1880年生まれ、1977年没。岐阜県出身。画家。 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業するも、職業的な画家にはならず、筏流しなどの職業に就く。画家として本格的に活躍し始めるのは50代になってからだが、その後も寡作であった。1967年には「来客が増えると困る」という理由で文化勲章を辞退、「現代の仙人」と呼ばれた。動植物を単純ながらも味わい深い筆致で描いた作品に特徴がある。
よろコンです。 ここ2回、5/23(金)-25(日)に関西で見て来た展覧会について、書いてきました。あと一回、書くつもりですが、今回は一回お休み。先週・先々週と東京で見た二つの展覧会について書きます。今回も、あとから「あの時、こんな展覧会に行っていたんだなぁ」と自分が思い出すためのメモということで、よろしくお願いします。(写真は撮影OKだったものです) (いねむるモリ) (1) めぐる いのち 熊谷守一美術館40周年展@豊島区立熊谷守一美術館(6/29(日)まで) 特別企画展 「めぐる いのち 熊谷守一美術館 40 周年展」 | 豊島区立熊谷守一美術館 | Kumagai Morikazu M…
久しぶり(?)に「あほ桐」の集まりの記録です。 5月9日(金)、この日はいつもの四人に加え、大阪から一名、浜松から一名、合計六人の集まりになりました。拡大「あほ桐」のフルメンバー、勢ぞろいです。今回のメインは食事とカラオケだったのですが、そこは文化と教養!?を謳い文句にしている集まり、寸暇を惜しんで「愛知県美術館」のコレクション展を覗きに行きました(ついでに、隣のNHKスタジオにも顔を出しました)。 大阪万博が開催中ですが、今年は愛知万博20周年の年でもあります。その記念事業の一つとして「フランス・オービュッソンのタピスリー;『千と千尋の神隠し』」の特別展示が開催されていました(愛知・中部圏以…
学生時代に、谷川徹三の影響を受けた時期があった。 今も熱心な読者はあるのだろうか。お若いかたには、詩人谷川俊太郎のお父上と説明しなければならぬかもしれない。肩書は哲学者という括りになっているのだろうが、芸術史・美学史に関する、柔軟で幅広い、啓蒙的エッセイストの著作として私は読んだ。『芸術の運命』が最初だった。 家庭環境にも生立ちにも、美術の素養を育む要素などなかった私には、たまたま物の本で知った対象に場当り体当りでのめりこみながら、見聞を広めてゆくしかなかった。必然的に知識は粗密まだらとならざるをえなかった。そのまだら模様たるやひどいもので、梅原龍三郎や坂本繁二郎の代表作を思い浮べることができ…
文字らしい文字、立派な文字というものが、あるのだろうか。あるような気がしている。ただし巧い拙いとは少し違うような気がする。美しい醜いとも違う気がする。丁寧な文字か粗雑な文字かなんぞは、初めから論外だけれども。 明治の元勲と称ばれる政治家・政商らの書や書簡を評した、榊莫山の言葉が残っている。巧い、平凡、下手、貧相、字になってない、などなど、忌憚なく評されてあって痛快だ。評価の基準も分れ目も、むろん私には解らない。ただ在世中の業績や、巷間伝えられる人柄や伝記的事実とは一致しない場合がしばしばで、面白いもんだなあと記憶している。 榊莫山は伊賀の人だ。大正十五年(1926)生れだから学徒出陣兵として徴…
熊谷守一美術館の外壁に彫られてある、逞しい蟻たちのうちの二匹だ。右の一匹は恥かしながら、ウェブ上での私のアイコンたる一朴蟻である。 「文化庁からお電話。なんでも文化勲章をくださるとかで、受取るかとお訊ねだけど、出てみる?」 「いや、いらない……」 熊谷守一と夫人との、有名な会話だ。美術館は画伯ご夫妻のお住い跡地に建っている。そこ豊島区千早の地に、ご夫妻は長年住まわれた。 往来からの眼を遮るように鬱蒼と繁茂した樹木と草ぐさに護られた、平屋の日本家屋だった。晩年の画伯はほとんど外出することもなく、庭にしゃがみこんだり縁側に寝転んだりしながら、猫と戯れ、小動物や草木を観察して過した。花ばなや小鳥たち…
