2012-01-12 『仏教書ナイト 日本仏教夜話パート2』やります!
■[現代仏教論][本の話題][仏教ニュース]『仏教書ナイト 日本仏教夜話パート2』やります!

来る2月12日(日)に阿佐ヶ谷ロフトAで仏教書をテーマにしたイベントを開催することになりました。
日時 2012年2月12日(日)
OPEN 18:30 / START 19:30
前売¥1,200 / 当日¥1,500(共に飲食別)
会場 阿佐ヶ谷ロフトA
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/
“ブーム”と呼ばれて久しい仏教書をめぐって編集者や作家、僧侶が語り合います。売れてる仏教書の特徴、仏教書ベストセラーの変遷、これから求められる&本当に読みたい仏教書、個人史を形作った座右の本、もし理想の本棚を作るとしたら……。そもそも「本を通じて仏教を知る」とはどういうことか? 世間の仏教書とリアルな「仏教」との間には溝がないのか? 現代の読者に求められる仏教とは、心のよりどころ? ライフハック? 大人の教養? それともただのネタ? 編集・制作をめぐる裏話や業界事情を交えながら、仏教書の魅力を引き出してみたいと思います。
出演予定(順不同)
- 大角修 著述家・編集者 地人館代表(『図説 法華経大全』『日本ひらがな仏教史』『イーハトーブ悪人列伝』など)
- 金寿煥 新潮社編集者(『考える人』仏教特集、みうらじゅん『マイ仏教』など)
- 佐藤哲朗 日本テーラワーダ仏教協会事務局長(『大アジア思想活劇』、スマナサーラ長老の諸著作など)
- 星飛雄馬 著述家・翻訳家(『初期仏教キーワード』、ティック・ナット・ハン、アーチャン・チャーの訳書など)
- 松下弓月 真言宗僧侶・仏教ウェブマガジン彼岸寺編集長(『お坊さんはなぜ夜お寺を抜け出すのか?』など)
- 棟高光生 春秋社編集者(高崎直道監修『シリーズ大乗仏教』、馬場紀寿『上座部仏教の思想形成』など)
※前売り券はローソンチケットにて1/14(土)より発売開始(Lコード:38536)
【お問合せ】阿佐ヶ谷ロフトA(03-5929-3445)
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
2012-01-11 安冨歩 『原発危機と「東大話法」』を読んだ
■[本の話題]安冨歩 『原発危機と「東大話法」』を読んだ

- 作者: 安冨歩
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2012/01/07
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 73回
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正月明けに読んで気鬱が晴れた一冊。激しくオススメしたい。
(以下、1月9日〜10日にかけて読みながらのツイート ※は補足)
安冨歩『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』明石書店、読んでる。これはスゴイ迫力の本だ。止まらない。
著者曰く「東大文化」とは、
- 徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
- 抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
- 高度情報処理能力で不誠実さを隠蔽する、
…「虐殺器官」ならぬ「扼殺器官」として日本を滅ぼす東大話法の使い手はまさにショッカー! (著者はまじめに「東大=ショッカー」仮説を提唱。)
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/02/10
- メディア: 文庫
- 購入: 60人 クリック: 823回
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(※伊藤計劃が本書を読んだらどう評しただろうか……)
原子力の専門家とは、「欺瞞言語(原子力業界の安全欺瞞言語)で脳の思考力を破壊していって、頭がぼんやりしてきて、「格納容器が壊れるなんて思えなく」なればなるほど、立派な「専門家」になる」66p
(これが誇張ではない、ひどい実例が挙げられていく。東大話法の項目はページが進むにつれ増える。第三章 「東大文化」と「東大話法」にて、原発事故後に東大工学部が出した欺瞞文書を分析するなかでまず次の8つが示される。
- 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
- 自分の都合のよいように相手の話を解釈する。
- 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
- 都合のよいことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す。
- どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
- 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
- その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
- 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。)
「傍観者というのは、事態に主体的に関わらないばかりではなく、主体的に関わっている人々を外部から眺めつつ、何ら感情を動かさない人物のことを言います。そのかわりに彼等は、主体的に関わっている人々を観察して分類したりして、解説する」138p
(※原子力政策に大きな権限を持つポストにいる御用学者が、完全に傍観者を決め込み、まったく責任意識を持たない。これが東大話法を支える学者の重要なメンタリティの一つとされる。)
「東大話法規則20 「もし○○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。……自分が謝罪すべき当事者であるというのに、傍観者に成りすましている、という語り口」189p
(※東大話法の例として池田信夫氏が槍玉に上がっているが、20は香山リカ氏も使っている。)
「東大話法のような欺瞞言語は、強い自己増殖性を持っています。誰かに東大話法を使われて、搾取されてしまうと、今度は、搾取された側が東大話法モドキを使って、他人を搾取してしまうのです。」p190
自他を守るため東大話法の知識は必須!
