴の中に設置されており、この空間が「鉈切洞穴」として県指定の史跡となっています。 ↑の説明板にあるように縄文時代から人間の居住空間として使用されてきただけでなく、古墳時代には葬送…
初代天皇と言われる神武天皇は九州から大和へ東征を行い大和を都と定めて大和政権を立ち上げた人物と言われています。 『古事記』『日本書紀』によると神武天皇は紀元前600年代の人物と言われていますが、実在が確認されている天皇の系図から遡っていくと、1人の天皇の寿命長すぎる問題が発生します。 おそらく『記紀』を編纂する時に『魏志倭人伝』の卑弥呼と神功皇后を一致させたいために辻褄を合わせようとした結果と思われますが、ややこしいので天皇の系図からざっくり遡ってみることにしました。
行田創生RPG 言な絶えそね 過去の記事ではヲワケの臣は雄略天皇がライバルを倒して大王に即位し、勢力を大和から河内に広げていく際に活躍した人物であり、その功績を讃えて鉄剣を作った事を書きました。前回の記事↓ rekitabi.hatenablog.com また朝鮮半島の情勢の変化によって、大和政権の中枢を担っていた渡来人が百済系から新羅系に変わった事で、新天地を求めた百済系渡来人達がヲワケ臣に従いさきたまへやってきたのではないかと予測しました。今回の記事では『日本書紀』での記載をもとにヲワケの臣の正体について考えていきたいと思います。
昭和53年のこと。ハチヤ君がやや興奮気味に話している。 ハ「のりもさん。今日の新聞見ました?」 私「なに?」 ハ「埼玉県の船山古墳で発見された鉄剣にX線を当てて調べたら、文字がはっきり出てきて、雄略天皇の治世下にあったことが分かったんですよ」 私「へぇぇぇ~~~。だけど、そんなにすごいことなの?」 ハ「あの、雄略天皇ですよぉ。天皇でいえば第21代の御代じゃないですか。5世紀初めだっていわれてて、それで5世紀には大和朝廷の勢力が関東北部にも及んでるってことが分かるんですよ」 私「ああ・・・・歴史マニアにはたまらんのかぁ・・・」 ハ「それにね。のりもさん向きにいえば、雄略天皇の歌ってあるじゃないで…
前稿で臼が峰往来(石仏峠)の歌碑の紹介が終わりました。万葉歌碑としては下記のように40基(重複や説明碑、平家物語関連などは除いて)が立てられていました。 富山県氷見市葛葉臼が峰往来(石仏峠)万葉歌碑群 20230704撮影 地元の愛好家さんたちの熱い思いが感じられるゾーンでした。きれいに整備されており思う存分万葉の世界を満喫することができました。 紙面を借りて心から御礼申し上げます。ありがとうございました。 次は、富山県側の臼が峰山頂公園である。 ●歌は、「こもよ みこもち ふくしもよ みふくし持ち この岳に 菜摘ます子 家のらせ 名のらさね そらみつ 倭の国は おしなべて われこそをれ 敷き…
今回はシリーズ第29弾、雄略天皇・18回目(雄略紀の最終回)を紹介する。雄略が病に伏し崩御する。雄略の遺言や皇太子(清寧天皇)が継ぐことの正当性が星川皇子との対比を通じて描かれる。次の流れで紹介していく。・病気から賞罰支度を皇太子に委ねる・雄略天皇の崩御・雄略の大伴室屋大連と東漢掬直への遺言・臣下に対して思うこと・雄略の心残り・天皇の職責と後継者に対して・皇太子と星川皇子・吉備臣尾代と蝦夷の戦い ■病気から職務を皇太子に委ねる即位23年7月(秋)。天皇は寝疾不預(みやまい、病気により寝ているさま)していた。詔(みことのり)し、賞罰支度(まつりごとおきて)など大小問わず皇太子に付にたまふ(ゆだに…
