水木しげる(本名:
1922年(大正11年)3月8日、生まれ。鳥取県境港市出身。ペンネームは、紙芝居作家時代に、当時経営していたアパート「水木荘」から周りに名付けられた。
画家を志すが、太平洋戦争で激戦地のラバウル(パプアニューギニア)の前線に出征し、左腕を失った。
戦後、紙芝居や貸本屋画家を経て、1958年に「ロケットマン」でデビュー。
1964年(昭和39年)創刊の同人漫画誌「ガロ」の中心作家として活躍した。
1966年(昭和41年)に「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞。
1967年(昭和42年)からは少年マガジンで「ゲゲゲの鬼太郎」の連載を開始した。本作は5度TVアニメ化している。その後も「悪魔くん」、「河童の三平」などを発表し、妖怪漫画の第一人者となった。
一方、妖怪研究家として、「世界妖怪協会会長」、「日本民俗学会会員」、「民族芸術学会評議委員」などを歴任、「調布市名誉市民」にも選ばれている。
1980年代は「過去の人」的存在であったが、1990年代以降は「水木しげるという人生」「水木しげるというキャラクター」が人気を博し、以降、再ブームが継続している。
1991年、紫綬褒章を受章。
2003年、鳥取県境港市に、水木しげる記念館が開館。境港駅から記念館の入口までの約800mは、通称「水木しげるロード」と呼ばれ、沿道に妖怪オブジェが鎮座している人気観光スポットとなった。
2010年(平成22年)4−9月、妻の自伝を原作としたドラマとして、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が放送。映画化決定。2010年11月、文化功労者を受賞。
2015年(平成27年)11月30日、心不全のため東京都内の病院で死去。93歳没。
膨大な作画資料ファイルに支えられる、幼少時の記憶さえ再現できるという精密な背景描写と白く抜けた人物が、独自の時空間を作り出す。つげ義春、池上遼一、森野達也などがアシスタント経験者で、荒俣宏、京極夏彦ら熱烈な信奉者も引きを切らない。なお作風はほぼワンアンドオンリーで、森野以外は独自の(荒俣 京極も漫画家を目指していたが 作品は水木の影響が無い。荒俣先生も京極先生も時々マンガ描いてるけど絵に影響がない)画風を確立している。
妖怪モノとは別に、自分の従軍体験を活かした戦記モノ、昭和史モノの漫画でも知られる。
アシスタント(書庫の整理)をしていた呉智英によれば、千年王国ものを描いているという。ただしその諸作品の根底に「王国の建設は絶対不可能」「革命そのものがあらかじめ失敗する」というニヒリズムが認められるという。