第四章 「役」と「立場」の日本社会、切れ味鋭いなぁ。誰かに「立場」を与えるために「役」が捏造されて、必要性の薄い「仕事」の意義が強弁される……そのために最適化された言語技術が東大話法なんだろうが、日本社会のどこでも見られる病理だ。
「原子力御用学者の「役」は、「我が国は」で始まる無意味な論文を書き、政府の審議会に出て国策に太鼓判を押し、…研究費をもらって…研究を行なっているフリをして、こういった「役の体系」こそが正しい…(と学生達を)洗脳すること」226p
第五章 不条理から解き放たれるために 「原発に反対する人がオカルトに惹かれる理由」について分析。「原子力とオカルトとは共に、熱力学第二法則を乗り越えようとする幻想という点で同じ論理構造を持っている」と喝破。槌田敦氏の思想で締める。
安冨歩『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』明石書店、一気に読んだ。すごかった。「「命」は記述できなくとも、「命を破壊するもの」は記述できる範囲に入っている」12p云々と「合理的な神秘主義」に触れたくだりから鷲掴みにされた。続編もあるそうで楽しみ。
目次
はじめに
東大話法一覧
第一章 事実からの逃走
第二章 香山リカ氏の「小出現象」論
第四章 「役」と「立場」の日本社会
第五章 不条理から解き放たれるために
あとがき
追記:著者の安冨歩さん、真宗大谷派の本多雅人師と対談本も出版されている。
- 作者: 安冨歩,本多雅人
- 出版社/メーカー: 樹心社
- 発売日: 2011/12
- メディア: 単行本
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実は真宗系の重鎮のご子息なんて話も聞いたがご自身のブログでマイケル・ジャクソン賞賛してるあたり坊さんっぽいなぁ(お坊さんはなぜかブラック・ミュージック好きが多い)と思ったりした。もしそうなら、仏教系男子つながりで、マイケル・ジャクソン本を西寺郷太さんと共著で出せばいいのに。そういう方面の展開も期待してます。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
2011-11-14 山形での報恩講で話したこと「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」
■[ひじる日々][現代仏教論]山形での報恩講で話したこと「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」

2011年11月13日、懇意にさせていただいている山形県の真宗寺院で「報恩講」の講演をしました。その内容(草稿に当日の概要を加筆)をシェアします。
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本日は親鸞聖人七五〇年大遠忌という大切な年に●●寺の報恩講にお招き頂いたことを、●●寺の皆様、ご門徒の皆様に心より御礼申し上げます。
私はテーラワーダ仏教というインドからスリランカや東南アジアに伝えられた仏教を学んでいます。今日は浄土真宗で大切にされている「念仏」という言葉について、私が勉強してきたことからお話したいと思います。浄土真宗の教えについて詳しくないのでトンチンカンなことを言ってしまうかもしれませんが、ご寛恕ください。
念仏とは、2600年前のお釈迦様の時代からあった仏教用語です。
インドの言葉で、Buddhānussati (ブッダーヌッサティ)・仏隨念(ぶつずいねん)と言います。
Buddha(ブッダ、仏)とAnussati(随念)に分かれます。AnussatiはSati(サティ)という言葉からできた熟語です。Sati(サティ)・念 は、「気づく、注意する、心にとめる、憶えておく」といった意味になります。
単独でSati(サティ)・念という場合は、「気づく、注意する」の意味が前に出ます。八正道の「正念」の意味もそれです。具体的には「気づきの冥想」「ヴィパッサナー冥想」です。いま・この瞬間の自分に気づくという修行です。
Anussati(アヌッサティ)・隨念という場合は、「心にとめる、憶えておく」という意味が強くなります。仏法僧の徳を念ずる 仏法僧のことを心において忘れないことです。
『旗先経』(パーリ相応部)という経典があります。森のなかで修行する僧たちの心が恐怖に覆われて、身の毛のよだつ思いにとらわれ、修行することに挫けてしまいそうな時、仏法僧を念ずることで、心を奮い立たせるのだ、とお釈迦様は、がアドバイスします。「阿修羅との戦争で神々がひるみそうになった時、神々の王である帝釈天の旗を仰いで勇気を奮い立たせるように」という例えが出てきます。
修行とは煩悩との戦いです。その戦いを誰かが代わりにしてくれる、ということはあり得ないのです。仏・法・僧を念じて気持ちを奮い立たせて、それから実際に戦うのは自分です。
他のパーリ経典では、仏・法・僧・戒を念ずる、ということも説かれます
「法を見る者は私を見る」とお釈迦様はおっしゃっています。私たちは教えを通してブッダと会うのです。ですから、念法とは、実は念仏(ブッダを思い出すこと)です。
僧とはブッダの教えを実践してきた人々です。仏教の真理を身をもって体験して、自らも覚った方々です。ブッダの教えでブッダになった方々のことを念じるのだから、これも念仏です。
戒とは心清らかにするためのブッダの戒め。つまり、ブッダの説かれた修行方法・修行科目のことです。これを心に置いて思い出す。ブッダの教えが私たちの先生、つまりブッダですから、これも念仏なのです。
仏・法・僧・戒を念ずる、という四つの項目をギューッとまとめれば、「念仏」(ブッダを思い出すこと、ブッダとブッダの教えを心に置いて生きること)という一項目に極まるのです。
あらゆる仏道修行はこの広い意味の「念仏」を基礎にして実践するものです。ですから念仏道場であるこのお寺は、すべての仏道の道場ということになります。
お釈迦様が説かれたあらゆる善行為(法)を学ぶことも「念仏」なのです。仏教を学んでいつも思い出すことで、勇気が出てきます。心が明るくなるんです。やる気が湧いてくるんです。
…………
「南無阿弥陀仏」という念仏がどのように現れたか、ということについても述べたいと思います。
