本阿弥光悦作の茶碗は何度でも見たくなります。 その目的は二つあって、一つは、光悦碗を観ていると、もっと自由に生きていいんだよ、って励ましをもらえるからです。今回展示の茶碗も、そのほとんどが初めから狙っていたのではないかと思うぐらい焼成時に入った大きな疵があって、それがどうかしましたかって、すました顔で補修が施され鎮座しています。もちろん継ぎの表情が並なレベルではないことで美しさが保たれているわけですが、室町時代中期の文献に「茶碗のこと、ことごとくそろひたまえるはまれなるものなり。ひとところ良きところがあればそれを用ふべし。」 とあるように、どこか一つ良いところがあったらそれでいいではないかと、…