プロレスラー。1938年1月23日〜1999年1月31日。 新潟県三条市出身、故人享年61歳 本名・馬場正平。 全日本プロレス創始者であり、タレント活動もたくさん行っていた。 プロレスの世界に入る前はプロ野球・読売ジャイアンツの投手だった。 キャッチフレーズは「世界の巨人」(アナウンサー、若林健治の命名) 日本人初のNWA世界ヘビー級選手権王者。
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『ジョー樋口のレフェリーは知っている! プロレスのほんとの楽しさ』著 者: ジョー樋口発行日:1983=S58年6月15日出版社:ベースボールマガジン社80年代前半のプロレス本出版ブームは、全日本のレフェリー兼外人係だったジョー樋口(1929-2010)にまで及ぶ。特に仰天するエピソードはないが、外人係として厚い信頼を得ていたジョーさんならではの視点で外人レスラーたちの素顔が語られている。御年54歳の著作。◇第1章 私の大好きな男たち最初に登場するのが、兄弟分として付き合いが20年以上になるキング・イヤウケヤ。新春シリーズに参加する時は、年末に来日してジョーさんの家で年越しをしていたという仲だ…
週末の金曜日。仕事帰りにいつものBARへ向かう途中、三宮高架商店街・ピアザ神戸を歩いていると―― 「あれは?」 「もしや?」 世界の巨人、ジャイアント馬場さん? 思わず足を止めました。 2026年5月28日から6月3日までの7日間、「ジャイアント馬場 POP UP STORE in 神戸」が開催されており、会場には馬場さんの等身大パネルが展示されていました。 店内には、昭和を代表するプロレスラーである馬場さんをはじめ、ジャンボ鶴田さんやスタン・ハンセンさんなど、往年の名レスラーに関するグッズがずらり。 懐かしい名前ばかりです。 そういえば、プロレスを観なくなったのはいつ頃だったでしょうか。 も…
一条真也です。『新日本プロレスvs全日本プロレス半世紀闘争1972-2025』小佐野景浩著(徳間書店)を読みました。「対立と協調が生んだ大河ドラマ」のサブタイトルがついています。著者は「週刊ゴング」の元編集長で、ブログ『昭和プロレスを語ろう!』、ブログ『馬場・猪木をもっと語ろう!』で紹介した共著があります。本書は、「週刊アサヒ芸能」2022年5月19日号から2025年5月8日&15日合併号まで連載された「新日本プロレスvs全日本プロレス 仁義なき50年闘争史」に加筆、修正したものです。 本書の帯 本書のカバー表紙には、新日本プロレスと全日本プロレス両団体の旗揚げ試合のポスター写真が使われ、帯に…
日本プロレス界の象徴とも言える存在、ジャイアント馬場。その本名は馬場正平。1938年に新潟県で生まれ、幼少期からすでに並外れた体格を持っていました。身長は2メートルを超え、その巨体は後に「東洋の巨人」として世界に知られることになります。しかし彼の人生は最初から順風満帆だったわけではありません。若い頃はプロ野球選手として活躍し、読売ジャイアンツに所属していました。しかし病気により野球選手としての道を断念。この挫折が、後のプロレスラーとしての伝説を生む転機となったのです。 1.力道山との出会いが運命を変えた 馬場の人生を語る上で欠かせない人物が、力道山です。彼は馬場の潜在能力を見抜き、プロレス界へ…
◆1987=昭和62年12月11日 東京・日本武道館‘87世界最強タッグ決定リーグ戦=第18戦(最終戦)公式戦30分1本勝負○ジャイアント馬場(49) 、輪島大士(39) VS アブドーラ・ザ・ブッチャー(46) 、TNT(23)● 輪島(9分34秒 バックドロップから片エビ固め)TNTアブドーラ・ザ・ブッチャーとブルーザー・ブロディが全日本プロレスに電撃復帰した『’87世界最強タッグ決定リーグ戦』は、歴代の大会の中でも一、二を争う豪華メンバーが集結した大会。その年の春に長州力が全日マットを離脱するも、夏からは天龍源一郎と阿修羅原の龍原砲が始動。ブッチャー、ブロディと外人レスラーも充実してきた…
棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか 文庫版 作者:棚橋弘至 飛鳥新社 Amazon 前向きになりたいけどなれない、そんな時、プロレスラー棚橋弘至の本はいい。 今年の「1.4東京ドーム」で引退した棚橋弘至選手は、私がプロレスを見始めた頃にデビューした。 最初はパッとしなかったが、ある時、恋愛関係のもつれから女に刺されて、そのままバイクで病院まで行ったということがあり、すごい奴だなと思ったあたりから注目し出した。 その後、あれよあれよという間にメインをはる選手になっていったわけだが、その頃から世の中はプロレスよりも総合格闘技という雰囲気になり、私もいつの間にかプロレスから離れてし…
東洋の巨人、世界のプロレスラージャイアント馬場。 必殺技は、ヤシの実割り、河津掛け、脳天唐竹チョップ、ランニングネックブリーカードロップ。 そして16文キック。 アントニオ猪木の異種格闘技戦と比べられ、所謂「プロレス八百長論」の原因みたいに言われた時期もあったかと思いますが、天龍源一郎選手の証言によると「言いたいやつには言わせておけばいい」というのがジャイアント馬場のスタンスだったそうです。 1990年代に「王道プロレス」が市民権を得てからは、プロレスマスコミだけでなく一般のファンからも「馬場さん」と呼ばれて親しまれるようになり、バラエティー番組出演の機会も増えてお茶の間の人気者になりました。…
今回は「俺のジャイアント馬場理論」というタイトルで、書いてみたいと思います。 ま、例によって「理論」というほど大層なものではありませんが(笑) 日本人なら誰でも知っているプロレスラー・ジャイアント馬場について、わたしもこの年齢になって 1つ2つほど強く思うことはあるのですが、ジャイアント馬場(全日本プロレス)との関わりを振り返ると、記憶がやや曖昧です。 わたしは「金曜夜8時」のワールドプロレスリングから入ったクチなので、基本的に新日本プロレス派でしたが、夕方の全日本プロレス中継も見ていました。「次週の全日本プルロレス中継は ・・・・」と倉持アナがときどき見せた巻き舌の喋り方を見て「古舘アナに対…
「記録よりも記憶に残りたい」なんて言えば聞こえがいいが、現実には記録に残ってこそ記憶に残る方が圧倒的に多いように思える。“黒い重戦車”レイ・キャンディは、インタータッグ王座奪取の記録がずっと記憶に残るレスラーの一人だ。1951=S26年12月、ジョージア州に生まれる。1973=S48年に同地区でハリウッド・ブロンドス相手にデビュー。1975年7月にアマリロ地区でボビー・ジャガースを破り、ウエスタン・ステーツ・ヘビー級王者になり、8月にはドリー・ファンク・ジュニアと組んで同タッグ王座を奪取。1976年9月にフロリダ州でテリー・ファンクの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦。1977年8月にテネシー地…
パブリック・ドメイン, リンクによる新春のプロレスと言うと、“毒蛇”マーク・ルーインを思い浮かべる。1973=S49年、全日本プロレスの第1回チャンピオン・カーニバルに初来日し、1982=S57年までに9度来日する。そのうち、新春正月シリーズに4回、2月から4月にかけての春シリーズに4回参戦している「春男」なのだ。その季節は当時拠点にしていたオーストラリア・マット界の閑散期だったような話を聞いたことがある。1977、1978年の「新春ジャイアント・シリーズ」には、盟友キング・イヤウケヤと一緒に来日し、リングのロープを外したり、粉を撒いたりと、やりたい放題の暴れっぷりが記憶に残る。◆1976=昭…