「千年続くはずの正法が五百年で廃れることになる。」これはお釈迦様が養母ゴータミー夫人の懇願を受けて、比丘尼出家をしぶしぶ認めたとき、「やれやれ、やられてしまった(女性には敵わないな)」という気持ちで漏らした言葉です。
実際に釈尊がお亡くなりになり、偉大なるブッダの記憶・実在感が薄れると共に、この言葉が拡大解釈されるようになりました。最近も、大臣の方がちょっとした一言で職を失うことが相次ぎました。偉い人というのはうかつに軽口もたたけないんですね。ましてやお釈迦様ともなると、ちょっとした冗談やぐちさえも、どんな誤解のもとになるか分からない。とにかく、「正法が五百年で廃れる」という言葉は、やがてこの世界から仏教が消えてしまう、という「末法思想」にまでエスカレートしたのです。
そこで大乗経典という新しい教えが現れたのですね。もうブッダには会えない、ブッダの教えは廃れてしまった、私たちはブッダと離れてしまったという絶望から、我々の住む宇宙の外・他方世界(他の宇宙)にはいまだ長寿を保ち、説法し続けているブッダがいるはずだ、という仮説を立ててブッダを探し始めたのです。
そこで、十方の諸仏が「発見」された(発見したと主張する人々が現れた)のですね。 なかでも、西方極楽浄土で法を説く阿弥陀如来という有難い仏様がいる、という話はたいへん人気を集めたのです。
これは「法滅」という絶望感に襲われていた人々が、またブッダと出逢えたということです。仏教が消えつつある世の中で、またブッダと逢えた。真理と無縁だった私が、また「仏になる身となる」 法然上人の言葉を借りれば、「三学の器では無かった」私が、三学の器となることです。これは、この上ない喜びだったと思います。
浄土教には複雑な教学はありますが、ずばりお念仏とは、「お釈迦様と離れてしまった人々が、ブッダとの縁・「絆」を再び結んだ喜びの声」ということだと思います。
ただし「南無阿弥陀仏」と称える「行」によって悟るというのは、念仏の元々の趣旨から少し外れると思います。親鸞聖人は「報恩謝徳」の念仏ということを仰っていますね。仏様との絆に喜び、感謝するお念仏です。これがお釈迦様の時代の念仏にあっていると思います。
また、死後、極楽浄土に往生というのは、「生まれ変わっても決してブッダとの縁は切れない」ということの文学表現ではないかなと思います。もし仮に極楽浄土があったとして、死後そこに往生するのだとしても、私たちがお浄土に生まれてからすることは一つだけ、「仏道の修行」です。阿弥陀如来、薬師如来、阿閦如来、などなどブッダ(如来)にはいろいろ名前がありますが、ブッダであれば、「教えはみな同じ」なのです。これは経典にも明記してあることです。
宗派を問わず、よく知られている「七仏通戒偈」(法句経) には、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」とありますが、実際には「諸仏の教え」は寸分違わず同じなのです。ブッダは生命にかかわる真理を説かれました。生命が生命であるかぎり、その真理が変わるはずは無いのです。
過去のブッダはみな同じ教えを説いていたし、未来に現れるブッダ(弥勒如来)もまた同じことを教えるのです。どんな仏国土に生まれても、この世界の仏教と同じく、四諦八正道を実践するのです。諸行無常、一切行苦、諸法無我、を覚り、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願って生きる道を歩むのです。
ですから、お念仏の教えを通して、ブッダ・仏様との「絆」を取り戻した私たちが実践すべきは、私たちの世界のお釈迦様の教えなのです。お念仏を土台にして、お釈迦様の説かれた仏道に励むことです。
皆さんはもう、ブッダと強い絆で結ばれているのですから、お浄土に生まれるのを待つまでもなく、この世でするべきことは仏道修行です。この世でブッダの教えを、智慧と慈悲の教えを実践することです。
「報恩謝徳」の念仏というのは、仏様との絆に感謝する念仏です。でも仏様は自分の名前を何回も唱えられて賛嘆されても、あまり嬉しくないんです。他宗教の神様はそういうことを喜びます。イスラム圏で戦争が起こると、一方が「アッラーは偉大なり!」と叫びながら敵にミサイルを発射すると、もう片方も「アッラーは偉大なり!」と叫んで反撃のミサイルを発射する。そうすれば神様の祝福を受けられると思っているんですね。イスラム教に限らず宗教はそういう滑稽なことをしています。でも、仏様・ブッダはそんなことされても嬉しくないんです。決して、褒めてくれません。
ブッダが褒めるのは、お釈迦様が賞賛するのは「人々が真理を学んで、心清らかにして悟りをひらくこと」なのです。お釈迦様はクシナガラの沙羅双樹の下で亡くなる直前にこう仰りました「本当にブッダを礼拝する人とは、ブッダに礼をする人とは、ブッダの教えを寸暇を惜しんで実践する人だ」と(『大般涅槃経』)。
…………
親鸞聖人の教えを表す言葉に「悪人正機」があります。随分誤解されることも多い言葉のようです。
この「悪人」というのは、決してネガティブな暗い言葉ではないのです。私たちのありのままの姿をありのままに表現した言葉です。
お釈迦様の時代、インドには無数の宗教家がいました。お釈迦様以外の宗教家はみな、「永遠の魂」「永遠の命」というものを求めていました。いまのみじめな自分を離れた、光り輝く「本当の私」を探していたんですね。そのためにあらゆる苦行や冥想や儀式を行なっていたのです。でも、誰一人として光り輝く「本当の私」など発見できなかった。それに対してお釈迦様は、ただ一人、「ありのままの自分」を観察することに挑戦したんです。つまり「私の本当」を虚心に観察したんですね。
その結果、「私の本当」「私の本当の姿」というのは碌でもないと、とことん分かったのです。その瞬間、一切の執着から、こだわりから、心が離れて解脱したんです。何も執着に値しない、という自由の境地に至ったんです。ブッダになったのです。
お釈迦様が発見された「私の本当」を親鸞聖人の言葉に直せば、「悪人」ということになるのです。それが「私の本当」です。「私の本当」にとことん出会った人は、心が自由になるんです。
自分が悪人だと気づいた人はどうすべきでしょうか?「悪」は捨てるものです。悪性腫瘍を後生大事にとっておく人はいませんね。「私の本当」に執着すべきものなど何もない、捨てるものしかないのです。捨てるに徹することで、人は自由にいたるのです。