大和盆地は朝の内、濃い霧だった。二上山も葛城山も雲の中にあった。 一言主神社へは、ほぼ毎年この時期に行く。いつもなら近鉄御所駅からバスに乗るのだが、今日はひとつ手前の忍海で降りた。角刺神社を再訪する。雄略天皇の跡を継いだ清寧天皇には子がなかった。その時、雄略が滅ぼした市辺押磐皇子のふたりの遺児が見つかった。父を殺され、難を逃れて播磨に隠れていた。清寧は兄弟を呼び寄せて後継者とした。しかし清寧が死ぬと兄弟は皇位を譲りあって即位しない。そこで兄弟の姉とも叔母とも伝えられる飯豊青尊が忍海角刺宮で政務をとったと『日本書紀』にある。『古事記』では清寧の死後、「飯豊王」が角刺宮にあって皇位継承者を探すとふ…
訓読 >>> 2973真玉(またま)つくをちこち兼(か)ねて結びつる我(わ)が下紐(したひも)の解くる日あらめや 2974紫(むらさき)の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ 2975高麗錦(こまにしき)紐(ひも)の結びも解き放(さ)けず斎(いは)ひて待てど験(しるし)なきかも 要旨 >>> 〈2973〉今も将来も変わらぬ心でいようと誓って結びあった、私の下紐が解ける日があるだろうか、ありはしない。 〈2974〉紫染めの帯の結び目を解く機会もなく、ただわけもなくあの子に恋い焦がれ続けることになるのか。 〈2975〉高麗錦の紐の結びも解かずに、わが身を慎んでお待ちしてい…
西郷信綱『神話と国家―古代論集』(平凡社 1977年) 引きつづき西郷信綱を読みます。この本は、いくつかのテーマに分かれていますが、前の『古代人と死』よりはお互いの関連が薄いような気がします。そのテーマとは、大きく分けて、古代宗教に関して、役行者、八幡神、スメラミコト、イケニヘの4つ、文学に関して、昔話、古代詩歌の韻律の2つ、合わせて6つです。 前回書かなかったことで、西郷の文体上の一つの特徴をあげるとすると、真剣な論究を進める途中で、急に卑俗な言葉遣いで、本音が漏れるところが面白い。例えば、『古代人と死』では、「この一文を解読するには、真正面からではなく、四球を選び、あとは犠打を打ったり外野…
高知県の一宮神社の鉄剣、そして高知県西部の幡多郡を紹介し、日本の古代史をつないでいく。次の流れで紹介していく。 ・七星剣・高知県の一宮神社の鉄剣・高知県の土佐一ノ宮、土佐神社・幡多郡・波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)・秦韓国・星川皇子の乱・平田曽我山古墳・高岡山古墳群 ■七星剣中国の道教思想に基づいて国家の鎮護や破邪の力を込めて北斗七星を刻んだ刀のこと。七星剣自体は中国に起源があると考えられる。日本では七星剣は数点見つかっている。 今回は高知県の一宮神社の七星剣を扱う。 ↓にて、七星剣を紹介、妙見信仰との関りを示した shinnihon.hatenablog.com ■高知県の一…
雑誌「フリースタイル」 https://webfreestyle.com/ のホームページである。ちょっと下の左に62号があるでしょ。これをネットで注文しました。 この雑誌に呉智英さんの緊急寄稿《呉智英「天才の闇に棲むもの──追悼・楳図かずお」》が掲載されている。これを読むと楳図マンガの本質が見えてくると先生は言われた。あ~楽しみ~。この本を確認してから呉先生の「楳図論」について触れたいと思います。 その時に、先生は「東亜同文書院」にも触れた。残念ながら阿呆なワシャには「ピーン」とこなかったが、先生の話から、上海にあった専門学校で、昭和14年に大学に昇格し、終戦とともに閉校となり、その一部が愛…
