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豊臣秀次

(一般)
とよとみひでつぐ

三好吉房と豊臣秀吉の姉ともの長男。叔父豊臣秀吉の養子。関白左大臣。
一時、三好康長の養子となり三好孫七郎信吉と名乗っている。
急激な出世を遂げた秀吉の一族として早くから引き立てを受け、天正十一年(1583)伊勢の滝川一益攻略では一軍の将を任され、さらに翌年の小牧・長久手の戦いでも別働隊の大将を務めるが大敗し、秀吉から叱責を受けている。
しかしその後も一軍の将として、天正十三年(1585)の紀州攻め・四国攻めに活躍。叔父豊臣秀長とともに数少ない豊臣一門として秀吉を支えている。秀吉もそれに報いるかたちで所領を加増し、四国平定後には近江八幡城主、天下統一後には尾張清洲城主となる。
さらに、天正十九年(1591)秀吉の実子鶴松が夭逝すると、秀吉の養子とされ、関白職と聚楽第を譲られた。ところが文禄二年(1593)に豊臣秀頼が誕生すると、秀吉との関係は微妙なものとなり、最後は謀反の嫌疑をかけられ、高野山にて自害に追い込まれた。
また、妻子はことごとく三条河原で処刑され、聚楽第も徹底的に破却された。

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