…………
ちょっと脱線しました。
私たちが仏道を歩む基礎として、時々挫けてしまう私たちが心を奮い立たせてブッダとの絆を確認するために、どうぞお念仏してください。
お念仏で心を喜びに満たして、苦しい時はお念仏に立ち返って、あらゆる善行為(お釈迦様が勧めた修行など)もお念仏を土台にやるんだと理解して積極的に実践していただければと思います。
お釈迦様が人々に推薦された修行というのは、とりわけ「慈悲の冥想」と「ヴィパッサナー冥想」最初にお話ししたサティの実践です。
具体的なやり方は副住職がよくご存知なので、聴いてください。私より真面目に修行されていますので。
念仏道場であるこのお寺を盛り立てて、ご同朋として明るく仲良く励んでください。
最後、お釈迦様の時代からある「念仏」の言葉、パーリ語の「ブッダの九徳」をお称えしたいと思います。
Namo Tassa Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊(ブッダ)に敬礼いたします。
Iti pi so bhagavā arahaṃ sammāsaṃbuddho
vijjācaraṇasaṃpanno sugato lokavidū
anuttarapurisadammasārathī
satthā devamanussānaṃ buddho bhagavā ti.
世尊は、阿羅漢*1、正自覚者*2、明行具足者*3、善逝*4、世間解*5、無上の調御丈夫*6、天人師*7、覚者*8、世尊*9、であります。
Buddhaṃ jīvitaṃ yāva nibbānaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
生涯、涅槃に至るまで、ブッダに帰依いたします。
ご静聴ありがとうございました。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
2011-10-16 もんじゅ「名付け親」永平寺の脱原発
■[ひじる日々][現代仏教論]もんじゅ「名付け親」永平寺の脱原発

シンポジウム:「原発は仏の教えに背く」 永平寺「ふげん」など命名懺悔−−来月2日
曹洞宗大本山永平寺(福井県永平寺町)は11月2日、原発の是非を問うシンポジウム「いのちを慈しむ〜原発を選ばないという生き方」を開催する。同県敦賀市の新型転換炉「ふげん」(廃炉作業中)などの命名にも関わったとされている寺が、初めて企画した。福島第1原発事故を踏まえて、事故が起きれば子孫にまで影響が及ぶ原発は仏教の教えに相反するとし、これまでの認識不足への反省を込めている。【山衛守剛】*1
曹洞宗大本山永平寺 布教部長の西田正法師が脱原発シンポジウムを企画し、「もんじゅ」「ふげん」の命名に永平寺が関与したことを懺悔したというニュース、TwitterのTLやブログ検索で見た限り、曹洞宗のお坊さん概ねスルーの印象だ。山内・宗内でも色々あるのだろうか。
「もんじゅ」「ふげん」の命名に永平寺が関与した…ということは、老師とか禅師とか呼ばれる歴代の重鎮が関与しているわけで言及しづらいだろうな。
歴史的にみれば、冷戦構造の下では日本の伝統仏教は「全日本仏教会」を通じ自民党政権を支え、反核・反原発を唱える社会党・共産党ら革新勢力と敵対してきた。(勿論、個々の僧侶については反原発運動に関わる方もいた。)
冷戦時代、伝統仏教が全体として自民党政権を支持していたことは、それ自体、非難されるべきと思わない。
なぜなら、社会主義・共産主義勢力が結んでいたソ連や中国(と中国が占拠するチベット)、モンゴル、北朝鮮、ベトナムやカンボジア等では、程度の差はあれ寺院の破壊や僧侶の強制還俗・殺害といった形で仏教が徹底的に弾圧され、「法滅」の危機に晒されていたからだ。
だから伝統仏教が反共の一点で集結した保守連合たる自民党政権支持の一翼を担った選択は間違いとは言い難い。
しかし左右のイデオロギーによる保革対立の構図は措いて、仏教界が原子力発電所や核燃サイクルのような科学技術万能思想の権化を批判する視座を持ち得ず、命名への関与という形でお墨付きを与えてしまったことについては、やはり内面的に「懺悔・反省」すべきではないか。
というわけで私は、曹洞宗大本山永平寺 布教部長の西田正法師が、過去の原発との関わりを踏まえて述べた「懺悔」の言葉に敬意を表し、随喜するものであります。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
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追伸:日本の伝統仏教宗派としては、2011(平成23)年9月29日に臨済宗妙心寺派が「宣言(原子力発電に依存しない社会の実現)」を表明している。
2011-09-24 末木文美士氏との論争まとめリンク
■[現代仏教論]『震災天罰論』をめぐる末木文美士氏との論争

Twitterをご覧の方はご存知かもしれませんが、311後、仏教学者の末木文美士氏(国際日本文化研究センター教授、東京大学名誉教授)との間でネット上で断続的に論争していました。
中外日報2011・4・26号「東日本大震災 とどけ、思い」に国際日本文化研究センター教授・末木文美士氏が寄稿。氏は文中で東日本大震災を「天罰」とする石原慎太郎都知事の発言に理解示し、「大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければならない」と迷言をたれていたのです。
石原慎太郎東京都知事が震災を「天罰」と発言したことで批判を浴び、取り消した。確かに氏の言い方は誤解を招きやすく、被災者を傷つけるところがあった。しかし、天罰という見方は、必ずしも不適当と言えない。もちろん被災地の方が悪いのではない。今日の日本全体、あるいは世界全体が、どこか間違っていたのではないか。経済だけを優先し、科学技術の発達を謳歌してきた人間の傲慢が、環境の破壊や社会のゆがみを招き、そのひずみが強者にではなく、弱者にいっそう厳しい形で襲い掛かってきたと見るべきではないか。
日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任を持たなければならないことだ。