あっという間に12月になり、2024年もあと少しで終わってしまいますね。 今年は12月の早い時期に前もって大掃除を始めようかなと考えている方も多いかと思います。でもその前に、1年間お世話になった神様に、お礼を伝えに「年末詣」に出かけませんか? 「年末詣(ねんまつもうで)」とは? 「年末詣」とは、12月中に「御礼参り」と「新年の祈願」を兼ねてお参りすることです。 「御礼参り」とは? 「御礼参り」とは、神仏にかけた願いが成就したことに対して感謝の気持ちを込めて参詣するものです。 御礼参りの作法としては、次のようなものがあります。 祈願したことがかなったことを報告する お礼の気持ちを伝える 御札など…
・692年(唐暦長寿1.9.戊戌) 周の聖神皇帝,武曌は「長寿」と改元した。(『新唐書』則天武后紀) ・692年 12.14 持統天皇は、博士,続守言と音博士,薩弘恪に水田4町を与えた。(『日本書紀』) ※国史編纂の進捗による褒賞だと考えられる(森博達『日本書紀の謎を解く』)。 ※『日本書紀』における仁徳天皇から武烈天皇までの叙述は、王朝の創始から滅亡として語られているとも考えられる。そして唐人の守言の念頭にあったのは、隋から唐への変革だったと思われる。雄略天皇が臣下に対して嗣子への忠節を命じた詔勅は、『隋書』における隋の文帝,楊堅の詔勅と類似している。また、その後継者(清寧天皇)が兄弟(星川…
訓読 >>> 新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春(はつはる)の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 要旨 >>> 新しい年の初めの初春の今日、雪が降っている。この雪のように、ますます積もって行け、めでたい事が。 鑑賞 >>> 大伴家持の歌。因幡国に赴任して迎えた新年の天平宝字3年(759年)の正月1日、国庁で国司郡司らを饗応した宴で作った歌とあります。この日は、暦の上の元日と立春が重なる、19年に一度の歳旦立春(さいたんりっしゅん)という特別の日でした。因幡国の国庁は、今の鳥取市の東南に位置する国府町大字庁付近にあったとされます。この歌は、御代のますますの栄えを予祝する歌ではありますが…
初詣は、相模原の神社に行きませんか! 首都圏の初詣参拝者数のBest3は、明治神宮 約310万人、成田山 新勝寺 約305人、川崎大師 約300万人、毎年、300万人を超す初詣客が訪れます。 明治神宮等にまで出かけなくても、相模原とその近郊には、多くの方が初詣に訪れる神社があります。 相模原周辺の神社をご紹介します。 ・北相模総守護社 亀ヶ池八幡宮 ・武相総鎮護 座間神社 ・相模原 清新 氷川神社 ・村富神社 ・寒川神社 【北相模総守護社 亀ヶ池八幡宮】 亀ヶ池八幡宮は神奈川県相模原市中央区上溝に鎮座する、鎌倉時代創建と言われる北相模の古社です。 御祭神は応神天皇を主祭神とし、上溝夏の風物詩で…
・589年(隋暦開皇9) 1. 隋軍は陳の皇帝,陳叔宝を捕縛した。こうして陳はほろんだ。 ※候景の蜂起以降、河南は荒廃しており、陳の国力も衰えていた。そのため隋は強い抵抗をされることもなく陳を滅ぼすことができた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。 ・589年 7.1 東山道使・東海道使・北陸道使を派遣して、国境を視察させた。(『日本書紀』) ・590年(隋:開皇10) 隋において、兵籍が廃止されて民籍に統合され、旧北斉国境、旧陳国境、北方警備のために設置されていた軍府は廃止された。それ以外の旧来の軍府は残すことにした。 ※陳を滅ぼして領土の統一を果たしたことで、大軍の動員が不必要になったことか…