★熊谷守一 画壇の仙人展 札幌三越、2023年11月7日(火)-11月13日(月) (WEBサイト→) www.mitsukoshi.mistore.jp 熊谷守一(1880年-1977年)は岐阜県恵那郡(現在の中津川市)生まれ。1900年東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学。1909年、文部省美術展覧会にて『蝋燭』が褒状を受けました。1967年には文化勲章を辞退し、世俗から離れて、終日自宅の庭の草花や花を眺め、97歳まで描き続けました。その姿は「画壇の仙人」「超俗の人」とも呼ばれました。 モリカズの作品は、その生活(人生)そのままに、自由で、伸びやかです。その作風は「モリカズ様式…
”仙人と呼ばれた画家「熊谷守一」”が副題の通り彼の晩年の姿を追った写真の数々。 中には『土門拳』と膝を突き合わせている場面を捉えたものや、『熊谷』が作者を撮った写真もあり。 添えられたキャプションは彼自身の言葉の抜粋も、うっすらと記憶にあるなと思ったら『沖田修一』による映画〔モリのいる場所(2018年)〕を(WOWOWではあるものの)見ていたからなのね。 会場内には写真家も来場されており、客の一人が当該映画のことを声高に話し掛けていたが、声がデカすぎて、五月蠅いことこの上なし。 会期は~~6月2日(金)まで。
熊谷守一(1880 - 1977) 積上げる、志す、完成に向けて努力する、という方向以外にも、老境の澄みかたはありうるんじゃないか。熊谷守一はさような夢を抱かせてくれる画家だ。 付知(つけち:現中津川市、近年まで恵那郡)の生家では三男坊だった。姉妹もあった。父は不在がちだった。岐阜へ出て製糸工場を営んでいたのだ。岐阜の家は旅館を買い取った広い家で、お妾さん二人とその子どもたちが暮していた。つまり異母兄弟姉妹がいく人もあった。のちに父は岐阜に市政が敷かれると、初代の市長に就任した。 岐阜の家では片方のお妾が権力を握っていて、子どもらにお母さんと呼ばせていた。幼い画伯も付知から岐阜へ呼び寄せられ、…
ことあるごとに思い出す。熊谷守一さんの作品は言葉によらない俳句であると思う。わたしは既に、熊谷守一さんについてのまとまった感想ブログを書いていたと思っていたのだが、過去記事検索してみると、まだ手付かずだった。 熊谷守一さんと高野素十さんとを並べて論ずることも、まだできない。 そこで今回は、熊谷守一さんの語録のなかから、「俳句」に通ずるところを抜き出しておこうと考えた。それは、部分のようで全体であり、一瞬のようで永遠であり、単純化のようで純粋化である。 「俳句」に通ずるとは、つまり全ての芸術に通ずるということだ。芸術とは詩であり神の姿を垣間見ることに他ならない。(神とは一神教の神という存在ではな…
谷川徹三『芸術の運命』(岩波書店、1964)より切取らせていただきました。 今では行届いた写真集がある。『別冊太陽』『芸術新潮』ほかで、写真と解説満載の特集号も出ている。 学生の分際で円空仏について知る機会は、ほとんどなかった。谷川徹三『芸術の運命』との出逢いは、熊谷守一と坂本繁二郎に近づくきっかけを得た点で巨きかったが、円空を知ったことはもっと巨きかった。元禄年間に入寂した天台の僧である。西鶴・芭蕉の時代だ。旅先で当地の材に仏像や神像を彫り、長逗留することなく次の地へと発ってゆく暮しを続けた。 鉈彫り(なたぼり)という昔から民間にあった粗彫りの技法で、あっという間に彫りあげてしまう。桜材から…