はぁ? 一読して呆れるやら腹が立つやらした私は、Twitterにいくつかの書き込みをしました。以下はその反響を交えてまとめたものです。
まとめの最後の方で、ご本人が登場します。末木氏は個人ブログbunmaoのブログを立ち上げて、この件に関する釈明と反論の記事をアップし始めました。
この記事を受けたTwitterでのやりとりの続きが、
にまとめられています。末木氏は
その後、私は連載を持っている雑誌サンガジャパン第6号でこの問題についての見解を述べました。パーリ経典に基づく限り、地震が「天罰」という言説は成り立ち得ない、という結論でした。
- 作者: プラユキ・ナラテボー(寄稿)(著),玄侑宗久(寄稿)(著),島田裕己(寄稿)(著),鎌仲ひとみ(寄稿)(著),大澤真幸(寄稿)(著),名越康文(寄稿)(著),中嶌哲演(寄稿)(著),アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿)(著)
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それを受けた末木氏のブログ記事が、
そしてさらに私がTwitter上で反論したものが以下のまとめ。
さらにさらに末木氏は、
と立てつづけに自説を再度主張しています。ただ、前者の記事では、
論争の発端になった「天罰」論に戻ります。「天罰」という言い方は、確かに誤解を招きやすい表現で、僕も違和感を持ちます。当初、石原慎太郎の「天罰」発言に賛成するような言い方をしたのは、自然を人間の営みと切り離して純粋自然現象とみる見方に対して、少なくとも、「天罰」という言い方は、人間の営みと関係させ、それを反省させる意味を持つと考えたからです。でも、石原の著作『新・堕落論』を読むと、副題に「我欲と天罰」とあるにも関わらず、「天」のことにはまったく触れずに、手前勝手な時代批判をするばかりで、まったく僕の考えていることと異なります。ですから、誤解を招かないように、石原「天罰」論への賛成は取り下げます。*2
と述べていたので、私としては、この話は決着がついたなと思っていました。ちなみに、末木氏のこのブログ記事については、師茂樹氏(花園大学准教授)が以下のようなレビューをされています。
それで、東京新聞2011/0/24掲載の末木文美士「問い直される日本の仏教」(中)を読んだら、サンガジャパン6号震災特集に寄せた拙稿について、「震災を純然たる自然現象とみる見方」として批判されていました。
これ以上、あまり書くこともないのですが、末木氏が見当違いをしているのではないか、というポイントだけ、2011年9月12日 (月) 自然災害説は間違っているのコメント欄に書いておきました。以下に引用します。
東京新聞2011/0/24掲載の末木文美士先生 「問い直される日本の仏教」中 拝読しました。
サンガジャパン6号震災特集の内容を詳しく紹介してくださり、ありがとうございます。
同誌に載った拙稿も、スマナサーラ長老や玄侑宗久師と並んで「震災を純然たる自然現象とみる見方」として批判されてます。
以前、震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日)
でも言及しましたが、僕の立場は厳密に言えば「"地震"は純然たる自然現象とみる見方」です。 ”「自然の奥に神仏を考えるか」という問題と、「(地震を)あくまで自然現象と見るか」否かという問題は分けて考えるべき”です。
"震災"という場合は、福島第一原発事故のような人災や関東大震災の際の朝鮮人虐殺のような犯罪行為、地震を苦と受け取る個々人の業など複雑な要素にまでが関わってきますから。
パーリ仏典の註釈レベルでは、生命にかかわる現象の要因は、気象(自然環境の変化)、種子(生殖・遺伝)、心(心理的働き)、業(善悪の結果をもたらす自覚的行為と結果)、法(無常・苦・無我、因縁により変化し続けるという法)、の五つに分別できる(五決定)とされています。
このうち広義の「震災」(おそらく末木先生が仰っている「震災」に近いと思います)には心と業の問題が関わってくることは確かでしょう。いわゆる「心と行いの問題」ですね。仏教では霊的存在も含む自然界の一切生命との関係を重視しますから、そこで「震災」を受けて、荒れてしまった一切生命との関係を結び直す儀式を行う、というのは仏教的な文脈ではしぜんな流れです。
佐藤剛裕さんがサンガジャパン6号で紹介したように、ダライ・ラマ師が震災犠牲者の法要で「大地の主と四大の女神たちへの供養文」を読んだというのも、仏教的にしぜんなプロセスでしょう。
(上述のツイッターまとめでは、”地震に起因する自然災害によって崩れた人間と自然との関係を修復するために、神々に呼びかけて菩提心の想起(テーラワーダ的には慈心・悲心の想起)を促すことはありうる”と書きました。)
それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。*3
追伸:
補足すれば、「仏典による限り、地震は自然現象として起ることしかあり得ない」のです。それが"震災"として様々な悲劇を生じさせることには、確かに(生命の)心と業のはたらきが関わっています。
それをごっちゃにして、地震に起因する震災にわざわざ天意を読み込んで(その実は、自分の勝手な情緒を投影して)、見当違いな「反省」をし、「自然との対話」云々を言い出すことは、仏教者の態度としてはまったく的外れだということです。
それは、末木先生の過ちとして、指摘しておきたいところです。
ちなみに震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日)で紹介した中部経典に出てくる「仙人の怒りで都市が滅びたという俗信」についてはサンガジャパンの最新刊(第7号)の連載で詳しく紹介しています。
- 作者: アルボムッレスマナサーラ(寄稿),みうらじゅん(寄稿),田中優(寄稿),ネルケ無方(寄稿),大田俊寛(寄稿),宮崎哲弥(寄稿),呉智英(寄稿)
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よろしければ、読んでみてください。
この論争、まだ続くのでしょうか?