・587年 4.2 用明天皇は病となり、仏教に帰依したいと願って、その是非を群臣に問うた。その後、司馬達等の子息鞍部多須奈(法名を丈六)は、仏像と寺(坂田寺)を造ると奏上した。(『日本書紀』) ※欽明天皇・敏達天皇と同じく容易に仏教を受容はしなかったが、積極的に排除することもなく、強引でない形で受容したのである。倭の神祇信仰は祖先神をはじめとする多数の神々を認めているが、仏教もまたBuddhaを守護する神々を認めている。そのため、倭人は仏教の神々や仏のことを「蕃神(異国の神)」として捉え、警戒しながらも興味を抱いて接することができたとも考えられる。用明天皇は仏教を信仰しながらも、自身の皇女,酢…
アマテル大御神は、トヨケ大神からマツリゴトの奥義(ミチノク)を学び、富士山麓ハラミの地に帰還します。この地に新たに「靖国宮=おおやまとひたかみのやすくにのみや」を建て、執政しました。その後、トヨケ大神の神上がりに接し、思うところがありオモイカネ神に命じて新宮を建造し、イサワに遷ります。マツリゴトの表舞台から隠居した後も、この地に留まり、タカマを後見し、膝元では民衆教育に努めます。隠居後のイサワの宮は、仙洞御所の元祖にあたります。 イサワの地を今日の何処に比定するかについては、本誌でも重ねて論じられてきました。志摩国一宮として、今日、磯部町の伊雑宮と鳥羽の伊射波神社が、並び立ちどちらも趣のある古…
纏向古墳群、三輪山 二日目は午前中に箸墓古墳のある纏向古墳群を、午後は橿原考古学研究所附属博物館と新沢千塚古墳群を巡るハードな日程である。まず奈良駅近くの宿から箸墓古墳のある桜井市箸中に向かう。あと1.5kmほどで箸中に着く。ここから箸墓古墳まで真っ直ぐであり、正面右手に見える小山が三輪山(467m)である。左手奥の山並みの裾には「山の辺の道」がある。 箸墓古墳近くから三輪山を眺める 箸墓古墳前から東を眺めると、左に見える山が三輪山であり、麓には大神(おおみわ)神社がある。遥か昔から神の山として崇められてきた。三輪山自体が御神体とされて、古来、本殿は設けず拝殿しかない。 纏向古墳群 この後訪れ…
・457年(宋暦大明1.1.辛亥朔) 宋の孝武帝,劉駿は「大明」と改元した。(『宋書』孝武帝紀) ・459年 倭国は新羅を攻めるも撃退された。 ・460年(宋暦大明4.12.乙未) 倭国は宋に使者を派遣した。(『宋書』孝武帝紀) ※倭国の使者はそれまで通り百済を経由して宋に至ったと思われる。そのため、新羅と同盟を結んでいても、倭国を軽視はしなかったと考えられる(河内春人『倭の五王』)。 ・461年 4.? 百済の蓋鹵王,扶余慶司は弟の昆支(軍君)を倭国に派遣した。(『日本書紀』) ※何らかの倭国と百済の合意のもと、百済王子が派遣されたと思われる。先王とは違い積極的に倭国との友好関係の構築を望み…
・424年(宋暦元嘉1.8.丁酉) 劉義隆は宋の皇帝に即位し(文帝)、「元嘉」と改元した。(『宋書』文帝本紀) ・425年 5.? 〔参考〕倭国より竹葉瀬・田道兄弟が高句麗に派遣され、田道は騎兵を率いて新羅軍と交戦したという。(『日本書紀』修正紀年) ※竹葉瀬を祖とする上毛野君の祖先伝承に由来する記事であり、信憑性は定かでないものの、倭国の軍が騎兵による戦闘が可能になるほど、騎馬文化が定着していたことを示すと考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。 ・425年 倭王,讃は宋に司馬,曹達を派遣し、官爵を贈られた。(『宋書』夷蛮 倭国) ※「司馬」は、宋の将軍と…