続くようでしたら、またこちらでも報告したいと思います。
追記:末木氏はその後、ブログに「ご意見有難うございます」(2011年9月25日 (日))というエントリを掲載しており、私もコメントしていますが、これは「論争」に加えるべきものか……。
〜生きとしけるものが幸せでありますように〜
2011-09-11 大地震のあと
■[ひじる日々][写経]大地震のあと

生じて滅びる性質を持つ 諸行はまさに無常である。
生じては滅びるそれらから [こころを]静めるのが安楽である。
(無常偈)
3月11日、東北地方太平洋沖地震が起きた時は、ちょうど勤務先のゴータミー精舎ではスマナサーラ長老へのインタビューが行われていました。大きな揺れで書類・書籍や食器類の散乱精舎の壁面にひび割れが入るなどの被害はありましたが、その程度でした。その晩はお寺は帰宅困難者のための臨時の避難所になりました。私も管理を兼ねて泊まり込み、テレビやUstreamに釘付けになって、東北での津波被害の様子を見つめていました。お寺の避難所としての機能は数日続きました。
その二日後には、精舎でスマナサーラ長老の法話と冥想の会がありました。地震と津波による甚大な被害に加えて、東京電力・福島第一原発の事故の深刻さもさかんに報道されていたため、会場は切迫した緊張感に包まれていました。法話会のあいだも余震は続いていました。その日、震災についても触れられた長老の法話を、Twitterで実況しました。
その夜、法話の音声は『「落ち着き」だけが「私のもの」になる』というタイトルでインターネット上に音声配信されました。
スマナサーラ長老を通じて発せられたブッダのメッセージは、震災で東日本の社会インフラがずたずたに引き裂かれるなかで、唯一、正常に機能していたインターネットを通じて、被災地と被災地を心配する人々の間に広まっていきました。その時の法話を元にしたテキストは『サンガジャパン』誌第6号、震災特集の巻頭に掲載されました。
- 作者: プラユキ・ナラテボー(寄稿)(著),玄侑宗久(寄稿)(著),島田裕己(寄稿)(著),鎌仲ひとみ(寄稿)(著),大澤真幸(寄稿)(著),名越康文(寄稿)(著),中嶌哲演(寄稿)(著),アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿)(著)
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席を温める暇もなく、山口県での法要と勉強会のために旅だったスマナサーラ長老に、ひとつのお願いをしました。それは、今回の震災で被災者した人々に向けてのメッセージを出してほしい、というお願いでした。未曽有の震災に打ちのめされ、打ちひしがれている人々、不安に押しつぶされている人々に、仏教者の言葉が支えになるのではないかと思ったのです。
スマナサーラ長老は快く受けて下さり、心のこもったメッセージを寄せてくれました。日本テーラワーダ仏教協会の機関誌『パティパダー』発送日である三月十八日にあわせて、『東日本大震災で被災された皆様へ 災害に遭遇した時の心構え』として発表されました。
メッセージの中で、スマナサーラ長老は、「人間にどれぐらい精神力・能力があるか、災難の時に分かる」というブッダの言葉を引いています。これは本当のことだと思いました。
震災後、仕事関係でも思わぬトラブルが続きました。精神的にけっこうしんどい日々が続くなか、自分の心の支えになったのは、やはりブッダの言葉、宗派を問わず仏弟子たちが残した言葉でした。
震災から四日後、中毒状態で愛用しているTwitterで「写経」のように呟いたのは次のような仏語です。
比丘たちよ、森や樹下、あるいは静かな処で正自覚者(ブッダ)をそなたらが念じ続ければ、そなたらに恐怖は起こらないであろう。
もし、世の主であり人中の最上人である仏(ブッダ)をそなたらが念じないならば、その時は(衆生を)輪廻より解脱させる、よく説かれた法(ダンマ)をそなたらは念ずるがよい。
もし、(衆生を)輪廻より解脱させるよく説かれた法をそなたらが念じないならば、その時は、無上の福田である僧(サンガ)をそなたらは念ずるがよい。
比丘たちよ、このように仏・法・及び僧を念ずるものには、恐怖、あるいは硬直、あるいは身の毛のよだちが起こらないであろう。(相応部『旗先経』より)
経題となっている「旗先」とは、戦争の時に用いられる「軍旗」のことです。神々が阿修羅との戦争に挑むとき、混沌とした戦場で恐怖におののいてしまうことがある。しかし、総大将である帝釈天の旗を仰げば、勇気が奮い立って恐怖は跡形もなく消え去ってしまう。そのように、仏弟子は仏法僧を念じることで恐怖から解放されるというのです。混乱する世の中で、私たちが拠り所とすべきは仏法僧である、仏法僧を信頼して、安心して励みなさい、という教えです。
比丘たちよ、この道は有情を清め、心配・悲泣をのり越え、苦しみ・憂いを滅し、聖なる道を得、涅槃を見るための一道である。これは四つの念処である。四つとは何か。
ここに比丘たちよ、比丘が努力し、正しく知り、念をもって[身に関する]世間の貪り・憂いを調伏し、身において身を随観し続ける。
努力し、正しく知り、念をもって[受に関する]世間の貪り・憂いを調伏し、受において受を随観し続ける。
努力し、正しく知り、念をもって[心に関する]世間の貪り・憂いを調伏し、心において心を随観し続ける。
努力し、正しく知り、念をもって[法に関する]世間の貪り・憂いを調伏し、法において法を随観し続けることである。
(長部・中部『念処経』より)
釈尊が説かれた「気づきの冥想(ヴィパッサナー冥想)」に関する根本経典として名高い『念処経(サティパッターナスッタ)』からの一節です。何が起きても、向上のために為すべきことは一つ。気づきこそが覚りへの一本道である、という言葉です。地震が起きても、津波が来ても、原子力発電所が事故を起こして放射能で被曝したとしても、私たちが歩むべき仏道が代わってしまうわけではありません。気づきの実践によって「世間の貪り・憂いを調伏」することが不易の道になるのです。釈尊の次の言葉も、心に染み込みました。
[ローヒタッサ]天子よ、生れず、老いず、死なず、[それぞれの有情の仲間から]変異せず、再生しない世界の辺(涅槃)を、歩いて行って知り、見、到達することができると私は説かない。また天子よ、世界の辺に到達しないで、苦を滅するとも私は説かない。
天子よ、実は想があり、意があるこの身長一尋(ひとひろ)の肉体において世界と世界の因と世界の滅と世界の滅に至る道と(四聖諦)を私は説くのである。世界の辺に、歩いては決して到達できはしない。世界の辺に到達しないで、苦から逃れることもない。
それゆえ、世界を知り、世界の辺に到達し、修行を完成した寂静の賢者は、世界の辺を知り、この世とあの世を求めない。
(増支部『ローヒタッサ経』より)
これは世界の果てを探して旅を続けたローヒタッサという神に向かって、釈尊が説法したという記録です。どこにも逃げ隠れする必要はない。あなたは今いるこの場所で、この身体をもって、「世界の辺」すなわち解脱・涅槃に到達することができるのだ、私が教えているのはその方法だよ、という釈尊の励ましです。
学生時代から幾度となく読み返してきた日本仏教の古典からも勇気をいただきました。曹洞宗の宗祖、道元禅師が宋の国に留学していたとき、師事した天童如浄禅師との対話を記した『宝慶記』というテキストです。
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堂頭和尚、慈誨していわく、仏祖の児孫は、先ず五蓋を除き、後に六蓋を除く。五蓋に無明蓋を加え、六蓋となす。ただ無明蓋をのみを除くも、すなわち五蓋を除くなり。五蓋を離るといえども、無明蓋いまだに離れずんば、いまだ仏祖の修証には到らざるなり。
道元すなわち礼拝して拝謝して、叉手してもうさく、前来、いまだ今日の和尚の指示(のごとき)を聞かず。這裡の箇々の老宿、耆年、雲水、兄弟もすべて知らず。またかつて説かず。今日、多幸にも特に和尚の大慈大悲を蒙り、たちまちにいまだかつて聞かざる処を蒙るは宿殖の幸いなり。ただし五蓋六蓋を除くに、その秘術ありやいなや。
和尚、微笑していわく、爾が向来、功夫をなすはなにをはなすや。這箇はすなわちこれ六蓋を離る法なり。仏仏祖祖は階級を待たず、直指単伝して五蓋六蓋を離れ、五欲等を呵するなり。祇管に打坐して功夫をなし、身心脱落し来るは、すなわち五蓋六蓋を離れる術なり。この外すべて別事なし。まったく一箇事もなし、あに二に落ち三に落つる者あらんや。
もちろん、旗先経や念処経やローヒタッサ経、宝慶記の身震いがするような覚者の言葉を反芻しても、不安や怒りに駆られてしまう震災後の嵐のような心がぴたりと安定したわけではありません。そんな「さとりすました」気持ちでは、とうてい居られませんでした。しかし、釈尊が説かれた清らかな真理の世界について、ふと思いをよせるだけで、心の混乱はひととき収まって、ようやく息継ぎできたように思えたことも確かです。
この「写経」をした3月15日は、東京電力福島第一原発で前日までの1号機、3号機爆発に続けて、2号機の爆発が起こました。後から知ったことですが、東京にも大量の放射能が降り注いだそうです。無意識に危機感をおぼえていたのかもしれません。
筆写したのは上記のような言葉でしたが、震災から三ヶ月ほど、肌身離さずは大袈裟にせよ、ずっと携行していたのは『一遍上人語録』でした。この本は高校時代から折にふれて読んでいる本です。震災に際して読み返したことで、元冦によって国の存立自体が揺るがされていた時代、日本全国を遊行し続けた上人の「非常時の仏教」とでも謂うべき迫力を再発見させられました。
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最後に、一遍上人の和歌を紹介したいと思います。311のあと、獄中にいる法友へ送った手紙に付したものです。
はかなしな しばしかばねの くちぬほど
野原のつちは よそに見えけり
世の中を すつるわが身も ゆめなれば
たれをか すてぬ人とみるべき
身をすつる すつる心を すてつれば
おもひなき世に すみぞめの袖
東日本大震災の被災地の方々の苦労を思うと、詰まらない心の動揺についてゴチャゴチャ言葉を重ねるのは恥ずかしいですが、半年経ったことの区切りとして書いておくことにしました。
〜生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように〜
2011-09-02 加藤徹『中国人の腹のうち』廣済堂新書
■[本の話題]加藤徹『中国人の腹のうち』

- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
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平気で海賊版を作ったり、粗悪品を売りつけたり、指摘すると居直ったり……。
中国人の言動は、日本人には一見、デタラメで身勝手にしか思えない。
しかしそこには、歴史や風土に培われた彼らなりの理屈がある。
『漢文力』『貝と羊の中国人』『西太后 』など著書も多い加藤先生のインタビューをまとめた本。時評から歴史、政治、思想、文化まで幅広くざっくばらんな話が続く。博覧強記ぶりと明らかにルーズな決め付けが交互に襲ってくるので、正座して拝聴、というよりは肩の力を抜いて読むのに丁度良い塩梅。
特に興味深かったのは六章。中国(古典)思想は徹頭徹尾「人間関係の処世術」=智謀学であって中国に「哲学」はないと断じている。これ、よく「楽屋話」で言われる事だが、朱子学はどうなんだろうか? 列子や荘子は? 仏教伝来以降(著者によれば玄奘三蔵の西遊帰東以後)はやはり哲学の土壌ができたんじゃないかなとか、疑問も残った。
それにしても、老子買い被りを嗤ったくだりは「知的冷や水」として秀逸。曰く
日本で老子の解説をする人は、老子は「無為自然」の思想で人間関係を超越した高遠な自然哲学だといいますけど、老子は最初から最後まで徹頭徹尾、儒教の孔子以上に、「いかにしたら人生をうまくやれるか」というせこい話をしています。変な期待をしてはいけない。しょせんは中国の古典ですからね。
書いてあるのは、「よく人を使う人は人に使われる人だ」とか、「本当に強い人間はへりくだる人間だ」とか、「柔よく剛を制す」のような、つまりは弱い人間こそが強い人間に勝てるというやたら人間くさいことばかり。逆説的な言い方をしているだけで、結局は処世術です。弱い者こそが強いとかは、科学的にはありえないですからね。それがあり得るのは処世術の世界だけ。*2
そこまでいうか(笑)。こんな感じのユルいって言えばユルいけど、油断ならない雑学談が190頁にわたって続きます。
加藤先生に依れば、中国と日本は社会のベースには随分断層があるように見えて、若者文化のレベルではどんどん似てきているそうです。しかし「似てくるからといって仲良くやっていけるかというと、また別問題」*3というのが難しいところ。そのうえで「あとがき」で述べられる「日中友好の秘訣」はシンプルそのものなんですが……。
漢字のブロックを慎重に風通し良い塩梅に積み上げ、仮名文字の漆喰で美しく固めていく、加藤先生のいつもの文体のファンからすると、ちょっと品の落ちる本かなぁという気もしましたが、たまにはこういう雑談本も楽しいです。「加藤徹入門」としても、広くオススメしたいです。
終わりに、全部読んだわけではないですが加藤先生の他の本の寸評も。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/09
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各所で連載されたエッセイ等を集めた単行本。加藤先生の関心分野を眺望するには最適の一冊だけど、悔しい寸止め感も。「なぜ『論語』や漢詩は訓読されるのに、「お経」は音読されるのか。その理由は日本文化の深層とつながっているのだが、紙面の都合上、ここでは割愛する」(70p)ってそこを読みたいのに!
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/02/16
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日本文化を牽引してきた漢文の功績に光を当てる。けっこう力こぶ入ってますね。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/08
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代表作。啓蒙的な漢文再入門、漢文魅力発見の本。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/10/23
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魑魅魍魎うごめく漢文のダークサイドを覗きみる。個人的には随一に好きな本。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/09
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西太后が君臨した清末の中国は現代中国の「予告編」とする。我々がイメージする中国の「伝統文化」が完成したのも西太后の時代と。「産む機械」として後宮に入り、男児を産んで清帝国の「統治機械」を逆支配。男以上に男として振る舞い、一方で「女のリア充」を満喫する同時代のヴィクトリア女王に憧れた西太后。これ凄い現代的じゃん!西太后の評伝としてのみならず中国近代史をアンシャン・レジーム側から俯瞰するための本として一級の作品でしょう。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2011/02/08
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二千数百年にわたって数多の東アジア人の魂をあらぬ方向に鼓舞し続けた「危険文書」として『論語』を読みなおす。中国における論語評価の変遷、孔子の生涯、論語読みの危なさ、近世以降の日本で「革命の書」となった経緯など、読みどころたくさん。論語の意訳箇所の深い読みにも感嘆した。巻末にはもちろん呉智英夫子の『現代人の論語』が挙げてあるよ!
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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中国文化論としては、『中国人の腹のうち』の次に、ぜひ本書を読んで欲しい。これまで微妙に引っかかっていた「支那」呼称の問題や、戸籍上の人工激減の解釈などにも納得いく解説がなされていて有難かった。まさに「痒い所に手が届く中国人論」といった感じの良書。
主要目次
第1章 貝の文化 羊の文化
第2章 流浪のノウハウ
第3章 中国人の頭の中
第4章 人口から見た中国史
第5章 ヒーローと社会階級
第7章 黄帝と神武天皇
終章 中国社会の多面性
と偉そうに寸評しましたが、僕もまだ未読なのが……
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/01
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これは秋の課題図書にしたいと思います。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜


